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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(89)

とここで、あまりにも長い白昼夢ではあったが、この段階にいたり、ようやく醒めたのだった。

秀吉豹変のナゾ解明ではじまった白日夢だったが、それにしてもおもわぬ展開となってしまった。

歴史小説を、曲がりなりにも著わしてきた、それまでに貯めたつたない知識が、手前味噌と増上慢(このうえない慢心)をゆるしてもらうなら、横溢したけっかであろう。

むろん歴史家たちからみれば、噴飯ものの浅識だと承知している。

まあ、しょせんは素人とやり過ごしてもらうとして、それにしても、いかにもボクらしいとおもった。

影武者秀吉から関ヶ原の合戦その前後へと、はなしが勝手に横道にそれたことが、である。

意識がしっかりしていてもやらかすのだから、まして意識のおぼろげな白昼夢のなかでは、脱線もいたしかたないことだと。

ところで、秀吉に影武者がいたとしても、夢心地のなかとはいえ、なんの違和感ももたなかった。

なぜなら、鎌倉幕府滅亡のキーマンである後醍醐天皇や家康をはじめ、幕末の将軍家茂の正室だった皇女和宮や明治天皇にもいたとされるほどだからだ。ほか、ヒトラー、スターリン、金日正、サダム・フセインなど、独裁者におおい。暗殺をおそれるためだろう。

これらを題材にした出版物もすくなくない。なかでも、有吉佐和子の小説“和宮様御留”は有名である。

そしてまた、歴史上の人物の子にも双生児が…。たとえば天皇家にも存在したようだし、家康ももうけている。クレオパトラ七世とアントニウス(カエサルの後継者)の子もツインズだ。伝説の、ローマ建国の祖もそういえば双子である。

さして珍しくはないというわけだ。

さて、われに返ったボクは…

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(88)

ここでちょっと逸れて、一般論を。

いわく、ほしいものを入手した手合いは、つぎなる手として、おもいつく手法をつかいつつ手放すまじと、場合によっては手荒な手段にもでる。

でもって、手練(だ)れの家康なればこそ、この方程式の例外ではなかったと。

つまるところ、自家継続のための手立てとして、いかにも乱世的でしかも疑惑をのこそうとも、より良さげな手堅い策をとったのである。

戦という最悪にはしないための安全策として、だから家康にとってはそのやり口、必然だったといえるのではないか。

そうとなれば事後についても、一手先を思慮しなければならない。むろんのこと、浅野家や池田家らがどう出るかである。

だが家康が見立てたけっか、結論はすぐにでたのだった。

あとを継ぐ者たちだが、徳川の色に染まりきっているから心配はないと。そのへんの計算も、けっかとして思惑どおりとなるから、手練にぬかりはなかったということだ。

ならばこそ一層である、これらの変死についてだが、たんなる偶然だとして、看過していいのだろうか?となる。くどいが家康は、漢方薬に精通しているのだ。

これは家康の死後ではあるが、福島正則も改易となり、かれ自身は出家し、福島家は五十万石から最後には三千石の旗本に格下げされた。ほか、豊臣恩顧でありながらも家康に与した最上義光と田中吉政の家も、大坂夏の陣ののち、改易されている。

 ともかくも徳川家としては、豊臣家との縁(えにし)がとくにつよかったこれらの不穏分子(徳川にとって禍となる可能性のある連中)の排除こそが、幕府安泰の早道とかんがえた。

そんな憶測、あくまでも憶測にすぎないが、これが事実だったのではないか。

で、このような歴史の、その正体だが、それこそ虚と実、権力者が都合にあわせて添削したそのあとの残り、極論をいえば残滓だと、ボクはそうみている。

これももしのはなしで恐縮だが、ヒトラーの世界征服が実現していれば、ホロコーストなど存在しなかったことになる。

極悪独裁者が、改ざん、いな捏造をしないはずなかったからだ。

たしかにそうなのだが、だからといって歴史をうのみにできないからと、憶測をこえての自分手前勝手で軽々な断定、上記のばあいでいえばすべては事実で、しかも徳川幕府の利のためだった、とまでするには、確証がない以上、やはりむずかしい、となる。

