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核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第十一章 (完)

 なにはともあれ、歴史はかわった。核兵器は、完全に消滅したのである。

スターリンは核兵器製造を断念した。米国をふくむ歴史も随分とちがうものに。

帰結として、とくに科学分野にかかわる歴史がおおきくかわったのである。有能な科学者のほとんどをうしなったからだ。

そして当然だが、1945年八月六日に被曝するはずだった人々の歴史は、まったくちがったものに。なにごともなかった十四万人の一人一人が、なんらかわることのない人生を繰りひろげていったからだ。また負傷しなかった人々の人生も、原爆症にくるしむことなく、通常のまま綴られていったのである。

1945年八月九日以降の長崎で命をうしなわなかった約七万五千人の一人一人、負傷しなかった人々も、同様だった。

 

ということで、彦原ドリーム号とともに消滅……したのである、マンハッタン上空で。

 

1944年末におこった歴史の変更により、かれの六代前の先祖は、既定どおり婚約者の新聞記者と結婚した。被爆しなかったおかげだ。

そのため、彦原の五代前だった人物だが、当然、この世に誕生しなかったのである。したがって、彦原へとつながっていくそれ以降の血筋もすべて消えさってしまった。

必然、彦原茂樹は、かれが生みだした宇宙船とともに雲散したのだった。

彦原の人生において第二の、そしてとり返しのつかない迂闊であった。

 X社の専務や研究員たちの、あの絶望と苦悩も、一瞬にして霧消したのである。

それどころか、百五十年後、まったくちがう社会と、べつのひとたちが普通に存在し、そんな社会の日常がしごく当然のごとく展開していったのだ。

彦原もいない、べつの社会の平生が、である。

 つまり、いままでとはちがった歩みの人類史が、まるでなんの問題もなかったかのように。四本のキノコ雲いこう、だから、べつの歴史、とはだれもおもわない歴史となってつらなっていった…。

そして天才科学者彦原の生きた証、タイムトラベルの理論構築と実験の成功という偉業など、ナノ単位でものこるはずのない歴史、“核兵器消滅”が惹起した歴史の大転換などしる人のいない、そして“歴史の大転換”など教科書に載ることのない新たな歴史が…、核兵器消滅直後から、あらたな歴史としてではなく、いまある事態こそが当たり前の、それにつらなってゆく歴史として…。

ああ、そして皮肉にも、彦原が創出したべつの歴史において、永遠に、かれは地上に生を享けることすらできないのだ。

だがもしかれが、2095年から過去にタイムトラベルしなければ、いや、核兵器消滅のための歴史の大転換をしていなければ、彦原茂樹の名は永久に、その後の歴史において燦然と光を放ちつづけたはずである。

(殺戮者・纂奪者ではなく、白人につごうのよい西洋史において、真実ではない、新大陸を発見した偉人だとあつかわれている)コロンブスと、天才物理学者アインシュタインの業績をあわせたいじょうのことをなし遂げた人物として、その名をしらぬものなどいなかったにちがいない。

さらに、人が「Hikohara」の名を口にしたとき、そこには敬意と親愛がこめられていたはずだ、その人がたとえ、かれの偉業に由るタイムトラベルで宇宙のいつ・どこにいようとも。

それはまるで、喜劇王チャップリンにむけられる称賛と喝采以上に。

しかしながら残念なことに、栄誉や名声がのこるどころか、事実のうえで存在すらしなかったのである。

 

ところで、彦原ほどの天才が、すこしかんがえればの、こんな簡単な原理に気づかなかったはずはないのだが。

なぜだろうか?なんども思考したのだが、払拭しきれない疑義である。

魂魄が消滅したようなかれに訊くわけにもいかないので、憶測するしかないが、

彦原は半生そのものをかけ、核兵器の全消滅に全神経と全情熱をかたむけていた、そのせいでウッカリ失念した、は(あた)らないだろう。八百もの爆弾がまねく結果を想像し、あまりの悲惨に懊悩していたのだから。

核爆発がもたらす(さん)(こく)に、思慮をめぐらせていた証左である。

ただたしかなのは、核兵器を全消滅させるという夢が、並大抵ではなかったということだ。

つまり大義完遂のために葛藤をやめ、甚大破壊以降のことにたいしてはムリにでも熟慮を停止させた。そうでないと、全智全能を傾倒できなかったのは事実である。

ということは結果的に、歴史の大転換後の事態にまでかんがえが及ばなかったのである、おそらくは。

…その原因だが、精神的余裕の欠落であって、能力の欠失ではないとおもわれる。

そこで、歴史大転換後の事態を想像しなかった理由の可能性をさぐるならば、大転換後の実像という人類未経験に、実感がともなわなかったからではないか。

だれびとも経験したことのない歴史がはじまるという事態、そんな不確定を想像してもはじまらない、なるようにしかならないと。そんなことより、否、なによりも肝心なのは核兵器完全消滅だ、とのつよい想い。

そういえば彦原は、広島平和記念資料館などでの展示物の記憶がよみがえると、自身の大罪により惹起する空前の大殺戮を連想させてしまうにちがいないと不安がっていた。

連想が完遂のさまたげになるとして、計画実行いがいの思考回路を宇宙滞留最後の日で、無理やり遮断したのだった。

それいぜんは、連日連夜の煩悶で、じっさい、気がふれそうになったほどだった。遮断自体、脳が、自己防衛本能をはたらかせたともかんがえられる。

それに彦原の人格に鑑み、大殺戮を全人類のための天啓としんじることでしか大義の名分を見いだせなかったし、全智全能を傾倒するためには必要悪と心のなかで無理やり処理しなければ遂行不能になるとおそれてもいた。

もっとも必要悪も偽善、との矛盾もかかえていたが。

さらには地獄絵を想像することが、彦原にはたまらなくおそろしかったのだろう。

そういえば、二十一世紀末の地上にいたときから、多々、寝顔を歪めつつうわごとをいっていた。悪夢にうなされ、くるしんでいたのである。

それで、地獄図いこうの未来予想をしないようにしたのではないか。

いずれにしろ、複雑にいりくんだ理由がありそうだ。

あるいは、専門分野にたいしてはその天分をいかんなく発揮できる超人でも、それいがいのことには案外、凡人以下だったのかもしれない。

“学者バカ”という辛辣な言葉が存在するようにだ。そういえばロスアラモス国立研究所への入所時、ゴリラ似軍曹に翻弄されていたことをおもいだす。

ときに、学者バカは他にも多数いる。たとえば、原爆を創造した科学者たちだ。事態の深刻さを知り、良心に目覚めたかれらは、慌てて核兵器使用反対運動をおこしたのだった。

吾人(じぶん)は凡夫なるゆえにおもう、==ならば、つくらなければよかったのに==と。

そういえば、かの坂本龍馬。かれを狙う暗殺団にたいして気をつけるようにと再三の忠告をうけていたにもかかわらず、頓着しなかったという。

彦原との共通点、それは《灯台(もと)暗し》だろうか。いやはや、偉業をなす人物はじぶんのことには、一種、鷹揚なのだろう、きっと。

もはや、わたしのごとき凡人には計りしれない威容(あるいは異様)な風だ。

 

さて、いじょうのこととは次元の異なる、べつの疑念がひとつ。

彦原は、博愛的人物とはいえ、まごうことなき愛国者でもあった。生まれそだった日本への愛着、けっして他者におとることはない。

それなのに日本を戦勝国にはしなかった。なぜなのか?

 かれがその気になれば、太平洋戦争において戦勝国にできたはずだ。

1941年十二月八日(日本時間)の真珠湾奇襲攻撃での当然だった勝利後、米国太平洋艦隊とロッキード社の軍用機製造工場を壊滅し、ホワイトハウスとペンタゴンおよびデトロイト市の工場地帯とウォール街を完全破壊すれば、戦意喪失し降伏したはずだ。

軍事・政治・経済の主要部が壊滅すれば、米国は戦争どころではなくなったにちがいない。国家沈没寸前となるのだから。

超国家機密施設、ロスアラモス国立研究所等を潰滅させた彦原である。

警戒厳重なホワイトハウスやペンタゴンの破壊工作ですらも、その気になれば不可能とはかんがえなかったろう。

 ここで重要なのが、仮定の話である。

万が一日本が戦勝していればどんな国になっただろうか。

国民もアジア諸国も米国等も独裁的軍部政府に隷属させられ、塗炭のくるしみに(あえ)ぎつづけなければならなかったであろう。

北朝鮮の邪悪な金王国ににて、いちぶの輩…軍部や政府首脳と政商や財閥だけがあらゆる歓楽を享受するに似て、お飾りの天皇主権のすがたをかりた、最悪の独裁国家となったにちがいない。

 生来、人にだけでなく生きとし生ける尊いあらゆる命を慈しんだ彦原。戦争のない平和な社会を希求した彦原。弱者にやさしい社会が望ましいとの信条を保ちつづけた彦原。

そんなかれだからこそ、悪辣なとんでもない国体をみとめるはずも、存在させるはずもなかった。

 日本を戦勝国にすることなど、(はな)からおもいつくことすらなかったのである。

 

それにしても、つくりだしてしまった地獄を直視したのち、肩をくずし膝をおって(むせ)び伏し、はては廃れものになってしまった。そうなったのも、彦原ならではの因があったにちがいない。

主因はやはり、チャップリンのようにやさしすぎたことだ。かりに対極のヒトラーのごとき魔性の人物だったら、スターリンのように悪辣であったなら、精神の崩壊などなかったはずだから。

核兵器完全消滅を平和裏には達成できないと無血革命を断念した日、やさしすぎたからこそ、そのため悲嘆に喘ぎ、噛んだ唇から鮮血がしたたったときから、彦原は彦原でなくなりはじめたのだ。

そのあらわれを、チャップリンの作品群では癒されなくなったという心理現象にみることができる。じつはあのときからだった。本人すらも気づかなかったアリの一穴として。

ごく小さなワームホール(虫の穴)。この心の異状や綻びをあやしんで、専門医の診察をうけるなどの対処をしていれば、結果はちがったものになったかもしれない。

もしかすると、完遂後の自己消滅を気づかせてくれた可能性もあるからだ。…いまとなって詮ないことだが。

 

1944年十二月二十日午後三時三分、核兵器はその関連資料もふくめ、あとかたもなく完全に消滅した!

ところが、である。1972年十二月十三日の午後三時三分、なんと…、

せっかくの彦原の、文字どおりの、命を賭した核兵器全廃工作は、しかし二十八年後、嗚呼、ああ、ものの見事(語弊は承知でかいた)、水泡に帰す。

開戦当初はすぐに一蹴できると楽観していたベトナムでの戦争において、北ベトナムの徹底したゲリラ戦で、地上部隊の米兵は年をおうごとに戦死者が増加の一途をたどっていった。

米軍は作戦上の失敗や混乱、装備不足などで士気が低下し、泥沼化どころか、全面的敗北をしつつあったのだ。

一気に事態を打開すべく、J大統領は着手したばかりの核兵器開発を急がせた。予定の十数倍の予算を計上し、米国きっての物理学者や化学者たちを急きょ集めた。

でもって、度しがたい(=救いがたい)ほどにおろかなる人類(科学的興味を最優先させる科学者や場あたりの為政者たちども)は、唾棄(=軽蔑してきらうこと)すべきことに、こうして二年弱で、原爆実験を成功させたのである。

さらに、実験成功を歓迎した愚物、いや魔物と化した米国のN大統領は、核兵器使用にはんたいする幾多の叫び声や祈りに似たうったえをことごとく黙殺し、さらに、日に日に増大する米兵の犠牲を阻止するためという一方的屁理屈や理由の捏造をして、原爆を北ベトナムの二大都市に投下したのである。

あわれ…、“サタン”は、広島・長崎での犠牲者に匹敵する尊い命を奪ってしまったのだ…。

<歴史は繰り返す>とか。

 

それからさらに百五十年後、第二の彦原が、地上に生を享けるのである。

そしてまたもや……、

 

 

 

 

 

          完

 

 

 

 

         あとがき

 

 

彦原は己心の魔性に翻弄され、多大にすぎる犠牲者を生んでしまった。しかし、彼の良心は根幹において、悪魔に蹂躙まではされていなかった。

騙されはしたが、悪魔に魂を売ったわけではなかった。良心がかれを苛んだのは、魂を保っていたためである。

やんぬるかな…、つよすぎた自責から、あわれ、ついには自己崩壊してしまったのだが。

 いろいろな意味で、気の毒な人生ではあった。高邁な理想を実現させるに、詮ずるところ、方途をまちがってしまった。これが最悪を生んでしまった。

かえすがえすも残念だ、大量殺戮も当然そうだが、天才科学者をうしなったことも、である。

 

ただただ冥福を祈るのみ、二万をはるかにこえた犠牲者もあわせ、ともに。

 

 

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第十章(後編)

 

殺しあいをきそう、あまりにバカげた、このような戦争そのものを、彦原は嫌悪した。イノセント(=罪のない)な人々の命を奪いあう戦争を、つよく憎んだのだった。

しかし離陸から四分、眼下の光景をまのあたりにしてしまった。

そのときから、こんどは自身を憎悪するのである、地上の人々がながした、大地を染めんばかりの鮮血、そんな大量の血に(まみ)れたおのがからだも、そして悪魔の行にけがれた心も。

午後三時三分、八百枚の爆弾が四つの地域でいっせい炸裂した。そして、誘発されての核の大爆発。

眼球をこがすほどの強烈な光をはなちながら屹立した四本のキノコ雲を眼にしたあと、心身におおきな狂いが生じはじめた。やがて、崩れおちるようにして船床にへたりこんだ彦原。

…葛藤のすえ、懊悩のはて、しだいしだいに自己の存在すら意識できなくなっていった。

大量殺戮をしでかすには、しょせん、心根がやさしすぎたのだ。どだい、ムリだったのである。

魂のない、木偶(でく)(価値のない存在)以下の物体にしか、もはやみえなくなった。人格を有するひととしては、もはや存在すらも消えたかのようなその姿、肝心の精神が、ブラックホールに、まるで呑みこまれてしまったかのように…。

 

天才科学者の蛮行で、地上から原・水爆は完全に消えさった、まちがいなく。

八百のプラスティック爆弾がうんだおそろしすぎる災禍。

その結果として、広島と長崎における“残酷の極み”が行使されずにすむのだ。使命、否、天命をはたせば結果そうなると当初より、じぶんにそう言いきかせ、おのが蛮行を必要悪と得心させるつもりだった。

さらに人類はこののち、核兵器への絶望的脅威からもすくわれる。放射性物質から地球もまもられる。それらが自身にとっての救いとちいさな安寧になる、そう確信したからこそ、夢、いや大義完遂のため、じぶんの人生の総てを、そして魂までも捧げつくしつづけてきたのだ。

しかし大義のためとはいえ、おおきすぎた犠牲。払いすぎた代償。

いくどとなく想像しながらも、あえてなした完遂の帰結。善なる歴史変更がせめてもの救い…となるはずだった。

だが…結句、かれ自身の精神的救済や期待も、大爆発に巻きこまれたのである。

それにしても、彦原ともあろうものが実相に気づかなかったとは、第一番目の、そしてあまりにおろかな迂闊(うかつ)であった。

核兵器の完全消滅にばかり気をとられていたからなのか。

天佑(=天の助け)や天啓(=お告げ)とかんじ、また確信していたが、じつはおおきくかつ取りかえしのつかない錯覚であった。

信じた、そのあいては、かれの心の奥深くにひそんでいた悪魔だったからだ。

このことを看過したのは、若さか焦燥のせいか。

天助ではなく天魔(魔王)の謀略だったことが、二十八年後あきらかに…。

しかし、その実体だがいまはまだ明らかにできない。

 

ここで一旦、かれのことはおいての一閑話。

彦原が1944年十二月十五日の米国にやってこれたのは物理学者ジョン・ホイーラーのおかげでもある。“マンハッタン計画“で重要な任務をはたしたホイーラーが1957年、理論上その存在をとなえ命名した”ワームホール“、それを活用したからである。

宇宙船からはるか眼下でおきている甚大な大量殺戮の犠牲者のなかにそのホイーラーがふくまれていること自体、見かたによっては皮肉というべきだろうか。

大量殺戮兵器を創ろうとしていて、ぎゃくに、それを阻止するための巨大破壊に巻きこまれたのだから。

しかしホイーラーとてやられっぱなしではなかった。復讐ではないが、殺戮者の心神を、深々(しんしん)とした(ホイーラーが命名した)ブラックホール然にまんまと引きずりこんだからである。

じじつ、悶絶のまま、ついにそこから抜けだせなくなったからだ。

 

核爆発がもたらした超高熱や放射性物質などまったくとどくことのない、高度75Km。そこは対流圏や成層圏よりはるか上空の、中間圏とよばれる大気圏である。

高度75Kmまでは垂直上昇しそこで船体を水平にしたのだが、それには理由があった。みずからに課した義務をはたすためである。

その義務を履行したことじたい、いかにも彦原らしい。

正直いえば、眼をそらしたまま、つぎの目的地へむかうという選択肢もあった。いや、そうしようかで、迷った。眼下の実態をみれば、うけるショックがいかばかりか、わかっていたのだから。

それでも、真摯で誠実な性格に由来していた。よりせいかくに記するならば、はたさずにはおれなかったのである。じぶんがなした悪逆非道に眼をそむけては、被害者たらしめてしまった方々にたいし、残酷な加害者として申しわけがたたないと。

せめて、心からわびなければ…。

数万人の命をうばっておいて、なにをいまさらとの良識の見解、反論のしようもないこと、彦原にもわかりきっていた。なぐられようと足蹴にされようと土下座をしてわびるしかないとも。

ところで、彦原をのせた宇宙船が核爆発に巻きこまれることは、どうやらなかった。《案ずるより産むが易し》という結果になったわけだが、実際は虎口をのがれたがごとく、どうにか間にあったのだった。

その彦原だが、計画どおりじぶんが助かってもそれじたいを卑劣な行為、とはおもわないようにときめていた。==ともかくいまだけやから==と、そう努めるつもりでいた。

まだ責務を完了したとはいいがたいわけであり、だから、すべては大義のためと言いきかせるしかないと。

しかし、計画だおれという残念なことばがある。

結論からいえば、責務完了とはならなかったのである。

無機質の宇宙に滞在しつつ、爆発物を製造するなど人間らしいいとなみとは無縁どころか真逆となるのみならず、ながき孤独と寂寞が、さらには完遂こそ使命と決した非情が、精神をにげ場のない暗穴に追いつめてしまった、のだろう。

…地上はるか、中間圏に到達したドリーム号の超高性能カメラがスキャンしたモニター映像。そこにあったものは、アメリカ合衆国の四つの地点で林立した、大小様々のキノコ雲(原子雲)、最大のものは10Kmの上空にまで到達したのだった。

それが意味するもの。

大地に(むくろ)累々(るいるい)たるの酸鼻(=むごたらしく痛ましいこと)や無惨。

覚悟のうえとはいえ、地表の厳然たる事実を想像すると、さすがに息がつまった。

しかも漸次治まるどころか、呼吸がみだれだし苦しくなってきたのである。つぎにめまいとはげしい動悸が襲いきたり、じぶんのからだを維持できなくなった。過換気症候群の症状であった。

五年いじょうも悩み苦しんだせいで、すでに全般性不安障害をわずらっていたが、それが心の奥底でひそかに進行するなか、四本できた眼下の殺戮雲をみてしまい、一瞬にしてパニック障害を発症したのだ。

だが、呼吸がみだれだした段階の彦原は、苦悶しながらも“膨大な”や“莫大な”ではいいつくせない尊すぎる犠牲者たちの命に、そしてその方々の祖父母、両親、子どもたち、妻、兄弟、恋人たち、友人たちなどにも、心からわびるとともに、ただただ黙祷していた。

しらず洩らした嘆息。消えさったあらゆる命に、そのていどではゆるされるはずもないが、おもわず深く(こうべ)をたれたのである。

寸刻ののち、しでかした過ちとつきあげる悔いのため、涙がとめどなく溢れでた。目から垂直に、おろおろ涙がハイテクスーツの足のつけ根に落ちつづけた。

それでも自責はおさまらなかった。決壊した心が、絶叫となって現じたのである。絶望の声音が、ブリッジに響きわたった。彦原のむねには、自身への怨嗟と憎悪の念が反響したのだった。

本来、かれがめざした、いや(こいねが)ったあらそいごとのない“平和な世界”とは、あまりにかけ離れた残虐な激甚殺戮だからだ。

地獄図。地上で繰りひろげられているのは、絵空事ではない、まさに、現実の地獄であった。

計八百枚の爆弾による猛烈な炸裂で粉々にふきとんだ人々。核爆発がもたらした数万度の超高温で瞬時に融解した命。強烈な熱線でからだの水分を蒸発させられ黒い塊となった人々。音速をこえる激烈な爆風でバラバラ、否、粉々になった命。劫火に骨と化した人々。猛炎にもがき苦しんで息絶えた生命。吹き狂った三千度の熱風で気管や肺が瞬時にやけて死んだ人々。秒速500メートルの衝撃波で骨までも粉砕された命…。命、命、命……。

そして…放射性物質に汚染されて血へどを吐きながら悶死する人々。いやいや、苦悶死したのは人間だけではない。いとけない犬や猫も、だけでもない。ほかのかぞえきれない小動物や大小無数の植物など、精一杯いきていたありとあらゆる命を、彦原のなした暴虐行為が奪いさったのだ。

そのあまりのあり様。どんな言葉なら、すこしでも事実にちかい凄絶として言いあらわせるだろうか?

