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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(63)

この、利家が肚(はら)におさめた請願はけっかとして、争いごとのない世を希求する民の願望、当時においては日本統一の、その支援となったのである。

肉が肉といさかい、血で血をあらそった戦国の世は、このような有名、だけでなく無名の人々に因(よ)って、終焉をむかえることができたのだ。

極論をいうと泰平とは、民衆がこいねがい続けなければ、実現しえないものなのかもしれない。

だとすれば人とは、なんと因業な生きものであろうか。

哀しいかな、力をえた人間というやつばらが、覇をあらそってきたのだ、それこそ有史以前から。より盛隆をのぞむがゆえに、相手を敵とみなし力でねじ伏せてきたのである。

ま、それはともかくとして、秀吉によってだされた惣無事令(大名間による領土紛争などの私闘を禁止し、罰則を法令化したもの。ただし異論の学説も存在するが、ボクはとらない)は、争いごとを禁じる代表的な和平政策であろう。

それは利家からみて、信長がかかげた“天下布武”の本意、つまるところ武をもって武のない世界を布(し)くにつうじており、敬愛した主君信長へのオマージュであったろう。

ちなみに“武”とは、戈(ほこ)(武器である戈)と止めるから成立する漢字である。軍事力や権力でもって制圧をする覇は、統一の必要悪的な手段で、大切なのはそのあとの天下泰平であり、それこそが、“武”本来の目的なのである。

ところで歴史好きでもないかぎり、羽柴秀長にたいする認識はざんねんながらさほどではない。だが間違いなく、かれはひとかど以上の人物であった。

「影」を耳にした瞬間、利家がなにを訊こうとしたかくらいは即座にわかった。だが強いて、さそい水の言辞を駆使しなかった。むしろどう出るかを見極めるため、利家にその刹那の仕切りをまかせることにしたのである。

どこまで味方になってくれるか、かれの本意をしるためであった。

羽柴家をゆるがす一大事件をおこした直後だけに、卑下は致しかたなしと。されど過ぎたる卑屈な言動があったならば、利家は気骨なしと。また、仕置きをきくまえに腹をきる仕草をしたならば、軽挙な人物と軽視するつもりだった。いっぽう、美辞麗句を弄するようならば、信頼にあたいしないとして見限ろうと。

はたして、そのどちらでもなかった。

かねてより利家のことを知ってはいたが、かれの眸が放った光をみて、信頼できると確信できたのである。

さてこのふたり、傍からだとなにごともなくみえたであろう。しかしながら戦国武将の駆けひきは、まさに命がけだったのである。

しかもこの間ふたりは、眉、その一毛(いちもう)たりともうごかすことはなかった。

これが、天正十一年(1583年)四月二十二日昼前から深夜にかけての全幕である。

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 ながい時間をまたされた前田家親子三人であった

だが、秀長がすがたをみせるとその横顔を一瞥し、すぐさま平伏したのである。直後かれらは、安堵の表情になっていった。

あらわれた秀長の眼から、先刻のはげしい怒りはきえていたからだ。戦国乱世の戦場にて、命をおとすのはいたしかたなきこと、そうあきらめた表情とみてとったのである。

 秀長ひとり、利家たちの上座にすえられた床几にすわった。

さて、どう切り出すかを思案しおえ、おもむろに口を開いた秀長は、

「北の庄(柴田勝家の居城)への先導をお願いいたす。ご案じめさるな、それだけでござる」寛大にすぎる処置を言いわたしたのだった。(史実、先陣をつとめている)

城攻めの先鋒として力をつくしてくれれば、それで片がついたこととする。つまり、処分はおこなわないというのである。

 柔和になった秀長の様子から、すくなからず安堵の気持ちになったとはいえ、それでも当然のごとく、きつい処分をいいわたされるだろうと覚悟していた三人であった。

領地減封および利家の切腹ですむならありがたし、喜んでうけいれるつもりで伺候したのである。

それが、人質をさしだすことさえ要求しないというのだから、三人ともが、わが耳を疑った。

 その怪訝な様子をみつつ、秀長はさらに嬉しき言葉をかけたのである。人誑しの技は、弟であるじぶんが受けつごうと決めたかのように。

「豪姫殿(利家の四女、幼くして秀吉の養女になっていた。しかし、人質としてではない)は播磨の城にて息災でござる。義姉上(ねね)にも可愛がられて、楽しき日々を送っておられる。いずれは秀家殿(宇喜多秀家、こののち加増され五十七万石余となった大大名)と妻合(めあ)わせる所存と、殿は仰せであった」秀長は、あえて亡き殿とはいわなかった。

_恩をうっておき、つよい味方にするが得策_とのもくろみと、利家はみてとった。そしてこの場で豪姫のはなしを持ちだしたのも、羽柴家としてはいつでも人質にできる、とのたがいの暗黙の了解とみた。

_いずれにせよ_これら政略をさし引いても、このうえなくありがたき言辞である。三人は衷心より感謝し、感激したのだった。

「よろこんで、先陣つかまつりまする」与力をした勝家にたいする、いうまでもない裏切りだが、これも世の習いというしかないと。ただ、両手をついた利家にも、上様(信長)の命による与力であって、家臣となったのではないとのいい分はあった。

それはそれとして、一説によると、敗走しつつも府中城にたち寄った勝家であったが、湯漬けを所望したそののち「羽柴家をたよられよ」と、独善勝手な前田陣退却にたいして、恨みごとのひとつもいわずに忠告したとされている。