後世の水戸家の自供的文献(既述)があるとはいえ、これを確証だとするのは相当にムリがあり、ほかにそれらしい史料のない状況下での断定は、いくらなんでも、だ。

じじつ、各自の変死やそれぞれの改易を、史家のあいだでは基本、個別のできごととしてとらえられており、おおむね関連づけようとはしていないし、まあ、これが実態である。

そんななか、だとしても心証的にはやはり、クロにちかいとする疑惑は、これを消し去ることなどできないであろうとボクは。

いささか一貫性にかける主張のようではあるが、客観的視点にたてば、やはり疑惑でしかなく、どうあがこうとも、断定にまでもっていけるはずもない。

それでもおもうに負け惜しみではなく、家康の暗躍があったとの見たて、あえて、見当ちがいとはいえないであろうと。

清正と幸長の暗殺云々…すくなくともこの二件はあっただろうし、改易ともふかい関連があったとおもえる、…のだが。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(87)

協力者ならば、後年における清正毒殺のときより見つけやすいはず。平岡頼勝などの家臣たちがいるからだ。鷹狩りのさなかの急変も、休憩時に服毒させたのならば合点がいくし、そばで仕える重臣ならばこそ、毒の混入も造作なきことであったろう。

その毒だが自然界由来にちがいなく、また比較的採取しやすい、おそらくはトリカブトの根からえた猛毒だったのではないかと推察できる。

ヒ素よりも即効性がある点、および、トリカブト毒による病変と肝疾患を因としその死亡にいたるまでの症状とが、似ている部分もあるからだ。もちろん肝疾患は、長期間にわたるのだが。

で、奇怪といえる裏切りの理由や、家康に動機あり等の秀秋の夭折(若死に)については、以上にて。

くわえることの、既述の清正の変死、だけでなく、

さらなる言いたき大事なことが。それは、この二人だけとはかぎらない、変死?についてである。忌憚なくいえば、暗殺という疑惑をのこす死亡が、すくなからずということだ。

推理小説によくある、欲がさらに欲を増幅させ、目的成就のために邪魔者や敵を一掃していく、そんなタイプの連続殺人に、どうしてもおもえるのだ…。

なぜなら、以下は絵空事にあらず。史実として、同時代の大名における怪しげな死が数例あるからだ。

豊臣家殲滅のために家康が仕掛けた大坂冬の陣の前年、まだ三十八歳だった浅野幸長が、清正とおなじ症状で死亡している史実。

文禄の役当時、清正もだが、朝鮮半島で感染したのだろうとの憶測がなされる梅毒説なら、たしかに承知している。だが、感染から死亡にいたるまでの期間は、十年から数十年だという。また発症もだが症状自体にも個人差がでる。なのにふたりには、わずか二年の誤差しかないのだ。

逆にかんがえてみよう。参陣した武将はあまた。

なのに梅毒を因とする死亡は、このふたり以外に、基本的にはそれなりの信憑性をもつ説はない。

いやいや黒田官兵衛は…?かれについては、俗説ていどとして一蹴できるし、池田輝政にたいする説は、江戸初期の”当代記”が依処だから、幕府のご都合にかんがみ、当てにはできないのだ。暗殺説の流布は、さすがによろしくないのだから。

さあそこで清正についてだが、梅毒患者の体表にでる“バラ疹”がみられなかったようだ。また幸長はというと、それに関する記述をみつけることはできなかった。バラ疹なんぞ、存在しなかったからではないか。

いずれにしろ不可思議であり、ならば梅毒説は不自然だ、としかいいようがないことに。

輝政とおなじように、江戸期になってから、梅毒説を流布させた形跡があり、よって、梅毒説はどうしてもあと付けに聞こえ、…疑問符がつくのだ。

さらにだが、幸長も清正と同様、豊臣秀頼と家康の和解のための会見をとりもった大名である。ついで、偶然にしてはだが、幸長の父長政(秀吉の身内的存在。本能寺の変以降に与力から家臣になった豊臣恩顧の大名。長命で享年六十三歳?)も大坂冬の陣の三年前に。

さらには、秀頼と家康の会見に同席した池田輝政も、大坂冬の陣の前年に四十九歳で、急死している。

人間五十年といわれた時代だから、とくに“後者ふたりは適齢”との意見に、異をとなえるつもりはない。しかし、豊家の存続をねがっていた大名たちがこぞってなのだ。疑問をもつのも自然のことである。

