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不連続・連続・不連続な殺人事件 第十三章  秋の陽はつるべ落とし(後編)

矢野の家に、藍出と藤浪が泊まることになった。酔ったからではない。もっと、矢野と話をしたかったからだ。特に藍出は今宵も、婚約者より警部を選んだことになる。
「今回の一連の事件ですが、何と言えばいいんでしょう」矢野の愛妻が用意してくれた酒肴を挟んで、「因縁というのか、因果応報と言えばいいのか、とにかくそのようなものを感じます」藤浪は小難しいことを言った。そういえば矢野係において、彼だけが特別な存在であった。渡辺直人死亡の件に当初から関わってきたからだ。それだけに事件解決は感慨深くもあり、何かと思うところも少なくなかったのである。
「自業自得というやつか。たしかにそうやな」矢野は長くデカをやっていて、自業自得は現実にあると感じれるようになった。ただ、それを科学的に立証できるのか?と問われると困ってしまう。だから、滅多なことで、これを口にすることはない。しかし今夜は語りたくなった。酒が入っているせいもあるが、前に座るのが、最も信頼できる警部補三人のうちの二人だったからでもある。「今回の一連は、極端を承知の上で例にあげるが、動機のいかんを問わず、人をあやめたために、今度は自分が命を奪われてしまった。拓子の転落死は例外やろうけどな」

菅野拓子は事故死(裁判による審理を経ていないので、矢野は事故と断定はしなかった)であり、犯人はいない。当然のこととて、殺害動機もない。だから例外ではあろうと。
「動機ですが、出世欲や財産目当て、それに復讐と、まあたしかにいろいろありました」
「けど結局は、自分に所業を償わされる破目に」藍出の言葉を引きついで言ったあと、間をおくためか、家でのいつもの芋焼酎を少し口に含んだ。「まあ、犯罪とはそういうもんや。だから犯罪は、人生を賭けるに見合う行為や、決してない、そう僕は想う」これが、結論だった。詳しい説明をしなかったのは、これで充分趣旨が伝わるとわかっていたからだ。
「犯罪は犠牲者を生む。こんな当たり前に難癖をつけ、公金横領に犠牲者はいないと主張する天邪鬼もままいますが、そんな奴にはこう説破します。公金の損失という犠牲はあるし、納税者は不特定であっても、犠牲者に変わりはないと」生(き)真面(まじ)メンの藍出は、ここで冷茶でのどを潤した。アルコール量はどうやら危険水域に達しているらしい。「とにかく善良な第三者が犠牲になっていいはずないし、被害者たちの泣き寝入りで事態が完結したならば、こんな不条理はない。だから因果応報であってほしい。いや、でなければ社会はすさんだ荒野になってしまう。特に弱者の人生においては、虚無が支配者として君臨することとなる、違いますか、警部」藍出は元から熱いが、それは青春を文学の中で埋もれんばかりに過ごしてきたことと無縁ではない。デカ顔に染まった今となっては想像できないが。

藤浪の眼も充血してきた、「当然、犯罪を見過ごしにはできません!」もっと実入りの良い中央官庁の官僚職を蹴ってデカになった彼のこと。当然、自説を持す。「ですが、犯罪者にとっても結局は不利益の方が多いはず。なぜなら、一度でも有罪判決を受ければ、いや、起訴猶予であっても、婚姻等の家族関係や交友などの人間関係も破綻します。職を失ったり、居住地でも白眼視され転宅を余儀なくされます。職業選択の権利にも制限が加わるでしょう。つまり、想像以上に厳しい社会的制裁を受けるわけです。また、犯罪者のうちの多数の良心が悲鳴を上げているはずです。加えて、彼らの両親だって悲嘆もし、苦しみもするでしょう。ゆえに、まずは再犯させないことです、皆が苦しむだけだと悟らせて」
社会的制裁が犯罪の抑止力になればとの理念、二人にはよく理解できた。彼らとて理想を捨てていないからだ。ただ、矢野のは少し揺らぎ始めていた。少年以上に純だからだ。
性善を基とする、そういう理想を自分たちの中心に据えたい彼ら。しかしながら、甘くない現実の過酷をば知悉する立場でもある。彼らこそ、最前線で現実と向き合う戦士だからだ。過酷を目の当たりにし、悲惨に接し続ける社会的役割を担っているのである。
それだけに、それだからこそ、天網恢恢疎にして漏らさず”であれかしと彼らは祈る。
ちなみに、天網恢恢云々の意は…天が張り巡らせている網のその目は粗いようだけれども、悪事を行った者をば余すことなく捕え、もって罰しうるのである、だ。
しかし、実際には天網が粗すぎるのか、悪者が多すぎて追っ付かないのか、魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)がごとき輩が跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)している。ゆえに、本来受けるべき制裁を奴らは課されていない。それどころか、罰を受けるべき人間が恥知らずにも、陽の下を堂々と闊歩している。
これは永遠に続く悲劇なのか、それともあまりにできの悪い喜劇なのか。
ただ、こんな事実を彼らが面白がるはずもなく、ゆえにおうおうとして楽しまず、だ。ならば魍魎の跋扈は、単にできが悪いだけであって、喜劇なんかであろうはずもない。
黒澤明監督ではないが、所詮“悪い奴ほどよく眠る“…これが悲しきかな現世、なのだ。窓外の、冬を誘(いざな)う冷たい秋風の声を聞きながら、虚しさに矢野の心は凍えた。――人間は、業にはやはり抗(あらが)えないのか、煩悩に対しても僕たちは葦(あし)のごとく無力なのか――誰と比するでなく、ただ、純にすぎるのだ。それで、自信を喪失した心はちぢこまり、めげ、うちひしがれた。そして慨嘆(がいたん)のあまり、拙くも投了しかけたのだ。理想が頽(くずお)れかけたのだった。

社会に溢れんばかりの悪の多さ、その芽を摘んでも退治してもはびこる諸悪の執拗さに、それはとりもなおさず人間の卑しさが原因なのだが、心根が蚕食されつつあったのである。

たしかに、事件群を解明し終えたその日に相応しくない、そして部下には言えない士気の欠損であった。
人間矢野にとって、業や煩悩がこれほどまで浮き彫りになった事件群はたしかに初経験であった。十年有余のデカ人生だ。いろんな事件にまみれ、さまざまな犯罪者と対峙してきた。が、渡辺卓に代表される人非人、冷酷な、まさに鬼畜どものせいで、ひとの善良を信じる矢野の心は危機に瀕してしまったのだ。突き詰めれば、徒手空拳の生身では抗しえない悪業や煩悩に、打ちのめされかけたのである。これからも、自身の理想を推し進める自信を、無くしつつあったのだ。……しかし、
しかし彼の、だった、生きている間は消し去れるはずのない、少年時のおぞましい光景を、脳は、否、五体は刻み込んでいたのである、あまりに酷いその時の光景を。
朱の海の中で仰向けのまま絶命した両親の、凄絶な姿だった。逃げゆく命を捉まえんとするがごとく、必死の両手が宙に伸びていた。命尽きたあとも、執念がそれをなしたのだ。
後年になり、残る子らが不憫ゆえ、どうしても死にたくなかったのだと確信している。
うだる夏の日曜の夕、遊び疲れて帰宅した小学校五年生は、賊に刺殺された最愛の父母の無念を直感した。だが直後のことは、いまだ記憶を呼びさませないでいる。一時間余後、八歳離れた、クラブ練習帰りの姉によって昏倒していた少年は救急搬送されたのだった。

以来、少年は犯罪を心底より憎んだ。その強い想いは長じるにしたがい、やがて警察官を志すようになったのである。親や兄弟を失う孤独な子供は、もういらない!犯罪が生む悲劇を、なんとか終わらせたい!これこそ、自分が自分で決めた使命の道ではなかったか!
姉に、「僕たちみたいな子供はもういい、僕らで最後にしたい…」そうむしゃぶりつきながら泣いた記憶。今日の自分を創ったその原点が、刹那、鮮烈に蘇ったのである。

だから何があっても
――負けん絶対に!めげるわけにはいかんのや!――
直後、強烈な光をたたえた眸の、本来の矢野がむっくと頭をもたげたのであった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十三章  秋の陽はつるべ落とし(前編)

いつもの居酒屋に、矢野係の面々と星野管理官が揃った。星野が慰労の会を設けてくれたのだ。むろん、一部を除きほぼ彼の自腹。だが領収書を受け取ってはいない。
「おかげで府警の面目が立ったと本部長も…。だが、些事はこの際おいておく」府警の面目を些事というあたりに、星野の人格や思考のベースを垣間見ることができる。「金一封授与と併せて皆への報告がてらの雑談もこれで終わる。そんなことより今日までの約一カ月、本当にご苦労さま…」このとおりと、はにかみの笑顔で謝礼の低頭をした。「ただ、遺憾にも送検できん事件がひとつだけあったが、あれは君たちの責任やない。責められるはこの僕や。この場を借りて、力量不足やと皆に心から謝るしかない」星野は唇頭だけの軽い発言をする男ではない。悲しげな眉は謝罪を、きつく結んだ唇は謝意と無念を滲ませていた。
「管理官、頭をあげてください」矢野がすかさず言った。
星野の言、藤浪が当初扱った渡辺直人溺死の件であるが、最後まで自殺で処理しようとする上層部が頑として譲らなかったことを指している。
「そうです。管理官には何の責任もありません。自殺との断を下したこの僕が言えた義理ではありませんが、問題は、体面ばかりの上層部です」一番年若い熱血は、堪らず小さく叫んだ。早くも矢野色に染まった藤浪の吐露であった。不本意な断を下した六カ月強前の苦汁が心底よりこみ上げてきたが、それは自分個人のことと、おくびにも出さなかった。

そんな心中まではわからない藍出たち四人も、藤浪と同意の首肯をした。
「上層部への批評はおいておくとしても、管理官の力不足なんてとんでもないこと…。一同、同意見だと確信しますが、陰に陽にお力添えがあったればこその事件解決です」と、真情を吐いた和田も言葉以上に心地は熱い。

性格も年齢も持ち味もバラバラだが、矢野流デカ心得その二【犯罪者を決して野放しにはさせない】の想いだけは寸毫の違いもない彼らだ。異体同時に肯いた。
「ありがとう…」普段はクールな星野も、刹那熱いものがこみあげてきた。彼らの想いを手にとれたから。そしてなにより嬉しかったからだ。冷徹な素顔の奥、真っ赤な血潮がときに血管を破らんばかりの勢いで激しく流れる星野であった。激するからではない。自身の矜持(きょうじ)と信条のゆえだ。腹を決め、社会正義を構築せんがために警察官になった、その初心を片時も忘れず今に至っているのだ。経済の世界では“悪貨は良貨を駆逐する”のだが、彼の刑事哲学はそんな定理を許さない!しかし理想は孤立す、つまり孤高なのだ。それだけに彼らが同志であることを再確認でき、感謝の念が心に満ちたのだった。「さて、料理もビールや酒も準備万端。さあ、今や遅しや。今夜は痛飲しようやないか。乾杯!」

あとは無礼講となった。
ちなみに無礼講だが、鎌倉末期、幕府転覆の計を巡らす公家たちが六波羅探題(鎌倉が承久の変以降、朝廷の動向を探知するために京の都に設置した軍事・警察機構)の監視を欺くために、古来からの、禁裏を貴ぶ様式的儀礼を取っ払った形式の(偽装)酒宴を開いたと大平記にある…いわゆる正中の変。これを起源とする説が有力だ。…閑話休題
達成感からだろう、皆のピッチが速い。杯を重ねるにしたがい、多弁になっていった。
「ああ、それにしても、悲しみや辛いことの潜(ひそ)んだ事件が多かったですね」目の周りを紅くした藤川が早くも回顧しながら、溜め息とともに洩らした。
「この一連を俯瞰するに、人間の業というんかな」鼻の色だけがニワトリのとさか然の年長者和田が続いた。「人が人を害すれば怒りを生み、報復すれば恨みや恐怖が増幅する。恨みを晴らしたり、恐怖の根を力ずくで引き抜こうとすれば、あとは応酬となることも…」溜息をつくと「滅多にないことやが、応酬はのっぴきならない憎悪の泥沼の中に身を落とさしめ、ついにはその身をも滅ぼす」とし、やがて持論へ話題が向かった。「そんな愚かを幾度も繰り返し経験しても、否、し尽くしても、いまだ懲りず愚昧に明け暮れている。これが人類の歴史かもしれん。戦争はその最たるもんや。嗚呼、いつになったら、人間はこんな悪の連鎖を断ち切れるんやろ…」彼の心の響きであった。社会の拙さ、人間の頑蒙を嘆いているわけだが、決して美味な日本酒がすすんだせいではない。愚蒙を何とかしたい、その想いがデカの塊の和田を常に突き動かしており、今もつい洩らしてしまったのだった。
が、熱情家は和田一人では、もちろんない。「こんな席でないと考えないことですが」たしかに彼らは忙しい。「運命に抗えない人生は悲哀そのものですね」とこれも哲学的。藍出は性分からなのか矢野の前では正座である。楽にしろと言われても膝を崩そうとしない。
ならばと矢野は、いつも座布団を二枚敷かせる。
「社会的弱者ほどその傾向が強いのではないでしょうか。むろん、統計を取ったわけではありませんが」生真面目が四角四面の相に出ている。正直者がバカをみる社会が健全なはずはなく、「自分は警察官として何もなせていないのではと思うと、非力を憂い、もどかしさで歯ぎしりする思いです」と嘆いて盃を置いた。彼も酔っているわけではない。
「それは僕も、いや、皆も同じやろう」星野は隣に座る藍出の肩を抱くと、「だからせめて、犯罪者をのさばらせないよう、頑張るしかない。違うか」自分の想いを伝えた。好もしい健気な部下たちを見ているといじらしいなり、年の離れた弟を、いい子いい子する兄のような心境になるのだ。「社会における役割分担として、我々は悪い奴らを捕まえる。それによって、次の犠牲者を出させない。悲劇の拡大を最小限に抑える。その意味だけでも、藍出もそして矢野係の他の皆も社会に貢献してる、少なくとも僕はそう確信してるぞ」

たしかにそのとおりなのだが、矢野の眸はどこか虚ろげだ。悲哀と怨嗟に満ちた事件がかくも続き、それでも人は性善であると信じたい彼としては正直、ぐらつき出したからだ。嗚呼。絶望に沈んだ菅野拓子の父親の顔が、その言辞とともに脳裏に浮かんだ。事情聴取した折の、愛娘を手にかけてしまった夫婦の地獄の相貌。この人たちは、どれほどに大切な存在を喪ってしまったのか。今もまた、胸が絞めつけられるように痛くなったのである。
こうして、各自、デカたちの想いが溶けこむ宵は更けていった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十二章  天網恢恢(てんもうかいかい)(後編)

――やがては妻を殺すつもりやった医者――このことに、岡田は今も拘泥(こうでい)している。人の命を救うべき、その意味で聖職の名を冠する者が、尊い使命を放擲(ほうてき)しただけでなく「命を奪い続けるなんてとんでもない!」と怒り心頭なのだ。しかも「元妻の死の数カ月後には病院長になった」と、すでに報道された情報にもかかわらず、事情通ぶった。「単なる出来すぎた幸運でしょうか」とも付け加えた。なるほど、岡田の説によるまでもなく、妻が死んでくれたおかげで病院長の椅子に座れたのだ。逆をいえば、前の妻が存命ならば到底得ることのできなかったセレブの地位である。さらには、隠し子がやがて、実子として燦々と陽を浴びることも夢ではなくなるのだ。「婿養子として入籍できたおかげで今の地位に身を置けたのに」不知恩にも「恩人である妻まで殺そうと計画してた。否、いずれはの妻殺し」と、独りごちていた。「たしかに、拓子の死の原因を成した直人。とはいえ、己が命で贖(あがな)わなければならないほどの大罪を犯してはいない。なのに卓は、自分の隠し子に渡辺家の全財産をいずれ相続させるために、まずは直人を殺した。さらには病院理事長に就かせるため…、ああ、何という強欲」岡田はつい、皆にそう力説したのである。
そしてじつは、矢野も同意見であった。それで初めは聞き流していたのだが、ふと三つの言辞に、デカの性分が強く反応したのである。
1 おかげで今の地位に身を置けた   2 出来すぎた幸運   3 妻殺し。
「バ、いや、岡田っ!お前はやっぱり貴重で得がたい戦力や」感謝のあまり頬ずりしてやりたくなった。もっともそっちの気は微塵もないわけで、それが互いに幸いしたのだった。

直人の義父の死は、射殺という、日本では稀な殺害方法のせいで紙面や諸報道番組を賑わせていた。おかげで、渡辺(旧姓は滝本)卓が過去に当事者として関わった元妻の殺人事件のことも矢野たちの知るところとなっていたのである。

ひとは人生において、年下の身近な人間の死に、それほど多く接することはない。それなのにまだ四十代の身で、約八年前には当時の妻を、今年は義理の息子を亡くしたのだ。統計的にかなり低い確率だろう。だが、現実に起こったのである。しかも、どちらの殺人事件にも大きく関わった。うちひとつは、義理の息子殺しだ。こうなると、先年の殺害事件にも因果があったとする方が自然ではないか。ここまで論を進めた矢野は、さらなるどんな因果を胸に思い描いたのだろうか。ならばもう一つもあるいは?…となったのである。
七年八カ月前の、渡辺卓の元妻の事件について徹して調べる必要性と、裁判記録から得られそうな情報に、つい胸が躍った。

彼は早速、当該訴訟記録(訴状・答弁書・証書・判決書などの公判の記録)閲覧申立てを書面で各保管検察官に提出したのである。許可が下りるまでに少々の日時が掛かった。
ところで、閲覧にはいろいろと制限があり、被告事件終了後三年という期限もそのひとつだった。当然のことながら上記の殺人は、被告事件終了後三年を越えていた。だが彼は、司法警察員という資格でもって閲覧することができたのである。それでも、訴訟記録のコピーは不可だった。よって訴訟記録を、デジカメで撮影したのである。

卓の元妻は、樫木伊沙子という女性によって頸動脈を切り裂かれて死んだのだった。<滝本心療内科クリニックの患者だった樫木が診察室で医師の妻を殺害という、先述した事件である。ただ、凶器が診察室にあったカッターナイフだったこともあり、殺意は認められなかった。樫木は殺人罪ではなく、傷害致死罪で五年の刑を言い渡されたのだった>
訴訟記録を読み終えた結果、滝本卓が実は犯人だったという期待した肝心の先入主、残念ながら可能性は皆無だとわかった。殺人を教唆した事実もなかった。国選弁護人ではなかった樫木の弁護士が、一審と控訴審で、ただただ情状酌量を訴えただけで、誤認逮捕や別の犯人説をただの一度も弁論に交えなかったからだ。さらには、被告人の自白もあった。
(以下は、訴訟記録の概略とそこから矢野が導き出した推論もまじえている)
ある宗教団体の代表を務める両親によって選任された私選弁護人は、既述したとおり情状酌量を唯一の戦術としたのだった。国選弁護人の戦法だったなら、矢野にも理解できた。国選では収入につながらないから、弁護士は初めから白旗を上げて裁判に臨む。国選は弁護士の法的義務を果たすためであって、だから親身と真剣みに著しく欠けるのが通常だ。

しかしながら、私選弁護人も情状酌量を唯一の戦術としたのは、それしか手がなかったことを示している。もし少しでも被告人が犯人でない可能性があるならば、弁護人はそこを衝いていき“疑わしきは被告人の利益に“の原則のもと、無罪を勝ち取ろうとしたはずだ。テレビドラマでは真犯人を提示したりするが、現実には、弁護側は被告人を灰色と裁判官たちに認定させることができればそれで勝利なのだ。その戦術をとれないと判断しそれを依頼者側も了承したという意味において、被告人である娘が犯人だと両親も認定していたことになる。もしそうではなく、両親や被告人が無罪を訴えるのであれば、その戦術に反対しただけでなく、たとえ裁判の途中であろうとも弁護人を解任したはずだ。だが、私選弁護人は解任されることなく最後まで戦ったのである。
矢野は弁護士の経歴についても調べた。刑事事件を得意とする老練な弁護士だと評判の、まさに適任者であった。ならばよけいに、自白調書にもあったとおり犯人は被告人以外にいなかった、となる。
矢野と岡田の思惑はハズれ“単なる出来すぎた幸運だった”、に帰結してしまった。

普通ならここで諦めるのだが、矢野はしかし違った。忍耐強く、可能性がゼロにならない限りひたむきな執念を燃やし続ける質なのだ。彼の深慮に果てはないようである。
答弁書を読み始めた時点で、情状酌量を唯一の戦術とした本当の理由が特別な事由のゆえに存在し、それで単なる常套戦術を採らなかったと矢野は知ったのだ。通例なら情状酌量の主眼目として、心神耗弱を申立てて減刑を狙う。特に殺人という犯罪は通常、精神に異常をきたしているとの専門的視点もあるほどだからだ。弁護人は当然それも訴えたが、減刑を勝ち取るための戦術は他にあった。
その戦術とは?心神耗弱とは比較にならないほどの説得力がある、少なくともそう、被告側も弁護人も考えたからそれをもって最後まで戦ったのだ、勝利を信じて。

矢野は、特別な事由の主張について詳しく知る必要性を感じた。当然最後まで読み切ったのである。おかげで弁護人が一審でも高裁でも一貫して主張していたこと、俄かには信じられない衝撃的過ぎるその事実を知ったのだった。同時に、その事実が裁判で認定されれば、たしかに大きく減刑されたであろう、否、されたはずだと素人の矢野でも思った。

弁護人は、以下のとおりに主張したのである。(ちなみに検察側がなした異議申立てだが、ここでは必要がないので割愛する)
「三回目となった診察において、医師の身にもかかわらず、立場にもとる事件を惹起しました。滝本医師は患者だった被告をレイプしたのです。それまでに被告人を二度診察しましたが、当日に限り、診察時間を初めて最終にまわしたのです。意図は、見目麗しい患者に劣情を懐いたからであります。それで、邪魔となる存在の受付の看護師を早退させました。しかも初めての早退要請だったとの証言を得ています」

このあとの、弁護側証人に対する検察側の反対尋問は苛烈だった。なかでも、看護師が二週間前に依願していた日にち未指定の早退を医師が了承したという事実を、彼女自身に認めさせた点だ。それで邪魔者排除という、レイプとの関連性の根拠は覆されてしまった。
にもかかわらず、それでも弁護人は、「レイプを依願早退日に合わせた」と主張した。
だが、裁判官の心証は被告側にとって芳しいものとはならなかったようだ。

しかしながら、弁護人はひるまなかった。殺された妻に、手の込んだ本格的なビーフシチューとカニクリームコロッケを作らせた事実も披露したのである。二つのメインディッシュはもちろんのこと、それぞれの味の決め手となるデミグラスソースやタルタルソースまでもキッチンで作っていたことを示す現場写真を証拠として提出したのだ。目的は、妻が診察室にやってくる暇(いとま)すら与えないよう、料理に専念させるためだったと。

なるほど、刑事事件に手(て)錬(だれ)た老練な弁護士だと矢野は感心した。大胆にも、住居と同じ建屋の一階部の診察室でレイプしようとすれば、妻をキッチンに釘付けにする必要があったと踏み、漁るようにしてなんとか見つけ出した現場写真であったろうとみた。

検察官はしかし、滝本医師の単なる好物にすぎないことを当の本人から証言台で引き出した。医師はさらに「一カ月に二度は作ってくれます。だから、あえて依頼したことはありません、むろんその日も含めて」そう、裁判官の眼を堂々と見据えはっきりと答えた。
おかげで憶測程度の事実となり、弁護人の労作業も徒労に終わってしまったのである。
レイプに対し客観的事実が存在すれば話は別だが、元々、難攻な砦を責めるに等しい、立証するに困難な案件だったのか。
そうではあっても、レイプが事実だったことをなんとしても証明したい。だが願いも虚しく、次第に足掻きの様相を呈し始めるのだった。弁護人に残されていたのは、ただただ諦めない執念だけであった。「被告人は高校を卒業して約二年、女性陸自隊員として勤務。しかし厳しい訓練のみならずセクハラや人間関係に苦悩しやがて精神的疾患を自覚するに至りました。提出した休職願いが受理され実家に戻ると、近所の心療内科に通い始めます。滝本クリニックに、です。そこの滝本医師は、二十歳のこの美人がバージンだったとは思いもよらないまま、事件当夜、治療のために必要と偽り鎮静剤を勧めました。被告人は、それがじつは睡眠薬とは知らずに飲んで眠ってしまったのです。だが、処女だったせいで被告人は下腹部の激痛で意識を取り戻し、レイプされていることに気づくと思わず大声をあげたのです。それを妻が聞きつけるところとなり、診察室にやってきた。被害者はクリニックの評判を守るために、『あんたが誘惑したんやろう、男漁りのこの淫乱女(ばいた)!』と被告人を口汚くなじりました。身に覚えのない被告人は、当然激しく反論しました。すぐに揉み合いとなり、結果、悲惨な事件が起きたのです。しかしながら、むろん殺意はありませんでした。ただただレイプの事実を認めさせたかった、少なくとも妻からの難詰を止めさせたかった、それだけだったのです。しかしこんなことになったのも被告人がレイプされたからであって、ここに全ての原因があったのです。……百歩譲って、仮にレイプがなかったとしましょう。ならば、被害者はどんな理由で診察室にやってきたのでしょう?さらには、何が原因で、被告人はカッターナイフを手にするにいたったのでありましょうか?」精一杯で最後の反撃だったが、折れた刀ほどの威力もなかったことがやがて明らかとなる。
検察官が強烈な反論と追及の手を少しも緩めなかったからだ。
「被告人から採血し検査をした結果、睡眠薬は検出できたのか」
「残念ながら、初動捜査に当たった刑事の発した『お前の犯行やな!』の一言に被告人の血相が変わった。それでなくとも人間不信、ことに男性不信の最中に被告人はあった。男性鑑識員が腕に触れようとするとそれを振りはらい、血液採取を拒み続けた。仕方なく別途呼びつけた非番の女性鑑識員の到着までに、時間が掛かることになってしまった。そのため半減期すら過ぎてしまい、睡眠薬の成分をそれほどには検出できなかった次第です」
「検察官の知り得たところでは、微かに検出はしたが、前回の診療時に処方された睡眠導入剤を前日に服用しており、その残りの成分とも考えられた。違いますか」