前田軍退陣が賤ヶ岳の戦いの敗戦のおおきな一因とされるだけに、この逸話がほんとうであれば、戦国の世ならずとも、このうえなき清涼剤となるではないか。

 さて、つねより気丈なまつではある。だが、“豪”の名を耳にしたときはさすがに、つい嗚咽をもらしたのだった。消息をしりたいが訊ける状況ではなかっただけに、望外の報せであった。

母として、戦国武将の妻として、戦にでた城主および領主の代理人(不在の夫にかわって城にのこった家臣団の統率や領民の保護にあたった)を長年務めてきたものとして、すべての感情がせきあげてきたのだった。

羽柴秀長にむけ、おもわず、掌(たなごころ)をあわせたのである。

 利長も顔を伏せたまま、肩をちいさく震わせていた。

 いっぽう、父であるまえに領主である利家は、前田家の行く末をかんがえずにはおれなかった。それで迷ったあげく「恐れながら」と発し、問おうとした、「筑前殿には…影」と。

しかしながら、その先をばいい淀んだのである。さすがに、軽々にすぎると思いなおしたからだ。

すぐさま、「いえ、何でもござりませぬ」とて口をすぼめ、つづきを留めたのだった。でかけた“影武者の存在“など、確証のないあて推量にすぎないためである。

それいじょうに、「前田家にはかかわりなきこと」と一蹴されるだけですめばよいのだが、せっかく消えかけた火に、空気と油をたすことになりかねないと、そう。

立ちいった問いは愚行ゆえに避けるべしとして、以下、_影武者がおり、羽柴家、いな羽柴秀長殿がそのおとこをたてて、天下平定をめざさるるならば_そう、出かかったことばを、喉の奥にもどしたのである。

_さすれば、微力ながらも助太刀いたしまする_との協力誓願はさらに、内腑へとおし込めた。_秀長殿にたいする恩義なればこそ、言葉より行動でしめせばよい_そう改めたのである、秀長の眸にむけて、感謝と敬信の光をおくりながら。

たしかに、無言実行のほうが利家らしい。信長が愛(め)でた、その性格のままだからだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(61)

「これらの者には、一切をつつみ隠さず正直に打ちあけ、羽柴家のゆく末を安堵するために骨身をおしまないとの、誓いをたてさせましょう。行長(当時二十五歳)なんどをもふくめ、まだわかき者たちゆえ、心はまっすぐにござれば…」

官兵衛は、かれらを信じるか、皆殺しにするしかないとかんがえた末、信じることにしたのである。それしかないと決めたのは、かれらが働かなければどの道、羽柴家は成りたっていかないとの洞察によった。

 企業の創業時においては、上下に相互信頼がなければ、成長はおろか、生きのこりすらもむずかしい、との方程式に似ている。

百姓の立場から裸一貫で興した秀吉ゆえに、ほんらいの意味での譜代をもたない。かれらをこそ譜代にしていかねば、将来はないのである。

それには隠しごとは禁物で、情報を完全に共有する道しかないとした。

年若と侮(あなず)りかるくあつかえば、多感なかれらは、敏感にかんじとるであろう。

信頼していない相手をば、信用するものがいるだろうか?逆に、秘事中の秘事とはいえ、いやだからこそそれをすべて明かされたならば、意気にかんじ与力するであろう。

これが官兵衛一流の、人心収攬術であった。

 秀長も苦労人で、この方程式に異議はなかった。ただし問題は、その「羽柴家のゆく末」にたいする不安である。

主を消失した羽柴家のゆく末を本気で案じ、そのうえで、主家安堵のための与力を、愚直にしてくれるものたちであるのかどうか?

「その心配ならば、おそれながらご無用かと。虎之助や市松、佐吉をはじめ皆のものが、御台盤所の寧々様にはこのうえなく可愛がられておりますゆえ、母者人(ははじゃひと)のように慕っております」

秀吉亡きあとは、ねねこそが羽柴家のゆく末そのものだから、まず当面は大丈夫、というのである。

「さらには秀勝様がおわします。上様(信長)直系のお方であり、上様より殿がうけたる恩義、いまは、秀勝様からの恩顧であると説きわからせます。で、亡き殿になりかわり恩にむくいる道こそ、武人の誉れであり忠義だとおしえてみせまする」

道をとく資格において、官兵衛以上の適任者はほかにいなかった。

信長を裏切った荒木村重(すくなくとも信長陣営はそう見ている)に、友誼から翻意させようと単身で、いまは敵と化した主城、有岡城におもむき、かえって囚われの身となり、食事もふくめ家畜以下のまま一年余の牢獄生活にたえ、それでも主君を裏切らなかった。

そんな経歴をもつ人物、とされ、また、それを知らないものはいないからだ。

 しかし、まだ心配げの秀長。

「こういうことは本来憚るべきことなれど…、秀勝様は病弱であり……、そのうえ、義姉(あね)上にもしもの事あらば」秀勝とねね、二人とも長生きする保証などないとおもうと気掛かりで、つい、洩らしてしまったのである。

