カテゴリー: 秘密の薬 (page 23 of 24)

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 /  第三章  矢野の推理(2)

ところでこの成果の報告だが、星野管理官により、トップにまで十数分でとどいた。

警視総監はそれをうけるやいな、黙考したのである。そして、犯人と断定しても差しつかえない偽名西は、特殊部隊隊員ではないかと推理したのだった。

すぐさまかれはほかの誰でもない、星野管理官と矢野警部を70平米ほどの執務室によんだ。そのさい、原刑事部長がついてくるのを止めはしなかったが、差出口は止(や)めさせた。

「現場としての、最善の一手は?」指紋や人相から犯人をわりだせない以上、べつの手だてがあればとて、忌憚のない意見をもとめたのだ。ちなみに総監の腹蔵(本心を隠しているさま)だが、ふたりの、デカとしての力量をさぐる、にあった。

「なんの確証もありません。それで具申いたしませんでしたが」と星野が前おきし、「特殊部隊出身にしぼろうかと」そう、同意をもとめた。

場壁狙撃直後と、美女?とされている、防犯カメラがとらえたふたりの、歩行時のすがた(歩容認証)だが、おのおのでそれを変えられたのは、変装術カリキュラムにおけるきびしい訓練のたまものではないかとの憶測を、矢野がつづけた。

特殊部隊出身との進言に総監が納得すれば、とうぜん、ふたりのこれからの捜査方針にも同意するだろうとかんがえたのだ。

レクチャーのけっか、「そうしてくれ」総監は、優秀さを確認できて、内心満足したのである。

「では退職者の件、防衛省へよろしくおねがいします」星野たちは低頭し、退出していった。

星野が退職者とかぎったのは、現役だとできない犯行とし、理由をふたつあげたのだった。

訓練をこなす忙しい日々のなか、時間的にも、訓練地と犯行現場との距離空間的にみても、まずは不可能。それに現役だと、日本国に迷惑を、よりいっそうかけてしまう。そんな不知恩のきわみはすこしでも避けたい、はずだと。

動機はまだわからないが、不知恩と犯行動機をてんびんにかけたけっか、動機のほうが重いとかんじたのではと、最後につけ加えたのだった。

星野の推測をきいた直後、陸自出身の特殊部隊と限定した退職者のなかで、推定年齢とおおよその退職時期と訓練内容が一致するものの名簿をつくっていただきたいと、警視総監(警視庁のトップ)みずからが、防衛省に電話したのである。

それにたいし、要望内容の詳細から犯人の可能性がたかいと判断した防衛省の事務次官は陸自幕僚長に、できる範囲での懇請にのみ沿うよう指示したのだった、ただし、眉間にしわを深く刻みながら。

というのも(省の事務方トップである)事務次官たるもの、たんなる照会ていどであったならば、内部情報をおしえなかったであろう。(功罪両面において)一国の安全保障全般にたずさわっているとの自負心が、かれの言動の基盤だからだ。

キャリアのなかでも特殊な組織である防衛省官僚は、まさに、太平洋戦争時の軍閥がそうであったように、内部にかんする情報を徹底して機密にすることこそ、国家存立の基本と、七十数年“洗脳”されつづけてきたのである。

ということで、警視庁に手わたした名簿の退職者数は、三百人をゆうにこえていた。

しかし、帳場の想定をこえる退職者数の理由すら、市ヶ谷(防衛省の中枢の所在地ゆえに、隠語でそう呼称する。同省最高幹部たちをしめすばあいもおおい)は、あかさなかった。

だが、それは、特殊部隊にかんする情報は防衛省のトップシークレット、のゆえである。また、庁よりも省のほうが格上との縄張り意識も根づよくあった。

だから、特殊部隊が公然の秘密であろうとなかろうとそんなことに関係なく、対外的には存在をみとめないわけで、とうぜんその名簿に、所属部署など記載されていなかったのである。

ホンネをいえば、特殊部隊所属隊員の情報が外部にもれることを、市ヶ谷は極端におそれているのだ。

万が一にも外部へ、それがたとえ警視庁であったとしても名簿がリークしたら、訓練内容どころか、最先端兵器の装備などにかんする機密事項や、その保管場所等の情報までもが、やがては仮想敵国の、狡知で、手段をえらばない情報機関にうばわれると、危惧するゆえにだ。

それこそが、政治家の命などとは比すまでもない国家の大損失と、かれらは信じてうたがわないのである。

星野が予想するまでもなく、以上の事情により、犯人特定作業は遅々としてすすまなくなってしまった。

 

五度におよんだ殺人事件のせいで、すでに面目まるつぶれとなってしまっていた。とはいえ、それでも警視庁とすれば、なにがなんでも次回こそを未然にふせがねばと。

つぎがあるとの犯人からの予告が、読者も知ってのとおり、あったわけではないのだが、さらなる事件が起きるとして、もはや関係者のだれもが想定している。

ゆえに、たとえばそう、焦燥の、やけた鉄板のうえにあって、犯人の足音すら聞きつけられない、そんな最悪の実状の真っただなかに、まさにいるのだ。

だからなのだが、確実にできる手だて、それは…防御である。

とは、つまり、攻めとなる逮捕は次善、が情けないはなし、外部、ことにマスコミにはあかせないホンネとなった。とくに上層部の大多数にとっては、もはやそれしかなかった。

実体は、“背に腹はかえられぬ”という、官僚ならではの保身だったのだ。

さて、要人警護を第一義とする空気だが、原刑事部長が音頭をとった犯人特定が失敗つづきとなったけっか、ともいえた。

まあそれはともかく、対象者として、例の三法案成立をはかった当時の場壁政権の元担当大臣や政務次官、事務次官(官僚のトップ)を中心に、護衛をさらに強化したのである。警視庁総体として、総力戦でのぞんだのだった。

上記のような最悪の状況ゆえに、展望のみえぬ事件解決に人員をさくよりはと、捜査それ自体に、慎重の度合いをつよめてはばからない上層部。

ということはすなわち、単独犯と想定するどころか、その方向での捜査にすらも、すでに腰がひけている、そんな現状となった。

せめて、単独犯と見こめるだけの手がかりらしきものでもあれば、話はちがってくるという者が、上層部のなかにもいないわけでもないが。

やはり上のほとんどには、目撃者たちの証言により、年齢や性別などがバラバラだったことから、単独犯だとすることなど、網から魚を逃がすにひとしい暴挙にうつるのだった。

もし複数犯だったなら、捜査本部全体がとんでもないブラックホールにのみこまれてしまい、またもやたんなる未解決事件、としてだけでなく、見当はずれの捜査で、総理経験者などを殺害した凶悪犯を野放しにしたままだと、マスコミなどから糾弾されることとなる。

 

さて、保身にキュウキュウの上層部を尻目に、防御のための、もっとも有効な手段は、いわずもがな、犯人逮捕であると。

それこそが肝要だとしているのは星野を筆頭に、矢野や和田たちだけであった、それで、頭がいっぱいになるほどに。

とはいえ悔しいかな、防衛省提出のおざなり的名簿から犯人へせまる以外に手段はなく、それゆえいまは、ファイルの写真をふくむ乏しい情報からの絞りこみに、全精力をそそぐしかなかった。

…そうはいっても、問題は三百超という数のおおさだ。

退職者の現状と実態、つまりは現住所や家族構成・勤務先など、これらはそれほどでもないだろうが、警視庁がその強大な組織力をもってしても、肝心の各犯行時のアリバイを三百人超ぶん調べあげるということが、いったいどれほどなのか。

くわえての動機をさぐる捜査、労作業ていどではとても表わしきれない、たいへんにすぎる仕事量となるなあ、と。

ちなみに、“…そうはいっても”のくだりからは、三百人有余の名簿をみた瞬間の、頭をつかわない岡田く~んの感想である。さすがに、かれらしい。

いっぽう、単独犯として捜査すると決断した矢野警部は、とうぜんながら、身長は160センチ台でしかも大柄ではなく、年齢は三十代後半まで、性別をば男性、で絞りこんだのだった。それでも、四十二人の被疑者がのこったのである。

なぜ四十二人も?

というのも、目撃証言を、あまりあてにはしなかった。変装している可能性にかんがみ、名簿の写真を観察しつつも、出っ歯や鼻の横のホクロに、あえて注目はしなかったからだ。

とはいっても、なんらかのかたちで犯人と接触した人たちに、四十二人の顔写真をみせはしたのだが、かれらは一様に首をかしげただけ。自信をもって、一葉の写真をゆびさす人はいなかったのである。

ところで、単独犯説は結局のところ、なにをいまさらだが、一種の背水の陣なのである。正論だとする確実性は、まだないのだから。

だからこそ、躍起にならざるをえなかった。同時にまちがっていればその分、じぶんたちを追いつめる諸刃の剣にもなる。

人間、順調であれば“好事、魔おおし“のポカもあるが、ふつうなら一心不乱にもなれよう。だがいまは正直、雑念というか、“ああでもないこうでもない”に左右されていた。

市ヶ谷の非協力に落胆したおもいがつよく、思慮熟考しようにも、精神的余裕がなかったからである。欲した名簿であってくれればと。

矢野たちが、優秀さにおいて比類ないメンバーたちであることにまちがいない。さりとてかれらも、ときにミスをおかす、人間なのだ。相棒のワトスンによれば、かの、シャーロック・ホームズでさえ失敗を数度も。

よって、捜査に見こみすらえられず、時間ばかりが経過する焦燥が、見すごしや目にみえないミスを誘発させてしまっていたのだった。冷静さや余裕があれば気づいたであろうことを、じつは見逃していたのである。

で、こんなときにボワーっと登場するのが、バカ田君である。

さて、班の切迫感の空気にもかかわらずなにをおもったか、鼻のあなをほじくりながらの、でもって、もはや、デカの顔ではない岡田が唐突に。「八年前かぁ。俺はいくつだったっけ」

かんたんな暗算ができないわけでもなかろうに、バカ田は指をおりながら「二十五歳、交番勤務三年目かぁ…。いまとちがって楽な勤務体系だったなあ」ほんらい、事件解決に集中していなければならない立場ながら、そんなことより八年前を懐かしげにおもいだしたのだった。岡田らしいといえば、それまでだが。

他人事のように八年前とつぶやいたわけだったが、場壁内閣による、大きな影響を国民生活におよぼすことになる法令の施行から連続殺害事件までの年数であることは、論をまたない。

そんな能天気を、おじの和田がしかりつけようとした刹那、

「今なんていった!」ちいさいが鋭く叫んだ矢野。

だが、「二十五歳、交番勤務三年目かぁ…」こちらはのんびりと復唱した。

「二十五歳、二十五歳」もう、バカ田のことなど眼中にない矢野は、二度つぶやいた。なにかが閃いたにちがいない。

杳(よう)としてすがたを晦(くら)ましたままの岩見殺害犯、後援会事務所のおばさんたちの証言によるとかれは三十代だった。しかしドローン窃盗犯は、被害者によると、当てにならないとはいえ、二十代と証言していた。それを思い出したのである。

そういえば、目撃された人物のなかに、二十代の女性がいた。場壁邸付近にて、かれらは同一時間帯に複数人数が目撃されてはいないことから、同一人とも仮定できる!と。

だとすれば、後援会事務所で数日間顔を曝(さら)した偽名西が、おばさんたちには印象の薄い寡黙な三十代男にみえたわけだが、それは、意図的にそういう変装やふるまいをしていたからではないか。

ホクロや出っ歯で素顔をごまかしただけでなく、化粧のたぐいで、年齢をも錯覚させていたとしたら…。というような憶測を、さらにすすめたのである。

これは実験してみなければなんともいえないが、小じわなどがでてくる三十代を若くみせるのは、特殊メイクを施したとしても、身近の眼をだますのは、むずかしいのではないか。

だが逆のばあい、七・八歳年上にみせるのはさほどでもないだろうと。たとえば目の下にクマを粧(よそお)えば若さをごまかせるのではと想像し、ベテラン婦警に依頼、二十五歳の藤浪でさっそく実験してみたのだった。

けっか……三十代にみえたのである。この事実だけでじゅうぶんであった。否、こんどは、バカ田のつぶやきと藤浪の年齢、二十五歳がつぎの憶測をよびこんだのだった、「犯人も二十五歳だったとしたら……」という。

――俺っておとこは、なんてバカなんだ!――いまにして思えばではあるが、犯人は八年前、まだ子供だったのだ。

かりに犯人が現在二十五歳だとすると、八年前は十七歳でしかない。これほどの犯罪をたくらみ、そして実行するにはまだ若すぎたのである。むろん、銃などさわったこともなかったであろう。

うかつだった。同時に、それにしても、まさかであった。高校生が政治にたいしこれほどの義憤をもって、しかも八年間もそれを退色させることなく、執念のなかでいきてきたなんて。

しかしながら、連続殺人を強行した、そんなつよすぎる動機の理由づけとしては、じつは、これでは不充分だともおもっていた。

それを充分にしたきっかけも、このあと、バカ田がになうことに。

それはさておき、おおきかった疑念も、これにより払拭ができるとしたのである。大人になるまで、さらにいえば知識と経験をつむまで八年という年月を必要としたのだろうと。

ここまでの推量において、辻褄があわないというような不具合はなかった。

つまり、高校を卒業するまでに約一年、陸自なかんずく特殊部隊でこんかいの犯罪に必要な訓練を完了するのに七年、計八年。

射撃技能や爆発物製造の知識があれば、八年もかける必要などなかったわけで、犯行までにかかりすぎた年数への、矢野がいだきつづけた“おおきすぎる疑念”も、おかげで霧消するではないか。

そのうえで、さらなるおかげがあった。

歯牙にもかけないですむ愚説だとして、しかしそれを否定するまでにはいたらなかった複数犯の可能性。証言などから上層部がしたこの主張を、そうではないと否定できたことだ。

なぜなら、「実行犯の成長と熟練のためとはいえ、ほかの犯人がとてもとても、八年もまちはしないだろう」である。それほどに、八年というのは長すぎるのだ。ほかの犯人が手分けして技能を向上させれば、長くとも二・三年で、犯行の準備を整えられたはずである。

矢野ならばこその憶測は、ここに帰着したのである。ただし、いつもの俊敏さや切れ味と冴えはなかったが。

それにしてもと、このていどのことに気がつかなかった己を、矢野は心中で叱責した。

しかしながら、いかな、かれとて人の子である。犠牲者のあまりのおおさと進展のみられない長い捜査に、心身ともに疲労困憊だったのだ。

ところで、そんな上司の苦悶などに頓着しない天真爛漫岡田君は他人事の感想をくちにした。「こんなだいそれた犯罪を実行する西という若造、そいつをそだてた親の顔、じっくりみてみたいものですね」