ここでは裁判官の心証を忖度(そんたく)し、あえて、睡眠薬云々の陳述が弁護人の憶測にすぎないとまでは述べなかった。被告側を追い詰める手段は、他にも揃っていたからだ。
「被告人から精液が検出されていない。それでもなおレイプされたと言い張るのか。ならばその物的証拠を示してもらいたい」
「コンドームを使ったと考えている」
「使用後のコンドームは出てきたのか?鑑識の報告書には見当たらないが」
「警察が来る前も含め、トイレに流す時間なら充分にあった」
「まあいいでしょう。ところで、コンドームをカバーしていたパッケージも流したと?実験してみたが、水より比重が軽いせいで流れなかったが」
「弁護人も実験してみた。中に十円玉を入れて水中に沈めてしまえば簡単に流すことができた。しかしコンドームを使っていない可能性もある。被告人はバージンであったため、先刻も申しあげたが、激痛で覚醒したのである。完全な挿入すらできなかった滝本医師は、おかげで射精しなかったわけで、精液検出がなかったのもこれで説明がつく。ちなみに被告人は、陸自の厳しい訓練を受けたせいで処女膜が損傷しそのとき出血したか、挿入が不充分だったからか。ときに、出血しない女性もいる。そんなわけでレイプ時には出血しなかったと考えられる」出血がなかった点を追及される前に、それを予測した陳述となった。
「レイプが事実ならば、被告人の身体に滝本医師がつけた痕跡はあったんでしょうね」
「痕跡は確かにあった」レイプを認めない検察官がどう応酬するかはわかっていた。
「被害者と揉み合いになったときのではないのか」やはり、弁護人の思惑通りだった。

矢野は頭の中で、こんな丁々発止のやりとりを想像した。実際にあったかどうかはわからないが、法廷内での緊迫した攻防を推測した、これはその帰結である。
弁護人の要請で、当夜の診察に当たった医師が、次回法廷にて喚問されたのである。その医師は、事件発生直後の検視に立ち合った医者だった。「加害者の身体にあった圧痕や擦過傷ですが、判断が難しくどの状況下でできたかは断言できません」と証言したのである。

賭けであった。が、痛み分けの結果だった。弁護人としては、滝本医師によるものという《棚ぼた》的判定を少々期待していたのだが。こんな、どう転ぶかわからない賭けに出たのは、そこまで追い詰められている証左でもあった。ただし不利に働く心配はなかった。あえて、もし有利があるとすれば、裁判官の意識にレイプの文字を刻めたことであった。

ところで、弁護人にはあえて触れなかったことがある。圧痕や擦過傷の真の原因についてだ。本音をいえば、滝本医師がつけたとは考えていなかった。もとより、押し倒しや押え付けもしていないだろうからだ。被告人は騙されて睡眠薬を飲み、意識がない状態にあった。つまり何の抵抗もできなかったわけで、医師が押さえ込む必要はなかった、となる。
ところで公判前に、弁護人は被告人から事件当夜の始終を聞いていた。「パンストは脱がされ処分されてしまったようだが、下着は脱がされていなかった。穿かせたまま(挿入)しかけたようだと。激痛で意識が戻り大声をあげた。叫び声に驚きのあまり呆然とした医師は被告人の口を押さえることも忘れ、自然と身体から離れた。大声のあとだ、今さら静かにさせても意味がないと覚ったのか、足元に落ちていた何かを拾い上げトイレに駆け込んだ。中から頻りと水を流す音が聞こえた。そこへ被害者となる妻が診察室に入ってきた。主人がトイレの中にいるとすぐにわかった様子で所在を訊きもしなかった。水平にされたリクライニングチェアにおぼろげに横たわる私(被告人)を見詰めていた眉目を、一瞬ののち怒りが占領した。女の勘で情況をおおよそ察したようだ。むろん、誤解だったが。その誤解を私が解く間もなく、罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)の限りを浴びせかけてきたのである」
弁護人は考えた。足元に落ちていた何かとは、コンドームであろう。レイプが公になってはヤバいと思った瞬間に萎え、身体が離れた刹那外れ落ちたとみて間違いない。頻繁に水を流したのは、何度試してもパッケ―ジが流れなかったからだろう。コンドームを装着し下着は脱がさなかったのは、証拠を残さず、事後処理も速やかにできると考えたからだ。

検察官も、圧痕や擦過傷の真の原因については、これ以上の言及を避けた。詮索をしすぎることで、もしも滝本医師がつけたものと判明したなら、《墓穴を掘る》事態に陥らないとも限らない。弁護側の言を認め、ついてはレイプすらも認めることになるからだ。

一方、被告側の主張を裁判官が受け入れていないと、経験により認識した弁護人。それでもなんとかして劣勢を少しでも挽回すべしと、彼には最終手段に思えた、レイプが事実だったと示唆するある状況を、現場写真に求めたのである。「現場にはペンやカルテなどが散乱していた。椅子も倒れていた。暴行から逃れるために被告人が必死で逃げまどった結果、現場がこのように荒れたのでは?」被告人から聞いた事実とは相違するが、形振りを構っていられる状況にはもはやないのである。「先生はどう思われますか」先刻から証言台に立っている医師に問うた。(すかさずの異議申し立ては既述のとおり割愛)
「ならば私の方から弁護人の説に沿って反論するが、それも違う」と、検察官は“も”を強調した。「ペンやイス等散乱していた品々から被告人の指紋は全く検出していない。仮に暴行から逃れた結果とするなら、品々に指紋が付いていて当然ではないか!弁護人、鑑識の報告書に目を通すくらいの労は惜しまないで頂きたい」と揶揄半分で挑発したのだった。

しかしそんな相手の手に乗ることなく、「大阪地検にて優秀で通っている貴方こそもう少し想像力を発揮してもらいたい」とまずは軽く応酬した。「男性を相手に逃げまどっている時は、女性ならばなおさら必死である。机に置かれていた品々に腕や身体に当たったり足で椅子を倒したりするのが普通ではないか。指紋が付いてなくて何の不思議があろう」
むろん負けていない。「弁護人はこの公判の目的をお忘れとみえる。存在しないレイプ事件ではなく、現実に起きた殺人事件を審理するためである」声高の検察官は弁護人を睨んだ。「散乱していた品々はしたがって、凶行時に被害者が抵抗し、被告人と被害者が揉み合っていたときにそれぞれの身体により押されたり当たったりしてこけたり倒れたりした、その結果である。だから指紋が付かなかった。これこそが真実である」検察官はレイプそのものを否定しているわけで、その線に沿って必然の反論を展開したのだった。これも当然のことだが、被告人が弁護人に話したレイプ時の状況など知る由もなかったのである。
よって、立場の違いにもよるのだが、双方の見る方向は違っていた。もし、レイプが事実だったと知ったら、この検察官はどんな戦術を裁判で使っただろうか?
「当方がレイプを問題視するのは、被告が刃物を手にすることとなった経緯、凶行に至ったその経緯を知ってもらいたいがためです」裁判官に一礼し、彼らの眸を見つめた。
「それはおかしい。レイプを問題視するのならば、滝本医師が被害者でなければ辻褄が合わないではないか」と検察官は弁護人を凝視しつつ、「さらに申せば、パンストはどこに行ったのでしょう?仮にレイプを事実とすればの当然の疑問です」不敵な笑みを浮かべた。

法廷は被告人と弁護人を除き、検察官の発言の意図がわからず、疑義に支配された。
「事件当夜はまだ三月で肌寒い時期でした。なのに被告人はパンストを履いていなかった。ちなみに、火を使う料理に励んでいた被害者ですら身に付けていました」証拠申請を受理された遺体写真を指で示した。「ところで、レイプするのにパンストは邪魔だったはずです。当然、滝本医師が脱がしたと。ならば現場にそれが存在してなければならない」弁護人に比べ、優位なぶん冷静さが際立った。「はてさて、一体どこにいったのでしょう、かっ」
「…」さすがの老練も窮してしまった。公判前に思慮を重ねたのだがこの謎をついに解けなかったからだ。無理に「履いてなかったからです」といった声は、微かに上ずっていた。

窮した滝本がトイレの中で、まさかそれを履いたとまでは思いつかなかったのである。
「裁判長、弁護側はいたずらに公判を引き延ばさんとの意図…」
「いえ。裁判長、どうかお聞きください。元より、被告には誰に対しても殺意があったわけではありません!ただ残念でならないのは、いわれのない面罵に対し、感情が昂じ凶行に及んでしまったことです。弁護人としてその事実を認証頂きたいのであります、裁判長。殺意がなかったぶん、犯行直後、放心してしまった。殺意があったならば滝本医師にもナイフを向けていたはずです」殺意がなかったことを、情況を利用し強調した。さすがにベテランだけのことはある。「むろん、公判引き延ばしの意図など毛頭ありません。その必要性を感じていませんから。ただただ、真実を追求せんとのみ欲しているだけであります」
「そこまでレイプを事実だと言い張るのであれば、目撃者、用意しているんでしょうな」
「早退の手法に対する見解の違いはこの際どうあれ、滝本医師がとにかくも看護師を当夜早退させた。被害者である妻もキッチンに留まらせる工夫をした。しかも現場は診察室という閉鎖された空間である。よって状況に鑑み、残念ながら誰一人もいるわけがない。逆をいえば、存在しないように滝本医師が仕組んだからだ。その事実は、先刻具申した次第です。こちらの検察官は時折このような無体を言われる癖(へき)をお持ちとみえる」そう裁判官に向けて発した。手錬の弁護人は、一矢報いる程度ではあるが、少し溜飲を下げた。
しかし優位にある「検察官としましては、現場の状況から客観的にこう見ています。つまり被害者は、被告人の大声を聞いたからではなく、診察終了予定時間を二十分ほど過ぎていたので『どうかしたの』との軽い気持ちで診察室へやって来た。この二十分程度の遅延があったとする確かな推定は、およその犯行時刻から逆算することでできる。なぜなら、当夜早退した看護師が被害者死亡推定時刻を教えられ、その時刻は、いつもの診察終了時間より四十分程度遅延していたと証言したからだ」と、弁護人の一矢を無視したのだった。
「弁護人の方こそ、じつは遅延を問題視している。検察官は、むしろその点を些事のようにさらりと通り抜けるおつもりのようだが、二十分遅延したのは、レイプのための準備と当該行為があったからではないのか」弁護人は、反論のきっかけを掴んだつもりになった。
だが、「ここは確か、殺人事件の法廷のはず。弁護人のせいで、さきほどから別の事件を審理しているように感じられてならない」検察官も手錬で、またもこう切り返した。

傍聴席で、不謹慎な小さい笑いが起きた。
「しかしながら、真理を見つけ出すための法廷との観点から、まずは事実に基づき述べさせて頂く。看護師に確かめたことだが、二十分程度ならよくあるとのこと。心の病に苦しみ悩む患者さんに対し、診察時間を過ぎたから本日は終わり、というわけにはいかないと。だとすると、なぜ被害者は診察室にやってきたのか。あるいは、料理がほぼ出来上がり冷めないうちにと考え、知らせに来たのかもしれない。これは可能性の高い仮説だが、元々悋気深い妻はそこで、患者である被告人に優しげに接する医師を見て嫉妬した。若く美しかったぶんよけい過激に。それで、思わずの激しい売り言葉を発したとして何の不思議もない。それに対し心の病を抱える被告人は買い言葉で応酬した。それで次第に互いの感情が昂じ、やがてもみ合いとなった。その間、滝本医師はむろんのこと止めに入った。だがもはや収集できないほどに大きくなり、そうこうするうち被告人はついに酷い手段に出たのである」立て板に水の論調をここで改め、法廷全体を説諭しようとの意志でもって、急にゆったりした口調になった。「常識的に考えると、自分の診察室で患者を、まさかのレイプをするよりもこちらの方が、比較にならないほど可能性は高いのではないでしょうか」

たしかに、レイプがあったとする弁護人の論よりも検察官の主張にこそ説得力があった。

結局、一・ニ審ともにレイプ事件はなかったと判断し、地裁・高裁の各裁判官は主文にて刑を申し渡した。被告側が上告し審理は最高裁へと移ったが、この件を最高裁判所調査官はスクリーニングしたのち棄却相当との断を下した。こうして刑は確定したのである。

ところで矢野は、被告人の名前に聞き覚えがあった。
確認するために先々週の新聞を出してきて目を通した。日付に見当がついていたのですぐに見つけることができた。やはりそうであった。両親によって殺害された事件の被害者だったのである。悪魔祓いの名のもとに水攻めされて窒息死した二十八歳の女性であった。

警部は、一人娘障害致死事件の調書を見せて頂きたいと星野管理官に依頼した。
机の前で思案している矢野に、届けに来たのは藍出であった。
黙って飛ばし飛ばし読み進む矢野の眼がある個所で止まった。真剣な眼は日付などを確認しながら、紙面のその部分だけ緩やかに動いた。やがて眉が開いた。
「藍出、樫木の陸自時代の経歴を調べてくれ。できればそのときの上官と話をしたいから」
「はい、直属を含む何人かの上官の連絡先も併せて調べます」矢野の一番弟子を称するだけあって、先読みするのもなかなかのものだ。

しかしなにかと機密事項の多い、いや機密にしたがる組織(警察もだが、防衛省はそのはるか上をいく)だけに、藍出たちは手分けしたが必要な情報を集めるのにかなり苦労した。何とか見つけだした直属の上官はすでに退官していた。周りの眼を気にしなくて済むぶん、おかげで、矢野が掛けた電話を通じ必要な情報を得ることができた。矢野の満足の眉は、光彩を放ちだした眸の上でゆったりと落ち着いて座っていたのだった。

そう。樫木伊沙子の陸自での特技は、矢野が憶測したとおり射撃だったのである。
しかも、伏せ(腹ばい)撃ちを一番得意としたと上司。しかし、警察がどうしてそんなことを尋ねるのかと訝(いぶか)った。
当然の疑問と、矢野は伊沙子の死亡事実を教え、「尊い命がなぜ儚いものとならなければならなかったのか、その真相究明のための情報を求めている」と苦しい胸の内を吐露した。苦衷の理由だが病院長射殺事件のことを正直に口にもできず、騙すようで辛かったからだ。かといって、警察官として真実を追い求めるという使命を放棄することなどできなかった。
元部下の死を悼みつつ矢野の苦衷を察したのか、寸考ののち求めに応じた。「伏せ撃ちで腕をあげた理由ですが、『非力な私でも小銃を安定制御しやすいから』と樫木は嬉しそうに言っていた」事実、基準射距離300メートルの場合、八割は中心の五点的を撃ち抜く腕前だったと、このときだけはまるで自分のことのように自慢げに言い添えたのである。

動機も射撃の技量もあったと判明した。あとは銃の入手と日時的に犯行が可能だったかだけだ。六人は三班に分かれ奔走した。矢野は配慮し、岡田を温厚な藍出に任せた。
三日間の皆の奮闘あり、矢野の両親への事情聴取などでわかったこと。
仮出所していた伊沙子は当然、保護監察下にあったにもかかわらず一カ月間行方をくらましていた。渡辺卓が射殺された日はこの一カ月内のため、アリバイはない。
探偵が突き止められなかった足どりを和田たちが徹してあたり、ついに発見したのである、持ち金の少ない伊沙子が安手のビジネスホテルに宿泊していた事実をだ。ではどうやって渡辺邸のことを、否、滝本卓が入り婿となった渡辺卓を探しだすことができたのか。

矢野が藍出に指示し、電話帳に載っている探偵社を網羅させたのだ。電話帳をあたらせた理由だが、彼女の免許証は期限が切れており健康保険証はそれを作ることで親に通知が行くかもしれないと恐れ、(これも矢野流の心理捜査法で、犯人の気持ちになってその行動までも憶測するのである)身分証を提示できない以上、スマフォを持っていない伊沙子が滝本卓の所在捜索依頼にあたり、どこが最適かを知るに手っ取り早いのは電話帳だったからだ。おかげで、滝本卓の捜索依頼を受けた探偵社を簡単に見つけだせたのだった。

と、ここまでは順調だったが、射撃現場に伊沙子がいたと証明するのは困難となった。目撃者を期待できる環境になく、彼女の犯行だとの証明も、所詮はないものねだりだと。閑静な住宅街ゆえに監視カメラはなく、防犯カメラも歩行者を捉えているものはなかった。射撃現場での指紋も検出できなかった。射撃のとき以外は手袋をしていたからであろう。
肝心の点の立証が抜け落ちてしまっては画竜点睛を欠いたも同然だ。皆、頭を抱えた。
そんな折り念のため現場に走った藤浪が、見事に手柄を立てたのだった。決定的な物的証拠を見つけ出したのである。屋上雨水の排水口から雨水管は一旦横引きとなり外壁へ沿う立管へと続く。その横引き管に髪の毛が引っ掛かっていたのだ。鑑識も通常そこまでは調べないというような箇所であった。執念でそれを採取しDNA鑑定にまわしたのである。
結果、伊沙子のDNAと一致したのだった。残るは、
ライフル銃一式の入手ルートだ。ウェブサイトのウラ事情などコンピューター関連一式に精通した藤川中心に粘り強くネット検索し続けた結果、銃器取引の闇サイトを捜しあてたのである。それで、伊沙子が借りていた部屋に宅配依頼したライフル銃一式を売った闇業者に辿りついた。これで彼女がライフルと弾丸を購入した事実も証明できた。しかしだ、銃使用後の行方を追うすべがなく、ライフルマークが一致するかの確認もできなかった。状況証拠ではあるが、それでも弾丸の製造メーカーと種類は一致したのである。

よって、渡辺病院長射殺事件も、犯人死亡のまま書類送検されたのだった。

多少の紆余曲折や脱線もしたが、考えてみれば不思議な絡みの事件群であった。

矢野が墓参りをしていた秋の朝、和田と藍出の二人の警部補が繰り広げた何でもない世間話がある意味で端緒となり一カ月弱、迷宮入り寸前の事件のせいもあり、暗中模索しつつもどうにか六つの難事件が解決、もしくは真相解明できたのだ。それにしても不思議の数々であった。
結果論だが、こうして矢野係の賜物、大阪府警察本部は面目をほどこせたのである。
同じ線上で、藤浪を初め彼らも肩の荷を下ろすことができたのだった。

ちなみに不思議な絡みとしたが、いわゆる連続殺人事件ではない。ゆえに、そう呼称できるはずもない。だが絡みと表現したように、ある意味濃密な関係性をはらんでいたのだった。それどころか、殺人を犯した方が今度は殺される側にまわる、その繰り返し(菅野拓子だけは未必の故意の殺人にも当たらない事故だが)で事件は展開していったのである。

この一連を終結させたのが“娘殺し”だったわけだが、そんな最悪の悲劇でも起きないと、この忌わしさを断ち切れなかったのかもしれない。
だとしたら…、人間の業のゆえか。それにしても、あまりに悲惨な幕切れであった。

一年後、樫木伊沙子の両親に対し心神耗弱が認められ、傷害致死罪が確定し刑に服するのだが、運命に翻弄された気の毒な夫婦とする見方も、世間には少なくなかった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十二章  天網恢恢(てんもうかいかい)(中編)

「警部がおっしゃっていた品々、脱衣かごにも洗濯物用の入れ物にも…」西岡も期待したが写っていなかった。さらに悪い事態、洗濯機内部の撮影をしていなかったのだ。密室における死体ということで、鑑識が、殺人ではなく自殺か事故死との先入観を懐き、その結果、洗濯機内部の撮影をなおざりにした、というのであれば問題である。
しかし今はそれを追及する情況にはなく、のち、内部監査するにしても難しいであろう。
それよりも捜査だ。撮ってないと聞いた矢野は、家政婦の記憶に望みを託したのである。
ところで矢野が強い関心を持っているのは、濡れた手袋と湿ったバスタオル、である。
この二つ、上記のとおりでかご等にはなかった。残るは、洗濯機に入れられていたことを家政婦が認知しておればそれで、まずは可、なりだ。認識した時点ですでに乾いていてもかまわなかった。さらにその認知、できればカビの生えた二品であれば、“優”だ。
さてと矢野。鑑識が撮ってなかったと告げられた現場写真だったが、念のために目を通した。残念と思いながら、それでも眼が止まった、何の変哲もないと思われる一葉の写真にだ。鑑識が関係者の写真も必要と考えたのだろうか。卓の普段着姿が写っていたのだ。
シャツの袖口やズボンのすそが僅かに濡れており、それが注意をひきつけたのだ。
ところで、それから十一分後…ただし、家政婦の機嫌が麗しいはずはなかった。が…、
六人は、身体を全て耳にしつつ、藤浪とのやりとりが終わるのをただ待つしかなかった。
そしてようやく電話は切れた。矢野が期待した家政婦からのそれは、朗報であった。
「基本的には、やはり毎日洗濯していたとのことでした。むろん当日の金曜日も朝の内に」
さもありなんと矢野は軽く肯いた。渡辺家は、炊事・洗濯・掃除のために十時間勤務の家政婦を雇ったのだろうからだ。
「しかし溺死の翌日は、鑑識から現状保存のためにと、風呂場に隣接する洗濯場にも入らせてもらえなかったそうです。『許可が出たのは溺死の翌々日のことでした』」
「ほんで?」矢野にはまどろっこしい。
「その日は日曜日でしたが出勤したわけは、『弔問客に出すお茶や配膳などいろいろと仕事があるだろうから』そう、旦那様から頼まれたのでと言っていました」自分のわずかな過誤すらも許さない藤浪の性癖が、こんな言い回しに出ている。女性が好む血液型性格判断では、典型的なA型と思われがちだが、残念ながら彼はB型であった。それはさておき、
溺死は金曜日だった。そして日曜日には、渡辺邸で通夜が営まれた。葬儀場を借りなかったのは、恵子がいつでも自室にて身体を休められるよう、夫の卓が配慮したからだった。
少しイラつきながら、「昨年同様、今年の五月もかなり暑かった。しかも、洗濯機をさわれたのは翌々日。当然、カビが生えた二品が出てきた。そうやろ」矢野は結論を急かした。
「ええ、おっしゃった二品だけが、たしかに。それで、なぜ覚えていたか、つまり記憶が正しいかを確認するために訊いたのです。『洗濯物にカビを生やさせたことなど一度もなかったので』さらに、『カビに気づいたのは、癖でつい、汚れ物を仕分けたから』と返答しました。それよりもですね、あるはずのない軍手とバスタオルが入っていたのが不思議だったそうです。軍手は草むしり用なのですが私は除草していませんし、とのことでした」
洗濯した金曜日の午前中以降に洗濯機に汚れ物を入れられるのは家政婦と直人と卓の三人だ。母親の恵子は旅路にいた。一方、男たちは朝から出勤しており、帰宅後の草むしりも考えにくい。それは五月中旬でも暑かったせいで、蚊が五月蠅(うるさ)くなり始めるころである。しかも作業効率が悪い夜の草むしりはバカでもしない。家政婦が不思議がって当然だった。
ちなみに、直人も卓も仕事中は軍手とは無縁だ。それでもたまたま使ったとして、だが家に持ち帰ることなど考えられない。なぜなら、白衣のポケットに入れたまま忘れることは百に一つあっても、私服のポケットや私用のカバンに使用後の軍手を、間違って入れるシチュエーションはあり得ないからだ。
さて家政婦だが、使用後のバスタオルに関しては、以下のように説明をしたのである。「まだ入浴中だった坊ちゃまがそれで身体を拭いたなんてあり得ないでしょう。また、旦那様が入浴できたはずもない。それに奥様は土曜日の午前中まではご不在でしたし」と。

矢野は以上の証言を聞き、事故死にみせるための小さな工作を溺死させる前後にしたとする推理が的中していたことに満足した。ただし、一つ不満があった。バスタオルを直人が使用した僅かな可能性に部下の誰も気づかなかったことにだ。彼が運動をしたことに合点した彼ら。不満は、――ならば直人はシャワーを浴びたかも――となぜ想像しないのか、だった。懸念を持っていた矢野が、洗濯機の中に男性用の下着が入ってなかったことを家政婦の証言で知って、直人は卓の指示に従った結果、浴びていないと安堵した次第だった。