酷すぎにすぎたるがゆえに、事前の想像段階ですでに確信していたのだ、かならずや遂行の(かせ)となると、だからおもいだすまいと。それでもつい蘇ってしまった広島と長崎の資料館での写真や展示物の数々。

少年時、激情に身悶えながら目にやきついた惨禍だった。「あまりに酷い!」が、印象のすべてであった。

そうしての、宇宙滞留最後の前日だった、ようやくのこと、懊悩の封印に成功したのである。やるしかないと決したからだ。

にもかかわらず眼下のキノコ雲が、惨禍の記憶を湧きいでさせ、(さん)(こく)(=無慈悲にむごたらしい)のイメージとなって、ぐるぐる渦まきはじめた。空前の凄絶きわまる写真がつぎつぎに蘇り、やがて頭のなかを占拠したのである。

はからずも嘔吐してしまった。

下界の地獄にただただ懺悔しながら、それでもゆるせずに、じぶんを苛み、呪いつづけたのである。

とり返すことのできない滅亡の連鎖が、地上では…。

嗚呼、あわれ。いまやっとわかった。なんということか、「僕こそが悪魔だったのだ!」

しでかしてから、イヤといほどにおもいしった実相と悔恨と。想像していたいじょうの自責であり煩悶だった。

しかし、

じぶんを罵りつくした彦原。船床に頭を打ちつづけた彦原。

そのあと、悔恨や自責を自覚していたかどうか、もはやあやしかった。すでに正気ではなくなっていたからだ。

数瞬ののち、脳がわれんばかりの痛みにおそわれ、のたうちまわった。

さらに、絶命前の酸欠の金魚のように口をパクパクさせだした。呼吸そのものが困難になったのである。

三年三カ月余いた宇宙。船窓のそとには生命のない真空と、はてしない暗黒が存在しているだけだった。

そんな宇宙と、宙に視点の定かでない(ほう)けてしまったかれの心は、同一無異となった。

 

事前においてすら悩み迷い苦悶の日々をおくったのは、かれが真摯にものをとらえ、誠実そのもので生きてきたからだった。

そんな彦原、苦しみもがきつつの果てに、それでも信条や信義、生きざまとはあい矛盾するのだが、肚をきめて災禍の元凶になる道をえらんだのである。

決断のとき、だから叫んだ。「断罪ならあまんじて()ける。けど人類は、核兵器根絶の手段を、百五十年たってもまだよう見つけへん。­このままでええんか!」怒号のあと、もっていき場のない無念が拳をつくり、足のうえで小刻みにうちふるえていた。

各国での団体や市民レベルにおける反核運動、学識者等による原水爆禁止(あるいは廃絶)運動や国際的核軍縮や核兵器削減云々がいずれにしろ功を奏さなかった現実。

たしかに、彦原はまだ若輩であった。

それゆえ、良識的であるがゆえに遅々としてすすまない核兵器廃絶運動が、まどろっこしくて仕方なかったのだ。数多(あまた)の運動家の尽力や精一杯の活動を見聞し、理解も、気持ちのうえでの応援もしてはいた。

だからこそ、いったいいつまで待てばとひとりでいきどおり、やがては、核兵器廃絶運動の成就を見限ったのだ。

かといって無為ではいられなかった。若さゆえか、無為を忸怩(じくじ)(恥いること)とみなしたからだ。

そして決断した巨大虐殺ではあるが、だから、復讐ではなかった。

前述の論文にあったように、原爆投下は真珠湾攻撃にたいする報復の可能性もおおきかったわけだが、彦原の蛮行はあきらかにちがっていた。

太平洋戦争時に、沖縄での地上攻撃や本土への原爆をふくむ連日の空襲などで、一般市民を甚大殺戮してきた米国。その米国にたいしての報復では、けっしてなかったのだ。

ただただ、核兵器を地上から消滅させうる唯一の手段としんじたからこそ、やむにやまれず実行したのである。人類と地球をあやうくする“悪魔”を完璧に駆逐するいちばんたしかな方法、それは創らせないこと!だと。

そのためにはマンハッタン計画を、核兵器製造にかかわった科学者とあらゆる成果や資料および建造物などを、存在しなかったがごとく総て消しさることだった。

けっしてゆるされざる手段をもちいてでも。

こうして、十九年におよぶ積年の悲願を実現したのである。

X社の研究所ではもちろんかれだけだが、一日十二時間の研究、ひと月に二日しかとらない休日、青春を謳歌するよろこびや快楽はすべてなげ捨てさるのみならず一顧だにもせず、じぶんの全人生をつぎこんでの連日連夜、没頭するがごとくにいそしんだ。

破天荒(かた破り、は誤用)の研究だけに、さきのみえない闇夜に閉ざされてしまったことも数多で、苦しいだけの、まさに闘争でしかなかった。

悲願達成のための、計十九年あまりの努力は、だから筆舌につくしがたかったのである。

しかし、…にもかかわらずだ、達成感が湧いてくることは皆無だった。エンケファリン(先述、達成感や陶酔感を演出する脳内成分)は、まったく分泌されなかったからだ。

いや、達成感どころか、天才の精神は、死滅してしまったのである、ついに、ついには。

しつこいが、達成感や充足感が絶無だったのはいまだ完遂していないから、つまりソ連の原水爆製造完全阻止というつぎの目標が達成されていないから、ではもちろんなかった。

では、想像したいじょうに犠牲が大きすぎたからか?

名門各校の大学生や高校生などを、さらにはなんの罪もない所員、従業員や軍関係者を大義のためとはいえ、大量殺戮したからか?

それとも、広島・長崎ののち、人類にはもはやてに負えなくなった“魔物“を創造してしまったことを心底より悔いそして反省し、核廃絶運動をおこす科学者たち、所長のオッペンハイマーをはじめ、レオ・シラード、エンリコ・フェルミたちまでころした罪のおもさがドンとのしかかったからか?

犠牲となったニ万人超の人たちの家族や恋人、友人たちを悲しませる仕儀にたいしてか?

知ろうにも、溶解でもしたかのように、脳が機能しなくなった彦原。

だからその肚を正確にしる(よし)はもはやない。だが理由として、上記はすべてあてはまるのではないか、そう思議するのである。そのうえで、

下界の地獄を直視した刹那、敬愛してやまぬ平和主義者のチャップリンが、かれの所業にたいし、悲哀と憐憫(れんびん)にみちた面持ちをみせるであろう。それを想像し、胸がしめつけられたからでもあろうと。

彦原にとっての最高峰…希望そして人間の可能性、さらには宇宙と対等の存在と謳い人ひとりの命はなによりも尊いとうったえた名作“ライムライト”。同様のつよい想いで平和を希求した“チャップリンの独裁者”。巨星はゆえに、ヒトラーにたいし、おのれの命をかけて闘ったのだ。

==それにくらべ僕がしでかしたこと、ああ、なんと情けない…。すくいがたい、ちっぽけな人間やった…==凄惨を現出させたことが、魄を消滅させる引き金となった。かれの美徳であるやさしさゆえの心裡の声であった。

人へのやさしさを(たた)えた喜劇王の独特の表情をおもうと、じぶんのあまりの愚劣さに身と心の置き場をなくし、茫然とたちすくんだのである。

そのあとの彦原は、本懐とはうらはらな激甚殺戮を目のあたりにし、崩おれ、血涙をながすとともにただ詫びるしかできなくなっていた。

惨絶な甚大殺戮は、もとより承知していた。

にもかかわらず、百聞は一見にしかずではないが、巨大なキノコ雲を現実のものとしてみてしまうと、じぶんで自身がわからなくなってしまったのだ。

事前の想定など、あくまでも想像でしかなかった。

現実が、かれを再起不能となるまでにうちのめしたのである。

そして、頭のなかが宇宙のように真空になった廃人然の彦原茂樹が、そこにただぽつねんと……。

ならばやはり、かれはキノコ雲をみなくてすむようにすべきであった。その方法なら、なにもむずかしくはなかったのに。

想定では、相当ていど苦しむだろうと。しかしそれですむと、言葉はわるいが、そのていどに高をくくっていたようだ。

だが、にんげんとは、複雑な思考をする生きものなのである。

それにしても、見ずにつぎの目的地へと向かわなかった理由なら、律儀な性格によると書いた。

ずいぶん前から、心の深層に沈着していた贖罪の必要性。重罪からけっして逃げてはいけないと、せめても勇気をもって現実を直視する、多大な命を奪うものとして、それだけは最低限のつぐないだと自分に課したからだった。

くりかえすが、正視が自身にもたらすにちがいない逃げ場のない厳しさ。最悪、じぶんを徹して責めさいなむことは覚悟していた。やはり、自責こそがじぶんらしい処し方であり、もっといえば生きざまそのものであろうと。

そのために、米国上空75Kmで船を水平にし、地獄を凝視したのである。

それでもめげず、最後には、完遂するのだという使命感の強靱さと、じぶんに備わった天佑をしんじていたのだった。

 

だがかれのことは、いまはしばらくおいておく。

彦原の大罪により、しかし、広島に”リトルボーイ”(純度90%以上の高濃縮ウラン23560Kgを、火薬の爆発によりウラン塊同士衝突させて核反応を起こさせるガンバレル方式の核爆弾)を投下されることなく、おかげで約十四万人の犠牲者をださずにすむのだ。

同様に、長崎への“ファットマン”(英国のウィンストン・チャーチル首相のずんぐりした体型をもじって命名された原子爆弾のコードネーム、米国の分類番号はMk.3。インプローション方式で約8Kgのプルトニウム239のまわりに火薬を配置し、爆縮レンズによって一気に爆縮させ、核分裂反応を起こさせる方式の核爆弾)投下もまぬがれる。おかげで約七万五千人の尊い命がうしなわれずにすむ。

また両市の甚大すぎる負傷者、原爆後遺症に苦しむ方々もださずにすむのである。

さらには、1945年以降のソ連への多大な技術や情報と、科学者の流出も防げた。

(本来の歴史どおりなら)原子爆弾を、アメリカだけに独占させるのは人類にとって危険と考えたおろかな科学者たちクラウス・フックスやセオドア・アルビン・ホールが、終戦以降はいっそう、ソ連へ多大な情報や技術を漏洩するのである。

戦力を平衡にしておくことが肝要とそのさきで発生する事態も見通さず、愚昧(核兵器製造をさす)の二の舞をえんじるのだ。

この愚行がソ・英・仏・中などへの核兵器拡散につうじるとはかんがえなかった愚物なればこそ、さらには人類を全滅させうる核兵器競争をもたらすとの発想もできずに…。

まさに、悪魔の所為!

あきれはてて、もはや言葉をうしなってしまうではないか。

…ともかくも地上では、愚蒙(あほんだら)なスパイのおおくもこうして消えたのである。

あわせて、これで水爆の製造も不可能になった。水爆の父とよばれた魔物エドワード・テラーたちも、かれらが構築しつつあった理論も実験記録もすべて消滅したのだから。

じつは、みずからの計画立案の段階で彦原はふんでいた、マンハッタン計画を地上から消滅させれば、ソ連は原爆・水爆を製造できなくなるにちがいない、独自に核兵器を開発する科学技術をもちえないと。

たとえ敗戦後のドイツから、核開発に従事した物理学者を多数拉致していったとしても。

なぜなら、ナチスドイツは核兵器開発に失敗し、断念したからだ。

しかしだ。

杞憂にすぎないとおもいつつも、一抹の不安がのこった。どこまで核開発をすすめていたかという当時の情報をソ連が闇にほうむってしまったために、彦原としては疑心暗鬼にならざるをえなかったのだ。

それで前述のとおり念をいれて、スパイたちの蠢動(=虫などがモゾモゾ動くすがた)やソ連の科学者たちの策動を封じこめる必要をかんじた。たしかに、これにこしたことはないのだが。

やはり、ソ連製“悪魔”創造に加担するスパイと、創造者である科学者らをこのまま放置しておくのは危険だ。計画どおり、忠実にとり除くにしくはない。ことが原水爆製造にかんするいじょう、ここは非情に徹し、完全を期さねば禍根をのこすかもしれないと。

その科学者たちとは、原・水爆の製造をなし遂げる“ソ連水爆の父”アンドレイ・サハロフと、彼の師匠のイーゴリ・クルチャトフたちのことである。

かれらは暗躍したスパイたちから情報をえて、1949年八月二十九日、米国におくれること約四年後、原爆実験に成功した。

どうじにソ連政府は、「原爆はアメリカの占有物ではなくなった」とたからかに宣言したのである。

さらに水爆実験成功は、その四年後の1953年八月十二日であった。

だが、彦原が計画をやり遂げれば、まちがいなくこれらの愚行も歴史から消えるのである。あわせて、杞憂(=不必要な心配)も消えさるのだ。

とにかく、根絶やしにするしかないと。

アンドレイ・サハロフがこののち、五十歳を前に原水爆実験の反対運動を起こし、たとえ1975年には人権運動家としてノーベル平和賞を受賞することになろうとも、やはりかれを放置することはできないのだ。

核兵器完全消滅には、人的・物理的要件の観点から、製造を不可能にすることこそ肝要である。

相手より強力な兵器をつくることに狂奔する暗愚な人類の、未来のために……。

たとえそれにより、兄とも師とも慕うチャップリンの慈愛の眼が、画像の正面にあったとき、彦原にとってはじぶんに向けられた、憐憫からやがて(さげす)みの眼差しとかんじとることになろうとも。

 

ところで、コンピュータに指令しておいたとおり、米国上空をおおきくゆっくりと旋回していたドリーム号は、真っ白い抜け殻となったままの天才にはかまうことなく、船首をすでにロンドン上空にむけ飛行しはじめていた。

 

政治・軍事あるいは外交用語として、“核の抑止力”という言葉がある。

核兵器を所有する国家間において、核兵器使用やそれをまねきかねない全面戦争をさけることができると公言(巧言でもある)している。

しかし物騒なだけの、手前勝手な詭弁(一種の巧言)だと、彦原はみている。

冷戦下のふたつの超大国や、その後、核兵器を手にした他の常任理事国五カ国による、じぶんたちの都合に依りつくりだした暴論・謀論・妄論のこの欺瞞が、国際的核廃絶運動の平和力を削いできたのだと。

くわえて、欺瞞を本気にした、あるいは大国におもねった各国の為政者や学者たちらが、世界市民レベルの団結力をよわめ、または悲願達成のための涙ぐましい努力のあしを引っぱってきた、と彦原はしんじている。

だから反核平和運動には一分の怠慢もなかった、とも。

かれは同一苦するがゆえになげいたのだった、核兵器の暴発に(おび)えつづけたまま百五十年を、結果的に無為にすごしたあわれな民衆のことを。脅威の競争に明け暮れるおろかな人類を。

まさに、そんな愚者の代表が、所長のロバート・オッペンハイマーである。

かれは、人類初のプルトニウム型原子爆弾の実験成功直後、ヒンズー教の経典の一節「我は死神なり、世界の破壊者なり」とちいさく叫んだのだった、悔恨と自虐をこめて。

1945年七月十六日午前五時十九分、ニューメキシコ州はアラゴモードの砂漠にて、悪魔が大笑したであろうその強烈すぎる閃光をとおく眺めつつ…。

それは人類がみずからの滅亡をまねきかねない、おそるべき”サタン”を誕生させた瞬間であった。

戦時下、勝つためだと、まるでとり憑かれたかのように、必死でつくりあげた原爆。

国家的最重要命令の呪縛から解きはなたれたからもあろうが、想像をはるかにこえた巨大な破壊力という絶望的脅威を目の当たりにし、世界のおわりを身がふるえる実感で知覚し、ようやく気づいたのだ。

しかし遅きにしっした。パンドラの箱のふたを開けはなってしまったのだから。

所長は、後悔ゆえに唇をきつくかんだ、そんな科学者たちには慮外だったかもしれないが、”サタン”はその強大な破壊力に由り、みずからを増殖する機能=魔力すらも手にいれたのである。

つまり、脅威の破壊力が人間に前代未聞の恐怖心をうえつけ、畏怖がうむ強迫観念や疑心暗鬼が増殖の、その最大の餌(因)となったのだ。

さて一般論で恐縮だが、では、ふくれあがる恐怖心をなだめ(しず)めるために、ひとはどんな手をうつだろうか?

歴史に如実なのだが、敵よりも強大な兵器で、なにがなんでも武装しようとする。

この方程式が意味するのは、核兵器だともっと顕著になるということだ。で、おたがいが人類破滅のおろかな競争に明け暮れることと……。

こうなると、いくら生みの親であっても、もはや、元にはもどせない。

破壊力と畏怖の念と増殖力、それらが混在し、破壊力が畏怖の念を、畏怖の念が増殖力を、増殖力がさらなる破壊力をというように、それぞれを助長させるから、だからこそ、サタンはさらに巨大化していくのである。

コントロールされるのは、哀れにも、人間のほうだった。

 

サタンが増殖しつつ、より破壊力のつよいサタンをつくってゆく。

で、抗えなくなった人間は怯えて生きてきた。あるいは核兵器の存在を無視、またはわすれることで、じつは日々の、心の安寧をえてきたのである。

危機が消滅したわけではないのに、だ。

いつ暴発するかしれない爆弾をせおっている。これが、人類と宇宙船地球号の実相なのだが。

為政者たちは、とくに危機の実態につき口をつぐんできた。一切合切を正直に告白したが最後、そのさきで発生する、あるいは責任追及?や世相の深刻化、いやそんなものではなく、収拾のつかない上を下への大騒乱を恐れているのだ。

ところで彦原。光明のない、詮ずるところ先のみえない五里霧中の航路にやがておおきな狂いがしょうじ、ブラックホールがそのいき着く先となるのではないか?

真摯で純なだけに、不安が、少年の心に募りに募ったのである。

いずれにしろサタンを創った所業だが、所長が悔みきっても《あとの祭り》…ではとてもすまされない、以後の人類にたいする、あってはならなかった反逆行為なのだから!

そんなオッペンハイマーよりもさらにすくいがたい蒙昧(あほんだら)がいた。“水爆の父” エドワード・テラーである。

水爆を「マイベイビー」とよんだこの悪魔の申し子は、オッペンハイマーが目撃したのとおなじ強烈な閃光にたいし、「なんとまあ、こんなちっぽけなもの」と嘲笑(あざわら)ったのである。

これにすぎる、ひとを凍りつかさずにおかない言動があるだろうか。

この愚物は、人類を震撼させている狂気にすらいまだ気づかないばかりか、原爆に“核融合理論”というエサをあたえつづけ、はるか見あげても全体像がみえないほどに巨大化した水爆という名の“悪魔”を世におくりだしたのである。

 破壊力たるや、雲泥の差、なのだから…。

 

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核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第十章(中編)

五星霜(五年)超である、正確を期せば。研究所の副所長のときから、相談者などずっといなかった孤独ななかでの思考と苦悶の日々だった。

すすむも止まるも堕地獄の一年、また一年。くるしみ・なげき・さけび…それら無間(むげん)(=絶え間ないこと)の繰り返し。

挙句、足を踏みいれたところは精神の崩壊、その入り江の端だった。発進以降も三十九カ月ものながきにわたり、宇宙というなの無機質の空間にポッカリういていた天才の、決行という結論がうんだ悲痛な叫びとあえぎ。

ひとりを助けるためだけにひとりを殺すとしたら悪か?

では、十人を救うためにひとりを殺すのは許されるのか?百人のためなら善なのか?一万人のためだったら、犠牲も辞さないのは正義か?

むろん、正当防衛云々の法的論理では、当然ない。

じつはこの、救済と殺人の対比にたいするこたえだが、かれはすでにだしてはいた。しかしだからといって、正解だともおもっていない。

ただ幸か不幸か、かれの邪魔をする人間のいないなか、思慮の時間ならたっぷりあっただけである。それがよけいに、天才の精神をむしばんだのだが。

…無間の熟慮の帰結ならいわずとしれたこと、「それでも悪!」だ。

善悪論だけなら、明快だった。許されざる行為だと。

古来よりいとなまれてきた非文明的で非道な生贄(いけにえ)…。不条理であり、まやかし以外のなにものでもないと、少年期よりかれはつよい憤りをもって断じてきた。

にもかかわらず、いまみずからの手でそんな悪逆の生贄を…二万人超、場合によっては三万人をもこえるかもしれない人々の尊貴な命を、べつの歴史の足下(そっか)にさし出したのである、冷酷にも。

やさしさと理性がその人格を形成しているひとりの天才、かれの心奥から湧きいでた、だからこそのおおいなる矛盾。それでも、しでかしてしまったのだ。

理由は二つあった。

==じぶんなら広島・長崎における何十万人の命を救える、救ってさし上げられるのだ。なのに、たかだか善悪論からえた結論のために手をこまねいていろというのか…==彦原にはできない相談だった。

そして…さらにはおろかな人類を永きにわたり、核兵器の脅威からすくうために。うつくしい、宇宙のオアシスのような、この奇蹟の惑星・地球を放射性物質でけがさせないためにもだ。

しかし、しかし…。

つかれてベッドにもぐりこむたび、懊悩がぶり返した。いつまでたってもどこまでいっても堂々巡りするばかりだった。悪夢にうなされない夜はなかったのである。

数十万人を救うためとはいえ、払われる犠牲。だが、だれがその犠牲者をえらび決めだす権利をもつのか。

==じぶんごときであろうはずがない!けど、実行すれば結果的にはぼくということになる。不遜にすぎないか!==

カオスのような精神状態となり、この時点で思考に、もはやかれ本来の論理性はなくなりつつあった。

ならば、絶対者としての存在をかりに認めるとして、神なら生殺与奪の権利をもつのか。

そんな暴論で犠牲者が納得するはずがない。まして、犠牲者の無念を救済できるはずもない!

それとも、彦原が存在しないと断言する神がいて、そのひとたちを復活させられるとでもいうのか。

「…バカな!」おもわず鋭く叫んだ。それでも思考をきわめようとあがく彦原。だが、自己矛盾にまどい、いつしかじぶんを見失っていった。

たとえ自然律や道理を超越した存在であっても、生殺与奪の権利をば有しえないと断じていた。

にもかかわらず、ひとりのちっぽけな人間にすぎないおのが手で、多大な、のひとことではすむべくもない命を、人命を奪うのだ。

いっぽう、彦原はこれにも気づいていなかったが、もともと円満具足(=すべてが揃っている)ではなかった論理が、ここにきてより(いびつ)になり、ほころびすら露呈しはじめたことに、である。

暗黒の宇宙にあっての孤独な、千ニ百日間の思慮と、そして迷い、煩悶。

1945年以降の助かる人類と、そのために犠牲となる人々。

その人数の差がおおきければ、悪を善へと変転できるのか?それを、正義とよべるのか。熟慮のなか、==なにを青二才みたいに。もっと大人になれ!==とみずからを叱責した。ああ、その数、しれず。

ならばとの自問。大人とは?…《大の虫を生かして小の虫を殺す》という諺に首肯するひとのことか?よりおおくの命を救うことは、たしかに善にちがいない。

問題はだから、少人数(ニ万人超をあえてそうよぶ)なら犠牲はやむをえないのか、だ。

犠牲者をださずに、核兵器にかんする理論や実験および製造資料・データ類・工場や研究所などをことごとく消滅させる手段があればそれにこしたことはない。

じつは副所長に就任するまえまでの一年間、仕事の間隙をぬってあるいは食事中や帰宅後など時間のゆるすかぎり、かすかな望みにすがるようにその手段をみつけることしか考えない日がつづいた。

だが結局、おもいつかなかった。そんな夢のような話、あるはずがなかったからだ。

犠牲者をださずにすむ無血革命など、しょせんは夢想だ!絵空事でしかない。

歴史上の偉業であるフランス革命・アメリカ独立戦争・奴隷制の是非がぶつかった南北戦争・明治維新・おおくの死傷者や逮捕者にみまわれつつ長期にわたりつづいたアパルトヘイト撤廃運動等々。

どれも多大な流血をともなったではないか!

