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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(53)

遡(さかのぼ)ること八年まえ、長浜城にて秀吉・秀長兄弟はある吉日、母者の“なか”から、双子の存在をきかされたのである。

「それにしても、ようも探しだしたもんじゃと、先日来、ほとほと感心していたところじゃ」

ゆくえ知れずとなっていた双子の弟を、しかも秘密裏に見つけだした草の者のはたらきに、身内おもいの秀吉は、感動すらしたのである。

やがての初面談のとき、長浜城主の立場になった兄として、不遇だった弟の手をとり、涙目で破顔したのだった。感激屋の姿そのままに。

ところでこの時代、双子をともに育てるということは、まずありえなかった。犬や猫のごとき畜生のようだ(畜生腹)と、忌み嫌われたからだ。片方は、間引かれるか里子にだされたのである。

ことに武家や商家だと、相続問題を将来ひきおこすと、実利的にもきらっていたのだ。

ぎゃくに弟は、命を生み育てる水呑み百姓の子倅ゆえに、生命はだいじとて間引く非道はせず、引きとり手を捜したのであろう。

その、引きとってくれた里親はしかし、戦乱の世のあおりでいつしか、その行方がわからなくなってしまっていた。里親も貧農だったのだろう。

秀吉はさっそく、竹中半兵衛にめいじたのである。八方に忍びをおくりこみ、生きわかれた弟をひそかに探しだすようにと。

ちなみに官兵衛は、これほどの重大機密ではあったが、半兵衛から聞き知っていたのだ。

それほどの、ふたりは心友だったといっていい。それを証拠づける文献は見当たらないが、以下が、証拠といっていい。略記すると、

荒木村重謀反(有岡城の戦い)をしった信長は、翻意をうながす使者となった官兵衛が、いっこうに帰城せず、むろん報告もしないことで、ぎゃくに村重側についたと逆上し、官兵衛嫡男の松寿丸を殺せと命じた。

にもかかわらず半兵衛は、信長の眼からかくまいつづけた(これにも異説あり。いろんな歴史家がいるから…)のである。鬼の信長に逆らってまで。よって、それほどの仲だったのだ。

また、機密を共有してこその、織田家中における軍師仲でもあった。また必要性も無視できない。

さて、で、忍びにあたえた情報はというと、似顔絵と出生の年月日および出生地の当時の地名・里親の名やそのほか、生母なかがおぼえているかぎりのものであった。

家臣ではない忍びをつかったのは、秀吉の顔を見しらぬことが、その第一要因であった。

捜索対象者の素性や捜索目的をしらされていない以上、いくら情報通のかれらといえども、依頼者の意図を憶測することすらできないはずだと。

また領主といえる主がいないかれらは、金銭でうごくために、現在でいうところの守秘義務には忠実であった。信頼をなくせば仕事にありつけないという点では、いまと同様である。だからある意味、家臣より信用できたのだ。

そしてこれも当然なのだが、羽柴家としては、双子の存在をしるす文献をのこさせなかった。

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ところでこの手紙を官兵衛は、いかように読みとったであろうか?

というのは後年、秀吉は家臣に、じぶん以外で天下をとれるとしたら、それは官兵衛だと告げた。換言するに、官兵衛は最大の功労者だがその存在は脅威そのものだと。

だから、所領を十万石ていどにとどめたのであろう。

最大の賛辞と飼いごろしの二面を経験した官兵衛の心境、いかばかりであったか。推量するに、たいへんに興味深いこととなろう。機会があれば、そこでのべてみたい。

 さて、軍略家としても日本史上に高名をのこすだけあって、みごとに、心裡をよんでいた。それも道理で、弟の秀長とも八星霜のつきあいであった。読めぬはずなかったのである。

「して官兵衛殿は、影武者をつかって、殿のあとを継がせようと」秀長は、わかりきったことをしゃあしゃあと訊いた。

気分転換のはやさと図々しさも、このひとの身上であった。

兄から発せられた、かぞえればきりがないほどの無理難題、繊細な人物であれば、とっくに潰れていたであろう。ともにのし上がっていけたのは、生真面目だけではなかったからにちがいない。

「それ以外に、…ないと拙者は愚考いたしまする」“方策”はないといおうとした。が、秀吉の死が公ではない以上、家臣の身では大それたこと、分にすぎるとおもい、方策という言葉を喉の奥にておしとどめたのだった。

ところで官兵衛、ここにきて敬語をつかいだしている。

主筋家の秀長の役割がおおきくなることは自明であり、そのぶん、秀勝から加増もされるだろうし、とうぜん立場もあがる。格差ができることを、はやくも見越してのことだった。

そのうえで言明をさけ、含みももたせ言質をとらせないことで、_最終の責任を回避したい_という姑息(その場しのぎ)をえらんだ。ここは、主君筋にいわせておくに限るとかんがえたのである。