ところで、留守電を聞いた家政婦が藤浪に掛けてくるその前後、藤川らは質問していたのである。バスタオルと手袋が洗濯機の中にあるはずとし、しかもカビが生えていたであろうと推理した矢野へ、その根拠について、であった。
「夏日となる時期に、濡れた手袋をたとえきつく搾(しぼ)っていたとしても、閉鎖的空間の洗濯機にもし入れたままやったとしたら、カビが生える可能性は高いさかいな」バスタオルも同様だとの説明は省いた。せっかちなのだ。「それに、殺害後もせなあかん偽装工作がかなり残っていたために、全裸だった卓は急いで身体を拭いたやろうし、使用後のバスタオルの処理にまでは気をまわせなんだ。洗濯機に入れる、時間的にもそれで精一杯やったはずや。自室に持っていくこともできんさかいな。妻が見つけたら変に思うやろうし。それにしてもお粗末やったんは、家政婦が毎日洗濯をすることにまで気をまわさんかったことや。平日の宵、洗濯機の中は常に空やった。それで二品が目立つことになってしまった」
こんな概説でも優秀な部下たちにはわかった、…ただ一人を除いて。偽装工作の内容について、すでに説明を受けていたこともあるが、卓が全裸だったとする理由においてもだ。
さらに和田と藤浪は、卓がどんな体勢で直人を溺死させたのかも想像できたのである。それは検視報告書から導き出したものであった。
「ところで軍手の使用目的ですが、警部の見立てを教えてください」と藤川。
「それもですが、そもそもどんな推理の結果、手袋の存在に気づかれたのですか」藍出は首を傾げながら、当然の質問をした。
「藤川、ええか」と今から披露する推理、矢野の漲る自信の声が壁にビンビン響いたのだった。「直人に填(は)めさせるためや。睡眠薬とアルコールでいくら意識がダウンしてたとしても、気温と水温の差が十度近くある水中にいきなり放り込まれしかも呼吸困難に陥れば、たいがいの場合、意識は戻るやろ。当然水の中で苦し紛れに暴れるに違いなく、卓にすればその時、直人自身の身体や後頭部を押さえつけている卓自身の腕に傷をつけられては困る。だから直人を全裸にした直後、ズボンのポケットに入れておいた軍手を填めさせた」
さらに、後頭部を押さえつけたとする推理だが、次の事柄からの結論だった。ひとつは、向き合う体勢をとると反撃されるに違いない。体育系ではなかったけれど、直人は青年だ。年齢差からも立場が逆転し、卓が溺死させられるかもしれない。よって、後頭部をつかんで水中に沈めることにした。当然の帰結である。
残る理由だが、和田がのちほど解説することとなる。
「なるほど。どちらか一方にでも傷があれば、殺人の疑惑が生じてしまいますからね」鑑識が撮った遺体写真を見せられた藤川も得心がいった。直人の背中も頸筋も無傷であったからだ。重複するが、また背部のどこにも、圧迫痕もなかったのである。

捜査一課のデカならば常識中の常識、防御創や吉川線があれば殺人として捜査本部を立ち上げる。水中に押し込められた直人にすれば、押さえつけている犯人の手を意識ある限り生の根(こん)がつき果てるまでは必死で排除しようとするし、その最中(さなか)、もがき苦しみつつ自分の首筋や背中に爪を立てもするだろう。それが犯人にとって、どれほどに不都合なことか。自殺説も事故死説も、いっぺんに吹っ飛ばしてしまう破壊力があるからだ。
「まして義父の皮膚片が直人の爪に残りでもしてたら……」軍手は、その心配を失くしてくれる貴重な道具だったのだ。「証拠を残す素人と違い、その辺の用意周到さは精神科とはいえ、さすがに医者やな」
「なるほど」岡田君も感心した。「卓の腕に傷が残った場合、誰かに記憶されるでしょうしね」と続け、さらに締まりのない口は動いた。「それと軍手が濡れている、あるいはカビが生えていたことに警部がこだわられたのも、直人の手が水に浸かってたからで」との当たり前で不要な解説までした。「それにしても、どうして軍手を片づけなかったのでしょう」
皆、無視した。理由は慌ただしかったとすでに説明していたからだ。それでもバカ田君のためにあえて補足すれば、洗濯機が全自動式という古いタイプで、水槽の中の状況を知るには真上から見る必要があった。ところが急いでいるときにはそんな暇はなく、蓋の開け閉めももどかしいくらいだった。

ちなみに、藍出の疑問も解消されたのである。
「湿ったタオルがあると思われたのは?」またも、頭を本来の使用法では用いず、帽子をのせるための存在と思っているようだ。浴びる皆の冷視線の理由がわからない岡田だった。

矢野は、答えを叔父に任せた。話したいと唇がうずうずしているのを見て取ったからだ。
「卓も浴槽に入った。当然濡れたやろ。殺害時、服を着てるより全裸の方があとの処理も簡単やったろうし。といおうか、全裸云々について、警部がさっき言うたはったやろ。まあええわ。救急車が来る前に身体を拭いて今まで着ていた服を身に着け、直人の胸に心臓マッサージを施した痕を残せば、供述を疑われる心配もない、そんなとこですか」退職前に未解決事件を一つでも減らしたい和田は喜びを隠すことなく、最後に矢野の眸に問うた。

このベテラン警部補は調書の細かいところにまで目を通したうえできちんと記憶していると、頼もしい部下に改めて満足し、矢野は肯いたのだった。

ところでだ、岡田君の本地はこんなものではない。「義父は全裸のままでよかったんやないんですか?なんで着てた服を再度着けたのですか?少なくとも救急車が来たとき全裸の方が自然にみえるでしょう。だって、シャワーを浴びるつもりで風呂場に行ったと供述しているんですよ。だったら裸でいるべきです。それとも殺害直後で動揺してたんですかね」
「お前はほんま、想像力に問題ありやな」叔父はあいかわらず歯に衣を着せない。「卓の供述をまずはそのまま鵜呑みにしてみいや。風呂場の前で奴は何を目にしたことになる?」
「直人の死体ですか?」
と言った彼に射られた十二の眼光は、さらに冷たかった。
「えっ」さすがに空気を読んだ。そして頭を、ようやく本来の役割で使った。「…あ、そうか。ドアが閉まってたら死体は見えませんよね」これでも本人は、頑張っているつもりだ。
頭を本来の役割で使った岡田に対し、だが六方からは冷気が。不充分だと、まだ気づかないのかとのムチである。さらに、情けなしとの身内の溜め息が岡田の肌を辛辣に刺したのだが…。応えない甥に業を煮やした叔父が大きなヒントを与えることにした。“大先生”と付き合っていると疲れるからだ。「息子が風呂に入ってるなら遠慮するやろ。なにか、それでもシャワーを浴びようと、全裸になるか」
孤立無援のバカ田君、形勢は明らかに不利だ。そんなこんなで、「浅はかでした」シャキッと背筋を伸ばし、和田に敬礼せんばかり。「だとするとやはりドアは開いてたんですね」
全員、イスからズルっと落ちかけた。
「お前はなにか!ドアぁ開けっ放しで風呂に入るんか」叔父は呆れかえったが、立場上言わざるを得なかった。それで、つい強い口調になったのである。
「そんなこと一度もしたことありません」

それなのに、直人は開けっ放しにしてたって主張するつもりか、とは言わない。話が長くなるからだ。「ズバリ言うわ。ええか、卓の供述によると、直人は入浴中やった。ということは当然、風呂場の照明は点いていた。そういうことになるわな、違うか」
夜だ。直人が入るとき照明を点けなかったはずがない。風呂場が明るかったら、卓が服を脱いだはずもない。普通に考えれば黙ったままか、せいぜい一言声を掛ける程度で、返事がなくてもその場を立ち去るであろう。だが卓は、言外にこう言いたかった。返事がないし入浴中の気配も洩れてこないので、異変を感じドアを開けたと。直後、湯船に浮かんだ直人を発見することとなる。しかしこれを供述しなかったのは、そこんところは忖度(そんたく)しろよと。だがこれが、病院長の深慮なのだ。秒単位で偽装工作をした卓にすれば、語るに落ちるヘマをやらかすかもしれないし、口に出せばウソっぽく聞こえただろうからだ。
和田は続けた。「ちなみにお前ならどうする。全裸になってから直人を助けるか?」

バカ田君も、これでようやくわかったようだ。「着衣のまま、とにかく救出しようと…」
だが、和田は最後まで言わさなかった。「まして人命第一を旨とする医者や。当然、服はズブ濡れになってなおかしいやろ。それやのにこの写真見てみ」岡田もさきほど目にした現場写真だった。しかも、矢野が注視していたことも知っている。
《語るに落ちる》とはかくの如し。卓による、慌てて救出したとの供述は俄然信用を喪失した。シャツの袖口やズボンのすそが少々濡れている程度では、どうみても救出せんとばかり、形(なり)振り構わなかった風には見えないからだ。いうまでもなく明らかな矛盾である。
ではなぜそうなったのか。卓がしたであろう行動を、矢野が具体的に推察し披露したのだった。「理由ならこうやろ。栓を斜めにした状態ではずし、浴槽の冷水を少しずつ抜いてる間に、身体を拭き服を着た。再度、直人の部屋へ。眠剤入りウイスキーをキッチンで処分しボトルは所定の空ビン入れに。次にビールを二口ほど飲むと、さらに口に含んだ。警察に疑われないため酒の匂いをまき散らす必要があったからだ。ただし、家政婦が作った料理はトイレに流した。食ってる暇などない。急いで戻ると、すでに水が残り少なくなった浴槽に飛びこみ死体を引きだし、場合によっては氷枕を死体の腰に」だからあまり濡れなかったと解説したのである。工作が全て完了していれば、大胆に濡らしただろうとも。
いずれにしろ、やはり卓のミスだ。「殺人の完全隠蔽など不可能」な証左だと皆が思った。
「殺害後、ほんまは水を抜く前に服を着たまま湯船に飛びこむべきやった。だがそれをせんかったのは、服が濡れてれば四肢や身体にまとわりつくぶん、脱ぐのもさらにそれを着るのにも余分な時間が掛かってしまう。だからといって時間の浪費をきらうあまり濡れた服のままでだと、風呂場を出てアリバイ工作のために家中を移動している間は、水滴を落としながらとなる。そんな痕跡こそいかにもマズい。だから服を脱ぎ、殺害後に着た。ところで卓にすれば、氷水に浸した死体の温度が二度下がっていればアリバイは成立するが、でなければ、引きずり出した死体の腰部に氷枕を置き直腸内温度を下げなければならない。したがって、自室に行くのは救急車要請のあととなった」と、その理由を言おうとした。
「あのぉ、話の腰を折って申し訳ありません」質問しそびれたと西岡。「なぜ自分の部屋に戻らねばならなかったのですか」どうやらこいつも、想像力を養う訓練を要するようだ。
「それを今説明…。藤浪、教えてやってくれ」尊敬する上司の意を酌み、藍出が指名した。
「体温を下げた氷枕とアイスボックスを風呂場に置きっぱなしにしておくわけにはね」単刀直入な説明だった。死亡推定時刻を早めたトリックがばれるとの指摘である。
「続けるで、ええか。さっきの、冷水を少しずつ抜きながら、の理由やが、溺死させ、かつ体温を下げるに必要な水量を一方では保っておきたいが他方、冷水のままでは直人が入浴していたというウソがばれる。それで徐々に抜き去り、直後に湯をはらねばならないわけだが、当然それなりの時間を要する。その時間を必要最小限に抑えつつ、一刻も早く119番へ通報しなければならない。…さて、浴槽の抜きとはりに約十五分掛かるとして」

ここで藍出は思った。浴槽の大きさと給湯の毎分給水量等から計算した結果だろうと。
「救急車到着が、都市部なら通報から平均で六分、くらいの知識は持ってたはずや。その六分を差し引くと、九分。じつはこの九分が長すぎるんや。警察は不審に思うに違いない、死体発見から通報までの間、義父は一体何をしていたのかと。心肺蘇生法を施していたとの言い訳は、その痕跡から一見信憑性はあるようやが、だとしても時間がかかりすぎてるとして疑惑の目を向けてくるかもしれない。犯人ならばこそそんな不安に慄(おのの)いたとしても不思議やない。ならばと、時間短縮のため走ってキッチンへ行き、鍋二つを交互に使いつつ給湯機の湯を浴槽にまで運んだと思う。で、三分程度の時間短縮はできたやろ。おかげで疑惑をもたれなかった。証拠はないけどな」ここで長広舌を止め、冷たくなった番茶でのどを潤した。それにしてもこの推理にも、他の係は敬意を払うのではないだろうか。
ちなみに、服があまり濡れない方を選択したのは、おそらく悩んだ末の安全策としてではないか。服の濡れ方の不自然な方が、まだ低リスクと卓は判断したわけだ。ある意味そうであったし、このときの彼にとっては正着だった。救急隊員はそんなことに関心を持たないだろうし、少し遅れてくるはずの警察が気づいたとしても、風邪をひかないようドライヤーで乾かしたといえば取りつくろえなくはないからだ。
ではあっても卓の選択は、やはり判断ミスだとした矢野。否、殺害自体が無謀だったと。
「あのぉ、いいでしょうか」西岡が小さな声を矢野に向けた。「卓はなぜ、直人の下着を用意しなかったのでしょうか?」入浴後、下着を着替えるのは常識でしょうというわけだ。
「つまり、着ていた下着を服と一緒に脱衣カゴに入れてたのも卓のミスやと言うんやな」
「そうやないかと」さきほどのことがあるせいで自信なさげだ。
「あるいはミスかもしれん。いくら入念な計画を構築したつもりでも、小さな綻びに気づくんはむずかしからな。死ぬ人間に替えの下着は必要ないと、つい失念したんかも。けどこうも考えられる。直人は眠剤とアルコールで異状やった。それで浴槽で溺死した、そういう設定やから下着を用意せん方が自然やろ。ふらふらになった状態の人間、想像してみ」
「なるほど」西岡は素直に肯き、同時に矢野の刑事力に感心をあらたにした。
質問が出尽くしたとみた和田は、「ついでや」まだ完全なる理解をしていないバカな甥のために、卓が直人の背中に馬乗りになりつつ後頭部を両手で押さえつけたとの推理を披露しそのうえで、解説をも加えることにした。「直人には外見上圧痕がなかったやろ。しかし溺死させようとしたら、どうしても相当な力で押さえつけるしかない。すると指や掌などの圧痕ができてしまう。犯人がそれを避けようとすれば…」
「あっそうか。髪で覆われた後頭部を押さえつければ、解剖でもしない限り見つけるのが困難ですよね。そして馬乗りになったのは、腰全体に圧力を加えたなら圧痕らしい圧痕もできない。なるほどウマいこと考えた」犯人がとった行動に感心してはいけないし、褒める立場でもないにもかかわらず…、しかも、気づかないまま下手なダジャレまで添えた。
だがバカ田君、まだ気づいていないことがあった。手で押さえつけただけでは死力を尽くして危機を脱しようとする直人に、年齢差のせいで力負けするかもしれない。馬乗りのもう一つの利点は、体重を掛けて水中に没させればその恐れもなくて済む、であった

いずれにせよ義理の息子殺し、医師の知識を悪用した許されざる凶悪犯罪であった

それはそうとして、部下たちは矢野の、完全無欠の推理に、イリュージョンに圧倒された観衆のように魅了されたのである。事実、矢野の推理に間違いはなかった。
ただし、残念ながらもはや自供や検証を得られない悲しい現実がそこにはあった。
義父の卓も直人も、言わずと知れた、鬼籍に入(い)ってしまったからだ。
矢野にとっての捲土重来(けんどちょうらい)、事故という見当違いを晴らし殺人事件として犯人を特定し、見事に(今度こそは上層部も認めざるを得ない)真相解明ができたのだ。同じ比重で、矢野係入りたてほやほやの部下藤浪も、肩の荷も降ろすことができたのである。
勇んで星野管理官の許へ、まるで隼のような速さで矢野は疾駆した。
必要書類作成は、適任者として矢野が指名し藤浪を充て、その後、送検したのだった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十二章  天網恢恢(てんもうかいかい)(前編)

誰とはなしに、いつもの居酒屋へ皆の重い、無言の足が向かった。やはりというべきか、暗い顔を突きあわせつつの苦い酒が、各人の終電まで続いたのである。
そして、翌日のデカ部屋。
皆がいまだ歯噛みするなか、藤浪だけが自分が担当し事故死扱いにした件に対し、言い出すべきかどうか迷った末、「じつは疑惑を払拭できないでいる案件があるのですが」と心情を吐露したのだった。昨夜からの、切歯扼腕の雰囲気を変えられればとの思いもあった。
「半年前の、渡辺直人の件か?」藤浪の苦闘を知っている和田が問うた。
「はい」直人の件という言葉に途端、苦い記憶が心奥から湧き出(いで)た。「当時は、事故か自死かの見解を出すよう上から早急にやぞと急かされ…」とはいえ、精一杯捜査したとの自負はあった。しかし上申した結論はというと、満足のいくものでは到底なかったのである。
「せっつかれたんやな。お前の調書を読んで、わしもそんな印象を持ったんや」和田は、数日前のことだけに、はっきり覚えていた。

藤浪は小さく肯いた。せっつかれたと認識してもらっていたことに対してか、同情されたことにだったのか。あるいは両方に向けたものであったのかもしれない。
「つまりお前は、溺死が事故だったとは言い切れない。拓子が死んだ原因を作ってしまった直人が、自分を結局は許せなくなり自殺したと」和田は、藤浪のデカとしての力量をさらに知りたくて、自分の推測とは違うことを故意に切りだした。
言われて、普段の怜悧(れいり)が戻った。「その可能性もあります。が、それなら、義理の父親から睡眠薬を処方してもらう時期がおかしいです。拓子の死の直後なら納得できるのですが」
「藤浪は、直人が自殺したんなら半年のズレの説明がつかない、そう言いたいんやな」
「むろん、そうです」少しむきになった口調だった。
「なるほど」いつの間に帰ってきたのか、笑顔で矢野も同調した。一課の別の係の警部から「相談がある」と電話が掛かってき、一時間半ほど前に席をはずしていたのだった。面談は二十分ほどだったが、相談というよりむしろ依頼であった。残りは、その依頼に関し、藤浪が作成した捜査資料に目を通すために費やしたのである。「そういえば今世間を騒がせている、射殺された病院長の遺書がつい最近になって出てきたと、事件担当の係長が今の今、教えてくれたんや」それがどう関係してくるのかは、続けなかった。ただ、「溺死は事件やった」とのみ。しかしだ、こんな唐突な発言、矢野警部には似つかわしくなかった。
「遺書?がですか。それでどんな…」今、先輩と後輩の両警部補が問題にしていた直人の溺死を事件と断定した理由が書いてあると憶測し、藍出は遺書の内容を問うたのだった。
ところで捜査一課の大半の係長が、矢野の明晰な推理力や洞察力を頼ってそれとなく情報を洩らしてくるのだ。暗に事件の謎解きを期待しているからだった。先刻も、(今日の)昼飯にうな重を奢るから話を聞いてくれと懇願されたのだ。「むろん、これから説明するが、ただしこのこと、口外してもらっては困る」と釘を刺して。
「その辺は、僕たちを信用してもらって大丈夫です」和田は小さく胸を張った。
皆も肯いた。
「もちろん、わかってる。そんなことより、もったいぶらず遺書の内容を早く教えろと、飢えた狼みたいな顔になってるで、みんな」ちょっといじわるをした。
「お願いですから焦(じ)らさないでください。直人の溺死の件とどう関わりがあるんか気になって」藍出は思わず唾を飲みこんだ。根が正直なのだ。

矢野はそんな部下たちの、「事件ならば解決せん!」と鼻息を荒くする好奇心まるだしのデカ魂を好ましくも頼もしくも思った。ズバリ「『…一人娘の彩奈に、我が全財産を残す。妻が亡くなっていれば、病院の理事長職も彩乃に就いてもらう。2013年五月九日。渡辺卓』そういう内容や」と今度はもったいぶらず、必要な個所だけを告げた。遺書がなぜ今頃になって出てきたかについては、あえて省いたのである。それでも遺書の内容から重大事を、和田や藍出なら気づくだろうし、また、藤浪の能力の試金石にもなると思慮していた。
ちなみに、遺書は、渡辺卓の高校の同級生で、現在は個人で弁護士事務所を開いている藤村某が直人死亡の前夜に院長室に呼び出され、その時預かったものだった。だが、運悪く数時間後の深夜に酔って自宅階段を転がり落ち、弁護士は昏睡状態に陥ってしまった。「覚醒したのはつい最近のことちゅうとった」それで意識が戻った翌日、渡辺卓の射殺事件を、弁護士の事務員でもある妻が担当医の許可を取ったのち、夫に知らせたのである。
すぐに、配偶者の渡辺恵子理事長に遺書が届けられ、それでようやく表に出たのだった。

概略を聞くと即、岡田以外は、別のことで驚いた。しかし驚愕にも三通りあった。
和田と藤浪は、天を仰ぐようにして驚倒したのだった。
が、天真爛漫岡田君は「その病院長には、子供はいないと週刊誌に載ってましたよ。だからすでに跡継ぎが事故死している渡辺総合病院の存続が危うい…な~んてことが書かれてました」素直に、上っ面の内容に驚いたのだ。「まあそれはいいとしても、彩奈?でしたっけ。それって隠し子ってことですかね。だとしたら誰との間にいつできた子供でしょうか?」事件解決とは無関係である。芸能リポーターずれの能天気もここまでいけば特性か。

そんなバカ田君はさておき、今のところ情報薄な藍出たちが驚いたのは以下の点だった。「その遺書、いくら直人が死んだあととはいえ、全財産たって高が知れてるでしょう。いわば“婿殿”なんですから。ですが、そんなことより気になった点が二つ。一つは、なんで遺書なんて早々と書いていたんでしょう、たしか、まだ四十代でしたよね」射殺事件をニュースで知っている藍出は年齢に関し、尊敬する上司に確認のアイコンタクトをとった。

警部は首肯で返した。
「ですが、それよりも不可思議なのが、『妻が亡くなっていれば』云々のくだりです。もしそうなったとしたら、おそらく二ケタは違う規模の全財産でしょうし、加えて理事長職までを娘が手にする。これって、何か臭いませんか」藍出は言外で、直人溺死だけでなく、向後の妻殺害の可能性についても暗に言及したのだった。
しかし、「なるほど。妻殺しを前提に遺書を書いたというわけですか。こりゃ驚いた」病院長がもし射殺されていなかったら、のちのち、妻を殺したかもしれないと。今度はそのことに岡田君、驚倒したのだった。
刹那、和田がそんな甥の口を掌で塞いだ。「警察官として驚くべきは、そこと違う。ええか、遺書を書いた日づ…」
「おっとそこまで」やはり和田は気づいていたと改めて感心しながら、矢野はその先を藤浪に続けさせることに。「和田さんが言わんとしたことの続き、お前ならどう説明する?」
「おそらく、ですが」藤浪は肯きながら、「病院長が遺書を書いた日にちが、直人の溺死の前日だったというところに驚け、ではないでしょうか」

矢野は、満足の笑みを新米の部下に送った。
一方、和田は複雑な表情になった。鋭敏な同僚には敬意を表するが、たとえバカでも身内は可愛いからだ。
だが、岡田にはまだ理解できないらしい。焦点が定まらない眼で瞬きばかりしていた。
「おい、バカ甥。ええか、直人が生きている状況で、全財産を娘だけに残せると思うか。金額の多寡はこの際別としても、遺留分権という制度が民法により規定されてるやろ」和田は悔しげに少し語気荒く言った。デカである以上、知っておくべきだと思ったからだ。今後、遺産相続をめぐる殺人事件を捜査することもある。その際、事件解決に必要ともなるであろう知識のひとつなのだ。
ちなみに遺留分権について。
遺産の相続に関して、原則、被相続人が記した遺書の趣旨が尊重される。被相続人の意思尊重とは、被相続人が当然ながら死後もその基本的権利を有しているということだ。したがって相続人Aの排除を被相続人が望めば、尊重されることとなる。ただし、完全なる排除まではこれを認めていない。それが、民法にて規定された遺留分権である。その主旨は、被相続人の遺志に関わらず、相続人の今後一定の生活保障をするためである。つまり遺留分権とは、遺産相続の一定割合を取得しうる相続人の権利のことである。
「なるほど」やっと気づいた、らしいバカ田君であった。
しかし、和田は半信半疑。「全財産云々はな、直人の死を予期してたからや。では、なぜ予期できたか」
「あっ、直人を殺す計画がすでに出来上がってたからや」ここで岡田の顔に初めて陽が射したよう。一方、
ようやく半年間のモヤモヤが消えた藤浪はもっと満足げ。いい表情になった。手術を受けた白内障患者のかすみが消え、スッキリと心まで晴れた、まさにそんな心地であった。
枷(かせ)をつけられたための事故死説だったとはいえ、やはり自分の出した結論に納得できず、日々、鬱屈としていたのである。
「でも、そんな日付の遺書を書いたりすれば、あとで怪しまれると何で考えなかったのでしょうか」藤川の指摘は至極もっともだった。
と、突然の矢野、何を思ったか「あははっ」快活にひと笑いするとそれを噛み殺しながら続けた。「すまん。ひとつだけ、小さくて大きなウソをついてしもた。実は2019年やったんや。それを2013年と言(ゆ)うたんは、皆に気づいてもらうためやった。いやぁ騙して悪かった。許してたもれ」矢野がたまにみせる茶目っけでもってもう一度、少し申し訳なさそうに、それでも小さく笑った。「おそらく卓は、記述日を六年後にしておけば、直人の溺死や妻の死亡とは無関係な遺書として偽装できると考えてたんやろ」
一同、さすがに苦笑いした。