人類は、阿鼻叫喚(ひじょうに悲惨で、むごたらしいさま)を具現する戦争のうえにしか理想的社会を成就しえないのだ。

そう結論したとき、あまりに悲しかった。無性に口惜(くちお)しくおもった。かんだ唇から鮮血が流れおちた。心が、ドリルで()まれでもしているかのようにはげしく痛んだ。そして空耳とはおもえない振動をともなう不気味なうなりに、畏怖したのである。

自己崩壊がはじまった音とは気づかないまま。

彦原は、世にもおそろしいことをたくらみながらも、自己崩壊に気づかないでいるぶん、本来のかれの良心は、阿鼻叫喚の具現を阻止できないままとなっていた。

彦原版ホロコーストをくわだてるじぶんを、夜毎にせめ苛んだのだった。葛藤や自己矛盾経験後の自己苛虐。

それは“決行!”と、じしん、心奥で決定したからにほかならなかった。

結果、自分を責めたてつづけてきたのだ。

《大の虫を生かして小の虫を殺す》…この、

最善ではありえない選択。否、最善など存在しえないなか、それでもとおく見劣りする次善ではあろうと彦原。そしてこれが、思慮分別のある大人とやらの見解なのだろうと。

しかしそれでもなお、多大にすぎる犠牲者をうむこの次善論すらも正直、詭弁としかおもえないのである。

やはり、「悪は悪だ!」

それなのに、ニ万人をこえる犠牲者をだしてまで、なぜ強行するのか?

いや、ニ万人超では済まない、すむはずがない。

シカゴ・パイル1号から噴出する放射性物質は、一部とはいえシカゴ市民を巻きこむにちがいないからだ。また、オーク・リッジ近郊にはノックスビルという都会もある。風向きしだいだが、犠牲者はさらにふえるかもしれない…。

それでもなお、おまえというやつはなぜ強行するのか?必ずや後悔するぞ!いいのか、やめる選択肢はないのか?

そう、彦原は毎日()く(そして飽く)ことなく、自答をこころみた。こたえをだしてはさらに熟慮した。悶えくるしんだ。すると自然、涙があふれでた。

そんななか、ひねりだしたひとつの帰結。

まちがいなく、これだけはたしかにいえる、「歴史とは残酷なものだ」と。

マンハッタン計画という歴史上の事実がなければ、核兵器は誕生しなかったであろう。(ことは、そう単純ではないのだが)

信長が腹心とたよりにしていた惟任光秀による謀反。異見は存在するのだが。

また、カエサル(シーザーは英語表記)の暗殺に加担の、腹心だったブルータス。

さて、でもって、歴史を、人間に置換してもこの方程式は成立するにちがいない。というよりもじつは、人こそが残酷な存在なのだ、きっと。

人間、つまり現生人類であるヒト。人類が地上にて覇をとなえたといえるのは、ラスコーやアルタミラ洞窟壁画が描かれた一万五千年前か?最古の、メソポタミア文明を生みだした五千五百年前か?それ以前だとしても、地球誕生からの、四十六億年の悠久からみれば、しょせんは最近でしかない。

そんなちっぽけな生きものがぶんをこえて創造し、母なる地球に、あろうことか災禍をもたらす、核兵器。

これこそが彦原には、恨めしくうとましい存在なのだ。否、悪魔そのものでしかないのだ、まさに。

おもえば、八百万前とも五百万年前ともいわれる人類創生のころ。

猿人はあまりにも非力であった。牙や角をそなえず走力でも勝てない草原居住のかれらは、まさに劣弱だった。身をまもるため、だから団結・協力するとともに、みなで木や石を手にしたのである。

進化した原人は火をつかって肉食獣を撃退しつつ、食料をえるために簡単な石器をつくり狩猟にいそしんだ。

旧人は火を自在にあやつり、槍や弓矢といった武器もつくりだした。それらはある意味、家族や仲間の尊い命と引きかえに手にいれたものだ。身内の犠牲に嘆き悲しみつつ、野獣をうち負かす方法として武器を編みだしたのである。

しかし人類が、欲のためつぎに矛先をむけたのは、肉食獣にではなく他の部族に、だった。

こうして、さらなる犠牲のうえに武器は進化?した。やがて人類は殺しあいのなかで知識と知恵をえた、とは過剰表現かもしれない。が全否定まではできないだろう。

このようにして現代は、数えきれない犠牲者のうえに存在している。ならば犠牲者をだしても、悪魔を根絶できるならゆるされるのではないか?少なくとも必要悪であろう、と。

深慮に深慮をかさね、彦原はそうきめたのだった。

すると、またしても混乱にみまわれる。

いやちがうと。現時点でかんがえれば“はじめに結論ありき”でなかったと、否定することはできそうにない。となるとしょせんは、“必要悪”も詭弁だ。

そう、まごうことなき矛盾である。《大の虫を生かして小の虫を殺す》を“悪”と断じ、そのうえで、その悪を実行しようとしているのだから。

やはり、歴史が残酷、なのではなく人間が、ちかい将来においては彦原が残酷なのだ。

その彦原は、数十万人を救うため・将来の人類のため・地球環境のためと理屈をこねにこねた。

そこにしか大義名分を見出せなかった。また、心の逃げ場もなかったからだ。

彦原茂樹十二歳時の悲願。それは、地上から核兵器を一掃する!純粋にただそれだけだった。だから十九年後において、結果的にははじめに結論ありきの理屈ではあっても、核兵器完全消滅へのおもい自体は、いまも錆びることなく百%純だ。

私欲などの邪念はもちろん、俗念もふくめ毛筋も存在していない。ただただ、人類と地球をまもりたい、その一心だった。

それでもかれの良心がはげしく(うず)いた結果、自己叱責および自己嫌悪としてあらわれ、事実、吐き気をもよおした。結句、自身を憎悪しそして呪ったのである。

ときに、十二歳から約十九年以上追い求め続けた“核兵器完全消滅の完遂”は、天才科学者の理性に依ったものでも哲学から生じたものでもなかった。

 有り体にいえば、強烈な感情論であった。唯一のおもい、それはほかならない「核兵器だけは、絶対に使用させてはならない!」だ。

いちばんの犠牲者は、非戦闘員である。なかんずく、子どもたちと女性たちではないか。

そんな不条理、いや、悲惨をこの地上からどうしてもなくしたかった。武器のなかでも悪魔の産物=核兵器だけは、このよから根絶したかった。その理想が、(おびただ)しい血にまみれつつも、まさに実現するのだ。

感情論の下地は、長崎原爆資料館見学を機に、母親になりかわり育ててくれていた伯母からきかされ、いらい耳朶にこびりついてしまった話である。見方によっては、伯母の話は卑近ともとれよう。

しかし切実とばかりに、多感な少年はおもわずもらい泣きしたのだった。

じつは、彦原の六代前の先祖である女性には、決まった婚約者がいた。

太平洋戦争に学徒動員でかりだされ、マレーシアの戦線にて脚部を負傷し帰還した男性であった。半年後、走るのに難儀はのこったが歩行には支障ないまでに回復していたらしい。

その男性は結納のすぐあと、入社二年目の新聞記者として、大阪本社から特命をうけ急遽広島におもむいたのである。1945年八月六日に投下された新型爆弾の取材のためだった。

そこで残留放射性物質により被爆し、一週間後、現在の病名でいうところの消化器多機能不全、つまりは、放射性物質による消化器系の機能障害で亡くなってしまったのだ。

先祖の女性は、目の澄んだ凛々しい青年に好感を抱き、結婚を楽しみにしていたという。

婚約者の男性はもちろん、大阪在住だったため放射性物質を浴びなかった六代前の先祖である女性も、原爆の哀れな被害者であった。

近代戦争の一番の被害者は、一般市民である。広島・長崎に投下された原爆は、瞬時に数十万になんなんとする人命を奪い去り負傷者をつくり、のちのちまで被爆者を塗炭の苦しみで(さいな)んだ。

彦原少年はつい、「核兵器だけは…」とつぶやいた。

が、化学兵器や生物(=細菌)兵器なども同様に、だとおもっている。ぎゃくに、それ以外の兵器ならばよいというのでも、当然ない。あるていどのものなら許される、ともおもっていない。

では、なぜ核兵器に限定したのか。

他の兵器にくらべ“規模がちがいすぎる”、では、すこしもその実態、つまり他の兵器との格差を表現できていないとかれはかんがえた。

あえていえば、「核兵器は、人類の存亡にかかわる地球規模の悪!だから」だ。各国が所有する核兵器で、全人類をなんども殺すことが可能だというおそろしい現実を、多情な思春期にしった。

純粋な時期だけにいっそう、言いしれぬ衝撃をうけた。正直、少年彦原は最初、「なんどでも殺せる」を、じぶんの聞きちがいではないかと(いぶか)ったほどだ。

いちぶんの虚偽もない真実だとしると「バカ野郎!」と、創ったやつらにたいし吐きすてるように罵った。

しかしやつらは悪魔を創っておいて、地上と歴史に悲惨をのこしたままさっさと死んでしまっている。無念にも、責任をとらせることができないのだ。

しかし「そんなバカな…、こんなことがあってええんか!」、納得がいかなかったぶん、もってゆき場のない怒りが鬱積した。しだいに、ねむれないほどに義憤が増幅していったのである。

==なんとかせなあかん!このままやと、人類はいずれ滅んでしまう=­=少年は、本気でそうかんがえたのだった。

それから十九年強、純粋な心からはじまった夢…その、核兵器完全消滅が、目前なのだ。

そのためのあまりの暴挙。彦原自身もきづかない心の奥をだれかが探れば、大義とはべつの隠れた動機を、あるいはみつけたかもしれない。

創造者たちに責任をとらせたいとの、これも感情論の。

しかしそれはさておくとして、夢を現実のものとするにあたり、これほどの多大な犠牲をともなうことまでは、十二歳の少年にはおもいもよらなかった。天才とはいえ、具体的な計画があったわけではなかったからだ。

ただただ少年の心を支配していたのは、原爆を創らせないようにすべく、ワームホールをつかって、過去の地球にいくための理論を構築する、それだけだった。

とにもかくにも、十数日後には“核兵器完全消滅の完遂”をはたせるのだ。

いやいや、しかしそのためには、マンハッタン計画を完璧に駆逐したそのあと、さらに十人以上の命を奪わなければならない。

==それでも…まもなく==夢をかなえられるところまできた。

とはいえ歓喜に狂喜乱舞する心境、とは真逆の心情だったのである…。

 

ところで、原爆投下について。この史実を考察せずして、彦原の懊悩等はかたれない。

米国はこのおのが大犯罪を、人類になした極悪な大虐殺をごまかすために、ウソ偽りで修飾し、偽善化し、あまつさえ正当化までしている。

その言いぶんだが、しょせんは暴論であり、妄論でしかない。

彦原は、本来、真実であらねばならない歴史の、勝者による歪曲および捏造だと断じた。

少々ながくなるのだが、歴史上の事跡と、そこから導きだしたかれの見解はこうだ。さらに、宇宙に三年三カ月余いたあいだの回想もまじえて…。

1945年二月、ヤルタで米英と結んだ密約により、ソ連が日ソ中立(不可侵)条約を同年八月八日深夜、いっぽう的に破棄しどうじに宣戦布告、南樺太と千島列島および日本が(軍閥や財閥らによる暴挙だったとしても)実効支配していた満州国などに、1945年八月九日午前零時、突如侵攻してきたのである。

あきらかなる条約違反であり、ゆるされざる国家的大犯罪だ。

帝国陸軍上層部は日ソ中立条約の有効を、まだ期限内だからと盲信していた。手がまわらないという事情もあり、ソ連との国境の防備は手薄であった。多方面で展開していた戦線に人員をむけていた、というのが実態だった。

寝耳に水の侵攻に、日本軍は入植していた日本人をまもることなく投降、いちぶは潰走した。ここかしこ銃器炸裂する混乱のはて、そこは無法地帯と化した。

にげまどう民間人は財産をうばわれ、抵抗すれば命までも蹂躙された。その数、しること(あた)わず(知ることはできない)だ。

また、性的凌辱された女性たちの悲鳴はくる日もくる日もやむことなく、どうようの殺戮の断末魔とあいまって、街といい村といい、壁や畳や庭に刻みこまれたのである。血となみだは暗い黒色へと変色し、大地を悲惨一色に塗りこめたのだった。

また民も兵も拉致され、シベリアの開拓などに無賃労働力として、数十万人が拘束されたのである。

無条件降伏した、しかも非戦闘員にたいしても見境なく、である。こんな表現ではとてもすまないが、一大犯罪であり、悪逆であり非道でしかない。しかも150年間、ろくな謝罪もしていない。

米国による原爆投下の前後数年の各国の歴史に鑑み、さらに未知の知識をえるなかで以下、悪逆非道の具体をしった彦原は、憤りをこえ、はらわたが煮えくりかえったのである。

衣食住すべてにおいて劣悪な環境下、奴隷、いや家畜以下のあつかいをうけたのだ。極寒、食糧不足、不衛生、過労働、非治療……。

奴隷や家畜は売買の対象となるぶん、持主として死なれてはこまる。損をするからだ。ひととしての、憐憫(かわいそうに思う)からではない。

いっぽう、拉致した人々が死んでも、ソ連にはなんの損失も発生しなかった。なぜなら、ありあまる奴隷以下の日本人らで、あふれかえっていたからだ。

結果、五万人をこえる死体を、ソ連はつくったのである。しかも遺体は、犬猫以下としてあつかわれた。

五万人超といえばひとつの町いじょうの人口。個々それぞれが尊厳であるべき生命を、しかもそれほどの人間を、虫けらのごとくにこき使ったのだ。この残虐無比!

“シベリア抑留”という、たったの六文字でしるされてしまった、これが、恥ずべき歴史上の実体である。

ジュネーブ条約批准の有無や国際法の有効性を論議するまでもなく、まさに非道の、ゆるされざる国家的大犯罪だ!(いっぽう、日本も朝鮮半島の人々を九州の炭鉱などで強制労働させた事実、決して忘れてはならない!)あまりにむごい史実だから、強調せざるをえなかったのである。

しかし、たんに恨みごとをうったえたいのではない。

世界はこの凄惨酷虐を、子細にわたりしるべきである。

戦争というものが、いかに愚蒙であるかを不忘のものとするためにだ。

そして、ひとに辛酸苦汁と血涙をなめさせ、地上には地獄を現出させる万害だと、心にきざみつけるためにも。

ところでソ連軍急襲の報に、超ド級の戦犯(東京裁判に()らずとも、(おびただ)しいかずの若者を騙して戦地におくりこみ死なせた事実。それだけでも万死にあたいする大罪だ)である東條英機は、顔面蒼白になって(おのの)いた。

ちなみに、英機ではなく“不出来”と呼ぶべき、と彦原はいつも冷眼視している。

さて、おろかでは褒めすぎの軍部政府といえども、さすがの事態に敗戦をさとり、翌十日、鈴木内閣は連合国側へポツダム宣言第一回受諾表明(=事実上の敗戦承認)を、腰をぬかしながらしたのだ。

が、受諾を、ほとんどの国民にはしらせなかった。

当時の日本は議会が形骸化し、軍部が実効支配する実質的独裁国家だった。一般国民は実態上からみて、隷属させられていたにすぎないのである。

軍部はいっぽうで、六日広島と九日長崎に大量虐殺をもたらした原爆投下を、新型爆弾による大規模空襲ていどにしかとらえていなかった。

すくなくとも、大本営はそう発表したのである。原子爆弾や放射性物質の存在をしらなかったとすれば、この甚大な脅威を認識すらできなかった体たらくということだ。しっていたなら、信じられないことだが、国民の命など価値なしとかんがえていたことになる。

数百万人の餓死者をだして平然としていた、二十世紀中期から二十一世紀にかけ朝鮮半島に(きむ)一族がきずいた時代錯誤の邪悪な王朝とまるでおなじだ。独裁国家に茶飯事でみられる、今日(二十一世紀末)では信じられない非道である。

さらにいえば、原爆にたいし正当な認識、つまり核兵器や放射性物質が激甚被害をもたらすという認識をもっており、あるいはすくなくとも国民の生命に正当な価値を見いだす正眼を有していれば、制空権をうばわれたゆえの東京や大阪などへの大空襲や、約十九万人の戦死者をだした沖縄戦とそれ以前の壊滅的敗戦(硫黄島での全滅、ほか)および広島の被爆により、即決で「もはやこれまで」と敗戦の明白を判断できたはずだ。

この当然にして正当なる判断を軍の上層がしていたならば、ポツダム宣言第一回受諾表明は、七日かおそくとも八日となっていなければ説明がつかない。とは、彦原にかぎらない見解である。

この事実から導きだされる結論、それは、被爆とポツダム宣言受諾表明との因果関係だが、まことにもって希薄ということだ。

その論証をひとつ。1989年に公開された米陸軍省諜報部の1946年時の文書に、「日本の降伏に原爆はほとんど関係なかった」とある。つまり、「投下した原爆(の激甚な被害)が戦争の早期終結をうんだ」という米国政府や同市民の言いぶんは、ゆるされざる偽善・欺瞞のたぐい!となるのである。

史実からの結論。それは、九日のソ連侵攻こそが、ポツダム宣言受諾を決断させた、だ。

彦原はまた、1980年代から90年代におけるいくつかの論文を、高校生のときに読んでいた。おかげで、偽善・欺瞞だ!とのおもいを決定的にしたのである。

それらの論文のひとつの執筆者は、米スタンフォード大学の歴史学教授バートン・バーンスタイン氏だった。

冒頭、部外秘だった米空軍史を数度にわたり資料請求し、数年後ようやく、一部を入手できたことで論文発表にこぎつけられたと記していた。

空軍が極秘文書の、少量解凍を許可したのは、投下後四十年ちかくたち、トルーマンをはじめ関係者が鬼籍入り(死亡)し、直接の非難がおよばないと判断したからだろうか。あるいは情報公開の先進国だからか。

それはともかく、氏のをふくむ数種類の論文、その要点の抜粋は、つぎのとおりである。

1.広島への原爆投下の最終命令をだした当時のトルーマン大統領の、「軍事施設破壊のための投下」発言はウソだった。

2.「日本への原爆使用は慎重であるべき」とするアーネスト・ロレンス(先述の物理学者)博士の意見は黙殺され、軍最高会議にて、広島の住宅密集地や商業地区への投下で決したのである。よって、軍事施設破壊が目的でないことは明白であり、非戦闘員を対象としていたこともうたがう余地がない。しかも投下時間を午前八時十五分とした。夏休み中の子どもたちがそとで遊びはじめる時間、また、就労者の通勤時間を狙っていたのはあきらかだ、とも。

3.日本の戦力を削ぐことで戦争終結をはやめようとした、というのもうたがわしい。1945年前半の日本軍連戦連敗で終戦はまぢかという戦況において、非戦闘員は、戦力としてはよわすぎるからだ。軍需労働力としても、また、数年から十数年後の戦闘員としても。

4.市民大量殺戮は、ハールハーバーにおける一般人をふくむ米軍兵士を殺した日本にたいする、軍部としての懲罰的意味あいが濃厚。

5.くわうるに、真珠湾攻撃にたいする意趣がえしも。要は、米市民の怒りを慰撫するための報復であった。

6.十九億ドル(1940年代前半の貨幣価値に鑑み、莫大な費用だったろう)をかけての核兵器開発にもかかわらず未使用でおわれば、政権はやがて国民の圧倒的批判にさらされる、そう危惧した。巨費にあたいする対価、つまり成果をしめす必要があるとの強迫観念にくるしんだ結果だ。あえていえば、政権維持のためだったと。

7.トルーマンもマンハッタン計画を許可したルーズベルト大統領も、日本人を人間未満の存在とみていた。原爆投下による甚大被害にも「心をいためることはなかった」と、トルーマンは後日のインタビューでこたえている。犬猫の命でさえ…いわんや、だ。国内むけの政治判断をはたらかせた言だったと割りびいても、“人間あつかいしていない”以外にいいようがない!

ちなみに、フランクリン・ルーズベルトによる日本人強制収容政策(4246年に実施、米国だけでなく連合国にも強いた)も有名だ。日系アメリカ人をふくみ日本人というだけで住居・財産などをうばった非人道のきわみである。

ナチによるアウシュビッツ云々ほどに有名でないのは、日米の力関係か、日本人がやさしすぎるのか、寛容なのか…。

これを少年時にしったかれは憤怒や苦痛を堪えしのびつつ、それでも誇張や誤謬はないかなど、日にちをずらし視点をかえてなんども読みかえした。そのうえで、論文にあった証言や状況証拠は信頼でき、説得力もじゅうぶんだとかんじた。

よって、1から7までの論旨の合理性に納得し、この論文群は信じるにたると。

それだけに無垢な胸は、あるまじき酷い内容におし潰されそうになった。どうじに、戦争のほんとうの恐ろしさ、戦争がもたらす狂気をいやというほどにおもい知ったのだ。

あまりに強烈な事跡。しかもそれにくらべ何十万人も殺した原爆投下が、おどろくほどに軽薄な理由からだったとの事実。

しかし日にちがたつにつれ、かれは冷静さをとり戻したのである。

史実が論旨をうらづけているともしった。最後の読了からひと月たっていた。

それら、史実のごく一部。

その1、追記となるが、強制収容所への非道で事由なく自由をうばった隔離政策。ただ日本人の血がながれているというだけで(スパイ活動や破壊活動への予防処置という理不尽な理由によった)、すでに米国市民になっていたひとびとの財産などをうばったうえ、非合法にもかかわらず、むろん犯罪者でもないのに囚人あつかいの過酷な生活を強いた。しかも年齢や性別も考慮せず、つまり子どもや老男女にすらもどうようの苦しみを強いたのである。もはや、報復だったとしか解せない。

その2、軍事施設破壊のための投下ならば、広島県呉市の軍需造船工場こそ有効な標的だったはずだ。しかし、市民の殲滅が目的だから中国地方最大の都市広島市、であった。

その3、アイゼンハワー連合軍最高司令官(のち、三十四代大統領)をはじめ、マッカーサー元帥など陸海軍最高幹部のおおくが原爆投下に反対していた。

その理由だが、①まもなく投了する日本への原爆投下は悪価値をうむだけ。②なぜなら日本人の反米感情を決定的なものにしかねない。③さらに戦後の占領政策の支障となるだけ、というものだった。

それにしても「てまえ勝手すぎる」内容に憤慨した。最大歩ゆずって、戦時下という特別非常時だった、そう認識しても、米国人による自国益だけのための論理に慷慨したのである。

くわえての、米政府の政策において看過できない大犯罪。

原爆投下はいうにおよばず、その正当性顕示のための我田引水の主張、つまり戦争の早期終結のためだった、だけでなく、日本国民救済のためだった、との偽善・瞞着の暴論を教科書に堂々とのせ、自国の子どもに欺瞞にみちた教育を強いていることだ。これでは、教育というより、もはや洗脳ではないか!

