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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(43)

 利家は辛抱づよく、おし黙ったまま弁明に耳をかたむけていた。じぶんがもしおなじ立場、おなじ状況であればどう行動したか?愚行をしなかったとする自信はなかった。

幾多の戦をのり越えてきたが、幸いにも、じぶんの肉親に戦死したものはでなかったのである(養子にだされた弟の佐脇良之が、三方が原のたたかいで負傷し、あわれにもそののち没しただけだった)。

だからといって、仇を討ちたいと念じていた家臣の気持ちを、わからない利家ではなかった。

しばしののち、ようやくしのび泣きへと変じていった少年兵であったが、「ご家中におかけいたしまする難儀など、そのときはかんがえる余裕もなく…、」ここで、鼻をおおきくすすり上げた。

「誠にもって、もうしわけのしようもござりませぬ」早口で叫ぶようにいうと、こんどこそは泣き伏してしまったのである。

 利家は、目のまえでボロ雑巾か弊履(へいり)(やぶれた履物)のごときと化した城兵が、あわれになった。できれば救ってやりたいともおもった。が、いまはそれどころではない。

なにをおいても救わねばならない家臣が数千、しかもすくうこと自体、難事中の難事だったからだ。

「馬をひいてまいれ。で、利長。そちもついてまいれ!また、奥(まつ)にも、身分をさとられぬいで立ちで、あとからまいれと伝えよ」

利家は腹をかためたようすで、宣言するようにさけんだ。じぶんたちの命に拘泥していては、前田家をささえ、繁栄させてくれた家臣たちやその家族を救えない。

との発想、いかにも利家らしい。

 剛勇ではあったが、才気機知とはいいがたい人物。いわば、切れ者ではなかったかわりに、報恩の精神や誠実さがかれの身上であった。

 その人格を、信長は愛し、秀吉は、比類なき一刻者(頑固なまでにじぶんを曲げない人)として信じ、めでていた。

 誠実さのきわみ。それは、嫡男の利長を同行させることでも、うかがいしれよう。つまり敵に、あと継ぎの身まで任せようというのだから。まずもって、豪胆ですらある。

「さても、どちらへ」傍(かたわら)にひかえていた重臣村井長頼が、おもわず尋ねた。答えはわかっていたのだが。

「しれたことよ、筑前殿の陣にまいるだけのこと」なにごともなさげに。まるで、友軍のところにでもでかける風情である。

「なりませぬ!」長頼は身を挺してとめようとした。「殿にもしものことあらば、家臣一同、いかが相成りましょう。荷が重うござりまするが、某(それがし)がまいりまする」

「たわけめ!」一喝した、長頼がせりふ、人となりから想定していてのことだ。

この事態を引きおこした少年兵には声を荒げなかった。

にもかかわらず、長年つかえてくれ、兄弟以上に信頼し、なんども命を救われた得がたき家臣の長頼には、きびしい叱責をくれた。

「そのほうで、あい務まるとおもうか!」両肩に重たくのしかかった危急存亡の秋(とき)(肝心である、“とき”につかう秋)ゆえに、はしなくも一喝してしまった。長頼こそが、心ゆるし心底からあまえられる側近中の側近だったからだ。

で、すぐに声をやわらげた。「又兵衛が申し出、衷心よりありがたきことぞと…」感激家のかれの目頭は、おのずと熱くなっていった。

 主君の姿にまた、ひかえていた家臣たちもしのび泣きしはじめたのである。

「されど、このような事態なればこそ、主君たるもの、おのが務めをはたさねば、あいならんではないか!まさに、今この秋こそぞ!」自然とこぶしに力がはいり、「なにごとかなさざらん」そう、みずからを鼓舞したのである。

それから「そちに幾度となくたすけられたるこの命、けっして無駄にはいたさん。いまこそ千金のはたらきをなし、そのほうらに報いるべし!」利家は、家臣にというより、天にでも聴かせるかのように宣言した。

そのあと魂魄はここぞとばかり、「わが一命と引きかえに、家臣領民を救いたまえ!」まさに、天にむけたる渾身の懇請として、いい放ったのである。

刹那、その高潔に「父上!」まだわかい利長は嗚咽し、

「殿っ!」と長瀬、すがるように発したが、そのあとは絶句してしまったのだった。

 もはや、だれひとり声を発するものはなかった。

さすがの主従の目に、万感の涙が、ただ光ったのである。

また、はなれてはいたが、やがて情景を耳でしった城兵たちも堪えきれず、声をあげて泣いたのであった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(42)

その府中城内。

主命によりひきだされてきたわかき城兵にたいし、雑兵が首根っこをおさえつけているのを、利家はやめさせた。動機を問いただす障害になると、わかってからだ。

動機を掌握せずしては善後策などない、くらいは当然にわきまえる、信長から薫陶をうけてきた一廉(かど)(すぐれている)の武将であった。

「なにがあったというのじゃ!隠さずもうしてみよっ!」ギリギリのところで押さえている激昴だったが、返答しだいでは爆発を押さえきれないだろうと。かれは、生まれもった自身の性格を知悉していた。