そんななかでも、矢野を藤浪は面白い人やと感心しつつ、ただならぬ発想のできるこの人につき従い、捜査のイロハを徹底して学ぼうと決めたのである。十数年前の藍出がそうであったように。

それはさておき、卓の不運が生んだ誤算は、直人死亡の前日に遺書を預けたことだ。その弁護士が重篤に陥り意識不明のまま入院してしまうとは、誰に予見ができようか。ために、工作は案に反して失敗し、かえって直人殺害の疑惑を決定的にしてしまったのである。

ところで矢野だが、今度こそは確証を見つけ出し何としても送検しなければと強く決めた。自身に課した、捲土重来であった、たとえ犯人が死亡していたとしても、だ。
「藤浪、お前が担当したんやから、できるだけ詳しく事件の内容を皆に教えてやってくれ」矢野は、自信を持って“事件”と言い切った。

指示どおり藤浪は概要を述べるのだが、その前に断わりを入れた。以下がそれだ。
彼にとって唯一の不満として、行政解剖がなされなかった事実をまっさきに述べたのである。そのせいで検視頼みとなり、微訂正された死亡推定時刻は午後八時六分から八時半ごろとなった。直腸内体温の計測や死体硬直の具合などから検視担当官が判断したのだと説明した。なお死体には心臓マッサージの痕跡以外に、刺傷や殴打痕・圧痕・索条痕などの外傷は全くなかったとも補足説明した。また、死体の爪に血痕や皮膚片などもなかった旨を述べ、浴槽に無理やり沈められた可能性を示す争った形跡も認められなかったと概説。
おかげで、アリバイがあり動機の薄い義父を、結局捜査圏外人物と判断してしまった。
また、侵入者など存在しなかった渡辺邸は、一種の密室状態にあった。つまり、死亡推定時刻には直人以外誰もいなかったのである。以上の状況から、いささか不本意ではあったが、殺人事件では?との疑惑を消去するしかなかったのだとした。
自殺についても、動機が希薄だとしてその可能性を否定した。……恋人の転落死に関わっていたという新事実が明らかになった今日(こんにち)をもってしても、自殺説には同調できない。
自殺するなら、愛を告白した相手である拓子が目の前で死んだ直後でなければ、その意義を失う。自殺は、悪い意味での勢いでもって、死出三途へ踏切る場合も少なくなかろう。逆に時期を逸すれば、喚起された冷静さや恐怖心が踏み止まらせることも少なくない。
漱石の代表作“心”における“先生”はともかくとして、くどいようだが、一般的には半年という時の経過とともに、自殺熱は冷めていくと考えられる。だから転落死を、悔恨による後追い自殺とするには、半年後では合理性に欠けてしまうと。
つまり消去法ではないが、動機の希薄な自死も消え、必然的に事故死が残ったのである。
ちなみに、半年前の時点では不注意といえるほどには物証や供述等に対する見落としはなかったと、藤浪は今もそう思っている。
加えての、事故死に帰結させた理由、他にもないわけではない。
まず血液検査からは、ハルシオンという睡眠薬を服用したうえ飲酒もしていたとの結果が出た。血中濃度から、睡眠薬は軽症状患者の使用量の約二倍、アルコールも、酩酊を想像できるほどの量と推定できた。肝心のそのハルシオンだが、服用すると記憶障害のほかにめまい・ふらつき・幻覚症状などの副作用が出ることもあるとわかった。
にもかかわらず、医師の卵の直人は睡眠薬服用の事実を忘れて飲酒し、生活習慣に従い入浴したと藤浪は推測した。なぜなら、そうとしか説明できなかったからだ。
浴槽に両足を入れた直後、めまいやふらつき・幻覚症状を起こし、ために足元が滑ってつんのめってしまい、大きな浴槽という不運がそれに重なった。うつ伏せで身体全体が湯船にすっぽり収まってしまったという図式だ。つまるところ身体ごと湯の中に落ち、あげく呼吸器にまで湯が入った。すでに理性を喪失し、薬効とアルコールで身体的機能も鈍化していた直人は焦りまくり、浅い浴槽内で溺れてしまったのだろうと。
入浴中の溺死が交通事故死より多いという現実から、こんな憶測をしたのである。
藤浪は当然のことながら、現場の状況も洩らさず述べた。現場とは風呂場や脱衣場、だけでなく二階の直人の部屋、キッチン等もである。むろん、直人の部屋にあった睡眠薬入りのビンやウイスキーのボトルのことなども、キッチンには卓が置いたと初動捜査時に申述した食事後の食器類についても言及した。また、グラスの中身などの検査結果も忘れなかった。その他、採取された指紋にも殺人事件を推する不合理性は全くなかったのである。
矢野も満足のいく報告であった。
病院長の遺書が露顕していない段階においてはたしかに、藤浪が憶測した情景以外、説明のできない直人の溺死であった。
だが、今や状況は一変したのである。
「わからんのは、どうやって事故死を演出したか?です」とは、西岡の率直な疑問だった。
「藤浪、お前の見解は」直腸内体温の早期低下や死体硬直の早い発現をどんな工作によって偽装したのかとの問いだ。矢野のこの狙いのひとつに、新米に発言させることで皆とのコミュニケーションを円滑にしたい、があった。もうひとつは、彼のデカとしての力量のほどを可能な限り知りたかったのである。矢野はせっかち、なのだ。
「見解といえるほどのものはありませんが、…僕ならこんな工作をします」さきほどから藤浪は、矢野の視線を痛いほど感じていた。ここからはお前の出番や、リリーフ(投手)は任したぞと言いたげな熱い視線を、である。それで概要説明をしながらも、心密かに思案を巡らせていたのだった、渡辺卓がいかにして偽装工作したのかの最終推測を。
「僕なら…か。大いに結構。それを皆に聞かせてやってくれ」推理力だけでなく想像力も推し量れるわけで、遠足前日の楽しげな子供のような顔になった矢野は肯いた。
二人の先輩警部補も、期待の眼で見つめている。
三人の部下は生意気にもお手並み拝見と、矢野係の先輩としてどこか上から目線だった。
「義父の卓は直人の弱みにつけこみ、己が意のままに操ろうと考えました。それには弱みを見つけなければ。それで探偵を雇った。おかげで想定以上のネタを手に入れられた。拓子の転落死です。ただし強烈すぎた。で魔がさし、計画を変えたのです。苦労をかけた彩奈に全てを残そうと。しかしながら、妻の恵子が旅行に出かけるまでは手を出せません」
「なるほど、半年前からの殺人計画やったと。面白いな」藍出は、思わず身を乗り出した。
「そして待ちに待った日がやってきました。数日前から用意していた睡眠薬を、当日の昼に、漢方の疲労回復剤などと説明して渡します。包装していた本来のパッケージから眠剤だけを取り出し、あえてビンに入れたのは、ハルシオンという表示を直人の眼にふれさせるわけにはいかなかったからでしょう。いくら半人前の医師でも、ハルシオンが何かくらいは知っていたでしょうから」これにより、包装がはずされていた理由の説明もついた。

和田たちは、藤浪の推量に聞き入っていた。
「偽りの薬効説明のあと、『ただし試供品やから、効果のほどを知るために二人で分かちあおう。私も飲んで効き目を比べたいから、僕の指示後に飲む』ことを約束させます。手渡すことで、直人の指紋を自然な形でビンにつけることにも成功しました。そのとき、「漢方薬独特の臭いがしないか嗅いでみ」とでも言って、ビンのふたにも指紋を付けさせます。ですからもちろんのこと、箱も使用上の注意書きも元から存在してはいません。再度、指示なくして飲むなと釘を刺しておいて午後八時三分、家政婦が帰路についた時間を見計らい直人の携帯に電話を掛けます。『ある男から突然の電話を受けた。菅野拓子の転落死にお前が関わっていると聞いた。ママにはばれないよう、手を打つ必要がある。そこでや、お前は大急ぎで食事を済ませ、心を落ち着かせるためリビングのテーブルに置いてあるオールドセントニックを飲んで小一時間待っててくれ」直人は通常、餃子と冷麺の場合はビールを飲むのだが、そうしなかったのは卓の指示があったからと推測したのだ。ちなみに、自室にセントニックを運ぶのは初めてだったとも。「帰宅したら、大事な話をしようやないか。心配いらん、決して悪いようにはせんから』そうとでも言って安心させ、自分の計画へと誘(いざな)ったのではないでしょうか」矢野の眼を見つめつつ、だが、いささか自信なげだ。
しかし、「ほほう、すごい想像力やな」和田は良い意味で感心している。
「それだけの想像、いつしたんや」疑義を解く説明もあり、藍出も同調しつつ尋ねた。
「詳細は、日付のおかしな卓の遺書が出てきたとお聞きしたときからです」
“お手並み”に相づちを送っていた藤川は、「えっ、そんな短時間に?」と。このエリートは、自分たちと頭の構造が違うと驚嘆してしまった。
「いえ。ある程度なら、関係者への事情聴取を全て終えたあと、もし病院長が犯人ならばとの仮定を設けて熟慮を重ねましたから。ですが、所詮は想像の域を脱することはできませんでした。さらには判断を迫られたこともあり、やむなく、事故死だと上申しました。そんなわけで、結局は挫折したのです。それでも、実際にはどうしても払拭しきれない滓(おり)が心に残り、それからも夜毎、仮説に沿って想像を膨らませてみた、ただそれだけです」先輩の賛辞が耳に痛かった。自身、納得のいく推論だと胸を張れる内容ではないからだ。
藤浪の、そんな心裡を見透かしつつ、ただひとり矢野だけが得心していない表情で口を開いた。「いくつか補足や訂正をしてもええか」

藤浪には元より異論はない。「はい」と答え、まるでかしこまるように居住まいを正した。
「同時に僕の推論を話しつつ、いくつか、藤浪の推論の不備や矛盾点についての解決もしていこうと思うんやが」矢野は藤浪を鍛えるために、ここは教官になりきるつもりだ。

さても、残る五人は藤浪の推論に納得できたためどこに不備があるのか、それを考えてはみたが、おいそれとは指摘できなかった。されども、矢野の推理力には全幅の信頼をおいている。「どこに不備が?」とは、だから誰も言わない。
「藤浪の推測どおり、理事長の恵子が旅行に出かけてる期間を狙っていた。少なくとも二日間は不在やないと犯行には適さんからや」もとより、藤浪のを全否定するつもりはない。「ところで直人が診察を拒んだという話、ほんまなんやろうか。なぜなら、カルテや処方箋なしでの眠剤の処方が医師法に違反することは医師、まして病院長にとってただ事ではないはず。それでもあえて、医師法第22条に違反したことをすんなり認めたんは、殺人とは比較にならんほどの軽い刑罰で済むからや。…いや、というよりおそらく、情状を酌量され不起訴になるという計算もあったと思う」言った矢野の、眸の奥からの光彩が強くなった。「また処方した日が偶然、恵子の旅行当日というのもいかがなものか。加えて、眠剤を処方してくれと直人がいってきたときの印象やが、直人は『感情を表に出すタイプやない』云々、続いて『これといった印象は受けなかったので(中略)普段どおりやったように』と言っていたのに、数瞬後には、『思いだしました。(中略)悩みごとを抱えている風に』へと変えてしまった。急変させた理由やが、直人の印象を刑事が質問してくることを、当初は全く予期してなかったためやと思う。だが、計算外だろうと想定外であろうと、質問に答える以上は、後日、再度の事情聴取となったとき、自分に疑いを向けさせないために予め変更しておいた方が無難と計算し、発言を改めたんやないかな。さらに、義父の口述やけど、納得しかねるのがまだあった。睡眠障害の原因を訊いた返答が、『医師の立場からも当然、尋ねました。が、何も…。いまだに心を許していないからでしょう』やった。血は繋がってなくても父と子やし、まして卓は精神科医なんや。疾病の原因や患者の状況を把握せずに処方したなんて、少なくとも僕は信じない。いくら直人が無茶を言ったとしても。では、なぜそんなウソをついたのか。それは、睡眠障害で苦しんでたことにし、不自然ではなく本人希望の形で睡眠薬を飲む状況を作り出したかったからや」藤浪を見た。「けどな、直人も医師なんやから、モンスターペイシェントみたいなマネ、はたしてしたやろか。カルテ作成を拒否し薬を要求する、そんな勝手ができないことは百も承知なわけやから。それでも眠剤を渡したとゆうなら、卓自身、医師として失格やと思う」

六つの顎は肯くのを忘れ、十二の眸がじっと、矢野の口元に焦点を当てていた。
「つまり、睡眠薬をほしいと直人が言ったという申述自体怪しいと僕は思う。なんちゅうても、全ては病院長の口からしか出てない話やから。それと、大きな病院ほど薬を置いていない場合が多い。だから通常、院外の薬局で買うことになる。ところで今回の眠剤やが、卓自身が所有していたのを使ったと僕はみてる。さらに、睡眠障害を患うほどの悩みで苦しんでたマザコンの直人が、旅行前日の母親に相談してないのも、どう考えても腑に落ちん。いや、というより睡眠障害自体も、ほんまの事なんか。半年前ならわかるけど」拓子転落死の原因を作り、死に顔まで見てしまった直後なら睡眠障害も理解できると言いたいのだ。「もっとも、直人が愛する人の死亡に関わってしまったとは、捜査員¬=藤浪にもさすがに言えんかった。まあそれも当然で、直人の過去を私立探偵か何かを使って調べていたことになるさかい。それっていかにもいわくありげやろ、なんで探偵まで使ったんやて」
一同ここで初めて感心のため息をつくと、ただただ肯いたのである。
ちなみにその、私立探偵の件については憶測だったが、さすがに、特定の人物の過去を調べるなら適材だろうと。しかし正鵠(せいこく)を射ていた。卓はまさに、私立探偵を使って直人の弱みを見つけ出していたからである。矢野の憶測が中(あた)ったのはたまたまではなく、あくまでも論理を重ねたその帰結であった。
「それはともかく、万が一、警察が優秀な捜査力でもって、自分に本格的な疑惑を向けてきたときには、ある女性の転落死が自殺の動機やったと、そう暴露しようとは事前に考えていたやろうけどな」それほどに大事な事実を警察に隠していたのはなぜだと詰問された場合も想定していた。妻の恵子が傷つくのが可哀そうだったとでも言って、刑事が示した疑義をかわしたであろうとも付け加えた。
しかしこの推測にはまだ続きがあったが、今ではなく、三十数分後、述べることとなる。

それはそれとして、賛嘆に似た呻きが皆の肺腑から洩れ出たのだった。
「ところでさっきの話、直人が眠剤を欲しがったからとするよりは、こう考えた方がしっくりくる。つまりカルテや処方箋なしでの処方も、要求した眠剤を服用しその事実を忘れて飲酒したというのも、あくまでも卓がでっちあげたストーリーであって、狙いはその方向へ警察をミスリードしたかった」藤浪がそれについ乗ってしまったとはあえて責めなかった。言わずとも反省すると踏んだからだ。「けど、僕はひねくれてるせいか、卓の敷いた路線にも疑心を持ったんや、直人ははたしてそこまでボンクラなんやろうかってね。ハルシオンと飲酒を併用する、それが女性に後日たとえば不埒な目的に使用するための人体実験やったとしても、それでも飲酒後に風呂には浸からんやろ、危険性をはらむからな。簡単にシャワーで済ますんとちゃうか。いや、それもどうかな。先に汗を流しさっぱりしてから食事を摂り酒を飲む。五月も中旬になると、若い人なら多くがこの順番と違うかな」事件関係者各自に対し、その人物になったつもりで矢野は、かの心裡を読み、行動を推理する。これが矢野流なのだ。「仮に卓の供述どおり睡眠障害で直人が苦しんでたとしよう。だとしてもハルシオンは即効性やから就寝直前の服用が原則と直人クラスの医師でも承知してるやろ」だから食後の服用はあり得ないと言いたいのだ。「それにや、記憶障害などの副作用の知識が希薄だったとする卓の物言いも苦しい。僕はそんな風に感じたけどな」
「推理を聞けばなるほど、警部に同意する以外ありません」それほど完璧だとした和田は、「ですが、まだ疑問も。どうして卓は直人をなまくらと言いつのり、事故死した風をよそおったのでしょう」細部にまで計画を巡らせた卓にしてはどこかお粗末と言いたいのだ。
「ボンクラ扱いにした理由まではわからん。が、おそらくそれしか手がなかったからと違うやろか。それに直人の日頃の仕事ぶりを病院長の立場からみれば、素人同然と思えたんかもしれん。それが潜在意識に刻まれていて、自然と口をついたんかもな」
「他に手がなかったというのは、卓にとっていかにも苦しいですね」と藤川。
「事故死にみせるにはそれしかなかった。かといって、自殺はいかにもマズい。浴槽内での溺死が自殺の手段として不自然極まりないこともやけど、何より動機が希薄やからな。となると、無理をしてでも半年前の拓子の転落死を動機づけとせんならん。それには二つの死が深く関わっていることを警察に示唆する以外手がないわけで、しかしそんなことをすれば、息子を警察に売ったと理事長の恵子が激怒するに違いない。結果、卓は病院長の座から転がり落ちるだけでなく、離婚訴訟で被告の立場に追い込まれてしまう。これでは直人を殺害した意味がなくなる。一方、殺人事件扱いとなると、もっとあかん。司法解剖にまわされる可能性が高くなり、そうなれば死亡推定時刻が午後十時前後三十分に訂正されてしまう。アリバイがなくなるばかりか、邸にいたのは直人以外卓だけとなる。当然、殺人犯として人生は台無しに。だから事故死としては多少苦しくとも、背に腹はかえられんかったんと違うか」事実、事故死で処理されたわけだし、とはさすがに言わなかった。藤浪を庇うためというよりも、あの時点では殺人を疑うに足る材料がほぼなかったからだ。
皆はまた肯くことをも忘れ、固唾を飲んで次の言葉を待った。
ところが矢野は、このあとも推理を披露するだろうという期待を故意に裏切ったのである。「藤浪、殺人事件とわかったこの段階で、直人の行動に対し、ん?と思う点はないか」まさに教官役の質問をぶつけたのである。
思いもよらずの投げつけられたボールだったがすぐに投げ返すべく、藤浪は半年前に暗中模索したが結局は懸案のままで終わってしまった疑問を口にしたのである。「七時半には帰宅したのに八時になってもまだ食事のテーブルにさえ着いていなかった。三十分間、一体何をしていたんですかね?その点不思議に」上から迫られて事故死と判を下した藤浪だったが、頭の中、じつは疑問で満ちていた、つまり他にも多々あったということだ。
「言われてみればたしかにそうや。シャワーを浴びたわけでもビールを飲みながら少しくつろいでいた風でもない。部屋のテーブルに缶ビールの飲みさしや屑かごに空き缶があったとは、鑑識の報告になかったように記憶してるが…」和田は藤浪警部補に確認した。
「ええ、そんな形跡はありませんでした」さもノートでもめくるように事も無げ、鑑識が撮った現場写真を半年前の記憶の襞から取り出すと断言した。「ただ、パソコンを使っていなかったとまではいえませんが。あるいは長いトイレとも…。しかしこれだけはいえます。携帯や家の電話で誰かと連絡を取っていたというようなことはありませんでした。電話会社に問い合わせて調べましたから間違いありません」藤浪は、矢野が期待していたとおり抜かりのない優秀なデカである。
「ところで、食事を部屋へ運びましょうかと家政婦が尋ねたとき、たしか、『これを済ましたら自分で冷蔵庫から出す』と言うてたんやなかったっけ。ほな、直人が言った『これ』って一体何や?」和田にしてみれば、じつはこの謎がのどに突き刺さった鰯の小骨のようで、どうにも気になって仕方なかったのだった。
そんな空気の中、「家政婦は見た、かも」と。岡田はまさかのウケでも狙っているのか。

のんきなことを言っている場合ではないと、皆無視をした。しかし、もし見たとしたら謎がひとつ解けることにはなる。それが事件のナゾ解明につながるかまではわからないが。
「ドア越しだったはずですが念のため確認します」藤浪は家政婦の携帯にまたもや掛けた。
質問の時間は短く、一方、耳を傾けている時間の方は圧倒的に長かった。
「やはり、ドア越しだったので見てないそうです。が、とつけ加えて、でも不思議だったそうです、ハーハ―って、何か息を切らしながらの返答みたいやったと」
??…謎がひとつ解ける前に、新たな謎が増えたといわんばかりの顔がうち揃った。皆、疲れているのか、どうにも思考力が落ちているようだ。
「どうやら仮の想定の、長いトイレでもパソコンでもなかったみたいやな。そんなことで息が切れることはないやろうから」嫌味に聞こえそうな言葉だが、矢野の口から出ると他人の耳朶を涼やかにかすめてしまうから不思議だ。その自覚あるやなしや、そんなことにはお構いなく警部は、「もはや、これも調べる手立てはないが、『息を切らしながらの返答』との証言のおかげで今、確信できたんや」と自信の眉目となり、さらに推理を展開した。「まずは卓が直人に半強要しつつ、ある必要から、激しい運動を勧めたと。つまり、二十分ほどのエクササイズを帰宅直後に実行するよう、事前に指示していたと僕はみてる。させる口実やが、サプリの効果が運動後とそうでない場合とでどう違ってくるか、業者から簡単な実験を頼まれたからとでも言って、部屋で腹筋や腕立て伏せなどをさせたんやないかと。あるいはこんな手を使(つこ)たかも」ここで、西岡が先刻淹れてくれていたぬるい番茶でのどを潤した。より簡単な説明に集約すべく、思考の時間がほしかったのだ。「肉体的疲労がストレスを緩和させ、精神安定にも効果的とする医学上の学説を利用した可能性もある。さらに脳医学の直近の研究で、運動による悩み解消効果も証明されたとでもいえば、逆らえる立場にない直人は従ったやろ。それでももし拒否した場合は強要もできた。材料としては、藤浪の推測どおり拓子の転落死や。この脅迫に抗うことはできんかったに違いない。それはともかく激しい運動の目的はただひとつ、死後硬直を早く発現させるためや、詳細な説明は省くけど、筋肉内に疲労物質である乳酸を急増させれば硬直が早まる可能性やが、かなり高くなる。例としては、“弁慶の立ち往生”がそうや、もっとも弁慶のは一説に過ぎんけどな」本人も認めているように、藤浪の憶測は突っ込み不足だったとした。ただし、矢野が“弁慶の立ち往生”を例として挙げたわけだが、ちと古いのではなかろうか。

