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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 覚醒のあとで

 覚醒のあとで

 日中、暑かった夏のなごりも、日が傾くにしたがいおさまっていくと、ボクはわれに返ったのだった。

で、長かった白昼夢からえた結論だが、それは、

人格が、なにか得体のしれない原因で激変した、のではなく、いいかえれば別人格の同一人物ではなく、“秀吉は二人いた!”である。

ならばこそ、別人格はとうぜん!となるのだ。

これにより、 ボクは総てにおいて納得がいった。

おかげで、十八年来の疑問が氷解したことに満足したのである。

ひとは突拍子もないはなしだと評するだろうが、ボク自身は歴史に照らしあわせ、まちがいないとの確信をもった。

朝鮮出兵も、飽くなき占領欲と残虐性がうずいたための衝動からだったと。仏教で説く阿修羅、闘争心にみちた境涯は、じぶんを尊大にみせる習性をもつという。

つまり豊臣秀吉は、巨大でひとびとから畏怖された存在だった“信長”を越えることで、その欲求をみたしたかったのだ。換言すれば、本地以上の偶像として、歴史に名をのこしたかったのではないか。

 小学六年生の夏、母があたえた課題。以来、ボクの人生に添うようにして悩ましつづけた、まるで宿命的な課題となった。まさに、人生の宿題であった。

その母。ボクが小六の夏、感情の起伏がはげしくなり、過激なもの言いをしたり、ふさぎこんだりしていたのは、子宮に腫瘍があることを検査でしったからだった。

ボクの人生のこれからに、がんばれとのエールと    示したかったのだ。

ボクがその事実をおしえてもらったのは、良性の腫瘍とわかったあとの、夏休みの最終日前々日であった。医者からの診断結果はお盆明けだったが、両親は正直に打ち明けるべきかどうか、二週間ちかく迷ったとのこと。

思春期初期の男の子に、子宮という部位は微妙だと、「母さんが拘泥したから」そう、父から後日談としてきいた。

いまも忘れることのない十一歳の夏休みの終末とはいえ、元気であかるい本来の母をとり戻してくれた。そしてありがたいことに、いまも健在である。

さっそく、母に電話をいれたのだった、母が破顔するのを想像しながら。

でもって、健在といえば父もだ。

さて、で今日は、母にいわせるとおバカ父子の記念となった、2003年の九月十五日である。

夕刻に、相好を崩しまくった父が、好物のスーパードライと剣菱をぶらさげて、わが家へいそいそとやってきたのだった。

この日、甲子園でのデイゲームで広島カープにサヨナラ勝ちをし、マジックをついに“1”としたわれらが星野タイガース。

今夜決まるだろうと、十八年間も口をあけて待ちつづけたリーグ優勝を信じ、その瞬間をともに祝い、喜びをわかちあいたいと、宙に浮くようにしてやってきたのだ。

そしてボクはまさに、父来訪の直前、宿題を、ようやくやり遂げた達成感と爽快な気分にひたっていたところだった。

家康が実感した、重い荷をせおって坂道をあゆんできたような人生から、これで訣別できるのだ。十八年かかって、やっと身軽になれた今宵、である。

それにしても、不思議な縁(えにし)だ。母が提示した宿題は、わがタイガースが日本一になった年に、であった。

その宿題をといた昼こそ、ながく待たされた、タイガースが優勝を遂げるにちがいない日だからだ。

祝杯として、ひとりで、よ~く冷えたスーパードライを飲むつもりでいた。

 しかしはからずも、父と注(さ)しつ注されつ、二重の喜びにどっぷりと浸れそうだ。

“夢のまた夢”とばかりの、心地よい酔いに、こよい。

                  完

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(3)

両者において、兵力だけでなく経済力においても、天地ほどの差がひらいてしまっていたのである。

とどのつまり、家臣一同とあわせても二百五十万石にすぎない家康が天下をねらうことなど、諦めざるをえなくなったはずだ。

では、外征の動機を、病気説にもとめるというのはどうか。

失語や意識障害・痴呆をひき起こすことのおおい脳梅毒だが、ほかの症状、たとえば妄想や錯乱・意識混濁をおこしていたとしても、医学者によると、老人だけにその余命は、体力的にみて数カ月からながくても一年ていどだと。

よしんば、短期間に症状がかさなって出たとしても、はたしてあれほどの残虐性をもたらしたであろうか?

