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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(3)

両者において、兵力だけでなく経済力においても、天地ほどの差がひらいてしまっていたのである。

とどのつまり、家臣一同とあわせても二百五十万石にすぎない家康が天下をねらうことなど、諦めざるをえなくなったはずだ。

では、外征の動機を、病気説にもとめるというのはどうか。

失語や意識障害・痴呆をひき起こすことのおおい脳梅毒だが、ほかの症状、たとえば妄想や錯乱・意識混濁をおこしていたとしても、医学者によると、老人だけにその余命は、体力的にみて数カ月からながくても一年ていどだと。

よしんば、短期間に症状がかさなって出たとしても、はたしてあれほどの残虐性をもたらしたであろうか?

百どころか千歩ゆずって、妄想や錯乱などで人格が激変したとするならば、それは1591年二月、千利休に、(いまだ理由が判然としない)切腹を命じたころからであろう。

ただもんだいは、秀吉死去の七年半まえだということ。

これでは時期的にみて、説得力を欠くというものだ。そこでかりに、このときの精神状態は正常だったとしよう。

しかし、文禄の役は1592年四月、慶長の役開始は1597年二月。後者にのみ目をむけたとして、さらに戦の準備期間を計算にいれないとしても、1598年の八月死去の一年半まえのできごとだ。文禄の役となると、六年と四カ月も前のこと。

医学者の言をもちいるならば、もうおわかりであろう。

だから、もはや、これ以上の文字の羅列は不要としんじる。

いっぽう、脚気を死因とする学説もあるが、二度の外征の説明にはならない。脚気は心臓疾患であり、精神に異常をきたす可能性はきわめて低いことによる。

ならばとて、精神疾患をうたがう文献もたしかに存在している。失禁や狂乱の症状があったと、当時の宣教師の記録にあるからだ。だが、それも時期がもんだいで、残念というべきか、死の二カ月前のことなのである。

もちろん、脚気死因説を否定するものではないが。

ただまちがいのない事実として、賤ヶ岳の合戦までの秀吉の事績と、以後の残虐性を後世につたえる事跡と、それが同一人物のだとしたら隔絶しすぎているし、発病により妄想や錯乱などをおこしたとしても、時期がズレすぎているのである。

それでもあえて、一万歩ゆずって同一人物だったとしよう。

はて?…で、おもいつくのは唯一、

”ジキル博士とハイド氏”、つまり二重人格だった、との仮説である。

そこで必要となるのが科学的検証、つまり証拠である。とうぜんながら、おおきな病気なのだから、なんらかの症状がでていなければならない。

具体的には、パニック障害や統合失調症などの症状がだ。

しかしながら、それほどに顕著な病状があったとする文献はみあたらないのである。失禁や狂乱の症状があったとの文献だが、それはしょせん、死去の二カ月前のものでしかない。

結論をいそぐようだが、“二重人格”は単なるおもいつきだ、としかいいようがないのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(2)

移封された大名は、歴史的にみて、そのほとんどが一・二年は苦労をさせられている。動乱の世をおえた江戸期ですらそうであった。まして戦国時代、さらには百五十万石という巨大所帯の大移動であり、当初はあらたに検地も必要となった。

それよりなにより、縁もゆかりもない関東の領民にとってはよそ者でしかないのだ。そのうえで、いまだ北条氏の残党がのこっており、不穏なうごきをみせていた。

人心をまだ掴めていないということは、攻めこまれたときに、領民が味方になってくれる可能性はひくいことを意味するのだ。

つまり、豊臣家にとってまさに千載一遇の、願ってもないチャンスが到来したのである。この機に、因縁をつけてでも攻めていれば徳川家を滅亡させることは難しくなかったはずだ。

なのにしなかった。小牧・長久手の戦いの敗北で、家康に臆したのか。影武者に、機をみるそこまでの才がなかったからなのか。

もし臆したのだとしてもだ、後継者として指名した実子鶴松(秀頼の兄。三歳で病没するが、家康の関東移封直後は存命)のためには、やはり後顧の憂いは排しておくべきだったのではないか。

執拗ではあるが、機をみるに敏な本物の秀吉ならば、肉親への情にはとくにあついだけに、そうしたと確信する。

 秀吉が老いたからと反論するひとは、二度の朝鮮出兵を説明できない。

でもって、もうひとつの疑義。

知略においても群をぬく秀吉が、なにを血迷ったか、外征にうって出たのもしんじられない愚行である。

天下統一後の閉塞感打破のための遠征との説や脳梅毒の弊害説もあるが、あまり信をおけない。

なぜなら、外征などせずとも、秀吉が発令した惣無事令(1587年十二月の私戦禁止令)を無視し、戦をおこした罪状のある伊達政宗や、土佐一国に押しこめるにあたり一度は戦となった長宗我部家などを次々と平定(家康はあとまわしにしたとしても)していけば、身内だけでなく譜代・外様をもとわず、家臣たちの領土を拡大できたはずだから、である。