 富士山のような兄の突然の消滅は、賢弟の日ごろの沈着冷静をうばうに、じゅうぶんな事態だったのだ。

「さればその前に、足元の地を固めてしまいましょう。この戦はもはや勝ちにござりまする。よってかれら近習には、いっそう特別の、おしみない恩賞をあたえますれば…」

「なるほど。それが良い」おもわず膝をたたくと、「羽柴家にたいし、新たな恩義をつくりだすのじゃな」安堵の眉でいった。

軍師も無言で自賛のうなずきをいれると、「さすれば、欲が出てまいりましょう。欲のない人間はおりませぬゆえ」ひとの習性について語った。その欲を、よそにむける愚はしますまいとも。

「かれらは、他家では無名。だれもが、路傍の石あつかいは、必定」

ところで二人ともが少欲知足、世人にくらべれば欲望はかなり少なくても足りるを知るほうだった。それだけに冷静に、戦国の世なればこその、欲ぶかき人間をばいやというほど見てきていた。

欲をいったんは満たしたと笑むが、新たにうまれたより大きな欲に惑(まど)い堕ちゆくガキそのものの姿を。やがては身をほろぼす、哀れな餓鬼道のひとびどをだ。

欲望とは、いかにも人間を駆りたて突きうごかす源の力ともなろうが、すぎると、身を炭にするまで焼きつくす鬼火にもなると、身に沁みて知悉していたのである。

「欲強きものならば、主がだれであるかではなく、じぶんを重用し加増してくれることを第一義にかんがえ、その主につかえます」

ひとりやふたりが、欲深さのゆえに向後たとえ裏切ったとしても、かれらはまだ若年ゆえおおきな脅威にはならないだろうとも、ふんでいる。それで当面、対策や処置にまではその必要をかんじなかった、

そんな側面もすでに計算ずくであった、善悪あわせもって。

だから、杞憂に労力の無駄づかいをするよりも、かれらの成長以上に羽柴家の勢力を拡充させていく。そうすれば、造反者などでるはずないとの算段だった。事実、十六年が間はそのとおりになるのだ。が、

ただ十七年後、竹中半兵衛の機智により命を救われた、嫡男の長政がまさか、豊家分断のその核になろうとは…。

して、秀吉子飼いで武断派と称されるかれらが、愚かにもその先どうなるかもかんがえずに感情のまま対立をおこし、戦の因をつくるとまでは名軍師も、さすがに読みきれなかったのである。

 だが今は、そんなさきの話、どころではない。

 官兵衛は、ひとの習いにしたがい、利と理にもとづいていけば、それを核とし、エネルギーはそこに集約されていくとみている。ひとは保全のために力あるものを頼り、より添いたい生きものなのだと。

つまり、羽柴家が力を増幅できるはずと信じ、具体論としてつづけた。

「また、恩をしるものならば、出世させてくれたものが誰であれ、そのものに忠義をつくしましょう」

だから、過誤なく論功行賞をすれば、このあとも羽柴家は安泰、なだけでなくやがては、天下をとれるはずというのである。

 こうして、 

談合の当初、瞳の光彩いかにもよわく、眉間には深いしわがより、世事の難問いっさいを、一身に背負ったふうであった秀長だったが、いまはまるで別人のよう。

官兵衛の立案に眉はおおきく開き、軍師の手をつよく握ったのである。はからずもでた感謝のあらわれであった。

「さすがでござる。いやはや、お見事!」初恋がみのった少年のように、おもわず破願した。

「軍師のいわれるがままに。で、責任はこの秀長がうけるとしましょう」これ以上の案などありえないと判断し、大成の風格でいったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(60)

 いっぽうの後者集団だが、文治派と称される。財政や戦時における兵站などをふくむ行政にたけていた。ちなみに兵站とは、人員・兵器・食料・医薬などを戦地に前送・補給しつつ、後方の本営との連絡をも機能させる後方支援のことだ。

とくに、秀吉の三成への信任はもっとも厚く、そのぶん武断派はおもしろくない、ていどではなかった

ところで“兵站が延びる”という言葉があるように、杜撰(ずさん)だと、戦争を維持・続行することはできなくなってしまうのだ。後方支援の重要性をしりつくした秀吉が、有能な三成を重用したのも、とうぜんといえよう。

 その三成について、いますこし触れておきたい。

武断派に比すまでもなく、欲がすくなかったということだ。

知るひとぞ知るはなしだが島左近、流浪の身とはいえ、とうじから智勇兼備の誉れたかかったこの人物を、大名級の知行二万石(一説だが、三成はちなみに当時は四万石であったから、半分を与えたことになる)で召しかかえている。

自家に、まだなんの功績もしめしていない人物だったにもかかわらず家老として、自領地から割譲するのだから、“大気者”(秀吉も貢物の多種高価でもって、信長をこう感心させた)でなければできない、度量のおおきさだ。

ついで、人物だったとする説をあえて。

有名な旗印、大一大万大吉。意は既述したとおり、万人はひとりのため、また、ひとりが万人のために尽くせば、太平の世となると。生き馬の目を抜く(ひとを出しぬいて利益をえる)戦国時代の武将とはとてもおもえず。その人柄がしのばれよう。