右のまぶたが絶えまなくぴくぴくと痙攣していたが、いまは精一杯の自重につとめていた。乗りこえてきた戦場や所領統治などでの経験から、えた思慮分別である。

くどいようだが、経験から学ぶことをしらない並み以下の武将であったならば、感情にまかせ、問答無用で切りすてていたであろう。

 少年兵は土下座したまま、ただおし黙っていた。がその両肩は、激しくうち震えていたのだった。しでかした重大事にようやく気づき、先刻より恐れ戦(おのの)き、あげく、たまらず号泣してしまったのである。

 いっぽう城内は、数千人も将兵たちがいるとはおもわれないほど、咳(しわぶ)きひとつなく静まりかえっていた。ただ主従の問答を、かれらは知るすべをもたなかった。やがてもれてくるであろう情報をおとなしくまつ、気の毒な立場のひとびとであった。

ぎゃくに側近のおおくはというと、わが身にふりかかる災厄を心配しつつ、主従の言動にたいし、固唾をのんで見まもるしかできなかった。事ここにいたっては、発言権などあろうはずなかったからだ。

「おまえは、いわば丸腰のものに矢を射かけたのじゃ。手むかいしないものを手にかけることがいかに人倫にもとるか、年若いとはいえ、おまえにもわかろうというもの」

さすがの利家も、敵将の来訪を〈濡れ手で粟〉と安易にとらえ、で、この最悪を招いたことすら思慮してなさそうな若年兵に、さらには苛立ちもおぼえていた。

眉間にはふかいしわが刻まれ、まなじりはつり上がり、怒りがきびしい眼光となって、わかき城兵の頭を射ぬいていた。

それでも、若いころとはちがっていた。

このときの心情こそ、重要なので詳記すると、

勇猛でしられた利家ではあったが、激情にかられて斬りころしてしまっては、秀吉陣営にたいし、いかようにも申しひらきができないとかんがえたからだ。

「も、申しわけござりませぬ。誠に、まことに…。仰せのとおりにござりまする」平伏したままようやくそれだけを発した。嗚咽しつつ、消えいりそうな声であった。

「非道とわかっての所業とな。ならばその方にも、よほどの存念があってのことであろう」口をひらいたことで、焦燥がすこし和らいだ。

「この期におよんでの申しひらきは武人の恥。父は日ごろよりわたくしめに、そのように申しきかせておりました。ましてやこれほどの大失態、どのような申しひらきができましょうや」

じつは、弁明は詮なきことと、わかき守兵に諦観をいだかせる事態が、先刻おこっていたのである。

事件発生直後、泡をくって走ってきた城兵たちは、かれをとり囲むと口々に罵り、また小突いたりしていたのだ。

かれらのいわく、「おまえのおかげで、この城は総攻撃をうける羽目になった」「もはや生きてこの城を出られるものはだれもおらんじゃろう」「わしは死にとうない!」など。これらは至極もっともな正論であり、人情の発露であった。

さらには「この大うつけものめが!」と、打擲(ちょうちゃく)(うちたたく)するものも、ひとりやふたりではなかった。

 だが、少年がもっともこたえたのは、「わしが死ねば、飢え死にするわしの幼子らがあまりに不憫じゃあ…」と取りすがられて泣かれたことだった。

前後をかんがえず、激情からことにおよんでしまい、それが招く事態に、このときはじめて気づかされたのである。

 心頭より発した瞋恚(しんい)(はげしい怒りや憤り)だったが、不惑(四十歳)となってはや五年の利家は、主君という立場から憤怒を無理やりおし殺し、「それではわからぬ。まずは面(おもて)をあげよ」平静を努めにつとめ、すこしく優しげな声でいった。

 ややあって、少年はなき腫らした顔をあげた。大胆なことをしでかしたとはおもえない、あどけなさののこる紅顔がそこにあった。

その、童顔の中心に位置する瞳をみつめながら、再度口をひらいた。

「わが軍は、いまや進退きわまった」だがさすがに、誰のせいでなどと不毛なことはいわなかった。「されどそれとて、家来どもをたすける手だてが皆無というわけではない。しかしそれには、そのほうがまずは正直に存念を、このわしに打ちあけることじゃ」

 声音だけでなくその眉からも、怒りはきえつつある。

「しらねば、わしとてかんがえうる最善の手のうちようがない」ここでいったん口をつぐんだ。つぎの言葉をあやまたないようにするためであった。

「さすれば先に、このわしから正直に申そう。ただしじゃ、おまえを助けることをかんがえておるわけではない。いかな、それは無理じゃ。ただ、無益な戦をさけ、みなを安堵させたい。ただそれだけじゃ」

身をねじられるような心境のなか、苦悶のせいで、蒼白になった表情はまだ歪んでいた。「わかるであろう」

若気のいたりとはいえ、主家全体を存亡の危機におとしこんだ結果もだが、黙秘したそれ以上の理由は、じつは感情を制御できなかったことによる忸怩(恥いること)であった。

元服したにもかかわらず、わらべ同然の行動をとったじぶんが、情けなかったからだ。

しかし、主君の腐心にふれた城兵は意を決っすると、吐露すべく、おもい口をようやくひらいたのである。

「茂山より退陣のおり、殿(しんがり)のなかに父もわたくしめもおりました。敵方に追われるなか、奮戦していた父でしたが、敵の槍により、ついに落命いたしたのでございまする。わたくしめはその場にて、刹那、父の仇をば討ちはたしはいたしました。なれど、帰城後も心晴れることなどなく…」