矢野係のみなは矢野をのぞき、あんぐり、あきれて開いたままのくちになってしまった、

全員が、犯人逮捕に躍起になっているときに、なんとのんきなことをと。

これが平時なら、藍出あたりが「いつもトンチンカンな言動野郎のおまえがいうな。ふだん、わしらこそ、おまえの親の顔みてみたいとおもってるんだから」とこぼしたかもしれない。

また、情けなそうな表情のおじにいたっては、兄の顔をおもいだしつつ、バカな甥のくちをガムテープでふさぎたくなった。しかし、

「……」矢野の開かれた眉は、思考回路のスイッチが全開したことをしめしていた。さらに閃いたということなのだ。「でかしたぞ、バ、いや岡田!」

さきほどの発言が貴重な同点打ならば、いまのは値千金の逆転満塁ホームランとなるかもしれないと。ただし確信するには、裏づけが必要であった。

「藤浪!特別国家秘密保護法案で世間が騒然となった時期があったなあ、八年くらいまえ。たしか、そのときひとりだけ犠牲者がでたと記憶している。そのひとのこと、詳しくしらべてみてくれ」

一をきいて十をしるタイプの藤浪は、犠牲者には当時高校生くらいの息子がいたのではないかをしらべてほしいのだと、そう忖度した。

さっそく、ネットで往時の新聞記事を検索した。およその時期を記憶していたのでそれほどの作業ではなかった。

やはりというべきか、矢野の記憶も読みも中(あた)っていたということだ。

犠牲者の名は東浩、弁護士で、享年五十一歳だった。当時、マスコミが大々的にとりあげ、世間の耳目をあつめた殺人事件の記事とニュース映像をみつけたのである。

講義デモに参加していたその、銃で撃ち殺された被害者には、当時十七歳になるひとり息子がいた。父親の突然の死に号泣する被害者家族として、新聞で紹介されていた。

ただし、それだけであった。年齢以外、顔はむろんのこと、名前すらも紹介されていなかったのである。

しかし、これではっきりした、まだ未成年だったと。そして、犯行動機は、復讐だと。

法案により、殺害の原因をつくった政治家たちこそ元凶と、真犯人にたいしては手をだせないぶん、いっそう、憎んだのだろう、矢野はそうみた。

それにしても、である。

ドローン盗難被害者は二十代と証言していた。が、当てになりそうになかった。いっぽう、接触期間が長く、しかも下心のない三人による、三十代との目撃証言。ならばどちらを信じるか、だった。

いまにして、犯人がそう見えるようにしむけたからだと。恥ずかしいことだが、そのせいで、矢野たちも幻惑されていたのだ。

なにも疑うことなく、三十代マイナス待機期間八年と計算してしまった。つまり、犯人が殺意をいだいたとき、すでに成人だったと、勝手に思いこんだのである。

これが、それなりに見こむこと(ただし見込み捜査ではない)で犯人に近づくに、見えざるバリアーとなってしまっていたとは。

八年ごしの犯行だが、当時、複数人数に復讐をはたすための技量がなかったからにすぎず、よって八年は、技量をつちかうためだった。とは、まさかだ。

だが動機がわかり、例のおざなりの名簿のおかげもあって、東浩造とすぐに判明した。西となのったことも、東が本名ならば、偽名にありがちだとして納得できた。

問題は、自衛隊離職後にすむ予定の住所と連絡先電話番号、であった。

ところで、かれの不惑八年は、政治にたいするふかい関心のゆえではなく、復讐をはたさんとの誓いが心底にあったからだと。

動機などほとんどのナゾは、矢野(とバカ田)のおかげでとけたのだった。

しかしながら、ナゾや不明点はまだのこっていた。

ひとつは当時の浩造をつつんでいた背景、そして肝心の、犯人の行方である。

なぜかならば、自衛隊離職時に東が記入した書類の住所には、十五年まえからまったくの別人が住んでいたからだ。後援会事務所においてそうだったように。で、電話番号もデタラメだった。もちろん、足がつかないようにだ。

入隊は、復讐殺人の手練(てだ)れ(熟練者・プロの技量)を手中におさめるための手段であった。だから退職時に、住所や連絡のつく電話番号をのこしておくはずなかったのである。

 

では、犯人である東の居所をしる手だては?

そこで藤浪は指示されるまえに、浩造の八年間の経歴調査に取りかかったわけだが、こちらは簡単ではなかった。東浩の死亡当時の住所はすぐにわかったが、現在、そこに遺族がすんではいなかった。

あとでわかったことだが、浩の両親(犯人浩造の祖父母)は、息子の非業の死の三年まえに亡くなっており、一人っ子の浩には浩造以外に子供がいなかったのだ。

だけでなく、十二年まえに離婚しすでに独身の身となっており、その浩の殺害後の経緯もあり、八年まえから住まいは、あき家になっていたのである。

離婚の理由だが、週刊誌によると世俗的であった。かいつまむとこうだ。庶民派弁護士として弱者擁護のスタンスをとり、仕事優先で家庭をかえりみない浩に不満を爆発させた妻が不倫し、その露見により離婚が成立。これが、浩造の現住所不明の遠因である。

離婚していなければ、退職後の浩造は、母親と同居していた可能性だってあるからだ。たとえ復讐後に累(るい)がおよばないよう、母親とは別居していたとしても、すくなくとも連絡くらいは取りあっていたのではないかと。

ともかくも両親の離婚後、中二の浩造は父親とくらしていた。しかしながら浩の死後、再婚していた母親に引きとられたのだった。だが浩造にとっては、本意ではなかったらしい。

かれは母親だけでなく、あらたな家族、とは義理の父親と異父の娘のことだが、そりがあわなかった。

それもあり、高校卒業後、母親の財布から全額を盗みだすと、家出したまま行方知れずとなってしまったのである。(これは後日の、母親の証言による。くわえて、探偵社に居所をしらべさせたのだが、空振りにおわっていたとのこと)

父を裏切った母親をゆるせなかったのも出奔の理由だろう、とは、経緯をしった直後の矢野の推測である。

さて、事件には関係ないことだが、陸自入隊審査の保証人には、高校三年時の担任教諭になってもらったのだった。

教諭は、優秀な生徒であるかれの進路に協力するのは当然とおもった。浩造の性格もこのましいとしつつ、家庭の事情にたいしては同情していたからだ、正義感のつよい浩造なら、教師という立場のじぶんに迷惑をかけまいとも。

この教諭への事情聴取を担当したのは和田だった。

ちなみに、高校教諭にたいし、陸自時代の前半は年賀状を毎年おくってきていたが、ここ三年はこなかったとも寂しそうにかたっていた。

居場所を特定させないがいちばんの理由だったとしても、それだけとは、人生にもまれすぎた和田には、おもえなかった。恩師に、できるならば迷惑をかけないよう、さらには恩義にそむくこともできればしたくなかったからではないか。

ところで母親の証言。逐電以来、音信不通になって今日にいたっていると、追跡調査でその住所と連絡先がわかった母親にたいし訪ねて問うたけっか、不安顔で藍出にこたえたのである。

それから母親は、おそるおそる尋ねたのだった。「浩造がなにか仕出かしたのでしょうか?」

「ある事件の捜査のためにお訊きしたいことがありまして」とだけでお茶をにごした。

このようにして八方手をつくした、これもそのひとつ。2016年一月に施行された法制度の、マイナンバー(通称)に登録されていた住所は、くだんの教諭のそれであった。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第三章 矢野の推理

第三章     矢野の推理

 

 

和田は、観察の結果報告をおえた。

「和田さん、ご足労だがもういちど岩見の後援会事務所にいって、犯人の特徴を聞きだしてくれませんか」年長者である和田にたいし、つねに敬意をはらっている矢野警部も、むろん、あらたな情報を犯人特定につなげたいのである。

なんとしても手掛かりが、すくなくとも取っ掛かりがほしいのだ。

なにしろ、後援会時事務所のかれらだけが、犯人との長時間の接触をしたのだから。…あっ、もうひとりいた、下心ありありで酔っぱらってしまった中年の盗難被害者が。

さて、令をうけた六十五歳手前の超ベテランは、上司がもとめている“特徴”について思考回路をフルにはたらかせはじめた。鑑識課員がえた身体的特徴、傷痕やあざなど以外の、たとえば言葉づかいや方言、目だつ癖などだろうと。

前回は、おとながしかも三人もいたので鑑識の通例の似顔絵づくりに期待したが、(名探偵シャーロック・ホームズが主張するところの、特別な観察力によらない)人間の記憶といういいかげんさが壁となり、まともな似顔絵をつくることはできなかった。

こんかいもその記憶にたよらなければならないわけだから、ほしい正確な情報をえられる見こみは低いだろうが、それでも手をうたないわけにはいかないのである。

いわば大敵にたいし、しかも劣悪な戦法とされている“背水の陣”でのぞんだ、まさに韓信(漢帝国創建の三傑のひとり)の心境であった。定年退職のちかい和田にすれば、けっして大げさではなかったのだ。

和田はキャリア(国家公務員総合職試験合格者)の警部補一年生藤浪をともなって、岩見の地元後援会事務所へ出むいた、教育係の任も自覚しつつ。

ところで、前回時よりもさらに、事務所にとっては大切このうえない選挙戦がさし迫っていたのである。部外者なら、まだ二か月以上もさきだから、じゅうぶんに時間があるとおもってしまいがちだが。

会長たちには、無名の新人候補を立てなければならないうえ、落とすことのできない、こちらも背水の陣のつもりの補欠選挙だったのだ。すでに公示日直前であるかのように、準備におわれていたのである。

ちなみにこれはウラ事情だが、初七日があけての年明け早々のこと。

四月の第四日曜日が補欠選挙投票日だとの発表がなされ、後援会会長はすぐさま、「未亡人である奥様のほうが戦いやすい」ととうぜんの主張をした。

しかし、かのじょは受諾しなかった。

そのうえで、意外な人物を推したのである。

未亡人が一歩もひくことなく推薦する人物は、会長の恣意に反しており、それだけにイラだちをつのらせていった。

角をつき合わせる日がつづき、かんたんには決着しなかった。

だが、投票日から算出したタイムリミットがせまるなか、会長がおれるしかなく、ようやく、立候補予定者は岩見の義理の弟、長野拓一と決定したのである。

だが会長の、当初からの濃い難色もとうぜんだった。「無名なうえに、岩見の直系でもないから勝てない」後援会としてそう主張したのも、ゆえあることだ。

すったもんだののち、長野と決したわけだが、それは岩見と正妻のあいだに子どもがいなかったことによる、だけではない。

有権者にはしられたくない事情があったのだ。

それを後日、ある警部補があきらかにすることに。

其(そ)はさておくとして、ゴタゴタがあったとはいえ、いったん戦闘態勢にはいった事務所は、来訪者や電話のうけ答えなどでごったがえしていた。

 

いっぽう、一刻もはやく星野や矢野の鼻をあかしたい、敵愾心だけは一丁前の原刑事部長は、捜査の基本的視点にたったばあいは当然なのだが、今度は、岩見陣営の候補ときまった長野に疑惑の目をむけたのだった。

いわゆる、だれがいちばん得をしたか、である。

国会議員なればこその、あまい汁を吸える立場は、殺害動機になりうるとかんがえたのだ。目のつけどころといおうか、学業においてつねにトップをはしってきた、いかにもエリートらしい視点である。

間髪入れず、情報収集に必要な手をうったのだった。長野を犯人とするにたる証拠を、えんがために。

さて、事件をすべて解決してきた英邁コンビを忌々(いまいま)しいと、原がそこまでの敵愾心をもやすのは、庁内をおおう空気を敏にかんじとっているからだ。

――刑事部長としておおきな顔でいられるのは、だれもが認める辣腕コンビのおかげ――などと云々。

小心ゆえに、ひとがする評判を気にするのだ。しかもくやしいかな、認めたくないが、事実なればこそと…。

小胆者ゆえのあわれ、うごめく己心に急(せ)きたてられているのだ。かげでの冷笑や嘲笑いが耳のおくで、いやおうなくひびいているのだった。幻聴にすぎないのだが、原には強迫観念であり、あえていえば、まさに悪夢であった。

将の度量をそなえているならば、部下の功績のうえにどんとあぐらをかいて、信賞すればよいのである。漢建国の太祖、劉邦のように。優秀な部下を活用すれば、原がのぞむ昇進もおのずとついてくるのだ。

だがかれは、梁山泊(ウィキペディアで、“水滸伝”を検索されたし)の初代頭領、晁(ちょう)蓋(がい)のように、みずからの軍功で力量をしめし、そのうえで、賞賛されたかったのだ。が悲運にも、かれは討たれてしまう。

ところで、長野を犯人とするには、クリアしなければならない問題がいくつかあった。

西と名乗った実行犯のゆくえが、杳としてつかめていないことと、ほかの殺人の動機が見あたらない点である。この二点の解明こそが、原にとっては必要不可欠なのだ。が、

いや、だけでなく、三十代前半から三十代後半と、身近でみていてもバラついている印象の実行犯とのつながりも見つけださなければ、送検はむずかしいということだ。

換言すれば、長野が犯人を、報酬で釣って、あるいは脅迫によって、後援会事務所におくりこんだと証明しなければならないということだ。

方法はふたつ。任意同行によってでは長野が自供するはずがないから、実行犯逮捕後に自白させる、がひとつ。ところが、実行犯の逮捕そのものが正直おぼつかない。のこるは、長野の銀行口座における金銭のながれ、つまり実行犯への現金の譲渡をつかむことでの立証だ。報酬で釣っていればだが。

しかし、それにはすくなくとも、裁判所を納得させるだけの状況証拠が必要となる。

捜索差押許可状(隠語ではガサ状)を、発布させるために。

だが現状では、それなりの状況証拠すら、入手するのは困難であろう。ひとつ方法があるとすれば、巣穴で安眠をと決めこんでいる蛇がでてこずにはおられなくする、つまり藪から棒で、巣穴の奥へむけ突っついてみる、との少々手荒な挙にでる、だ。

長野に、不安や疑心暗鬼をムリにでも生じさせ、けっか、墓穴をみずからほらせようという計算である。と、ここまでふみこんだ見こみ捜査にのぞむ原であるならば、まずは他の二件の殺害動機について、説明くらいはせねばなるまい。

そこで、原部長は必死で深慮した。やがて脳裏に思いうかんだのが、アガサ・クリスティ作“ABC殺人事件”であった。

かんたんにいえば、一連の事件はそれの模倣ではないかと。

つまり犯人は、本来の目的=Bの殺害をかくすために、あらかじめ、動機のわからないべつの事件=Aの殺害をおかし、さらにはCの殺害でもって粉飾していったとの、かの傑作推理小説から、連続殺人計画を思いついたのではないか、そうかんがえたのだ。