たしかに、長政・幸長親子も清正や輝政も、家康に親近してはいた。

しかし家康からすれば、いずれは豊臣をつぶす戦をするのだ。とうぜんのことこの戦は、関が原で三成をたおした戦とは、色もにおいもまったく違うのである。

だから、かれらが味方ではなく、敵にまわる可能性をすてきれない、との疑心暗鬼をいだいたとしても不思議ではない。ならばうたがわしきは、消しておくにかぎると。

で、天下をうばいとった、そのあとの家康としては、秀吉の失敗を間近で見、さらには自身高齢だったせいもあり、いっそうの慎重居士ともなったであろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(86)

さて、では仕掛けた本人家康は、どうであったろうか。

そこで思い出してほしいのは、三万余の軍勢をひきいていた秀忠が戦に間にあわなかった史実。

ということは、小早川がうらぎらなければ、三成方の勝ちとなっていたであろうと家康すらも冷汗が…。

さすれば“よくぞ、わが方に加勢をしてくれた”と、手放しで喜んだ、であろうか?

 察するに、いなである。それどころか、

“所詮、かのこわっぱ(ひらたくいえばガキ)こそ最悪の裏切り者(恩を仇でかえした)”であり、ならば次もまた裏切るかもしれないと、家康はそう勘ぐったと。

老獪家康なればこそ、つらかった幼少期からの経験をへたすえの慎重居士らしく、それゆえの疑心をもったとしても不思議はない。

ところで三成もそうであったが、競るようにエサを秀秋の鼻先にぶら下げあった史実、そしてそんなやり口をたがいが想定しあっていたこと。

もし掛け値なしの正攻法での戦であったなら、緒戦では三成軍が優勢だったとする史料もあり、小早川がうらぎらなければ、様子見だった毛利・その家臣の安国寺恵瓊、また長宗我部ら、だけでなく夜襲の是非で意見が対立したとされる島津家ですら、勝ち馬にのった可能性もけっして低くない。

となれば戦況は、徳川方を呑みこんだであろう

傍証として記すが、明治期、ドイツ陸軍の参謀少佐(軍事顧問)が両布陣をみて、西軍の勝ちと断じたとの逸話ものこっている。

ところがだ、エサに食いつき果報をえたにもかかわらず、十九歳の愚か者は、今ごろになって自責にさいなまれ、もがき苦しんでいるのではないか?と家康は。

ならば、しでかした事態のおおきさに気づいた秀秋自身が、汚名返上のためにと反抗をくわだてるかもしれないとも。

ついで家康が恐れたのは”関ヶ原”直後から、秀秋にたいする非難が、味方からですらあったことだ。“恩を仇でかえすは”“武将として言語道断!”“恥を知れ!”などの陰口。

さらに辛辣なのは、“着陣しての裏切りは武門の恥“どころか、“人にあらず“の言。

いや、それだけではないと古ダヌキの忖度。しょせん血流は豊臣である、三成ぎらいで離坂したが、幼少期をすごした大坂城は恋しいであろうと。

であるならば、徳川にとっては毒そのもの。だからこそ毒をもって制すべしと、吞兵衛に毒酒をのませた、

…なんて可能性だってある、ということだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(85)

はなしを賢妻から愚甥(義理)の秀秋にもどすとして、かれの心裡だがあるいは、じぶんを天下人の後継者から引きずりおろした張本人こそ、まだ幼いとはいえ、憎き秀頼であると、ひそかに呪っていたのかもしれない。

復権など、もはやのぞめないのだからと。

ならば豊臣など不要だ、潰してしまえ!云々。案外、裏切りの根はここかもしれない。小人物かつ愚者なればこそ、の発想だ。

だがこの私説には、ざんねんながら依処は存在しない。

ただこの愚物は、岡山への国替えのさい、前領地であった筑前より多大な年貢を持ち去ったと…。大名というより盗人さながらで品格はゼロ、まさにごろつきの所業である。さらには酒乱・狼藉などの素行のワルさから導きだされた、帰結的といえる推察である。

取るにたらない輩が、ならばこその、じぶんの非を棚にあげ、他者への責めや逆恨みをするは、世の習いである。孫が恩をわすれ、祖父や祖母を殺害するなどの事件は、その例であろう。

でもっての、さらなる理由。これについては、“関ケ原”後のいくつかの結果から、断定してもいいとボクはおもう。

数人の家臣が、徳川方と内通していただけでなく、“裏切りのうま味”を秀秋にふきこんでもいた。おかげで論功行賞により青二才は九州北部の辺境から、ぐっと京にちかづける岡山城の主となれたではないか。

また、家臣にとってもうま味があった徳川との密約。状況証拠ではあるが、その存在を歴史がものがたっているのだ。無嗣が、大名家におよぼす危険性は、謙信後の上杉家を例にするまでもない。