くわえて、朝鮮出兵における後方支援の功が大として、秀吉は筑前・筑後両領地を下賜しようとした。

が、三成はこの加増を辞退している。「殿下がおわす大坂や伏見からみて遠隔地ゆえに、ご奉公に支障がでる」というのが理由である。

家臣の鑑と、泣いて喜んだにちがいない。

さらになのだが、琵琶湖の東岸・滋賀県北東部(長浜市や彦根市など)では、いまだに三成の治世をほめる住民はおおい。年貢をかるくし、善政を布いたからだ。

そのせいで、領地の主城である佐和山城の普請(内装)はいたって質素であった。派手ごのみの主君とは、雲泥の差である。

ちなみにのち、信頼する井伊家に彦根一帯をおさめさせたのも、政権を守るに要衝の地だからであり、それより以前の三成にすればぎゃくに、東方、とくに家康という脅威から豊家を守るに、じぶん以外のだれが任にあたれれるか、まったくもって論をまたなかったのである。

でもって、家康の野望をうち砕こうと、さいごまで恩顧に命をはって応えていること、武断派とは天地の差ではないか。

 その三成、斬首の直前まで、報恩と信念のひとであった。

 また、論理を重んじ、理性のひとでもあった。よって、一利なしの朝鮮出兵の愚を一度ならず主君に説き、さらに諫めてもいる。主君であろうとも、非を非とただす信義と真の忠義の人でもあったのだ。

上意に逆らえず、やみくもに武を恃(たの)み、欲に足をすくわれ感情にうごかされがちだった武断派とは、質におおきな違いがあったのである。

そういえば中島敦の小説 “山月記”、自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚かった逸材は、にもかかわらずのあまりの不遇を嘆くあまりついには発狂し、人喰いのトラへと変じてしまう、そんな寓話をなぜか連想してしまった。

煩悩をコントロールできなかった吠える清正や正則などの漢(おとこ)たちに、やがて来たる悲劇が頭をよぎったからだろうか。

閑話休題。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(59)

ここでも、横道にそれる。

前者集団はのちに武断派と称され、関ヶ原の合戦のおりには、豊家を裏切り、こぞって徳川方についてしまった。豊臣恩顧の武断派たちは、これを裏切りとはおもわないかもしれないが。

それでもあえて言う。鬼籍にいった(死んだ)秀吉を慟哭させたことに、異議をはさむ余地などないはずだと。

それはそれとして、遡(さかのぼ)ること、影武者(蛇足ながら、いまもなお白日夢の渦中である)秀吉の命による文禄・慶長の役(朝鮮半島への出兵)のおり、過酷、では軽すぎる、血みどろの戦にあけくれていたにもかかわらず、艱難辛苦のなかにいる前線の武将たちにたいする天下人の評価はひくかった。

それを、“小賢(こざか)しい佐吉”の讒言(ざんげん)のせいだと、武断派たちはおもいこんだ、あるいは、こもうとした。でもって、恨みをいだいたと、そう、ほとんどの歴史家はしるす。史実として、裏うちの文献もすくなくないからだ。

だけでなく、さらなる掘りさげかたをする学者もいる。いわく、恩をうけた秀吉に文句をいえないぶん、かれらはかわりに、寵愛の三成に恨みつらみをむけ、そして憎んだとする見解だ。

そのうえで、舞台裏にて、家康の謀臣本多正信が画策して対立をあおり、確執を決定的にし、やがて、家康が機に乗じて天下をうばったと、これも多くが。

もちろんそうなのだが、とくに清正は、家康の肚の底を読みきれないていどの人物だったから、徳川方に乗せられて、_殿下お気にいりの佐吉めが、豊家を乗っ取ろうとしている_とそんな、愚かで、じじつと真逆の判断をしたのかもしれない。

すくなくとも、佐吉憎し!が清正のこころを覆いつくし、冷静な分析や判断ができなかったのだ。そこをつかれ、古ダヌキに利用されてしまった。

むろん、ちがう見解もある。清正は、天下を徳川にわたすことを認めつつも、秀頼公の安泰をねがっていたと。豊臣を、一大名として存続させればよいと思ったのだと、そう。

しかしそれを、家康が良しとするとかんがえていたとしたら、なにもわかっていなかったとなる。歴史が証明しているとおりだ。

あるいはやがての、豊臣・徳川の衝突は不可避とみて、そのときは秀頼公の幼さのゆえに勝目なしと、清正をふくむ武断派の各大名はふんで、それぞれが自家をまもるために徳川についた、との説もある。

だとしたら武闘派たちのよみ、正しかったのだろうか?

歴史に“たられば”は禁物を承知で、もし武断派が裏切らず、せめても中立をたもってさえいれば、兵力・財力ともにおとる家康は、天下盗りの野望など、あきらめざるをえなかったはずである。

じじつ、秀吉治世下では、能ある鷹になぞらえて爪をかくし、おとなしくしていたではないか。

戦で、家康方が勝利した、にもかかわらず、だ。小牧・長久手の戦いは、たしかに全面戦争ではなく、いわば局地戦ではあったが、その勝利に乗じて、天下をのぞもうとはしなかった。

ところが文献にあるとおり秀吉の死後、家康は縁組み禁止法度(御掟(おんおきて))をやぶり、伊達家、蜂須賀家、福島家などとの姻戚関係をきずき、さらには利家亡きあとの二代目利長にたいし、豊家への謀反のうたがいありとの言いがかりをつけ、大老からはずしたりの画策もしたのである。やり口が汚くおぞましい。