憤懣は増幅するばかりであった。が、いずれにしろ…とかんがえるなかでぶち当たる、中学生のころからながきにわたり懐きつづけた当然の疑問。「とくに、その3の投下反対の多数の意見を無視してまで、なぜ原爆を投下したのか?」だ。

だがそのまえに彦原が、東條ひきいる軍事政権をどうみていたかについて加筆しておきたい。

兵法にかんする知識は貧寒(とぼしい)だったが、それでも【戦争とはやっかいなものだ。だからこそその開始と終結の時期等の判断にこそ、軍首脳の優劣があらわれる】との戒めくらいはしっていた。この点においても、東條を、やはり“不出来”と断じた。大局をもっていなかったからだ。

いっぽう、国力の差から対米戦に反対しつつ、開戦と決した暁には、「短期決戦・早期和平」との大局をしめし、もって、今日でも評価される山本五十六とは天地の差をかんじてしまった。ただし、「短期決戦・早期和平」の信憑性をうたがう説もあるが。

さて、日本は、ミッドウエー海戦の敗北いらいのあいつぐ敗戦で、1945年初頭、すでに戦争を継続できる状態ではなかった。国民の窮乏はいうにおよばず、燃料も爆弾製造の材料にもこと欠いていたのだ。

さらにこんな事実もあった。三度にわたり総理大臣をつとめた近衛文麿の発言である。1944年七月九日、サイパンが陥落した直後、「東條に最後まで全責任をおわせるようにしたらよい」と。

敗戦は必至とわかっての発言だ。卑怯なこの愚物は、敗戦の責任をのがれるべく手をうった。だけでなく、開戦の責任のがれまで画策したのである。

たしかに開戦前においては、外交決着にうごいてはいたが本気の度あいはうたがわしい。戦後、A級戦犯として逮捕がきまったのは、開戦の責任のがれに奔走するばかりで、戦前から戦中にかけて為政者として戦争回避あるいは停戦にかんし、無為だったからである。

「政治上おおくの過ちをおかしてきた…」云々と遺書にあるとおりだ。そしてかれは軍事裁判からのがれるため、逮捕前に自殺してしまったのである。

このていどのやからが一国の命運をにぎっていたということだ。

さてと、もうこれいじょう、かような愚昧どもに時間を割くひつようはないであろう。

肝心なのは先述の兵法、戦争終結のための火急の判断についてである。

日本が連敗にまみれるなか、いっぽうで、最大の同盟国であったナチスドイツが1945年五月七日に無条件降伏を表明してしまった。

じつはこの直後こそ、降伏という絶好のチャンスだったのである。なぜなら最後の同盟国が降伏したということはとりもなおさず、これからは、連合国対日本一国の戦争をいみするからだ。

世界を敵にまわしたわけで、敗戦は、うごかすことのできない既定の事実となったのである。こうして追いつめられたにもかかわらず、「本土決戦、神州必滅、一億玉砕」と狂妄の軍部政府は、おろかにも戦争を続行し、好機を逸してしまったのだ。

上記漢字十二文字の、ありえないほど愚劣にすぎるスローガン。この信じがたい能天気ぶり、人命がかかっていなければ、噴飯ものである。しかし死者のあまりの膨大さ、それをおもわずとも、噴飯どころか、慷慨がこみあげてくる愚策だ。

もし、太陽に闘いをいどむバカな蜂がいるとしても、脳乱の軍部政府は、それをわらえない。

いじょう、暗愚な指導者連のせいで、日本国民は最悪の事態をむかえたのである。

いごの沖縄戦などで、自国民(ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊はその象徴)は(いたずら)に、死においやられたのだった。

孫子は「利にあえばうごき、利にあわざれば止む」として、無益な戦争を愚劣と断じた。また別記で、長期の戦争も愚行とといている。愚昧な東條不出来以下、軍部も傀儡政府もそろいもそろって「無能で劣悪な国家指導者たち」と、彦原は結論づけたのである。

いっぽうで軍部の傀儡政府は、ソ連に戦争終結の仲介を依頼しさらに期待までしていた。あきれるばかりの史実である。()人任(とまか)せほどあてにならないものはないのに、それすらもしらなかったのだ。一国と全国民の命運をにぎっているという自覚の欠落にたいし、言葉をうしなった。

このように、冷静なあるいは正当な判断すらできなかったのは、度しがたい「凡愚と頑愚の徒輩だった」からだ。さらにおもった。

日本国民だけでなく、近隣のアジアのひとたちにも、当時の敵国人にたいしても塗炭の苦しみを()いつづけた愚劣の(やつ)(ばら)だったからだと。

ところで米英ニ国は、戦争の終結をすでに模索していた。

国家支出の八割をこえる、莫大というよりも異常そのものの戦費が国家の財政を逼迫させ、自国民の犠牲も増大の一途(向後の国家的労働力不足を引きおこす事態)だった事由による。

戦勝しても、このままでは国家が破綻しかねないとの危機感をもっていたのだ。

三年をこえる戦争は、孫子の寸鉄をかりるまでもなく、ながすぎたのである。終戦こそ最優先課題ととらえたルーズベルトとチャーチル英首相は、ここかしこで協調しあった。

大日本帝国とちがい、すくなくともこの二国は内政において大人の冷静さをたもっていたのだ。

ときに、大戦末期における米英協調最大の産物とはなにか。

連合国であるソ連邦の独裁者スターリンに、日ソ中立条約破棄をせまったのが米英首脳だったという史実からしれる。両国の利が合致した外交的決断であった。

これを、1945年二月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国三大首脳がかわした極東密約、別称ヤルタ秘密協定と史家はよぶ。

ソ連軍が条約を破棄し日本にむけて侵攻することを、だから米国は当然、六カ月前から織りこみずみだったのである。

ではと、ここで再度の疑問。彦原が中学生のころから懐きつづけた疑問だ。

なぜ原爆を投下したのか?その背景には、米国の思惑など既述した歴史的事跡があり、バーンスタイン教授などが指摘した4から7までの政治・軍事上などの専断的理由もあったのである。

こうしたことに立脚したうえで、彦原が想像したさらなる理由。

原爆投下は結局、終戦後の外交益=対ソ連との冷戦を視野にいれた世界戦略という自国益のためだった。どうじに、敗戦表明を引きだせるとかんがえた米首脳の存在の可能性もある。

ところで、日本がソ連に停戦仲介を依頼していたと既知の米国は当然、ソ連参戦まぢかもしっていた。そこで米政府はソ連軍侵攻により、日本軍部政府の退路をたち、降伏を一日もはやく表明させる手法にでたのだ。

いっぽうで、ソ連がのばすであろう触手の範囲(支配下の領土あるいは影響力)を最小限にとどめねばならない。だからソ連参戦は両刃の剣で、綱わたりのように危険なものだった。

当面の敵国日本に決定的ダメージをあたえられるかわり、身をきる覚悟もせねばならない。大統領の指示のもと、米軍はおそらくベストからワーストまでをシミュレーションしたであろう、との想像は容易にできる。

そして現実には、すべて、米国にとっていちばん望ましい思惑のとおりとなる。自国はほんのかすり傷ですんだのだった。

おかげで、日本だけが深手をおわされた。北方領土はうばわれてしまい、昭和・平成と弱腰外交に終始した無能な外務省の無為のせいで、国民、とりわけ道民はながく苦しんだのだ。

が、日本戦後の歴史的内憂外患はさておき、米国の思惑だが、ここも読み勝ちであった。

それは、ソ連の突然の侵攻に東條以下、あわててポツダム宣言受諾を表明したからだった。米政府は、してやったりとおもったことだろう。

それをうけ、連合国側として日本政府とつめの協議の結果、八月十四日、日本の無条件降伏をソ連政府に通告している。

おかげで侵攻する大義名分を、ソ連はうしなった、はずだった。

ところが旧態依然、南下政策を国是としてきた共産党ロシア政権は、あいかわらずの汚い手をつかい、九月一日まで、ということは受諾承認から十八日間も侵略しつづけ、北方領土までも不当にも占領したのである。

だから彦原は、歴代ロシア政権に、よい印象をかすかにすらももっていない。

まあ、かれの個人的好悪はおいておくとして、くだんの原爆投下だが、外交上さらにさらにべつの理由もあった。理由は多重で複合的だったのである。つまり、

二度の、種類のちがう原爆投下は、軍事目的とどうじに外交的手段でもあった。

戦後の仮想敵国ソ連にたいし、未曽有の大規模破壊兵器所有をみせつけるためでもあったのだ。

圧倒的な軍事優位をしめすために、だった。対ソ連外交上、原爆という圧倒的兵器が威力を発揮すると判断したのである。

いっぽう、米科学者の一部の愚かものがスパイとなり、ソ連に原爆製造のための決定的情報をながしたのは、ぎゃくに米国絶対的優位は世界にとって脅威となり、不幸をもたらすと愚考したからだ。

が、この問題、いまはおいておくとして、貪欲にも米政府は、外交上ゆずれないべつの戦略も有していた。極東に位置する日本を支配下におくことだった。

そのためにどうしたか。ムチで日本の旧体制を打破し、アメで手なずける政略をとることに決したのだ。

まずは広島・長崎で二十二万弱(推定)の非戦闘員の尊い命をうばったのである。そうしておいての、敗戦後の日本の復興に手をかす占領政策であった。

たび重なる空襲などにより、単身での再起は不能となってしまった日本。敗戦後の政府は、米国にたよらざるをえなかった。これも、かの国の思惑どおりだったのである。

マッカーサーたち軍人の見解よりも、ホワイトハウスを中心とした政治判断のほうが、結果的にはあたっていたようだ。

すこし話をもどすとしよう。

日本の降伏とGHQ、実質的には米国による占領。どちらもが米国にとって、一刻をあらそう要実現事項なのだ。なにがあっても、ニ兎のどちらをも確保しなければならない最重要事項だったのである。

ソ連に参戦をうながした米国にとっては、既述したように諸刃の剣であった。

ソ連が、日本の北方領土と日本占領下の満州を蚕食するくらいなら許容範囲である。だが、ソ連に日本を支配させるわけにはいかない。日本列島侵蝕のまえに戦争を終結させることこそ肝要だと。

どのみち、戦勝後の自国を有利にするためであり、しょせんは、事後の大局のためであった。

ながびく戦争での日本国市民の被害者をすこしでも減らしたかったとの米国の主張は、したがって、まったくの詭弁である。あくまでも自国益を追求した結果だった。

いずれにしろ、先のふたつの理由、そして自国兵のこれいじょうの犠牲拡大をくい止めたいとの、米国市民・有権者のつよい要望にたいする配慮によったことはいうにおよばないが。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第十章(前編)

しょっぱなの、例のトイレ。その個室で、ゼネラル・エレクトリック社の運転手に戻らねばならない。でないと、ゴリラもどき軍曹が「ホールドアップ」と命じるであろう。

で、急ぎ飛びこんだのだった。ところが、慮外の光景が眼前にはあった。

復元に、最長で四分との想定をおおきく越えた、混雑ぶりだったのだ。

かれが四分とふんだのには、しかし彦原なりの理由があった。X社におけるトイレでの混みぐあいが経験値として擦りこまれており、2095年においては、一人あたりの所要時間が短かったからだ。

その理由、1944年と二十一世紀末の当世を比較すれば…。

当代においてはまず、便秘そのものが死語となっていた。というのも、2066年には画期的な薬が発明されており、とくに女性の悩みを解決したということで、日本の製薬会社がノーベル医学賞生理学賞を授与されていた。男性にも、その恩恵はあったのである。

 そしてもうひとつ。詳細を書くと下世話になるのではぶくが、トイレにおける時間短縮が当世ではすでになされていたのだ。つい、その生活習慣にまどわされたのだった。

くわえて、混雑をさける工夫として所内に数か所設置した食堂では、昼食時、時間差ももうけていた。

とはいっても、である。五千人超の従事者たちがとる昼食、だ。数か所同時並行でも、なにかのかげんで、計算どおりにはさばききれない日もめずらしくなかった。

かといって、近辺にはレストランなどない。機密保持のため、建設許可をあたえなかったのだ。

それで研究所は、さらに、四十分で食事と休憩をとる時間差交代システムを採用したのである。これでトイレも同様だが、たいした渋滞にはならないだろうとふんだのだ。

食堂やトイレの事情を資料でしっていた彦原も、おなじ感覚をもった。

でもって、いまは午後二時四十分。

ほんらいなら、トイレが混んでいないはずの時刻なのだ。

なのに、食事をすませた人々で予想していたいじょうに混んでいたのである。ほかのトイレもおなじと察せられた。

これでは想定の四分での復元は、とてもできそうにない。

正直、(あせ)りはじめた。()れながら彦原は、刻々とすすむ時計の秒針をうらめしく見すえつつ==どこかほかで…­==と、適した場所をかんがえた。しかしトイレの個室いがいだと、いくらひろい所内とはいえ、だれかに見られる危険性をともなう。

また、倉庫といえどもなかにははいれない。部外者の入室は許可がなければみとめられていないからだ。ドアには監視員が配置されていると先述した。入室したわけではないゼネラル・エレクトリック社の運転手が倉庫からでてきたりすれば、スパイとみなされる。

結果は、史上最大、いや空前絶後の自爆テロだ。

脂汗が、ひたいといい、手のひらといい、背中といい、(にじ)みながれだした。それでも、時計とひとの列を交互ににらみながら個室に入れるのを、いまや遅しと根気よくまつことにしたのだった。

しかしかんがえてみれば、ほかにも方法があるにはあった。だが彦原の実直さというのかまじめな性格が桎梏(しっこく)(=足かせとなり自由をうばうこと)となったのか?

それはともかく、待ついがいの方途のひとつ。

ひとけのない工場の裏手に、まだ復元していない飛行車でゆき、そこでだれか実在の従事者になりすます。さいわい、この時代に監視カメラはない。飛行車も、こんどはありふれたフォード車に変装して従事者専用ゲートから退出する、である。

なるほど、退出自体はむずかしくないだろう。メインゲートの警備兵が、従事者たちの数百台ではすまない乗用車の車種や色等までを コンピュータのないこの時代に登録したり、記憶したりはムリだろうから。

さらにいえば、原爆製造法という、最高軍事機密が外部にもれたことにかんがみ、従事者の研究所などへの入りは厳しく警戒していたとしても、出、つまりチェックがすんだ従事者の帰路にたいしては、さほどではなかったろうと推察できる。

准将は厳格を要求したのだが、原爆製造どころかなにをつくる工場なのか、すら警備兵にはしらせていない現場では、しかも毎日のことでもあり、だれて、いつかおざなりになったとしてもおかしくない。

業者などの、たまにくる部外者ならいざしらず、内勤の、いわば顔見知りが相手なのだ。

いっぽう、彦原の立場からすると、従事者専用ゲートならば、検問所のくだんの軍曹による再度の足どめをくわずにすむ。

警備兵に早退の理由をとわれたら、「親が危篤」でこと足りたはずだ。

学者バカだからおもいつかなかった?あるいは、心身ともに疲れきっていたからか。

もっとも、どれほどの時間短縮ができたかは、不明だ。研究所の見取り図、なかでも工場や保管室、会議室等必要な部屋は当然すべて記憶しているが、彦原もさすがに空き地までは把握していなかった。必要になるとはおもっていなかったのだ。

じつは。学者バカでも疲労困憊でもなく、いったんは上記の手法を選択するかで迷ったあげく、不確実性がネックとなってむずかしいだろうに帰結。

人も車も、遮蔽物のない屋外で変身ぶりをみられたらと、このときはまだ、そっちのほうが不安だったから。

他方、トイレは混んでいるとはいえ、個室の数もゆうに三十はある。案外、スムーズに(さば)けるかもしれない。

それにしてもかれは実直すぎた。とはいえ人間の性格たるもの、一様でも単純でもない。

菩薩の仁の心にも鬼は棲む。殺人鬼もわが子は愛おしむ。仁徳に満ちたひとといえども心底には鬼も住むように、性格に()る心理というのも微妙で不可解なものだ。せいかくには表現しにくいが、こういえばちかいか。

入りと出が同じ事態でないのはなんとなく馴染まない、逆に同じだと落ち着くというのか、納得がいく。そんな律儀にとらわれたからか。あるいは(たが)えることに具合の悪さを感じるというのは多少過剰表現だが、なんとはなしの違和感を、かれはおぼえる(たち)であった。

そんな性格がじゃまをして、自由な発想力のさまたげとなったのか。

…で、危機に瀕してしまったのだが。

ただあせりながらも、必死には、ならざるをえない状況だ。

生まじめが(かせ)となっていることにきづかぬまま、彦原はべつのことをかんがえ、切歯腐心(=ひじょうに残念におもうこと)していた。

腐心の内容とはこうだ。施設から検問所までに39メートルの直線道路があれば飛行車を最高速度にもっていき、飛行にうつれる。いやはやなんとも、せっぱ詰まったすえにでた、背に腹はかえられぬ的“窮余の一策“ではあったが。

21世紀末の科学の粋をもってすれば数瞬のできごと、研究所の人間がポカーンとして理解できないうちに完了してしまうだろう。しかしながら、広大な敷地とはいえ、それほどまっすぐな道路は、残念ながら現実にはない。

たしかに、前庭は広大だ。が、駐車スペースとしてすでに車で埋めつくされていた。しかも、いかにも米人の性格のまま、思い思いに。

数十分まえ、工場から施設へ移動するおり、目にしたのでまちがいない。

つぎに切歯扼腕(=歯ぎしりするほどに悔しがること)した。旧式米軍機オスプレイタイプの垂直離着陸型飛行車も技術的には簡単だった。

だが副所長といえどもさすがに、そのための資材調達はひかえざるをえなかったからだ。==いくらなんでもやりすぎや。それでなくても説明に窮する資材を購入しすぎてるのに==

プロジェクトの必需品としてそれらしくとり(つくろ)うのにさんざん腐心した、飛行車自体やプラスティック爆弾の資材購入をさしている。これ以上よぶんに調達すると、「プロジェクトに不必要な資材だ」との追及をうけたであろう。

経理や資材部いがいも怪しむにちがいない。それで断念したとの経緯があったのだ。しかしいまおもえば、詭弁を弄してでも購入をしいておくべきだったと…。

結局、個室にてもとの姿にもどるまでに九分強かかってしまった。それほどに費やしたというのも、個室に二分ちかくはいなければ、いくらなんでも怪しまれるだろうと。

この二分だが、別人と入れ替わったことを、トイレをまつひとに、「あれ?」とおもわせない時間として必要であった。なにせ、軍需秘密工場のトイレなのだ。警戒心はやはり強い。

で、時刻は二時四十九分十五秒。

なるほど、この間の九分という時間、みじかいに越したことはなかった。

だがかえって、精神的にはちょっぴり有効ですらあったのだ。悔やんでも詮ないことと、六分をすぎたあたりから徐々に気持ちをきり替え、むしろ前向きになれたからだ。

そんななかで、離陸予定時刻はギリギリで午後二時五十七分三十秒。

ドリーム号が被爆しない成層圏にまで上昇させるには、五分は必要なのだ。

作業完了想定時間および、トイレでの変装からの復元用時間など、若干の時間的余裕なら計算にいれていたつもりだった。が、その、予測していた最悪の作業完了時間からも現在、五分おくれなのだ。ということは、である。

核爆発までのタイムリミット、のこり十四分弱。離陸時刻までだと九分弱。往路に十八分かかった。復路所要時間を常識的発想で削減したのではとても間にあわない。

なぜなら、トイレをでて駐車場経由で検問所につくまでの所要時間が五分、それと疑似トラックが検問所をでてドリーム号に乗りこむまでの時間、このふたつを計算すると、逼迫(ひっぱく)、ではすまない状況くらい子供でもわかるからだ。

せっぱ詰まったすえにかんがえた。まずは五分を三分にちぢめるために、台車は放置()ったらかしにして駐車場まで走りに走り、そして車も検問所まで飛ばすことにした。もう、一秒たりともムダにはできないのだ。

このままでは、ヤバいではすまない。まちがいなく核爆発に巻きこまれてしまう。これからの時間短縮が、まさに生死をわけることとなる。

ところでこの前後の事態を冷静にかんがえてみれば、ここにきたことが天佑でも“天啓(­=天の導き)”ではなかったとわかるはずなのだが。

天啓ならばだいいち、なぜ窮地に(あえ)がなければならないのか?と。

どうやら天才はすでに、かれ本来の冷徹さどころか、平常心も損じていたようだ。

ただこのとき念頭には、九十九死の危機から脱し一生をえることしか、もはやなかった。わらをもすがる、溺者のように助かりたいの一心で、平素の我をいわばおしたおしていたのだ。

それはこのあと、旧ソ連の核兵器製造を阻止するために、であった。米ソの計画を粉砕すれば、それ以降の各国も所有できなくなるはずと。

これでようやく、人類滅亡の危機をば、回避できるのだ。

そのためには、やはりいまは死ねない。

たしかに、平静さにかける状態ではある。死の淵にたたされれば、だれでも精神の安定性はぐらつくであろう。だからいって、パニックに陥ってまではいなかった。

ことここにいたって、焦りに翻弄されている事態ではないと、左脳をフルにはたらかせていた。検問所をでた直後どうするかに、頭を切りかえたのだ。

当初の計画では、軍兵からみえなくなるくらいのキョリになるまではふつうの速度で地表を走行しようとかんがえていた。

だが、やめた、さすがに。

来所時は怪しまれるわけにはいかないので地表を走行したが、とにかく切迫しているのだ。もうみられてもかまわない、小型乗用飛行車をぶっ飛ばそうと。

軍兵がそれを発見し、そのあとどんな事態が発生しようとも、時限爆弾をみつけだすことなど時間的にもできるはずがない。

また不審車にむけ発砲した弾丸が、飛行車体を射ぬくこともできやしない。科学技術の格差は雲泥なのだ。軍兵がはっした弾丸よりも高速で飛行車は空を裂き、みる間にその姿をちいさくしているであろう。