そして二年が経過し取るにたらない事件が…。とは、愚物秀秋の突然死のことだ。せいで五十五万石は、はからずも無嗣による改易となったのだった。で、そののちの史実。

浪人となった家臣たちを、徳川家が厚遇したのである。これは見のがせない。だからそれを列挙すると、

稲葉正成と平岡頼勝は徳川家により、大名に取りたてられた。また、大名ではないが、堀田正吉と長崎元家も、数千石の知行をうけ御家再興をかなえられたのである。

これらから、密約は存在したとおしはかれよう。ちなみに稲葉正成にはべつの理由もあるが、それでも秀秋をそそのかし、徳川に利をもたらした“愛(う)い奴(やつ)”なのである。

ひとの世は、一瞬さきは闇だという。まして戦乱の時代に、ほかでもない、強大な徳川の家臣に取りたてられるという、破格の身の保証がなされたのだ。けだし、これいじょうの論功行賞はないであろう。

つまるところ俯瞰してみるに、秀秋の裏切りの理由は単純ではなく、伏線や仕掛けも複数あったのだ。そのすべてが事実だったとする証拠は、たしかにない!

 しかしながら、こんなふうに推量することも、歴史をふりかえりつつの、ひとつの興なのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(84)

紆余曲折としたが、

1577年の八月、似つかわしくもないが短慮から夫は、まさに軍紀違反をおこしてしまった。主君の命にしたがわなかったのだ。

とうぜんのことだが信長の逆鱗にふれ(太田牛一の信長公記による)、大げさではなしに、あすの命がしれぬという大ピンチに陥る。「謹慎のうえ、のちの沙汰を待て」と、そう使者がつげたのだ。

ふつうなら震え上がるのだが、そこは信長を知悉する秀吉。切り抜ける機転として、まさかの行動をとることにきめた。常人ならば妻として制止するのだろうが、侍女に命じつつそれにすすんで協力したのだ。そのかいがいしい姿が、見えるのである。

 具体的には、謀反など微塵もかんがえていないと示すために、秀吉は呑めや唄えのドンチャン騒ぎを演出したのだった。伝えきいた信長が、謹慎をゆるすか、ぎゃくに激怒するか、まさに命がけの賭けだったとボクは見る。とはいえ、信長の性格を見抜いていた秀吉とねねだったからの驚天動地ではある。

また、それよりまえのこと。たしか、長浜城主時代のころだったとおもうが、夫の浮気のひどさを信長に直訴したことがある。もし凡庸な女性であったならば、機嫌がいいときでも信長は無視したであろう。

どころかなんと、天下布武の朱印のついた、とは、たとえば家康にだすような公式のという価値をもつ、しかも心をこめた手紙をししためさせたのだ。ねねを慰撫し、秀吉をしかりつける、ねね全面勝訴の内容であった。

そんなねねなのだ。豊家を護るためには、「まず家康を討ちはたたせ、そのうえで三成を亡き者にすればよいではないか」と云々。そういえたはずだ。ならば、そんな渾身の訴えを、虎之助たちが聞き入れないともかんがえにくい。

ついでの以下の判断、断定はできないのだが、三成、大谷吉継との関係においては、けっして悪くなかったと見える。

 なぜなら、①三成の三女辰姫を秀吉の死後に養女とし、1610年には弘前藩主に嫁がせている。②ねねの側近に、大谷吉継の母がいる。③小西行長の母も、侍女として仕えていた。などなど。

こうしてみると、かのじょの人物像を知るに、一筋縄ではいかないようだ。

はたして、北政所の所存はどこにあったのだろうか?自分たち一代で築いた豊家ならば、みずから葬り去るのもよしと、諦観したのだろうか。

夫が、「大坂のことは夢のまた夢」と詠んだように…。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(83)

察せられるはまず、豊臣の主秀吉と豊臣至上主義者の三成への、遺恨なればこそと。もしそうならば忘恩であり、かつ意趣返しにいたっては、幼稚そのものとしかいいようがないが。

さらには、叔母であり育ての母でもあるねね(高台院)が、糟糠の妻として藤吉郎時代からともに苦労して造りあげてきた豊家。それを掠(かす)めつつ牛耳った淀(茶々、信長のめいにあたる)をゆるせず、金吾(秀秋の官職名)や虎之助(清正の幼名)、市松(正則)たち子飼いの武将にむけ、「家康殿にお味方するべし」とそそのかしたため、との説も…。通説として、有名である。