 そこは賢弟の秀長、_最終責任はじぶんが取らざるをえない_とはおもっていた。ただ、責任のすべてを、じぶんのみがひっかぶる、それを恐れているだけだ。

そこへ、じぶんが唯一無二の手立てと想定したおなじ方策を、天才軍師も口にしたことで、安堵したのである。

だけでなく、そのための具体策も用意しているはずと、じぶんは思いつかなかったぶん、内心期待したのだった。

かれは真のいみで安堵すると、やっと胸襟をひらいた。

隔離された部屋で、「わしもなんどか会い、兄者の話しぶりや本人が気づいてはおらぬクセなどをおしえたのだが、それはそれとして、顔といい背格好といい、たしかによう似ておったわ」

色黒でふかいシワを刻んだちいさめの顔、目尻のさがり具合も薄いひげも。品位にかける口と低い鼻も、である。だけでなく、やや猫背で寸尺のみじかい背丈もやせた体躯も、であった。

それもそのはず。いや当然。影武者は、双子の兄弟だったからだ。

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問題はしかし、隆景の兄である元春が領主の吉川家、およびかれらのおいが継いだ本家毛利にたいして、官兵衛はきわめて受けがわるいことだ。

戦国の世ゆえに、戦火をまじえた敵同士ということに、さほどの問題はない。

としても、秀吉が“中国大がえし”の直前、ダマシの和睦をしたことに両家は激憤し、いまも許していないという。

毛利家の忠臣だった清水宗治を、切腹させた咎の一端をかれらは自責しつつ、思いだすたび、はらわたが煮えくりかえる寝つきのわるさだろうからだ。

よって官兵衛が苦衷は、かれらの酒を美味にするだけであろう。いや、死は格好の弔いと、宴でももうけるにちがいない。

以上の理由で、_羽柴家とは一蓮托生と断じざるをえない!_これが、結論であった。

よっての唯一の道。

それは、羽柴家の最悪をどうやって乗りきるか、結局はそこに行きついたのだ。官兵衛には、全身全霊、知力を集中する、それしか方途はなかったのである。

まずは秀長も想定した、“秀吉隠居と秀勝への相続”を提案し、秀長の意見をいれ、不可としたのである。

それから腕をくむ(秀長は主君ではないゆえ)と、しばし瞑目したのだった。

はたして口にすべきか?この策しかないとはおもうが、いったん陳述してしまえば、それを引っ込めることなどできない、からである。

それほどに重大かつ、前代未聞であった。

さらには官兵衛自身、前言をかんたんに撤回する安直を恥とする、じぶんの性格を知悉している。ゆえに、この期におよんでもまだ迷っていたのだ。

否、迷わざるをえないほどの驚天動地の賭け。それが、頭のなかで構築されつつあったからだ。

そのようすを見つめながら、秀長はたぎる焦燥をありったけの理性でおさえて、じっと待っていた。

やがて軍師は、おおきく長い息をもらした。それは、

奇抜にすぎる案を提示するしかないと、ようやく決めた覚悟のあらわれであった。同時に、諦めをもふくんでいたのである。

なるようになれと!たしかに、闇夜の断崖から深さのわからない川へ飛びこむ、そんな開き直りであった。

いかに人智をつくしても、しょせん、なるようにしかならないとの経験知で。

それにしても、あまりの大胆な発想に、かんがえついた当人さえ一時、息がとまりそうになった。

くどいが、常識人ならば途中で、その提案を制止し、却下せざるをえないような、困難で途方もない賭けだったからだ。

しかし官兵衛もだが秀長も、このときすでに常識とは、スッパリと縁をきっていた。状況自体、常識が通用する領域から、とほうもなく隔絶していたのである。

ただし、運がいいことにかれらはすでに、じつは貴重な経験をしていたのだった。

絶対君主、信長の突然の死である。これによりえた計りしれない体験を。おかげで、よい意味での開き直りができたのである。

“中国大返し”がこれからの、一大窮地からの脱出にたいする隠れた自信となり、背中をおしてくれていたことまでには、智者といえどもふたりは気づいていなかったが。

いずれにせよ、失敗すれば世の笑いもの、ではすまない。人心は悉(ことごと)くはなれ、孤立無援になることは必定だ。

いや、そればかりではない。

力が衰えたとみられたら、徳川・後北条が盟約をむすび襲いかかってくることもじゅうぶんにありうる。近年、徳川と後北条は、政略結婚により姻戚関係をむすんでいた。

また家康自体、織田信長にたいし、根ぶかい怨みをいだいていても不思議ではない。武田勝頼との密約疑惑をもたれた嫡男信康と正妻築山を、信長の厳命により死なせているからだ。

その恨みを信長の子息秀勝で、はらそうとかんがえているとしても、まんざらの話ではない。

 その家康は、上杉謙信や武田信玄にはとおくおよばないが、それでも、野戦の軍のトップとしての天賦にもめぐまれている。かれに攻められれば、羽柴家が滅ぼされることもじゅうぶんにありうる。