百どころか千歩ゆずって、妄想や錯乱などで人格が激変したとするならば、それは1591年二月、千利休に、(いまだ理由が判然としない)切腹を命じたころからであろう。

ただもんだいは、秀吉死去の七年半まえだということ。

これでは時期的にみて、説得力を欠くというものだ。そこでかりに、このときの精神状態は正常だったとしよう。

しかし、文禄の役は1592年四月、慶長の役開始は1597年二月。後者にのみ目をむけたとして、さらに戦の準備期間を計算にいれないとしても、1598年の八月死去の一年半まえのできごとだ。文禄の役となると、六年と四カ月も前のこと。

医学者の言をもちいるならば、もうおわかりであろう。

だから、もはや、これ以上の文字の羅列は不要としんじる。

いっぽう、脚気を死因とする学説もあるが、二度の外征の説明にはならない。脚気は心臓疾患であり、精神に異常をきたす可能性はきわめて低いことによる。

ならばとて、精神疾患をうたがう文献もたしかに存在している。失禁や狂乱の症状があったと、当時の宣教師の記録にあるからだ。だが、それも時期がもんだいで、残念というべきか、死の二カ月前のことなのである。

もちろん、脚気死因説を否定するものではないが。

ただまちがいのない事実として、賤ヶ岳の合戦までの秀吉の事績と、以後の残虐性を後世につたえる事跡と、それが同一人物のだとしたら隔絶しすぎているし、発病により妄想や錯乱などをおこしたとしても、時期がズレすぎているのである。

それでもあえて、一万歩ゆずって同一人物だったとしよう。

はて?…で、おもいつくのは唯一、

”ジキル博士とハイド氏”、つまり二重人格だった、との仮説である。

そこで必要となるのが科学的検証、つまり証拠である。とうぜんながら、おおきな病気なのだから、なんらかの症状がでていなければならない。

具体的には、パニック障害や統合失調症などの症状がだ。

しかしながら、それほどに顕著な病状があったとする文献はみあたらないのである。失禁や狂乱の症状があったとの文献だが、それはしょせん、死去の二カ月前のものでしかない。

結論をいそぐようだが、“二重人格”は単なるおもいつきだ、としかいいようがないのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(2)

移封された大名は、歴史的にみて、そのほとんどが一・二年は苦労をさせられている。動乱の世をおえた江戸期ですらそうであった。まして戦国時代、さらには百五十万石という巨大所帯の大移動であり、当初はあらたに検地も必要となった。

それよりなにより、縁もゆかりもない関東の領民にとってはよそ者でしかないのだ。そのうえで、いまだ北条氏の残党がのこっており、不穏なうごきをみせていた。

人心をまだ掴めていないということは、攻めこまれたときに、領民が味方になってくれる可能性はひくいことを意味するのだ。

つまり、豊臣家にとってまさに千載一遇の、願ってもないチャンスが到来したのである。この機に、因縁をつけてでも攻めていれば徳川家を滅亡させることは難しくなかったはずだ。

なのにしなかった。小牧・長久手の戦いの敗北で、家康に臆したのか。影武者に、機をみるそこまでの才がなかったからなのか。

もし臆したのだとしてもだ、後継者として指名した実子鶴松(秀頼の兄。三歳で病没するが、家康の関東移封直後は存命)のためには、やはり後顧の憂いは排しておくべきだったのではないか。

執拗ではあるが、機をみるに敏な本物の秀吉ならば、肉親への情にはとくにあついだけに、そうしたと確信する。

 秀吉が老いたからと反論するひとは、二度の朝鮮出兵を説明できない。

でもって、もうひとつの疑義。

知略においても群をぬく秀吉が、なにを血迷ったか、外征にうって出たのもしんじられない愚行である。

天下統一後の閉塞感打破のための遠征との説や脳梅毒の弊害説もあるが、あまり信をおけない。

なぜなら、外征などせずとも、秀吉が発令した惣無事令(1587年十二月の私戦禁止令)を無視し、戦をおこした罪状のある伊達政宗や、土佐一国に押しこめるにあたり一度は戦となった長宗我部家などを次々と平定(家康はあとまわしにしたとしても)していけば、身内だけでなく譜代・外様をもとわず、家臣たちの領土を拡大できたはずだから、である。