動機という木のまわりに、木を植えて林にする、そんな手のこんだマネを。

同作とおなじく、二番目の殺人が犯人の思惑だったということである。

ただし、証明するのは難しい。だけならまだいいのだが、この仮説には、法にたずさわる側として、ふたつの問題点を包含しているといえよう。

ひとつ。こまるのは裁判においてなのだが、第一審での裁判員や裁判官にたいし、説得力にかけるのではないかという、公判上での技術的問題点だ。

なるほど、“事実は小説よりも奇なり”とはいうが、それにしても動機をかくすために事前に無関係なひとをあらかじめ殺しておく、なんて口でいうほど簡単ではない。

このあたりが、小説と現実のちがいである。

よって、裁く側が、検察の主張を認定する可能性はかなりひくいとみるべきであろう。

また、偽装目的殺人の証拠をつかむべく内偵をすすめるなかで、ヘタにうごけば、選挙妨害ともなりかねない点だ。

となると、出世欲のつよい原にとって、ここは慎重にうごかざるをえない。

とりあえず“蛇の巣穴”をつつくために、木偶(でく)のぼう(坊)ではなく、如意棒(自在にあやつれ、役にたつ棒)をつくらねばならなかった。

よって、こんどはベテラン捜査員を起用することにした。木偶を起用した、前轍をふみたくなかったからだ。

かれは立場を利用し、捜査一課歴二十年の警部補を、昇進のうしろ盾になるとのエサを目のまえにぶら下げて、口説きおとしたのだった。

このやりかたに、さすがの原も気がひけたのだが、背に腹はかえられなかった。

 

「お忙しいところをおそれいります。そこで単刀直入におうかがいします」慇懃な態度をともなった如意棒警部補は如才ない(ぬかりがない)。

「マスコミ対策として、事実をしっておきたいのです。候補者としては長野氏より未亡人のほうが同情票をえやすいでしょうに、どうして未亡人ではないのですか。むろんここだけの話で、口外はけっしていたしませんから」

長野が捜査線上にのぼっていることを覚られないように、さも世間話の態で、警部補は疑惑の核心にちかい質問をした。

さすがに、用心をこころがける棒である。また、マスコミ対策云々と言及したのは、長野らにとっても同一の防衛線のはずだからと。おたがい、マスコミ発の風評被害はゴメンということだ。

さらに警部補のは、趣旨をオブラートでくるんでの質問でもあった。

それはそれとして、会長もだれかに話したかったからなのか、で、相手が守秘義務のなんたるかをしる警察官であったことに気をゆるめたのか、グチをまじえつつ、隠さずに語ったのだった。

「奥さんは口をにごしていましたが、長野氏がつよく要望した、つまり代議士になりたいとの欲をあらわにした、そんな弟に姉は圧された。これが姉弟間でかわされた密談だったようですね。支援者からもおなじ質問をいやというほどうけましたが、事実をいうわけにもいかず、『奥さんの体調がすぐれないから』でごまかしています」ため息がこぼれた。

マスコミ対策云々といったさらなる理由は、ニュース等でおおよその経緯をしっていたからだが、会長の心裡もよんでの質問でもあった。

そしてやはり、見当をつけていた答えがかえってきたのである。長野が代議士のイスに色気たっぷりなことはまちがいなく、したがって動機はじゅうぶんだと、そう判断した。

ただし、そんな心証などおくびにもださない警部補であった。「あの悲惨な爆破事件から時間が経過したことで、すこしは平常な状態にもどられたとおもうのですが、なにか思いだされたのでは…」

「いや、まだまだ平常心にはほどとおく…」

「そうですか。大変ですね、ごじぶんの本業も、オリンピックがおわって二年以上がたち、いろいろと大変でしょうに」建設業界をうるおわせた五輪はもはや過去のこと。で、斟酌(あいての立場などをくみとること)することをわすれないところも、ベテランならではであった。

「ところで、長野氏にはなんどか会われたのですか」に首肯をした会長に、そのときの印象をたずねた。

「これでもひとをみる目はやしなってきたんだが…。ひとことでいえば、うさん臭いやつ。あはは、立場上は寡黙を旨とすべきなのだろうが。さてさて、ところで、これはオフレコでしょうな」お山の大将でいきてきた人物らしいもの言いであった。

「もちろん、会長のお言葉が外部にもれることは一切ありません」デカ業のながい経験をいかし、安心させた。警部補がほしいのは、長野にかんする情報なのだ。

かといって、露骨に長野のことばかりをきいてはまずい。いわゆる内偵というやつだから、いまは捜査対象者であることを秘匿しておく時期なのだ。ふんわりきかねばならなかった。

――まあ、逃げかくれする心配のないおとこが相手なのだ――

長野が犯人であるならば、もうこれ以上の犯行はないはずだし、だいいちそんな危険をおかす理由も皆無である。じっくり攻略すればよいときめ、このあとは世間話でそれとなくお茶をにごし退去したのだった。

――さてと――これ以上長野そのものを攻めるよりも、原の期待にこたえるには、西と名乗ったおとことのつながりのウラをとることこそ肝要であると。

それを確認できれば、外堀どころか内堀までうめつくし、たとえ巨城であったとしても、丸裸にできるであろう。そのためには、このあとどう行動すべきかだが、――それが最大の問題――となる。

というのも、二者のつながりを突きとめるのが困難なのは、火をみるよりも明らかだからだ。

さっそく、経緯を電話で原につたえた。

ところで原部長はというと、おもわずしたり顔になっていた。かれがかんがえた第二の殺人の動機を、後援会会長の証言がウラづけたからだった。

ここはやはり、実行犯をつかまえることで、お坊ちゃまそだちの長野逮捕にこぎつけるしかないとした原。

そこでつぎの一手は、とて、捜査そのものの原点にかえることにしたのだった。

鑑識課にでんわし、似顔絵の専従員に後援会事務所への再度の訪問要請をしたのである。失踪男西の似顔絵をもう一度描かせるためにだ。ただしかれは、一計をおもいついていた。

既述した、三人それぞれがもった別々の印象を、忠実に具体化しようとの計である。前回のように、合致点をムリに見つけようとはしない、ということだ。

つまりこう、あるひとりがうけた、のこるふたりの印象に左右されない、そのひとだけの印象をそのまま似顔絵にしようとの。

で、けっかとして、三者三様の印象を具現化した三つのべつな顔が画用紙上にあらわれたのである。

前回分の似顔絵を否定する、描き直しもふくめ、おもいきった、異例の手法だ。

ただもんだいは、時間が経過しすぎていたことである。記憶がうすれているぶん、どこまで信頼できるか、だった。

こうなると、どれかが偽名西にちかい可能性が高い、ただそうねがうしかなかった。

混乱をまねかないようていねいな説明をしたうえで、三様の似顔絵をつかい、捜査の基本である地道な訊きこみを再度かける、同時並行で、マスコミにも再度依頼する、であった。

ちなみに矢野の変装説を、原は無視しつづけた。ただただ手柄をたてて、自己を誇示したかったからだ。

「変装、変装ってかんたんにゆうが、間近でみていた会長たち、その三人の眼をごまかせられるかね、スパイ映画じゃあるまいし。それにもうひとり、ドローンの被害者だが、美人だったと証言しているじゃないか、くわえて、場壁邸付近で目撃された三人も性別年齢ともにバラバラだった。ならば変装などではなく、別人だったとするのがごく自然で、ということは複数犯とみるべきだろう」

部下の進言にたいする、これが答えだった。

つづけて原、「いずれにしろ、こんどの似顔絵で勝負がつくはずだ。まあみていたまえ」自信をあえて、口もとに漲らせていた。

こうして全員がかりだされ、前回と手法も場所も時間帯も同じにし、二週間かけて訊きこみをかけさせたのだった。

だが、無残にも成果なしでおわったのである。捜査員の疲労度は山の頂きの岩となり、士気は谷底の枯野状態になってしまった。

あとになってわかったことだが、結果からいうと、どの絵も犯人に似ていなかったからだった。

その事由。じつは三人の観察力不足でもなく、時が経過しすぎていたせいでもなかった。

くり返すが、付け焼刃でしかなかった原部長が自賛のおもいつきは、もののみごとに失敗してしまったのである。

 

ともかくも、原の自慰的なもくろみのあおりを食うかたちで、星野管理官の許可をえていたにもかかわらず、矢野係の捜査方針は中断を余儀なくされ、おおきく狂わされてしまっていた。

ために、警部がたのんだ和田への依頼は、十五日後にようやく具現化したのだった。

後援会事務所をおとずれた和田は、犯人の肉体的特徴や話しぶりなどなど、情報をえんと腐心の聴取をこころみた。

鼻の横のホクロや出っ歯以外の特徴について、からだの各部位に細かくわけて、重複を覚悟で、キズやあざ・火傷のあとなどいちいち具体的に例をあげたのだった。

「なにか特徴はありませんでしたか?」というような、おおざっぱな質問にしなかったのは、記憶をよび覚ましやすくするためである。

偽名男西の言葉づかいについても、しっているかぎりのイントネーションでそれぞれの方言を、北海道から九州地方さらに沖縄へと徐々にスライドさせ、例をあげながら言ってみたのだった。

だが、いずれにおいても空まわりの聞きとりに終始してしまったのである。

そんな、大ベテランの警部補が目のまえで事情聴取の手本を教授してくれているのを、藤浪はよこでだまったまま、魂魄でうけ止めていた。

先輩がしめすオレ流の、それのジャマをしないでいる後輩の存在をかんじながらも、“嗚呼…”一縷の望みもついえたと、じつは心裡でため息をもらす和田であった。

手ぶらでおめおめ帰らねばならない。それで、矢野に衷心でわびつつ立ちあがろうとした刹那、

先日、百貨店までつき合ってくれた話ずきのおばさん事務員が、和田の顔を凝視しつつ、もの言いたげにしている、その姿がベテランの眸にとまった。

「なにか思いだされましたか」ほほえみながら、やさしく声をかけた。ついで、話しやすい状況をつくらねばと、かのじょの立場をおもんばかることに。

「お忙しいのはわかっていますが、もう少しよろしいでしょうか、捜査に協力していただきたいので」会長の許可をえておくことも忘れなかったのである。

警察にさんざん時間をつぶされた会長ではあったが、亡き友のためにとちいさくうなずいた。

「参考になるかどうか」と自信なさげな表情で、「ゆくえのわからない西君は、陸自(陸上自衛隊)出身ではないかとおもうのです」とポツリ。

「それはまたどうして」陸自出身という興味ぶかいはなしは大歓迎とばかりに、その理由をうながした。

「なにげない会話のなかで、陸自の隠語にちがいないということばを耳にしたからです」

願ってもないとは、このことだ。

警察官を、警部補からスタートさせたキャリアは、すでにメモをとり始めていた。

「具体的には?」とうぜんながら、陸自出身ではないか?とした、その信憑性を確認するひつようがあった。

というのも、和田同様、矢野もした憶測によると、犯人が単数だったとしてその必須条件だが、ライフル銃や爆発物に精通していなければならない、となる。

 

二週間以上まえのことだったが、犯人がもし陸自出身者だと仮定したならば、単独の条件をみたせると、矢野を中心に晩飯をかきこみながら、なんどか話題にしたからだった。

またおなじ理由で、一部に存在する、特別な訓練をうけた警察官は?…。

プロファイリングを重視すると、警察官を対象者からのぞくという身びいき心理は、これを排除しなければならない、となる。

どうじに、藤川が言いだしたのだが、ふたつの職種と断定できる時代では、もはやなくなっている、とも。

グアムにいけば、素人がライフルの腕前をあげることもさほどに困難ではなく、爆発物作製にいたっては、ネットでその知識を手軽に手にできるからだ。

こう敷衍(ふえん)(趣旨をおしひろげる)していくと、犯人像だが、茫漠な海にただようような、あやうい結果となってしまった。いまは、的をしぼる、なんてできない時代でもある。

矢野が和田に、祈るがごときおもいで再度の訪問をさせたのは、ほんとうに手詰まり状態だったから、なのだ。

とうぜんながら、単独犯との確証など、現時点ではもてる状況にない。

そんな晩飯時の話題を、和田はおもいだしたのだった。

周知のことだが、陸自ではいろんな訓練をおこなう。励めば狙撃のうでまえをあげることができ、爆発物の知識を身につけることも可能であろう。もっといえば、爆発物をつくる訓練すらもうけられるかもしれない。小型無人機操縦の基礎訓練をもだ。

犯人像が敷衍してしまったとはいえ、それだけに和田には、おばさん事務員が神々しくみえた。

しかしながら、である。

そのうえで和田は、もっと沈思すべきであった。

犯人が各種の技能にピカ一ですぐれ、けっか、上官から精鋭な隊員だとのお墨付きをもらったならば、特殊部隊入りをはたし、そこでさまざまな訓練をうけたであろうと。

いわゆるスパイ養成訓練だ。じぶんの存在をかくすことも変装も盗みも、それらすべて、特殊部隊の訓練をこなしたものになら、造作もない些事だったにちがいない。

寄る年なみで、和田も衰えたのか。いや、そこまではいうまい。

ただただ和田は、陸自出身者のはなしに、待ってましたと食いついてしまったのだった。俄然、のどに渇きをおぼえた。どうじに、緊張で脳がかたまったのである。

ああ、残念なことがもうひとつあった。おおきかった疑念(このことを読者はおぼえておいでだろうか)もこれで払拭できる、とまでには深慮できなかったことだ。

和田の肩をもつわけではないが、かれの頭のなかの犯人像の年齢は、三十代であった。

そしてそれ以上に和田が和田らしくなかったのは、想定外の、天佑(天のたすけ)としか表現できないこの大収穫に、大ベテランともあろうものが、気がうわついてしまったことである。

事実として、たとえばプロ野球史上最高の打者である王貞治氏ですらも、サヨナラのチャンスという場面で、相手投手が投じたど真ん中の絶好球をうち損じたことがあった。あまりの天佑に、ぎゃくに、平常心をなくしたからだろう。

まあ、人間とは不完全な身のうえのもの、ミスや見落しをしないなんてないのだから。

「そのまえに、どうしてそれらが陸自の隠語だとおもったかをおはなしします」和田の緊張感がのり移った、そんな表情になっていた。

いっぽう、俎上の“和田岬の”魚のごとく、ベテランも、――あなたの話の進めかたにおまかせしますーーの心境であった。

ただ、そうこられるとぎゃくに大変だったのはおばさんのほうで、どう説明すればわかりやすいかを、頭ですこし整理しなければならなくなった。

ようやく、「高校を卒業したわたくしは、父親の影響で陸自に入隊しました。そんななかで隠語も自然とおぼえたのです。それを先日、しかもふたつも久しぶりで耳にしたことを、いま、刑事さんの具体的な質問のおかげで思いだしたのです。無口な西君から聞いたときはあれぇとおもったのに、年をとると記憶がうすれてしまって…」と。が、忙しさにかまけて、とは会長の手前、いわなかった。

