秀長は秀吉同様、百姓の子(こ)倅(せがれ)(正確な出自は不明)であった。

いっぽうの利家は、織田家譜代で城持ち武将前田利昌の子息である。とうぜん、故信長の直参(直属の家臣。命により現在、柴田勝家の与力をつとめてはいるが、勝家の家臣ではない)で、能登二十三万石を領有する大名である。その利家にたいし、

秀吉の舎弟とはいえ、しょせんは秀吉の家臣でしかなく、信長からみれば陪臣(かんたんにいえば、家臣の家臣)という立場の秀長なのだ。信長への単独の謁見を、基本ゆるされていない身分であった。

これを極端にたとえれば、主君にとっては路傍(みちばた)の石同然のかえりみられない存在、ということだ。石高も、利家の約半分の十二万石にすぎない。

 にもかかわらず、利家は下座(しもざ)にて、しかも土のうえで伏したのである。たとえ野戦場の敵陣とはいえ。平時であればありえないことだが、今はこうしなければならない状況であり、立場であった。

この戦のとちゅうにて降(くだ)るつもりだったとはいえ、旧友の秀吉にたいしてですら、内心、穏やかではなかったであろう。すでに大身の利家が平伏に値するのは、領地をあたえた主君の信長だけであったからだ。

まして、いまの相手は同僚の弟であり、格下でしかない。

このときのかれの苦衷と汚辱、いかばかりであったろうか?

しかし平身低頭の礼をつくすことからはじめなければ、到底、前田家の誠意をわかってはもらえないだろうと。いまは虚心坦隗(率直に肚をわるさま)、ただそれだけであった。

 利家は、「どうか、最後までわがはなしをお聞きくださりませ。そのうえでの処分をお決めいただきとう存じまする」と、頭(ず)をさげたまま述べた。

幾多の戦場でのはたらきから猛将と畏怖され、主君信長からも[肝に毛がはえておるわ]と称賛された利家が、これ以上はない礼を、はらっているのである。

 秀長は忖度すると、「又左衛門殿」“利家殿”とか官名とかでは呼称しなかった。敬意よりも、あえて親しみのある呼び名をつかったのである。

「わかり申した。いかなるお話であれ、口をさし挟まずおききいたす。まずは、おもてをあげられよ」穏やかな声でゆるやかにいった。かれの人となりがにじみ出ていた。

 もとより利家に、粉飾や虚偽を一切まじえるつもりはない。まずは有り体に、事態をつたえはじめたのだった。

あらためてではあったが、遣いの奥村よりも無残にすぎる詳細をきき、さすがの秀長も絶句したのである。しかし、約束は違(たが)えなかった。

「『なぜじゃ、なぜわしは射かけられたのじゃ?又左殿の指示によるものか?わしにはまだ、せねばならぬことがあるというに。無念じゃ…』虫の息のなか、これが最期のおことばでござった」

利家の双眼には涙が光っていた。赤貧(どん底の貧乏)時代からの友、みそやしょうゆの貸し借りをしあった家族ぐるみの親しさであり、莫逆(ばくぎゃく)の(たがいに気心がつうじあった真の)友をうしなった、悲愁の涙でもあった。

その、うしろにひかえていた長子は、父親のむせび声を今生、はじめて聞いたのだった。

そんな、おどろく嫡男を尻目に利家は、本丸の奥、城主の寝所にて手あつく菩提を弔うよう、城下の寺の住職に申しわたしていることもつけ加えた、死者の身分を、むろんつたえることなく。そのうえで寺のものすべてに、呼ばれたことすら他言無用と言いつけてあるとも。

 つづけて、わかい城兵が独断専行で射かけたこと、父親の仇としんじての所業であったむね、さらに、わが手では成敗せず「秀長殿が吟味できまするよう、捕えたままにして」いること、そのうえで「われら自体も、秀長殿の裁定に身をおまかせせんがためまいりました」とのべた。

で、秀長にじぶんたちの将来をまかせるとしたのには、じつは底意があった。取りはからいのしかたで、人品を観てやろうとの。

かたや、兄おもいの秀長ではあったが心中、死は戦場のならわしとて_…されど兄を討ったやつばらをできれば八つ裂きにて恨みをはらしたい…、ところなれど_それをすれば、自軍のうちに噂がたち、それがひとり歩きすることを恐れ、吟味すらあきらめることにしたのだった。