覚醒のあとで

 日中、暑かった夏のなごりも、日が傾くにしたがいおさまっていくと、ボクはわれに返ったのだった。

で、長かった白昼夢からえた結論だが、それは、

人格が、なにか得体のしれない原因で激変した、のではなく、いいかえれば別人格の同一人物ではなく、“秀吉は二人いた!”である。

ならばこそ、別人格はとうぜん!となるのだ。

これにより、 ボクは総てにおいて納得がいった。

おかげで、十八年来の疑問が氷解したことに満足したのである。

ひとは突拍子もないはなしだと評するだろうが、ボク自身は歴史に照らしあわせ、まちがいないとの確信をもった。

朝鮮出兵も、飽くなき占領欲と残虐性がうずいたための衝動からだったと。仏教で説く阿修羅、闘争心にみちた境涯は、じぶんを尊大にみせる習性をもつという。

つまり豊臣秀吉は、巨大でひとびとから畏怖された存在だった“信長”を越えることで、その欲求をみたしたかったのだ。換言すれば、本地以上の偶像として、歴史に名をのこしたかったのではないか。

 小学六年生の夏、母があたえた課題。以来、ボクの人生に添うようにして悩ましつづけた、まるで宿命的な課題となった。まさに、人生の宿題であった。

その母。ボクが小六の夏、感情の起伏がはげしくなり、過激なもの言いをしたり、ふさぎこんだりしていたのは、子宮に腫瘍があることを検査でしったからだった。

ボクの人生のこれからに、がんばれとのエールと    示したかったのだ。

ボクがその事実をおしえてもらったのは、良性の腫瘍とわかったあとの、夏休みの最終日前々日であった。医者からの診断結果はお盆明けだったが、両親は正直に打ち明けるべきかどうか、二週間ちかく迷ったとのこと。

思春期初期の男の子に、子宮という部位は微妙だと、「母さんが拘泥したから」そう、父から後日談としてきいた。

いまも忘れることのない十一歳の夏休みの終末とはいえ、元気であかるい本来の母をとり戻してくれた。そしてありがたいことに、いまも健在である。

さっそく、母に電話をいれたのだった、母が破顔するのを想像しながら。

でもって、健在といえば父もだ。

さて、で今日は、母にいわせるとおバカ父子の記念となった、2003年の九月十五日である。

夕刻に、相好を崩しまくった父が、好物のスーパードライと剣菱をぶらさげて、わが家へいそいそとやってきたのだった。

この日、甲子園でのデイゲームで広島カープにサヨナラ勝ちをし、マジックをついに“1”としたわれらが星野タイガース。

今夜決まるだろうと、十八年間も口をあけて待ちつづけたリーグ優勝を信じ、その瞬間をともに祝い、喜びをわかちあいたいと、宙に浮くようにしてやってきたのだ。

そしてボクはまさに、父来訪の直前、宿題を、ようやくやり遂げた達成感と爽快な気分にひたっていたところだった。

家康が実感した、重い荷をせおって坂道をあゆんできたような人生から、これで訣別できるのだ。十八年かかって、やっと身軽になれた今宵、である。

それにしても、不思議な縁(えにし)だ。母が提示した宿題は、わがタイガースが日本一になった年に、であった。

その宿題をといた昼こそ、ながく待たされた、タイガースが優勝を遂げるにちがいない日だからだ。

祝杯として、ひとりで、よ~く冷えたスーパードライを飲むつもりでいた。

 しかしはからずも、父と注(さ)しつ注されつ、二重の喜びにどっぷりと浸れそうだ。

“夢のまた夢”とばかりの、心地よい酔いに、こよい。

                  完