 亡父は、武士(もののふ)の子としてきびしく育てたのであろう、声はちいさかったが、言辞はしっかりしていた。

「そんなおり、この戦の元凶の御仁が単騎で入城いたしました。これこそは亡父の計らいと信じ、ほかのことなどは胸中になく、ただ無心にて、矢を射かけたのでございます」しかしそこはまだ少年のこと、いうなり、またもや咽びはじめたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(41)

歴史的にも、朝鮮出兵にその因があり、文治派と武断派だがさながら水と油、家康の掌のうえで闘争が勃発したのだった。

まさに歴史が、家康に味方したのである。

くどいようだが、豊臣家内の対立なくして、家康の老獪さは、威力を発揮できなかったし、武断派を味方に引きいれることもできなかったにちがいない。

くわえて、関が原前夜という条件下だったからこそ、高台院(秀吉の正妻ねね)は「家康に味方せよ」と、豊臣恩顧の諸大名(ことに、かのじょにとっても子飼いである武断派)に指示をだしたと。これは通説によるが。

動機だが、おんなだからこその性か?夫の子を二度も宿した“淀(第一子解任以降のよび名)”への嫉妬であり憎悪である。単純だが、概してこんなものなのだろう。

むろん、したり顔の家康。愚かのおかげで、敵方のはずのかのじょの懐柔にも成功したのである。

豊臣家創業の立役者が、引導をわたすにひと役をかったというのは、それにしても、なんという皮肉だろうか。

以上ながながとだったが、いずれにしろ、秀長の死において、徳川方の毒殺説はこれを否定できないのである。

さて、白日夢の本題にはなしをもどすと、

秀吉をうしなったその間隙を敵にあたえるどころか、秀長ならばかえって、”弔い合戦”とばかりに、府中城を短期日でうち破るであろう。どうかんがえても利家・利長父子にとって、戦える相手ではなかった。

 ただ幸い、想定外の事故を敵方はまだしらないでいる。敵方の耳にもとどろく鉄砲をもちいていなかったことが、不幸中の幸いであった。

 利家は狼狽しながらも、一国の主、歴戦の勇士であった。善後策をさぐりだそうとの思慮をうしなわなかったのである。

 すぐさま、秀吉の唯一の弟であり補佐官の羽柴小一郎秀長のもとに、重臣奥村永福を遣わすことにした。

利家よりあたえられた命がけの特命をむねに、永福は特別の装束に着替えたのである。もとより、”大変”ではすまない役をおおせつかったのだ。かけ値なしに、前田家の存亡がかかっているのである。

いっぽう秀長は、本陣にて兄者の帰陣をまっていた。前田利家調略の首尾について、その知らせを黙然とまっていたのだ。

 そんな秀長のまえに遣いとして、丁重な挨拶をすませた永福はまず、秀長に侍(はべ)る近習に、腰の大小をあずけたいと申しでた。

主は帰陣せず、かわりに敵方の重臣が来訪したことで、さすがの秀長は、ことの重大さをあるていどは察知していたのだった。で、側近の藤堂高虎に、ある要請を手短に耳打ちしたのである。

そのうえで、まずは推移をみるため、遣いのおもうがままにさせ、ついで、申すがままを黙ってきくことにした。最悪の事態もありうると事前に推しはかっていたからこそ、聡明なかれはここ一番、さきを急ぐことは愚策と心得たのだ。

単身にての敵方懐柔を、弟としてじつは毎回制止してきたのだが、兄はいちどとして諫言を聞きいれなかった。

それゆえ当然、“死”という最悪も、けっして不測の事態とはかんがえていなかった。いやそれいぜんに、戦国の世である。戦における兄の死を、したくはないが想定せざるをえないと…、兄秀吉につかえたその刹那から、覚悟をきめた秀長であった。

春たけなわの草土に両手をつくと、「恐れいりまするが、まずは、お人払いを願わしゅう存じます」身に、なにも帯びていないことは周知のはずと。

「あいわかった」奥村となのった前田家重臣の所作を観察していた秀長は、いかにも鷹揚に、しかしすぐさま、はべっていた者どもに眼で合図をした。

それをうけ、一礼した高虎や青木一矩などの重臣や近習たち全員が、部屋から退出していった。

この一連を、平伏のまま耳で確認したのち、「かたじけのう存じます」そう礼をのべ、おもむろに立ちあがると、「ご無礼つかまつる」いうなり奥村永福は、平装を脱ぎすてたのだった。

出てきたのは、白装束であった。覚悟の、死に装束である。そして再度の平伏をしたのだった。三間ほどの距離をとっていた。

秀長は「そのいでたち……」と、内心仰天するおもいだった。が、平静をよそおいつつ「して、内密のはなしとは、わが主、秀吉のことであろう」そう、かろうじて発した。しかしつぎの「かくさず申してみよ」との言葉は、緊張のあまりかすれてしまった。

さらなる「よもや…」は、不吉を予感させる禁句だと、それが現実になるのをおそれ、胸の奥でとどめたのである。それでも、

無念にもこのとき、主の死をつよく否定したくとも、できない秀長であった。夢を追いもとめる兄とちがい、現実主義者だったからだ。

ただ一縷の望みも、もたなかったわけではない。それで、頭のなかにいすわる不吉な予感を、ふり払うべくつとめたのも事実であった。

秀吉という存在はたんに、兄とか羽柴家の守護者や統率者などの規模ではない。もはや、統一により戦乱から日の本をすくう救世主と、すくなくともかれはそう信じていたからだ。