懐柔謀略にすぐれた官兵衛と秀長といえども、本営が落ち目では、敵を味方にひきいれることはむずかしい。ぎゃくに、味方の寝返りこそ、その可能性が高いというものだ。

 目のまえの敵の柴田勝家主従は、すぐにでも殲滅できる。

しかしそのあとは、じぶんたちかもしれないのだ。

_されば…、いや、だからこそやるしかない!_と。これが、名軍師の決断であった。そしてやる以上は、成功させる以外に、道はないのだと。

「実の御子がないわが殿は、万が一のときのためにと、影武者をつくっておられます」

淀君とのあいだの第一子鶴松(三歳で死去)はもちろんのこと、のちの豊臣秀頼も、あたりまえだがまだ産まれていない。いやこの時期、茶々(のちの淀)ともまだあったことすらないのである。

「おお、そうであったな」秀長は焦燥をかくし平静をよそおいつつ、はたと膝をうってみせた。じつは先刻、おもいついていたことなれど、いま気がついたとばかり大仰に首肯してみせたのである。

人誑(たら)しの天才につかえつづけた秀長だからこそできた、名演技であった。

 しかしながら官兵衛とて、その人誑しのそばで八年があいだ、参謀としてまた外交官として、さらには一軍の将として奮闘してきた経歴をもつ。

でこのふたり、参謀としてだけでも、敵を誑しこむ謀略や味方の士気をあげる工作を、共同でねりあげてきた仲である。

_さすがに兄弟じゃ、ウソのつきどころも、嘘をついたときのクセまでも似てござる_どれほどの名演技でもそれを、しょせんは芝居とみやぶることのできる批評家のきびしい眼力を、軍師はもっていた。

官兵衛がもしこのていどの眼力すらもない参謀であったならば、手紙にて秀吉が、「(官兵衛を)弟の小一郎(秀長)のように信頼しきっている」旨、しるしたりはしなかったであろう。

これぞやり口、とばかりの秀吉一流の、人誑しのための修飾ではある。しかし素直にうけとると、これ以上書きようのない賞賛でもあった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(50)

困ったな、どうしよう?で、済むはずがない。最大にして危急の現実問題、それは、配下の大名や家臣が、羽柴三者連合に与(くみ)してくれればよいが、そうなるとは…。むしろ、ならないであろう、ということだ。

くどいが、このまま無策でいれば、兄秀吉の死は露見し、羽柴軍団は土けむりをあげて瓦解するにちがいない、それも、いとも簡単に。

だから今このときこそ、起死回生の手をうたなければならないと。

しかしながら、この案ではダメだなぁと、白日夢ながらボクはおもった。

もっとも、戦国の世でなくとも、ひとは勝ち組に参与する。それが、世の常というものだ。〈寄らば大樹の蔭〉と、力あるものにひとはなびく。これが、人情というものだ。

 それを受けての、秀長のもういっぽうの案だが…、それは家臣一同への欺瞞ともいえる、大がかりで無謀な計略であった。よって、

_やはりムリか!_秀長には不可能におもえ、どうしようもなく気が重くなっていった。

一歩でも踏みはずせば奈落の底、語源どおりの“四面楚歌(楚=自国に見かぎられた項羽は絶望のなか自死する)”に陥る、そんな断崖絶壁のまぎわにたつおもいだったのである。

かといってほかに妙案など、短時に浮かぶものではない。

“窮余の一策”とのことばがあるが、たしかに、歎息し頭をかかえたすえの策であった。それだけにあまりにも空想にすぎ、それゆえ、具体策まではうかんでこなかったのである。

四半刻の静寂がふたりをつつんでいた。

やがて官兵衛は、沈思ののち重い口をひらくこととなる。

その密談の内容だが、企図を完遂していく渦中はむろんのこと、事後においても万が一露見すれば、連座の罪はまぬがれないのだ。首がとぶ、ていどでは済まない密計のなかの密謀なのである、まちがいなく。

それほどに恐ろしすぎる深謀であった。

で、そんな官兵衛ではあったが、主家への深慮遠謀よりも先に、“黒田家”のゆく末を黙考したのである。寸刻の熟考とはなったが、しかしとうぜんであった。

秀吉配下のままで、かりに羽柴家滅亡となれば、黒田家も消滅するであろう。大船沈没時に発生する大渦に、散乱した荷物も巻きこまれ海中に没するのたとえのごとくである。

そこで、羽柴家から離脱する道はないかと、刹那の手探りをこころみたのだ。

が、ムダな足掻きとの結論に、すぐにいきついてしまった。というのも…、

まずもって、独立は不可能だ。いくら知謀をもってしても、現石高が一万石ていどではどうにもならない。国と称することすらおこがましい。

動員勢力はがんばっても五百。しかも、武器弾薬だけでなく兵糧米の備蓄も半年後には底をつきてしまうだろう。なさけないかな籠城すら、ままならない国力であった。それもだが、さらには友軍といえる同盟領もなく、よって、援軍などくる当ても、もとよりない有り様なのだ。といって、

