さいごに、「家臣の咎(とが)は城主である倅(せがれ)利長とこのわたくしにありますゆえ、いかようなる処分にも異存はござらん。されど身勝手をお許しいただけるならば、わが、ほかの家臣どもには全(まった)き咎のないことにて、命を安堵し、できますれば禄などもそのままでお召しかかえいただければ、幸甚このうえなきにございます」と再度の平伏をし、真情だけでなく、家臣のゆくすえへの願望をも吐露したのである。

たしかに、あまりにも虫のよすぎる申しでであった。が、これが利家流交渉術の極みでもあった。あくまで家臣のことだけをおもう主の、“我田引水”ではないその懇願、相手にはつよく響くであろうと。

最悪聞きいれられなかったとしでも、_ただ、それまでのこと_とも。今風だと『ダメ元』と、ともかくも人事をつくしたのである。

それはそれとして、人心みだれた戦国の世にあって、利家の言動がしめした身のおき方、まことにみごとな潔さであった。

 秀長とても清廉にふれ、ひそかに感服したのであった。

しかしここでも利家自身は同時に、この廉潔をいかように裁くか_とくと見てつかわそう_との、わが身のすべてを捨てた、その覚悟をきめたものの豪胆さで、心底にて刮目していたのである。

 いっぽうでじつは、厚徳とのうわさが本物であることを、期待しての計算、いや、企みもあったのだった。

 ところで、陳述を最後までだまってきいていた秀長は、「一時の感情にはやっての処断は、禍根をのこすことと。よって、しばし待たれよ。別室にて、熟慮したき大事にござれば」とだけいいのこすと、特別につくらせた帷幕のなかに移動することにした。

そのさい、奥村には平服に戻させ、そのうえで人払いをとくと、三人を監視させたのだった。

ちなみに利家の…、だれにも明かせぬひそかな企み。

それはあろうことか、前田家をなんとしてでも存続させたい、である。この期におよんで、それでも主ならば、とうぜんの企み、であった。

恥も外聞もすててかき口説き、人情にうったえる。その、人事を尽くしたけっかが、移封(領地替え)や減封ですむのならばありがたし、_よろこんで腹をかっさばいてみせようぞ_とそう、決めていたのである。

つまり、利家と利長の死罪は、これを甘受するとして、もんだいは存続させるための、やり方であり手練だった。

嫡男には男子はいなかった。しかしながら利家は、まだ幼少ながら次男利政をもうけていたのだ。前田家を継げる男子がいたのである。

 まずは利政を元服させ、恭順の誓紙(代筆)をしたためたのち血判をし、名目上、羽柴家の家臣にとりたててもらう。そのうえで前田家は、利政とまつと子女をひとり、人質としてさしだす。のち、利政に世継ぎができたあかつきには、その子を身代わりの人質に。

 というような目論見であった。