武人となって二十余年、民と国を安んじることが百姓出の秀長にとっては、いまや、最大の誓願であった。

「まことにもって、申しわけもござりませぬ。お詫びのしるしとしては足りませぬが、主、利家は腹をきる覚悟でございます」と頭(こうべ)をさげたまま、まずはふかく陳謝し、どんなに不都合な事実をもつつみかくさずと決め、ことの顛末をはなしはじめた。

へたな隠しだてや些細なウソは、かえって心証をわるくすると知悉していたからだ。しかし、城兵による秀吉殺害の動機にまでは、言及できなかった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(40)

ならばと、当たりまえのつぎの疑惑。

秀長毒殺などはまどろっこしい。それよりなぜ、直接、秀吉を毒殺しなかったのか?そのほうが、よほどに手っとり早いではないかと。                                                                                                                                       

なるほど、一旦は、ごもっともでござると云々。

では逆質問、それで天下を盗れるのか?

奪うには、暗殺のあと、豊臣家をたおさねばならない。すくなくとも、勝ち馬に乗るような付和雷同的勢力ではあっても、ないよりましと味方につける必要が、徳川にはある、現下では形勢不利、多勢に無勢だからだ。

そこでおもいつく具体策だが、それは全面戦争ではなく、局地戦でまずはうち勝つことだ、小牧・長久手の役のときのように。

ではあるが、徳川勢だけで、豊臣家にうち勝てるだけの戦力となっているのか。三河武士はたしかに恐れしらずで屈強ではある。が戦力的にみて、これも、1590年当時だと否だ。

1584年の小牧・長久手の役のときとちがい、織田信雄(かつ)(信長に次男)はもとより、与した紀伊の面々や長宗我部も、すでに豊臣の軍門にくだっている。よって、両軍の勢力格差はおおきくひらいていたのだ。

ひとつ。徳川そのものが戦につぐ戦で、兵糧をあまり増やせてはいなかった。しかも秀吉の目論見により、移封させられたばかりで、徳川の兵糧は底をついていた。

徳川全体、つまり家康は、おおくの側室と子はむろんのこと、それにかしずく奥女中、さらには近習たち、この数百人単位をもごっそりと。で、家臣団は各自の一族郎党ももちろん、一族や郎党につかえる家来と家族たちをもふくめ、一大引っ越しをさせられたのだ。

そのうえで、家康は江戸城大増築をせねばならず、家臣たちも各自住居の整備などで、おびただしい出費となり当然、すかんぴんになってしまった。

のちの参勤交代ていどでも、各大名は、たいへんな出費を強いられ借金がかさみ、藩財政を疲弊させた。それと比較するまでもなく、現中部地方から関東への徳川勢一大移転費用は、えぐすぎたはずと想像できるのだ。

ふたつ。ならば、他者を利用することで、目的を達成できるのでは?だ。

いうはかんたんだが、他者はただでは動いてくれない。道理だ。ではいかに、鼻っ面に美味なエサをぶらさげられるか?なのだが、それも1590年初頭では、不可能のひとことである。無い袖(たとえば報酬)は、振れないからだ。

それはそれとして、秀吉亡きあとに豊臣家は分裂し、天下は乱れる?やも…。

いや、待てよ。肝心なこの点を、検証するひつようがある。

毒殺が成功しても、しかしながら、秀長がのこる。かれには、カリスマ性こそすくないが、実力と徳望で、豊臣家をいっそうまとめ上げるはずだ。秀吉のかげで兄を支えつつ、ともに天下統一に邁進してきた力量を、秀吉家臣団はつぶさに見知っているのである。

よって、豊家は分裂しないだろう。なぜなら、分裂するに、利も理もないからだ。

みっつ。兄弟ともに服毒させられたため、秀長不在(既述)の豊家にたとえなっていたとしても、豊臣政権にとってはいまこそ、危急存亡の秋(とき)と。まさに組織の防衛本能として、大同団結すべきとの求心力が強大化しないはずがない。

組織というものは、外圧にはめっぽう強いのだ。敵は、各自にとって同一の標的だからである。よって、分裂の愚をおかす道理がない。

となると、家康がとれる手立て。一にも二にも、健康管理である。

なぜか?それは秀吉が、六歳年上だからだ。順番どおりとはいかないだろうが、ならば逆に、やり方によっては、じぶんの死期を遅らせることも可能と。

そのための漢方薬づくりであり、体力維持にもつながる鷹狩りなのだ。どちらも、趣味として有名である。

ついで満を持すための、兵糧備蓄、家臣の、戦士としての育成、火縄銃などの武器の量産などなど。そのうえで、秋をまつのである。

そうこうしているうちの秀長の死と、運がむいてきた大事件が。とは太閤秀吉の命による関白秀次自刃、と、朝鮮半島への海外派兵のなかでの戦果争いによる諍(いさか)い。清正と小西行長とのあいだにうまれた確執はその典型である。

さいごに秀吉の、想定どおりの死。ついでの、目のうえの瘤だった、前田利家の死。

これを好機と、豊臣恩顧の諸大名を分断、でもって軋轢の顕在化、さらに狡猾に、武断派と文治派との対立を激化させ、利用しつつ、清正を代表とする武断派をとりこんでいったのだ。