まあそれはそれとして、一同、感嘆に値する推理だと正直頭が下がった。なぜなら、死亡推定時刻を午後八時すぎと検視させるために、被害者の筋肉内の乳酸多量発生の因にまで推理したことと、それが医者ならではの偽装工作だと、そう見抜いた洞察力に、である。
筋肉疲労が死体硬直を早く発現させることを知識では知っていても、それはあくまでも机上であって、実際の事例に遭遇することなど誰もその経験がない。それで、なかなか現実性のある想定はできなかったからだ。
「もうひとつ。死亡推定時刻を割り出した腸内温度やけど」疲労感という概念を今日に至るまで持ったことのない矢野警部、「これにも相応の工作があった」とキッパリ。
――それはどんな?――と、全員が好奇心を全身の毛穴から横溢させた。
だけでなく餓鬼さながらに急いた藤浪、思わず発したのだった。「どんな手で検視を撹乱させ、実際の死亡時刻から一時間以上ものズレを生じさせたのでしょう?やはり医師の知識を駆使し…」捲土重来(けんどちょうらい)を期する藤浪は問うだけでなく、半年前の憶測を捨て死亡時刻を午後九時四十分ごろと推測し、そう披露したのである。むろん、根拠があってのことだ。
さても、その時刻に教官矢野はほぼ同意し、以下、藤浪の代弁をしたのである。卓の帰宅直後(午後九時過ぎ)の犯行は難しかろう。なぜなら、工作の準備がまだできていないはず、が主な理由だった。むしろ119番通報の前、心臓マッサージの真似ごとや服を着る時間等々を逆算すると、自然、午後九時三十分から四十分ごろと推定できるからだ。
藤浪は、やはり悔しそう。「誘導された死亡推定時刻のせいでアリバイが成立し、結果、捜査線上からはずさざるを得なかったわけですし、事故死に誘導させられもしたわけですから」卓の掌上にて玩(もてあそ)ばれていたと知り、今日こそ思いっきりほぞを噛むこととなった。
「工作ですが、巧妙な計画犯罪の手口から察するに、風呂を殺害場所に利用したことと関係しているのではないでしょうか」藍出も疲れている。取っ掛かりは口にしたが、さらなる推測の呂律が回らなかった。それでも疑問だけは提起したのである。「何で直人は風呂場で死んでいたのか?渡辺卓犯人説を聞いたときからずっと、その点に疑義を懐いていたんです。というのは、風呂場を使うとなると手間が掛かります。そんな面倒なことするよりも、階段から突き落とした方が手っ取り早いでしょうし。それをあえて、しかも頭の良い医者が風呂場をチョイスした。となると、何らかの必要性があったからではないか」
「君もそう思うか」矢野も、彼独自の推理の糸口は同様であった。ただし、階段を使うというくだりには否定的だった。確実性に欠けるだけでなく、失敗した場合、卓が背中を押したことが公となってしまうからだ。さらには、死亡推定時刻の偽装工作もむずかしい。
ややあって、「あっ!」藤浪が大きな声をあげた。「そうか、体温をより速く下げる工作のためですよね。水風呂の中で溺死させれば…。そして殺害後さらに氷を湯船に浮かせ、少し時間をおいてから死体を床に寝かせる。直後、浴槽に湯をはればいい」
寝かせたのは救急車を呼ぶ数分前で、医師である義父が心肺蘇生法(AEDや医薬品等が手元にない一次救命処置)を施したとの供述に矛盾を生じさせないため、また、偽装工作を露見させないために浴槽から引きずり出した、その結果である。
むろん、「工作された」と洩らす直人の声は、閻魔にしか聞こえない。
藤浪は、――それにしても――なぜこんな、小学生でも思いつきそうな単純なトリックに気づかなかったのかと歯噛みした。少なくとも医師の専門知識など必要ないのである。
「じつはな、どうやって死亡推定時刻を狂わせたのか、卓の遺書が出てきたとの一報を聞いたときからずっと考えてたんや。藤浪が気づいたとおり、手っ取り早いんは死体を水風呂に浸けて体温を下げさせるこっちゃ。そのあと浴槽から出し、たとえば氷枕を腰部に当てる。絶対にしたとは断定せんが、この手で死体の腸内温度をさらに下げることも当然可能や。そして救急車が来る直前に氷枕を隠してしまう。そうすれば、警察もこれらのトリックには気づかんやろと。卓は医者だけに、法医学の知識を身につけるのも事故死に偽装するのも造作なかったやろうし、検視をミスリードすれば行政解剖に回されることもないと踏んだ。事実、思惑どおりとなった。加うるに、他にも卓にとっての好条件が揃ってしまった」次第に、苦汁を飲んだあとのような眉へと変わっていった。「解剖費用やけど、最低でも二十五万は掛かるし、執刀医は増えへんのに変死体は増加する一方や。にもかかわらず公的経費削減の声は日増しに募る。さらに、邸のある豊中市に監察医制度がないのも卓を利した。立場上、奴はその辺の事情にも明るかったやろ」矢野にしては珍しく、ここで愚痴が出た。「仮にそれでも行政解剖してたら、食べ物の消化具合等から卓には不具合が生じたんやけどな」“天網恢恢疎にして漏らさず”とはいかなかったことが、よほどに悔しいのだ。天網の一端を担う刑事になった動機ゆえに、制度の不平等に怫然としたのである。
和田も、捜査の地域格差に憤る一人として、強く肯いた。
矢野は教官役として気を取り直すと続けた。さらに具体的になった。「肛門から体温計を刺し込んで腸内温度が最適な数値に下がるのを確認しもって、救急車到着の前に、浴槽の湯を39度くらいにしておけばええ。また、自分の食事分やビールをトイレに流せば、飲みながら食事していたように偽装できるしな。それと、初めから十一個しか入れてなかった眠剤のビンを直人の部屋のテーブル上に置いておくことも忘れなかった」
「えっ、十一個しか入れてなかった?」初動捜査時、ハルシオンが十一粒だったことは確かだ。「だとすると、直人はビンの眠剤を飲んでないことになります」頭が混乱しだした。「ですが間違いなく服用していました」血液検査でハルシオンの成分を検出していたからだ。「では一体、眠剤をいつどんな手を使って飲ませたのですか」バカ田ウイルスが藤浪に感染したわけではないが、警部の連発弾に気圧され脳の回路が機能不全に陥ってしまった。
一方、矢野の推理は冴えわたり鋭さも増していった。「おそらく、セントニックに初めから混入しといたんやないかな。そうすれば、帰ってから飲ませる時間も手間も省けるし」
「じつは僕も初めは疑いました。ですがビンに残っていたウイスキーからは眠剤、全く検出されませんでした」藤浪は、鑑識に念押しで問い合わせたことを思い出しながら言った。
「藤浪!」矢野の瞳から叱責の光が放たれていた。岡田になら照射しなかったであろう。「家政婦の証言、忘れてないか。前日よりセントニックの量が増えていた不思議な現象の説明、お前の憶測どおりやと、ちっともできてへんけどな」
藤浪と和田以外、頓狂な表情となった。発言の意味を理解できなかったからだ。
が、委細構わずの矢野。「家政婦さん言うたはったやろ、『夜いつものとおりテーブルに置いた(セントニックの)ビンですが、残りは確かに半分程度だったのが、次の日(サイドボードに)なおすときに“あれって?”って。上が少し空いてる程度、ほぼ満杯だったからです』と。加えて、『中身は明らかに増えていたのに、ウイスキーのビンが空になるペースなんですが、その分に限りかなり速かったんです』や。覚えてるやろ」
「はい、もちろんです。僕も不思議には思い、理由を一つ二つ想定しました。しかし結局、納得できる説明を見つけられず、あるいは家政婦の思い違いかもしれないし、どのみち、直人の死とは無関係だろうと…」上司の指摘に対し、まだいつもの脳の活動ではなかった。
「なら、こういうのはどうや。飲みかけのボトルが予め二つあった。ひとつは眠剤未混入のボトル、もうひとつは」
藤浪は、なるほどそうかと思わず膝をたたいた。どうやら、渡辺卓の偽装工作にようやく気づいたの呈だ。
「ハルシオン0.125mg錠をグラス一杯につきおよそ二個分になるよう溶かしこんだボトルと未混入のボトル。それら二つを、直人殺害直後に入れ替えた。つまり、直人に飲ませた眠剤混入のセントニックをシンクにでも流し、ボトル内を洗って眠剤を除去、リサイクル用として家政婦が仕分している分別ゴミに紛れ込ませておけば警察も気づくまいとな」
言われてみればなんてことないのだが、「あっ、そこまでは気がつきませんでした。そういえば半ダースずつ買っていたので、卓の部屋には買い置きがあったんでしたね。見落としてました」自分の未熟さが情けなくなった。
「気を落とすな。経験を積んでいけば見落とすことも次第に無くなってくるさかい」それに、お前なら大丈夫やとは、バカ田の手前言わなかった。岡田には縁のない言葉だからだ。
「ええか、卓の行動、整理するぞ。まずは前夜帰宅後、拓子死亡と直人との因果関係を告げておく。そして当夜、帰宅した足で病院から持ち帰ったアイスボックスを手に風呂場に直行。中には氷はもちろん氷枕、水銀体温計も入れておいた。すぐに、湯船にコック全開で給水。満ちるまでの時間を利用し、自室に寄ると、犯行の数日前、新品をサイドボードに入れておいて家政婦に指紋を付けさせてた眠剤未混入のセントニックを持ち出す。その足で直人の部屋に行き、少なくとも酩酊状態にはなっているはずの彼の指紋を付ける。むろん、テーブル上には、眠剤入りのセントニックが置かれていた。例の、八時三分からの電話で指示し、直人に持ってこさせ飲ませてもいたからだ。卓は次に、直人の意識が朦朧となっていればよし、不完全だった場合はさらに飲ませるつもりでいた。ここまでは計画どおりだ。ふらつく直人を脱衣場まで手を貸しつつ連れてゆき、まずは自分が全裸に。間髪容(い)れず直人も全裸にすると服は脱衣かごに」このあと小さな、しかし必要度の高い工作をしたとみているが確証はまだない。「直後、直人を浴槽に落とし込み後頭部を押さえつけると力ずくで溺死させた。それから院長室の冷蔵庫で作っておいた大量の氷を湯船に入れ、体温計を肛門から挿入」と説明しながら、この時キラリ頭に閃いたものがあった。事故死にみせるための小さな工作をした物的証拠についてである。想像し推理を組み立てるだけでなく、言葉に出して初めて気づくこともあるということだ。問題の物を証拠写真として撮っていれば、またはその存在を家政婦が覚えていれば証拠となるはず。時期的に考えて、矢野が気づいた以外の利用法を考えにくい品だけに、立派な物証になると。「藤浪。家政婦さんに再三で悪いと頭を下げたうえで、問い合わせてくれ」訊く内容を指示したのである。
「西岡、鑑識課に行って現場写真を全て預かって来てくれ」何を捜しているかを教えた。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十一章  それでも、捜査は次へ(後編)

矢野が退出してから四時間、結果を待つ間、星野はあることに思考を巡らせていた。男はどこで拓子の存在を知るに至ったかということにだ。まさか、アメリカではあるまい。
そしてそれ以上に、男が誰かを仮定できないものか考えてみたのである。それにはまず、拓子の転落死の調書と藤浪が作った渡辺直人事故死のそれに再度目を通す必要があると。
ではなぜ唐突にも直人の死と結びつけたのか?以前得た荒情報において、長いデカ生活で研(みが)き抜いてきた捜査勘にピンと引っ掛かる何かがあったからだ。二つの件のおぼろげな時期の一致であった。捜査勘に引っ掛かった以上、念のため、見極めずにはおれなかった。
そして、直人事故死の調書からやはり!と。必要な情報をいくつか映し撮った網膜は、視神経を通し彼の鋭敏な脳に伝達したのである。男を仮定するに必要なヒントであった。
拓子が死んだのは、昨年の十一月二日、激しく降る雨の夜だった。時間は十時四十分ごろ。その時間にアリバイのない、そしておそらくは社会的地位と経済力のある男性。むろん、これだけでは雲を掴むような話だった。だがこの条件に該当する男性に、心当たりに似た微かな残像があった。たしかに、紙のように薄い可能性であろう。しかし情報がないに等しい状況下では、実状、この線で追ってみるしか手立てがなかったともいえた。
さて、その残像の正体だが。拓子がブログに記した時期と同時期に外出を頻繁に行い、ある日を境にその外出癖が突風直後の灯火のようにパッと消失した男性のことである。加えて、時間的だけでなく空間においても、二人に繋がりがなかったとはいえない点
星野の手元にある調書が、その事実を、そっと囁いてくれたのである。
星野の鋭敏な触覚にふれた、そんな若い男。言うまでもない、渡辺直人であった。
蛇足だが、渡辺直人といえば、藤浪が約半年前に担当し“風呂場での事故死”として処理された研修医のことで、先日射殺された渡辺総合病院院長の義理の息子でもあった。
彼は家政婦の証言によると、死の八カ月前から約二カ月間、夜間の外出を繰り返していたという。それが、ある夜を境にカットアウトしたのである。
しかも、社会的地位と経済力を備えた妙年の、恋をせずにはおれない二十七歳だった。
単なる偶然ではなく、また、この仮定に無理やこじつけがないことを確認するために、藤浪にあることを調べるよう携帯で指示した。
同時に、拓子に関し精査した。まずは生活圏や生活パターン、仕事や趣味などである。
――生活圏やが、互いの住所は離れてるから、そっちは無視してもええやろ――気になるのは、昼間勤める飲食店と大阪市福島区にある渡辺総合病院が比較的近いことだ。――けど昼食を摂るとなると、そこは歩いて行くには遠すぎる。美味いもん目当てに車で来店という手もある――が、その飲食店は駅近くにあり、駐車場を備えてはいない。そこで、可能性は低いから後回しとした。――生活パターンやが、午前中にその飲食店に入り午後二時半に仕事を終える。賄(まかな)いがあれば店で食事を済ませるやろうが、そこまではわからん。とにかく、そのあとどこかで少々時間を潰し、夜間勤務の店に入る。その店は直人の生活圏からは離れているから無関係やろ。待てよ、別のところで昼食を摂るとして、そこで拓子に出会ったちゅうことはないやろか…――小考した。――いや、可能性はかなり低いな。拓子は贅沢のできる身やない。一方、直人はぼんぼん育ちや。まさか牛丼みたいな安さを売りにする飯なんか食わんやろ――発想を変えることにした。「う~ん…」思考を集中させるとき、星野は耳の穴に人差し指を突っ込み目をきつく瞑る性癖がある。外界をできる限り遮断するためだ。――拓子の方から結果的にやが近づいたとしたら。たとえば…、渡辺病院に診察を受けに行ったというのはどやろ。う~ん、これは調べてみる必要あるな――
パックされた豆腐のように、体液に覆われ保護されたピンク系色の脳細胞がめまぐるしく活動し、ピークに近づいた。直後、手をパーンと叩いた。閃いたのである。――そや、拓子は映画好きやった。仕事にしたくらいやから。となると、映画館か、あるいはレンタルビデオ店ということも…。まずは、福島区にあるレンタルビデオ店と仮定し調べてもいいんやないやろか――いや、閃いたとはいえむろん映画関係に限るわけではない。他の場所、たとえば銀行とかコンビニだとか。コンビニだと、福島区内の数十軒を当たることになるが、ビデオ店に比べ困難な点がある。会員登録率が低いからだ。会員ならいつ買い物をしたかのデータが残っているが、そういう情報入手をあまり期待できない。それに、防犯カメラは設置されているが、古い映像を残しているはずもない。――ビデオ店も同じやろうけど――一方、拓子が死亡当夜買い物をしたコンビニは、住まいの近所であった。オンリーワンの品物を置いている特別なコンビニというのでもない限り、あるいは今すぐ必要なものでもない限りは普通、誰もが家の近くで買い物をするだろう。―――スーパーはどやろ?…いや、おそらく、お坊ちゃまは行かんのと違うやろか。だとしたら、服とかの購入ならどうや。けど…このふたり、買いに行く店のタイプが全然違うやろうな――

そこで可能性の高い方から当たることにした。いうまでもなくレンタルビデオ店だった。
ネットで地図検索した結果、互いの勤務先のほぼ中間に位置する、Tレンタルが有望だ。
早速、足を運んだ。拓子は昼の仕事帰りの午後三時すぎに、直人は午前の診察等を終える午後二時ごろから四時半までの空き時間にレンタルビデオ屋に行っていたことがわかったのである。二人とも会員登録をしており、おかげでDVDやCDを借りた時間と返却時間等が記録されていた。その日時が、転落死直近の三カ月間で七回合致していたからだ。
やはり、ここで直人が見初めたとみるのが自然だろう。
七回のうちの四番目は土曜日だった。
この日おそらく、直人は拓子のあとをつけ夜間の勤務先を突き止めた。さらに自宅までも知ることができた。あるいは後日、探偵を雇い、それらを突き止めたのではないか。
その後、めげずに何度も交際を申し込んだ、と星野はみた。おそらく名刺を渡しただろうし、医者という肩書に、女性ならやがてはなびくはずだと、…こんな想像も難くない。

だが彼の案に反し、拓子は頑なだった。自身への覚えがあっただけに、ありえないとの思いが焦りを生んだ。それでつい、ストーカーまがいの行動に出てしまったのではないか。
ではなぜ、拓子は警察に行かなかったのか。理由は二つ考えられる。妹の俊子の死に対しお役所仕事的応対を受け、警察自体に拭えぬ不信感を懐いたから。もう一つは、すでに殺人者になってしまっており、警察を訪れるに気おくれするものがあったから、だろう。
一方の直人。想いが高じて、ついには彼女の自宅近くで待ち伏せしてしまった、のではないか。しかしその短絡的な行動、悪気があったわけでも、不埒な事を考えていたわけでもなかったと思うのだが。ストーカーやセクハラが、最悪の結果しか生まないことくらいバカでもわかる話だ。だから、ただ、想いのほどを率直に伝えたかっただけであろうとも。
調書を基に、星野はこんな想像をした。
「僕のことを知って頂きたいし、貴女のことも知りたい。どうでしょう、一度でいいからお昼をご一緒願えませんか?」というような申し出も懲りずにしたに違いない。

しかし、しかしだ、そんな十一月二日の夜…、何ということか!
まさかの…予期せぬ最悪の、否、あってはならぬ事態が起こってしまったのだった。

部屋へ、ノックして藤浪が入ってきた。彼は受けた指示どおりの、質問に対する先方の答えを携えていた。例の、家政婦からのだった。

明確な返答だったという。直人が外出を突如止め、食欲を急激に減退させた日だが、自分の誕生日だったからよく覚えているとし、「間違いありません」と付け加えた。

答えに満足した星野を、さらに喜ばせる電話が入った。
「その声からすると、名刺、あったみたいやね」星野は、矢野の弾んだ声を聞いて安心するとともに、白い歯がこぼれ、鼻の横にあるホクロが弾けた。
「はい、それらしいのが…」と言いかけたが、星野の思いもよらぬ発言により唇は止った。
「渡辺直人の名刺が出てきた、僕はそう睨んでいる」欣喜をあえて殺した声、そして故意の緩やかな口調だった。だが内奥にては、歓喜の舞いに雀躍と遊んでいたのである。
「おっしゃるとおりです。が、どうしてそれを」長い付き合いの矢野といえど、本当に仰天してしまった。それでつい口をついて出たが、この謎解きはあとまわしになるだろうと。
だが、拓子が転落死した日と直人が急に外出を止めた日(正確には転落死の翌夜から止めた)が一致したことを家政婦の証言で得たと、管理官は告げた。質問に対する答えのつもりだった。あとの謎は自分で解けとでもいうように。
いつものことと矢野は了解した。「面識があったのだから、単なる偶然では片づけられなくなりますね。というより、“男”を直人にあてはめても不具合は全く生じません。むしろ当てはまり過ぎるくらいです。直人とみて間違いないでしょう」
「うむ」肯いた眉はやはり、難しげだった。「その線で捜査するとして、調書によると、拓子の部屋の玄関前や横並びの廊下に、人が佇むことによってできるほどの滴は落ちてなかったとある。拓子が帰宅する二時間ほど前から急に激しい雨が降りだしたともある。だが、いつもの帰宅時間を知っていたならば直人は当然、定則の帰宅時刻に合わせたに違いない。とすると、傘からのにしろ、頭髪やコートから滴り落ちた滴にしろPタイルを濡らしたはずや。そやのに、なんで滴の痕跡が床になかったかを説明せん限り、送検はむずかしいぞ」
「たしかにそうですね」矢野は肯くしかなかった。頭を切り替えねばとしつつ、一言二言、それから電話を切った。直後、こちらの謎の解明を優先に考え始めたのだった。

最大の可能性は、階段を上るうしろ姿に声を掛けた、である。これだと、玄関前にはむろん残らない。しかし問題もある。ずっと後をつけていたのなら、雨を踏む足音や気配を勘づかれる危険性が生じる。尾行がばれた時点で、ストーカーとして恐れられたであろう。そんなバカなマネは避けたはずだ。だいいち、星野が言ったように定則の帰宅時間ではなかったわけだから、駅からの尾行以外は困難だったはずだ。しかも、尾行は危険を伴う。だとすると、やはりその間、どこかで待っていたとなる。ではどこで?
矢野はひとまず、仮説として思考を膨らませたのである。…どうしても話をしたいなら、待ったのは、玄関前から数メートル横にずれた廊下、だろう。でないと接触の機会を逸してしまう。部屋に入ったが最後、ドアを開けてくれる見込みはなかっただろう、が理由だ。横にずれたのは、上がってくる拓子から気づかれない死角となるからだ。そして待ちに待った靴音。よって愚かにも、勇んで拓子の前に現れてしまったのである。
突然のことに驚いた彼女は、慌ててしまい足を踏み外した。哀れ転落してしまったのだ。
直人は蒼白になり慌てて駆け寄った。だが、すでに心臓は止まっていた。ここにいては自分が疑われると考え逃げようとして途中で気づき、待ち伏せしていたことを示す、多すぎて不自然な廊下の水滴をハンカチで拭い消し、それから逃げたのでは?
しかしこれだと、拭き去ったという痕跡に鑑識が気づいたはずだ。痕はなかったとみるべきである。さらには、この説が説得力を有しない以下の理由。自分のせいで好きな人が死んだ、にもかかわらず待っていた痕跡を消したなんて、そんなに冷静になれるだろうか。
さすがに無理であろう。ただし、自己愛の強い人間なら、たとえ好意を寄せている相手がはずみで死んでしまっても、これからの自分の身を案じて逃げることはあるかもしれない。まして医者で、やがて病院長を継ぐ身ならばスキャンダルは厳禁なのだ。

なるほど、この憶測の方がより現実的といえる。問題は、水滴を拭うまでになれたかどうかだ。それよりは、初めから水滴は床に落ちなかった、とみた方が自然だ。たとえば新聞紙でも敷いたというのは?しかしそんなことを、通常するだろうか。むしろ、水滴がなかったための無理やりの理由付けでしかない。だいいち、床にそれらしいものは残っていなかった。直人が回収したからとするのも拭き掃除と大同小異で、説得力を欠いている。

ならば、横付けした車の中で待機していたというのはどうだろうか。ただし、車を常套手段にしていたとは思えない。毎回なら拓子は気づき、そして警戒したであろう。つまり、横付けは雨降りのその夜だけだったとすると、一応の説明はつく。で、確かめることに。
再度の問い「貴女の誕生日の前日、直人氏は車を使っていませんでしたか」に、へそを曲げつつ小考のあと、「珍しかったので覚えています」ベンツで出掛けたと断じた。出勤に車を普段使わないのは、飲酒できなくなるからだとこぼしていたことも付け加えた。

後刻、報告を受けた矢野は、少しく満足したのだった。墓参りからの帰途、若い女性の転落死にもし犯人がいたなら逮捕してあげてほしいと頼まれていたが、その期待に少しは応えられたからだ。

ただし府警本部としては、被疑者死亡による書類送検を見送った。証拠不十分というのが表向きの理由だ。加うるに、新たな目撃者も現れず、被疑者死亡により自供も取れない以上、書類送検しても地検は受け付けないだろうと上層部は星野たちに説明したのだった。
しかし本音は、転落死を事故として処理してしまっており、それを変更することでまたマスコミなどからやり玉に挙げられる、それを恐れてのことだった。

星野以下、不本意な決定に当然猛抗議した。頑張って、闇に隠れていた事実を究明したのだ、誰も知ること能わずの真相を明らかにしたのである。が結局、建て前とはいえ証拠不十分で押されれば、情況証拠ばかりである以上、最後は黙らざるを得なかったのだった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十一章  それでも、捜査は次へ(前編)

星野の執務室にて。矢野警部は、「拓子が大阪市近郊で独り住まいをしたのは、復讐前後の心身の異状を、両親に覚られないためだったのではないでしょうか。そして復讐のあとも両親と同居しなかったのは、大罪に穢(けが)れた身心を四六時中、両親に曝したくなかった。むしろ、曝せなかったのかもしれません。僕が感じた父親の印象ですが、《渇しても盗泉の水は飲まず》という質の人物ではないかと。それで拓子にしても、厳格な父親との同居自体、針のむしろに座らされているような日々を想像したのでしょう。しかしながらといいますか、だかかといって、特殊映像づくりの仕事に復帰するために再渡米したのでは、両親にとってはあまりにも酷だと。うちひしがれている両親にすれば、残る一人の子供まで失ったに等しくなるわけですから。それで、いつでも会える大阪に留まったのではないでしょうか」で締めくくった。こうして報告をし終えたのである。
目を瞑ったまま受けていた星野。技量を日本で活かさなかったのは、検定合格の資格がなかったからか、警察がやがて自分に疑いを向けてくることを恐れたからかとも考えつつ。
重い沈黙が、しばし二人を包んだのだった。やり切れぬ想いが二人の心を支配した。
ややあって、――果たして?…――二人同時に、疑惑が去来したのである。
「じつはな、以前から気になってたんやが、拓子の転落死…、はたして単なる事故なんやろうか?」そう、先に口にしたのは星野であった。
「ええ、疑う余地ありですよね。というのも、ブログにあった【好意を寄せられること自体迷惑】の記述です。たしかに、男からの求愛を、どこか心待ちにしていると読めなくもありません。ですが、拓子に心を寄せる男がいたとみる方が自然ではないでしょうか」
肯いた星野、「拓子という女性は自分の夢を果たすため、学生の時からCG技術習得に励み英会話力も身につけた。人生の設計図を若くして描ける、そんな聡明さを感じずにはいられない。また、証拠の映像を探し出して解析し、妹の死の真相にも辿りついた。加えて、完璧に近い計画犯罪を練り実行もした。つまり、論理的思考ができる頭の良さは並大抵ではない。そんな女性が、好意を寄せる男を望むような夢想をしたとは、僕にはどうしても思えない。拓子には似つかわしくないというのか、違和感すら懐くんや。なるほど、女心は理解しがたいし、人間という生き物は多面性を持ってる。しかし…」首を傾げた。
「僕もそう感じました。しかも、妹を失った悲しみが癒えていないのに、一方で、男関連の夢想をしたとはとても。むしろ逆で、男なんか全く信用していなかったに違いないと」
「それにな、もうひとつ気になるのが、【というより何だか怖い】のくだりや」