ところで、有力な情報にうえていた和田が、犯人の特徴をなんとかひき出さんとあれこれ具象したうちの、イントネーションや方言云々の例示が、かのじょのなかで連想をうみ、……そういわれればとなったのだった。

後日、和田なればこそのお手柄と、星野も矢野も讃嘆しきりとなる。が、それはいまの話とはあまりかかわりがない。

犯人特定にむけ重要な情報となる可能性に、刑事たちの心身は自然、まえのめりになった。

「できればもっと具体的に。たとえば、そのときのシチュエーションとかを添えていただければありがたいのですが」

「具体的にですか。ううん」と、しばし頭をひねった。「わかりました。が、そのまえに一言。“煙(えん)缶”というのと”台風”が、西君がはっした陸自での隠語です」

「あ、はなしの腰を折ってすみません。えんかんって、漢字でどう書くんですか」そう訊かなければ、はなしがみえないと思った。

このおばさんはおしゃべりだが、聞かせ上手ではないとみたからだ。

いっぽう、気分を害するでもなく質問にこたえると、「で、ボランティアの初日、会長の机のそばをとおりながら『煙缶に吸殻がたまっているので、捨ててきましょうか』って、わたしに向かって。…ああっ」直後、またもやなにかを思いだしたようすだ。

「そういえば彼、そのときちらばっていた灰を拭き掃除し、台拭きをあらったあと、物干場(ぶっかんば)はどこですかって」

またひとつややこしい言葉を耳にしたのだが、いまはきき流した。

「え?って。そのときも一瞬はおもったんです。けど、いそぎの仕事があったもんで…。でもってつぎの日、こんどは倉庫代わりにつかっている隣室の書類が整理されていないので、『台風のあとみたいですね』と。西君って、血液型がAなのか、けっこうマメでしたね」おばさんの、身上(しんじょう)のおしゃべりが止まらない。

「ちょっと待ってください。ひとつひとつ訊いていきますから」ゆっくりと唾をのみこむと、「煙缶って、灰皿のことですよね」おしえられた漢字と吸殻ということばから、そう推測した。

目のまえの刑事がバカでないことをしって、満足げにうなずいた。後援会にたずさわる人間としても、犯人を逮捕してほしいのだ。

「ちなみに台風って、なにを指す隠語ですか」

「ええっと、そうですねぇ。どう説明したらいいのか…」、陸自においては、教育期間中の新入隊員に、居住環境の清掃や整理整頓を身につけさせる習わしの一種で、キチッとできていないものへの制裁として、教官が故意に寝具や衣服などをもっと乱雑に荒らしてみせる戒めのこと、まるで台風一過のごとくに、とのイマイチの説明をした。

倉庫内が整理整頓されていないさまを、偽名西は “台風”という隠語で表現したのだろう。

「では、ぶっかんばって何のことです?」あてはまる漢字があるのかも問うた。

「物干し場のことです。漢字でもそう書きます」

「なるほど。あらった台拭きをそこに干そうと」“ぶっかんば”という隠語には、正直恐れいった。すくなくとも、関係者でなければしる由もないからだ。西が陸自出身ではないかと唱えた“おばさん説”に、得心したのである。

今日のところは“これくらいにしといたらあ”ではないが、この成果に大満足し笑顔のまま辞したのだった。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (13)

ところで和田からの報告を矢野がうけた三時間後、やってきたべつの警察官がいた。鑑識課員である。指紋採取と、似顔絵作成のためであった。

しかし会長もふたりいる中年の女性事務員も、西の印象には自信なさげになっていった。

なぜなら、鑑識課員から顔のパーツを問われるたびに、眉の太さや鼻の形、唇の厚み…否、それどころか三人が三人、推定年齢までもが三十代前半から三十代後半までと、バラついた印象をもっていたからだ。

短期間とはいえ、身近で見ていたにもかかわらず、最大、十も年齢差があるということだ。

三者同一見解だったのは、短めの頭髪が茶色だったことと出っ歯だったくらい。それと、若いおとこにしては背がひくかったこと。160センチ台の前半だろうと。

背丈は、解析した映像とも、ドローン盗難被害者の証言ともほぼ一致しているということだ。

しかし年齢もだが、肝心の人相のほうがもっとちがっていた。

ドローン盗難被害者の証言によると、犯人は妙齢の美人だったと。はたして西が女装したとして、出っ歯の美人なんているだろうか。とはいえ、蓼(たで)喰う虫も好き好きとか。好みは千差万別なのだから。

こうかんがえるのは、むろん、単独犯説による。いっぽうで、複数犯ならば、男女がいてもなんの不思議もないわけだが。

似顔絵担当の鑑識課員は、ここで矢野からたのまれていた質問をした。「おとこらしくない風貌やしぐさに気づきませんでしたか?」その具体性だが、本来の質問者である矢野にもわかっていない。くやしいが、犯人像がうかんでこないのだ。

でもって、質問の意図を理解できない表情が三つならんだ。

ややあって、「西?だったかな。そいつが女だったかもって?それはないな。なよなよしていたなんてなかったし。それに声だって、どうきいてもおとこだった、うん、まちがいない」との会長の発言。

つられて、事務員たちはゆっくり首肯をしたのだった。

大事なことだからと、具体例をあげることにした。「男女で、たとえばのど仏にそのちがいがあらわれますよね」。

しかし、三人ともが思いだせないと答えた。

「では、男性らしくないしぐさ、小指をたててグラスをもつとか」

今度はおばさんたちが即答した。「それはなかったと、はい。だってそんなしぐさ、気持ちがわるいでしょう」お互いを見あわせながらうなずき合った。

まあこんなものだと、矢野へのおみやげをもち帰れそうにない鑑識課員は、当初の、似顔絵をかくための質問にもどるしかなかった。「これというような特徴は?そうですね、ひげを生やしてたとか、キズがあったとか」

それにたいする事務員の発言がふるっていた。「イケ面だったら、そのへんしっかり覚えているのにね。さっきの、のど仏の出具合についても。ああ、そういえば鼻の横にすこしおおきめのホクロがありました」であった。

それについても、どちら側だったか一致しなかったのである。

もうひとりは、ちがう表現をした。「印象がうすいというのか、存在感のない、寡黙だったこともあり、かすみのようなおとこでした」

ワンマン会長も、じぶんたちの嫌疑が晴れたことに気をよくしたのか、口をひらいた。あるいは先日の警察官たちとちがい、盾つくような態度ではなかったからか。「おとなしいというのか、気が弱そうな…」

これには、ふたりの女性ともに同意した。「こまかいことに、よく気はつくけれど、それだけが取柄みたいな」

さて鑑識課員だが、かれらがいった、顔立ちがバラバラだったことを意にも介していない。顔のパーツよりも、むしろ、雰囲気やざっくりした印象に重きをおくタイプだったからだ。

あとの雑談めいたことを耳にしながらも、似顔絵作製歴十一年の手練(てだ)れは、ひとの記憶が当てにならないことを、数えきれぬほど身でもって体験してきたのだから。それゆえ、印象が三者三様だったとしても、不満ではなかった。

かれは、折衷案で描いていったのである。顔の部位で、三人のうちのふたりが一致すればそれを採用した。三者三様だった場合は、いちばん自信ありげな記憶をたよりにかいていった。

そんな鑑識課員は、基本的に事情聴取には興味がない。顔だちと背格好と服装にだけ耳をかたむけている。事情聴取めいたものは、録音機にまかせればいいと。このての雑談が捜査の参考になることを、若いころのデカ経験で知ってはいる。

それに、矢野警部に、録音を依頼されてもいた。

ところで雑談のつづき。

「だいいち、面接の日をいれても五日かせいぜい六日ていど、事務所にきていた期間って」とは、もうひとりのおばさん。どこか言いわけがましくもきこえた。

それでもどうにか描きあがった絵をみて、これまた三者とも小首を傾げていた。なんどか描きなおしや加筆を試みたが、これはというものは、ついにできあがらなかった。

それでも無いよりはましと原刑事部長の判断で、マスコミをつうじて似顔絵をながしたのだった。…ものの、かえって捜査を混乱させてしまったのである。過去の失敗にたいする反省も訓をえることも、しなかったけっかだ。

それは1968年、東京都府中市で起きた三億円強奪事件(1975年12月10日に公訴時効が成立した。ちなみに2022年現在においても、テレビ番組がとりあげるほどに有名な未解決事件である)の犯人写真(警視庁がマスコミをつうじ大々的に公表したが、じつはちがっていた。被疑者のひとり、かりに少年Aとするがそのおとこに似た、しかし別人の顔写真だったと後年になり発表したのである。別人の写真公表という愚行がいっそう、捜査を混乱させたといわれている)の失敗因が、教訓にはならなかったということだ。

不祥事つづきの警察は責められるべきだが、会長たちを責めることはできない。二か月ちかく経過しているうえ、人間の記憶などというものは、本来かなりいいかげんなものだ。

たとえば職場の同僚などで、関心をもてないひとの顔を思い浮かべてみると、それがよくわかる。かりにあなたが専門家に似顔絵を描かせることになったばあい、対象者の顔の各パーツの形状を的確にいえるだろうか。

そのような事実もふくめ、だから名探偵シャーロック・ホームズは、「観察力が大事」と相棒のワトスンに強調するのである。

ところで、絵空事のような探偵小説などよんだことのない和田。「そんな暇があったら、目のまえの仕事に集中しろ!」…タイプのデカなのだ。

そんなかれだが、凶悪犯罪の散見する現実世界に生きるデカとして、ここにきて、あることに思いがいたった、

――名前も住所もデタラメだった。とうぜん、じぶんを特定されたくなかったからだ。だったら、かんたんな変装くらいしていたのではないか?――と気づくのに、えっ、やっと、の感は否めないが。

それでもまあ、原主導の、刑事たちによる、似顔絵を手にしての地取り捜査が進展しないなか、和田のこの仮説だが、ふたつの殺害においてほとんど証拠をのこさなかった犯人ならば、無造作にすがおを曝(さら)すはずがないと。

つまり、ホクロも出っ歯も怪しいということだ。そうとみせるグッズなら市販されている。むろん、変装していたという証言をえたわけではないが。

まちがいないのは、残念ながら、直接接触したかれらの記憶に食いちがいがおおく、期待をもてないということだ。

ところでもうひとりの鑑識員だが、犯人がつかっていたロッカーを中心にトイレまわりやそなえつけの什器類等の指紋採取に黙々といそしんでいた。しかし、拭きとった痕跡を確認できただけであった。

帳場がかけていた期待は、むなしいものとなってしまった。

せっかく犯人が影をちらつかせたにもかかわらず、その影すらとらえることができないのかと、無言の悲観が、帳場の全員におおいかぶさったのである。

 

だが、悲観材料ばかりではなかった。犯人の身長である。映像およびドローン盗難被害者や、おばさんたちの証言が、160センチごえでほぼ一致していたことだ。

このことにおいても、犯人はやはり単独犯ではないか、これが矢野の見解だった。場壁邸付近で目撃された不審者、男女や年齢などなど、たしかに日替わりではあったが、きまって単数だったではないか。

それに、第二と第三の事件で間隔があいたのも、警察を油断させるためだった、ではなく、単独犯だからだ。むろん、異見を承知のうえで、複数犯ならいろいろと手わけができるぶん、四十日という日数の、ひつようはなかったはずだとした。

ただ、単独犯説をはばむべく、おおきな難点がある。盗難被害者の証言だ。「美女だった」と断言している。

しかし、“オネエ”と呼ばれているひとが出るテレビ番組でも、またタイのニューハーフコンテストでも、明かされてはじめて、おとこだと驚かされることもすくなくない。

で、こちらも確証はまだないが、ドローンを盗んだ犯人、やはり女装だったのだろうと再度。

捜査が行きづまった状況にかんがみ、矢野は会議で、一考をと原にせまった。それだけの価値があるはずだと。

しかし原は、矢野のはあくまでも思いつきにすぎず、根拠に乏しいとした。またなにかと錯綜しており、あらたな捜査方針は弊害として、捜査員を混乱させるだけだとも。

そのうえで、じぶんの「捜査方針にしたがいなさい」そう、命令したのだ。数段、階級がしたの警部に指図されるのを、たんに、よしとしなかったのである。

数年まえに弾劾罷免されたどこかのバカすぎる大統領のように、傲岸で独断なのだ。

じつは心の底で矢野に敵愾心をいだいている原刑事部長は、耳をかしたくなかっただけなのだ。

黙殺しつつ、手づまりの捜査本部として、徹した地取りをかけさせたのだった。

そんな状況下、矢野は、上の命令による持ち場をこなすしかなかった。とはいっても、岡田とふたりでだった、地取りの成果がでないことを、適当な理由ではぐらかしながら。

原の自己顕示欲や優越感をみたすべく、命令にしたがっていると、ただ見せかけたかっただけなのだ。

いっぽうで、のこりの部下には、犯人につながるなにかを、追わせていたのである。

“西”(本名が東である可能性はひくくないと、矢野はみている)がもよりの駅から徒歩で来所していたとしたおばさんの証言をもとに、まずは、後援会事務所周辺半径三百メートルと、駅につうじるいくつかの道路において、目撃者をみつけられればと。

それにしても惜しむらくは、駅と周辺に設置されている防犯用や監視用カメラがとらえたであろう映像が、すでに消去されていたことだ。西の存在を、もっと早く帳場がしっていれば、消されるまえに、映像をおさえたであろうに。

しかし、ないものねだりをしても始まらない。

ともかくも、偽名西の来所時間と退所時間にあわせて、朝は通勤通学途中の、夜も帰路にある勤め人などや通行人に、例の似顔絵をみせてまわったのだった、

ホクロや出っ歯が変装だったとして、しかしその姿のままで、駅と事務所間を往復していた公算がたかいとふんで、似顔絵をつかったのである。

だけでなく、飲食店やコンビニなどもシラミ潰しにあたったのだった。もし立ちよっていればそこから追跡調査し、有力情報を入手できるかもしれないと期待しつつ。

だが、いずれもあたりはなかった。それでも捜査の常道として、徐々に範囲をひろげていった。いまはこれでしか犯人に迫るすべがなかったからだ。

しかしながら、目撃者をみつけることは、ついにできなかったのである。

日差しは、春めいてきたというのに、帳場は冬のままだった。

 

他方、原が命じる地取り捜査の本隊も、同じ似顔絵を手に、目撃者さがしにかれらの靴底をすりへらさせつづけていた。

事務員の証言からはありえないのだが、しだいに網をひろげる意味で、バスや異なる路線の各駅でも、似顔絵を手にきいてまわったのだった。しかしそのどちらにおいても、目撃者をみつけられないという無残なけっかにおわった。

そこで視点をかえた。

犯人の、もともとの生活の基点が東京にあったとして、千葉にはウイークリーマンションか簡易ホテル、カプセルホテルなどで寝泊まりしていた可能性ならば、ちいさいながらあるだろうと。

だが、こちらも徒労におわった。こうなると、東京からかよっていたとの公算がおおきくなる。

それもかんがえて、犯人が利用しただろう路線の各駅と付近にも、似顔絵をベタベタと貼っておいたのである。が、やはり有力な情報をえることはできなかった。

それにしてもあらためておもうのは、大胆なやり口についてである、犯人は、三人のおとなのまえに姿を曝したのだから。

そんななか、正確な記憶としてはのこらないよう、犯人は腐心しつつ、ことにおよんだのではないか。

周到さと放胆さをかねそなえた年齢不詳の犯人は、行動力でも抜きんでていると、星野もある意味で、内心感心した。ゲーム感覚ではもちろんないのだが、手ごわい敵だと。

なればこそもしあるとして、つぎの殺人をゆるしてはならないと、一種リキんでしまった。口惜しいがいまはそれ以外、なにもできなかったのである。

捜査会議で、各方面での地取りがムダ骨のままで埒があかないとしらされた面々は、下唇に血がにじむほど悔しがったのである。つぎの事件がおきないよう、ただ祈るしかないじぶんたちの不甲斐なさにだ。

 

いっぽう、既述したように、和田以下の精鋭による懸命の捜査も、矢野係長の極秘任務としてすすめられていたのである。

にもかかわらずこちらも、足取りをまったくつかめないまま、イラだちの日にちだけがいたずらに過ぎていた。

しこうして、犯人の幻を追いつづけている矢野班は、どこかで方向のあやまった道をただやみくもにつき進んでいただけ…、はたしてそうなのか?ちがう道に迷いこんだ、たんなる方向音痴にすぎないのか、じぶんたちは、と。

いやちがう、かずかずの事件を解決してきたという自負において、そんなに体たらくではない!