そうなれば、家臣団の閉塞感をかんたんに打破できたであろう。また、秀吉自身も直轄領を、二百二十万石超から三百万石以上に拡張することも可能であった。

そうでなくてもすでに豊臣家は、金山・銀山・海外交易など、金のなる木を有していたのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(1)

   今夜は、最高の宵・良い・酔い

 白日夢のおかげで、小学生時からの疑義にようやく、満足のいく解答をえることができたのだった。

 秀吉は、豹変したのではなかった。戦国期にあって、できるかぎりの流血を避けてきた羽柴秀吉と、残虐を平然となした豊臣秀吉は、双子とはいえ、まったくの別人だったのだと。

 くわえての、ボクが学生とよばれる身分になったころにうまれた疑念も、これで解消できたのだった。その疑心…、

 ひとつは、自身亡きあとに天下をねらうであろう徳川家を、暴君はどうして滅ぼしておかなかったのかというナゾ。

もうひとつはなぜ、渡海してまで不要な戦乱を二度もおこし、大量殺戮をくりかえしたのかということだった。

羽柴秀吉は、野戦においてもけっして戦下手ではなかった。その証拠が、山崎の合戦と賤ヶ岳の合戦における勝利である。

前者はいわずとしれた、信長が称賛したほどの戦上手の明智光秀が敵であった。じじつ、光秀のおかげで、丹波や丹後方面での信長の版図は拡大している。

後者においても、強敵上杉家に対抗できると、信長が確信してあたらせたほどの戦巧者の柴田勝家があいてであった。幾多の武勇から、鬼柴田の異名をとっている。

たしかに、1584年の三月から十一月にかけ、秀吉と家康は一度だけ戦火をまじえている。既述の、小牧・長久手の戦いがそれだ。

本来ならば、十万対三万(どちらも最大にみつもっての推定)という数倍の兵力を有していたのだから、この戦において秀吉が勝利していてもおかしくない。

だがあきらかに、(戦略上の勝敗云々は意見がわかれるとしても)戦闘自体は敗戦の憂き目にあい、なだたる家臣たちをうしなっている。一言でいえば戦術のミスである。というよりも、この戦そのものが、やらずもがなであった。

賤ヶ岳の合戦では味方にひきいれた信長の次男・信雄(かつ)を、戦勝から八カ月後の翌年頭、つまらないことで怒らせ、それが因となり、戦端をひらくことになったからだ。

その信雄だが、信長のDNAを受けついでいないのではないかと疑いたくなるほど、暗愚でしられている。

しかしこのていどの人物を制御できなかったのだから、羽柴秀吉らしくもないと言わざるをえない。

さらにらしくないのが、両合戦での敗北である。

人誑しの術をつかって、たとえば事前に、雑賀衆と根来衆のうごきをとめておくべきだったとおもう。

かれらは、数千丁の鉄砲を所有する有数の、独立した武装集団であり、信長でさえ手こずったほどなのだ。

かれらにたいし、懐柔の天才ならば、すくなくとも敵にまわさないくらいならできたであろう。ところが有効な手をうつことなく、おかげで秀吉は着陣をおくらされたのだ。

孫子に、“後(おく)れて戦地に処(お)りて戦いに趨(おもむ)く者は労す”とあるとおりで、名将にあるまじき愚行である。苦戦をしいられた原因のおおいなるは、これと慢心にあったとみていい。信雄は凡庸であり、味方は数倍の兵力だと。

で味方の将兵は、総大将の言動をつぶさにみているのだ。やはり影武者の、秀吉のこの体たらくでは、士気があがるはずもなかった。

また、本戦にはいっても信じられない負けかたをしているのだ。その典型が、信長直参の大名だった池田恒興献策によるといわれる、二万の兵による奇襲作戦である。

奇襲というのはほんらい、少人数だからこそ敵には気づかれずに実行でき、よって有効なのである。すくなくとも、桶狭間の合戦のときの信長軍のように、豪雨に乗じるなどの煙幕の役割をはたすものが必要であった。

にもかかわらず、なんの策もなく大軍をうごかしたのである。また、陽動作戦をとった節すらない。敵方はとうぜん気づいた。ましてや、野戦を得意とする家康である。

けっか秀吉軍は、副将級の池田恒興と森長可などが討たれるなど、大敗したのだった。ところでこの奇襲策、じつは、秀吉によるとの説こそ信憑性がたかいとのことだ。

やはり、である。白日夢をみるその本因は、ここにあった。くどいが、本物の秀吉が、こんな愚策を実行したとはかんがえにくいからだ。

さらにこの両合戦のあとも、秀吉には、家康を討つチャンスはあった。1590年の関東移封直後である。

家康が出生地の三河を拠点に、みずからの手で切りとっていった計五カ国を、秀吉の命で手放さざるをえなかった。必然だが、家康につき従う強力な三河家臣団も、父祖伝来のかれらの地盤をうしなったのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(89)