先述の【迷惑】に続く記述のことである。

星野は続けて、「男は裏切ったうえに、保身で妹を殺した。これがトラウマになってないはずがない。よって、愛を語りかける男がいても信じれるわけがない。【何だか怖い】は、当然の心境やと思う」そう推し量ったのだった。「それに、【社会的地位や経済力があったとしても】云々、具体的に過ぎひんか」そんな男がいたと読みとる方が自然だというのだ。
「管理官も、言い寄っていた男の存在を感じておられるのですね」自分も同感だとし、「ただし地取りからはそんな男、いや、微かな影すら浮かび上がってきてません。それで確信できないでいたのです」尊敬する上司の発言を初めて知り、心強いと受け取ったのである。

とはいっても、所詮、心証でしかない。今のところ、確証は何もないのだ。

「疲れてるやろうけど、拓子を事故死とした調書を徹底的に洗い直してくれへんか」
矢野とて、もとより、そのつもりだった。

開いた調書を前に、翌日も星野の部屋で向かい合っていた。
「拓子が勤務先で男を避けていたことは、地取りにより明らかです。男を信用できなかったからで、それなのに、夢想とか将来への予想を記したなんてどう考えても。むしろ当時、好意を寄せる男がいた、の方が自然です。だからといって、彼女の死に関係しているとは、少々飛躍に過ぎますが。そこで父親に電話しました」携帯の番号を聞いておいた。矢野の八歳年上の姉で、精神科医の幸(みゆき)が休日に実施している、“被害者とその家族、擁護と支援の会”という、心痛や心労を軽減させるためのボランティア診察を受けてほしいと申し入れる心組みだったからだ。父親の先日の呟きに対する、答えのつもりでもあった。

同じ境遇の幸も、違う立場で、犯罪被害者と家族を少しでも救援したいのだ。
「で、葬儀にそれ風の男が現れたかどうか尋ねたんやろ?けど来てへんかった」訪問時の矢野に、父親がその辺りを告げていなかったことから、葬式には現れなかったとみたのだ。
「お察しのとおりです。それにしても、何もかもお見通しとは、正直参ります」むろんお世辞や追従(ついしょう)の類いではなく、実際、感心しているのである。
ちなみに、矢野が父親に問うた内容は、列席者の中に住所が大阪市内かその近郊で、正体を明かさなかった男、あるいは悲嘆にくれすぎていた男はいなかったですか、だった。
父親自体、葬儀のときも尋常な状態ではなかったので、「断言はできませんが」と断わりを入れたうえで、そういう男の存在を否定した。「ただし、『記憶違いということもあるので、会葬帳を今夜見て、もう一度記憶を呼び覚まします』とのことでした」

翌朝のことだが、大阪市内かその近郊在住の見知らぬ男は、勤務先から一名ずつ男性が列席しただけで、あとは親戚縁者がほとんどのこぢんまりしたものだったと。同級生らしい男性も数人いたが、彼らは大阪を通勤圏にするには遠い、地元の者ばかりだったとも。

これらの情報から、思いを寄せていた男は列席しなかった可能性が高いとみていいだろう。薄情だったからか、それとも…。
「転落死に関係してしまい、これ以上拓子に関わると身の破滅に通じるから参列を避けた、そうみることもできるな」すでに写真で見知っていた星野は、美形だった拓子の容姿を思い浮かべながら、いい寄っていた男について想像した。「少しも振り返ってくれない拓子に、《可愛さ余って憎さが百倍》まではなかったかもしれんが、自尊心を傷つけられ、男は小さな復讐を試みた」こんなふうに何ごとも疑ってかかるのは、刑事の性だろうか。
「可能性ありますね、ストーカー的異質な愛情と憎悪がないまぜとなった男の匂いが、ブログから感じれますしね」【なんだか怖い】の記述を指している。「そして転落死した夜、男はその場にいた、もちろん憶測であり立証はむずかしいですが。ただ、彼女の生活パターンは定則性にすっぽり収まっていますから、ストーカーならずとも彼女を尾行、あるいは探偵社に依頼すれば、住所や勤務先それに帰宅時間くらいなら簡単にわかったでしょう」
「そうやな」星野は同意した。「喧騒な声を聞いたり、ゲソ痕などの争った形跡はなかったとあるから、揉み合ったはずみで転落したり、まして突き落としたりがあったとは考えられんが、だからといって男がその場にいなかったことにはならない。何ごともなく、ただ雨の滴に足をとられて転落したと推定するよりは、予期せぬことに驚き転落した、その方が可能性は高い」表裏(おもてうら)両ブログから感じ取れる慎重居士な性格の拓子が、両手を荷物でふさがれていたにしろ、雨の滴に足をとられるほど迂闊だったとする方が不自然というのだ。

車中での親父さんも同意見だったと思い出した。昨今の変質者等の犯罪多発から、その女性も慎重だったはずとの理由をつけて。「管理官がおっしゃったとおり、聡明な女性です。人生設計を、高校生の段階で立てていたくらいですから」と、星野と同意見の矢野。「実家を離れて約九カ月、自宅としたマンションにはエレベーターがなく、Pタイル貼りの階段でしかもところどころ滑り止めが剥がれていた。だから雨の日は滑りやすいくらいわかっていたはずです。当然気をつけて上っていたに違いありません。だとすると、特別な原因もなく足を滑らせ転落したは、いくらなんでも説得力ゼロ。雨で床が濡れてるなんてのは特別なことではありませんからね。たとえば、男が玄関前で座って待っていて突然立ち上がったとか、うしろから急に声を掛けたとか。で、その線で洗い直そうかと考えています」
「転落の原因はそんなところやろ。けど、はたして男を特定できるか、それが問題やで」とて、矢野の顔を凝視した。「はは~ん、何か思いついてるな、その眼の輝きは」
「可能性は、ゼロではありません」矢野がこの言葉を口にしたとき、自信が少なからずあると誰もが知悉している。「名刺です。拓子は、殺した警部の名刺を保存していました」

捨てるのはいつでもできる。残しておけば、あるいは何かの役に立つこともと考える女性だったのだろう。
「とすれば、告白するにあたり、彼女を安心させるためにその男は名刺を手渡し、身分を明かしたのではないかと。それは自身の肩書や身分にある程度以上の自信を持っていたからで、ならば、男の名刺が保存されていても不思議ではありません」

星野は、【たとえ社会的地位や経済力があったとしても】を基にした推測だなと思った。
「早速父親に連絡して、先方の都合がよければ再度の捜索をお願いしてみます」

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十章  矢野係、本領発揮す(後編)

これほどに苦衷のみが満ちた心情にあっても、両親には決して告げなかった、経緯の一切を。完全に黙していたのは、俊子の死だけでも父母は打ちひしがれているのに、その心の傷に塩を刷り込み苦しみを増幅させるマネなど、とてもできなかったからだ。そっとしてあげることが、せめても親に対する思いやりだと信じたのである。

警察でのあまりの仕打ちに絶望した拓子だったが、数日後、諦めるにはまだ早すぎると思い直した。そこで、
ネットで検索し、大阪で一番大きな弁護士事務所に相談しに行ったのである。人材を豊富に抱えているに違いないとの素人としては当然の判断をしたからだ。
だが現実は、大きければそれだけ経費がかさむいっぽう。景況の低迷が長く続いたせいで収入が落ち込み、経営は苦しくなっていたのである。そこを選んだ彼女にはなんの過誤もないのだが、刑事事件を扱ってもたいした収入にはならないという現実がこの事務所を覆ってしまっていた。高報酬の民事事件のみを扱う偏重主義だけが自らを救いうるのだと。
一件当たりの報酬が数倍から数十倍、高くなるからである。つまるところ、当てられた弁護士は成り立ての若手だった。彼は慇懃な態度ながらいの一番、算盤を弾いたのである。
これで、彼女がどんな風に遇されたか、言わずもがなであろう。
親身な応対のはずもなく、通り一遍、曽根多岐警察署の警察官と大同小異を述べたのである。事務所経営の裏事情に無知だったとはいえ、拓子には不運としかいいようがない。
客に対するまさかの扱い、そのおざなりぶりに拓子は腹を立てた。思わず詰め寄ったのである。「一市民の訴えでは動かない警察を動かせるのは、法律の専門家である弁護士さんだと、そう信じてここに来たのに、どうして何もしてくれないのですか」
「まあまあ」落ち着くようにとの意で、上からの声であった。「残念ながら我々に捜査権はありません。捜査のノウハウに関しても精通していません。また、警察を動かせる手だても持ち合わせておりません」次の言葉を発するまで数秒の間があいた。「これは僕の実感ですが、法律というのは第三者のようなものだと。相反する二者のどちらにもまずは与(くみ)せず、違反や不当行為のなかった方の味方になる。ただし違法を証明できなければ法律は味方してくれません。つまり、少なくとも犯罪行為を疑うに足るだけの証拠がいるのです」

ここでも絶望の壁を仰ぎ見なければならないのかと、悔しさのあまり唇をギュッと噛んだ。次の言葉が出てこなくなってしまったのである。思わず涙がこぼれた。
さすがに気の毒だと同情した弁護士は、「この映像を手に入れることのできた貴女だ、目撃証言だって入手可能でしょう」と。しかし所詮、他人事だった。「たとえばですね」
「言われなくても、撮影なさっていたご夫婦に伺いました」涙目のまま唐突に口を開いた。「しかし覚えていない、というより、男がベルトを持っていたことすら気づかなかったとおっしゃっていました。だからといって諦めきれません。それで、新婚旅行の同じツアーの方を照会してもらいました。でも、結果は同じでした」嗚咽が、喪失感の肩を震わせた。
「……」弁護士は、テーブルに打ち伏した紅涙の美女になす術なく、ただ座視していた。

今度こそ、依(よ)る術(すべ)を全て失ったと肩が落ち、やがて心は凍結していった。だから、大阪地方検察庁に直接行くという知恵は湧いてこなかった。高校卒業と同時に離日したせいで日本の世事に疎く、そこまでは思い浮かばなかったのかもしれない。
しかしどうだったであろう?足を運んだとしても、取り扱ってくれなかったのではないか。殺人と想定できるだけの証拠が希薄すぎるうえに、最重要な同盟国との間で小さな外交問題に発展することは想像にかたくない。三権分立とはいえ、検察の幹部は、《火中の栗を拾う》の愚だとの政治的判断を下すだろうからだ。その判断は、純粋に国益だけを考えてのものではないだろう。検察官自身の立場も考慮したうえでの断となったであろう。
いずれにしろ、拓子の心はぽつねんと果てない闇夜の中、生きる気力などあろうはずなく浮遊していた。身体(からだ)は夢遊病者のように呆け、時間だけがその上を過ぎていたのである。
母親は異変に気づいた、むろん、娘の懊悩の真因を知るわけではないが。優しい言葉を掛け、励まし、元気になってもらおうと陰に陽にあれこれ腐心したのだった。そんな心遣いが功を奏し、また、親に心配を掛けることは不本意と思ったこともあり、食欲は相変わらずなかったが、母親の手料理を胃に押し込むようにして食べ、部屋に閉じこもるのも止めた。そして、母親と一緒に散歩をし、数日後には共に街へ服を買いに出かけたりもした。
元々、本意でなかったとはいえ活動したおかげで、身体だけでなく心にも精気が蘇り始め、数週間後、やっとのことで両親を安心させるまでになったのである。
肉体的疲弊から復活したことで、拓子の萎えきっていた精神に変化が生まれた、総てにヤル気を失っていたことがウソのように。
こうして日にちが経過するほどに、それが頭をもたげ始めたのだ、……復讐心がである。
涙は枯れ果て、水分を失った心に、復讐の焔がメラメラと立ち上がっていったのだった。
別の見方をすれば、理性を消滅させる絶望が心を完全に支配した拓子だからこそ、妹の復讐を誓えたのである。肉親愛という、法よりも情に棹さした結果の復讐心は、法に見捨てられたと思い知ったせいであり、他に手段を、完膚なきまでに失ったせいであろう。

結果の、姉が企んだ復讐……。だが、それは最も邪悪な犯罪であった。
――実行するからには――命を奪うだけでは妹の心の安寧は得られない、と。さらに自分の静謐(せいひつ)も、だった。拓子が死者に鞭打つ恥辱を与えたのは、性欲のはけ口に妹を利用したことに対する報復の意味を持たせ、愛情を裏切った酷薄非情な男だと世間に宣言し、あるいは周知させたかったからだ。それだけでなく、
向後の女性が男選びするうえでの思量の普遍的資料としてもらうためだった。――見てくれや地位などではなく、愛情に対し、あらゆる意味で応えてくれる男を見つけるべし――との、拓子が世間に向け発したこのメッセージは、受ける側の女性の感性が鋭敏なら、きっと伝わるはずと信じた。不幸にさらされる女性は、金輪際、妹までで「もう充分」だ。
俊子をせめても、犬死にはしたくなかったのである。

ところで…、「あっ」と、映像を看視していた矢野たちが息を呑んだのは、一瞬、映った男の顔が、XXホテルでの全裸絞殺体警部の生きているそれだったからだ。

こうして事件は概ね解決した。ただし、矢野たちがもはや知りえないことも残った。

今となっては、憶測や推測しか手はないのだが。ひとつは、妹の恋人を、拓子がどうやってエリート警部と特定できたかである。次に、誘い出した手口、もしくは会うことを強要したときに使った口実の実体だ。さらには、他にも。
以下は、矢野が考え抜いたその憶測である。
映像には一瞬だったが、顔は映っていた。しかしそれだけではどこの誰(だれ)兵衛(べえ)だかわからない。かといって、妹の俊子が拓子に直接伝えたり何某(なにがし)かのメッセージを残していたとは考えにくい。正体を知る手掛かりがあれば、もっと早く殺害していたはずだ。つまり、他に何の手掛かりもなかったから、映像入手後も、復讐までに時間が掛かったのだろうと。

今回もソーシャルメディア、つまりは拓子が得意とするネットの掲示板などを利用したに違いない。人物を特定する手段として、最も効果的だったであろうからだ。

人を特定したい場合、美談に仕立て上げてその恩人を捜しているとでも書き込んだうえで写真を併載し、謝礼をしたい旨でもって締めくくればいい。ニセ情報も多く返ってくるだろうが、なかには有力情報を返してくる人もいるだろうからである。
たとえばこんな作り話。
今は亡き母親が数年前、旅行の途中で財布を失くして困っていたとき、二万円をそっと出して「これ、使ってください」と言ってくれた男性がいた。あまりにありがたかったので、芳名と住所を聞き携帯で写真を撮った。むろん返金と、あわせて謝礼をするために。
時はたち、死の数カ月前、「あのときは本当に助かった」と母親。病床にあって繰り返し感謝していたが、認知症を発症したためにその方の素性を全く覚えていなかった。それからまた時は流れ、やがて初七日が終わった。母親の供養のためにと親族が、再度の謝礼をすべきだと。そこで住所録や携帯に取りこんでいた情報を調べたが、該当しそうなのは見当たらなかった。「困りはてた結果、ご協力願いたく掲載しました。写真を見て、知人のなかにお心当たりのある方、教えていただければ幸いです。どうかよろしくお願いします」

こんな内容を、中(あた)りが出るまで繰り返し掲載すれば、やがてはヒットしたのではないか。もちろん、他の方法を用いてもできただろうが。

いずれにしろ情報提供者のおかげで、時間は掛かったが犯人を特定できたのである。おかげで、エリート警部は醜態を世間にさらす破目になった、地獄に堕ちたあとも、だった。
次の疑問だが、脅しをかけて会うことを強要したとみた。
ステーキハウスでの、卑下したような警部の態度から推して、拓子が発したのは、おそらく脅迫めいた言葉ではなかったかと。当然、最初は電話でである。自宅の電話番号を調べるための口実を、警戒されにくい女性ならばいくらでも用いれたであろう。
「お前が犯人であることはわかってる。ある日本人観光客から証拠映像を入手したから言い逃れはできん。否認するなら、証拠映像を報道機関に持ち込むまでや。けど私もバカやない。そんなことをしても、俊子が生き返るわけやないから。それに、妹を返してくれとも言わへん。ほんまはそう食って掛かり、お前を困らせたいけど…。でも、涙を呑んで、あんたを許してもええとも思う。ただしどうするかは、あんたがみせる誠意次第や。詳しいことは、会ってからにしたいが、あんた、どうする。会うの、それとも会わんつもり」

突然脅迫された警部は、寸刻深慮したはずだ。映像を撮られていたことは紛れもない。その映像所持が事実ならば、転落させるために俊子を誘導した言葉も入っているであろう。公開されれば栄達を含む総てを失うことになる。最悪に堕するに違いない。まずは会って、映像を吟味する。それで、証拠が映っていれば、何としてでも許してもらわねばならない。
だがもしダメだった場合…、警察官にあるまじき蛮行を繰り返したのではないかとも。

こうして対面することとなった。果然、堕地獄への扉に手を掛けたのだ、二人ともが。
さらには、知りえない脅しの具体的内容。つまり、拓子がステーキハウスで警部と交わしていた会話の内容だ。これも、推測・憶測の類いとして部下に語った。

皆は聞きながら、情景を頭に描いた。

「否定すれば、身の破滅を自身に招くことになるわ。だからまずは素直に認めなさい。そして当然のこと、謝罪もしてもらう。両親にも」むろんウソである。両親に、俊子の死の真相を告げるつもりなどないからだ。「そして俊子のお墓にもひれ伏すのよ」
「その前に証拠の映像を見せてください」と、警部は主張したであろう。ハッタリに騙されるのは何としても避けねばならないと思いつつ。
「見せてもいいけど、映像を取り込んだパソコン、ホテルに置いてきたわ。でもコピーだから、バカな考えはダメよ。私に何かあれば、友達が警察と報道機関にマザー映像を持ち込む段取りだから」強気に出ることで証拠映像の話を信じ込ませ、同時に、殺させないための自衛策を採ったとも思わせるべく、聡明な拓子ならこれくらいの巧妙なウソの防御網を張り巡らしたに違いないとも推測した。自衛策云々も、話全体を真実足らしめるためだ。
とにかく睡眠薬を飲ませ部屋にひき入れれば、あとは彼女の思惑どおりに進むのである。
「あんたみたいな奴、相手はどうせ出世絡みなんでしょうね。事件の前に何があったかまでは知らんけど、とにかく俊子が邪魔になった。だからって、殺すことはなかったでしょう!」完璧と思える計画を立てた拓子だ、結婚相手もその目的も調べ上げたとみていい。
それに対し、警部は答えなかった、というより答えられなかったはずだ。殺害を認めることになりかねない、だから、黙秘か忌避を謀(はか)ったに違いない。
拓子は姉として、それでも強硬に追求したはずである。
「何とか言いなさいよっ!」鋭利な視線とともに、声は小さいが先の尖った言を射った。
「予断や当て推量での殺人者扱いは迷惑このうえないです。ともかく、証拠とやらの映像を見せてください」と、警部はあくまでも主張し続け、態度を変えなかったと思う。
彼女も警部の頑なを予測していたであろう。それでも計画を果たすため会話をもたせた。酔わせ、なんとしてもトイレに行かさねばならない。だからだ。「いがみ合ってるばかりだと折角の料理が。それに他のお客も変に思うから、グラスのワイン、飲んで。さあグッとあけましょうよ。お互い、もう立派な大人なんだし」睡眠薬を飲ませるタイミングを作るためには時間を稼ぎ、利尿効果のある酒を度を過ごすほどに飲ませ、尿意をもよおさせる必要があった。「もう一杯いかが。それにしても俊子が大好きになったの、わかる気がする」

酒が、男の不埒スイッチをONにしたかもしれない。この女も抱いて俺の魅力にのめり込ませれば、あるいは軟化するかもしれん、などとバカげた甘い想定をしたとも。

一方、「場合によってはこれを不問に付してもかまわない。あんたが心から悔い改め、命日には必ずお墓参りするなら」くらいのウソの甘言を洩らしたとも考えられる。目的は報復なのだから、それまでは少しでも希望を持たせ、油断させる必要もあったであろう。
以上の推測等に、大きな間違いはないだろうと言った。彼の独壇場であった。
くどいようだが、あくまでも推測でしかなく、もはや裏付けをとることは不可能なのだ。
ところで矢野警部。自らが口にする普段の禁を冒し、それでも推測を披露したのは、事件が一応の解決をみ、冤罪を生んだり、予断や思い込みに陥る心配がなかったことと、長年培ってきた心理捜査法で真理の探究ができることを、部下たちに教えたかったからだ。
彼の心理捜査法とは、事件を起こすのは人間であり被害者もまた人間であるから、それぞれの気持ちになってなぜ事件が起きたのかという動機はもちろん、その背景までに思いを巡らせる捜査手法のことである。
これを応用すれば、犯人特定に役立つだけでなく、身元不明の被害者の人物特定につながったり、凶器の隠し場所捜査など、いろいろな局面で捜査力を発揮できるからだ。そのためには人間観察力や洞察力、想像力などを徹底して養う必要があるのだが。
心理捜査法――むろん、後付けではない証拠の裏付けが必要なことは論を俟(ま)たない。
「そう、まさに報復やった。そやから拓子は絞殺を選択した。妹が溺死、つまり窒息死した以上、同じような死に方で、せめても同程度の苦しみを味わわせ、思い知らせてやりたかった。ホテルの湯船で溺死させたかったというのが、あるいは本音かもしれん。しかしいくら睡眠薬で眠らせているからといって、また手足を縛ったからといっても、非力な女性にはベッドからの運搬は困難だし、相手は若い男性、しかも日頃から格闘技の訓練を積んでいる刑事、まかり間違って途中で覚醒したりすれば逆に自分が大変な危険を伴う」
「なるほど。女性ひとりで、大の男を湯船にまで引きずっていくのは、正直きついでしょう。まして、中に入れこむとなると。女性だとできてもせいぜい、浴槽の縁に上半身をもっていき顔を水中に沈めるくらい。しかしその方法だと、呼吸困難の苦しさのゆえに眼を覚まし、反撃されないとも限りません。両足を折り曲げた位置を利用して蹴りあげられればひとたまりもなく、さらに、もみ合っているうちに、自分の方が床などに頭をぶつけるという不測の事態が起こる可能性もありますからね」藍出も想像を逞しくした。

そして和田のみならず、絞殺を殺害手段としたその理由もなるほどと了解したのだった。
「あのぅ、婚前旅行のつもりだった妹の俊子が」その話題ならすでに終わっているし、タイミング的に鑑み場違いやぞ、というようなことを尋ねてもいいのかなと不安げな西岡だったが、それでも「ベルトらしきものを命綱だと信じ込んだのはわかるのですが」ナイヤガラの滝観光において、溺死に潜む背景に、ある疑問を持ったので、矢野に教えを乞いたいのである。「ベルトが確実に切れないと、あの男は目的を達成できないわけですよね」強い正義感が、全裸で殺害された被害者であり、しかも身内にもかかわらず「あの男」と侮蔑をこめて、この男に言わしめたのだった。
「つまり、こういうことか」矢野は新米刑事に対し、忖度しつつデカとしての力量を測ることにした。「ベルトが確実に切れる工作をどうやってしていたのか。予め切断しておいたベルトを切れていないように、セロハンテープで繋いだのでは…。いや、いくらなんでもそれではバレるやろう、と」こう、わざとボケた憶測を開陳したのである。
「いやぁ、さすがにそれはないでしょう…。僕が思うに、ベルトの切断面に瞬間接着剤を塗布し」
「まあ、そんなところやろ」矢野は、質問の内容もだが、瞬間接着剤を使ったのだろうという、自分と同じ推測をしていた西岡に満足した。「さらにいえば、思惑どおりになるよう、切断面にそれをどれくらい塗布すべきか、何度か実験しその加減を決めたのでは…。僕が犯人ならそうするさかいな」

ところで、矢野も部下たちの誰もが口にしなかった、拓子の血肉の情を一同、秘かに憐れんでいた。犯罪を許すことはもちろんできないが、止むに止まれぬ心情に同情を禁じ得なかったのも真情だった。人情であった。

そのあとのこと。証拠品を返却するにあたり、父親が発した呟くような、沈鬱な声が耳朶から離れることは生涯ないだろうと、矢野警部は心涙に胸中むせながら瞑目したのだった。

その呟き、“拓子が犯人だったと、なんで暴いたのですか!今さら…。あの子も、もうこの世にはいないんですよ。…鞭打つなんて真似をどうして……”というような恨み事や憤りの言ではなかった。胸ぐらをつかむようなこともしなかった。
むしろ、その方が矢野には楽だったかもしれない。しかし事実は。
「私たち、これから、何を糧に生きていけばいいんでしょうか……」

その姿に眼を伏せた矢野は、このとき、掛ける言葉を見つけることができなかった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十章  矢野係、本領発揮す(中編)