だとすると、やはりは翻弄している犯人がいまは数段上で、奸智にたけた“そやつ“がこしらえた出口のない迷路へと、誘(いざな)われているのではないか?と。

だとしたら、こちらとしては捜査方針をかえ、ちがった視点から見るひつようがある!

で、ここ一両日の矢野だが、迷路からの脱出法はないか?に没頭していたのである。しかし見えてこない。

――とにかく疲れたぁ――で、息抜きしたくなった。

珍しくそんなため息のあと、ふと浮かんだのが愛妻、ではなく、なぜか岡田の顔だった。ブ男なのだが、どこか愛嬌があり和めるから…か。いやいや、そうではなかった、見あげた天井のシミが似ていたからにすぎない。

つられて、飲み会で岡田が酔っぱらったおり、しばしば口にしていた笑いばなしを、思いだしたのである。

ライト級元世界チャンピオン(言っちゃうけど、じつはガッツ石松)が、役者として時代劇に出演したあと、「むかしの人は、仕事のたんび、カツラをつけたり外したり。ほんと、大変だったろうな」と発した迷言を。

疲れているせいか、おもわず鼻でムフゥと嗤ってしまった。役者がカツラをつけるのは客に見せるため。脱ぐのは、役をおえ、カツラの必要がなくなったから。子どもでも知ってい…、そう独り言(ご)ちかけて、頬がこわばった。

あっ!そういうことか!と気づいた刹那、じぶんの不明に、シャーロック・ホームズはまだあこがれの存在でしかないと、ちいさく歎息した。

それはそれとして、気づいたこと。

…犯人は、事務所の三人にみせるために変装し、その必要性がなくなると、すぐさま、すがおに戻ったのではないか。そう、すぐさま!

犯罪者というやつは、できるだけ素顔をみせたくないものだ。とうぜんの心裡である。往路も復路でも、だから、できるだけ変装のままでいただろうと。デカとしての経験から、そう思いこんでいた。

しかしこんかいばかりは、その忖度や経験則が足枷となった。いや、そうではなく、犯人の気持ちになったつもり…が、まったくもって不充分だったようだ。

よくかんがえてみれば、出っ歯にしろおおきめのホクロにしろ、かえって目立つことになる、

ということは逆に、事務所に入るぎりぎりまで、そしてでた直後もそうだが、素顔であるほうが自然とひとごみに紛れこめると。木をかくすなら、同じ木がはえている森こそのぞましいの理屈だ。

つまり、来所前にどこかで“西”の顔をつくり、帰路の途中で変装をといた…。しかもできるだけ事務所のちかくで。

疲労がピークにあるとはいえ、もっとはやくに気づくべきであった。

それにしても、岡田は、やはり貴重な戦力である。おもわず破顔した。

で、後援会事務所をいちばんしっている和田に、この推測を披露したのだった。

「なるほど!きっとそうですよ」と、矢野の着想をきいた和田はひざを叩いたのである。

さっそく、検証すべく、和田は記憶をたどったのだった。

すると、事務所から駅へ百メートルほどの距離に、児童公園があったことをおもいだした。敷地内にたしか、トイレも設置されていたはず、とも。

和田がすむ町の児童公園がそうであるように、昼間は子どもたちのはしゃぐ声にみたされるが、朝はおそらく利用者もすくなく、日が暮れたとなると人影はほとんどなくなるのではないかと。

ならば犯人にとって、まさにうってつけの場所といえるだろう。

さっそく、電車にのった和田は、その公園の平日の朝と夕刻以降のようすを観察することにした。

ところで、矢野係に配属されるずっと以前、まだ若かったとはいえ、早とちりから誤認逮捕したことがあった。それがトラウマとなって、いまでもじぶんの推測にたいし、疑心暗鬼になりがちなのだ。

じつはこれが、矢野にもまだうち明けていない、デカとしての心の深手である。

そんな深手をかかえながら、朝暮、公園を観察したのだった、鑑識にかりてきた指紋採取用キットで、トイレからえられるおとなの指紋のみを検体としつつ。

というのも、犯人はこのトイレで変装したのだろうとにらんでいるからだ。それを、たんなる憶測にはよらず、証拠により事実として証明できれば、誤認逮捕の心配をしなくてすむ。

むろん、ここの指紋だけでは、いまは意味をなさないことを、承知のうえでの採取であった。

しかしけっかからいうと、犯人の指紋を採取できなかったのである。手袋を装着していたとしるにはさらに時間を要するのだが、それを詳述するのは、いまではない。

ともかくいまの和田は、犯人がトイレを使用したという証拠を、みつけた場合の今後の捜査法を、あいた時間でいろいろとかんがえたのだった、ムダになることを想定のうえで。

その思考のひとつが、矢野がとる単独犯説についてである。

カメラにおさまった映像のすべてにおいても、さらには五人以上(公園でのドローンの操縦訓練をみた老人、また場壁邸付近での車中の人物を目撃していたひとたち)の証言でも、いつもひとりであった。

それはさておき、かれはこの公園で最低限とはいえ、成果をえることができたのだった。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (12)

さて、そんな矢野の六日前に、場面をもどすとしよう。

藍出からの報告のあと、「足立区千住大川の荒川河川敷の公園以外で、ドローンを操縦できる河川敷公園を地取りしてみるというのはどうでしょうか」行きづまった捜査を打開すべく、星野に提案したのだった。ただし、範囲がひろいことにおいては尋常ではないのだが。

きいた星野はすぐさま、矢野のおもわくを察知した。おたがい阿吽の呼吸というやつだ。警視庁で、絶妙のコンビといわれるゆえんでもある。

「犯人はどこかで、ぬすんだドローンをあやつる訓練をしたにちがいなく、そのばしょが荒川河川敷公園であろうはずもない」被害者とはちあわせする公算大だからだ。「そういうわけで、ぬすまれたドローンの写真を捜査員にもたせ、それを操縦していた初心者をここ一か月半のあいだで見かけなかったか、しらべようというんだな。わかった。さっそく手をうつとしよう」

即断即決であった。星野の、矢野にたいする信頼のあらわれでもあった。“初心者”との表現をつかったが、そのドローンには慣れていないが、操縦自体の経験はある人間もふくんでいた。はたから見て、ドローンの動きがぎこちなければ、そいつが犯人の可能性はひくくない。

しかも二十代から三十そこそこ(当てにはならないマニア男の証言によるのだが)であれば、事情聴取すべきですと矢野はいい、さらにつづけた。「かりにですが、もしそいつに、ほかの事件のときのアリバイがあったとしてもかまいません。複数犯だというだけですから」

それから一週間後、ドンピシャという情報を帳場は入手したのである。

わりと早かったのは、広場として、操縦訓練にもってこいの長さと広さがあり、電線などのない、しかもできるだけ人目につきにくい、そう、河川敷公園の外側に堤防のあるところを条件に地取りをかけたからだった。

で、ばしょだが江戸川区北小岩四丁目あたり、江戸川に沿い、ほぼ南北にひろがる公園であった。

古賀清二夫妻爆破殺害事件の二週間前から、ほぼ毎日、払暁直前の午前六時半すこしまえから三十分ほどとばしているのを、散歩を日課とする老人が見かけたというのである。

練習に時間をかけたのは、1…失敗できない、2…はなれたところからドローンをピンポイントで標的に激突させねばならなかった、ことによる。

この報告に、矢野係の皆がひざをのりだした。どうじに意外ともおもった。

目撃者によると、短髪で胸がなかったから男、ただし顔まではわからないとのこと。野球帽にサングラスとマスクをしていたというからしかたがない。

さらに残念なのは、のっていたクルマのナンバーどころか、車種もわからないということだった。なぜなら、ドローンを操縦しているおとこのそばで、クルマを見かけることはなかったからだと。

ちなみに、だれもがうけた意外についてだが、ほとんどが口にしなかった。ドローン窃盗犯と古賀清二夫妻爆破殺害事件の実行犯は「別人ですね」と発言したのは、岡田だけであった。

皆が、当たりまえのことなんか言うなという顔をした。

しかし矢野だけがちがった。「その件、ぼくはまだ断定すべきじゃないとおもう」そうかれがつげた以上、やがては明快な事実を披露するであろう。

そんな上司に、全幅の信頼をおいている部下たちは黙ってまつしかなかった。答えをいまはまだもっていない警部に、質問するは“愚”としっているからだ。

むろん、じぶんの推測に自信があったならば、こたえたであろう、犯人は同一人物だと。

おとこが女装し、複数犯にみせているのだと。だがいまは、たんなる思いつきでしかないし、はずれている公算のほうがたかい。その最大の理由が、盗難被害者の証言である。

いくら犯人の女装が巧みだったとしても、目撃者が数時間、身近でみたのなら「美女ではなく、相手はおとこだ」と、気づいたはずである。

「いますぐでわるいが、一連の被疑者の映像を、こんどは君たちで精査してくれ」と、しりたい具体的内容を藍出に命じた。捜査にとって重要であり、部下たちの信頼にこたえるためにも、必要な証拠をえるために。

で、一時間後の成果だが、かんばしくなかった。なにより、犯人がコートを着ていたせいで、体つき、ことに肩幅や胸のふくらみなどを確認したかったのだが、みられなかったからだ。

それにしても、なんという用心深さだと。爆破で、証拠品のドローンは粉々になるはず。それでもドローン盗難と爆殺事件を、警察が万が一むすびつけてもいいようにと、駐車場やタクシーにおいても、顔を隠すための、帽子にサングラスとマスクの装着である。ホクロや傷があったとしても、これでは確認のしようがなかった。

犯人は、綿密で慎重すぎるほどの計画をたてていたのであろう。操縦の練習ちかくに駐車していなかったことでも、計画のきめの細かさがわかる。さらにいえばおそらくは、監視カメラ等の死角に駐車していたにちがいない。

ところで、かりに犯人宅からだとして、公園との往復に、なぜ他の移動手段ではなく車だと、矢野は断定したのか。

これについては岡田でもわかった。バイクや自転車で運ぶには、当該ドローンは大きすぎるからだ。

ちなみにコントローラーからの電波だが、約5キロは届くという。

犯人があるていどの操縦技量を身につけたのならば、かなりはなれた場所から衝突させることも可能だった、となる。

また、盗んだ理由だが、購入に数十万円はかかることもその理由だったかもしれない。犯人の年齢を二十代にかぎったばあい、購入は困難と判断したともかんがえられる。

むろん、ヘタに正規で購入したりすれば足がついたり、かといってネットオークションなどだとガラクタを手にいれてしまう可能性もある。そんなリスクを避けたのかもしれない。

いずれにしろ、矢野らしいせっかくの目のつけどころだったが、さしたる情報をえることはできなかったのだった。

 

矢野はとうぜんながら、八方塞がりのこんな状況下でもあきらめない。

標的の被害者五人に共通するのは、国民の生活におおきくかかわる法律の成立にふかく関与していたことだ。

ほかの六人の巻きこまれ被害者とは、この点におおきなちがいがある。

それを犯人は、さきに殺害した政治家三人にたいし無理やりでも法案をとおそうと画策した輩、あとの元政治家二人は立法府の議長としてそれに加担した、とみたのではないか。

事件解決のための矢野の論理的手段のひとつである、犯人の視点や心理から動機や犯行そのものを穿(うが)ってみたのである。

とはいっても、動機の対象となったのが三つの法律のどれであるかを、ここにきても絞りきることができずにいた。両院の議長だが、場壁が組閣した直後に被害者二人が就任し、そのまま継続していたとわかったからだ。

しかも、与党の党首でもある場壁の意向で人選されたとのこと。つまり、三つの法律のすべてだけでなく、場壁にもふかくかかわっていたのである。

ふだんは事件に追いまくられ、政治ごとにはほとんど縁のない暮らしをしているせいで、両院の議長がいつどうやってえらばれ、いつ交代するのか、星野たちはしらなかったのである。弁護するわけではないが、デカとしては無知であっても、なんの支障もなかったのだった。

ただし今回にかんしては、迂闊の誹りはまぬがれない。むろんのこと、四番目と五番目の事件をふせげなかったからである。いくら政治(世事ではない)にうとかろうとも。

 

それだけにいっそう、じぶんの持ちばである事件解決の突破口を希求する星野と矢野は、原点回帰すべく、ある人物に再度の接触をはかることでいっちした。

キーパーソンとして、地元後援会会長を指名したのである。

もちろん、岩見に誕生日プレゼントをした後援会会長にはとうぜん、捜査員が出向き、すぐに事情聴取をしていたことは既述したとおりだ。

そして今日も、となる。ただしこんかいのは、後援会会長になんらかの嫌疑をかけてのことではない。

“無疑”を根底に事情聴取にあたる理由だが、星野管理官と矢野警部に、いっちした推測があったからだ。爆発物を実名で送るアホウはいないだろう、とかんがえてのこと。

プレゼント自体が粉々になって送り主の名前や住所を再現できなくても、配送会社の記録にはとうぜんのこるのだから。

ところでむかった捜査員だが、二人から直々の指令をうけひとりでやってきたのだ。それだけ、信任が厚い人物といえよう。

二人の希望的観測ではあるが、まともな事情聴取ができていない以上、なんらかの手掛かりがのこっている可能性が、後援会会長のはなしにならありうる。

それを探りあてられるのは、定年退職間近の和田警部補をおいていない、そう判断したからだ。

さて、小雪がちらつく屋外にもかかわらず、後援会事務所を取りまく一部マスコミ陣の熱気だが、ちいさな音を発しつつくすぶっていた。かれらは、矢野係の鬼警部補がうごくことをめざとく察知した連中であった。

