遡(さかのぼ)ること八年まえ、長浜城にて秀吉・秀長兄弟はある吉日、母者の“なか”から、双子の存在をきかされたのである。
「それにしても、ようも探しだしたもんじゃと、先日来、ほとほと感心していたところじゃ」
ゆくえ知れずとなっていた双子の弟を、しかも秘密裏に見つけだした草の者のはたらきに、身内おもいの秀吉は、感動すらしたのである。
やがての初面談のとき、長浜城主の立場になった兄として、不遇だった弟の手をとり、涙目で破顔したのだった。感激屋の姿そのままに。
ところでこの時代、双子をともに育てるということは、まずありえなかった。犬や猫のごとき畜生のようだ(畜生腹)と、忌み嫌われたからだ。片方は、間引かれるか里子にだされたのである。
ことに武家や商家だと、相続問題を将来ひきおこすと、実利的にもきらっていたのだ。
ぎゃくに弟は、命を生み育てる水呑み百姓の子倅ゆえに、生命はだいじとて間引く非道はせず、引きとり手を捜したのであろう。
その、引きとってくれた里親はしかし、戦乱の世のあおりでいつしか、その行方がわからなくなってしまっていた。里親も貧農だったのだろう。
秀吉はさっそく、竹中半兵衛にめいじたのである。八方に忍びをおくりこみ、生きわかれた弟をひそかに探しだすようにと。
ちなみに官兵衛は、これほどの重大機密ではあったが、半兵衛から聞き知っていたのだ。
それほどの、ふたりは心友だったといっていい。それを証拠づける文献は見当たらないが、以下が、証拠といっていい。略記すると、
荒木村重謀反(有岡城の戦い)をしった信長は、翻意をうながす使者となった官兵衛が、いっこうに帰城せず、むろん報告もしないことで、ぎゃくに村重側についたと逆上し、官兵衛嫡男の松寿丸を殺せと命じた。
にもかかわらず半兵衛は、信長の眼からかくまいつづけた(これにも異説あり。いろんな歴史家がいるから…)のである。鬼の信長に逆らってまで。よって、それほどの仲だったのだ。
また、機密を共有してこその、織田家中における軍師仲でもあった。また必要性も無視できない。
さて、で、忍びにあたえた情報はというと、似顔絵と出生の年月日および出生地の当時の地名・里親の名やそのほか、生母なかがおぼえているかぎりのものであった。
家臣ではない忍びをつかったのは、秀吉の顔を見しらぬことが、その第一要因であった。
捜索対象者の素性や捜索目的をしらされていない以上、いくら情報通のかれらといえども、依頼者の意図を憶測することすらできないはずだと。
また領主といえる主がいないかれらは、金銭でうごくために、現在でいうところの守秘義務には忠実であった。信頼をなくせば仕事にありつけないという点では、いまと同様である。だからある意味、家臣より信用できたのだ。
そしてこれも当然なのだが、羽柴家としては、双子の存在をしるす文献をのこさせなかった。