なるほど、単なる説にすぎない。だが大作家である司馬遼太郎が、これを拠(よ)るべに執筆をしている。だからではないが、ありえない暴説だと、無視まではできないだろう。

ちなみに、家康に親近してはいなかったとする異説もむろんある。それは一次史料(当事者がその時々にしるした文書など。ただし、かならずしも信頼性と直結はしないが)とされる“梵舜日記”、および関ヶ原前後の、高台院とその側近の言動にも拠るのだが、詳細は、長くなるので省く。

ただしこの説に拠ると、淀との確執はなかったらしいとなる。

さて、北政所と淀が不仲だったのかそうではなかったのかだが、どちらともとれると言っておこう。ふたりの関係性をしめす信頼にたる文献を、みつけることが困難だからである。

どちらのばあいであれ、武闘派武将らを幼少のころより親身以上に育てていたねねを冷遇すれば、徳川のほうこそ血まみれになるであろうと、家康はかんがえたに違いない。

また、高台院と徳川との関係だが、いぜんは人質の立場として大坂城にて居住した秀忠を、北政所は手厚く遇していた。過去のそんな恩義に報いるため、二代目は物心両面で大切にあつかっている。

ちなみにだが、信長からの厚遇をうけた宣教師ルイス・フロイスは日本史のなかで、「依頼したことに応じてくれる北政所」だとして、“女王”としるしている。だとしても、秀吉存命までの権力であったとみるべきだろうが。

いずれにしろ問題なのは、秀吉没後の、正室と側室の関係性としたが、豊家にとってそれ以上に問題なのは、豊臣を、高台院が死ぬ気で護ろうとまではしていないさまだ。ボクには、そうとしか見えない。

「自分の目の黒いうちはなんとしてでも」との執念があれば、清正や正則などの子飼いにたいし、徳川に加担しないよう必死で説いたであろう。

「嫌悪する三成側に付きなさいはムリ」と承知しているが、しかしせめて、「天下分け目の戦が傍観しなさい」と説得することはできたはず。

それとも家康の、この美学のかけらもない古ダヌキの魂胆が見えなかったのか?

いや、そうはおもえない。戦国時代の女性のなかで、随一の器量だったとの史家の評価に、まちがいはないと見る。

だからこそ、周囲の反対をおしきって、どこの馬の骨ともしれぬしかもブ男と夫婦となり、紆余曲折のすえ、縁の下でついには、天下人へとおしあげる、その支え以上の存在となれたのだ。

糟糠の妻の代表である。この名にあたいする女性が、史上、ほかにいるだろうか。もし欠けること一つあるとすれば、二人で子をなせなかった、くらいだ。

それほどの女性なのだ、とは、穿ちすぎであろうか。

だとしても確信をもっていえるのは、下級といわれている身から、偶然や運だけで、天下人の妻となれるはずもないということだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(82)

ならば浅学のまま、ボクなりに穿(うが)つとしよう。べつの理由を探りだそうというのだ、浅薄・厚顔をさらしつつ。

手始めにだが、秀秋の人物像について。ついで、背景にもふれる必要があろう。

まずは出自から。

かれはまごうことなく、豊臣の血筋である。具体的には、ねねの兄の五男として生をうけている。

そのうえで幸運なのか、環境が急変する。

本州の近畿以西をほぼ平定し、1585年には四国をも支配下においた、秀吉のその養子となったのだ、幼児のかれの、あずかり知らぬところではあったが。

さらにいえば、大坂に巨城をきずきつつ、すでに織田家筆頭からの脱却もとげて昇華し、つまり天下人へとのぼりはじめた秀吉の、その後継者となったわけである。

だが、あざなえる縄のごとし。で、

その八年後のこと、淀とのあいだに実子秀頼が誕生したことにより、いとも簡単に破談・解消されてしまい、翌年には小早川家の養子へと。いうまでもないこと、家臣へと格をさげられたのである。

だけでなく、このあとにおきた出来事なのだが、十四歳で所領を没収されるはめに。しかしながら原因を一言でいうとなれば、分家として、わきが甘かったからであろうと。

さらにはその三年後のこと、養父隆景の隠居により譲りうけていた領地三十万石余においても、こんどは転封のうえ、十五万石に減封という憂き目にあうのである。

だからというべきか、苦労しらずのボンボン育ち秀秋を観察するに、恩をわすれて秀吉を憎んでいたであろうと。ついでの推測なのだが、遺恨をはらす機会をねらっていたところへ、“関ケ原”という好機が到来したとおそらく。