その雰囲気に気圧されたのであろうか、来所者はほとんどなかった。

「前回の捜査員とはべつの係なので、あらためていちから質問します」と警察手帳を開示しつつ、和田警部補は断りをいれゆっくりめに頭をさげた。

会長は不満げなくちびるで「さっさと頼む。それで」と、ぶすっと。

了解の意をこめてちいさく低頭した和田は「なにを送られたのですか」まず、プレゼントの内容をかたるときの、会長の目のうごきを見ておきたいとかんがえた。

ウソをついていないか、デカとしてしる必要があったからだ。習性でもあった。また、単刀直入に問うたのは、バタバタしている情況を忖度してのことでもあった。補欠選挙にかんする電話がひっきりなしなのである。

ちなみに、家宅捜索とは名ばかりの捜索は爆破事件のよくじつ終了していた。星野が原の顔をたてつつ助言し、簡易ですませたのだった。時間と経費の浪費をさけるためだ。

さて、地元後援会会長なる人物、岩見とは高校の同期で、親のあとをついで建設会社の社長におさまった六十歳の、ふだんなら脂ぎり、みるからに頑固そうな顔は正直、困りそして疲れはてていた。しかし立場上、そうもいかない。

諸事・雑事は妻にまかせていたが、それでも候補者選任にたいする支援者からの不満や予定候補者への要望などのほか、有力与党議員の応援の日程調整や有力支援者への電話、マスコミの取材対応もしなければならなかったからだ。

そこへ刑事の、いきなりの来訪である。しかも短兵急な質問であった。

以前になされた家宅捜索。それは、警察サイドからすれば簡易だったかもしれないが…。くわえての、けんか腰になった事情聴取。

いずれにしろ、家宅捜索も刑事とのやり取りも、会長がなれているはずもない。だいいち事件から今日にいたるまで、会長にとっては、それどころではなかったのだ。

なのに、しかも殺人のうたがいをむけられたと感じたのである。身におぼえがないだけに、腹がたった。まして、なにごともじぶんが仕切らなければ気がすまないワンマン社長だ。傲岸でわがままな性癖が、眉間にもあらわれていた。

ところで事件現場の近隣居住者という、ただそれだけの無垢の一般人でも、デカの訪問ならびに質問にたいし、快くは受けいれがたいもの。

まして関係者であるうえに、それなりの公的立場もある人物だ。世間の目を気にしないわけがない。くわえてかれの現状をいうと、立候補者の人選が恣意(おもうがまま)とはいかず、こんごの展開も想定できないまま、ただただイライラしていたのである。

さらには報道によると、じぶん名義での贈りものに爆発物が仕かけられていたと。

プレゼントを宅配業者に依頼したことはみとめたうえで、しかし「爆発物であろうはずがない」と、眉をあげてつよく否定したのだった。全面支援していた国会議員の横死だけでもまいってしまうのにと、怒鳴るように本音をあびせたあと、プイとへそをまげたのである。

プレゼントの中身について素直にいえばいいものを、あえて口をつぐんだのはわがままな坊ちゃんそだちのせいか。

そこで、プレゼントを買いにいかされたという事務員に、その内容をたずねた。

「シャツとネクタイとタイピンでした」

会長の怒りのようすにわざとらしさがなく、この四十代中ごろの事務員の応対ぶりにも演技めいたものを、矢野係の最年長者である和田はかんじなかった。

鬼警部補との異名をもつ和田の心証からだと、二人が結託している可能性はきわめてひくかった。二言三言ではあったが、聴取事項は内容的に事実とみてまちがいないであろう。

ならば、どこかでだれかが爆発物とすりかえたことになる。どの時点ならそれが可能か。その可能な時点にかかわれるのはどんな立場の人間か。それが主犯、ではなくとも少なくとも実行犯とみてまちがいないであろう。

ただ実行犯だったばあい、爆発物にかえたあとの主犯にたのまれて、中身をしらずに宅配業者に依頼したという可能性も考慮しておくひつようがあるだろうと。

しかし和田は一時間後、その必要性がないことをしる。

「それらをどこで買いもとめましたか。できれば案内してください」と、さりげなく同行をもとめた。原部長の息のかかったデカたちによる前回の事情聴取とは、この二番目の質問からかなりちがう内容となっていった。

かれらは会長にも、うたがいの“への字眉”で質問していたのである。

そんなことでは、わがまま育ちのかれがすなおに応じるはずなかった。語り手は、きき手であるデカを無視したのだった。

ひと悶着があったあと、立場を失ったデカたちは、まだ若いぶん経験不足だったこともあり、つい感情的に任意同行をもとめた。

会長が応じるはずもなく最後に、「令状かなんかしらんが、その手の書類をもってこい」と一喝したのである。地方の建築会社の社長をながくやってきたワンマンだ、気のあらい連中に睨みをきかす迫力は筋金入りであった。くわえて、デカなど、馬の骨くらいにしかおもっていないのだ。

気圧され、“桜の代紋”のいろが褪せた。結局、噛みあわないまま、かれらはすごすごと事務所をあとにしたのだった。

前回、そんなやりとりもあったが、ベテラン和田の腰のひくい態度に、会長は不承不承の許可をだしたのである。

いった先は、クルマで十数分のデパートだった。

そこで、売り場の店員に問うてみた。

数十日という時の経過はあったが、それでも買いもとめにきたのは目のまえの女性でまちがいないと、パソコンにのこされた売上伝票から贈りものの三点もあわせて確認できた。

「このデパートから直接送らせなかった理由をおしえてください」ふつうならデパートのサービスを利用し相手先にとどけさせるだろうに、さきほど、会長が宅配便で送らせたといったことから、こう推量したのだ。

さすが、警視庁一優秀なデカ集団とうたわれている矢野係で、しかも警部補をはっているだけのことはある。ふつうならきき逃すような些細でも、捜査にいかす技量を身につけているのだ。

「会長が『ネクタイの柄などじぶんの眼で確認したいから、いったん、事務所に持ちかえるように』こんかいはそうおっしゃったので。それでこちらの店員さんに包装しないでください、それと包装紙をください、そうお願いしました」おばさん事務員はなぜか不満げだった。

店員がした肯定のしぐさを尻目に、和田はそのふくれっ面と「こんかいは」が気になり、こんな質問が口をついてでた。「ということは、例年はそうではなかったということですね」

矢野や星野が信頼しているゆえんだ。ここでも事務員のなにげない言動を見すごさなかったのだから。しかもである、この問いのおかげで、第二の事件まえに犯人がかれらのそばにいたと知ることができるのだ。

いわずもがな、このあとの記述でわかることだが、原部長お気にいりの捜査員たちが逆だちどころか空中浮遊しても、凡庸ではできない芸当であった。

「ええ、今回がはじめてです。いままでは一任されていましたから」との尖った眼が、店員にはちょっぴりこわかった。

「理由をききましたか」さすがベテランデカの勘というやつで、はじめてだったり、今までとちがう事態にたいしては、アンテナにピンとくるのである。

前回の捜査員とは、まったくちがった事情聴取となっていった。

かれらは「シャツやネクタイがどうして爆発物にかわったのか。否、だれがかえたのか!」と、そこばかりを責めたてたのである。事務所にいる三人のうちのだれかがすり替えたにちがいないと、はじめからうたがってかかる、先入主による見こみ捜査だったからだ。

ただし疑惑をいだいていても、爆発物を作ったのは別人で、しかも、そんな危険なものと摺りかわったとは知らされていなかった可能性も想定はしていた。

もしそれが真相だったならばこそ、利用されたとしった事務員はおそれ戦(おのの)くにちがいない、「大変だ」どころですむはずのない、最悪のばあい、共犯者として事件に引きずりこまれたことを。

そこまでの原刑事部長の憶測を、捜査員は事前にきかされていたのだった。

そこでかれらがとった手っとり早い手法、それは事情聴取という名目で事務員を個々に別室によび、脅すことであった。

もし主犯を隠避したりすれば、家族とは完全に離別することになりますよと。

「これ以上の犠牲者をだすわけにはいかない」警察官としての使命ばかりを気にしていたから最悪の手段にでたのだ。

原にすれば、じぶんのこの完璧なプランで、「ゲロしないはずはない」…であった。部下は上司に命じられ、したがったまでである。

だがけっかは、成果ゼロという、《急いてはことを仕損じる》を、まさに地でいってしまったのである。犯人逮捕にあせった、愚策でしかなかった。

しかし、だからといってそんなことを警視庁の、しかも刑事部長たるエリートがするだろうか。なるほど、読者としてはとうぜんの疑義であろう。

ならばおもいだしていただきたい、2009年6月逮捕、同7月起訴された村木厚子厚生労働省元局長の冤罪事件を。

いわゆる思いこみから、同女史が障害者郵便制度を悪用したと大阪地検特捜部担当主任検事がきめつけ、立証するための証拠改ざんと同隠滅、さらには上司による犯人隠避までなした、組織ぐるみの犯罪の存在を。==閑話休題。

いっぽう、事情聴取をされた側の事務員たちは、うける直前まで、裏事情どころか、嫌疑の渦中にあるともしらず、よって危機感ももっていなかった。別室にて、警察が殺人事件にかんし疑惑の眼でみていると、はじめて知ったのだ。

戦慄なんてものではすまなかった。どうじに、警察に不信感と敵意をいだいたのだった。

ところで原のプラン、弱いものいじめ程度ですんだのならよかったのだが、捜査の足枷となったのである。

かれらからの捜査協力を、えられなくしたからだ。それどころか、警察に逆らい、捜査員に敵対するような言動をとれば、結局じぶんの身が危ない、そう彼女たちにおもわせただけだった。

ふつうに日常生活をし、嫌疑をうけるなどまったくない善良なひとたちである。

子育てにもはげむ母でもある。なのに、警察にうたがわれ責められればられるほどに、被疑者あつかいされる母親にただ当惑するわが子の顔がうかぶ。

だけでなく、子はいじめにあい、やがては学校での居場所をなくすだろう。

そうおもうと、申しわけなさに心が支配され、焦燥をよび、冷静さをなくし思考力を低下させ、ついには、ふだんなら気づくことさえ、その力を喪失させてしまったのだった。

彼女らは、ただイノセントなだけであった。ふだんならあることを思いだすことで、捜査協力したであろうに、できなかったその不甲斐なさをだれが叱責できようか。

つまり、こういうことだ。

オレオレ詐欺なんかに引っかかる高齢者にたいし、なぜ?そう首を傾げるのは、絶望の淵に立つ危機感へと煽(あお)られつつ、犯人にマインドコントロールをされた経験がないからだ。

彼女たちもある意味、操られていたのである。身におぼえがないぶん、うろたえるばかりでどうしていいかわからず、だからこそまずは身の保全をかんがえる。

ただ、嫌疑をうけた経験がないから、弁護士うんぬんにまでは思慮がいたらない。悪循環だが、身の潔白を証明するしゅだんがわからないから頭が混乱する、そんな状況下におかれてしまったのだ。

それでなくとも、事務所的には、いま、最悪の状態であり、会長の不如意が醸しだすピリピリ感の体現者となっていた。いうなれば、軽いパニック状態にあったのだ。

結局のところ、贈りものが爆発物にかわった理由など、見当がつかなくなっていたのである。

他方、警察官の態度を無礼だとして、激越な感情をたかぶらせてしまった会長。不埒だとして立腹を余儀なくしたかれらに、こたえてやる気持ちなどあろうはずなかった。

それが、かれらがいだいている疑惑を一層深めさせ、やりとりを噛みあわなくさせたのである。

ところで目のまえのおばさん事務員。「会長に理由をきいたりしたら、頭ごなしにしかられるだけですから」和田の質問に、すなおにそう答えたのだった。

先刻のぶっきらぼうな言動に、なるほどと納得した和田は、会長には糺(ただ)すのではなく、やんわりときくほうがよいとおもった。

事務所にもどり、電話応対などで忙しくしている会長の体があくのをおとなしく待った。

そういう殊勝な態度に、「お待たせしました」と。仏頂面ながら、もうおこってはいなかった。和田の物腰もだが、同世代だったことも、会長の気をすこしは和ませたのかもしれない。

「五・六分ください」では、じつは済まなかったが。「で、こんかいのプレゼントにかぎり、会長みずからが確認したいとおっしゃったのはなぜですか?」

「なんだ、そんなことを訊くためにわざわざもどってこられたのですか」こうみえてオレは忙しいんだぞといいたげに。

「中途半端な事情聴取をすると、あとで上司にしかられますので」六年前、うっかりミスを注意されたことが一度だけあったのは事実である。以来、そんなヘマをしたことは一度もない。懲りた、ではなく、自戒したからだ。さらには、年齢が息子ほどの矢野警部を尊敬もしているから、もある。

さて、この矢野係の長は、凶悪犯罪と取っ組みあっているという自覚のもと、捜査に一毫(ほんのわずか)の妥協もゆるさない人物として、刑事部で遍(あまね)くとおっている。

その矢野が十歳のとき、両親を刺し殺され、一般論だが、死刑を宣告されるべき凶悪犯罪者が逮捕されないまま時効が成立したことと、けっして無関係ではない。

「どうかお答えください」ちいさく頭をさげた。

仕方がないという顔がうなずくと、「今回…、アドバイスした若いのがおってな。ここの事務をてつだってくれることになった奴なんだが。その意見をだな、一理あるとおもったから。それに偉ぶらないこのわしは、ひとの意見に耳をかたむける質(たち)だから。とくに若いひとのにはな」自慢げにいうなり、 “ははっ”とこれ見よがし、豪気にわらった。

ひとを心地悪げにする笑みだった。

「“奴”…ですか…おとこだから奴なんですよね」男性事務員がいないのを再度眼で確認すると、「おかしなことをききますが、あの~、どうして男だと」ドローンの窃盗犯は美人だったとの証言が、質問の背景にあった。

「どうしてって、…声も顔つきも、あれはどう見たっておとこだよ」からかわれたとまでは思わないが、それでも少しムッとしたのか、額のしわが深くなった。

「いろんな可能性を想定しておりまして、ですからどうか、お気をわるくなさらないでください」かるく低頭した。つまらんことで、キゲンを損ねる愚はさけたかった。「ところで、どんなアドバイスをうけたのですか」