宇喜多家五十万石を大樹として頼ろうにも、当主秀家は若年でしかも秀吉庇護のもと成長してきただけに、羽柴家との結びつきがつよい。後見人で叔父の忠家はというと、忠義な堅物でとおっており融通がきかない。

くわえて、五十万石とはいえ、羽柴領にほぼかこまれていることもあり、裏切る可能性はひくく、また独立もしないであろうと、官兵衛はみた。だから、とても頼れる相手ではないと。

ここで、秀長とで見解にちがいが生じてくるのは、官兵衛は、秀家の父直家を調略した経験があったからだ。利にさといだけに、織田軍へと寝返りさせたわけだが、秀家は、父親とは真逆の性格で、義を重んじる人物だとしっていた。

それだけに、うごかそうにも、時間がかかりすぎると。つまり、宇喜多家との交渉経験の有無が、そこにあったのだ。

もうひとつは黒田家にとって、宇喜多家は利用できる存在か?であって、羽柴家からみての、ではない。

その秀長はというと巨大な実兄を、しかも突如なくしたのである。その、屋台骨をうしなった衝撃はあまりにもおおきく、すべてに疑心暗鬼をいだいている状態だった。

よって、立場のちがいがおおきい。

たしかに、大黒柱をうしなったのはおなじである黒田家。で、自国領が畿内を中心とする羽柴家配下の領地のなかに位置しており、敵方に与しようにも距離がありすぎる。

そこをあえて敵国の傘下にを画策…、だがそのまえに秀長に察知され、潰されてしまうだろう、と。

それでも万が一頼るとすれば、毛利家であろうが、

毛利家の雄、小早川隆景とは、たしかに膝をまじえた既知の間柄ではある。頼めば、手をかしてくれる可能性はひくくない。外交戦略である合従(がっしょう)や連衡(れんこう)は、中国戦国時代にはじまった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(49)

羽柴家のため、将来における後見を見込む秀長はたしかに智勇兼備だが、…とはいうものの弟に、秀吉のようなカリスマ性は、もとよりない(秀長がたとえば畿内一円の覇権をにぎれば別だが)。

というのも、直接動員兵力はせいぜい三千、直轄している所領は十二万石。しかも畿内からはずれた但馬出石方面であり、いわば中規模大名でしかない。

_これでは、押しも利かなければ箔もないではないか_

 たとえ官兵衛とで一心同体になれたとしても、それだけで人心をまとめ収めることは到底ムリと判断せざるをえない。

なぜなら、秀勝がやがて家督相続することになろう秀吉支配下の石高だが、かりに版図をここ一・二年のあいだに拡大し、三百万石を超えたとしても、残念ながら、すべてがかれの直轄地とはならない。

秀長や官兵衛の所領分もとうぜん含んでおり、それはいいとしても、五十万石の宇喜多秀家や五万五千石の浅野長政、五万三千石の蜂須賀小六正勝なども比例して加増され、じつは、麾下の大名や家臣の領地こそが、その大半となるのである。

つまり、秀勝・秀長・官兵衛三者連合軍が奮戦し、版図をマックスにひろげたとしても百五十万石を超えることすらむずかしい。

そんななかで、北条家、徳川家、島津家、長宗我部家などをおさえこみ、天下に号令しよう、などは楽観的にすぎるというものだ。きつい言いかたをすれば、片腹痛いと。

きびしい現実を直視するまでもなく、戦国乱世なのだ、いまは。

昨日までのたのもしい味方ですらも、いつ敵方に寝返るかわからない。〈傷口に塩をぬる〉ではないが、弱者はくじかれる、それが現実である。いかにも厳しいが。

つまるところ、“弱き”がわずかにでも露見すれば、明日はないという厳実、まさに弱肉強食が日常なのだから。

すくなくとも沈没船、とまではいわないが、船長のいない行方もさだかでない船に、同乗してくれるひとなどいないということだ。

貧農であった秀長は、現実主義者としていきていた。農をすて、武をとると決めたことでいっそう、身をもって知ったのだ、力をもたない百姓は、つねに虐げられながら生き、そして無残に死んでいく存在なのだと。

歴史家の言によれば、戦国時代は、ことに農民にとって、兵役に駆りだされることもおおく、また農地を荒らされることもあったりで、生きていること自体がつらい暗黒時代であったと云々。

いっぽう武将たちはというと、乱世なればこそより一層の寝返りなのだが、歴史上有名すぎる関ヶ原の合戦時での小早川秀秋、だけではないということだ、むろん。

立ち位置を二転三転させた真田安房守昌幸(信繁=幸村の父。ちなみに、信繁が幸村となのったとの信憑の史料は、現存しない)、浅井備前守長政(信長の妹お市の、その夫。同盟の信長軍をうつべく進軍)、松永弾正久秀(信長に反旗を)、荒木摂津守村重(信長への謀反。そのさい秀吉が、翻意を促すべく差しむけけた黒田官兵衛を土牢に幽閉したとされるが、これにも異説あり)などはほんの一例。

