床几(簡易の腰掛)の上、内心、やりきれぬ憤怒と悲嘆と不安が大きな渦となっていた。だが、つとめて、平静をよそおっているのであった。
それでも隠しようのない蒼ざめた顔色の秀長のまえ、利家と利長が平伏していた。入梅前の草いきれでむせかえりそうになる、草土のうえにてだ。
平装の父子は、大小(の刀)をおびないまま、誓書か親書らしきものを懐に、敵陣にやってきたのである。
使者であるかのように身をやつし、いわゆる無条件降伏を、羽柴秀長にその出で立ちでわからせようとの思惑もあった。奥村の白装束とは、意味がちがっていたということだ。
で、ふたりの平服だが、くすんだ、見るからに安手の麻製であった。
利家はちいさな屈辱と、そんな汚辱などは凌駕する誇りと使命感をまといつつ、それを着していたのである。
たしかに、普段、着用する絹製とは、あきらかは落差があったのだが。(ちなみに木綿製は、江戸元禄期においてもなお輸入品であったため、高級だったのである)
それもこれも、質素な平装であれば、敵陣の兵には、身分をさとられなくて済むとの配慮もあってのこと。もっといえば、城内での異状の惹起を、「羽柴軍にはかんじさせまじ」との意図もあったからだ。
そのうえで念をいれ、信長から「見栄えがしない」と揶揄(からか)われた口ひげも剃りおとし、さらにひとかどの武士(もののふ)ならば、たずさえることが慣例化しだした脇差さえ、既述したように帯同しなかった。
それは、身分が足軽ていどと敵陣におもわせんとする、それほどの深謀のけっかである。
くわえて秀長にたいしては、一国の主がなした質素なみなりこそ、尋常でない決意を暗に顕示せんがための、故意であった。ただ側近奥村がなしたような、白装束にはあえてしなかった。
主までがつづければ、かえって故意(わざ)とらしさをみせつけてしまうからだ。
これみよがしを嫌ったのは、利家の美学でもあった。
で、このときも、太刀もち(幹部候補生)以外の人払いをさせていたのだった。
ところでだが、本来の家格なら、利家とでは比べものにならない。戦国の下剋上とはいえ、この時代の武将のあいだでは、家柄は、現在とは比較にならないほどに重要視されていたのである。