陰のように添う太刀もち以外、そばにつかえる重臣の高虎さえも排し、それのみならず、「…以外、だれも近づけるでないぞ!」と厳命したのだった。
さても、秀長からの火急の懇請により、杖をつき不自由な足に力をいれ、床几からたちあがった武将がひとり。
有岡城の土牢に幽閉された一年余でわずらった左脚の関節症(現代の話だが、梅毒が病因との医師による説も)、そこがズキンと痛んだ。が、顔をしかめることなく幕をめくると、しずかに目礼をしたこの戦国武将、こそが、黒田官兵衛孝高そのひとであった。
秀吉につかえた名軍師の誉れ高いこのおとこの表情だが、こころなしかひき締まってみえた。主君の帰陣がないなかでの、舎弟からの突然の要請である。不吉な変事をおもいえがいたのもとうぜんであった。
その、かれの頭越し、陽はいまや山の端(は)へかくれようとしていた。明日の荒天を予感させるやや湿り気をおびた風が、ときおり帷幕をゆらしている。
肩をおとしつつも思案していた秀長は、来訪にうなずくと、これ以上ないという沈鬱な表情のまま、いまは不必要な挨拶などぬいた。
で、よばれた官兵衛。側近の高虎さえもいない帷幕に、沈痛な眉の秀長がポツリと。やはりただ事ではないぞと、確信したのである。
帷幕内にて、「近(ち)こう」と手招きをされ、ゆれる燈台の火をはさんでふたりは相対した。
外聞を気づかい、たがいが声をひそめるために、火もが焦眉(迫った火が眉をこがすくらいに、状況が切迫)のごとき距離となり…、とは、なんともはや羽柴家は、まさにそんな事態であった。
そしてその灯火(とうか)のように、〈風前のともしび〉ですらあったのだ。
窮した秀長、故秀吉が重用した軍師官兵衛に相談するしかないとかんがえた。奥村との面談のとちゅう、太刀もちに命じ、急がせたのだった。
さっそく手短かに一部始終をつたえるあいだ、軍師の表情の変化を見のがすまいと、秀長は凝視していた。
いっぽうの官兵衛、ときおり肯いただけで、ひとことも発しないばかりか表情も変えなかった。_なるほど、沈着冷静とはこのこと、兄者ならずとも頼りたくなる名参謀_と、あらためて納得したのである。
「して、官兵衛殿、いかが?」秀吉の臣になって以来、これまでにもたびたびむずかしい局面での決断をせまられてきた秀長であったが、おもうところあって独断をさけ、言葉すくなに問うたのだった。
拙速であってはならないが、それでも一刻もはやい決断を要するからである。
問われた官兵衛とてもおなじように、なんども〈前門の虎・後門の狼〉という状態のなかで、ギリギリの策をひねり出しては、その虎口からのがれた経験をもつ。
清水宗治の自刃による、毛利家との和睦も、虎にかみ殺される寸前の脱出劇であった。(詳細は、後述)
しかしながら今回かぎりは、さすがに比類なき、最大にして最悪の難問である。
「こたびは、拙者では荷が重うござる。よって、だれか、もそっと知恵のある御仁におまかせあれ」と暗に高虎を推挙し、ひとたびは逃げをこころみた。秀長の家臣ではなく、その禄を食(は)んではいなかったから、逃げることは可能とかんがえたのだ。
もちろん、秀吉からの相談となればそうはいかなかった。秀吉配下としての加増の約定とともに領地を安堵されており、すでに亡き信長の家臣という元々の身分は、二重の意味でくずれていたからだ。
「それはできませぬ。これは主、秀吉のことにござれば、官兵衛殿がつとめを放棄することはゆるされませぬ」とゆずらなかった。「また、官兵衛殿ほどの智者はほかにござらぬゆえ、誰人もまじえずお諮(はか)りもうしております」このように、孝高の矜持(きょうじ)(プライド)をくすぐったのだった。