否、この時代、わが身と領国をまもるための常套手段だったと歴史家。それほどに転身のものは、枚挙にいとまがなかったのである。

そんな厳実の時代における、総大将秀吉の殺害であった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(48)

陰のように添う太刀もち以外、そばにつかえる重臣の高虎さえも排し、それのみならず、「…以外、だれも近づけるでないぞ!」と厳命したのだった。

さても、秀長からの火急の懇請により、杖をつき不自由な足に力をいれ、床几からたちあがった武将がひとり。

有岡城の土牢に幽閉された一年余でわずらった左脚の関節症(現代の話だが、梅毒が病因との医師による説も)、そこがズキンと痛んだ。が、顔をしかめることなく幕をめくると、しずかに目礼をしたこの戦国武将、こそが、黒田官兵衛孝高そのひとであった。

秀吉につかえた名軍師の誉れ高いこのおとこの表情だが、こころなしかひき締まってみえた。主君の帰陣がないなかでの、舎弟からの突然の要請である。不吉な変事をおもいえがいたのもとうぜんであった。

その、かれの頭越し、陽はいまや山の端(は)へかくれようとしていた。明日の荒天を予感させるやや湿り気をおびた風が、ときおり帷幕をゆらしている。

肩をおとしつつも思案していた秀長は、来訪にうなずくと、これ以上ないという沈鬱な表情のまま、いまは不必要な挨拶などぬいた。

で、よばれた官兵衛。側近の高虎さえもいない帷幕に、沈痛な眉の秀長がポツリと。やはりただ事ではないぞと、確信したのである。

帷幕内にて、「近(ち)こう」と手招きをされ、ゆれる燈台の火をはさんでふたりは相対した。

外聞を気づかい、たがいが声をひそめるために、火もが焦眉(迫った火が眉をこがすくらいに、状況が切迫)のごとき距離となり…、とは、なんともはや羽柴家は、まさにそんな事態であった。

そしてその灯火(とうか)のように、〈風前のともしび〉ですらあったのだ。

窮した秀長、故秀吉が重用した軍師官兵衛に相談するしかないとかんがえた。奥村との面談のとちゅう、太刀もちに命じ、急がせたのだった。

さっそく手短かに一部始終をつたえるあいだ、軍師の表情の変化を見のがすまいと、秀長は凝視していた。

いっぽうの官兵衛、ときおり肯いただけで、ひとことも発しないばかりか表情も変えなかった。_なるほど、沈着冷静とはこのこと、兄者ならずとも頼りたくなる名参謀_と、あらためて納得したのである。

「して、官兵衛殿、いかが?」秀吉の臣になって以来、これまでにもたびたびむずかしい局面での決断をせまられてきた秀長であったが、おもうところあって独断をさけ、言葉すくなに問うたのだった。

拙速であってはならないが、それでも一刻もはやい決断を要するからである。

問われた官兵衛とてもおなじように、なんども〈前門の虎・後門の狼〉という状態のなかで、ギリギリの策をひねり出しては、その虎口からのがれた経験をもつ。

清水宗治の自刃による、毛利家との和睦も、虎にかみ殺される寸前の脱出劇であった。(詳細は、後述)

しかしながら今回かぎりは、さすがに比類なき、最大にして最悪の難問である。

「こたびは、拙者では荷が重うござる。よって、だれか、もそっと知恵のある御仁におまかせあれ」と暗に高虎を推挙し、ひとたびは逃げをこころみた。秀長の家臣ではなく、その禄を食(は)んではいなかったから、逃げることは可能とかんがえたのだ。

もちろん、秀吉からの相談となればそうはいかなかった。秀吉配下としての加増の約定とともに領地を安堵されており、すでに亡き信長の家臣という元々の身分は、二重の意味でくずれていたからだ。

「それはできませぬ。これは主、秀吉のことにござれば、官兵衛殿がつとめを放棄することはゆるされませぬ」とゆずらなかった。「また、官兵衛殿ほどの智者はほかにござらぬゆえ、誰人もまじえずお諮(はか)りもうしております」このように、孝高の矜持(きょうじ)(プライド)をくすぐったのだった。

官兵衛は内心、当代に肩をならべるなき知恵者と自惚れてもいた(名参謀とうたわれたもうひとりの“両兵衛”、竹中半兵衛重治は四年前の天正七年四月に、肺の病ですでに死去していた)から、そこを巧みに秀長は愛撫したのである。

たしかに秀でた知恵者で、史上有名な備中高松城(城主は清水宗治)の水攻めを成功させたのも、官兵衛の才知にたけた妙案があってのゆえであった。おかげで信長横死をさとられることなく、毛利家との和睦がなったのだ。

水攻め自体は、秀吉の折角の発案であった。が、しょせんは画餅(絵にかいた餅)でしかなかった。

一城をぐるりとかこいこむ長大な堤を築き、短期日に満々と水をたたえることができたのは、官兵衛が独創力を発揮(異説はあるが採用しない)したからである。堤の完成でつくりだせた人工湖が、城を浮島のようにする、そのための工法をかんがえだしたということだ。