天下を盗むには窃盗的法で。とは窃(ひそ)かにつまり人知れずが、この時点では必要不可欠だったのである。

家康こそ、豊家にとって共通の敵と、とくに血の気のおおい武断派に気づかせないために。どころか、家康こそが、幼君秀頼公の味方であるかのような言動を弄して、だ。

でもって、いよいよ時期到来だと、ほくそえんだ家康。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(39)

さて、で十六世紀末の秀吉。ちなみにもし、大陸との全面戦争ともなれば長期戦を覚悟しなければならない。それは、海をへだてての兵站(兵・食料・武器などの供給路)に窮することをいみすると、信長家臣として兵站構築と維持のたいへんさを体で知りつくし、またこのころは、文治にたけた三成を擁している秀吉がかんがえないはずもない。

だからわかるのだ、中国の歴史、とくに中華思想と朝貢外交(周辺国君主が中国皇帝に貢物をさしだし、その返礼をうけつつ、周辺国は中国の傘下にくみこまれ、安全を担保される)に無知で、それは忙殺のあまり(信長にこき使われ、そのあとは天下取りの意)、これらを学ぶ余裕も必要性も、これまでの人生にはなかったからである。

よって外征は失敗する、当然の帰結として。敵をしらずして、勝てるはずがない。

それにしても、文禄。慶長の役の真の目的だが、歴史学者にとってもナゾのままなのである。

いずれにしろこれらの史実と、それによりみちびかれた推論(家康による、天下転覆のための秘術としての秀長毒殺や豊家恩顧家臣団の分断秘技)から、いわば括(くく)っての、天下統一により即天下泰平となったというような異論は、これにて一掃できたとおもえるのだが。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(38)

ところでまさか、明国を勢力下におくなど、本気だったとボクにはおもえない。高齢の自身や幼年の秀頼に鑑み、夢想にすぎるくらいはわかっていたはずだと。地球儀をみて自国のちいささと、中国の広大さをしらなかった、なんてありえない。段ちがいの国力の差も、自明である。

だから、巨大で大音響の打ち上げ花火さながらに、その派手さで衆目をあつめ、とくに支配下武将たちに絶対服従を強いること、そこに眼目をおいていたのだろうと。

あるいは本気で、小国の李氏朝鮮くらいならば支配できるとおもっていたのだろうか?そこまではないとしても、上記の配下たちをよろこばすに、半島の一部でも割譲させよとたくらんだのか。

だとしたら、当時の国際情勢に無知でありすぎた、としか言いようがない。

李氏朝鮮は、小国であるがために明の属国となった、ことくらいはさすがにしっていた。

だが明が中華思想のゆえに、従いつづけている李氏を守るためならば兵を出す、とまでは無知のせいで、秀吉といえども思慮できなかったのだ、おそらく。

ちなみに中華思想とは、約2500年前の孔子がその提唱者とされている。いわく、中国は、神聖であり最高の文明・文化を有し、その頂点にたつ中国皇帝は世界の支配者であり、だから劣等な周辺国から全幅の敬意をうけるべき存在だ、とする思想。そのけっか、君臨の対価として、保護者であらねばならないと。

しかしながら十六世紀末当時、中華思想の標榜じたい、せまい世界観に支配されていたにすぎなかっただけである。

実際には、スペインとポルトガルが力まかせで世界を席巻しており、よってすでに、傲慢と身の程しらずの思想となっていたのだ。

ところで、“明がせまい世界観に支配云々”の既述にたいし、異論をとなえるむきの存在も承知している。

それは1405年が最初だった。明の永楽帝が、“鄭和”という人物に命じ、最後は二十八年後の次々代皇帝の指揮のもと、で合計、七度の大航海(遠く、アフリカ東海岸にまで船団をむかわせた)を実現させている。

つまり、明は驚異すべきことに、西欧の大航海時代に先駆けていたと、反論のいわくだ。

なるほど、たしかに。最長だと、上海の西、蘇州から現ケニアまでの約一万キロにおよぶ大航海であった。だから、“せまい世界観”は当たらない、ようにもおもえる。

しかしながら、ばくだいな経費が負担となり、また鄭和の高齢もあり、大航海をとりやめると同時に、明は鎖国政策にもどしている。

それから百五十年ものあいだ、国を閉ざしつづけたことで、世界観はせばまっていったのだ。百五十年はいかにもながい。こうして新陳代謝さながら、国民は数世代にわたり入れかわったのである。

よって、大航海のことすら忘れさってしまった民衆の世界観が、その間に変化するには充分で。どうじに内憂外患の百五十年は、国力を衰退させるにも充分であった。国家も、〈貧すれば鈍す〉、なのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(37)

早速だが心許ないのが、まずは秀吉の年齢。覇王になったのが五十三歳と、当時では高齢で、しかも実子の男子はひとりだけ。家康のように、第二、第三というふうに男子を次から次ともうけていくには、年齢的にきびしい。くわえての、鶴松元服時にはすでに六十代中ごろとなり、健在だとの保証などまったくない、いわば闇。

じじつ後継者にかんし、暗黒の最たる大事件として、こののちではあるが、高齢秀吉と嫡子が幼児だからこその苦悩からうまれた、関白秀次問題を惹起させるのだ。

さらにはこれも家康とちがい、秀吉家臣団は一代での俄かづくりだけに、歴史がないせいか、家臣間での姻戚関係、あえていえば一種の政略結婚に乏しく、また交流を深めたりなどにも欠けるところがあった。たしかに真田信繁は、大谷刑部吉継の息女を正室にしてはいるが。