とここで、あまりにも長い白昼夢ではあったが、この段階にいたり、ようやく醒めたのだった。

秀吉豹変のナゾ解明ではじまった白日夢だったが、それにしてもおもわぬ展開となってしまった。

歴史小説を、曲がりなりにも著わしてきた、それまでに貯めたつたない知識が、手前味噌と増上慢(このうえない慢心)をゆるしてもらうなら、横溢したけっかであろう。

むろん歴史家たちからみれば、噴飯ものの浅識だと承知している。

まあ、しょせんは素人とやり過ごしてもらうとして、それにしても、いかにもボクらしいとおもった。

影武者秀吉から関ヶ原の合戦その前後へと、はなしが勝手に横道にそれたことが、である。

意識がしっかりしていてもやらかすのだから、まして意識のおぼろげな白昼夢のなかでは、脱線もいたしかたないことだと。

ところで、秀吉に影武者がいたとしても、夢心地のなかとはいえ、なんの違和感ももたなかった。

なぜなら、鎌倉幕府滅亡のキーマンである後醍醐天皇や家康をはじめ、幕末の将軍家茂の正室だった皇女和宮や明治天皇にもいたとされるほどだからだ。ほか、ヒトラー、スターリン、金日正、サダム・フセインなど、独裁者におおい。暗殺をおそれるためだろう。

これらを題材にした出版物もすくなくない。なかでも、有吉佐和子の小説“和宮様御留”は有名である。

そしてまた、歴史上の人物の子にも双生児が…。たとえば天皇家にも存在したようだし、家康ももうけている。クレオパトラ七世とアントニウス(カエサルの後継者)の子もツインズだ。伝説の、ローマ建国の祖もそういえば双子である。

さして珍しくはないというわけだ。

さて、われに返ったボクは…

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(88)

ここでちょっと逸れて、一般論を。

いわく、ほしいものを入手した手合いは、つぎなる手として、おもいつく手法をつかいつつ手放すまじと、場合によっては手荒な手段にもでる。

でもって、手練(だ)れの家康なればこそ、この方程式の例外ではなかったと。

つまるところ、自家継続のための手立てとして、いかにも乱世的でしかも疑惑をのこそうとも、より良さげな手堅い策をとったのである。

戦という最悪にはしないための安全策として、だから家康にとってはそのやり口、必然だったといえるのではないか。

そうとなれば事後についても、一手先を思慮しなければならない。むろんのこと、浅野家や池田家らがどう出るかである。

だが家康が見立てたけっか、結論はすぐにでたのだった。

あとを継ぐ者たちだが、徳川の色に染まりきっているから心配はないと。そのへんの計算も、けっかとして思惑どおりとなるから、手練にぬかりはなかったということだ。

ならばこそ一層である、これらの変死についてだが、たんなる偶然だとして、看過していいのだろうか?となる。くどいが家康は、漢方薬に精通しているのだ。

これは家康の死後ではあるが、福島正則も改易となり、かれ自身は出家し、福島家は五十万石から最後には三千石の旗本に格下げされた。ほか、豊臣恩顧でありながらも家康に与した最上義光と田中吉政の家も、大坂夏の陣ののち、改易されている。

 ともかくも徳川家としては、豊臣家との縁(えにし)がとくにつよかったこれらの不穏分子(徳川にとって禍となる可能性のある連中)の排除こそが、幕府安泰の早道とかんがえた。

そんな憶測、あくまでも憶測にすぎないが、これが事実だったのではないか。

で、このような歴史の、その正体だが、それこそ虚と実、権力者が都合にあわせて添削したそのあとの残り、極論をいえば残滓だと、ボクはそうみている。

これももしのはなしで恐縮だが、ヒトラーの世界征服が実現していれば、ホロコーストなど存在しなかったことになる。

極悪独裁者が、改ざん、いな捏造をしないはずなかったからだ。

たしかにそうなのだが、だからといって歴史をうのみにできないからと、憶測をこえての自分手前勝手で軽々な断定、上記のばあいでいえばすべては事実で、しかも徳川幕府の利のためだった、とまでするには、確証がない以上、やはりむずかしい、となる。