肚は、みずからの勢力拡大と、豊家の力をそぐためにほかならなかった。

徳川の力がまさっていたのであれば、法度破りという禁じ手や、他家を窮地に落としこむような策謀をもちいる必要など、なかったはずである。

また、天下横取りの野望がなければ、後世においてわるい評価をうけるであろう悪手をうつ必要性も、なかったではないかと。

秀吉亡きあとの戦において、戦略、戦術ともに、家康にまさる武将はいないのだ。で、財力はともかく、兵力においては対等以上の立場をもくろんだのだった。

しかし、今はそれをさておくとして、

いずれにしろ、どのような弁解をしようとも、裏切りは裏切りでしかなく、秀吉からの恩顧を仇でかえした逆賊行為とみなされても、しかたがないであろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(58)

秀吉の声をしらない小姓たちは、まさか影武者だとはおもわず主君の言葉として、家臣たちにつたえる。大名や家臣は、小姓の振る舞いがまったく自然なので、たとえば、疑いをもっていたとしても、その疑惑はやがて消えていくだろうとした。

 ここまでの策略に、まずもって、非のうちどころはないと。さすがに比類なき知略の軍師なり、唐土の諸葛亮孔明にまさるとも劣らじと、秀長は内心、舌をまいた。

 しかし、恐れいるのはまだはやかった。適確な現状認識ののち、さらに献策をうけたからだ。

「失礼ながら、殿御一代できずかれたゆえに、御当家には有能な譜代や直参は、そうおおくはござらん」

譜代とは父祖からの家臣をいうが、農民出身の秀吉には存在するはずもない。それで小身のころよりの、という意味で、官兵衛はつかった。

「僭越ながら」と前置きしたあと、「小六殿(蜂須賀正勝の通称)や長政殿(寧々の養父の養子、浅野長政)などであまりおおくは…」

_いいたいことを、歯に衣(きぬ)着せずぬかしおるわ_秀長は苦笑するしかなかった。

「されば、能あるお方以外はとおく退けられるがご賢明かと」ずばりいった。このさい、能力にとぼしい神子田正治や仙石権兵衛秀久・生駒甚助親正などを閑職においやれば、当家にとって二重の有益をもたらすといいたいのだ。

能力にとぼしいとは、ほかの秀でた武将たちと比較しての優劣であって、かれらが無能だという意味ではなかった。

ちなみに先のふたりは勘気をこうむり、史実、改易されている。

で閑職にとは、禄もけずりとることをも意味していた。

もちろんかれらからの機密漏洩の恐れがなくなる、だけでなく、有能でない家臣を格下げすることで、その地位をもっと有能な家臣にさずけられる、とのおまけも発生するのである。

もっともな意見ではある。がそれには、信長のように放逐しないだけ慈悲があると、納得させる必要もある。温和な人は、ついそうかんがえたのだった。

しかし官兵衛は割りきっていた。かりにかれらが叛心したとしても、織田家にとって脅威となった、天正六年の荒木村重の謀叛のようにはならないと、織りこみ済みなのである。

領地も兵力も人材といえる陪臣も、三人については歯牙にもかけないですむていどのものだったからだ。

「さっそく、そのように手配いたそう」窮地を、むしろ当家の有利に変換させようとのみごとな知謀は、天晴(あっぱ)れ、というしかなかった。

「(丹羽)長秀殿、久太郎殿(堀秀政、智勇兼備の武将として信長は称賛し、敵からはおそれられた)など、上様(本来なら将軍家への呼称だが、織田家では信長をさしていた)直参で信頼できる方々には、すべてを打ちあけるが得策とかんがえますが、いかん」

「うむ、そのふたりに限れば、な。とくにだが長秀殿にたいしては戦勝ののち、羽柴家の力を天下にしらしめたあとがよかろう。ただしご本人のみで、子息以下には内聞を約していただく」

雌雄が決したいま、有力大名が柴田勢に寝がえる可能性はひくいとはおもった。がそれでも、つい万が一をかんがえてしまう、との心境であった。

_勝家をたおし果たせば、織田家中において、羽柴家に異をとなえるものなどいなくなる_が、それまでは自重すべきと。

 たしかに本気で、しかも単独で戦陣をしいた大名はいない。信長の次男(三男との説もある)信雄(かつ)がのみ、家康の力をかりて、戦端をひらいた。が、史実はそれくらいだ。

この次男坊も後年、豊臣家をたよることとなる。

さらには外敵の、四国は長宗我部、九州は島津、関東は後北条、といえどもそのいずれもが、戦をしかけてはいない。

 秀長のよみは、ほぼ的を射ていたのである。

「まてよ。うん、そうじゃ、明かす直前に、領国を安堵するのみならず加増もするむね、つたえるとしよう」あらたな領地なら、柴田領から割けばいいとその胸のうち。

とはこの本質、羽柴家の家臣の列にくわわることを意味している。

 じじつ、長秀は賤ケ岳ののち加増され、百二十三万石の領主となっている。

 また、堀秀政は山崎の合戦のとき、すでに家臣の立場で参戦していたのだった。

「むろん、それとは引きかえにじゃが、身内をいわゆる人質として差しださせるが、な」裏切らせないための備えとしてである。秀長もどっこい、画策の辣腕ぶりを披露したのだった。文句のつけようのない機略といえた。

「それがよろしゅうござりまする」じつは官兵衛も同意見であったが、ここも秀長に、花をもたせたのだった。

「きまった!では明朝、出陣のまえに、主の名で触れをだすといたそう」同盟の大名の首根っこをおさえるに、はやいに越したことはないと秀長はかんがえた。

とにかく天下をとるまでのあいだ、まずはカリスマとしての秀吉の健在ぶりをしめさねばならない。そのため、賤ヶ岳の合戦以降は敵味方のどちらにたいしても、影武者をたてていくしかないと。