つまり扇の要、カリスマ秀吉をうしなえば、結束力はどうなるだろうとの危惧もある。

そんな家臣団だからこそと、国内での戦乱がなくなったことにより存在価値のうすれた軍務担当の武断派と、統治を維持継続するに必要性の増した石田三成ひきいる文治派のあいだで、いずれは対立がと、期待したであろう家康。

ならばと、分断をはかるくさびを、音しれず打ちこんでいくのである、期間をかけて。

しかし外見、秀吉の死のそのまえまでは、いかにも豊臣政権維持のおんためにと江戸城からはなれ、1592年築城の伏見城に常駐して政務にはげんでみせたのだった。

このさまで、天下への下心などなさげに、豊臣恩顧の武将たちにみせつけることができたのだ。

で、つぎなるは六年後、秀吉死後だからうてた一手なのだが、文禄四年(1595)八月に制定された法“御掟”にて取り決められていた無許可の婚姻禁止令をやぶり、福島正則や黒田長政、蜂須賀正勝などの各家と姻戚となり、豊臣恩顧の武将たちを取りこむことに、やがて成功していくのである。

ちなみに〈石の上にも三年〉どころか、六年も待ちつづけたことなどから我慢づよい性格と家康を。一面そうだろうが、戦力からみて秀吉には勝てないからで、それを最大の理由と既述した。

むろん、忍耐力を否定するものではない。が、そのいっぽうで、短気だったとする余話もおおく残しているのだ。

 たとえば、武田信玄にいどんだ三方ヶ原の戦い。家臣の制止を無視し、血気のまま攻めかかり、家臣に多大な犠牲者をだし自身も命からがらであった。また、戦場(いくさば)で危機にひんすると、自刃しようとしたことも数度。家臣がとめなければ、短慮がまさに命とりとなっていたであろう。

ところで本筋にもどると、このように秀吉亡きあとの豊臣政権は、水面下でも謀略にさらされ、よって客観的見地から、長期安定政権を形成していくには、ムリがあった。

むしろ、瓦解と背中あわせと、当時から武将たちをふくむ世間は、シビアにそうみていたのである。

つまりいよいよ、内乱が内在するあぶなっかしさに塗(まみ)れてきたというのが、正当な見立てであった。

さかのぼって、天下がみえてきた1584年。いまだ嫡子のいない秀吉にも、やがてはおとずれる死。以降の政権不安定がみてとれる不安や恐怖に、つきうごかされる想いもあったにちがいない。

それで朝廷を味方につけ、権威が政権安定の一助になればとて利用すべく、いっそうの手をうっていった。仰天させるほどの貢物で、である。

おかげで、権大納言、内大臣、関白、賜豊臣氏など朝(あ)臣(そん)(天皇の側近)としての、いわゆる叙勲をうけることができた。むろん、天下統一の正当性を内外にしめすためでもあった。

朝廷とて、政権の安定と豊家の繁栄はねがわしいことだった。が、いかんせん、朝廷はその存在自体がのれん程度であり、糠(ぬか)でしかなく、しょせんは、頼りにならなかったのである。

だからいっぽうで、ひとの目をひく建造物や派手なトピックスなどで世人に、豊家の権威をみせつけたのだった。

聚楽第や伏見城築城、二条城の大改築、そのあとではぎゃくに聚楽第の破壊、北野大茶会、醍醐の花見、あげくは、激怒(じぶんの思いどおりにならない李朝朝鮮にたいし。しかし客観的には、秀吉の無知と傲慢のゆえ)と征服欲からでた朝鮮出兵(最終目標は、主君信長が豪語したとされる明国=中国支配の実現)。

ところでこの出兵だが、秀吉らしい狙いもあったのだろうと。

国内での戦がなくなったことで、武断派たちはその役目をほぼうしなった、1590年を潮に。

かれらの失地を回復させんがための、だから海外派兵である。くわえて、領地がふえれば、子飼いの清正らや親せきの福島正則たちをよろこばすこともできる。

また、目的はいっぽうで、覇王の絶大な力量を誇示する効果をも、ねらっていたのではないかと…、これは私論。

ちなみに、その根拠ならばある。甲子園球場十三個分にあたる敷地面積十七万平方メートルに、前線基地として、五重天守の巨大な名護屋城を短期間で構築した、これが誇示のその証拠だ。世間を「あっ!」といわせるためである。一夜城、高松城水攻め、中国大返しのときのように。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(36)

すでに元服している嫡子ふたり以外にも男子を多くもつ家康とちがい、秀吉には、世継ぎ候補はひとりだけだった。しかも当時は、子どもの死亡率はたかく、じじつ、天下人になってからの嫡男鶴松は、満二歳と二カ月少々で夭折している。