後世の水戸家の自供的文献(既述)があるとはいえ、これを確証だとするのは相当にムリがあり、ほかにそれらしい史料のない状況下での断定は、いくらなんでも、だ。

じじつ、各自の変死やそれぞれの改易を、史家のあいだでは基本、個別のできごととしてとらえられており、おおむね関連づけようとはしていないし、まあ、これが実態である。

そんななか、だとしても心証的にはやはり、クロにちかいとする疑惑は、これを消し去ることなどできないであろうとボクは。

いささか一貫性にかける主張のようではあるが、客観的視点にたてば、やはり疑惑でしかなく、どうあがこうとも、断定にまでもっていけるはずもない。

それでもおもうに負け惜しみではなく、家康の暗躍があったとの見たて、あえて、見当ちがいとはいえないであろうと。

清正と幸長の暗殺云々…すくなくともこの二件はあっただろうし、改易ともふかい関連があったとおもえる、…のだが。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(87)

協力者ならば、後年における清正毒殺のときより見つけやすいはず。平岡頼勝などの家臣たちがいるからだ。鷹狩りのさなかの急変も、休憩時に服毒させたのならば合点がいくし、そばで仕える重臣ならばこそ、毒の混入も造作なきことであったろう。

その毒だが自然界由来にちがいなく、また比較的採取しやすい、おそらくはトリカブトの根からえた猛毒だったのではないかと推察できる。

ヒ素よりも即効性がある点、および、トリカブト毒による病変と肝疾患を因としその死亡にいたるまでの症状とが、似ている部分もあるからだ。もちろん肝疾患は、長期間にわたるのだが。

で、奇怪といえる裏切りの理由や、家康に動機あり等の秀秋の夭折(若死に)については、以上にて。

くわえることの、既述の清正の変死、だけでなく、

さらなる言いたき大事なことが。それは、この二人だけとはかぎらない、変死?についてである。忌憚なくいえば、暗殺という疑惑をのこす死亡が、すくなからずということだ。

推理小説によくある、欲がさらに欲を増幅させ、目的成就のために邪魔者や敵を一掃していく、そんなタイプの連続殺人に、どうしてもおもえるのだ…。

なぜなら、以下は絵空事にあらず。史実として、同時代の大名における怪しげな死が数例あるからだ。

豊臣家殲滅のために家康が仕掛けた大坂冬の陣の前年、まだ三十八歳だった浅野幸長が、清正とおなじ症状で死亡している史実。

文禄の役当時、清正もだが、朝鮮半島で感染したのだろうとの憶測がなされる梅毒説なら、たしかに承知している。だが、感染から死亡にいたるまでの期間は、十年から数十年だという。また発症もだが症状自体にも個人差がでる。なのにふたりには、わずか二年の誤差しかないのだ。

逆にかんがえてみよう。参陣した武将はあまた。

なのに梅毒を因とする死亡は、このふたり以外に、基本的にはそれなりの信憑性をもつ説はない。

いやいや黒田官兵衛は…?かれについては、俗説ていどとして一蹴できるし、池田輝政にたいする説は、江戸初期の”当代記”が依処だから、幕府のご都合にかんがみ、当てにはできないのだ。暗殺説の流布は、さすがによろしくないのだから。

さあそこで清正についてだが、梅毒患者の体表にでる“バラ疹”がみられなかったようだ。また幸長はというと、それに関する記述をみつけることはできなかった。バラ疹なんぞ、存在しなかったからではないか。

いずれにしろ不可思議であり、ならば梅毒説は不自然だ、としかいいようがないことに。

輝政とおなじように、江戸期になってから、梅毒説を流布させた形跡があり、よって、梅毒説はどうしてもあと付けに聞こえ、…疑問符がつくのだ。

さらにだが、幸長も清正と同様、豊臣秀頼と家康の和解のための会見をとりもった大名である。ついで、偶然にしてはだが、幸長の父長政(秀吉の身内的存在。本能寺の変以降に与力から家臣になった豊臣恩顧の大名。長命で享年六十三歳?)も大坂冬の陣の三年前に。