「寡黙なタイプの人間のアドバイスだからなおさら傾聴したのだが、『人まかせにせず、最終においてごじぶんでお決めになったほうが。でないと、岩見先生が贈りもののネクタイ等をされていても、会長ご自身がそのことにお気づきにならないかもしれませんよ』そんな内容だったよ」

「なるほど」若いおとこの助言にしては気が効いているとかんじた。「それで、そのお若いかたは今どちらに」話をきくひつようがあるとデカ根性がつげていた。

「それが、アドバイスがあった次の日から見かけんのだよ。まあ、ボランティアだから、急にこなくなったからといって、叱るわけにもいかなくてね」

すると横から、「うらやましい話、『家計は家賃収入で充分まかなえる』らしいのですが、母親が入院中なので、こられないときはごめんなさいと初日にいってました。じじつ、きたのは一週間たらずでしたね」おなじみの事務員嬢が口をはさんだのだった。

「つまり、ボランティアできるのは金と時間にこまってないから。それと来所しないことがあっても電話をしてくれるな、とまあ、穿(うが)ったことをいえばこういうことですかね。ところで、だれかの推薦かなにかで」急にすがたをけした青年のことを詳しく知るひつようにかられた。

「そんなもんはひつようないよ、しょせんはボランティアだからね。まあ、交通費やコンビニ弁当(公職選挙法に抵触しない)くらいはだしてたかもしれんが」とセコく、経費に関心をもってたくせに、それでも厚顔にも「若いひとが政治に関心をもつのはいいことだ」と付けくわえたのだった。

会長のとってつけた、まさに戯言(ざれごと)であり無視した。ただ、うたがうことを習性とする身にとって、会長ののんきさにはちょっと驚いたこともあり、「たとえば他陣営からのスパイの可能性について、考慮されませんでしたか」失礼とはおもいつつも、いっぽ踏みこんで問うた。布石の意味あいもあった。

その心は、アドバイスした青年に焦点をあて、情報を蒐集したかったからである。

ところが意外にも、鼻でわらったのだ。「採用時は選挙の時期でもないし、わしのところは岩見の個人事務所でもない。それにいまの時期ここにあつまる情報なんて、他陣営は鼻もひっかけないよ」それから真顔にもどり、「まあ、ほしいとしたら支援者名簿だろうけれど、それもふくめ貴重な資料はすべて金庫のなかだし、開けられるのはボクだけときてる。…だからかれがスパイだったとしても、すこしも怖くないよ」いいつつ、日頃みせるすこし横柄な態度にもどっていた。

そんな会長の言葉を聞きながしながら、またもや和田のアンテナに、今回はややおくれてだったがピンとくるものがあった。それは、先ほどの会長と事務員のはなしに、だった。おくれたのは、場壁殺害の犯人と同一とみたときに矛盾がないか、かんがえていたためだ。

具体的には、「アドバイスをうけたつぎの日から見かけん」という会長のと、一週間にも満たないボランティアという発言に鑑(かがみ)みたけっかであった。つまりこういうことだ。

場壁が射殺された日から時をおかず、そのおとこは事務所に出入りするようになった。そして、プレゼントをおくった翌日から来なくなったからだ。

が偶然といえなくもない。あるいは必然なのか?その点が最重要にちがいなく、だが捜査対象を一民間人におしえる愚を冒すわけにもいかず「贈りものものですが、取りにこさせたのですか、宅配業者に」と、それとなく問うたのだった、そうではない可能性のほうがたかいと思慮しながら。

しかしここでも、和田のまじめな気質がでてしまった。

刑事の真剣な眉をみてとると会長は、「どうだったかな、大事なことのようだから」苗字をよぶ手間をはぶき、先刻の事務員にきいたのだった。

「ええっと、そういわれれば…」ようやく思いだしたのだった。「たしか、西って名前だったけれど、かれが『じぶんで持っていく』って。頼みもしないのに」

――じぶんから進んで!やはり勘はあたった――その、西という若者が爆発物にすり替えて宅配業所に渡した、このように推測した。そのとき以外に、チャンスがないからだ。

――よっしゃ!!――ようやく犯人にたどりついた。ゴクッと固唾をのみこんだ和田は、被疑者とはとらえず、西を犯人と断じた。むろん、和田が雀のごとく、内心躍りあがらんばかりに欣喜したことはいうまでもない。

どうじに急(せ)いた。つぎの犠牲者が、むろんイヤな想定ではあるが、出るまえに逮捕したいからにほかならなかった。「西というおとこの写真はありますか?」おもわず声が尖った。

当惑顔の会長にかわり「ありません。飲み会やなにかで写真でも撮っていればべつですが」と、おばさん事務員が答えた。

「おとこの履歴書をみせていただけますか」当然、あるとおもっている。

「履歴書…ですか。けど、住所や連絡先ならわかります。でも、顔写真はありませんよ」

顔写真がないのは仕方ないとあきらめつつ、「ではその書類、あずからせてください」犯歴があればデータをひきだせる、指紋を採取するためだ。ついでに筆跡も。

「履歴書、ですよね」意気ごんでいる刑事をまえに、申しわけないと、おばさんは口のなかでしばし唸っていたが、それから首をちいさく横にふった。

「ないということですか?」

今度はこっくりうなずいた、

とは、指紋はこの線からも手にはいらないということである。和田の額のしわがふかくなった。

「普通だとあまりないことなんでしょうが、かれの手帳に住所等がかいてあり、それを見せてくれ、わたしがかき写すと、手帳をじぶんのリュックにしまい込みました」

メモ用紙であれば、それをほしいと気軽に手をのばせたのだろうが、手帳ならばあいてが差しださないかぎりそれはできないし、その部分を破ってほしいとも頼みづらい。

この犯人は、ひとの心理をそこまでよんで、計画性をもって、有力な手がかりをのこすメモではなく、手帳をつかったのではないか。

事務員のもうしわけなさそうな眉が気の毒ではあったが、そんなことよりも和田は、できるかぎりの情報を欲したのだ。もはや、ないものをとやかく言っても詮ないいことだった。

ただ、犯人のシッポをしっかり捕まえておきたかったのだ。「だとしても、見せてくれた住所や連絡先くらいはそれにのこしてあるのでしょう」

いわれておばさんは、望みのデータをパソコンのディスプレーにだした。

それをうしろから見ていた和田は、いそぎ、携帯の番号に電話をかけたのだ。

しかしでたのは、田中と名乗る人間だった。

そこで事務員にかわってもらったが、関西弁のうえ、声もまったくちがうとのこと。それでも念のため事情を説明し、当人の今日現在の写真をメールでおくってもらった。やはり別人であった。

さらに必要事項をメモにした和田は、そこに足をはこぶことにした。そのさい、事務所そなえつけの、千葉九区内住宅地図の当該部分をコピーしてくれたことにも礼をいった。

だがおもったとおりであった、番地じたい存在しなかったのである。電話番号も住所も虚偽であった。ならば西も偽名であろう。残念だが、犯人はやはりバカではないということだ。

「西と名乗った青年ですが、会長の言によると交通費をだしていた、で、まちがいないですか」和田は電話で、例のおばさんに問うた。

「たしかに。かれの住所の最寄り駅からこちらの最寄り駅まで」事務員の顔の相だが、先刻までとはうって変わり晴れやかである。

「で、駅からは徒歩で」

「はい、バスにのるほどの距離ではありませんから」ここまですなおに答えていた事務員のムズムズしていた口があつかましくなった。

「西君が、爆破事件の犯人なんですか、やっぱり」好奇心にそまったわかやいだ声であった。どうじに、いちばん大切なじぶんたち家族のきずなが、警察からのうたがいが晴れたことで守られた。それをよろこんでいるトーンでもあった。

「ご協力いただいたので正直に申しあげますが、いまはまだそこまでの嫌疑をかけれる状況にはありません。ただ、警察としてはしらべないわけにはいかない、そのていどです。それゆえご忠告申しあげますが、犯人の可能性について他言されたばあい、名誉棄損に問われるかもしれませんからご注意ください。他言のあいてがたとえあなたのご家族でも、同じです。民事裁判になったばあいは、むろん勝ち目はありませんから、慰謝料を支払わされるでしょう」いらんウワサをたれ流されてはこまると、先手をうったのだ。

ジャブていどの脅しではあったが効いたのか、…慰謝料が数千円単位ではすまないわけで、それに民事裁判の弁護士費用などをかんがえたらすくなくとも数十万円、いや、百万をこえるかも…、入道雲のごとくにふくれあがったおばさんの好奇心はまたたく間に霧消したのであった。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (11)

ともかくも、“七年以上の猶予期間”の謎ときがふりだしにもどってしまった。情けないはなしだが、いまは頭を抱えこむことしかできないのである。

それでも念のため、こんどは昨年の一月十一日を最終期限として、前回の条件にあてはまる出所者を検索させた。

犯人とおぼしきに洩れのないよう目をこらしつつ、それぞれの犯歴をみた。

そのけっかだが、血の気がおおいだけの連中ばかり。たとえば傷害致死や暴行傷害、それに知能犯とはいいがたいやり口の、強盗や窃盗の常習犯等々、今連続殺人事件を遂行できそうな顔ぶれではなかったのである。

これで踏んぎりをつけることができると、矢野はおもった。

デカだからこそかんがえつく“七年以上の猶予期間”が、刑期などのせいではなかったと、ポジティブにかんがえることにした。検索結果の見取りにとんでもない見落としをしていないかぎり、犯人が塀のなかにいたからとの見解は放擲して、べつの見込みを追求できると。

とはいっても、あらたな可能性がまったくもって見えてこない。連続殺人事件の捜査は、暗中模索の闇のなかであった。

 

そんな最中(さなか)、こんどは同日ほぼ同時間帯に、手口のちがうふたつの爆破事件がおきたのである.

ねらわれたのは、どちらも車中の人だった。しかも現国会議員ではなかった。それで、警護はまったくついていなかったのである。

爆破事件のひとつは、車じたいに仕かけられていた爆発物が作動したものと、翌日になり、科捜研と鑑識課の調査分析によりはんめいした。

被害者は国民党の一派閥の元領袖で、三年前の衆院選挙のさいに引退した前衆議院議長の、村川浩二(七十五歳)とかれの運転手兼私設秘書である。

もう一件は、マイカーで自宅の駐車場から出ようとしていたところを、ラジコン操作のドローンが激突し発生した事件であった。もちろんこちらも翌日になり、火薬を確認したのだった。

つまりドローンが、爆発物を搭載していたのである。被害者は、五年前に政界を引退した古賀清二(七十九歳)元参議院議長とかれのつまであった。

四人とも即死だった。

それにしても犯人は、政治家(元職をふくむ)というターゲットのほかに、六人もの犠牲者を出している。岩見事務所では、四人をまきぞえにしたからだ。

いわば、とばっちりで尊い命をうばわれたのである。ねらわれた政治家と、たまたま同席していたにすぎないのだ。むろん政治家も、たとえ悪事をはたらいていたとしてもころされる理由はない。まして六人には、いわれはまったくないのである。なんとも酷いやり口ではないか。

殺人という最悪の犯罪を、どんな理由や理屈があったとしても、ゆるすことはもちろん認めることも、矢野には少年時の酷い経験からも、できないのだ。

標的を仕留めるために巻きこまれた人の死は、いやまして、理不尽にすぎる。――ひとの命をなんだとおもってやがるんだ!!――“激憤”ということばでは到底、肚でさけんだ矢野のいまの感情を表現するには不充分だった。

また、遺族にたいし、ことばのかけようもない。ただただお気の毒で……などですませられるはずもない。警察官として、不甲斐なさともうしわけなさでいてもたってもいられず、いまは憤怒のやり場もないだけにいっそう、犯人を憎々しくおもった。いやがうえにも、犯人逮捕への闘志が燃えあがったのである。

そうはいっても現実は、警視庁も警察庁も、犯人によって翻弄されていた、が実態だ。

もっといえば、所属人数(事務職を除く全国の警察官)約二十五万人という巨大な組織が、手玉にとられているのだった。否、日本政府のみならず日本法治国家そのものが犯人の掌のうえで、弄ばれているのである。

そんな口惜しさは矢野だけでは、むろんなかった。それぞれが歯噛みしながら、ただ情けないはなし、つねに後手後手の帳場であり捜査陣であった。

それでも日々、切歯扼腕ののり移ったがごとき足音をにぶく発しながら、肉親や関係者それぞれのもとに事情聴取にむかったのである、手分けしつつ、地道ながらも入念な聴取を心がけながら。

たとえば、「ただの人になって三年」とつぶやいた村川浩二のつまは、犯人に心あたりはないと悲しげに。看板やカバン等の三バンをついで代議士となった長男や、地盤そのままの後援会も異口同音であった。

もういっぽうの被害者である古賀家の家人や世襲議員となった次男も、新旧後援会のおもだった人々も、ただ悲痛な首を傾げるだけであった。

それでも捜査員はねばった。「脅迫の類はありませんでしたか?あるいは不審人物を見かけませんでしたか。どんなに些細な情報でもかまいませんから」

この質問にも、村川・古賀の両サイドともにこれといった反応はなかった。まったくおもい当たる節がないというのである。

過去三件における事情聴取とおなじで、結局、これといった収穫はなかったのである。

それでも各方面の奮闘はつづいていた。

さらに翌日になり、どちらもが岩見殺害につかわれた火薬と同一成分であったこと、村川浩二殺害には、クルマに取りつけられたのが時限装置つき爆発物であったことも判明した。

火薬が同一ということは、とうぜん同一犯人をしめす証拠となる。成分やその配合までは報道されておらず、したがって模倣犯にできるマネではなかった。

 

それにしてもなぜ、どちらのクルマにも時限装置を取りつけなかったのか。矢野には不思議だった。

時限装置のほうがかんたんで、しかも正確なはずだ。ドローンの操縦は爆発物を搭載させていたぶんいっそうむずかしさを増し、失敗の可能性もすくなくないのだからと。

そのドローンだが、ひと月半まえにぬすまれたものと同タイプであることが、刑事三課からの情報によりわかった。さらにしらべたところ、盗まれたドローンそのものが凶器だったと判明した。

つまり、犯人はつかい慣れていなかった可能性がたかい。だとすると、どこかで遠隔操作の練習をしたにちがいない。矢野はそうふんだ。そこで、盗難にあった被害者に、どこで飛ばしていたか等をふくめ、藍出に事情聴取にむかわせたのである。

似顔絵担当をふくむ鑑識員も、同行していた。

さて、ラジコン模型飛行機も所持している被害者だったが、刑事の来訪のせいでくやしさが再度こみあげてきたのか、「まいにち手入れしていたんですよ」でかい図体の四十代男だというのに、いきなり、半べそをかいてしまった。