と、ここで話をすこしもどすとして、まずは良好な関係だったとしよう。

さて動機だが、平時なら、稀薄はさもありなん、だ。

しかし当世は戦国時代であり、すくなくともまだ乱世の余燼がくすぶっていた世相であった。それを忘れたひとの発想で、善人による異見だと、ボクはおもう。

歴史的に、応仁の乱からだとすると、百二十年以上と長くつづいた血で血をあらう戦乱の世。それが完全に収束するには、それなりの時間がひつようということだ。

証明する例として、少々ながくはなるが、

まずは鎌倉時代。あえて戦乱の期間を短くするために、源頼朝が征夷大将軍となった1192年からみても、八年後には梶原景時の変、その翌年、建応の乱、二年後には比企能員の変、そして朝廷と覇をあらそった承久の乱と、枚挙にいとまがないのだ。

室町時代はというと、尊氏による開幕ののち、弟直義との確執による争い、また、南朝と北朝にそれぞれ天皇がおり(五十年以上つづいた南北朝時代)、王位継承の正当性をめぐり、中央、地方がともに戦乱にあけくれている。

江戸初期も、大坂の陣、島原の乱、由井正雪の乱と大乱はつづき、五十年ちかく太平とはいいがたかった。

明治においても、佐賀の乱が勃発すると、各地で反乱が相つぎ、西南戦争の終結まで戦火のなかにあったのである。

それは、ひとには権力欲や征服欲・支配欲などがあり、私欲まみれだからだ。

以上。つまり、秀吉が安寧をもたらしたとみるのは早計、なのである。

で、次。豊臣家の、世襲はスムーズにいくのか?という、日の本全体にとってもの大問題をみてみるとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(35)

かんがえられるのは、料理人か運び役に、手のものを忍びこませた?…あるいは秀長の家臣に垂涎の利を提示し籠絡した、であろう。むろん、人選には苦労するだろうが。

ところで家康が完全犯罪をしかけたと、ボクがにらんでいる時期だが、天下人が秀吉で落ちついた1590年、いわゆる小田原城陥落直後だろうと。

理由ならば簡単。ポッと出のサルをさげすみ、その軍門にくだるを意味する屈辱的上洛を、拒みつづけた後北条家(政略結婚により、徳川とは姻戚関係にあり、同盟もむすんでいた)は没落した。

すでに、毛利はもとより、長宗我部も島津も屈服していた。遅ればせの伊達は、小田原城攻めに参戦している。豊臣家にたいし、臣従を拒否する大名はいなくなったのだ。この時点で事実上、日の本は、秀吉の手におちたと、そう。

とは換言すれば、1590年当時の徳川がこの事実をくつがえし、武力でもって天下を盗る、なんてこと、諦めざるをえなくなったのである。しかし、一寸先は闇。だからすくなくとも今はと。

いやいや、そんなはずがない。豊臣の一寸先を、闇にすればいいとすぐに。

よってこれから以降は、天下をうばうには面従腹背(いかにも家康らしい。とは、幼少期は今川家の人質ですごし、三河にもどれば信長にしたがうしかなかった。さからえば、真っ先に滅ぼされていたはず)で、謀略をもちいるしかない、が家康の立場となった。

ちなみに、始祖を早雲とする四代目の後北条氏政からみれば、家に歴史を有し、強力な姻戚・同盟関係にもある家康を頼みとおもっていたにちがいない。氏政にすれば、裏切られたかっこうで、切腹させられたのだ。

いっぽうの家康はというと、後北条家潰滅のけっか、代々つづいた三河をふくむすべての領地をとりあげられ,縁もゆかりかりもない関東への移封(領地がえ)を余儀なくされたのである。

たしかに、版図としてはひろがったかもしれない。

しかし家康とかれに忠誠をちかう家臣団にすれば、極端なはなし、蝦夷地(北海道)の原野に移りすんだような気分、だったのではないか。田畑には不向きな荒涼地もすくなくなかったからだ。

この措置は、六年前に逆らったこと(小牧・長久手の戦い)への報復、というより、巨大化した徳川の勢力をそぐためなのだろう。

後北条の残党がまだまだひそんでいる現況下で、しかも江戸周辺はたびたび洪水にみまわれ、大がかりな治水ならびに灌漑工事、さらには開墾が必要であった。

そのうえで新領主として、領民との友好関係までもきずくにしくはなかった。一揆でもおこされたら、徳川家は瓦解するかもしれないからだ。

懐柔には、年貢の比率(前領主であった後北条家は、早雲がきめた民六公四を継続)をすこしゆるめる方向にもっていくが最良とした。

それにはまず、公私ともの、このあらたな領地(徳川本家と家臣それぞれが分割所有することになった知行)に、労力をかけての検地(それ以外にも、各寺社は既得権益や特権をたてに伝来の格安比率を主張してくるはずだし、それぞれとの交渉も必要)から始めるしかなかったのである。

それもバカらしいことにだが、収入減を覚悟のうえで。

ただし、徳川側に不利な比率を採用したとしても、矛盾するようだが、必ずしも悲観しなくてすむかもしれないのだ。

なにをバカな!と、徳川家ですら、そのだれもがそうおもう意味不明。しかし、じつは矛盾しないのである。

つまり、前回のは(史上有名な太閤検地、ではない)、ふるくは平安時代のデータのままを活用していた程度にずさん(各地にて散見された手ぬき)で、しかも珍しくなかった。

実体とはズレがあり、それを修正するあらたな検地のおかげで、作づけ面積がじつはひろかったとわかれば、けっか、増大した収穫量を計上できることに。ひいては、年貢量をふやせるという好結果もえられるからだ。