しかしそのまえに、ひとつ説明をしておく必要のある事項が。

慶長の役における総大将としての戦ぶりを、石田治部少輔が非難した(くわうるに忠臣として、長浜城主時代からつかえている秀吉へ、「大将の器にあらず」とそう進言したもよう)ことも、背景にはあったと文献に。

進言の大将の器にあらずとは、槍をふるって、敵陣にて戦闘したことをさしている。

で、三成にたいしても、私怨をいだいていたようだ。

ちなみに進言の動機だが、たんなる武人のごとき振舞いで参戦した軽挙妄動、まさに総大将にあるまじき愚行であり、豊家のためにならずとかんがえてのよし。けっして、讒言がその目的ではなかった。

一万歩ゆずって、秀秋にも言い分や弁明もあろう。

だとしても、やはり青さというべきか。かりに総大将が討ち死にともなれば、士気への悪影響は計りしれない。ぎゃくに敵陣の奮戦ぶりたるや、いや増すのである。

こんな当たり前すぎることを、いくら初陣のボンボンとはいえ、知らなかったでは済まされない。

このていどの愚昧だから、のちのことだが家康の誘いにのり、また、家臣たち数人の甘言もあり、加担、つまりは豊家を裏切ってしまったのである。

くわえてのべつの理由。秀吉の死後(関ケ原の二年まえ)のことであるが、減封と転封があらためられ復領されたのだ。

なるほどそれを、大老の家康が便宜をはかってくれたおかげとおもったようである。それで領地回復にたいし、家康に恩義をかんじたのかもしれない。

だがじつは秀吉の、事前の遺命によっただけなのだ…。

ただ以下は、証拠があるわけではないが、家康がその成果を偽装した可能性もあるのではと。なにせ謀略を、くらい灯火のもと、古ダヌキが謀臣の本多正信と密談し、あげくのこと、実行可能にまで練りあげる、なんつ~のはこの二人の、得意中の得意とするところだからである。

 だとしても、「それでもなぜ裏切りを?」の疑念は、いぜんとしてのこっている。

秀吉死後における家康の傍若無人ぶり(法度破りなどを、前田利家や三成が非難・糾弾している文献が現存)は、目にあまったはずだ。

 天下をねらっているからこそ、敵味方を識別するためにも、必然のゴリ押し法度破りをしたのだ、家康は。

だけではなく、もちろん味方をつのるための、檄文の意味あいもあり、じじつ有力外様大大名とのあらたな姻戚関係は、天下盗りにはかかせないと強行したのだった。

そんな政略結婚をあげると、以下のとおりである。

清正と正則や黒田長政(官兵衛の嫡男)らは家康の養女を継室(後妻)に。山内忠義(土佐藩二代藩主)は家康の養女を正室に、伊達忠宗(仙台藩二代藩主)は秀忠の養女を正室に、などなど。ちなみに後者の政略結婚は、秀秋の死後のことではあるが。

 このていどのあからさまな禁じ手すらも見抜けなかった、とすれば若かったとはいえ、やはりバカだった、となる。

それはおくとしても本来は、豊臣の血統をうけつぐ秀秋が、自身の血をうらぎった、そのおそらくの理由とは?

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(81)

現代でも似た構図として、秘書や部下が自殺することで疑獄事件は暗中へと。 “トカゲのしっぽ切り”との報道にて幾度となく、くやしいが、世間はその耳目にふれてきたとおりである。

それにしても秀秋の死において、打つ手はあったはずなのに、けっかは唐突に…そうみえるではないか。ならば、家臣団の無為無策もひとつの因といえるようだが。

ところがさにては候らわずで、じつは無為でも無策でもなかったのである。決して放任してはいなかったということだ。

文献を紐解くとわかるじじつ。それは必死の家臣たちのうち、杉原重政や松野重元、稲葉正成、滝川出雲などが諫言をし、そのせいで重政は上意討ちにより死を賜っている。それを知ったすくなくともほかの三者は“乱心の主君に仕えること、なりがたし”とて、出奔してしまったのだ。後年、復帰をしたものもいるが。