 いっぽうの秀長とて、知謀をもちあわせてはいる。この究極の難事にたいしても、独自に考案したはかりごとがないわけではなかった。しかしながら、他者の意見を容(い)れないままだと、独断との謗りを後日うけるかもしれない。

舎弟とはいえ、家臣のひとりにすぎないとの立場をわきまえての相談であった。しかも智者のなかの智者を相談者にと、えらんだのだ。誰びとたりとも、文句をつけるはずがないと。

一方そうはせず、単身でたてた策謀を、かりに独断で実行したばあい、事をしくじるという最悪につながりかねない、と当然かんがえた。さらには、人心を完璧に収攬しなければ、この事態はとうてい乗りきれないともふんだのだった。

 ちなみに、みずからの策謀ならば二案、腹蔵はしていたのである。

 うちのひとつは以下のとおり。

兄秀吉は重い病ゆえに隠居し、家督をすべて羽柴秀勝にゆずると宣言したことに…。

ただし、秀勝は元服したとはいえ、まだ十六歳と弱冠ゆえに、提案者の秀長が後見人になるという奇策だ。

……ところで、この秀勝とは?……

秀吉が長浜城主時代にもうけた夭折(早死)の実子(一説による)のこと、ではなく、主君信長の四男を養子として貰いうけた、幼名於(お)次(つぎ)丸(まる)をさしている。

一・二年ののち、事態がおちつくのを見はからってから、秀吉は病死したとして葬儀を盛大に挙行する。それは、羽柴家の安穏を世に披露するための儀式としてである。(だが歴史上の事実としてだが、天下人にふさわしい葬儀は、おこなわれなかった。慶長の役における全軍撤収のさまたげになるとの理由による)

 ただ、この手段を用いるとなると、家督相続だけのことなら問題はない。が、兄秀吉の野望である天下統一という大目標にとっては、妨(さまた)げとなるであろう。

なにしろ、まだ道半ばなのだ。しょせん、織田家中の筆頭におさまったにすぎないのだから、いまは。

関東一帯を領する北条家、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河五カ国の徳川家、九州を席巻する勢いの島津家、四国全土に版図をひろげつつある長宗我部家、はては東北の雄・伊達家など、制圧せねばならない大きな敵勢力が、まだまだ割拠しているのだ。

また、和睦した毛利家とて、いつ版図拡大のために弓矢や銃口をむけてくるかわかったものではない。たしかに、始祖の元就がさだめた家訓に「天下を競望せず」とあり、版図拡大をゆるしていない。が他家においては、そんな家訓など知るよしもない。

 そんな状況下における、羽柴秀勝なのである。

天才軍略家・政略家・経済人・文化人でもあった信長(生きていればまちがいなく天下人になっていたであろう)の実子とはいえ、弱年であるばかりでなく見るからにひ弱で、戦歴にも見るものがない。じじつ病弱で、十八歳という若さで病没することとなる。

…いやはや、閑話としてすこし先ばしってしまった。秀長の腹蔵案へともどるとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(47)

ところで吟味をまかされた秀長だったが、兄の仇にたいする処置に言及しなかった。

前田家に、処断をまかせたのである。あえて、伝える必要はないだろうと。

まちがっても_当方にて刑に処する_ことあらば、それが生みだすけっか、想像するまでもない。よって、最悪の愚策と断じたからだった。

無念ではあるがやはり…。

恨みからかりにだ、敵兵をひとりだけ処断したとする。しかしながら、そのまえに秀吉が敵陣におもむき、いまだもって帰陣していない。それらがなにを意味するか、だれにでも想像できるとかんがえたのである。

だいいち、自陣に引きつれてくること自体、できないことであった。それほどに微妙で、そのいっぽう、おおきすぎる事態だったからだ。

敵が自軍の兵士を相手軍にさしだし、こちらも敵に自兵士をわたす、それなら交換であり、対等な交渉のけっかであろう。すくなくとも、はた目にはそう見える。

 大将どうしでどんな交渉をしたかまでは知りようもないが、最前線で、命をかけて戦っているのはじぶんたち兵士なのだ。それをウラでこそこそ、じぶんたちに不利な交渉をされては、たまったものではない、とかんがえるのは至極。公平・公正を、可能なかぎりのぞむのは当然だ、とも。

そんなこと、秀長も利家も百も承知ゆえ、いたくもない肚をさぐられないよう、ことに総大将をうしなった立場としては、最大限の努力をするしかないのである。

で、いったん退去のさいだったが、まつの到着が気配でわかった。_前田家も必死なのだ。が、内儀までとは、いかにも大儀(たいへんな事態をはらみ、厄介)_である。

この、“重い”とわが陣がうけとめかねない敵方の内儀の到着を、軽いできごととしてゴマカさねばならない。そのために、きびすを返すと父子のもとにもどったのだった。

すぐさま耳うちで、利家に意向をつたえ、さらに了解をとったのである。

そのあと藤堂高虎に命じたのだ、奥村永福を府中城にかえせと。

永福がなにごともなく帰城していくすがたを自軍にみせつけることで、まつの来訪により、羽柴軍内で噂がたちはじめたであろう異変を、「杞憂やった」とおもわせることができるはず、そんな狙いがあったのだ。