翌朝、藤川のパソコンを中心に皆が扇型を描くようにして犇(ひしめ)きあい椅子に座っていた。
拓子の実家から前夜持ち帰ったUSBメモリーに収録されていた秘密のブログを、藤浪の翻訳で聞き終えた直後の情景である。寝耳に水であり、驚天動地の内容に、誰ひとり、声を発する者はいなかった。なぜなら自白だけでなく、ブログには妹殺害の犯人を特定していった経緯も、米・日の警察等で受けたひどい応対についても詳述されていたからだ。
沈黙を破ったのは和田だった。「確かな証拠ですね、菅野拓子が犯人だったとの」さすがに重い口である。「それにしても、動機が妹の仇討ちだったとは…。意外でした」
しかし、恥態を曝したまま絞殺された警部が拓子の妹の仇だったというのは事実なのか。拓子の思い違いの可能性も、今の段階では否定できない。当然、検証する必要があった。
のみならず、じつは検証すべきことが他にも存在したのである。
「妹と二人だけの写真の裏にこれを隠していたのは、仇討ちしたことを暗黙のうちに妹に伝えたかったからでしょうか」フェミニストの藍出が続いた。
「おそらくな。プラス、他にも理由があるとみてる。妹の死の背景(俊子は婚前旅行と思っていたが、厳格な父親はそれをふしだらとして許さないだろうゆえ)と仇討ちを果たした件を両親には知られたくなかった、辛く酷(むご)いだけでなく、一層悲しむからな。それで、万が一見つかったときのために英文にした。さらには、鎮魂としての意義と秘密の共有のためもあったかもしれん」矢野の暗い声は小さく、そして明らかに打ち震えていた、悲しみと怒りでだ。その怒り、じつは自分たち警察にも向けていたのである。
ところで、動員された二百人近い警察官を手玉にとって迷宮入り寸前にまで追いこんだ拓子だ。怜悧でないはずがない。それほどに聡明な彼女がブログにあったように、捜査依頼を結実させようと涙ぐましいほどに精一杯の言動で説得し、なんとか妹殺しの捜査をと必死で懇願したのである。また、真相究明のために東奔西走もしたのだった。
一方、記述は虚偽で、それをブログに残したとする見方も可能ではある。が、虚偽を残す理由など皆無であると矢野。彼女は、ひとに見せるつもりなど全くなかったからだ。
さらには拓子のことだ。説得に失敗しても諦観を排し、警察が捜査を開始するための方途を考え抜いたに違いない。また、働きかけもしたであろう。それは、想像以上に孤独な闘いではなかったか。矢野警部は、彼女のひたむきで健気な姿を思い浮かべたのである。
だが警察という組織は、ついに、被害者家族の懸命の声に耳を傾けることをしなかった。
絶望に堕する扱いをされ、日ごと夜ごとのぼうだの中、諦めざるを得なくなった。最悪の事態にもはや、腹をくくるしかなかったのである。結句、復讐以外に、鎮魂の手段は無くなってしまったのだった。そしてまごうことなき、最悪の結果をもたらしたのである。
それでも復讐以外の選択を考えなかったのか?と問えば、大切な肉親を殺されていない人の質問だと即座に答えたであろう。察してあまりある被害者家族の憾みが、矢野なればこそ心に痛かった。
ともかくも、警察は仕事をしなかったのである。それが口惜しいのだ。そのうえで、被害者家族を犯罪者にしてしまい、さらに犠牲者まで出したことに、激憤したのである。
「曽根多岐署に問い合わせてもいいですか。こんな通り一遍の応対をしたとは考えたくないですが、今日までの警察一連の不祥事を具(つぶさ)にすると、拓子が虚偽を記したとはとても…」藤浪が、憤怒を押さえて提案した。藤川をはじめ、矢野係の総意であった。
「そうしてくれ」矢野は当然だと即答した。「それから、藍出はこの動画を“こば”さんに頼んで解析してもらってくれ」と、件(くだん)のUSBメモリーを手渡した。
その“こば”さんとは、鑑識課の係長、小林繁男のことである。

小林を指名したのは、多少の無理も聞いてくれる信頼関係があるからだと、藍出は認識している。そして彼は、どこを解析してほしいかもわかっていて、それも伝えるつもりだ。

ところで「この動画」だが、ネットの掲示板やツイッター等を活用したおかげで情報を収集できたと秘密のブログに記している、妹の転落前後の周りの声や転落後の証拠映像を指していた。拓子はこれを根拠に妹殺しの犯人と断定、警部を全裸にし復讐したのだった。
だからおそらく、いい加減なものではないはずだが、映像や音声に不鮮明な個所があるに違いないと。冒頭を見ただけだが推測するに、観光客が市販のハンディカメラで撮影しているだろうからだ。それをそのまま事件の証拠とはしたくなかったのである、海外でのこととはいえ、一度は事故死として処理された件をひっくり返さねばならない。疑惑を差し挟めないほどに確かな証拠でなければならない、矢野はそう考えたのである。

一方、星野はこのあと、府警本部長室にて事件解決の目途が立ったと経過報告をした。

犯人逮捕には至らないが、事件解明ということでマスコミ発表できそうだと、本部長は納得七分目で黙って聞いていた。ただし、犯人がすでに死亡しているため、被疑者死亡で大阪地検へ書類を送致するしかなく、それで一件落着となる。

「菅野のブログにあったとおりでした」藍出は、息を切らしながらデカ部屋のドアを開けるなり叫ぶように言った。それから、「うちの係には便宜をはかるようにとの通達が本部長から鑑識にあったらしく、いの一番で解析してくれました」と小さく付け加えた。

ところで菅野拓子だが、名の通った映像製作専門学校卒業後、反対を押し切って映画作りの本場ハリウッドに身ひとつで渡った。そのための準備は万全で、少しも弛(たゆ)まなかった。
まずは、高校生のときから英会話力習得に励んだ。専門学校での成績も常にトップだった。在籍中に専門学校のつてを使い、ハリウッドにある大手のCG製作会社への就職希望も伝えてもらった。卒業の半年前、力量次第では採用するとの返事までもらっていたのだ。先方が提示したハードルの高い実地試験をクリアした結果、念願が叶い渡米したのである。
就職後、彼女は仕事に専念、というより没頭したというがまさに相応しく、おかげで四・五年ですでに中堅クラス以上の腕前になっていたと、父親は涙ながらに語っていた。

例の、死者を冒涜するためのAVまがいのCG映像は、彼女には朝飯前だったに違いない。また、CG-ARTS協会が主催するCGエンジニア検定試験一級合格者リストから、被疑者として浮かび上がってこなかったわけだが、矢野も和田もこれで得心がいった。彼女が腕を磨いたのは本場であり、上記の試験すら受けていなかったのである。

そういえば、菅野からの予約を受け付けたXXホテルのフロントクラ-クが、米語なまりだったと証言していたが、これも肯けた。
ただし矢野だけは、フロントクラ-クの証言や調書の検定合格者リスト云々などから、父親の述懐の前に、その可能性をすでに推測はしていたのである。
CGの本家本元は、なんといってもハリウッドなのだから。

十四の眼が凝視している解析された映像には、ナイヤガラの滝がはっきりと映っていた。
菅野拓子の妹俊子が川に転落する時間帯、そこにいた日本人観光客がハンディカメラで収めていたものだ。新婚旅行で来たカップルらしいことは、交わされている言葉でわかる。直前までは、当然ながら新妻と背景のナイヤガラの滝を写していた。さらに、別の男が発した日本語も入っていた。その部分も解析され、別物としてテープに収められていた。
この、聞き取りやすくなった声を矢野が耳にするのは、少しあとになる。
ところで藍出が先に鑑識で知ったその内容とは…拓子が殺人事件だと警察に強く主張した根拠となる言葉であった。つまるところ、俊子に(ナイヤガラ川への落下防止用)柵を跨ぐよう、男が指示しているものだったのである。声は、カメラの左側を発生点としていたが、それがじつは大事な要素であった。誰のであったかを高い確率で推定できるからだ。
男が指示する声から二十秒後、突然、
背筋の凍るような、若い女性の金切り声が響き、カメラはその方向、左へ十五度ほど角度を変え転落直前の叫びの発声点に向けられた。その地点に寸前までは人がおり、今は存在しないことが続きの映像で判断できた。観光客が皆、激流に向って指をさす姿とそれらの男女が入り乱れるように叫ぶ英語・日本語・他の外国語の興奮の声が収まっていたのだ。
崖から落下した俊子が川に呑み込まれた直後の状況を撮ったものであることは間違いない。拓子はそう解釈した。微かに、水しぶきの発生音も入っていたからだ。

直後、一人の男の背中が画面の左側を占めることとなる。撮影者の左側に立っていて、そこから前方へ移動したからだろう。一瞬だが、背中が走っていった。右手首には、用無し扱いのカメラがぶら下がって揺れていた。いやいやをしているようにみえた。二秒後、他の観光客を押しのけ、崖に設置されている柵に対し何かをしているようにも見てとれた。短い時間だが、両手がゴソゴソ動いているふうだったからだ。しかしそれは、拓子の隠しブログの記述に影響を受けた観察といえなくもない。なにせ、男の後ろ姿が撮影角度的に死角を作り、男の行動をそうだと断言できる状態にはなかったからだ。そのあと振り返った男の右手に、幅4センチほどの黒くて長いものがとぐろを巻くようにして、あった。
その物体は、拓子のブログによると、“男のベルトに違いない”だった。
ところで一瞬だったが、ふり返った男の顔が彼らの眼に留まった。カメラを向けられていたことに気づいたのだろう、男はすぐに顔を伏せて隠したのだが。
「あっ!」皆が息を呑んだ。その顔には全員、見覚えがあったからである。

じつは妹俊子の、この転落の時間帯、拓子はハリウッドにあるCG製作会社の一室で仕事をしていた。ようやくその日の仕事を終えての帰宅後、事故と断定した警察発表を、“観光客ナイヤガラ川転落”の続報として、テレビニュースによって初めて知ったのだ、自宅のリビングでテイクオフの中華を仕事疲れの身体が食べながら。
ちなみにこの時点では、転落者の遺体はまだ発見されておらず、氏名は当然わかっていなかった。翌日、溺死体として発見されるのだが、数分程度の検視のみで解剖にはまわされなかった。すでに、事故として処理されていたからだ。
もし検死解剖していたら、俊子が妊婦であったことを姉は知ることになったであろう。
由って拓子は、男の殺害動機を推測できたに違いない。結婚を迫られ続けたからだと。
ついでにいうと、海外からの観光客の事故だから、まさかその姉がロスにいるとは、地元警察も思っていなかった。彼女に連絡がいなかったのもいた仕方なかったのである。

ときに、このニュースを見た途端、拓子の箸がピタッと止まった。
(非科学的と揶揄(やゆ)する向きもあろうが)きっと虫の知らせや、と姉は信じた。たった一人の可愛い妹のことは、太平洋をはさんでいても片時も忘れたことがない。そんな俊子が、
婚前旅行と称し渡来した。幸せ満身の妹が彼と、今日はナイヤガラの滝に来ていることも知っていた。出発一カ月前から何度か、その旨をメールで送ってきていたからだ。関空からも送信してき、ロス経由バッファロー行きの到着時間、ナイヤガラ観光等も書かれていた。そのあと、ニューヨークでの観光を済ませたら、彼を紹介するために“ハリウッドに行くから待ってて。それまでは彼の全貌、一切、内緒ね。サプライズとして楽しみにしてて”ハートマークで締めくくられていたのだった。
――姉の私が嬉しくなるくらい、本当に幸せそう――と、拓子までがフワフワになった。
そんな浮かれの極みの俊子が、まさか最悪の奈落に墜ち、濡れネズミで果てようとは。
論理ではなく、拓子はそうとした。一方で矛盾と自覚しつつ、受け入れ難くあり得ないと否定したいのである。だいいち、根拠が薄弱だ。が、それでも涙の確信をしたのだった。

ときに、拓子という女性は元々、《虫の知らせ》なるものを信じる質ではなかった、にもかかわらず、刹那、感じたのである、妹の弱々しい声を。――私の亡きがらを引き取りに来て――との妹の悲痛が、耳の奥底(おくそこ)で直接響いた気がしたのだった。

心は千々に乱れ、――そんなはずない!――と否定する、こちらも根拠ない楽観として。それで思わずテーブルに置いていたスマフォを手に取ると、震える指で妹を呼び出した。
電源が入っていないとの応答が虚しく返ってきただけだった。倍加する不祥。
嗚呼。しかし今、いくらここで案じていても埒があかないと、震える指で地元警察に問い合わせた。だが夜間の捜索は、二次災害のおそれがあるだけに実施しておらず、由ってニュース以上の情報を警察としても持っていないと言下に。
他方、確証がないために警察に向け、転落者が妹だとの断言もできず、全てが中途半端なまま電話を切るしかなかったのである。

食欲がすっかり失せた拓子は睡眠導入剤を普段の二倍噛み砕き、とりあえず、今は眠ることにした、取り越し苦労だと、心配症のもう一人の自分に無理やり言い聞かせながら。
翌朝早すぎる出社をし、担当している仕事をこなし始めた。かたがつき次第、《虫の知らせ》の実体を調べるつもり、なのだ。心に浮かび上がった、根拠なき確信が事実かどうかをすぐに調べなかったのは、確証もないのに仕事を放擲するわけにはいかないからである。
つまり、今日木曜朝ぼらけの出社は、遠く数千キロメートル離れたナイヤガラに行く時間を捻出するための精勤であった。
託された木・金曜の担当分を完遂し、気づくと窓の外はすでに暗かった。同僚はもはや数人しか残っていない。そんな彼らに声を掛けることもせず、ガチガチに固まった肩と首をまわしながら、ただひたすら会議室兼休憩室へ急いだ。ともかくもテレビをつけ、二十四時間報道番組に切り替えたのである。
画面に映るニュースの内容とは全く別の報道が、テロップとして次から次へ画面の下を流れる中に、疑心暗鬼だった拓子を悶絶させるニュースがあった。
ナイヤガラ川の滝よりも下流から溺死体があがり、服の下に着けていた貴重品入れから出てきたパスポートによると、【菅野俊子、二十五歳と判明】がそれだった。

悪魔がもたらしたのごとき《虫の知らせ》が、最悪の現実となってしまったのだ。「うっ」未経験の衝撃に打ちのめされ、のどが詰まった。「嗚呼」という痛嘆の呻きは、そのせいで洩れることはなかった。ただ息を呑んだまま、意識が遠のいてしまったのだった。
失神した身体がイスから崩れ落ち、音を聞きつけた仲間が何ごとかと駆け寄ってきた。
介抱され、ようやくのこと我に返った彼女は、わけを訊かれてもただただ泣きわめくしかできなかったのである。

懇願して、地元警察が事故死と判断した、その映像を見せてもらった。米国人観光客の一人が撮っていた映像だった。事故とした判断理由の説明は、映像を見ながらであった。
ちなみに、拓子のUSBメモリーに収められていた映像とは、当然違っていたのである。だが、矢野たちがこのことを知るには、《蚊帳の外》過ぎた。結局は、この映像を見れなかったわけだが、しかし、事件解決に影響を与えるものではなかった。
――普段から慎重な俊子が、柵を跨ぐだけでもあり得へんのに、まして川側に身を反らすなんて、信じられへん!――
こちらの映像(ナイヤガラフォールを撮影していた米国人観光客が、叫び声のした右方向へ角度を変えたもので、俊子の恋人とおぼしき男の背中は画面の右側にあった。撮影者の右隣にいたからであろう)にも、さきほど藍出が聞いたのと同じ声が入っていた。当然ながら、こちらは右側から収録したものであった。
聞いた瞬間、拓子は確信した、殺人だと。妹が川に落ちたのは、恋人の欺きの指示に従った結果だったと、拓子は向かいに座を移した白人警察官に懸命に説明した。
が、映像からの言葉を理解できない地元警察署員は、突然やってきた東洋人の言をまともに聞く気などないというような応対で終始した。二日も前に事故死で処理した件である。なにを今さら、なのだ。
それでも、妹の連れの男が姿を消しているのは「おかしいではないか」と強く主張した。加えて男が妹との婚前旅行で渡米した恋人だと、スマフォを取り出しメールをみせた。
だが、地元警察は見解を変えなかった。「日本語を知らないのだから意味をなさない」とうそぶき、男の声が恋人のだと証明できるのか、そう開き直ったのである。黄色人種の、しかも感情的になった若い女の主張に耳を貸すつもりなど、端(はな)からなかったということだ。
「ならば近郊の、二人が泊まったホテルを調べてほしい。カップルだと証明できるはずだ」
「言われなくてもロッジ等も調べたよ。けど、昨日ユーが言ったトシコ・スガノの名前の宿泊客を泊めたところはなかった。別の町で泊まりまたそこに帰る予定だったのでは?」
頑として、事故死を既定の事実とする白人警察官。もはや捜査するつもりはないと言わんばかりだ。それでも拓子は怯(ひる)まなかった。「現場にあったはずの荷物や妹が所持していたスマフォが消えたのも、連れの男が持ち去ったからとみるのが自然ではないか」と詰め寄ったのである。姉として必死だった、妹の無念を何としても晴らしてやりたいと。
にもかかわらず、「置引きだと、アメリカ人なら誰でもそう考えますがね」と。耳を貸すまいと頑なになるのは、じつは、裏事情を公にはできないという本音が存在したからである。観光地として潤う地元としては、殺人事件を認めるわけにはいかない…これに尽きた。

真実よりも利益を優先させる地元警察の巨大な壁に、別の見方をすれば白人中心の、いわば米国そのものに対し、それでも粘りに粘り、孤軍奮闘、説得に徹しに徹したのだった。
だが拓子は、ますます固陋となる巨大な白い壁に、ついには抗しえなかった。ほんの一ミリの前進もさせることができなかったのである。

努めて冷静だった拓子もついには感情が昂り、大声でわめき罵倒してしまったのである。それが地元警察を一層頑なにしたのだろう、見せてもらった映像のコピー要求さえ、個人のプライバシーを盾にはねつけられたのだった。
やり場のない怒りを唾として、署の壁に吐き掛けたその口で、マスコミにも同じ主張を初めは大人しく展開した。が、地元新聞もテレビ局も冷淡だった。
観光産業がスポンサーになっている事情を勘案するほどの、そんな冷静さを彼女はもはや持ち合わせていなかったのである。
結局、梃子(てこ)でも動かない白いアメリカに対しては、諦めざるを得なかったのである。

彼女は日本の警察に活路を求め、帰国することにした。八年ぶりであった。
荼毘(だび)にふされた妹はその前に、慟哭の両親に付き添われ、沈黙の帰国を果たしていた。
遅れて実家に着いた姉が、荷物を解くのも忘れ真っ先にしたこと。それは仏前で泣くことではなかった。滂沱(ぼうだ)と流し尽していたからである。妹の部屋へ行き、ネットの携帯対応掲示板(携帯やスマフォとも連動したインターネットの電子掲示板システムのこと)やツイッター等に書き込みしたことだ。

菅野俊子がナイヤガラ川に転落死した前後の映像を、姉として検証したいので有料で転送してほしい、そういう内容だった。祈るような想いで、転落と同時刻に居合わせた世界中の観光客に訴えかけたのである。が、この行動が幸だったのか、あるいは次の不幸を生んだのか…。

翌々日、――心中お察し申し上げます。映像を送らせていただきます。メアドをお教えください。妹様のご冥福をお祈り申し上げます。なお、謝礼の件は気になさらないでください――との、良心的な電子メールが届いたのである。そして肝心の映像が届いたのは、その翌日のことだった。ただし、プライバシーに当たる部分を削除したものであったが。

拓子は、震える指で操作し映像と音声を検証した、微細に至るまで決して看過すまいと。
そうはいっても肝心の映像は画素不足のせいか、細かいところが不鮮明であった。音声も、瀑布が発する音響や観光客の声などの雑音で、肝心の音声が聞き取りにくかった。
それで、大阪市内日本橋の電気屋街で購入可能な機材および彼女が培ってきた技能を駆使し、映像と音声の鮮明化に取り組んだ。執念で、だった。

転送してくれた映像(鑑識の小林が解析し矢野たちが見た映像のマザー)は、ナイヤガラで拓子が見たのと逆の方向へレンズを移動していた。それで、転落者の行方を目で追おうと柵から身を乗り出す観光客を押しのけた男の後ろ姿が、画面の左側に映っていた。彼女にとって欲しかった情報を、おかげで入手できたのである。

問題の男、柵に向かう以前は右手に何も持っていなかった、手首にハンディカメラをぶら下げていたが。にもかかわらず黒いとぐろを、帰りの手は握っていた。この黒いとぐろを、拓子はズボンのベルトと推測した、しかもそれを使い未必の故意の工作が施されたと。
ところで、彼女が米国で切歯する破目に陥った原因の一つ。それは、ナイヤガラの地元警察で見せてもらった映像の限りでは、往路で男が黒いとぐろを右手に持っていなかったとは言い切れなかったためだ。柵へ走る男の右手が映っていなかったからである。
それでも地元署で見た映像で、「柵に取りつけたベルトをしっかり握ってれば安全やから、(ナイヤガラ川への落下防止用)柵を跨げ」などという、恋人が発した誘導をすでに聞いており、そこから導き出した推測をナイヤガラの地元警察に必死でぶつけたのだった。
しかし、取りつく島もなく却下されてしまった。彼らにとって都合のいい理由はいわずと知れていた。意味を理解できない日本語の百万遍より、万国共通の《百聞一見にしかず》にこそ説得力であるのだと。映像に、たとえ一瞬でも背部の右手のベルトが映っていれば、姉の主張を認めたというのか。だが、映っていなかった以上、いかんともしがたかった。
右手が映るのは、男が振り返った以降である。地元警察は、だからベルトだとしてもそれを往路において持っていなかったとはいえず、従って立証不可能だと主張し、結果、門前払いにしたのだった。

むろん拓子は、署員が「インパッシブル」の言葉を残し立ち去るまで食い下がった。「右の手首にはビデオカメラがぶら下がっていたでしょう、ということは右手でカメラを操作していたとなる。それなのにベルトを持てるでしょうか?」どうやという顔で係を睨んだ。
「小走りする前に持ち替えたのかもしれないね、ベルトを左手から右手に。理由まではわからんが」発言は金剛石のように硬く、黄金のように変質しなかった。

ところで、なぜこれほどまでに、往と復での手中のベルトの有無を問題にしているのか。
それは、男が具体的に指示する言葉を、鮮明ではなかったが確かに聞いていたからだ。「俊子、ベルトをしっかり握って絶対に離すなよ。体半分が柵の外に出ても、そのベルトを握ってる限り、絶対に落ちひんから。もっと体を反らし。折角の大自然をバックに、綺麗な俊子をカメラに収めてるんや。頼むから、普段とは違う自分を出してくれ。そやそや、なかなか決まってるで」拓子はつまり、命綱代わりに使っていたベルトだと主張したのだ。
そしてその…、【身体を預けていたベルトが切れたのだから】で絶句していた。
俊子が転落したのは必然だったとしているのだ。未必の故意を主張したのも当然だった。

ところで既述したとおり、地元警察には日本語を理解できる警察官がひとりもいなかった。だから、証拠として採用するのは無理だと、徹頭徹尾、開き直ったのだった。

そういう、非道で理不尽な経緯があり、拓子は、日本の警察を頼る以外なかったのである。もっといえば、そこにしか、もはや望みを託せなくなってしまっていたのだった。
「なるほど。妹さんと男の関係も、ベルトを命綱代わりにしていたことも、疑う余地はありませんね」
さすがに同邦の警察やと目を潤ませた。が、期待を裏切らなかったのはここまでだった。
「しかし、ベルトに切り込みなどの細工があったと確認しないことには、殺人事件だと立証できません。あるいは妹さんが、ナイフか何かでのけぞるよう強制されていたのならば話は別ですが。しかし僕には、恋人の悪気のない指示に従っていたとしか受け取れません」中年の警察官は、風貌からも仕事熱心には見えなかった。「おそらく検察も、未必の故意での殺人だとするのはもちろん、それを立証するための捜査にもゴーサインは出さないでしょう。となると、過失があったか、つまりは過失致死を問えるか、ですが、安全性の確認は、いわばお互い様でしょう。男が一方的に責任を問われる状況にはありませんね」
結局はアメリカの警察と同じかと思ったら、だんだん腹が立ってきた。むしろ、裏切られたと思ったから、よけいにだった。湧き起った憤怒を抱えたまま、すぐさま反論した。「男のベルトなら、男が責任もって安全かどうか調べるのが当然でしょう!」
「見せて頂いた映像では、男物だとは断定できませんし、言葉からも断言できません。妹さんのものでないと証明するためにも、証拠のベルトを見つける必要がありますね」警察官の態度はさきほどから同じで、いたって冷静だった。いや、冷淡であった。
――男が処分したに決まってる。見つけるなんて不可能や!――と怒鳴りつけてやりたかった。アメリカで受けた忘れがたき仕打ちが、怒りの焔(ほむら)を増大させる燃料や酸素供給源となっていたのである。だが、さすがに止した。怒らせてもひとつも良いことはないからだ。
大きな深呼吸をゆっくり数度、増大する怒りをそうやって少しでも冷やすことに努めた。