しかしながらそのまえに、検問所をなんなく通過しなければならない。

で、できたとして、のこすところ六分弱で船に乗りこまなければならない。

だが検問所では、難な人物が立ちはだかるおそれがあった。出と入りのチェック人員を、午前と午後で入れかえるかもしれないからだ。イヤな予感は的中するとか。

たとえそうでも、短時間で切りぬけねばならない。逼迫しているのだ。どうにか入船したあとも走ってブリッジまでゆき、船を発進させるまでに二十秒、安全な高度にまで急上昇するにしても五分はかかるからだ。

それにしても、飛行車のコンピュータからの指令によってMCを稼動させる改造をしていて==ほんまよかった==

既述したように、本来なら、起動から発進まで三分かかるシステムを採用していたからだ。

最悪を、なんとなく想定していたじぶんに感謝した。MCをゼロから起動させたばあい、発進までに三分かかるシステムだったからだ。

改造がなければ被曝はまぬがれえない、それだけはまちがいなかった。

しかしそれでも、安心できる状況にはほどとおい。検問所通過直後の全速力による飛行、という予定変更でいっても、1944年十二月のアメリカとこれでようやくお別れ、できるかどうか。

いまの状態だと、彦原発の米国一部終焉にじぶんが巻きこまれることは確実だ。

いや、なんとしてでも間に合わせなければならない。

現段階においては、…悪夢のような三分オーバー。

またも検問所で時間を浪費されれば、犠牲となる天才科学者がかくじつに一人増える。

地球規模の視点からだとそれがたんに彦原というだけで、たいした問題ではない。しかしかれにすれば、まだ死ぬわけにはいかないのだ。

==せなあかんことが残っているんや!==

ただ、”マンハッタン計画“自体が、歴史から消えさることだけはまちがいない。これで、のぞみの90%いじょうは叶う。しかしそれでも、完璧とはいいがたい。

いかにも彦原らしい心配事だ。

執拗な記述だが、完璧を期するためには、いまはまず、なんとしても生きのこらねばならない。

そのうえで完遂のためにつぎになすべきは、英国を中心に欧州で暗躍するソ連に雇われたスパイ連中を封じこむことだ。

そのあとソ連にむかう。原水爆を製造した物理学者・化学者の命を奪うためであった。目的遂行上必要な最後の非道である。

ただし、米国においてなす大規模破壊までは、ソ連では必要なしとした。

1943年にスターリンの命で始動した原水爆製造PJTは、1944年十二月二十日現在、米国に比し、全面的に遅れていたはずだからだ。

核兵器開発の中心地であり、のちに閉鎖都市とよばれるサロフに、大々的につくられる予定の工場や施設だが、いまはあったとしても形ばかりにすぎず、破壊の必要性まではないだろうと。

なにせ、ソ連は“鉄のカーテン”(ウィンストン・チャーチル英国元首相の言)などのせいで、当時の情報もふくめ、それらのほとんどが後世にのこされていなかったのである。

だから核開発の進捗状況について、推察するしかなかった。

材料としては、ソ連がいつ原爆実験を成功させたか、につきる。

で、これについては正確な情報がのこっていた。

1949829日、セミパラチンクスの地にて、成功させていたのだ。米国の実験成功から、四年と一カ月いじょう遅れてはいたが。始動してからなら約六年である。

ちなみに米国は二年と十カ月であった。

スパイを駆使したにもかかわらず、ソ連はおおきく遅れをとっていた。ということは、今日の時点では、サロフに建設中の施設だがそのなかみはカラッポだ、となる。

蛇足ながら、彦原悲願の完遂とは、地球上の核兵器の完全消滅である。そのために、米国内において八百枚ものプラスティック爆弾を設置してきたのだ。

だが悲願達成まえのうっとうしい現実。

やはり、不安は的中した。入所まえに二十分ちかくも足どめをくわせた例の軍曹が、検問所のバラックのなかから、さきほどの台帳に出所時間を記入しろと指でしめしたのだ。

すでに、はしってバラックにまで来ていた彦原はいわれるがまま記入、しかける。

と、かれのようすを見つつゆっくりとタバコの煙を吐いた口がムズムズ、なにか言いたげだ。

安物のくさいタバコにむせながら彦原は、つい腕時計をチラ見した。

「随分時間を気にしとるようやが」ゴリラ然は目と口元に卑猥な笑いを(たた)え、「帰宅後はデートか?そんなら一刻も早う帰らんとなぁ、シャワーもあびんといかんし」とからかった。

==また、こいつに時間を浪費されるンか!==バカにつきあっているひまはない。

「そんなところです」ごまかすための歪んだつくり笑いを呈したことで、プライドをおおきく傷つけた。しかしキャラクターにないことをするのも、このさい、いたしかたなかった。「すみませんが急ぎますんで」頭をかいてみせた。

テレ笑いと解した軍曹は「うらやましいねぇ…」とウインクし、「そんな大事な用事が…」下衆(げす)の薄笑いをうかべたあと、「あるのに、納品だけにしちゃあえらく時間がかかったなぁ…」急に真顔になりたずねた。返答しだいでは足どめし、調査すらしかねない色をにじませて、だ。

ゴリラ似下士官の豹変にとまどい、一瞬へんじに窮した。つめたい汗がまたもや背中をドッとつたい、ひたいにも粒となって噴きでた。

「いやぁ、まいりましたよ、偉い学者先生に(つか)まっちゃいまして、あれしろこれしろと雑用をいわれ、弊社としては、お得意さまの要求をことわるわけにもいかず、ほんと、往生しましたよ」

それらしくバーチャル映像の頭をかいた。じっさいの頭は、否そればかりか、もはや全身が冷汗にまみれていた。

それもムリからぬこと。これから起こる、人類創生以後ではおそらく地上初の大惨事に巻きこまれかねない事態、なのだから。

「なるほど。そりゃ災難やったなぁ」といわれ、==災難なんは、お前の存在や==とよほどに返そうかと彦原。しかしそんなことをしている場合では、もちろんない。

ムダな会話でまた、一分五十一秒も浪費した。おかげで、宇宙船に乗りこむまでのこり四分弱となってしまった。

ところで本物の災難、いや人災・厄難の源は彦原である。

爆弾を仕掛けた四カ所合計でニ万をはるかに超える人(シカゴ大学はすでにクリスマス前の冬休みにはいっており、しかも校内は広いので被害者は限定的だろう。だがハンフォードの秘密工場では、一説には一万人以上が就労していたとも。しかも大半がワーキング・プアなため、家族と敷地内の粗末な家屋に住んでいた)からみれば、彦原をこそ“悪魔”とよぶくらいでは手ぬるいと叫ぶだろう。

しかし、軍曹はそんな彦原を目のまえにし、八分半後、本物の大地獄にみまわれることなど露しらず、他人事(ひとごと)のようにヘラヘラ笑いつつ、いじわるにも、(おもむろ)に合図をした。

ひとりじれる彦原を尻目に、やっとゲートが開いたのである。いよいよ三分半のみ。

しかし、もうジャマものはいなくなった。­­==あとはこっちのもんや==

飛行車が、1秒強で全速力に、点を目に、いや、目を点にしたゴリラ顔をのこして。

さて、人事をやりつくしたいま、あとは、天命?を期待したのだが…。結果は、いずれのこととなる。

ところで、自分の所為のせいで云々と。

しかし、いまさらいかんとも…なのだ。もはや、止めようがないのだから。

==この期におよんで、逡巡すべきやない!==なぜならすべては天啓であり、大虐殺がうみだすその帰着は天佑なのだ。

目的達成を手だすけするがごとく、絶好の年月日につうじるワームホールを現出してくれたのだから。

四十六億年(地球誕生から現代まで)の悠久の時間のなかから、まさにピンポイントの時を天が選出してくれたのである。

これはもはや人事をこえた、不可思議のなせる(わざ)としかかんがえられない…。

彦原は、ワームホールの予兆がでたその瞬間、そう確信したのだ。否、それでは正確をかく。

矛盾するのだが、じつは確信しきれなかったのである。だからこそ、宇宙においても、懊悩しつづけたのだった。

おもえば、1944年十二月十五日の地球につうじるワームホールにはいるまえ、計画完遂がひき起こす地獄絵巻についてはもうかんがえないようにしようと。

それはもはや考慮しつくし、“必要悪”と決した、はずだったからだ。千二百日近く、明けても暮れてもの自問の日々に、このまま気がふれてしまうのではないかと危機感をいだいたほどだった。

しかしそこまでおもい詰めたからといって、ゆらぐことのない正しい答えがでたわけではなかった。

それどころか、三年と三カ月余をかけてだした結論は、==万人が納得しうる正解なんてえられへん==だった。

目的達成のための所業、それを「悪魔の所為!」と目のまえで断ずる他者の意見にもし接したならば、彦原は反論する術すら有しえなかっただろうとも。

なぜならその意見こそ、まさに正論だからだ。

それでもなお、人倫において道断の、作戦実行と決したのである、人類のために!

なのに…嗚呼。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第九章(後編)

それにしてもと安堵しつつ彦原。検問所の鉄製のごつい門をとおる、たったそれだけなのに、おもったいじょうに時間をくってしまった。しかしながら…、

たいへんなのは、じつはこれからである。玩具(おもちゃ)としてゴリラ似軍曹に(もてあそ)ばれた二十分弱をとり返さなければならなかった。かれが所内に持ちこんだ三百五十ものカードタイプのプラスティック爆弾、2095年の科学技術を駆使したおおきな威力の爆弾を、要所要所にセットするための貴重な時間を大幅に浪費させられたからだ。

ところで、コンポジションB改造型プラスティック爆弾にしたのは、強大な破壊力にもかかわらずきわめて軽量で、しかも不測の事故がおこることはまずない、との理由によった。

分離薬液混合方式爆弾(隔離したふたつの薬液を混合させると化学反応をおこし爆発する)タイプもある。このほうが破壊力はさらにおおきい。

だが、つくる数がおおいぶん構造上不良品ができやすく、となると不発弾や不慮の事故も想定される。それにくわえ、液体は量がかさむとけっこうなおもさとなり、機動面で足を引っぱりかねないとのさらなる負の側面も。

プラスティック爆弾のほうが無難だったのだ。

いずれにしろ、時間との戦いである。あくまでも、たてた予定ではあるが、午後二時四十四分までに検問所をでなければ大爆発に巻きこまれる可能性もでてくると。

検問所から施設まで車と徒歩で三分かかった。予定している離陸までののこり時間は、六時間と三十九分だ。研究所から宇宙船までの所要時間、往路は十八分だった。復路の同所要時間、プラス、最大六時間三十分かかるとの全作業完了想定時間を考慮すると、約二十分の浪費は死活問題に直結する。彦原はあせった。

かれのはげしい鼓動を嘲笑(あざわら)うがごとく、腕時計の秒針がチッチと()きたてるように時を刻んでいた。

ではなぜ、多少なりとも余裕をもてる工夫をしなかったのか?

かれとて、むろんそうしたかった。が下調べで、検問所は業者にたいし特別な事情や予約でもないかぎり午前八時以前の開門はしないとしった。といって、退去の時間を遅らせるのも困難と判断したのだ。

その、大爆発圏外に身をおくための、彦原の退去の時間とは。さらには、遅らせられない理由とは?

これには、多少の説明が必要となろう。

かれは、マンハッタン計画にたずさわっている全科学者にたいし、それぞれに来集の時間厳守を命じた。それは、下院議員への説明に必須だからと理由づけするためにだ。

そのさいの、所長ならではの返答を斟酌(相手の事情や心情をくみとる)してみた。

所長オッペンハイマーはドイツ系の堅物ゆえに、核兵器の一から十までズブの素人の下院議員(政治家といえども、1944年当時、まだまだ核兵器には無知であった)を納得させるには二時間いじょうは必要だと、准将にそう主張するにちがいない。

なぜか?疑問だらけのままの素人にたいし、時間がきたから説明会を打ちきる、なんて、所長はとてもしそうにない。一流科学者としてのプライドがゆるさないはずだから。

そこでもんだいとなるのが、説明会の開催時刻だ。午後三時半以降では、所長は了承しないだろうと。かんたんな計算だ、最短の終了時刻でも、午後五時半をすぎるだろうからだ。

よって、所長がギリギリ譲歩するとしても、三時開催であろう。

先刻の電話でのやりとりの最後にて、案の定だった。

結局、午前八時も午後三時も、どちらもうごかしがたい、とあきらめたのだ。

よって彦原の、工作や移動をふくめた最長の持ち時間は七時間となったのである。

あ、老婆心ながらここで読者にもうしあげる。下院議員は、ただのひとりもやって来ることはない。あくまでも、科学者たちを来集させるためのフェイクだからだ。むろん、読者をだます意図はない。

さて、いますぐにでも工作にとりかかりたいのだが、これからのこととして、ほかの心配事、あげたらきりがないが、そのじつ、だらけなのである。

高地でしかも広大な研究所ゆえに、移動や爆弾の設置だけでも並大抵ではない。さらに別の不安も。

じゅうぶんにありうる、作業中の不測の事態だ。研究員や職員から仕事をたのまれる、あるいはおかしなうごきを見(とが)められる、などだ。最悪の事態も想定し、そのときどきの対処法もあらかじめ決めてはおいたが。

なかでも、かんがえたくもない最悪の対処。それは爆弾セッティングの途中で犯行を見咎められたときのことだ。さほど(はかど)っていないうちに封じこめられたばあい、自爆できる起爆用リモコンも持ってはいる。

もんだいは、それでも広大な研究所全体を、木っ端微塵に爆破・消滅させられるかどうかだ。小型とはいえ、お手製のこのプラスティック爆弾はたしかにおそろしい威力ではあるのだが、目的の完遂ができるかどうかまではわかりようがない。

==かんがえたらきりがない=­=心配してもはじまらないということだ。

もはや、天恵を信じて実行するしかない。憂慮は作業の支障にしかならないとそうきめ、無理やり不安を断ちきったのだった。

もとより、最終的には命を惜しむつもりはない。完遂できれば、自爆テロでも莞爾(笑顔になる)として受けいれてもよいと。しかし、こんかいの工作で目的を完璧にはたせるわけではない。

ソ連側の開発事業を粉砕できなければ、禍根をのこす可能性もわずかながらあるからだ。ともかく、あせってヘタをうたないようにと自身に言いきかせた。困難をともなうことは覚悟のうえなのだ。

ところでこれから取りつけるプラスティック爆弾は、かれが各所に数日かけて仕かけてきた物品とおなじだった。時間節約のため、八百枚すべて、きょうの午後三時三分にタイマーセットをしておいた。時限装置の成否においては実験ずみで、故障などの心配はまったくない。

彦原は、ダンボールにいれておいた時限装置つき爆弾三百五十枚を、それごと台車にうつした。ちなみに1944年製の台車をつくるのはもちろん初めてのこと。押すのもここ数日の経験であった。

標高2200Kmの高所で動きまわらねばならないため軽量にしたかったが、当時の仕様だと、みた目からして頑丈になってしまう。そのぶん、意に反しすこしおもくなった。

いよいよ作業開始だが、そのまえに怪しまれないため、トイレで所員に変装することに。他の所員から雑用やてつだいをたのまれる可能性は、業者にくらべ、すくなくなるだろうし、行動範囲の制限もほとんどないはずである。それに会議室などで見咎められることもないからだ。

ただ、個室のドアはアメリカ式、つまり下部が開口しているため、便座にのって変装しなければならなかった。だれかにみられないための用心だ。二種類ある所員の制服を先刻、ハイテクスーツに仕こませたカメラで撮ると映像化し、データとしてインプットしておいた。

あとはどちらの制服にするかを映像でえらびエンターキーを押すだけでよかった。十秒後にはマイコンが作りだしたバーチャル映像に切りかわる、という仕組みだ。変装はすぐにすんだ。もはやだれがみても、ロスアラモス国立研究所の所員である。

爆弾を、まずはけっこう広いトイレにひとつ設置した。21世紀末の科学力をもってすれば、小も大をかねる、となる。ちなみに、大小とトイレをかけるような品のなさは持ちあわせていない。さて、

いよいよ、これからが時間との勝負だ。広大な研究所の図面はすべて記憶している。これも事前調査ですでにわかっていたが、入室を避けるべき部屋はおおい。所長室をはじめ、各保管室・倉庫・資料室、だ。すべてに監視員が配置されている。入室理由をとわれたり入室時にうしろからついてこられたりすれば面倒だからだ。

それらの場所は、出入り口とは反対の壁におおめに埋めこむことにした。各工場にも監視員はついているが、こちらはさすがに中までついてくるとはかんがえられない。入場者ひとりひとりにつけていたら、それだけで数百人の監視員が必要となるからだ。

だいいち、通常作業の邪魔になり、従事者たちの就労効率を低下させるだろうと。

さらには、以下のことも当初からの計画のうちにはいっていた。MCにつくらせておいたマスターキーは保管室など以外の他の場所では役立つはずだし、移動時は走りまわらなければならないからと、強化プラスティック製にしておいた。

すこしでも軽くて、しかも金属音を発しないものにしたのだが、おかげでさきほどの金属探知機をパスできたのだ。もっとも彦原は、それをしらない。ただ経験に()らない閃きにより、結果的に危難を回避できただけである。

事前に彦原が直感したように、はたして、天啓なのだろうか。いや、どうもそれは…。

ともかく、トイレをでると経路にしたがい、各休憩室兼食堂、各工場・保管室、会議室、各実験研究室・資料室・倉庫、所長室、各トイレ等々へ、状況に応じ、片っぱしからセットしていった。

このなかには、とくに肝心の個所が数種ふくまれている。ひとつは会議室で、ほかは各工場・保管室・実験研究室・資料室である。

保管室とは、プルトニウムとウラン235、およびこの十二月中旬に完成したばかりの爆縮レンズなどを格納している施設である。

ところで爆縮レンズとは、原爆において核分裂反応を発生させるための、欠くことのできないアイテムである。

それゆえ、1944年十二月十五日の地球に帰着できることに、彦原が随喜の涙をながし天の計らいとかんじたのだが、それは、完成直後の爆縮レンズがロスアラモス研究所にて試験されるとしっていたからでもあった。

ちなみに、帰着がはやすぎてもおそくても天啓をかんじることはなかったろう。はやすぎると、科学者たちをロスアラモス研究所にあつめることはできなかった。おそすぎると、ソ連に情報が渡りすぎてしまったにちがいないし、そうなれば手間がふえ、破壊工作の範囲もひろがり死者の数もおのずとふえることとなる。

帰着日が翌年の八月六日以降なら論外だった。

ところで科学者たちには、資料持参で会議室にくるように指示をだしたが、すべての資料を持ってくるとはかぎらない。それで資料室についても、彦原はあらかじめきめていた、跡形もなく破壊してしまわねばと。

また個別に作業をすすめている実験研究室にも、膨大なデータがあるだろうし。

しかしどこよりも肝心なのが、集合完了時間を午後三時とした会議室である。

マスターキーで入室すると、入念にそしておおめに設置した。

厳命をうけた科学者たち、指定時間までには全員が揃うにちがいない。

ときに、まだ空室だった会議室での作業をおえた時刻は、十一時六分だった。

彦原がそうであるようにみなも()きたてられるようにして、忙しくじぶんの持ち場にて仕事に没頭していた。だれも、他人の行動に気をまわす人間はいない。

おかげで、見咎めるどころか不審におもうものすらいなかった。いっぽうこの中に、ソ連のスパイ、デビッド・グリーングラスが勤務している。それを途中、人事課にて適当な理由をつけ確認もした。

第一工場から第二工場へさらにつぎへなど、はなれた場所への移動は研究所内のトラックを利用するしかないと、べつのマスターキーでエンジンを起動させた。もんだいは運転だ。スマフォ内蔵のマイコンが音声でおしえるとおりに操作した。

が、当初はギヤチェンジのさい、なんどもエンストさせてしまった。百五十年まえの車など、さわるどころか、みたことすらなかったからだ。すぐにあたりを見まわした。

さいわい、人影はなかった。おかげで研究所の従事者に、そんなドジを見られずにすんだ。やはり天恵か。なんといってもここは、戦時下における最高軍事機密の国家プロジェクト研究所内である。もし目撃されていれば、すぐに怪しまれたであろう。

なにはともあれ、六時間あまりのフル稼働だった。高地で重労働をこなせたのは、三年三カ月余、船内の酸素量をわざと三分の二強に設定して作業などをしてきたおかげであった。

なにがなんでも検問所でのロス時間をとり返そうと、体力と気力にまかせ駆けずりまわるようにして、三百五十枚をすべて所定の場所に配置しおえた。

で現時刻、十四時三十五分。爆発まであと二十八分。

なんや!その時刻表示は。余裕ジャンと読者は云々。ハリウッドアクション映画なら、0.1秒まえのギリギリで、やっと危機脱出、があったりまえのパターンなのに、と。

だがそのじつ、まだ越えねばならない山がかれにはあった。だから、いまだ、おおいなる危険と背中あわせの状況なのだ。間にあってくれよと、おもわず祈ったのである。

 

先刻のトイレにて、ハイテクスーツを活用しての、復元に要すると想定した時間は四分。多少のこみ具合を計算にいれ、その時間を差しひいて、のこりを二十ニ分とみた。

もんだいの、復路の時間も短縮できれば、なんとかなるかもしれない。

ガンバッた甲斐あって、計画時の想定より、十六分はちぢめられたと彦原。そのかわり、十二月の寒冷のした、汗まみれになっていた。

ただ検問所での冷や汗とちがい、その汗には、達成感があった。

だが意外だったのは、ちいさかったことだ、ありえぬほどに。過小すぎる達成感よりもむしろ、彦原の…

心をほぼおおったのは、みるまに膨張してしまった自己嫌悪であった。

なんの前触れもなく大挙あらわれた暗雲、驚くまもなく天空を墨色で(おお)いつくし陽光をかんぜんにさえぎる雷雲(らいうん)のごとき、自己嫌悪はまさに…心の(ブラック)(ホール)であった。

 急をつげた風雲ははたして、凶事たる(いかずち)や竜巻、そして破壊的豪雨を呼びおこしてしまうのか。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第九章(前編)

あけて、十二月二十日水曜日午前八時。快晴だが、高地であるため外気温は4℃。かれは、当時のバンタイプの中型トラックに姿をかえた小型乗用飛行車を運転している。

コードネームで”プロジェクトY“とよばれたロスアラモス国立研究所の検問所手前にとめると、わかい警備兵に偽造の身分証と入所許可証を提示した。それは、あと七時間半後に実験用具や資材をはこんでくる予定の、ゼネラル・エレクトリック社の社員にれいによってなりすましてのことだった。