 さて、その奥村帰城のあとだが、城代(城主の代行)を一時つとめることとなった村井長頼は、主君の命をうけ、少年兵を斬首に処したのである。

首だが、それが外見わからぬよう木箱にいれ、草の者(いわゆる忍者)をつかい深夜ひそかに、秀長の寝所にとどけたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(46)

さいごに、「家臣の咎(とが)は城主である倅(せがれ)利長とこのわたくしにありますゆえ、いかようなる処分にも異存はござらん。されど身勝手をお許しいただけるならば、わが、ほかの家臣どもには全(まった)き咎のないことにて、命を安堵し、できますれば禄などもそのままでお召しかかえいただければ、幸甚このうえなきにございます」と再度の平伏をし、真情だけでなく、家臣のゆくすえへの願望をも吐露したのである。

たしかに、あまりにも虫のよすぎる申しでであった。が、これが利家流交渉術の極みでもあった。あくまで家臣のことだけをおもう主の、“我田引水”ではないその懇願、相手にはつよく響くであろうと。

最悪聞きいれられなかったとしでも、_ただ、それまでのこと_とも。今風だと『ダメ元』と、ともかくも人事をつくしたのである。

それはそれとして、人心みだれた戦国の世にあって、利家の言動がしめした身のおき方、まことにみごとな潔さであった。

 秀長とても清廉にふれ、ひそかに感服したのであった。

しかしここでも利家自身は同時に、この廉潔をいかように裁くか_とくと見てつかわそう_との、わが身のすべてを捨てた、その覚悟をきめたものの豪胆さで、心底にて刮目していたのである。

 いっぽうでじつは、厚徳とのうわさが本物であることを、期待しての計算、いや、企みもあったのだった。

 ところで、陳述を最後までだまってきいていた秀長は、「一時の感情にはやっての処断は、禍根をのこすことと。よって、しばし待たれよ。別室にて、熟慮したき大事にござれば」とだけいいのこすと、特別につくらせた帷幕のなかに移動することにした。

そのさい、奥村には平服に戻させ、そのうえで人払いをとくと、三人を監視させたのだった。

ちなみに利家の…、だれにも明かせぬひそかな企み。

それはあろうことか、前田家をなんとしてでも存続させたい、である。この期におよんで、それでも主ならば、とうぜんの企み、であった。

恥も外聞もすててかき口説き、人情にうったえる。その、人事を尽くしたけっかが、移封(領地替え)や減封ですむのならばありがたし、_よろこんで腹をかっさばいてみせようぞ_とそう、決めていたのである。

つまり、利家と利長の死罪は、これを甘受するとして、もんだいは存続させるための、やり方であり手練だった。

嫡男には男子はいなかった。しかしながら利家は、まだ幼少ながら次男利政をもうけていたのだ。前田家を継げる男子がいたのである。

 まずは利政を元服させ、恭順の誓紙(代筆)をしたためたのち血判をし、名目上、羽柴家の家臣にとりたててもらう。そのうえで前田家は、利政とまつと子女をひとり、人質としてさしだす。のち、利政に世継ぎができたあかつきには、その子を身代わりの人質に。

 というような目論見であった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(45)

秀長は秀吉同様、百姓の子(こ)倅(せがれ)(正確な出自は不明)であった。

いっぽうの利家は、織田家譜代で城持ち武将前田利昌の子息である。とうぜん、故信長の直参(直属の家臣。命により現在、柴田勝家の与力をつとめてはいるが、勝家の家臣ではない)で、能登二十三万石を領有する大名である。その利家にたいし、

秀吉の舎弟とはいえ、しょせんは秀吉の家臣でしかなく、信長からみれば陪臣(かんたんにいえば、家臣の家臣)という立場の秀長なのだ。信長への単独の謁見を、基本ゆるされていない身分であった。

これを極端にたとえれば、主君にとっては路傍(みちばた)の石同然のかえりみられない存在、ということだ。石高も、利家の約半分の十二万石にすぎない。

 にもかかわらず、利家は下座(しもざ)にて、しかも土のうえで伏したのである。たとえ野戦場の敵陣とはいえ。平時であればありえないことだが、今はこうしなければならない状況であり、立場であった。

この戦のとちゅうにて降(くだ)るつもりだったとはいえ、旧友の秀吉にたいしてですら、内心、穏やかではなかったであろう。すでに大身の利家が平伏に値するのは、領地をあたえた主君の信長だけであったからだ。

まして、いまの相手は同僚の弟であり、格下でしかない。

このときのかれの苦衷と汚辱、いかばかりであったろうか?