ところであろうことか、警察官はこの間、今日の昼食を何にするかで迷っていた。所詮、――面倒なことには関わりあいたくない――のである。
そこまではわからない拓子は唐突に、「いや」と鋭く言い放った。このたったふた文字に、相手の言い分に対し全否定を込めたのだ。「見つけるなんて無理です!それにどう考えてもやはり男の責任です。妹の本意ではなくまして率先しての行動でもありません。一方的に男があんな危険を強いたのだから、未必の故意に当たるはずです!」自分の口から出た言葉なのに、吐き出したあとの腹の中で勝手に増幅し、怒りがたぎる寸前に達した。しかし残っていた理性がなんとか押さえつつ、「お願いです。調べてください。でないと、妹は全く報われないまま、苦しみ続けるのです」溢れ出る涙とともに、必死に訴えたのである。
にもかかわらず、「妹さんが亡くなったのですから、ただでは済まさない気持ちもわかります。ですが二十五歳の大人なら危険だからと拒否する、そんな判断もできたはずです」またも、肉親の苦衷や悲嘆に寄り添おうとはしなかった。「結局は求めに応じた、ですよね」
と言われたのには、正直、認めたくはないが一理はあると思った。それで、しばし言葉に詰まったのである。
そんな心の隙を、担当官が衝いた。「だから、男を一方的に責めるのはどうかと。まして未必の故意云々といわれても、さきほども申しあげたように何の根拠もない状態では動けません、我々警察としては。なぜならば、動く以上、税金を使うわけですから」
まるで他人事のような警察官の態度に情けなくなり、反論の言葉をしばし失っていた。
「それに、妹さんが慎重な性格だったなら、事前に正常なベルトだと確認していた可能性が高い」だとしたら、過失致死罪の立証も難しいと言外に告げた。安全性確認という行為は、とりもなおさず柵を跨ぐことの危険性を認識していた、そう解釈できるからだ。

強硬な拓子も、妹ならベルトの安全を確認したはずと認めざるを得なかった。だが、人生の夢にひた走ってきたせいで恋をしたことのない拓子は、女心の微妙を見落としてしまっていた。約八年間会っていなかったことも災いしたかもしれない。俊子の心裡がわからなかったのだ。
安全確認が愛する男を疑うことに通じ、ひいては嫌われるのではないかと、妹はそれを恐れたのだった。それに、愛してくれている自分に危害が及ぶようなことを万が一にもするはずがない、ましてカレの子を宿している自分に、そう信じたのである。
「こんなことを言うのは僕も辛いのですが、以上の理由で、妹さんも納得済みの結果の、“事故”と判断するしかないのです。それとも、強要されていたとでも主張なさいますか?」応対した警察官は切り口上であった。いや、拓子にすればむしろ挑んでいるような、もっとはっきりいえば、「証拠を持って来い」と突き放しているような冷酷さを感じたのである。
同国人なら親身になってくれるはずとの当てがはずれた反動は大きかった。だから「そこまでは」のあと、口ごもったのである。拓子は、日本の警察からも否定される事態を全く想定していなかったのだ。それだけに…、単なる落胆では済まなかった。
無言になった拓子を前に、担当者は警察官の職責を果たそうとしたのか、「証拠品としてそのベルトを押収できれば、まだ捜査のしようもあるのですが…。お気の毒とは思います。が、我々としては手出しのしようがないのです。たとえば」それとも、さすがに悄然とする女性に対し、酷なことを言ったと反省したのか、アドバイスのつもりなのか、「確たる目撃者、あるいは殺人を証拠立てる何かを提示して頂ければ、当方といたしましても新たな対応をする用意があります」または、打ち萎(しお)れる女性に対する慰めなのか、そう補足した。
しかし、拓子にとっては補足になどなろうはずもなく、「殺人の証拠?…もしそんなものがあれば、現地警察も殺人事件として取り扱ってくれたでしょう」地元警察と大同小異のおざなりな応対に、先刻までは憤怒だったものが、悲嘆からやがて無力感へと徐々に変貌していきつつ「何の権限も組織力もない私にできることは全て致しました。微かな疑惑でもそれを追及するのが警察の仕事ではないのですか」涙声をふりしぼりながら言った。「それに、怪しいとは思いませんか。恋人が川に落ちたのに、心配もせず姿をくらますなんて。現に、他の観光客は警察を呼べとかレスキュー隊に連絡しろとか叫んでいるのですから」
「お気持ちはわかりますが」
――気持ちがわかるなんて。なんで軽々しく言えるんや――そうぶつけてやりたかったが、必死で抑えた。相手も人間だ、感情を害させてしまえば、頼む側にとって不利益になるだけだと。いま何が何でも促さねればならないのは、捜査を決断させることだった。
「客観的にみて、残念ながら怪しいとまでは言い切れません。もし相手の男が妻子持ちだとしたらどうでしょう。関係を隠したいと思うのでは」と冷淡のまま、ひとつ咳払いをした警察官、「あるいは、…こんなことを申し上げては失礼かと存じますが、世間によくある事例で申しますと、片一方の独りよがりといおうか、妹さんは純粋なだけに恋人だと思い込んでしまった。しかし男にすれば遊びでしかなかった。それならやはり、荷物を持ってその場から逃げるでしょう。まあそんなわけで…。もう一度、証拠を見つけたうえで来署頂けませんか」関わりあいを避け、この場を終わらせたいとの心情を露わにした。
拓子の要望を容(い)れて事件化に肩入れするとなると、まずはアメリカ地元警察の協力を仰がなければならない。加えて、協力と一言でいっても、人的・物的両面の全面的協力を得られるよう、地元警察と交渉しなければならない。
しかし、それが極めて困難なのは自明だ。彼らはすでに事故として処理し、そう見解を発表した。しかもメディアを通じ世界に向け発信したのである。これが覆ったりすれば、地元警察は面目を完全に失う。そんな、恥を世界に曝してまでして、有色の異邦人のために事件の可能性を認め、しかも協力までするだろうか。だから、府警の警察官の立場で、事件と確定もしていないのに、《火中の栗を拾う》のは避けたいと思うのもしかたなかった。
「……」拓子は全く言葉を失った。もはや何を言っても、国家の都合や威信という厚い壁に跳ね返され、個人の切なる願いなど簡単に蹂躙されてしまうからだ。
失色の唇が凍った。が、蒼ざめたのは顔だけではない。鉛と化した心もだったのである。
落胆程度ならまだ良かった。微かだが、希望を持てたからだ。
乗り越えられない絶壁を前にもはや歎息すら忘れ、途方に暮れてしまっていた…。否、この程度では、心情表現としてまだ適格ではない。さらにいえば、失望とも違っていた。
ただ張っていた気持ちが微かな残滓としてあったぶん、その場ではなんとか立ち上がることはできた。とはいえ、何も考えられないほどに頭が混乱しており、そして絶望したのである。それだけだった。次の瞬間、気の停止が身体に出た。貧血を起こしたのである。
「グワ」とも「ガッ」とも、得体のしれぬ奇妙な声が洩れた。急激に意識が混濁し、その場にて気絶してしまったのである。曽根多岐署の床は、ことのほか冷たかった。しかし、奈落に堕ちた拓子はそれを感じ取れる状態には、すでになかった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第十章  矢野係、本領発揮す(前編)

藤浪以下四人で、その建物をぐるり固めていた。逃亡させないためだ。夜も九時半をまわると少し寒く感じられた。空が晴れ渡っているせいかもしれない。無風でよかったと皆思った。そこは、古びたワンルームマンションの角部屋に当たる201号室であった。
しかし目指した名前と表札は違っていた。それで念のために、和田は居住者に当たってみることにした。町会からのお知らせとウソの来訪目的を告げた。出てきたのは冴えない中年男性だった。警部補は適当なことを言いながら三和土(たたき)をみる。男性用だけで、女性用の靴はなかった。それでも、女性が住んでいないか、それとなく部屋の様子を窺い、香水の残り香などがしないか鼻を利かせてもみた。しかし気配は全くなかったのである。

こうなるともう、訊くにしくはない。「じつは人を捜しているのですが」柔和な笑顔を作った。「この部屋に以前、菅野という名前の若い女性が住んでおられたはずですが、ご存じないですか」ここはウソをつかずズバリ。反応を見るためだった。隠し事をしていれば、表情、特に目の動きに表れる。正面から男に視線を注いだ。
「ここに移ってきて三カ月ほどですが、そんな名前の女性は知りません。若い女性ですか…」近ごろはとんと縁がありません、そう言って小さな自虐笑いをした。
ウソをついているふうには見えなかった。
辞すると、同マンションの一軒一軒、和田と藍出は念のために表札を確認した。ダメ元と割り切っていたが、案の定、該当者名はなかったのである。

同刻、星野と矢野はデカ部屋にて、報告を待っていた。
その住所に、ホテルからのファックスにあった名前の女性は住んでいないとの報告を聞いても、被疑者となった人物のその後に起きた出来事を、星野も矢野もまだ思い出せないでいた。ただ、聞いた微かな記憶が二人ともに、あった。そこで二人はともに頭の中で、菅野拓(ひろ)子という名前を繰り返し呟いてみた。だがどうしても思い出せなかったのである。

ところでこの二人、掛け値なしで優秀に違いない。だが、さすがの彼らとて失念していた、菅野拓子自身に起こった件自体を、である。というより失念していたのは、転落死した女性の名前だけだったのだが。もっと正確にいえば、この時点においてもまだ、転落死した女性と菅野拓子という名前が結びつかなかったのである。
というのも、いくら優秀とはいえ、常に別件を担当している身だ。日々忙しかったのだから仕方がない、いや、ピンと来なくて何の不思議もないのかもしれない。
しかしこのあと、矢野は自分の甘さを心密かに責めることになる。愚鈍だったと自身の不明を、隠れて恥じた。車中で、親父さんがヒントを与えてくれていたのである。にもかかわらず、だ。いくら今日が、先妻貴美子の祥月命日で感傷的になっていたとはいえ。さらには夭折の人生、幸少なかったのではないかと胸を痛めていたとはいえ。彼は自分に厳しい質で、感傷のために、平常心や冷徹さを失ってはならなかったと、きつく戒めた。

それはそれとして、彼とて生身の人間だ。いつもの警部でなかったとしても致し方ない。

とりあえず、撤収を和田に指示した。「その前に、入居者募集のチラシが貼ってあれば…」
「ベタベタと壁に。そこに書いてある連絡先、ですね」つうと言えばかあ、さすがである。
個人名だった。すぐその番号に掛けたところ、出たのは同マンションの大家であった。

矢野は身分を名乗り、用件を伝えたのである。

ものぐさな老人(さもあらん。マンションの廊下や階段に綿埃が溜まっていたのである)だったおかげで、入居者ファイルに菅野拓子のものがまだ残っているとのこと。

帰省先は空欄だったが、保証人・緊急の連絡先は同一人物で、菅野拓造とあった。
大家は、名前から父親だろうと推し、故人の荷物引き取りを依頼したと矢野に告げた。今流行りの遺物整理のプロを使わなかったのは、その代金を大家として支払わなければならないと思ったからだった。だがそんな経緯、むろん矢野に言うはずなかった。
ちなみに転落死翌早朝に一度だけ訪ねてきた刑事は、両親の存在を教えなかったようだ。
そんな裏事情などに関係のない矢野は、故人と聞きやっと思い出した、一年ほど前、階段から転落死した女性の名前を、である。墓参帰りの車中で元義理の両親に話して聞かせた、その件の女性であった。
ところで、矢野が関わった難事件と親父さんの無作(むさ)の一言に接近遭遇があったのはこれが初めてではない。さらには、事件解決のヒントをもらったことも、二度や三度ではない。
それはさておき、大家である老人は父親の連絡先を教えると、入居者募集中なので皆さまにもお伝えくださいと告げ、電話を切った。

執務室の壁に掛けられた時計は午後十時少し前だったが、矢野は菅野拓造宅に電話を入れた。夜分の非礼を詫び、ある事件に関し重要な証拠品あるいは手掛かりを見つけられるかもしれないので、お嬢さんの遺品を調べさせて頂きたい云々、率直に願い出たのだ。
しかしまさか、拓子を犯人として立証するためだとはさすがに言えなかった。

後ろめたさを感じる矢野に、予期しておくべきだった言葉が帰ってきた。
「どちらの娘の遺品でしょうか」悲痛を押し殺した呟きであった。じつは、拓子には妹がおり、がしかし、その俊子も死亡していたのである。親父さんの勘は当たっていたのだ。
にもかかわらず「えっ…」瞬間、「どちらの」の意味を理解できなかった。不明であった。

凍るような沈黙が、遠く離れたそれぞれの空間を支配した。
ようやくだった、元義父の言を思い出したのは。ナイヤガラで事故死した女性と拓子が姉妹ではないか、をだ。直後、この父親は娘二人を亡くしていたと同情したのだった。
同時に、父親の落胆、いや絶望を忖度してしまった。それでかえって、悔みの言葉が喉につかえなかなか出てこなかった。それでもどうにか、心からの哀悼を伝えたのである。

それさえ空しく聞く父親。妻は絶望から身体を壊し、入院していた。この夫婦は、暗黒の世界で心を痛めながら生をただ虚しく長らえていた。哀れ、地獄に生きていたのである。
「できれば拓子さんの物を見せて頂ければありがたいのです」遺品という二文字を避けた。父親の心情を慮(おもんばか)るとあまりに気の毒で、それが、矢野の心に無数の針をつきたてた。
父親は少し迷った。「わかりました。その代わり、線香の一本でもあげてやってください」できればそっとしておいてほしかったのだ。絞り出したようなしわがれ声が痛々しかった。

先方の都合を聞き、「この私がお伺いいたします」と伝えた。

翌晩、藤浪と岡田・藤川を連れて、菅野家の前に車を横付けした。百五十坪ほどの敷地にある築二十年くらいの一戸建てだった。

そのころ、自宅にて晩飯を終えた和田警部補は、ガムテープに犯人が指紋を付けなかった手方を探りだすため、実験を始めるところであった。
小一時間後、紙製だったからこそ付けずに済むことを体得したのである。
ロール状態の紙製は、布製とは比較にならないほど剥がしやすい。そこが味噌であった。手袋のまま、ほぼ未使用状態のガムテープの切り残り部(巻き状態のガムテープの先端)から約二十センチのところにカッタ―ナイフで切り目を入れておく。つぎに、そのカッタ―ナイフを切り残り部に差し込み、ロール側から、そのガムテープを剥がしつつ、犯人はそのまま、仰向けで眠っている警部の口にあてがった。口中にはすでに、本人のトランクスをかまされている。口辺に強く貼り付けるには、カッタ―ナイフのお尻でも使って上から押さえつければよかった。

午後八時。チャイムに応え、仕事を終えたその足で見舞いに寄った病院から帰宅して間もない、スーツ姿の家の主人が玄関ドアを開けてくれた。かの左手には,悲しげな数珠が。
矢野たちが顔に感じた室内からの空気は重かった。そして線香をほの香りとった。ドアの向こう側は閑散としている。一階部だけで三十坪はありそうな家宅にもかかわらず他に人はいないのか、テレビがオフなのか、洩れてくる音声は一切なかった。明かりも、来訪のチャイムを鳴らした直後に点けられた玄関とずっと奥の一室にしか灯されていなかった。

矢野が提示した身分証型の警察手帳を一瞥するでもなく、見るからに疲れた容姿の父親、虚ろな眼が「どうぞ」と招じ入れた。生きる気力がないのか、あるいは賊が突然来襲してき、理不尽このうえなく殺されても構わないとでも思っているのか、異相の岡田を警戒する風でもない。娘二人のところに早く行きたいと本気で願っているのかもしれなかった。
主人が黙って先導した先は点灯されていた仏間で、二人の娘の遺影が飾られていた。やはり、線香が焚かれていたのだった。そして、経本が開かれていたところをみると、帰宅早々に読経し愛娘たちの冥福を祈っていたのだろう。
矢野は、並んだ遺影の、もうひとりの顔にどことなく見覚えがあった。週刊誌か何かで見掛けたように思う。うろ覚えだが、親父さんが言っていたように、ナイヤガラの地で落命した女性ではなかったかと。やはり、親父さんの勘は当たっていた。

他の二人も並んで正座すると、前に座った矢野がまず父親に改めて悔やみを述べた。
岡田と藤川の二人は倣った。
「こちらへ」消え入りそうな声で矢野に、仏壇前に据えられた経机の手前へと座を勧めた。

持参した菊の花束だったが、父親の手によって同様の菊がすでに花瓶に活けられていたので、経机の上にそっと置いた。それから線香立てに火をつけた線香をさし、合掌すると遺影に深く頭(こうべ)を下げたまま黙祷した。二人も続いた。
それを、表情をどこかに忘れた顔のまま眺め、「ありがとうございます。わざわざ、誠に恐れ入ります」と畳に両手をつき、深々と頭を下げた父親。しかし心は虚ろにみえた。

彼らも、神妙で硬い面のまま無言で再度頭を下げた。
それで一連の儀式を終えたかのように父親が、「では」とだけ、あとは立ち上がり二階へ、黙しつつ導いたのである。

開けられたドアの向こうが拓子の部屋だった。
「ここで失礼します。この部屋に入ると辛くなりますので、私は娘たちが待っているさきほどの部屋にてお待ちしております」精気のないかすれ声に変化はなかった。

矢野と岡田は、日記帳の類いを入念に捜した。遺品は整理されていたので探しやすかったが、それでも結局、書棚も机の引出しからも目当てのものを見つけ出せなかった。
藤川は、パソコンへ直ちに足を運び電源を入れた。ブログを捜すためだ。
一年ほど前の、転落死のあった翌日未明、拓子が住んでいた部屋の捜査をしたとき、女性捜査員がすでに読んでいたことは既述したとおりである。
藤川が目にしたのも当然同じ内容であった。そして彼も、ブログに意味を掴みかねる含みが多すぎると感じた。誰にも見せるつもりのない文章なら、もっとあけすけに意図を開陳してもいいはずだ。自分の想いを隠す必要がどこにあろうかと、そう。
一年半ほど前に遡る日記から、藤川が気になった個所を抜粋し要約するとこうだ。【私には資格がない】【値しない】(おそらく、“幸せになる”という言葉を抜いての記述だろう)さらには、【身も心も血で汚れた私だから、一生かけて贖(あがな)わなければならない】とも。
見目麗しい二十九歳の女性が、人生これからというのに、幸福を放棄するばかりか贖罪の人生に徹すると、そう記しているのだ。
それにしても、と思う。若い人だけに全くもって似つかわしくない。あまりにネガティブではないか。にもかかわらず、その理由を具体的には記していない。だが考えてみると当然で、人を殺したからとは、さすがに書き残しにくかったのだろう。
ところで感想を懐くことが仕事ではないとさらに読み進み、そして終えた藤川。矢野に声を掛けた。抜粋したブログを見せ、違和感を持ったと告げた。加えて憶測を披露した、”好意を寄せられること自体迷惑。たとえ社会的地位や経済力があったとしても”が象徴する記述に対してだ。これは事実に対するものか、これからを予測しての作文か、が、はっきりしない。さらに、他にも似た記述がある。しかも全部で四度、最後は十一月一日。転落死はその翌日であった。「転落死と無関係として見過すことができないのですが」
矢野も同感し、すぐに命じた。「藤川の直感に従うとして、秘密のブログ、つまりパスワードでガードされたブログや書き込みがないか、確認してくれへんか」本音を表に出していないとすれば、本心を記述したものをどこかに隠しているのではないかというのだ。

藤川は肯くと、矢野が指摘したような書き込みがあるか調べだした。だが、なかった。それで、USBメモリーか何かに保存している可能性を述べた。
ありうることだが、もしそうならば見つけやすいところにはないだろうと矢野。万が一にも、ひとの目にさらすわけにはいかないからだ。それが親であればこそ、よけいに。

三人は手分けして、書棚の本を一冊ずつ、あるいは机の抽斗の裏側、ハンドバッグやカバンなど、手当たり次第に調べだした。が四半刻ののち、草臥れ儲けとなった。

ただし、予期していなかったものを岡田が見つけたのである。小さいながらも手柄だと、秘かにそんな自分で褒めた。抽斗の裏側に両面テープで貼ってあったからだ
「見てください、この名刺。殺された警部のやないですか」
“大阪府警察本部生活安全部係長”との肩書と故人の名前。疑う余地なく当人の名刺であることが、翌日の指紋鑑定で証明された。

二人が会っていたのは、もはや間違いない、となる。なぜなら、簡単に手渡した名刺の悪用横行が問題視されるようになって、最近では、特に刑事による名刺手渡し濫発禁止の御触れが出、今や、よほどでないと手渡さないからだ。ゆえに、誰かから譲り受けたりあるいはもらったり、の可能性はまず無いとみていい。
手渡した場所は、ステーキハウスかそこへ行く直前であったろう。矢野はそうみた。
ところで岡田君、別の大事な名刺を見落とした、というよりもその名前にピンとこなかったので、眼には止めたがスル―してしまったのだった。“バカ田”と叔父から呼ばれるゆえんだ。が、あえて弁護すると、CDやメモリーの発見に全神経を集中させていたのであって、名刺探しにではなかった。よって、余儀にまで頭が回ろうはずもない、バカだから。

さて、今は見過ごされた名刺だったがしかし、日の目を見る日は遠くなかった。
十五分、三十分と経過し皆が諦めかけたとき、ふと、矢野の眼にとまったものがあった。
妹とのツーショットを飾った写真立てに、である。注視すると、違和を感じた。古い写真だが、収められているのが一枚だけとしたら不自然だと。写真に接するガラス窓の外面(そとづら)からプラスチック製の背の外面(そとめん)まで1センチ以上あり、どうみても分厚すぎるのだ。――何かを挟みこんでるんかも――観察力も大事だ、シャーロック・ホームズの科白ではないが。
徐(おもむろ)に手を伸ばすと、写真たての背の部分を枠から取り外した。やはり、というべきか、さすがと感心すべきか。
中からUSBメモリーが出てきたのである。アイコンタクトをとりながら藤川に渡した。
二人が固唾を呑んでいるのを、藤川は背中に感じている。
一方、その背中が期待で疼いているのを、二人はおかしみを噛み殺しつつみていた。
さてもさても、保存されていたのは、まごうことなき、探し求めていた隠しブログであった。それも英文であった。

読んで矢野は、やはりと。両親には特に見せられない内容だったからだ。
また、妹とのツーショット写真の裏に潜ませるようにした気持ちも察せれた。二人だけの、あまりに悲しすぎる秘密を、今は亡き妹とだけで共有したかった、矢野には、そう思えてならないのだ。妹の死の真相について、両親は知らないほうが、まだ救いがある、そう、苦汁をひとり呑む思いで、見せまいと決断したのではないか。

三人はお礼とお願いをするために、仏間でぽつねんと佇んでいる父親の前に足を運んだ。
父親は放心していたようだった。

名刺一枚とUSBメモリーを預からせてほしいとの願いに、父親は「お返し戴けるのですね」と尋ねただけで、拒みはしなかった。任意だから、拒否することはできたのだが。
「最後に、ひとつお尋ねしたいのですが」と矢野。

涙がにじむ眼をおもむろにあげ、「何でしょうか」と。先刻よりは力があった。もはやこの世にはいないとはいえ、それでも子を、その人格や名誉を含む存在の全てを、警察から守ってやれるのは自分だけとの想いが本能的に働いたからかもしれない、彼らの来訪の本当の目的を知ろうはずはないのだが。それにしても刑事たちの来訪が、どうにも辛かった。
矢野は、うらぶれた父親の痛みも自分たちに対する警戒心もわかっていた。それでも「拓子さんですが、お仕事は何を?」と、訊かないわけにはいかなかった。

ややあって、「日本での、ですか、それともアメリカでの仕事ですか」と問い返した。
――やはりアメリカで仕事をしていた。しかも、映像製作に関する仕事だったのではないか――犯人の特殊技能から、すでに見当をつけていたのである。しかし、口には出さなかった。「そうですか、アメリカでも。ちなみに、どんなお仕事を?」ととぼけたのである。

父親はまたも力なく、「特殊映像の製作に携わっていました。そっちの専門学校を卒業し、渡米したのです」と答えた。
しかしそれだけでは不充分だった。具体的な内容を知らねばならない。「できれば両方を。日本に関しては、就職先の所在地もお願いします」調書を見ればわかる就職先の所在地を問うたのは、父親が娘のことをどこまで知っているか確認するためだった。大家に提出した賃貸契約書の帰省先を、拓子はなぜか空欄にしていた。その理由を知る手立てになるかもしれないとも考えたからだ。拓子に何ろかの拘泥があったからこそ、空欄にしていたに違いない。彼女の心理状態を知ることができれば、殺害動機を明らかにできるのでは?少なくともその糸口にはなるかと思ったのである。

徐に立ち上がった父親は、自分の手帳を持って帰ってきた。日本での仕事先を述べ、アメリカでの仕事についても知るかぎりを話した。それで拓子の名誉が傷つくとは考えられず、いや、むしろ、並はずれた才能とそれを糧に十年来の夢を叶えたことを知ってほしかったからかもしれない。拓子がこの世を生ききった、何よりの証しだからだ。

その、アメリカでの仕事だが、矢野の推察したとおりであった。
別れ際、「ここは田舎やさかい、大阪に比べたら仕事は少ない…、けど、あんな事故に遭うことはなかった」堪らず泣き声で愚痴を、刑事たちに言っても詮無いとはわかっていてもつい洩らしてしまったのである。そのあとは、もう言葉にならなかった。

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