同社はデュポン社などと同様、同計画の参画企業である。

「いつものやつでも車でもない。社名もはいっとらん!」しろい息とともに大声で文句をはいたのは、検問所のバラックからのっそり現れた2メートルはあろうかという大男。その体型、そしていかつい顔までがゴリラににた四十手前の黒人軍曹である。疑いの眼でジロリみた。

「もし、わが社にかかってきた電話を盗聴されていて、ナチのスパイに襲われでもしたら大変です。だから予定よりも七時間半はやく、しかもそのことを連絡せずにきたのです。また、いつもの人間が運転していたら、頭のいいスパイなら、社名がペイントされてなくてもわが社の車と見ぬきかねません。それでこれからもですが、運転手も時間帯も車もかえて参上します」不審がられたときのためにと用意していた、呼息もしろいセリフだった。

そとで警備していたわかい兵をさがらせたゴリラ似軍曹は、「それはよい心がけだ」あっさり疑いをとくと、それでも車体を凝視しながらうしろの荷室のほうへゆっくりと歩をすすめた。

「ま、待ってください」彦原はあわてた。外見はごまかせても、触感まではダマせない。軍曹が外見はゴリラそっくりでも事実はそうではないように、この車も外面だけである。荷室のドアをあけようと手をのばせば、疑似映像のなかに疑似ゴリラのくろい指がはいりこんでしまうことになる。…そうなれば、軍曹は躊躇なく銃をぬくにちがいない。

雄大なロッキー山脈の東4050Kmに位置するサングレ・デ・クリスト山脈。

その稜線からでてすっかり成長した十二月の朝日。寒光を浴びてつめたく輝くくろい銃口が火を噴く、そんなおぞましい光景が3D映像で、彦原の脳裡にて形成された。背筋を冷汗がつたった。

「か、鍵がかかっています!軍におさめる品々ですから」

「それもそうだな。なら、鍵あずかろうか」緩慢なうごきの軍曹はふりむくと足をとめた。

「いえ、ぼ、僕があけますから」

 ゴリラ然は首をかしげると、不審げに眉をしかめた。

「…鍵のぐあいが悪いんで慣れないひとだとイライラするだけですから。少々お待ちを」想定外の危機に、正直あせった。彦原にとっては、まさかの足どめというだけではなかったからだ。身分証と許可証の提示で簡単に通過できると、迂闊にもそう軽くかんがえていたのである。

なぜなら、シカゴ・パイル1号などの施設で、先日まではかんたんに通過できたとの事由によった。もっともそのときは、准将というおおきな肩書がものをいっていたわけだが。

くわえての経験。2095年のX社副所長として毎日の入所時においては、IDカードの提示すらしなかった。研究所前無人のチェックゲート通過時、センサーに連動したコンピュータが指紋認証と虹彩認証で、瞬時に本人確認をしていたからだ。

X社の社員以外の入所においても、事前登録しておけば指紋と顔面と静脈位置によって、瞬時に人物認証をするのである。ただしそれには、入所の三日前にきびしい身分照会をうけたうえでの事前登録が絶対条件なのだが。

ぎゃくからいえば、事前登録のないものはゲートのむこうへは一歩たりともすすめない、ということだ。銃器や爆発物所持なら、なおさらだった。

そのきびしさは、パスポートを提示する出入国時の比ではない。それでも絶対、はなかった。厳重にしていたはずの研究所にもスパイが数人もぐりこんでいたからだ。

ただ、強行突破などは絶対にさせないシステムとなっていた。たとえばゲートを破壊し警告を無視して侵入しようとすれば、とたんに麻酔注射が首筋の動脈や大腿部などの静脈に命中するしくみだ。もし防御用の装備をしていれば、スタンガンを応用したシステムが機能する。高電圧の静電気を対象者にむけて放電し気絶させるのだ。ロボットや車などにたいしては、感電によるシステム障害でうごきをとめる仕掛けとなっている。

十重(とえ)ニ十重(はたえ)との表現は過剰だが、それでも、たとえば戦車やロケット砲などにたいしても、防衛専用静止衛星から電磁光線を照射し機能不全にするという完全防備をしいているのである。

もっともいまだかつて、映画のようなそんな場面は一度もなかったが。

というわけで彦原は、一度も足どめをくうことなくかんたんに検問を通過してきた。いわば、それに慣れっこになっていたのだ。

そんなこんなで、IQ161超(推定200)、頭脳明晰と自他ともにみとめる彦原でも、こんな凡ミスをおかしてしまったのだろう。かんがえてみれば、MCがてつだったとはいえ、基本的には立案・準備・実行をひとりでこなしてきたのだ。無理からぬともいえた。また、どれほどの天才でも人間であるいじょう、ミスをおかさないことなどありえないのだ。

入念だったつもりだが、計画はしょせん頭でかんがえただけの、そして二進法がつくりだした架空にすぎなかったのか。しかし実態は、彦原が本来のかれではなくなっていたからでもある。

過誤なき企画だったはずとおもわず息がもれた。嘆息だったようだ。==一瞬やったけど、正直あせった。それにしても咄嗟(とっさ)にしてはうまい言いわけをおもいついた==ものだった。

そんなわけで、これいじょうはムリという早業で、天才は荷室のドアをあけた。

とうぜん、荷室をみせること自体、想定外の危機…、のはずだった。だが、所内にてつかう事態がおこるかもと、ポケットにしのばせておいた疑似3D映像発生装置のリモコンを左手に隠しもち、入力したのだった。ドア開放も荷物のセッティングも、頭でおもいえがいたイメージを具現化できるので、瞬時で疑似3D映像をつくりだせたのだ。

18㎡ほどの荷室、一瞥しただけで、あついクッションのうえに固定した荷物がどんなものかわかりやすいようにした。つまり、固定した機材類を箱にはいれず剥きだしになるよう、また、荷物の前後左右の間隔をあけておいた。瞥見で見とおせるよう、リモコンでそのように入力したのである。むろん、触らせないためにだ。ぎゃくに、宇宙船からもってきた大量のあるもの(後述)は目視できなくしてある。

剥きだしの荷物に大男はおどろき、「なぜか?」との質問をあびせた。いちいちのチェックの煩わしい手間をはぶくためですとのこたえに軍曹は鷹揚にうなずくと、荷室に隠れひそんでいる人間や武器・爆弾などの不審物がないことを視覚で確認し、念のため助手席側も確認しようと足をむけた。相変らず、図体がデカイぶんうごきは鈍い。

彦原はおかげでたすかった。疑似3D映像発生装置のリモコンをつかってドアをしめ、慌てて軍曹のまえへとダッシュし、いそいで助手席のドアをあけると、要求されるまえにダッシュボードのポケットのなかもみせた。外気温4℃というのに、ひたいにも背中にも汗が噴きでている。が、外見(そとみ)ではわからない。

OK」とゴリラ然は小さくうなずいた。これでけりがついたと安心した彦原は、むこう側にまわって乗りこむと発進させようとした。と、

「待った!」軍曹が大声で制止した。そして直後「降りてこい」と命令した。

予想外の制止をくらった彦原。しかも大声で「降りてこい」との否応なしの命令。なにか重大なミスをおかしたのか、と戦慄がはしり、鳥肌がたった。同時に、またもや冷や汗が背筋をつたったのである。だが、命令には従うしかなかった。

これいじょう怪しまれると、二十一年強費やした計画は破綻しかねないからだ。このときもありがたいことに、スーツが威力を発揮した。ひたいの汗も動揺している目のうごきも、そとからは目視できないつくりのおかげだ。

動揺をもし見すかされていれば、ホールドアップ直後に身体検査されていただろう。《一巻のおわり》である。

ところで軍曹がとったさきほどまでの行動。実体どころか、コードネームもむろんこの下士官のしるところではない”マンハッタン計画“の機密漏洩防止のため、上官から厳命されたものだった。とくに業者などの入所者は、その不審な言動や怪しいそぶりを見きわめろとの厳しいお達しをうけていたからだ。

そのためにいったんは安心させ、そのあとで動揺させるという手口をもちいたにすぎなかった。うえからの命令に従っていただけだった。

しかし彦原は、二度も想定外なことがつづいたので戦々恐々である。最悪のばあいは、飛行車を活用して強硬手段にうったえようと腹をくくるしかなかった。

それにしても隣のゲートでは、顔と身分証と車内部のかんたんなチェックだけでひとと車がつぎつぎ通過していた。研究所の従事者たちだろうか。うらやむのは詮なきことだとはわかっていたが、それでもいまいましく憎たらしかった。

そんな彦原にむかって、巨漢は先端に直径20cmくらいの黒い円板をつけた装置で、服のうえからスキャンしだした。

両手をあげさせられたり股をひらかされたりしたが、天才はそれが金属探知機であることをしらない。かれがうまれる十五年ほどまえに、この形状のものは地球上から消滅していたからだ。

それで彦原には、ゴリラ似軍曹が実施した身体検査の内容まではわからなかった。

ちなみに金属探知機の活用は銃を隠しもっていないかしらべるためで、軍曹のアイディアだった。身勝手な理由によるのだが、巨体なために、たんに身を屈めたりするのが億劫なのと、男の体にさわるのもイヤだったからにすぎない。

このてんでも、彦原は幸運だった。もし、触角による身体検査をされていたら…。未来からきた天才科学者は、まちがいなくスパイとして銃殺され、二十世紀中期の露と消えていたにちがいない。

X社研究所でもチェックゲートをとおるときはとうぜん、金属探知装置の精査もうけている。だけでなく、透視スキャンする身体検査装置で、衣服や体表皮はおろか筋肉ごと、いっきに身ぐるみ剥がされている。体内にしこんだ武器や爆発物などもだが、おもに盗聴盗撮機器の有無を精査するためだ。

同時に、同様の荷物等検査装置で、カバンやリュックなどに携帯不許可物(防毒マスクなども)をしこんでいたとしても、事前摘発してしまう。

ただし、なにも問題のない被験者が、スキャンされたとかんじることはまったくない。

ときに彦原は、つくったばかりのハイテクスーツを着て本人になりすましチェックゲートを通過した。本人になりすまし、はへんな表現だが事実そうしたのだ。

過去の地球における必需品として、まずは研究所内に持ちこむためである。想定したとおりうまくいった。彦原本人だったからである。

チェックゲートでは同時に人物の認証もしている、と先述した。だが、厳重な検査であるにもかかわらず入所者は無造作にゲートをとおるだけですむ。痛くも痒くもない。帰りも機密情報を持ちだしていないか、ゲートが瞬時に精査してしまう。

この厳重チェックは貨物類の搬出入時もおなじだった。透視できない鉛製の箱などにいれた精査できない状態のものはもち込めない。ということは、もち出しもできないことになる。

ところで、これほどの検査をしていたにもかかわらず、それでも盗聴盗撮機器をもち込んではもち帰るスパイのやり口とは一体どんなものだったのか?と。一瞬首をひねった彦原だったが、専門外の知識には正直なところ、うとかった。

しかし、いまはそんなことを考えているばあいでは、まったくない。なんとしても、目のまえでとうせんぼをしている憎きこの門番のよろしきをえなければ、目的を達成できないのだ。それはじゅうぶんにわかっているのだが、毎朝の出勤時のような平常心ではふるまえなかった。

疑わしい眼をむけてくる監視員も未経験なら、このように大仰な検査をうけた経験もなかったからだ。まごつくな!というほうがムリなのである。

ただし金属探知機によるこんかいの検査は、銃をもってなかったのでかんたんにパスできた。ハイテクスーツやさきほどつかったリモコンていどの少量金属に反応するほどの、精巧な探知機ではなかったからだ。

やっと解放されたと、細くちいさいため息をもらしながら車に乗りこもうとした。

「ドントゥムーブ!」巨漢が、さきほどよりさらに大きな声で怒鳴った。

こんなときは、指一本うごかしてもいけない。即座に、寒気のせいではない鳥肌がたった。

ドギマギして、おもわず立ちすくむ。ポケットに隠したリモコンがバレたのかと、刹那に善後策をめぐらせた。だが、どこにも隠すところはない。米国における最終目的地にはいる寸前で、文字どおり立ち往生するのか。

天才科学者の心臓は経験したことのないはげしさで拍動し、のどは大砂漠を彷徨(さまよ)う冒険家のように乾ききっていた。まさに、進退ここにきわまったのである。

ところがゴリ軍曹は、ビビらせたことで楽しませてもらったといわんばかりにウインクしながら、「入所者名簿への記載、わすれとるぞ」と左手の人さし指でバラックをしめし、そのあとつきだした右手の親指だけをニュッと立てた。

気ぬけがさき立ち、いっぽう腹は立たなかった。が、生涯初のとてつもない緊張感からどうにかこうにか解放された彦原はきゅうに力がぬけ、へなへなと腰が砕けおれそうになったのである。ただただ、米国人特有のちゃめっ気顔が小憎らしかった。

彦原はなんとかバラックまで小走りし、社名はもちろん、偽造許可証とおなじ人物名をしるした。

おかげでスッとゲートがひらき、かれはやっと胸を撫でおろせたのである。

「すまんかったなぁ、これも役目と理解しゆるしてくれ」そういうと、目のまえをいく彦原にちいさく敬礼したのだった。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第八章(後編)

そんなグローブスに扮した彦原。MCが偽造してくれた身分証を提示し、シカゴ大学冶金(やきん)研究所とそのなかの隔離施設、原子炉シカゴ・パイル1号を単身「見学にきた」と、そう、冶金研究所の当直研究員につげた。十二月十五日の深夜である。

そのさい、「握手をすると願いごとが叶わなくなると占い師におしえられたので、科学者のきみにはわるいが遠慮しとくよ。国家にとって、大事な任務をおびてる身だからね」とウソをついて握手をことわった。

理由は、所詮、自身がバーチャルリアリティーだからだ。身体や制服にふれさせるわけにはいかない。ある意味、ドラキュラが鏡に映ず影をもちえないように、かれも実体のない、いわばニセモノでしかないのだ。

「じつはシカゴに内密の用があって、そのついでによったんや。説明なら不要。原理はエンリー(エンリコ・フェルミ、シカゴ・パイル1号の創設者、1938年ノーベル物理学賞を受賞)にきいて知ってるさかい。とりあえず一人にしてくれへんか。きみも眠いやろうし」

とはいったものの、当直研究員がさがろうとする、その背中に再度声をかけた。

「ああ、ちょっとわるい。おこしたついでにお願いしておきたいことがあるんや」

いずれ依頼しなければならない大事な付加事項を、むしろいま頼んでおいたほうがより自然だとかんがえ直したからだ。

 若い研究員は、「なんでしょうか?」という顔でゆっくり踵をかえすと近づいてきた。

「見学したのち、これはたんなる好奇心からやが、エンリーたちの研究室もみてみたい。それで、簡単でいいから配置図をかいてほしいな。無理をいってわるいが」

“たち”とは、コロンビア大学冶金研究所からやってきたハロルド・ユーリー(ガス拡散法開発によりウラン235同位体抽出に成功。1934年ノーベル化学賞を受賞)とカリフォルニア大学バークレイ校からのユージン・ウィグナー(1963年、ノーベル物理学賞受賞)、それにレオ・シラードのことだ。かれらの研究室もあわせて要望したのである。

「鍵はもっていませんが…」眠そうに目をこすったあと、おきがけに着たのだろう白衣の胸ポケットから、紙と鉛筆を摂りだした。

「なかに入れなくてもかまわへん。偉大なる科学者であるふたりのノーベル賞受賞者だけでなく、将来有望な白眉(=とくに優れたひと)たちの研究室も一目みたい、ただそれだけのこと。子どものごとき好奇心、というわけや。だからこのことはくれぐれも内密にたのむよ。わしの部下にも、エンリーたち偉才にも、ほかの研究員にも。そして、こののちここを訪問したときのこの私にたいしてもだ」

「えっ、准将にたいしても、…ですか?」聞きちがえたかと眼を点にした研究員は、あからさまにくびを傾げた。

しかしニセ准将はこともなげ。「きょうは単身やが、正式な訪問となれば、上院議員や部下など、何某(なにがし)かがそばにおるやろ。知れると恥ずかしいやないか」人生ではじめてのウインクだったが、スーツはなんなくこなした。

さて、後日もしほんものの准将が来所し、この研究員が「先日はどうも~」などと洩らしたら、不都合はじゅうぶんおこりうる。そんな事態は、事前に封じこまなければならない。むろん、この言動も計画にいれていた。

「今夜の訪問についてあとで詮索されると、子どもじみてて恥ずかしいさかいな」そういい終わるとすこし、はにかんでみせた。それから、「ジョーと呼んでええか」研究員の胸につけてあるジョージ・某と記載された名札をみて、ひと懐っこい笑顔でつづけた。「君のことはよくおぼえておくさかい。君の今後を楽しみにしとき」口封じには、極上の甘い飴をなめさせるにかぎる。

二度目のウインクまでしてみせたあと、ほんとうは不必要な配置図をうけとった。「おやおや、寝むそうやないか、ごめんな。もうさがってくれてええで」

あと二分で午前零時だ。研究員はみられないようにちいさく欠伸をすると、当直室にもどっていった。途中で見あげたかれの目に、星はひとつも映らなかった。いまにも泣きだしそうな曇天がひろがっていたからだ。

で当然、エンリコ・フェルミらもすでに帰宅していた。この時間、シカゴ大学冶金研究所では当直者以外はだれも従事していない。いっぽう、構内のシカゴ・パイル1号では、軍が二十四時間体制で警備していた。

その出入り口でも、精巧な身分証を提示した。

でてきた警備の若い一等兵は、格のちがいすぎる准将をまえに緊張しているようすだった。

直後、ここでも案内を断った。ついで、きわめて甘いの飴を頬ばらせることもわすれなかった。おかげでひとりになれた。

だが、さすがのグローブス准将といえども、防護服着用を義務づけられた原子炉施設のなかにははいれない。

そのために、宇宙船内で汗をながしながらつくった強力な超小型物体を、それをもち運ぶための偽装大型懐中電灯(なかは空洞)から取りだしては、腕時計型レーザー光線照射器で、原子炉施設の、鉛製ドアやカベなどに埋めこんだのである。

計算上、付随装置つきの労作物体はニ十五枚だったが、目的をたっするにじゅうぶんすぎる量であった。

そのあと、レーザー光線照射器で照射跡がのこらないよう修復した。

翌日以降、おかげで工作には気づかれないまま、計画は成功するのである。

ひとつおおきく深呼吸し隔離施設をあとにすると、各研究室や実験室でもいまとおなじ作業をした。それから、特製メガネをつかって探しだした書類保管庫などのカベにも、念のため同様に埋めこんだのだった。

大学構内のそれらの所在地は、PCが事前におしえてくれていた。一時間ほどで作業は完了し、これにより、シカゴ大学冶金研究所全体において、計画どおり、もれなく網羅できたのである。

でもって、偽装懐中電灯は空になった。そして心も、なぜか空虚になった。同時にかれの胸奥から、黒くおもいため息がおもわず洩れたのである。

この、かれの意味不明な心裡については、おいおいあきらかとなろう。

大学をあとにすると、これも外観は当時の車にしかみえない小型乗用飛行車で、北へ200Kmほど離れた、まったく人家のない原野にもどった。そこはミシガン湖の西岸、ビールの製造で有名なミルウォーキーの北100Km、カナダとの国境ちかくである。

透明装置により、姿かたちがみえないドリーム号に帰船すると、つぎの訪問先にむけて発進したのだった。

 これ以上ない、順調な滑りだしであった。

そのうえで、移動中のかれはおもった、だれにも気づかれなかった幸運を。

原野だったとはいえ、宇宙船にしろ、バーチャルリアリティ仕様の小型乗用飛行車にしろ、自然はダマせなかったと。(せい)(はく)(=清らかで汚れがないこと)な雪がそれらをおおっていたからだ。

あ、読者は幸運の意味を早合点してはいけません。実景をみていないから仕方ないが。

隠してくれていた、のではないということ。それどころか、その逆で、いみじくも実際の外形を白雪は、浮き彫りにしていたのである。

ではなぜ幸運だったと?彦原なればこそ、目のつけどころがちがっているのだ。

コンパクト化したとはいえ、宇宙船は相当なおおきさである。また原野とはいえ、狩猟やリクリエーションなどで、ひとが来ないとはいいきれない。いっぽう、車は深夜という時間帯のおかげとはいえ、シカゴという大都市圏だった。

それでも見つからずにすんだ。このことこそが幸運だったと。今回も、やはり天佑、か。

 

テネシー州東部に、現在でもアトミックシティとの別名をもつオーク・リッジという名のまちがある。

その一隅、北緯にして3558分、西経だと8356分、アパラチア山脈の西麓に宇宙船を隠し、そこで寝ることにした。

午後八時をすぎて訪ねたのは、オーク・リッジに建設された工場など五か所であった。

まずは、1944年初頭建造の巨大電磁分離工場。コードネーム(情報漏洩防止のための暗号名)はY-12だ。ウラン濃縮などのための秘密工場である。

准将に扮し、昨夜とおなじ手法をもちいて各所に出入りした。疑いをいだくものはひとりとしていなかった。

二番目は、電磁分離機と電磁濃縮法を開発し、ウラン235同位体元素の抽出に成功したアーネスト・ローレンス(1939年ノーベル物理学賞を受賞。後年、軍に諫言す…後述)の部屋。

ついでコードネームX-10、原子核衝撃によりウランからプルトニウムを生成する工場。コードネームK-25、ガス拡散法をもちいたウランとプルトニウムを分離精製する施設。

さいごにS-50液体熱拡散法によるウラン235238を分離濃縮する工場である。

これら大小五つの施設に、シカゴ大学冶金(やきん)研究所のときとおなじものを、同様に秘匿して設置した。

そして、昨夜とおなじ口止めのための甘言をのこし、たち去ったのである。

 

翌日、米西海岸、カナダと国境をせっするワシントン州の南東部に船首をむけた。

コロンビア川とヤキマ川にかこまれたハンフォードに、デュポン社の技術者が建築監督をつとめた施設がある。1943年四月に稼働開始した秘密工場だ。米軍用コードネームはサイトW。

入植するものなどいない荒涼とした土地だけに、秘密工場建設にはうってつけとおもったのだろう。砂漠化しつつある荒涼たる地に宇宙船を(ひそ)め、深夜をまった。やがて適時となった。

ここでも彦原は、おなじ手法・段どり・セリフ、そしておなじ行動をとった。(原子番号94)プルトニウム精製および抽出のための原子炉と、プルトニウム処理施設の各エリアに、例のものをおおめに隠して設置しおえたのである。