あす以降の戦術や将来をみすえた戦略は、じぶんたちや長秀と秀政が受けもち、“影”は単なるかざりに徹すれば問題は生じないはず。この点でも、ふたりは同じだった。

 そしてこののち生じるかもしれない危惧、ひっきょう影武者の暴走についても、「多少は目をつぶるしかない」でも、一致したのである。

 ただこれほどの秀長にも、やがてのとんでもない狂いが生じるのだった。三歳年長の影武者よりはやく、1591年一月二十二日に五十一歳で、自身が病没するというまさかの計算ちがいである。

それで、影武者が二種類の、とんでもない暴走をすることに…。しかしそれを制止できず、けっか、豊家を崩壊させてしまうのだ。

とりかえしようのない悲劇、みるも無残な史実を、かれは泉下(黄泉、あの世)でしることとなる。

生きていれば暴走を制止し、豊家を安泰にしてみせたものをと、滂沱(ぼうだ)の血の涙で息もできなくなったにちがいない。

「さて、のこるは、そばにて侍る若少な子飼いの衆とほか数人のみにてござりまするな」

この合戦ののちに賤ヶ岳の七本槍としょうされる、加藤虎之助(のちの清正)・福島市松(のちの正則)・加藤孫六(のちの嘉明)・脇坂安治など。さらにくわえての石田佐吉(のちの治部少輔三成)・大谷桂松(のちの刑部少輔吉継)・小西行長・増田長盛などのことをさしている。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(57)

 つづけて官兵衛は、子飼いについてはあとまわしにすると、ほかの直臣やおもだった役まわり、その一人一人の名前をあげながら、適材適所の人事を披露していった。

こうして、手の内のものへのうつ手について言上したのである。で、つぎにしめした案。外部への手配りやそれ以外においてもだったが、手錬でありそつがなかった。

以下のとおりである。

その一……秀吉と影武者それぞれの顔にある、キズや黒子(ほくろ)などの相違をごまかすため、瘡(かさ)気(け)を患ったことにする。瘡気とは、いまでいう梅毒のことだ。好色でとおっていたから、だれも疑わないとかんがえたのだ。

ちなみに梅毒は、コロンブスの航海により西インド諸島の風土病だったものがヨーロッパに伝わり、バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によりデカン・スルターン朝が支配したころのインドに伝播し、やがては日本に。十五世紀の初めころには流行していたとの文献があるほど。

で曰く(いわく)。医師の治療をうけてはいるが、瘡気の症状が顔面にすこしでたので、回復するまで戦場では頭巾をもちい、城内などでの謁見のさいは、御簾(みす)をつかうを良策と。その状況に、やがては慣れるであろうから、慣習化させればよいとした。

 その二……影武者へは、しぐさや癖を徹底しておしえこみ、習熟させる。性癖や好物・嗜好なども、秀吉流を踏襲させる。「早期に」が肝要ゆえ、秀長さまからそのむね、寧々さまにおねがいする。

 その三……秀吉と同ていどの素養・教養、ことにイロハからはじまる文字と筆づかいを、短期日で身につけさせる。

 その四……秀吉が戦で、上半身や四肢にうけた刀傷については、影武者にも、同所におなじキズをつける。

 そしていよいよ、あまり似ていない声の問題である。

 その五……常日ごろから体格にあわず、ムリに声を張りあげたためノドを痛めてしまったと。生まれつきではなく、じぶんと家臣たちを励ますためムリにデカくしていたのだと。

これは事実である。また、千単位では経験は豊富なれど、万の大軍をひきいての野戦は、毛利攻めにいたるまでは経験がなかったところへ、その直後の山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦と二度の大戦で、決死の督励に声をはりあげたため、ノドが潰れたと。

さらには、正常な声にもどるには、はやくとも半年はかかり、そのあとでも多少の声変わりはありうるとの診断をうけたと。ゆえに、お言葉も軍令も、じぶんたちや小姓などをとおすこととする、とした。

多少のムリを承知で、進言したのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(56)

 ところで色好みの秀吉だが、男色の気はすこしもない。それゆえ、小姓のなかに肌身を許したものはいなかった。ふたりの智将がいだいた側女にむけた不安だが、かれらにたいしては持つ必要など、なかったのである。

それでも官兵衛は、近習をもふくめ、側女ほどにはそう簡単にはいくまいとかんがえていた。

「さようにございます。さらに近習も勘定にいるれば、十数名に相成りまするが、とりあえずは小姓をいかに処するべきか、でありましょう」

うなずくと、「して、その策は?」いらん先入主をもたせないためにじぶんの見解をのべず、あいての言に真摯に耳をかたむける。それが、欠陥や欠落のない意見を陳述させるコツだと、兄のやりかたをみて学んでいたのだった。

人誑しにはまず、おもいの丈をあいてに吐きださせることからはじまると、知悉していたのである。

「国許(くにもと)にかえすものと配置がえ。この両方を使いわけるがよろしいかと」全員を国許にかえすのは唐突すぎて、へんな疑惑をまねくといいたいのだ。

「年かさの五人は国許にかえし、かわりの子息を預かりうけ、のこりは配置がえとします。さらには、あらたに帰属した大名からの子息を小姓か近習にすえれば、それなりの粉飾、いや、体裁をつくろえるのではありますまいか」