さらには、秀頼と家康の会見に同席した池田輝政も、大坂冬の陣の前年に四十九歳で、急死している。

人間五十年といわれた時代だから、とくに“後者ふたりは適齢”との意見に、異をとなえるつもりはない。しかし、豊家の存続をねがっていた大名たちがこぞってなのだ。疑問をもつのも自然のことである。

たしかに、長政・幸長親子も清正や輝政も、家康に親近してはいた。

しかし家康からすれば、いずれは豊臣をつぶす戦をするのだ。とうぜんのことこの戦は、関が原で三成をたおした戦とは、色もにおいもまったく違うのである。

だから、かれらが味方ではなく、敵にまわる可能性をすてきれない、との疑心暗鬼をいだいたとしても不思議ではない。ならばうたがわしきは、消しておくにかぎると。

で、天下をうばいとった、そのあとの家康としては、秀吉の失敗を間近で見、さらには自身高齢だったせいもあり、いっそうの慎重居士ともなったであろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(86)

さて、では仕掛けた本人家康は、どうであったろうか。

そこで思い出してほしいのは、三万余の軍勢をひきいていた秀忠が戦に間にあわなかった史実。

ということは、小早川がうらぎらなければ、三成方の勝ちとなっていたであろうと家康すらも冷汗が…。

さすれば“よくぞ、わが方に加勢をしてくれた”と、手放しで喜んだ、であろうか?

 察するに、いなである。それどころか、

“所詮、かのこわっぱ(ひらたくいえばガキ)こそ最悪の裏切り者(恩を仇でかえした)”であり、ならば次もまた裏切るかもしれないと、家康はそう勘ぐったと。

老獪家康なればこそ、つらかった幼少期からの経験をへたすえの慎重居士らしく、それゆえの疑心をもったとしても不思議はない。

ところで三成もそうであったが、競るようにエサを秀秋の鼻先にぶら下げあった史実、そしてそんなやり口をたがいが想定しあっていたこと。

もし掛け値なしの正攻法での戦であったなら、緒戦では三成軍が優勢だったとする史料もあり、小早川がうらぎらなければ、様子見だった毛利・その家臣の安国寺恵瓊、また長宗我部ら、だけでなく夜襲の是非で意見が対立したとされる島津家ですら、勝ち馬にのった可能性もけっして低くない。

となれば戦況は、徳川方を呑みこんだであろう

傍証として記すが、明治期、ドイツ陸軍の参謀少佐(軍事顧問)が両布陣をみて、西軍の勝ちと断じたとの逸話ものこっている。

ところがだ、エサに食いつき果報をえたにもかかわらず、十九歳の愚か者は、今ごろになって自責にさいなまれ、もがき苦しんでいるのではないか?と家康は。

ならば、しでかした事態のおおきさに気づいた秀秋自身が、汚名返上のためにと反抗をくわだてるかもしれないとも。

ついで家康が恐れたのは”関ヶ原”直後から、秀秋にたいする非難が、味方からですらあったことだ。“恩を仇でかえすは”“武将として言語道断!”“恥を知れ!”などの陰口。

さらに辛辣なのは、“着陣しての裏切りは武門の恥“どころか、“人にあらず“の言。

いや、それだけではないと古ダヌキの忖度。しょせん血流は豊臣である、三成ぎらいで離坂したが、幼少期をすごした大坂城は恋しいであろうと。

であるならば、徳川にとっては毒そのもの。だからこそ毒をもって制すべしと、吞兵衛に毒酒をのませた、

…なんて可能性だってある、ということだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(85)

はなしを賢妻から愚甥(義理)の秀秋にもどすとして、かれの心裡だがあるいは、じぶんを天下人の後継者から引きずりおろした張本人こそ、まだ幼いとはいえ、憎き秀頼であると、ひそかに呪っていたのかもしれない。

復権など、もはやのぞめないのだからと。

ならば豊臣など不要だ、潰してしまえ!云々。案外、裏切りの根はここかもしれない。小人物かつ愚者なればこそ、の発想だ。

だがこの私説には、ざんねんながら依処は存在しない。

ただこの愚物は、岡山への国替えのさい、前領地であった筑前より多大な年貢を持ち去ったと…。大名というより盗人さながらで品格はゼロ、まさにごろつきの所業である。さらには酒乱・狼藉などの素行のワルさから導きだされた、帰結的といえる推察である。

取るにたらない輩が、ならばこその、じぶんの非を棚にあげ、他者への責めや逆恨みをするは、世の習いである。孫が恩をわすれ、祖父や祖母を殺害するなどの事件は、その例であろう。