肉体より精神的につかれる作業だ。帰船した彦原は、やがて就寝した。

決行しているせいか、かつて地上にいたとき、夜ごと、苦しめられた悪夢をみることは、もはやなかった。

 

で翌夜のために、宇宙船をのこしたまま、西海岸のワシントン州から東海岸のワシントンD..に移動せねばならなかった。首都や近郊には宇宙船をかくすに適したばしょがないからだ。

透明装置をいくら稼働させていても、人口密度のたかい都会が密集した東海岸では、宇宙船がみつかってしまう可能性はすくなくない。

ミシガン湖南西部に位置し、まわりに都市のすくないシカゴとはその点、ようすがちがう。

ハンフォード付近の砂漠にかくした宇宙船から、小型乗用飛行車を発進させた。ステルスゆえに、レーダーにひっかかる心配はない。時速800Kmで首都にむかったのである。

 

最大最終の目的地は、ニューメキシコの州都サンタ・フェより北西40Kmの標高2200m、ロッキー山脈南端にひろがる田舎町ロスアラモスにあった。北緯355328秒、西経1061752秒、1943年に稼働したロスアラモス国立研究所が、である。

だが、そこに赴くまえに、なすべき大事がふたつあった。

そのためのワシントンD..行きである。

どこにでもいるような白人紳士のすがたで一流ホテルに投宿し、部屋で再度グローブス准将になりすますと、ニューメキシコ州の現地時間(米国には計六つの標準時、つまり時差があり、サンタ・フェは山岳部標準時の圏内)で夜九時半(首都では夜十一時半)をすぎたころ、計画どおりホテルから電話をつぎつぎといれていく。宵のうちだと、食事や妻子との会話などなにかと邪魔のはいる可能性があるからだ。

ところで彦原にとっては好都合にも、ほんもののグローブス准将は就任以来、調査によると秘密主義者に徹していた。よって、外部との接触を極力断っていたはずである。将官としてはとうぜんだろう。

いうまでもなく“マンハッタン計画”が、超ド級の脅威的軍事計画だからである。それで、極秘主義をとったのだ。

機密工作の手はじめ。それは、各部署の情報を完全に隔離したことだ。

別セクションの所在地や担当メンバーの存在をしる(すべ)をたつことにも役だった。さらに、各々が別の部署の研究内容をしりえない状況をつくることにも(つな)がった。それぞれのセクションからでは、じぶんたちがどういう目的で全体のどの部門を担当しているのかがまったくわからない、ということだ。

そのうえで、それぞれに担当を割りあてて、専従の研究・開発・実験をおし進めさせたのである。内外にたいしもっとも有効なスパイ行為の防止手段だった、本来なら。

しかし史実がしめすように、ソ連の情報機関はそれでもだし抜くのだ。が、そのへんはおいおい。

さらに、個々の科学者にあたえる情報も、個別の担当分野だけに限定したのである。競走馬に遮眼帯をつけさせ、きっちりコースわりした枠内だけを走らせるの(てい)だ。科学者にすれば、じぶんがなにをなすために従事しているのかがわからないまま、ということになる。

全体像をしるのは、上層の一部やとくに選ばれた科学者たちだけだった。グローブスのこの方針に、科学者たちがつよく反発していたのは事実だ。しかしながらたがいが協力することもできず、具体的行動にまではいたらなかったらしい。

これが事実かどうかについて、彦原はあまり関心をもたなかった。最高責任者としての准将の権限を活用すればよいとだけかんがえたからだ。

彦原はよこの連絡がほぼないこの状況を利用し、科学者たちを恣意(=おもいどおり)にうごかすことにした。

「ボブ、夜分でもうしわけないが…」電話の相手は、ロバート(略称ボブ)・オッペンハイマー“マンハッタン計画”科学部門のトップ、ロスアラモス国立研究所所長だったのである。

「それはいつものことで慣れとるよ。それより、いつもと声が少々ちがうようだが」所長は立場上、警戒心のカタマリだった。

案の定、二十世紀中期の録音技術をもとにした音源は、粗悪であった。計画段階からの彦原の不安は的中したのである。「激務によるつかれかなぁ。それとも最近はじまった、盗聴防止のため複数回線を経由させてるからかな。

そんなことはどうでもいいが、下院議員に数人、五月(うるさ)蝿いのがおってな。莫大な経費をかけてるこの国家プロジェクトの、詳細を把握させろといってきかんのだ」と、ここで巧みなウソをついた。声の不審などふっ飛ぶ爆弾話だからだ。

「トップシークレットなのに?」と、ウソばなしとはしらず、ついくるまれてしまい半信半疑となった所長。“マンハッタン計画”はたしかに、“超”がつく国家機密である。が、=どうやってしったのか?=は蛇足とかんがえ、口にしなかった。訊いてもおしえてくれるはずないとわかっていたからでもある。

「むろんそうなんやが、どっかから漏洩したらしい。それはこちらで調査するとして…。とにかく、現状のままやと機密を保つのはむずかしいということかな。そういうわけで、これからはセキュリティをもっと強化せねばとおもっている。それはともかく、こんかいの議員たちにかぎり、秘匿は不可能と判断した。それでそちらの時間で明後日の十五時、研究所にきみはもちろんのこと、研究員全員をあつめてもらいたい。ええか、全員やぞ!お偉方を納得させなきゃならんからな。『クリスマスまえなのに』なんて、大事なこの時期にそんなくだらんことはいわんでくれよ」内容はともかく、声には有無をいわさないつよい響きがこめられていた。「念のためメモしてほしい。用が済んだらメモは焼きすてること」と。そしてつづけた。

ニールス・ボーア(1922年ノーベル物理学賞を受賞、ウラン235は分裂しやすいとの原子核分裂の予想をした)、オットー・フリッシュ、メト・ラボ、アーサー・コンブトン(1929年ノーベル物理学賞を受賞)、ジェームズ・チャドウィック(1935年にノーベル物理学賞を受賞した英国人)、イジドール・イザーク・ラービ(1944年ノーベル物理学賞を受賞)、フェリックス・ブロッホ(1952年ノーベル物理学賞を受賞)、ポール・エメット、オーエン・チェンバレン、エミリオ・セグレ(チェンバレンとセグレはともに1959年ノーベル物理学賞を受賞)、ハンス・ベーテ(1967年ノーベル物理学賞を受賞。同計画の理論部門の監督。大戦後、水素爆弾の開発にも参画)、グレゴリー・ブライト、ジョン・アーチボルト・ホイーラー(”ワームホール”の命名者、既述)、アーサー・ワール、グレン・シーボーグ(ワールとシーボーグは、プルトニウム精製・抽出のための原子炉建造を進めた科学者)、エドウィン・マクミラン(マクミランと前述のシーボーグはともに1951年ノーベル化学賞を受賞)、ウィラード・リビー(1960年ノーベル化学賞を受賞。ウラン238同位体を濃縮するためのガス拡散法を開発)など、この国家プロジェクトに従事する著名な科学者や、リチャード・ファインマン(1965年ノーベル物理学賞を受賞)、クラウス・フックス(後述)などの若手の研究者もふくめ全員を招集するよう、具体名をあげて命令したのだ。

 所長は黙ってしたがうしかなかった。准将の背後には、大統領が存在するのだから。

「とうぜんだが時間厳守だ。遅刻したものは厳罰に処す。欠席したものはスパイの容疑をかけ、逮捕する。カゼなどの体調不良もその理由とはしない!」有無をいわさない高圧的口吻(くちぶり)。声色もさらに厳しいものにかわっていた。裁判でスパイとの判決がくだされれば、死刑もありうる。だからじゅうぶんな脅しとなった。最後に「議員たちはわがままだから数分、いや十数分ていどは遅れるかもしれん。が、心配せんで会議室にて待機してくれればよい」と。この時点でようやくふつうの口調にもどり、少々のやりとりをし「では」と、電話をきったのだった。

ちなみに、同研究所にはハーバードやカリフォルニア大学など名門校の俊英が、常時あつめられていた。

かれら科学者のなかに、セオドア・アルビン・ホールという物理学者もいた。

彦原はなかでも、このおとこの招集を念おしで要請したのである。天才のかれは飛び級でハーバード大学に入学、十八歳で卒業した逸材だ。

ところが“学者バカ”のゆえんか、おろかな理由(ここでは詳細は省く)でこの年すでに、ソ連のスパイになると決心していた。かれが研究所からもちだした情報のなかには、「ファットマン」(後述)の詳細な設計やプルトニウムの精製法など貴重そのものがおおくふくまれていた。

第二次世界大戦後四年で、ソ連が大量殺戮兵器の実験に成功したのは、このスパイのおかげでもある。

スパイといえば、ホールと同大学時代のルームメイトだったサヴィル・サックスおよびロナ・コーエンも、だった。さほど優秀ではなかったかれらはたんなる運び屋にすぎなかったが。それでも同所に従事する研究員である。

彦原はさらに、かれらの名前を告げるのもわすれなかった。

ほかにも、いまとなっては氏名があきらかではないスパイが多数いたようだ。それで「ええか、全員やぞ!」と、所長にたいしつよく念おしをしたのだった。

ところで、研究所で従事していたのは上記のような科学者たちだけではない。

1944年当時、コンピュータはまだ実用化されていなかった。そのため、計算だけを任務とするひとたちも多数あつめられた。数学者はもとより、数学で成績優秀な高校生や大学生たちも、である。そのなかには、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当。より小型化した装置で、ZND理論における核爆発を可能にした数学者。みずからの実験による被爆?で全身、ガンにおかされ死亡)、スタニスワフ・ウラム(ポーランドから亡命した数学者。ノイマンがロスアラモスに招いた。戦後、水爆の基本機構を創案)などもいた。いずれも未来を嘱望された、わかき英才たちである。

さらには、高度な精密性を必要とする臨界計算(核物質ウランとプルトニウムを爆発させるときに要するエネルギー量をはじき出す計算術)の第一人者、クラウス・フックスもいた。この物理学者がいなかったら、大量殺戮兵器の実験成功は大幅におくれていたといわれている。

ところでこのおとこは共産主義に賛同し、セオドア・アルビン・ホールとおなじく、ソ連のスパイとなったのである。

マンハッタン計画に参集した科学者や技術者は、総勢で千人を超えていた。くわえて、四千人以上の従事者もいた。ひとつの研究所で五千人を超えるひとたちが従事していたのである。

しかも当時の総額で、十九億ドル(当時の日本の国家予算の約十倍)という巨費を投入しての、おそるべき国家プロジェクトだったのだ。(余談。比較はむずかしいが、戦艦大和の建造総費用は一億三千七百八十万円だった)

要求はつづいた。「研究と実験の詳細をしるした書類もだ。みてもわからんだろうに、みせろというやもしれんから。しかし、コピィにはおよばん」漏洩防止上、コピーを原則禁じていたからだ。「議員には、持ちだし禁止で了解ずみだから。それから盗聴防止のため、おたがいの連絡は一切厳禁。もしなにかあれば、このわたしに電話をいれさせてくれたまえ。面倒だろうが、わたしが中継するから。ナチのスパイがどこに潜んでるかわからんからな。もうひとつ、わかってるとはおもうが、老婆心ながら、こんかいの招集の件は家族にも他言無用だ!」いかにもグローブスをまねた、イヤも応もない厳命であった。

彦原はこの指令のまえすでに、エンリコ・フェルミ、ハロルド・ユーリー、ユージン・ウィグナー、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス(全員既述)にも同様、電話をいれておいた。

シカゴが中西部標準時であるため、ニューメキシコ州より時差が一時間はやかったからだ。それぞれ、自身の研究室で同日、リアルタイム、時間厳守で待機しておくように、と。書類持参も厳命した。

ついで、問いあわせはすべてじぶんにし、他者とはこの件で連絡を取りあわないよう念をおした。文句をいうものはいたが、機密保持のためと反発を封じこめた。

不満げなものには、違反者はスパイとみなすと脅して、電話をきったのである。

さらに、のちに“水爆の父”と呼称されたエドワード・テラーにも、研究書類一式を持参のうえ、ロスアラモス国立研究所にくるよう連絡をいれた。研究開発のためのさらなる予算をえるチャンスだと(にお)わしたのである。手もなくくいついてきた。

これも余談だが、この、人類をうらぎったおとこは、巨匠スタンリー・キューブリック監督の映画、“博士の異常な愛情”で水爆好きのマッドサイエンティストとして登場する、ストレンジラブ博士のモデルである。当該異常博士はとうぜんながら、道化師あつかいされていた。

 

ハンフォードでひと仕事をおえたあとワシントンD..にきたもうひとつの目的。それは、彦原のこの計画をなし遂げるにあたって、見すごせざる人物宅を訪問するためである。

米国第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトの、元商務長官兼任元大統領首席補佐官だったハリー・ホプキンス現外交顧問その人の住まいをだ。在宅はとうぜん、確認ずみである。

大統領側近のハリー・ホプキンス邸の警戒は厳重だった。が、2095年の科学技術は、まるで自宅のドアでもあけるように、高官邸への侵入を容易にした。

寝室のドアをあけたままで彦原は、ベッドにて(いびき)をたてているおとこの顔を確認した。まちがいなく標的だった。検死では心臓発作(急性心不全なのだが、当時、そこまで病理学が発達していたかは不明)にしかみえない毒薬を、すぐさま首筋に皮下注射した。ところで、極細で八本の注射針ゆえに痕は残らない。ごく微小な痛みのため、予期したとおり目をさますこともなかった。隠密行動ゆえ、もちろん無灯のなかでおこなった。だが廊下にともされていた明りで、かれにはじゅうぶんだった。星明かりていどでも部屋全体があかるくみえる暗視レンズ、2095年だとだれでももっているメガネをかけていたからだ。

けっこう役にたつアイテムとして、シカゴ大学冶金研究所内・オーク・リッジの各工場や施設等・ハンフォードの各施設等でも使用したように。

かれが寝室のドアをしめる寸前、ベッドのなかからおとこのちいさな(うめ)き声が洩れた。彦原はおもわず墨色の歎息を洩らした。できることならおかしたくない殺人だったからだ。

戦後、このおとこホプキンスは、ソ連へのスパイ行為容疑にさらされる、はずだった。死ななければ、史実のとおりに。だが、死期が十三カ月はやまった(1946年一月胃癌で死去)おかげで、汚名に悩まされずにすんだ。あわせて、ガンによる激痛もしらずにすむのである。だから結果的には、二重苦を回避できたこととなるこの夜の一瞬の断末魔を、かれ自身、むしろ喜ぶべきなのかもしれない。代償として、少々寿命がみじかくはなってしまったが。

翌朝、チェックアウトせずむかったのは、ジュリアス・ローゼンバーグの家だ。殺戮兵器製造にかんする情報をソ連にうった、スパイである。かれは妻とともに後年、国家機密漏洩による罪で死刑を執行された。国家反逆の汚名をうけるまえに死をむかえるのは、幸か不幸か。

そのローゼンバーグに機密をながしたのは、妻の実弟デビッド・グリーングラスだった。勤務していたロスアラモス国立研究所から盗みだした情報であった。

彦原が、とうぜん見のがすはずはない。明日、このおとこの命運もつきることとなる。

ところで、米国での使命をおえたあとは、ソ連に情報を洩らしたスパイたちを遺漏なく消しさる…、という計画がまっている。英情報部MI6でのちに長官候補となるキム・フィルバー、英国外交官のドナルド・マクリーンなどの大物をふくむ、ケンブリッジ五人組とよばれたおとこたちをだ。

そして、ソ連製殺戮兵器製造のためのスパイ活動をしたアレクサンドル・フェクリソフ大佐も。旧ソ連では英雄あつかいのKGB諜報員である。かれらが、人類にたいしおかす大罪を未然に阻止するためだ。

これが、計画遂行の第二段階だ。

彦原の心を鮮血でそめる凶行が完了すると同時に、”マンハッタン計画”の根幹にかかわる(おびただ)しいほどの情報流出は、これを未然にふせぐことができるのだと。

ちなみに、スパイにかんする情報はほかにもあった。セオドア・ホールたち以外の大物スパイのことだ。

既述の三人、ロスアラモス研究所所長オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーアである。

しかしソ連の元スパイの証言によるものなので、真偽まではわからない。ほんもののスパイを隠しまもるためのニセ情報かもしれないし、三人の科学者を陥れるため、さらには米国国家機関を疑心暗鬼でおおうための姦計かもしれないからだ。

 

いずれにせよ、これでソ連への情報流出等を防止できると確信したがゆえの、非道・非情の計画だったのである。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第八章(中編)

そんなことより、肝心の“マンハッタン計画”とは…?

知るひとぞ知る、悪魔のたくらみである。日本人にとっては、最悪ではすまない奸計だ。否、全人類にしても、良識ある人々ならずとも逆鱗にふれる悪計である。

読者にたいし、この謀略自体をあきらかにすべきであろうと。だがこれも、いますこしの猶予をいただかねばならない。

なぜなら、これからの話を進めるうえで、やはり、かれが選択した宇宙域が正しかったとまずは知っていただきたいからだ。

ワームホール自在作出装置の完成に目途がついた数日後、地球歴で2099年二月ニ十日の夕刻、かれの生涯においてまちにまった瞬間が、ついにやってきたのである!

600Kmむこうの宇宙空間に、ワームホール出現の前兆である光のごく微小な(ひず)みができはじめたからだった…。

 

宇宙境の長いワームホールという名のトンネルを潜り抜けると、(雪国ではなく)太陽系まで半年ほどの宇宙だった。

やがてドリーム号の窓から碧い地球がのぞめるころ、つまり半年間の光速航行ののちには、ワームホール自在作出装置は完成しているはずだと。

だとしていまのいま、ついたのだ、彦原が望んだ過去の地球がふくまれる宇宙域に、やっとついたのである!

おもわず武者ぶるいした。地球人ではじめてタイムトラベラーになったから、では決してない。そんな浮いた気持ちになれていたら、どれほど幸せであったろうか。

これからいよいよ、みずからがきめた死と破壊に満つる大義をはたす、おぞましい旅がはじまるのだ。じぶんのせいで、辛酸や苦汁ではいい尽せない事態が惹起するのである。そうあらためておもったとき、双眼に光ったものは慙愧の涙であった。

いっぽう、心のべつの層から異質の感情が再び浮かびあがってきた。

一度目は、ワームホール出現の前兆を知った直後。とうぜん、この銀河にくるまえだ。MCが弾きだした年月日をみた刹那に湧きたった、これ以上を味わったことのない高揚感であった。

任意の過去につうじるワームホールがいつ・どこでできるかを知る、いわゆる彦原式予測理論が正しかったことの、科学者としての雀躍など陽炎(かげろう)と化すほどの高揚感だった。

そしてワームホールをくぐった直後のは、身震いするほど実感をともなった高揚感の再現であった。運命以上の存在にみちびかれるようにこの宇宙域にやってきたのだという想い。

不可思議、ではとても形容できない、ヒッグス粒子生成(約十兆分の一の確率)ほどの奇跡が眼前に。砂漠に落とした一粒の砂金を見つけだすにひとしい思議(=深い思考)不能が、実際に起きたのだ。

本来なら、科学者としては疑ってかかるべきこと。確率的にはありえないからだ。しかし完遂のための理想的な年月日に帰着するという現前の事実、疑いようのないこの現実に身をおいた今、逆に、大義遂行こそみずからの使命と確信した、天の計らいにちがいないと。

…だがほんとうのところは、天が命じた使命だと確信したかったのである。心の奥底では、極悪をうむ大義と阻止をねがう良心とが葛藤していたからだった。天の計らいとの確信こそ、大義に正当性をあたえる名分であると。そう強くおもってはみたものの、葛藤は消滅しなかった。

それでも、実感をともなった高揚感のせいでほほをつたったものは、ほんの四分前にながした慙愧の涙とは、微妙に味がちがっていた。

ついたのは、奇跡の時空である。MCのディスプレイが表示した帰着日(先述したように過去の地球、ゆえに帰還ではない)は地球歴で、1944年六月十五日だったからだ。

おもわず溢れでたものは、随喜の涙であった。

目的達成のためには願ってもありえないほどの、まさにピンポイントの最適日だからである。直後、摩訶不思議な(えにし)をかんじ、心も身もひき締まった。宗教には縁のない彦原だが、これは天の配剤、否、もはや天佑であると、まるでいい聞かせるかのように。そう、なんどもなんども。

宇宙で三年三カ月余、28586時間あまりまった甲斐が、まさにあった。

だがもしあらわれたのが、最適日より半年以上まえにつうじるワームホールだったなら、=がんばって自在作出装置を完成させればええ=それで、もはや適宜のワームホールが出現するのを待つ必要はなくなるからだ。

奇天烈(きてれつ)ともいえる(えにし)のごとき日の帰着に、「この使命をはたすべく、宿命のゆえにじぶんは日本に誕生した」と。つまりすべてにおいて必要な条件がそろった2064年五月三日に誕生したと、実感した。あえていえば、それ以外はかんがえないように努めたのである。

坂本龍馬を、幕末すこしまえの天保六年の土佐に誕生させたのは天の配剤、と司馬遼太郎氏がみたように(文春文庫版“龍馬がゆく”の最終巻巻末およびあとがきで、そのように記述している)、だ。

彦原の想いにつうじているので、原文(暗殺直後の描写)のまま記載させていただく。

 

…倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駈けのぼった。

天に意志がある。

としか、この若者の場合、おもえない。

天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上にくだし、その使命が終わったとき惜しげもなく、天に召しかえした。(一行、略)

しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。

            完

            (続いて)あとがき

日本史が坂本龍馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった。なぜなら、天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか。(抜粋)

 

かれの幕末における壮挙がなければ、日本はどうなっていたか。触手をのばしていた英仏による植民地化がありえたということだ。先見のない幕府官僚は甘言のフランス軍をたより、薩長はそれぞれが英国海軍と開戦し多大な損害をこうむった。結果として、英国と両藩の関係が濃密になり、軍艦や銃砲を購入するなか、英国につけいる隙をあたえたのだった。薩長連合がもしもならず、倒幕派と佐幕派間での内戦が長くつづいたなら、日本は英仏に蚕食されたにちがいない。そら恐ろしいことだ。龍馬の晩年の活躍こそ、日本にとって天佑であった。

ところで船内における彦原のみじかくも大きな、そして相矛盾する感慨をよそに、MCが制御する船は、ワープ航法で一路、1944年十二月十五日の地球を目指していた。

 