小姓が秀吉にたいし、“もしや影武者なのでは?”との疑いをもち、しかもそれを自領国の実父にもらしたとなれば、とりかえしのつかない事態に陥る。だから用心がうえの用心こそ肝要、との主旨なのだ。

「その名目ですが、大戦での勝利を契機としての、人心一新との触れをだされてみてはどうでしょう」

 うなずくと、「ただ、先刻の案、かわりの子息がいない場合をどうするかじゃが、……そうよな、息女を側女としてもらい受ける、これでどうじゃろう」念のためにと、そう提案したのだった。まだ幼くてもいいし、大名の愛妾でもかまわないとの意もふくんでいた。

首肯のかわりに、「ではそれらへの手配は、小一郎様におまかせしたいと」ちいさく頭をさげた。「でもって、子飼いではない近習をふくめた配置がえでござりまするが、影武者からできるだけひき離すが賢明かと」

 秀長は、官兵衛のこの案もすべて、受けいれることにした。つまり、馬廻(うままわり)もかえる必要があるとかんがえたのだ。馬廻とは、主君の警護にあたったり家臣からの取次ぎなどをする役回りのことである。

「具体的には、徒士組頭に据えるもの、秀長殿やわたくしめとほかの家臣、あるいは家臣間の伝令役がよろしいのではないかと」

すこしかんがえたあと、立場がさがることで不満をいだくものもいるだろうが、さほどの人数ではないこともあり、いたしかたないとして秀長はうなずいた。

「ついでながら、こたびのことは、戦勝を寿ぐ佳節ゆえと、それなりの褒美をつけてやれば、疑念をもつものまでは出ますまい」

織田家を、実質的にうけつぐ立場となったのだ。大勝利を契機の配置がえ、そう喧伝するさきほどの案といい、仔細にまでの配慮がなされている。

_さすがに、智者の名に恥じない_秀長は感心した。短時間にこれだけの謀(はかりごと)をおもいついたからだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(55)

旧来、北近江の領主で名門の家柄である京極家だけに、ぞんざいには扱えないといいたいのだ。余談だが、信長によって滅ぼされた、浅井長政のめいにあたる。

「あいや、さらにもうお一人」あつかいに気をつけなければならない側室がいたと。

故信長の弟である織田信包の娘、姫路殿と呼称された「於市様」である。なんといっても、主家筋にあたるからだ。

だが幸いなことに、於市の生母が、身分のいやしい秀吉をきらい、実家に引きとっていたのである。

「なるほど、さすがの名軍師でもしらぬこともあるということか。案ずる必要はない。それに、竜子さまはいまだ寧々様のもとにおわし、殿とはいちども肌をあわせてはおられぬ」

しらぬこと云々は嫌味ではなく、逆にそれほどまでに官兵衛の知謀をかっていた証左であり、ある意味、ほめ言葉のつもりだった。

 だが官兵衛は刹那、いやな顔をした。しらぬことがあるとの一言に、自尊心をきずつけられたからだ。ほとんど表情をかえぬかれだが、未知と指摘されるのは、それが武門にかかわること(この儀はそうではないが)や身辺にちかいことであればよけい、不興顔になってしまうのだった。

元服まえからの癖(へき)で、生涯なおることはなかった。ひとつおおきく息を吸ったのち、「それはようございました」もとの無表情でいった。

_それにしても_と、主君とはちがい、あまり色を好まないこのおとこたちは口にこそださなかったが、同じことをおもった。それは、故秀吉の性癖(性におけるクセ、ではない)についてであった。

ちなみにふたりとも、側室をもたなかったと、史料にある。

さて、その好色のあいてだが、出自がいやしいとのコンプレックスからだろうか。

「高貴な出の姫君を、お好みになる」との癖(へき)だ。たしかに、側室たちの大半が大名など名家(とされる)の息女だった。

反例として、家康がいる。家柄や容姿などでは触手はのびず、多産型の、丈夫な女子(おなご)をそばにおいた。徳川家繁栄のための一環として。

そういえばナポレオン1世は、石女(うばずめ)(子をもうけられない女性にたいする差別用語)のジョセフィーヌと離縁し、出産可能なわかき女性と再婚している。

古今東西、英雄、色を好むと云々。

ところでさすがに、この戦場に側室をつれてきてはなかった。いくら好色とはいえ、こんかいも、山崎の合戦に比肩するほどの重要な戦だったからだ。

「されば、側女に先んじての問題は、小姓である」

史上、覇王に帰属をした大名のなかには、叛心のないことをしめすために、わが子を人質として差しだし、主はそれを小姓として傍におき、ときには夜や戦場での伽のあいてとしたのである。

余談だが、“小姓との伽”とはこのばあい、男色としての性交をさす。信長における森蘭丸(成利)をおもいうかべればよい。また、前田利家も年少期には小姓としてつかえ、伽のあいてをした。

このことが、利家にとっては生涯の自慢であった。戦国のそのころは、男色を恥辱とする意識が、まったくなかったとうかがえる逸話である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(54)

“猿”もしくは“禿(はげ)ネズミ”が,信長の発したたんなる蔑称ではなく、双子を産んだ畜生腹からの子という、まさに実体をともなった呼称となってしまうからだ。ひととして、畜生あつかいほどの汚辱が、この世にあろうはずがない。