しかし平身低頭の礼をつくすことからはじめなければ、到底、前田家の誠意をわかってはもらえないだろうと。いまは虚心坦隗(率直に肚をわるさま)、ただそれだけであった。

 利家は、「どうか、最後までわがはなしをお聞きくださりませ。そのうえでの処分をお決めいただきとう存じまする」と、頭(ず)をさげたまま述べた。

幾多の戦場でのはたらきから猛将と畏怖され、主君信長からも[肝に毛がはえておるわ]と称賛された利家が、これ以上はない礼を、はらっているのである。

 秀長は忖度すると、「又左衛門殿」“利家殿”とか官名とかでは呼称しなかった。敬意よりも、あえて親しみのある呼び名をつかったのである。

「わかり申した。いかなるお話であれ、口をさし挟まずおききいたす。まずは、おもてをあげられよ」穏やかな声でゆるやかにいった。かれの人となりがにじみ出ていた。

 もとより利家に、粉飾や虚偽を一切まじえるつもりはない。まずは有り体に、事態をつたえはじめたのだった。

あらためてではあったが、遣いの奥村よりも無残にすぎる詳細をきき、さすがの秀長も絶句したのである。しかし、約束は違(たが)えなかった。

「『なぜじゃ、なぜわしは射かけられたのじゃ?又左殿の指示によるものか?わしにはまだ、せねばならぬことがあるというに。無念じゃ…』虫の息のなか、これが最期のおことばでござった」

利家の双眼には涙が光っていた。赤貧(どん底の貧乏)時代からの友、みそやしょうゆの貸し借りをしあった家族ぐるみの親しさであり、莫逆(ばくぎゃく)の(たがいに気心がつうじあった真の)友をうしなった、悲愁の涙でもあった。

その、うしろにひかえていた長子は、父親のむせび声を今生、はじめて聞いたのだった。

そんな、おどろく嫡男を尻目に利家は、本丸の奥、城主の寝所にて手あつく菩提を弔うよう、城下の寺の住職に申しわたしていることもつけ加えた、死者の身分を、むろんつたえることなく。そのうえで寺のものすべてに、呼ばれたことすら他言無用と言いつけてあるとも。

 つづけて、わかい城兵が独断専行で射かけたこと、父親の仇としんじての所業であったむね、さらに、わが手では成敗せず「秀長殿が吟味できまするよう、捕えたままにして」いること、そのうえで「われら自体も、秀長殿の裁定に身をおまかせせんがためまいりました」とのべた。

で、秀長にじぶんたちの将来をまかせるとしたのには、じつは底意があった。取りはからいのしかたで、人品を観てやろうとの。

かたや、兄おもいの秀長ではあったが心中、死は戦場のならわしとて_…されど兄を討ったやつばらをできれば八つ裂きにて恨みをはらしたい…、ところなれど_それをすれば、自軍のうちに噂がたち、それがひとり歩きすることを恐れ、吟味すらあきらめることにしたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(44)

 床几(簡易の腰掛)の上、内心、やりきれぬ憤怒と悲嘆と不安が大きな渦となっていた。だが、つとめて、平静をよそおっているのであった。

それでも隠しようのない蒼ざめた顔色の秀長のまえ、利家と利長が平伏していた。入梅前の草いきれでむせかえりそうになる、草土のうえにてだ。

平装の父子は、大小(の刀)をおびないまま、誓書か親書らしきものを懐に、敵陣にやってきたのである。

使者であるかのように身をやつし、いわゆる無条件降伏を、羽柴秀長にその出で立ちでわからせようとの思惑もあった。奥村の白装束とは、意味がちがっていたということだ。

で、ふたりの平服だが、くすんだ、見るからに安手の麻製であった。

利家はちいさな屈辱と、そんな汚辱などは凌駕する誇りと使命感をまといつつ、それを着していたのである。

たしかに、普段、着用する絹製とは、あきらかは落差があったのだが。(ちなみに木綿製は、江戸元禄期においてもなお輸入品であったため、高級だったのである)

それもこれも、質素な平装であれば、敵陣の兵には、身分をさとられなくて済むとの配慮もあってのこと。もっといえば、城内での異状の惹起を、「羽柴軍にはかんじさせまじ」との意図もあったからだ。

そのうえで念をいれ、信長から「見栄えがしない」と揶揄(からか)われた口ひげも剃りおとし、さらにひとかどの武士(もののふ)ならば、たずさえることが慣例化しだした脇差さえ、既述したように帯同しなかった。

それは、身分が足軽ていどと敵陣におもわせんとする、それほどの深謀のけっかである。

くわえて秀長にたいしては、一国の主がなした質素なみなりこそ、尋常でない決意を暗に顕示せんがための、故意であった。ただ側近奥村がなしたような、白装束にはあえてしなかった。

主までがつづければ、かえって故意(わざ)とらしさをみせつけてしまうからだ。

これみよがしを嫌ったのは、利家の美学でもあった。

で、このときも、太刀もち(幹部候補生)以外の人払いをさせていたのだった。

ところでだが、本来の家格なら、利家とでは比べものにならない。戦国の下剋上とはいえ、この時代の武将のあいだでは、家柄は、現在とは比較にならないほどに重要視されていたのである。

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