ところで吟味をまかされた秀長だったが、兄の仇にたいする処置に言及しなかった。
前田家に、処断をまかせたのである。あえて、伝える必要はないだろうと。
まちがっても_当方にて刑に処する_ことあらば、それが生みだすけっか、想像するまでもない。よって、最悪の愚策と断じたからだった。
無念ではあるがやはり…。
恨みからかりにだ、敵兵をひとりだけ処断したとする。しかしながら、そのまえに秀吉が敵陣におもむき、いまだもって帰陣していない。それらがなにを意味するか、だれにでも想像できるとかんがえたのである。
だいいち、自陣に引きつれてくること自体、できないことであった。それほどに微妙で、そのいっぽう、おおきすぎる事態だったからだ。
敵が自軍の兵士を相手軍にさしだし、こちらも敵に自兵士をわたす、それなら交換であり、対等な交渉のけっかであろう。すくなくとも、はた目にはそう見える。
大将どうしでどんな交渉をしたかまでは知りようもないが、最前線で、命をかけて戦っているのはじぶんたち兵士なのだ。それをウラでこそこそ、じぶんたちに不利な交渉をされては、たまったものではない、とかんがえるのは至極。公平・公正を、可能なかぎりのぞむのは当然だ、とも。
そんなこと、秀長も利家も百も承知ゆえ、いたくもない肚をさぐられないよう、ことに総大将をうしなった立場としては、最大限の努力をするしかないのである。
で、いったん退去のさいだったが、まつの到着が気配でわかった。_前田家も必死なのだ。が、内儀までとは、いかにも大儀(たいへんな事態をはらみ、厄介)_である。
この、“重い”とわが陣がうけとめかねない敵方の内儀の到着を、軽いできごととしてゴマカさねばならない。そのために、きびすを返すと父子のもとにもどったのだった。
すぐさま耳うちで、利家に意向をつたえ、さらに了解をとったのである。
そのあと藤堂高虎に命じたのだ、奥村永福を府中城にかえせと。
永福がなにごともなく帰城していくすがたを自軍にみせつけることで、まつの来訪により、羽柴軍内で噂がたちはじめたであろう異変を、「杞憂やった」とおもわせることができるはず、そんな狙いがあったのだ。
さて、その奥村帰城のあとだが、城代(城主の代行)を一時つとめることとなった村井長頼は、主君の命をうけ、少年兵を斬首に処したのである。
首だが、それが外見わからぬよう木箱にいれ、草の者(いわゆる忍者)をつかい深夜ひそかに、秀長の寝所にとどけたのだった。