 また、豊家につかえた家臣たちにしても、だれもが、影武者を天下人とあおいだ体たらくを後世にもし書きのこしたとするならば、これ以上の忸怩(じくじ)(恥辱)はない、ていどではとても済まず、もはや世々禍根のこすまじと、記録を断じたにちがいない。

「しかし騙しとおせるかな?声がすこし違(ちご)うておったが…」正直なところの不安材料を、秀長はあえて口にした。官兵衛とてしっていることと、承知のうえでの発言であった。

双子ならばこそ、声も近似していてあたりまえなのだが、秀吉は声帯が変異するほどに、ことに戦場(いくさば)においてだが、声を張りあげつづけて生きてきた。武人と農民とでは、生活環境がちがいすぎたのだ。

「それでもやり通すしかありますまい」賭けにでるのだから、危険は当然といわんばかりに。

成功か失敗か、繁栄か滅亡か、ふたつにひとつの、究極の大勝負なのだ。

しかも血で血をあらそう代、策謀においても勝てば生きのこれ、負ければほろぶ、が世の習い。戦場ではなくとも、この方程式はおなじであろう。

中国春秋時代の孫子(生年が紀元前535年頃といわれる孫武がしるした、ナポレオンも活用し世界的にも有名な兵法書)にても、強調しているとおりである。

いわく、孫子にとかれる“風林火山”の骨子(戦に勝つに、軍兵の進退においては敵をあざむけ)を広義に解釈するならば、…たとえ味方といえども欺きぬいたほうが、敵を破ることができる、となる。

だから全身全霊でダマしとおすこと、官兵衛はそこに勝算をもとめたのである。

明智光秀がそうであった。約一万の雑兵にたいし、本能寺に滞在している信長を討つ、ではなく、「信長公の閲兵を仰がんがため」などとの虚言を吐いて納得させたのだ。このウソこそが、自軍から裏切りものをださせない、最良唯一の方策だったからであろう。

さて官兵衛たちの、崖っぷちで前もあともないがゆえの極論。それは「しゃせん盛衰など、イチかバチかの賭けのけっかにすぎない」との、開きなおりであった。

 のちの討幕も、兵力と物量ともにぬきんでていた徳川幕藩体制に、勢いと人材力(質)で果敢に挑んだ、そのけっかである。不倶戴天の薩摩と長州による驚天動地の同盟で、これなら勝てると、あえていえば世情が魔法にかけられたすえの、大逆転劇であった。

 その魔術に、羽柴家はおろか、大げさにいえば日の本全体をかけてしまえとの、企みなのである。

「声のちがいにたいする策でござるが、それはあとでお伝えするといたし、まずは、協力者をつくらねばなりませぬ」と。つづけて、すべての人間を騙すことはできない旨をのべた。

官兵衛の頭脳は、火花を飛びちらすほどの勢いと速度で、すでにフル回転していたのである。

で、官兵衛得意の手錬による協力者の人選のけっかだが、このあと、家臣の名をあげていくこととなる。だがそのまえに、

ぎゃくに、選から漏れたものへの処遇。いわゆる、配置がえだ。その時期・部署・手法からはじめたのである。

しかしこの密議の、まずは肝心こそと、軍師を制止した。「協力者が必要なことはとうぜんとして、この密談までをもすべて知らせるわけじゃによって、その人選がむずかしい」いいながら秀長は、故秀吉の正妻である寧々(ねね、またはおね)を頭にうかべた。

ここ戦地より、いそぎの密書を認(したた)めることにしたのである。

「すべてを正直にもうしあげ、協力をもとめずばなるまい。躊躇したりおくれたりで、機嫌をそこねられては、あとあと面倒じゃ」

義理の姉は聡明だから、当家はじまって以来の苦境と危難を、じゅうぶんに理解したうえで協力をおしむはずがない、との確信があった。

「御意」とすかさず同意したのだが、この肝要を口にしなかったのは、秀長に花をもたせるつもりだったからだ。また主家にたいし、家臣のじぶんが差しでがましいとの遠慮もあった。

「されど、門戸をひろげすぎては秘密がたもてませぬ。かといって狭めすぎれば、事をしらざるものに見破られたさい、そのものは愚かにも、埒もなく言いふらすやもしれませぬ」

わかりきったことを秀長に発した、というより、じぶんにいい聞かせていたのだ。むずかしさの極みであると。

「いずれにしろ、できるだけ少ないにこしたことはない。なれど、やはり傍(そば)で侍(はべ)るものを騙すことは、できかねるであろうな」

「側女(そばめ)や小姓をはじめ、おそばで仕えるものどもにございまするな」と官兵衛。

 秀長は、唇をすこしすぼめつつ、うなずいた。この武人が集中し、思考をめぐらせているときの癖である。

「いまおる側女たちはみな、ただちに暇をとらせ、殿の声すらきいたことのない新たなおなごをかしずかさせまする」

「うむ、それがよかろう」いくら似ていても、まずは声のちがいから見破られることは必定とおもった。

また、いくら双子とはいえ、肌身をあわすとなれば、刀傷や身体の微細な相違に、かのじょらも気づくにちがいない。

「ただし、おひとりだけ問題の御仁がおられます。京極家の姫君、竜子さまにござりまする」

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