十重二十重(とえはたえ)の諫言を浴びていた秀秋。本来ならば反省し諫言をうけいれるべきだった。

にもかかわらず、主の命により重政は“死”をこうむった。

となれば、もはや正気をうしなっていたと、そうみるのが、客観的に自然である。

で、いわく。肝硬変が悪化したのだろうし、ならば、判断能力を劣化させる“肝性脳症”をも併発していたとおそらく。現代の医師ならばそんな診断を。

西軍をうらぎって大谷刑部の陣をうしろから攻めたのは、肝性脳症が原因だとする説もけだし。

ただし、ボクは首肯しない。肝硬変の悪化と肝性脳症がじじつならば、それなりの文献が残っていないのはおかしいからだ。

医師にすればじぶんが無能や無責任でないことをしめす必要があり、よって、二年前の二度目の診察以降も秀秋が暴飲を継続したのは、それは“自己責任”だと突きはなすか、すくなくとも“例をみない急変による突然死“と、後日しるすが、得策だったであろう。

ともかく、悪化は忠告を無視したからであり、また、それが事実でしょうと責任の所在を明記しつつ、証拠としてのこしておくにしくはない。

いっぽう重臣にすれば、上意討ちの前後に良策を乞う書簡をだしていたはずだし、名医にとっても、大大名の病状悪化はじぶんへの世評に悪影響をもたらす由々しき事態にちがいない。

往復書簡などで献策をしていた、いやしなかったはずがないと、ボクはみる。

ところが現存していない。だったらそんな書簡など、もともとなかったからだろうと云々。

よって、肝性脳症どころか、肝硬変の悪化すらもなかったと。ボクはそちら側に立つ。

さ~て、ここまでのわが浅識と愚論に終止符をうつべく、水戸黄門の“印籠”ではないが、ようやくここでボクなりの、変死説の決定打をうとうとおもう。

死の三日前のことである。秀秋はなんと、鷹狩りをしていたのだ!

かなりの運動であり、瀕死の病人には、とてもじゃあないがムリ。元気なひとにもハードだという。ボクには経験はないが、じじつそうらしい。獲物をとらえるべく飛翔する鷹をおい、馬上にて山野をかけめぐるのだから。

くわうるに鷹狩りは、家康が推奨したように、合戦のための訓練でもあったのだ。

“鷹狩りは訓練”、これはなにを意味するであろう。

すくなくとも病は改善されていた、が自然な憶測である。まして肝性脳症説など、いかがなものか。

ならばなぜおきたのだ、いうまでもないが、突然死が。

でもっての、さらなる不可思議。変死の疑惑をつよくせざるをえない取り潰しの、その理由がまさに、それなのだ。

江戸初期、ちなみに小早川家断絶はそれより一年以上まえながら、徳川家による初の処断であり、これを前例として、以降、無嗣断絶という処断はなんども下されている。

だがいっぽうで、取り潰されていない大名もあったのだ。

広島の浅野本家(あとにのべる浅野幸長の死後のできごとで、じつはこの当時は国替えまえにあたり、和歌山の城主であった)や米沢の上杉家(1664年、嫡子も養子もいないまま当主が急死するなど、なぜか、男系断絶傾向がある大名だ。ところでこのとき養子となったのが有名な吉良上野介の子息であり、また後年のはなしだが、ケネディ大統領が称賛した治憲=鷹山も、秋月家からの養子である)など、いくつかあるというじじつ。

しかも上杉家は、重臣の直江兼続と三成とが蜜月関係にあったことにより、関ケ原の前夜、家康を討とうとしたという過去に重大な来歴があった。またいっぽうの幸長は、豊家を守ろうとした人物だ。

にもかかわらず、それでも改易されなかったのである。

とりなしてくれる有力大名がいたからではあるのだが。ただし上杉家は、三十万から十八万石へとの大幅な減封処分をうけてはいる。

となると、小早川家にたいする理由だが、まったくもって薄弱となる。

家康や徳川家に、最大級の利をもたらしたことは周知のじじつであり、ぎゃくに加害したという事実などないのだから。

さにては候わずの、無嗣除封。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(80)

宗永はもともと秀吉の家臣で、しかも目付け役でもあるから、つよい立場にいた。“物言う”家臣いじょうの存在であり、秀秋からすればスーパー“目のうえの瘤”だったということだ。

またほかの家臣にとっても、(1603年、家康が征夷大将軍となり徳川政権が確立する、まだ三年ちかく前であり、くわえて豊臣家はもとより健在であった。だから徳川に面従する必要性を、どこまでかんじていたかは疑問だ)流血をともなうがごときお家騒動がおこったとして(じじつ、秀秋の命により重臣が上意討ちされている)、それよりもお世継ぎ不在のほうが、よほど深刻だったにちがいない。