彦原は、既述の特製衣服(ハイテクスーツ)を着用したことで、レズリー・リチャード・グローブス米陸軍准将にまわりからみえている。PCが調べあげた人物デ-タ(顔から声、身長と体型、制服など)をもとに、ほぼ完璧にバーチャルリアリティー化したからだ。

心配があるとすれば、それは、まず声だった。

二十世紀なかごろの録音技術は未熟なため、音源が粗悪だったからである。それと皮膚の色も懸念材料だ。白人だとはいっても厳密には差異がある。日本人も、色の白いひとから黒いひとまでかなり差があるようにだ。グローブスが陸軍准将だったころのは映像も写真もすべてモノトーンである。PCに解析させカラー化したが、それでも微細な色の識別まではできなかった。PC相手に苦労して捜しだしたカラー写真は初老期(1961年撮影のスペリー・ランド社副社長時代)のもので、しかも画像が粗い。プリント等の写真技術もお粗末そのもの。参考程度にしか役にたたないシロモノだった。

それでも、初老期のも解析するなどの最善をつくし、もうこれ以上のバーチャルリアリティーは望めないものにした。==あるいは、作戦に少々の修正をくわえて==万事乗りきるしかなかった。できることなら、准将をよく知る人間にあわなければいいのだとも。それでも万が一遭遇した場合は、臨機応変に対応しようと腹をくくるしかなかった。==いつもと顔色がちがうとか指摘されたら、「ここんとこ疲れがたまっているとか、昨夜の深酒が原因かな?とか、内勤(あるいは外勤)つづきだったからかな」で、なんとかごまかせるやろう==と。

 読者はすでに、バカな作者だとおもったにちがいない。言葉はどうするんだ?英語にもとうぜん、方言や訛りはあるぞ。いや、そのまえに、筆者も心配していたその一、声色のちがい、いっぺんにバレちまうだろうと。エトセトラ、エトセトラ。

それらについて、彦原にぬかりはない。そのためのハイテクスーツなのだと云々。

その高性能の一部を詳解すると、外からはみえない音声変換兼用の翻訳器を装備している。それをとおして、しかも彦原が頭でかんがえた文章を、聞き手の母国語に変換し相手につたえる、もちろん外見(そとみ)の人物の声音で。とくにグローブスに化けているときだけは、准将が日ごろ使用する米北東部(なま)りの米語として、相手の耳にとどくよう設定している。

芸がこまかいのは、念には念をいれるためだ。グローブスの話をきいたことのある人間がもし不審を抱けば、不測の事態を引きおこしかねないからである。

とにかくかれがたてた計画だが、すべてにおいて細心の注意が必要なのだ。

発声はそれでいいとして、こんどは相手の外国語をどう処理するかだが、耳に装着した翻訳器が瞬時で日本語に訳してくれるから、こちらも心配ない。

発声用と聴音用、ふたつの翻訳機だが、英語専用というわけではない。というのも計画において、接する相手は米人だけではないからだ。

彦原の計画において、敵は米国だけではないと…。

いやはや、また先走りしすぎた。

要は、ハイテクスーツを着用すると変装と会話が自在となるのだ。

しかも、である。相手にみせたい表情を頭でかんがえただけで、それをバーチャル映像として具現化できるのだ。驚きも当惑顔も卑屈な笑顔も自在なのである。逆にみせたいとおもわなければ表情とはならない。これだと、本心を気取られずにすむというおおきな利点がある。(悪女には不必要な機能だが、いや失敬)

ときにそのグローブスであるが、1942年九月十七日、かれがまだ大佐のときに、“マンハッタン計画”の最高指揮官に任命されていた。准将には六日ののち昇進している。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~ 第八章(前編)

発進まえから計画していた準備工作もふくめ、ほぼやり終え、満足の彦原。
そのひとつが特製衣服(ハイテクスーツ)の作製である。このスーツを着用すると、バーチャルリアリティ(=人工現実感)をつくりだし、他者の肉眼は虚像を実物と錯覚してしまうのだ。つまり、だれにでも化けることができる。007ジェームズ・ボンドが欲しがるにちがいないと、以前記した、一種の秘密兵器である。
くわえてMC(メインコンピュータ)と、連れてきた五台のロボットにも指示をだしながら進めたべつの準備も最大の仕事をのぞき、すべて完了したのだった。
タイムトラベルを完全実施できる装置の完成、彦原茂樹の集大成である肝心の仕事のほうも、おおかたの目途(めど)がついた。
あとはそれをすすめながら、時がくるのを待つのみである。いや、そうではない。時を待たずとも、時をつくれる段階にきている。もはや、どちらがはやいかの問題だった。
さて、発進日を起点に計算し、この恒星系では約一年七カ月後、でもって地球歴でだと三年三カ月と三日(以下の表記も地球時間である)となる日を結果的には待っている、正確にはかれのいきたい年代にリンクするワームホールの出現を、だ。
その間、感知できる範囲の宇宙域で、いままでに三十九のワームホールが出現した。
が、欲したものではなかった。まさにまさに、こんかいこそが、待望の“虫喰い穴”だったのである。
ふだんは冷徹なかれが、==えっ、こんなことって!==と、なんども見直して確かめたくらい驚きの年月日が画面にならんだのだった、かれの欣喜雀躍(=有頂天な喜びのさま)とは非対称の無表情な数字として。
==いよいよや!==同時におもった、これはやはり天佑(てんゆう)(=天のたすけや仕業(しわざ))だと。
核兵器廃絶のためとはいえ、必要悪である大虐殺の地獄絵が頭のなかで渦をまき、それでもだえ苦しんだけれど…。
読者はおぼえておいでか?彦原が精神を病む寸前だった葛藤の描写、執拗であったことを。
だが結局、天は人類の愚昧(核兵器の製造)を消しさるチャンスを、じぶんにあたえたのだ。だから、願ってもない過去につうじるワームホールがこれからできるのだと。
出現の予兆をしったのは、ほんの一時間まえであった。ワームホール予知装置もその精度性などをあげ進化させたおかげで、あと六日とニ十二時間の辛抱だと。
ところで、それまでにかれがしてきた準備とは。
核兵器廃絶するべく、彦原がかんがえだしたプラン。そのために必要な情報をあつめきり、物をつくりだし揃えること。チャンスは一回のみ、よって失敗はゆるされない。だから万全の態勢こそ必須なのだ。
さてその内容だが、読者には詳(つまび)らかにしなければなるまい。宇宙へ出立(しゅったつ)のまえに、自宅のコンピュータ(PC)に指示した具体を、である。
その一、“マンハッタン計画”の全貌を詳細にしらべさせた。施設や工場などの所在地は当然、かかわった企業や人物とそれらの所在地や連絡先(富裕層や中間層にも普及しはじめた電話のナンバーをふくむ)、そのほかありとあらゆる情報を網羅させたのだ。
その二、当時は存在していなかった事柄などの情報をしらべあげさせた。百五十年後を生きる彦原にとって、とおすぎる過去にいくのである。まだ存在していないことを口走ったり、存在していると勘ちがいして行動したりすれば、怪しまれるにちがいない。
当たりまえだが、百五十年まえの米国にじぶんをあわさねばならない。《アメリカ(郷)にいるときはアメリカ人のよう(郷)にふるまえ(従え)》ということだ。
その三、レズリー・リチャード・グローブスという名の米陸軍准将の、1944年末当時の顔と身長に体型、声と利き腕に癖、そして制服までもしらべさせた。声は、レコード盤に録音されたものがデータとしてのこっていた。利き腕や癖は、当時の記録ニュース映像などをみて知識を習得した。
むろん、それらすべてが帰着する地球で必要となるからだ。
ときに、過去の地球で必要となる爆発物をふくむ物の製作、宇宙にもっていく資材のリストづくり、数種類の設計図作製その他、地球脱出まえにすべき準備は2095年九月末ですべて完了させていた。
大気圏外にでてすぐワープ航法で到達した、現在彦原がいる現宇宙域での初仕事は、地上での計画を細部にわたり練りに練ることだった。
宇宙船発進の五日まえ、準備として船内のMCに送信しておいた。
そのデータを駆使しての米国での行動だが、最終的結論はきまっている。そのために最初はどこへゆき、つぎ、そのつぎと順番と個別の作業詳細を、その間だれに化けだれとコンタクトをとりなにを指示するか、さらにはクライマックスへと、入念な計画をつくりあげたのだ。それでも百時間とかからなかった。
ところで発進してすぐに、船内酸素量をわざと三分のニ強に設定した。帰着した地上…米国において予定している、高地での重労働に備えるためだ。オリンピックに出場する選手がからだを慣らすため、高地トレーニングするさまを参考にしたのである。
その間、五台のロボットには設計図データをインプットし、バーチャルリアリティをつくりだせる機能も搭載の、特製小型乗用飛行車を製造させたのである。
必要な資材や機材は、社にはプロジェクト用と偽って、あらかじめメイン工場に入庫させておいた。係はうたがうことなく、注文どおりに用意したのだった。
そして宇宙船発進当夜、X社の倉庫からニ千百八十六種、九千八百品目の資材と機器類を持ちこんだのだ。
全ロボットに命じ、そのすべてを活用させ、千と五十時間で完成させたのである。部下たちにみつかる心配のない宇宙にあって、時間はたっぷりあった。
またMCには、計画遂行のため新たにデータをうちこみ、べつの仕事をさせていた。
そのひとつ。最重要任務に就いている米陸軍准将に、三十数人の特定の科学者がかける電話をインターセプト(途中でうばうの意)するよう、くわえて、船外にでて留守しているときには彦原のスマフォに転送するよう、指示した。地上におりたかれが准将になりかわって電話をうけるためだ。また逆に、かれが科学者にかけるときにも有用となる。
百時間たらずで計画を完成させたあと、休むまもなく彦原は、目的遂行に必要な品々を懸命につくりはじめたのだった。髪もひげものび放題、二十五日間、つごう三百三十時間で目標とした品々を完成させたのである。がんばって急いだのは、ワームホール自在作出理論構築の時間を捻出するためだ。
……やがてのこと、知識と知恵と体力を傾倒して千八十日後、理論は、おもいのほかはやく完成させれた。十一年間の数々の失敗や試行錯誤からえた知識や知恵がおおいに役だったからだ。また、アバウトながらも理論の全容が頭のなかで徐々に形成されつつあったこともおおきかった。
この間だが、ロボットも休んでいない。飛行車完成後は、計画につかうフェイク装置や二種類のリモコン、秘密兵器としての特製腕時計等、数多いアイテムの製造に、汗をながすことは流石(さすが)になかったが、また、とくに良質なエナジー源を報酬としてもらえるわけでもないのに、それでも懸命にはたらいたのだ。
ただ彦原の髪やひげとちがって、足の役目をしている特殊ゴムのキャタピラーがのびることはなかった。
彦原とて理論構築後も休むことなく、ワームホール自在作出装置の設計図を、ニ十日あまりでつくりあげた。現在はロボットに手伝わせ、その装置もあと半年ほどで完成、というところにこぎつけたのである。部品調達のためとはいえ、おかげで船の娯楽装置はすべて解体されてしまったが。
 それでも完成後はすべてを計算し、2095年十一月十八日の未明に帰還できるのだ、と。地球脱出の二十分後、つまりそれは、みなが裏切りをしるまえという時間帯である。
ドリーム号をふくむ、ほとんどが元どおりにリセットされる、ということだ。なにがおこっていたのか、だれもしらない、記録ものこっていない、となるであろう。
ただし、元どおりでない巨大なものが、ひとつだけ。唯一最終目的である、人類を滅亡させうる悪魔を消滅させた(まだ何もはじまってはいないのだが)ことだ。
地上で大義を完遂させたのちの、彦原だけがしる、いまは夢想とわかっていての血の凱旋に刹那、悪魔の笑みをもらしたのである、本来のかれらしくなく。
だとしても、この時間帯の帰還が意味すること。それは、完成したワームホール自在作出理論を手みやげに数時間後、なにごともなかったかのようなすまし顔で、出勤できる、である。
という、100%達成可能な計画、
…のはずだった。
しかしかれには“想定外の結末”が、計算上の夢想事生起(せいき)(=現象があらわれ起こること)まえに、驚天動地する暇(いとま)もなく突如やってくるのだ。
あわれ、捕らぬタヌキの皮算用を身で知る、ことになろうとは。
天才彦原は、みずからが課した使命をはたすことに一切の天分を傾けたばかりに、結果、足元を掬(すく)われてしまうのだ。
使命に全身全霊を傾倒しすぎて、そのあとの事態にまでは頭がまわらなかったのだろうか。核兵器全廃の完遂がかれには総てであり、歴史変革のおかげで、できあがるバラ色の未来に酔いしれたからなのか?
明晰な頭脳の彦原だ、すこしかんがえれば、未来を想定できたはず、にもかかわらず…。
あるいは以下の状態だったのか。
予定している極悪犯罪行為と、その直後に惹起する恐ろしいばかりの事態。こころ優しいかれは、じぶんがつくりだす地獄を想像してしまい、その先なにがどうなるか、その恐ろしさのゆえにおびえ、思考を停止させてしまったとも…。一種の自己防衛であろう。
そんな自己防衛のため、恐怖体験の記憶をあえて消去するタイプの、心因性記憶喪失という病気がある。
精神を破壊させまいと、脳が故意に記憶を消す、それはだ、脳が機能を停止するという点で共通であり、天才ならずとも、脳のサボタージュはありうることなのだと。
もしくは単に、事態がもたらす未来にまでは考えがおよばなかったのか?
たしかに、歴史上一度もおこっていないことである。あるいは、先例がない空前の未来は漠然としすぎていて想像のしようがないと、自身の思考回路がかってに身の上からきり離したのだろうか?
かってにきり離したとすれば、そこには、なにかおおきな理由がありそうだ。が理由の有無をふくめ、これものちには明らかとなろう。
いずれにしろ、歴史変更完遂の、支障になるかもしれないことに頭を悩ませている状況でなかったことは事実だ。
大事なのは、あくまでも遂行である。彦原自身が有する全智と全能を投入しないと、とても達成できない難事業だからだ。よけいなことに頭を悩ませている場合ではないとし、想念からはずしたのかもしれない。
よけいなことでは、決してなかったのだが。

で、以下は既述したことなのだが、あえてつづる。
かれの心裡において、歴史変更後の漠然とした未来を憶測することとは、この時点では比べものにならないほどおおきな葛藤を抱えていたことをだ。
そのせいで、結果として“学者バカ”という言葉を体現してしまうのだ…、不本意では到底すまない事態とともに。
その、大きな葛藤。全人生を否定しかねない、懊悩をともなう心の相反。真逆の悪行と善行。
そんなギャップに、気も狂わんばかりに苦悩し、あるときは心痛のあまり胃液がでるほどのおう吐をしたのだった。
だがいまは、頭を悩ませるその内容を書く段階にない。

核兵器を全廃させる、未来からのテロリスト~破壊が生んだもの~第七章(後編)

 秘書が迎えにくるまでの思慮。最悪の事態からどうすればニ時間まえの順調な状況に戻せるか、そればっかりだ。しかし、=こっちから連絡するまえに、そろそろCEOから罵倒の電話がかかってくるやろう¬=との恐怖が小心のかれをビビらせていた。それでも、いまはうてるかぎりの策や手段を講じて、すて身で捲土重来(けんどちょうらい)(この場合、敗者が新規まき直しするの意)を期する覚悟、ではあった。
 そのためには、とにかくドリーム号をとり返さなければ…。
 いっぽう、激しい動揺のせいで、思索が右往左往するのをとめられない。このままでは、ナンバー4の“専務”だからといっても、ただですむはずがない。じぶんでも内心、監督不行届きは否めないとおもっている。首がとぶくらいならまだましで、最悪だと、民事訴訟で賠償請求されるかもしれない。むろん、はらえる金額をはるかに超過するだろう。
 そう考えると、あすへの不安にたいする部下の切実な声などに頓着している場合では、まったくなくなった。わが身と大事な家族および財産をば、いまこそ、じぶんで守るしかないではないか、と。
 地上五百メートルを飛行する車(このあとも登場する乗用飛行車)のなか、後部座席に身をゆだねながらすこしずつ冷静になれた。窓外の暗黒と静寂が神経を鎮める役割りをはたしてくれた。
 そして到着までの数分間がときを刻むごとに、脳の、平静の領域をひろげていったのである。すると、やはりドリーム号はとり返せないとの厳しい現実を覚った。
 悲しいことに、四面を敵に囲まれ敵側からながれてくる楚歌(項一族の故郷の歌)に完敗を身に染ませた項羽(秦王朝を滅亡させた稀代の武将)と照らしあわせ、じぶんも捲土重来は望めないだろう。つまりじぶんにこそ=未来がない!=のだ、と悟った。
 しかし嘆いているばあいではない。泣いている余裕などどこにもないのだ。責任をつよく追及されると悟ったかれは、もはや自己防衛に思考を集中させたのだった。
 もちろん、ホープ号を発射させることに変更はなかった。無為こそが最悪だからだ。
 部下たちのまえに駆けつけるやいな、「ま、まさか、て、敵国に売りつけたんとちがうかっ!」と蒼白の顔で絶叫してみせた。みずからの責任を回避する、根まわしの一手をうったつもりで、だ。
 彦原をスパイに仕立てあげ、それでじぶんを護ろうと決したのである。それでももはやすこしのやましさも感じなかった。=さきに裏切ったんは彦原のほうや!=と断じたのだった。
 焦眉の急となった責任回避。そのためのおおきな関門、まずは、どうやって盗みだしたか?である。その究明は、主任たちにおしつけることにした。
 つぎに、専務としてこの事態を阻止できなかった、となる責任問題。「それは不可抗力だったから」と理屈をこねて、いい逃れの強弁を尽くすべしとそうきめたのだった。
 懇意にしている弁護士の顔がうかんだ。高いが有能で評判の辣腕に、あとのことは任せるしかない、そう腹をくくると、すこし余裕がでてきたのだった。
 すでに記したが、社としては当然、宇宙船ごと盗もうとする犯罪も想定していた。だから、その防衛策として一分の隙もないといえるほどに万全なセキュリティシステムを敷いていたのだ。おかげでだれもが完璧と信じきれるシステムができあがったと自負していた。
 しかしながら、まさに「プロジェクトそのもの」である彦原が盗むことだけは、その想定外、であった。
 さらに、だ。あらゆることを想定し、社内外に監視の眼を怠らないCEOですら、全人格をふくめ彦原を信じきっていたではないかと。この論理を無理やりにでも推しすすめ、最終的には、だれびとにたいしてであれ、責任を全面的に転嫁すると、恥を捨てて決したのである。
 たしかに十一年におよぶ彦原の精勤ぶりは別格で、これにより暗黙の絶対的信用を、CEOならずとも懐いたのは間違いなかった。だからまったくの無防備状態となってしまったのだ。
 その彦原がこの盲点を突いたように、専務も盲点をぎゃくに利用することにしたのである。
しかしながらいくら異常事態とはいえ、いままでの専務ならこんな策はもちいなかったであろう。最悪の事態に混乱し、人間性に異常をきたしてしまったからか。
 たしかに、上下・前後への深謀もなく、ことを急(せ)いてしまっていた。地獄が危急の存在となり、いままで身に纏(まと)っていた虚飾が剥(は)がれ落ちたのかもしれない。ということは、本来の地金がでたということか。
 いっぽうの部下たちは、日ごろ接する彦原の実直そのものの人間性から、売国行為などするはずないと信じきっていた。がだれも、それを口にはしなかった。もはや地上には存在せず、最近の彦原のようすから、あるいは帰還しないかもしれないと思ったものもいた。となると、弁護はすでに意味をもたないからだ。
 あるいは弁護に由り、協力者とみなされることを恐れたのである。だが大半は混乱と動揺で、平静の思考ができる状態ではなかったのだった。
 とはいえ、かれらは結局裏切られたのである。
 弁護はさすがにと、否定的なものもいた。それでもだれひとり、すぐさまの恨みごとまでは思い浮かばなかった。昨夜まではまちがいなく最高の上司だったし、ふだんは、それほどに目をかけよくしてくれたからだ。
 はじめ、専務が信じなかったように、話を聞いただけであれば、またこの場にこなければ信じなかっただろうし、いまでも信じたくないおもいは一様だった。
 悶々と、心の整理をだれもつけられないでいるとき、彦原に好意以上の気持ちを懐いていた入社二年目の女性研究員が、じぶん宛ての手紙をみなのまえで読みあげはじめた。文面のとらえ方はさまざまだろうが、すなおに解釈すれば、自供とも読めた。
 ここで、一時間ほど時計をもどす。
 かれらは念のため、ことの顛末をきいた順に、連絡がとれるところにいるかもしれないとスマフォにかけたり、社に到着した順に広大な研究所内を大声で呼ばわりながらトイレにまで探しにいったものもいた、上司は気絶させられていると信じながら。さらには、彦原の自宅に一番近い研究員にいたってはさきにかれの家に寄り道し、留守を確認してからきたのだった。専務の家に入電するまえに、たがいのスマフォで連絡をとりながら動いたのである。副所長室へ真っ先にはしったのは、想いを寄せるかのじょだった。
 そこで、それぞれに宛てた手紙をみつけたのだ。手紙の内容だが、一通としておなじものはなかった。ひとりひとりへのちがった想いでをとどめつつ赤誠(=まごころ)と心底からの謝罪がつづられていたのだった。
 黙読しつつ、嗚咽しあるいは号泣しないものはひとりとていなかったのである。
が、それでも裏切られたことは事実だ。客観的にみて、最後の最後に、積年の労苦を水泡に帰さしめただけでなく、じぶんたちの将来も潰されたのである。
 しかし、さすがにCEOだけはすべてにちがっていた。
 帰社の車中、ドリーム号を再度つくるための資金をどうやって集めるか。
 そのためにはまったく問題なく、メイン工場が稼働可能との前提条件つきだが。その算段のために、思考をつかさどる前頭連合野をフルに活動させていたのだった。再製造は、優秀な研究員たちをヘッドハンティングで引き抜かせないためでもあった。

 果然、みなが了解していたとおり、覆水が盆にかえることはなかった、総てにおいて…。
 つまり、ドリーム号の帰還はついに、なかった、ということにほかならない。
 そして三年三カ月と九日後、総てがかわってしまうのだ、しかも一瞬で。
 おかげで、かれらの苦悶や苦闘は消滅したのである。というのも……。
 しかし、いまはこれ以上を記せない。
 ただ…、三年と三カ月後に突然襲ってきたとしか表現できない震天動地の結果も総て、彦原のせいだった、しかも、そうだったのか、どころか、なにがおこったのかすら、だれひとり気づかないまま。

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