そうなれば、家臣団の閉塞感をかんたんに打破できたであろう。また、秀吉自身も直轄領を、二百二十万石超から三百万石以上に拡張することも可能であった。

そうでなくてもすでに豊臣家は、金山・銀山・海外交易など、金のなる木を有していたのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 今夜は、最高の宵・良い・酔い(1)

   今夜は、最高の宵・良い・酔い

 白日夢のおかげで、小学生時からの疑義にようやく、満足のいく解答をえることができたのだった。

 秀吉は、豹変したのではなかった。戦国期にあって、できるかぎりの流血を避けてきた羽柴秀吉と、残虐を平然となした豊臣秀吉は、双子とはいえ、まったくの別人だったのだと。

 くわえての、ボクが学生とよばれる身分になったころにうまれた疑念も、これで解消できたのだった。その疑心…、

 ひとつは、自身亡きあとに天下をねらうであろう徳川家を、暴君はどうして滅ぼしておかなかったのかというナゾ。

もうひとつはなぜ、渡海してまで不要な戦乱を二度もおこし、大量殺戮をくりかえしたのかということだった。

羽柴秀吉は、野戦においてもけっして戦下手ではなかった。その証拠が、山崎の合戦と賤ヶ岳の合戦における勝利である。

前者はいわずとしれた、信長が称賛したほどの戦上手の明智光秀が敵であった。じじつ、光秀のおかげで、丹波や丹後方面での信長の版図は拡大している。

後者においても、強敵上杉家に対抗できると、信長が確信してあたらせたほどの戦巧者の柴田勝家があいてであった。幾多の武勇から、鬼柴田の異名をとっている。

たしかに、1584年の三月から十一月にかけ、秀吉と家康は一度だけ戦火をまじえている。既述の、小牧・長久手の戦いがそれだ。

本来ならば、十万対三万(どちらも最大にみつもっての推定)という数倍の兵力を有していたのだから、この戦において秀吉が勝利していてもおかしくない。

だがあきらかに、(戦略上の勝敗云々は意見がわかれるとしても)戦闘自体は敗戦の憂き目にあい、なだたる家臣たちをうしなっている。一言でいえば戦術のミスである。というよりも、この戦そのものが、やらずもがなであった。

賤ヶ岳の合戦では味方にひきいれた信長の次男・信雄(かつ)を、戦勝から八カ月後の翌年頭、つまらないことで怒らせ、それが因となり、戦端をひらくことになったからだ。

その信雄だが、信長のDNAを受けついでいないのではないかと疑いたくなるほど、暗愚でしられている。

しかしこのていどの人物を制御できなかったのだから、羽柴秀吉らしくもないと言わざるをえない。

さらにらしくないのが、両合戦での敗北である。

人誑しの術をつかって、たとえば事前に、雑賀衆と根来衆のうごきをとめておくべきだったとおもう。

かれらは、数千丁の鉄砲を所有する有数の、独立した武装集団であり、信長でさえ手こずったほどなのだ。

かれらにたいし、懐柔の天才ならば、すくなくとも敵にまわさないくらいならできたであろう。ところが有効な手をうつことなく、おかげで秀吉は着陣をおくらされたのだ。

孫子に、“後(おく)れて戦地に処(お)りて戦いに趨(おもむ)く者は労す”とあるとおりで、名将にあるまじき愚行である。苦戦をしいられた原因のおおいなるは、これと慢心にあったとみていい。信雄は凡庸であり、味方は数倍の兵力だと。

で味方の将兵は、総大将の言動をつぶさにみているのだ。やはり影武者の、秀吉のこの体たらくでは、士気があがるはずもなかった。

また、本戦にはいっても信じられない負けかたをしているのだ。その典型が、信長直参の大名だった池田恒興献策によるといわれる、二万の兵による奇襲作戦である。

奇襲というのはほんらい、少人数だからこそ敵には気づかれずに実行でき、よって有効なのである。すくなくとも、桶狭間の合戦のときの信長軍のように、豪雨に乗じるなどの煙幕の役割をはたすものが必要であった。

にもかかわらず、なんの策もなく大軍をうごかしたのである。また、陽動作戦をとった節すらない。敵方はとうぜん気づいた。ましてや、野戦を得意とする家康である。

けっか秀吉軍は、副将級の池田恒興と森長可などが討たれるなど、大敗したのだった。ところでこの奇襲策、じつは、秀吉によるとの説こそ信憑性がたかいとのことだ。

やはり、である。白日夢をみるその本因は、ここにあった。くどいが、本物の秀吉が、こんな愚策を実行したとはかんがえにくいからだ。

さらにこの両合戦のあとも、秀吉には、家康を討つチャンスはあった。1590年の関東移封直後である。

家康が出生地の三河を拠点に、みずからの手で切りとっていった計五カ国を、秀吉の命で手放さざるをえなかった。必然だが、家康につき従う強力な三河家臣団も、父祖伝来のかれらの地盤をうしなったのだ。