理由ならふたつある。

他家のはなしだが、後継者をきめないまま謙信が病死してのまもなく、有力戦国大名である上杉家で、家督相続をめぐり内乱(1578年御館の乱)が勃発したのだ。

現在とちがい、情報の質量ともにとぼしい時代にもかかわらずそれでも、家を二分し流血に流血をかさねた大事件として、二十年以上たった当時も世間の記憶にあたらしいからである。

でもって、肝心の小早川家。当家は、二代つづけて他家からの養子により家を存続させてきたのである。まさに、異常事態そのものだ。

本来の血筋は、すでに途切れてしまっている。ならばしかたなきことだと、現当主の血流でいいから、それを継続させねばならないと。つまりはお世継ぎづくりこそが当面の、そしてこのうえなき命題だったのだ。

さらには、まだこの時期だからこそ、小早川家を固める必要があった。ゆえに、頼りなげな若当主が酒浸りのままで、いいわけがなかった。

 情勢からもあきらかだ。前当主の隆景ならば、お家を任せられる優れた武将であったが、いつ、おおきな戦が勃発し、それに巻きこまれるかわからない日々が続いている。天下は、いまだ不安定なのだ。

たしかに関ケ原において、家康はかれに敵対する勢力には大いなる勝利をした。だが天下人としての、不確定要素はまだけっしてすくなくないのである。

資金や領地、さらには恩顧の大名の数においても遜色ない豊家の存在が第一だ。南北朝時代を例にするまでもなく、世に二君は、災いのもととなるのだから。

ついでいえば、北から京(=天下)をのぞむ伊達家とてブキミな存在だ。また、南にて強兵をほこる薩摩も、徳川の軍門にくだったとまではいいきれない。関が原において“島津の退き口”とよばれる敵中突破により、たしかに、島津豊久をはじめ優秀な人材をおおく失ってはいるが。

それと、黒田如水だ。天下をとる力量を有する人物ならば“孝高こそ”と、秀吉が家臣にかたったとする逸話は別としても、関ヶ原での戦が長期化していればその隙に、九州を平らげ中国地方にも攻め入るつもりだったとの旨をしるした手紙がのこっており、じじつ、版図をひろげる戦をおこしている。

よって、明日、どんな戦乱にまみれるかしれないそんな危なげな天下…、というより、いまだ乱世の真っ只なかなのだ。

だからこそどんな状況に陥ろうとも、つまりは天下の趨勢などよりも、大名の家臣にとっては一にも二にも、主家の存続と安泰が第一なのである。

にもかかわらず他家からきたこの不出来な養子は、秀吉の死後、箍(たが)がはずれたがごとく過剰な飲酒をつづけたようだ。食欲不振や高熱、嘔吐、黄疸(重篤化?)などを発症したと、文献「医学天正記」には、時をおいての悪化をしめす記述がある。

この、二度目の診察をうけたその所見からも、極楽とんぼぶりを読みとることができるのだ。

曲直瀬玄朔はだからこそ再診のけっかから、飲酒をさせないよう家老たちに進言しなかった、はずがない。名医でなくとも疾病の原因をとりのぞく、それが務めだからである。ましてやかれは、歴史にその名を遺すほどなのだ。

そうとなれば方途に万全をつくすが、先々代や先代からの家臣たちの、まさに責務であった。まだまだ戦国の世なればこそ、断酒療法として、座敷牢に押しこむというような荒療治も、たとえばその一手であった。

完治させたあとで、主君の意にはんした咎の責めとして家老が切腹すれば、お家の存続が第一の時代だから、それですむのである。むろん、その重臣の家の存続をもはかりつつの。

だがはたして、文字どおりのそんな滅私奉公の奇特人がいるのだろうか?

答えならば、あにはからんや、ひとりやふたりにあらずと。

主家をまもるために切腹した例としてでも、秀吉による備中高松城水攻めのさいの、城主清水宗治の殉死(既述)はそのひとつとできる。既述したが、ほかにも千利休・豊臣秀次も秀吉の命に従ったとはいえ、あえていえば主家のために切腹や自刃をしている。本音はむろん、自家や家族を守るためであったが。

ただ、秀次が犬死におわったのは、お気の毒に…、ではすまない話しだが。

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