官兵衛は内心、当代に肩をならべるなき知恵者と自惚れてもいた(名参謀とうたわれたもうひとりの“両兵衛”、竹中半兵衛重治は四年前の天正七年四月に、肺の病ですでに死去していた)から、そこを巧みに秀長は愛撫したのである。
たしかに秀でた知恵者で、史上有名な備中高松城(城主は清水宗治)の水攻めを成功させたのも、官兵衛の才知にたけた妙案があってのゆえであった。おかげで信長横死をさとられることなく、毛利家との和睦がなったのだ。
水攻め自体は、秀吉の折角の発案であった。が、しょせんは画餅(絵にかいた餅)でしかなかった。
一城をぐるりとかこいこむ長大な堤を築き、短期日に満々と水をたたえることができたのは、官兵衛が独創力を発揮(異説はあるが採用しない)したからである。堤の完成でつくりだせた人工湖が、城を浮島のようにする、そのための工法をかんがえだしたということだ。
いっぽうの秀長とて、知謀をもちあわせてはいる。この究極の難事にたいしても、独自に考案したはかりごとがないわけではなかった。しかしながら、他者の意見を容(い)れないままだと、独断との謗りを後日うけるかもしれない。
舎弟とはいえ、家臣のひとりにすぎないとの立場をわきまえての相談であった。しかも智者のなかの智者を相談者にと、えらんだのだ。誰びとたりとも、文句をつけるはずがないと。
一方そうはせず、単身でたてた策謀を、かりに独断で実行したばあい、事をしくじるという最悪につながりかねない、と当然かんがえた。さらには、人心を完璧に収攬しなければ、この事態はとうてい乗りきれないともふんだのだった。
ちなみに、みずからの策謀ならば二案、腹蔵はしていたのである。
うちのひとつは以下のとおり。
兄秀吉は重い病ゆえに隠居し、家督をすべて羽柴秀勝にゆずると宣言したことに…。
ただし、秀勝は元服したとはいえ、まだ十六歳と弱冠ゆえに、提案者の秀長が後見人になるという奇策だ。
……ところで、この秀勝とは?……
秀吉が長浜城主時代にもうけた夭折(早死)の実子(一説による)のこと、ではなく、主君信長の四男を養子として貰いうけた、幼名於(お)次(つぎ)丸(まる)をさしている。
一・二年ののち、事態がおちつくのを見はからってから、秀吉は病死したとして葬儀を盛大に挙行する。それは、羽柴家の安穏を世に披露するための儀式としてである。(だが歴史上の事実としてだが、天下人にふさわしい葬儀は、おこなわれなかった。慶長の役における全軍撤収のさまたげになるとの理由による)
ただ、この手段を用いるとなると、家督相続だけのことなら問題はない。が、兄秀吉の野望である天下統一という大目標にとっては、妨(さまた)げとなるであろう。
なにしろ、まだ道半ばなのだ。しょせん、織田家中の筆頭におさまったにすぎないのだから、いまは。
関東一帯を領する北条家、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河五カ国の徳川家、九州を席巻する勢いの島津家、四国全土に版図をひろげつつある長宗我部家、はては東北の雄・伊達家など、制圧せねばならない大きな敵勢力が、まだまだ割拠しているのだ。
また、和睦した毛利家とて、いつ版図拡大のために弓矢や銃口をむけてくるかわかったものではない。たしかに、始祖の元就がさだめた家訓に「天下を競望せず」とあり、版図拡大をゆるしていない。が他家においては、そんな家訓など知るよしもない。
そんな状況下における、羽柴秀勝なのである。
天才軍略家・政略家・経済人・文化人でもあった信長(生きていればまちがいなく天下人になっていたであろう)の実子とはいえ、弱年であるばかりでなく見るからにひ弱で、戦歴にも見るものがない。じじつ病弱で、十八歳という若さで病没することとなる。
…いやはや、閑話としてすこし先ばしってしまった。秀長の腹蔵案へともどるとしよう。