そうなると困るのは農民で、うまみがなくなったぶん収入減となり、不満をもつことにはなろうが。

しかし比率をさげたという事実で、大義名分はたつ。まあ、こんかいの検地が、徳川側を利することになるかどうかまでは。

それはさておき、いまのは単なる一例にすぎず、それらが完了してからの、いわば治世となるのである。

つまるところ、すべてにおいて、ゼロからのスタートということだ。

たとえばの話、海外にも進出している多角経営の会社において、ある日突然ヘッドハンティングにより就任させられた社長が、各事業をいきなり把握、その月から総てにおいて利益をあげろと株主から強要されたとしよう、だが、そのほうがまだ簡単だと云々。

それほどに移封が、いかにたいへんな事態であるか、だ。

それでも家康は、世上しるひとぞ知るタヌキ親爺である。天下に色気をもっているとは思われていない状況下。それを逆手に、健康長寿の良薬だとでもいって親切心をよそおいつつ勧め、秀長にヒ素を送りつけたともかんがえられる。可能性はひくいが。

などと、毒殺説。

読者からは、動機についての異見がそろそろ出るころだろうと。

なるほど、ふたりは仲がよかった、らしい。すくなくとも、仲がわるかったとの史実はないようだ。だから動機が希薄だ、との異見である。しかも、秀吉の天下で世はおちついたではないか、ともつけ加えて。

だが、はたして論理的であろうか?鵜呑みにしてもいいのだろうか?

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(34)

さて、その人物についての余談である。

秀吉亡きあとだが、秀長が十七世紀をむかえてなお健在であったならば(仮説でごめんなさい)、家康に天下を盗られる下手はしなかったであろうと。

大坂方として、つけいる隙をあたえなかったにちがいないからだ。具体的には、秀次切腹、外征、豊臣家臣団の分裂などを、その事態のまえにて惹起させなかっただろうと。

というのも、兄秀吉からの信頼は絶大で、そのぶん豊家崩壊につながる暴走を、食いとめたにちがいない。絶対権力者の兄にむけても、かれはそういう諫言や、制御あるいは制止のできる人物だったのだ。

智将でしかも勇将のうえ、温厚で人情味にもあふれているから、徳望の篤さは生半(なまなか)ではないのである。まさに、豊臣家の大黒柱といえよう。

となると、巷間でのウワサ…、ズバリ、「天下奪取をはばむ邪魔者は、だれびとたりとも消せ!」が、その真実味を、俄然おびてくるではないか。

つよい動機をもつ家康らによる術計深謀(考えぬいたはかりごとや策略)の行きつくさきは、はやいに越したことはない秀長排除論、であった。

で、その具体策におよんだ結果、毒殺で決したであろう。文献による病状をひも解くと、ヒ素が原因、をうたがえるからだ。

というのも史実、兄とおなじく強壮で、約三十年という長きにわたって常在戦場の気概もさかんであった。小田原城攻めより以前においては、病気で参戦できないということもなかった。

そんな戦国武将そのもののかれが、激務と加齢のせいか体調をこわした。それは生身だからあることなのだが、なぜか、やがて病床に伏すとしだいに悪化。で一年ののち、五十一歳で泉下の客となったのである。

ちなみにほかにも家康の命で、毒をもられた?…あくまでも可能性のある武将はすくなくない。加藤清正、黒田官兵衛、前田利家、真田昌幸(幸村=信繁の父)、浅野幸長などがそうだ。

家康からみて、敵(豊臣家)に与(くみ)するとの疑惑をつよくする(じじつ、秀頼に味方した)武将たちである。だから毒殺されたのではないかと逆説的に。

だとしてつぎは、いわゆる凶器としての有無だ。

そこで、存在をつよくうたがわせる事実がある。健康志向だった家康の趣味が、凶器を示唆しているということだ。薬草をつかい漢方薬を製造および調合するという作業を好み、日課ともしていた。よってその手(毒についても)の知識は現代での薬学博士並み、いたって豊富だったのである。

さて、推量はここからで、

体内に蓄積していく性質のヒ素をごく少量、秀長に、月日をかけて飲ませつづければそれでよい。

やがては発症し、ついには内臓疾患などにより、かれは、この世のひとではなくなくはずだ。

しかもこのやり方だと、(ボクは、犯人だと確信する)家康の、悪辣な意図がおもてには出ないままなので、病死あつかいとなる。いわゆる、完全犯罪の成立だ。

そうはさせじと備うるに、ではないが、戦国武将だからとうぜん、毒見役をおいていた。

しかしながら即効性の毒物、たとえばトリカブトの毒やフグ毒混入を感知する役目(最悪、死をもって役を果たすが、まさにそのひとの使命)であるために、秀長は、けっきょく毒殺されてしまうことと。

ちなみに、防衛を目的とする毒見役設置の効用について。

年齢や体格が秀長といっしょの人物を一人だけ据え、そのおとこに、主とおなじ量を毎回食べさせてはじめて、かれも発症するであろう、おそらく。

つまりはこの条件をみたすことによって、うまくいけば毒をもられていると知見でき、最良は、主従ともに死をまぬがれられる。しかしながら最悪は、死因を毒と判定できる効用、でしかない程度のものなのだ。

よって、微量のヒ素を連続で服用させる手だが、家康にはきわめて有利で、有益な毒殺法となろう。

つぎにすすむ。ではどうやって混入させたか?である。

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