でもっての、さらなる理由。これについては、“関ケ原”後のいくつかの結果から、断定してもいいとボクはおもう。

数人の家臣が、徳川方と内通していただけでなく、“裏切りのうま味”を秀秋にふきこんでもいた。おかげで論功行賞により青二才は九州北部の辺境から、ぐっと京にちかづける岡山城の主となれたではないか。

また、家臣にとってもうま味があった徳川との密約。状況証拠ではあるが、その存在を歴史がものがたっているのだ。無嗣が、大名家におよぼす危険性は、謙信後の上杉家を例にするまでもない。

そして二年が経過し取るにたらない事件が…。とは、愚物秀秋の突然死のことだ。せいで五十五万石は、はからずも無嗣による改易となったのだった。で、そののちの史実。

浪人となった家臣たちを、徳川家が厚遇したのである。これは見のがせない。だからそれを列挙すると、

稲葉正成と平岡頼勝は徳川家により、大名に取りたてられた。また、大名ではないが、堀田正吉と長崎元家も、数千石の知行をうけ御家再興をかなえられたのである。

これらから、密約は存在したとおしはかれよう。ちなみに稲葉正成にはべつの理由もあるが、それでも秀秋をそそのかし、徳川に利をもたらした“愛(う)い奴(やつ)”なのである。

ひとの世は、一瞬さきは闇だという。まして戦乱の時代に、ほかでもない、強大な徳川の家臣に取りたてられるという、破格の身の保証がなされたのだ。けだし、これいじょうの論功行賞はないであろう。

つまるところ俯瞰してみるに、秀秋の裏切りの理由は単純ではなく、伏線や仕掛けも複数あったのだ。そのすべてが事実だったとする証拠は、たしかにない!

 しかしながら、こんなふうに推量することも、歴史をふりかえりつつの、ひとつの興なのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(84)

紆余曲折としたが、

1577年の八月、似つかわしくもないが短慮から夫は、まさに軍紀違反をおこしてしまった。主君の命にしたがわなかったのだ。

とうぜんのことだが信長の逆鱗にふれ(太田牛一の信長公記による)、大げさではなしに、あすの命がしれぬという大ピンチに陥る。「謹慎のうえ、のちの沙汰を待て」と、そう使者がつげたのだ。

ふつうなら震え上がるのだが、そこは信長を知悉する秀吉。切り抜ける機転として、まさかの行動をとることにきめた。常人ならば妻として制止するのだろうが、侍女に命じつつそれにすすんで協力したのだ。そのかいがいしい姿が、見えるのである。

 具体的には、謀反など微塵もかんがえていないと示すために、秀吉は呑めや唄えのドンチャン騒ぎを演出したのだった。伝えきいた信長が、謹慎をゆるすか、ぎゃくに激怒するか、まさに命がけの賭けだったとボクは見る。とはいえ、信長の性格を見抜いていた秀吉とねねだったからの驚天動地ではある。

また、それよりまえのこと。たしか、長浜城主時代のころだったとおもうが、夫の浮気のひどさを信長に直訴したことがある。もし凡庸な女性であったならば、機嫌がいいときでも信長は無視したであろう。

どころかなんと、天下布武の朱印のついた、とは、たとえば家康にだすような公式のという価値をもつ、しかも心をこめた手紙をししためさせたのだ。ねねを慰撫し、秀吉をしかりつける、ねね全面勝訴の内容であった。

そんなねねなのだ。豊家を護るためには、「まず家康を討ちはたたせ、そのうえで三成を亡き者にすればよいではないか」と云々。そういえたはずだ。ならば、そんな渾身の訴えを、虎之助たちが聞き入れないともかんがえにくい。

ついでの以下の判断、断定はできないのだが、三成、大谷吉継との関係においては、けっして悪くなかったと見える。

 なぜなら、①三成の三女辰姫を秀吉の死後に養女とし、1610年には弘前藩主に嫁がせている。②ねねの側近に、大谷吉継の母がいる。③小西行長の母も、侍女として仕えていた。などなど。

こうしてみると、かのじょの人物像を知るに、一筋縄ではいかないようだ。

はたして、北政所の所存はどこにあったのだろうか?自分たち一代で築いた豊家ならば、みずから葬り去るのもよしと、諦観したのだろうか。

夫が、「大坂のことは夢のまた夢」と詠んだように…。

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