そんなことには頓着せず、「知りあいなどのなかで、ぬすんだ人間にお心あたりは?」もしもとおもい、ダメもとで尋ねてみた。所轄がうけつけた盗難被害届の情報しか、この時点では持ちあわせていなかったのだ。

じつはこの被害者、盗難被害届を提出するさい、担当者した婦警がタイプだったため、肝心のことをふせてしまっていた。レンタルビデオ店の受付が若い女性だったばあい、エロDVDを借りにくい心理ににている。

で、おとこは鼻をふくらませると、ごくちいさく首をよこにふった、唇を噛みしめつつ。しかし、眸はちいさな逡巡でかすかにゆれていた。直後、なにかいいたげなそぶりをみせ、目をふせると、数秒後、グチりだした。

「ぼくにとっては子どもなんです。身体の一部なんです。だから、付属品にもお金をかけました。おねがいですからとり戻してください」

「まずは、すこし落ちつきましょうか」

「まってください、いたって冷静ですよ」一瞬、口をとがらせたあと、一転し「で、ぼくとしては、ネットオークションにかけられてないか、必死でチェックしてるんですが…、個人ではたかがしれていますし、どうか警察の力でもって」と、かるく頭をさげた。それからまた、歯噛みをはじめたのである。

ドローンが殺人事件につかわれた凶器だと、知らないのだからしかたないにしても、藍出には呑気にきこえた。

「どんな装備だったかですって?ええとですね、まずは太陽光をエネルギーに変換できるハイブリッドタイプで、記録用の3D8Kカメラ、遠隔操作にひつような飛行状況確認のためのGPSつき通常カメラ、それにピンポイント用集音マイク」と、はた目にはどうでもいいことなのに装備が自慢だったらしく、しだいにマニア顔を呈しせつめいしだした。「さらには、センサーによって進路上障害となる物体を自動で回避しつつ、重さ20キロの荷物を搭載し、目的地まで時速100キロで飛行できるすぐれものだったんです。むろん、操縦免許ももっています」

「なるほど…、障害物を回避しながら飛行するドローンだったと」二・三度うなずく被害者を視界からはずすと、藍出はちいさくうなった。

思考回路が機能しはじめるとき、無意識にうなりがもれるのだった。――センサーに細工をほどこし、機能させなくしたということか――

でないとクルマをよけることとなり、爆破できないからだ。犯人(かりに単独犯だとして)はメカにつよい、とみていいだろう。

しかも、爆発物をはこぶ能力があったとの証言もえた。

しかし肝心なのはここからだ。ぬすまれたときの状況をしることである。犯人特定の材料をえられるかもと。

「じつは…」相手がこんどは男性なので、ようやく決心がついたようすで、「さきほどの質問の件、格好わるい話なんで…。ふたりだけの秘密ということで」これでも、羞恥心らしきものはのこっているようだ。

ん?…てなわけにはいかないでしょう、とは口にださず「だれでも、他人にはしられたくないミスやうっかりはあるものです。で、」とあえてとぼけると、先をうながした。いいにくそうだった眸とくちびるから、なにか隠しているとみていたのだ。

おとこは「そうですよね」と苦笑いしつつ、咳ばらいのあと、つづけた。「ええとですね、…晩ごはん兼晩酌のつまみとして、コンビニでおでんと弁当をかって家路をいそいでいたんです。そこへ、うしろからぶつかってくる人がいて、はずみで、レジ袋からおでんも弁当も路上にぶちまけられてしまいました」

はなしがながくなりそうなので、以下、かいつまんでの記述としたい。

相手が妙齢(年齢をきかれ、女性の年齢はわかりにくいですが幅をもたせて、二十代から三十代前半と被害者はこたえた)の美人だったのでおこることもできないでいると、お詫びにと食事にさそわれた。さらにバーでものみつづけ、気がついたら頭の痛い朝だった。

そこは自宅で、なにがあったかわからないままおきだすと、美女はドローン、コントローラーとともに姿をけしていたというのだ。

目のまえの刑事におしえられ、半強制的に、凶器をぬすまれた顛末を書類に認(したた)める作業をした。二日酔いはほぼおさまっていたが、べつの頭の痛みになやまされることに。

それにしてもだ、藍出には、犯人が女性とはまったくおもいもよらない、青天の霹靂であった。

しかしそれをおくびにも出さず、「犯人は、あなたが飛ばすドローンをどこかで観察していたにちがいない」と推測したのだった。客観的に、偶然による盗難とはかんがえにくいからだ。

ねらいをつけて、このマニアと接触したとみるほうが、計画犯罪を仕組んでいるこの犯人には似つかわしいのである。

「条例にかんがみ、ドローンを操縦していた場所ですが、そうとおくない河川敷公園で、ですか」

…じつは、この質問の返答を、矢野はまっていた。

建物や電線などがなく、歩行者に万が一などもない適切な場所でとばしていたはずだとふんで、矢野は藍出と、訪問まえに地図で確認しておいたのだ。

それによると、被害者の家からクルマで15分ほどの距離に公園はひろがっていた。

「はい、雨のふっていない週末の早朝、たいていは、うちから北西方向の荒川河川敷で」

ドローンの性能や被害者のようすから、最適なブツをこれなら奪いやすそうだと、犯人は標的ときめ、帰路をおそらくは尾行したであろう、被害者の住居の特定は、犯行の端緒であった。

さらにほかの情報も収集後、被害者を食事にさそうために、弁当を路上に故意にぶちまけた。あとは酒をすすめて酩酊させ、おとこの自宅へと誘(いざな)ったのであろう。

で、ふとおもった、これもしっておくべきかと。ギモンをのこしたままは、矢野係では禁物なのだ。「参考までに。コンビニは家のちかくだったんでしょう」

「徒歩で三分くらいですか」

「それで食事はどちらへ…、家のちかくの居酒屋ででしたか」

駅までわざわざタクシーをつかまえて行き、イタリアンをご馳走になり、そのあとのバーもちかくだったというのだ。

ならば、帰りもタクシーをつかったはずだ。

運転手にも事情聴取し、車内設置のカメラが記録した映像もチェックできればと。

もんだいは、そのタクシーをみつけだすことだが、やはり被害者は、行きは個人タクシーだったとだけ、帰りはどんなタクシーだったか、記憶になかった。タクシーの特定には、時間かかかりそうだと。

で、その日のうちにしらべた、イタリアレストランの防犯カメラの映像は、帽子とサングラスで顔をかくしている女性しか、とらえていなかったのである。

それでもひょっとして…、支払いがカードであれば犯人を特定できたのだが、残念ながら現金であった。

ついでながら、指紋がついていたであろう紙幣だったが、とっくに銀行にあずけられていた。

そんななかでもせっかくの映像情報ということで、こんかいも、後日手にいれたタクシーのぶんもふくめ、ニュース番組や新聞などをつうじて公開したのだが、以前とおなじで徒労に終わったのだった。

「ご自宅でねていたご家族は、盗難に気づかなかったのですか」とうぜんのギモンをぶつけた。

「残念ながら独り身です。現在、恋人募集中」死ぬまで恋人募集中をかかげていそうなのは、デブ・ハゲの見た目をもふくむ、典型的なオヤジだからか。

そんなことより捜査である。頭を切りかえた藍出は、こんどもまた、それにしてもとかんがえた。

事前にしらべておいたのだが、ぬすまれたドローンは縦横とも最長部で890ミリと、かなりのおおきさだった。そんなものをどんな手段でもち去ったのかと。夜とはいえ、むき出しのドローンをもち運んだりはしていないだろう。

基本的に、人目につき記憶されることを、犯罪者はおそれるからだ。また、タクシーを利用したともおもえない。たとえなにかで包(くる)んでいたとしても、わかい美人というだけで目立つのに、しかも似つかわしくないおおきさの荷物を持ちこめば、運転手にかならずや記憶されてしまう。

推するに、こんかいの連続殺人犯ならばぬすんだあとどうするかも計画していたにちがいない。藍出は師である矢野に倣った。――ぼくが犯人なら…――と深慮したのである。

けっか、標的ときめたのなら、下調べも完了させていたにちがいないと。あいての正確な住所だけではなく住環境をもだ。

となるとあとはかんたんだった。ちかくに、あらかじめ駐車しておく。これで、目立つことなくはこび去ることができた。

前後するが、事情聴取の最後に、もよりの駐車場の所在をきいた。すぐにおもむくと、管理者に電話をいれ、監視カメラがとらえた映像はチップに記録されていることがわかった。

それを管理会社のパソコンに転送してもらい、そのコピーを鑑識にもち帰ったのである。

こんどこそはと切実な願望をこめて期待したのだが、くやしくも、第一の犯行現場付近で入手したカメラ映像とおなじで、犯人は、顔がわからないよう工夫していたのだった。

しかも盗難車であった。犯人がボロい軽トラをえらんだのは、盗難防止センサーなどがついていないほうが、好都合だったからであろう。

映像を、鑑識課の部屋で見せてもらったわけだが、手袋をするなど、隙をみせない犯人にイラだち、イノセントな床につま先で、おもわず八つ当たりしてしまったのだった。

とはいえ、まったくの無収穫とまではいえない。

盗難車からロン毛を採取できた。調べたけっかは人工毛で、ウイッグから脱落したものだった。がしかし、ウイッグは足のつきにくい量販ものであった。で結局、やはりだが、購入者を特定できなかったのである。

もうひとつは、女性にしてはやや大柄ということだった。車高と対比し、靴のヒールの寸法を差しひいて、それでも163~165センチくらいはありそうだ。

第一の犯行現場付近で入手したカメラ映像とも、ほぼ一致していた。気になるのは、男女のちがいである。そこで思いきった仮説を立ててみた。一番目の犯人であるおとこが、下心見えみえの中年男からドローンをぬすむために、女装していたとしたら?…。

この仮説の弱点は、女装に気づかないなんて、はたしてありえるのか?である。

――あるとしたら、夜であり酒をのんで…。しかし、イタリアンを食べるまえは素面だったろうし…――

藍出は再訪した。

むかえた中年マニアは、「つれていかれたレストランの照明ですか?食堂や居酒屋ほどにはあかるくなかったですよ。ムーディだったのでおぼえています、美人を目のまえにして、いい雰囲気だなぁって。正直、人生ではじめてでしたよ、あんな素敵なデートは。でも、それがドローンをぬすむためだったなんて、…残念です」

ききつつ、藍出は首を傾げた。「失礼ですが、視力のほうは?」

「08から1.0です、ことしの免許更新のときの検査のけっかですが。それがなにか?」

「失礼ついでに。ほんとうに女性でしたか?おとこが女装していたのでは」

“棚ぼた”で食事にさそわれ、しかも下心があったので平常心ではなかったが、いくらなんでもと、おとこはすこし気分を害した。

が、そんなことにひるむ藍出ではなかった。「具体的におききします。ですからよーくおもいだしてください。肩幅は、ひろくなかったですか」

「ふんわりとゆったりしたセーターでしたし」肩幅に興味をもたなかったのも無理はない。まさかおとこではないか、との疑いの眼でみていなかったからだ。「ですが、胸はおおきかったですよ」

パットなどでいくらでもごまかせるのに、マニアはどうやら、はなからスケベ心ありありだったことを露呈させてしまった。

ただしそのぶんは、しっかりと観察し、記憶もしていた。

「女装の可能性なら、ぼくは“いいえ”に手をあげます」ある意味、マニアらしい表現なのだろう。「だって、のど仏がでていませんでしたから」

これには藍出も説得力をかんじた。しかし、であった。「では、最後にひとつ。声はどうでしたか」きかざるを得なかった。

「風邪をひいてるかららしく、少々ハスキーでした。たまにちいさく咳きこんでもいましたし」

「つまり、おとこの声のようにきこえたんですね?」しつこいようだが、とても大事なのだ。

「いえ、そうではなく…。たとえ美人女優でも、のど風邪をひけばあんな声になりますよ」なんの咎(とが)もないイノセントな被害者の立場なのに、せめたてられているようで、気分がわるかった。

そうおもわせたあたりが、デカというまえに人として、いまだ未熟であった。あいての立場やようすに気をくばりつつ、接すべきであった。

「美人を強調されていますが、サングラスをしていたのにわかるんですか?それとも食事中ははずしていたとか」ならば似顔絵をかく、手伝いを頼めると。

その刹那「いえいえ」と、いともかんたんに否定されてしまった。

「サングラスをはずさなくても肌はすべすべしていたし、美人はくちびるのうごきで、なんとなくわかりますよ。あのひとの場合、食事中、くちびるの動きが妙にセクシーで」

には藍出、トホオと落胆したのだった。

これでは、似顔絵だが、期待できそうにないと。

でもって、この予測は的中した。顔をかくしたサングラスのせいもあるが、この中年男、思いこみがつよく、このあと、鑑識員がつくった似顔絵に、世間の反応はなかった。

目撃者として当てにならなかった、ということだ。

ただ、もし当てにならなかったといわれたら、おとこにも言いぶんはあった。まさか、ドローンを盗まれるとはおもってもみなかった、そうとわかっていれば、正確に記憶していたのに、がそれだ。

だがじつは、あわよくばの下心。これが、おとこをたよりない目撃者に仕立てた、最大の因である。

そんな理由はどうあれ、藍出刑事にすれば、犯人と接触した有力な目撃者だと期待していただけに、みごとに肩すかしをくらった、心境だった。

おそらく、もてた経験がないからなのだろう。女性から誘われただけで舞いあがってしまい、いわばクラゲのように、骨抜き状態になってしまったのだ。ちなみにクラゲは、流れにただ身をまかせているような、雄雌異体の浮遊性動物で、脳はない。

犯人は上記のように、もてない男ということを、計算にいれていたのかもしれない。

みるからに、女性に縁がなさそうなこの中年が当てにならないとなれば、このあと入手できるであろう映像を、対照してみるしかなかった。

後日談だが、まずは歩き方にちがいがあるかどうか。駐車場で入手した映像と、例の遠映との比較だ。歩容認証については、科捜研が判断するだろう。

 

で既述の、藍出とともに七つ道具をたずさえた鑑識が、指紋や体毛採取にとりかかっていたのである。

おおきさからみて、女性の指紋とわかるものが、風呂場を中心に数種類でてきた。

真新しいごく最近の指紋には興味をしめさない刑事経験もあるベテランが、被害者にたずねた。「デリヘリ嬢をよびましたか」

理由はふたつ、①もてそうにないのに、数種類②しかも風呂場付近にのみ集中。

電話で自宅訪問要請におうじてくれる、風俗女性であるデリヘリ嬢の来訪の有無をたずねたのだった。

バツわるそうに頭をかいたすがたが返事であった。

ちなみに真新しい指紋には興味をしめさなかった理由だが、犯人が被害者宅にやってきたのは一カ月半ほどまえであった。

時間経過とともに、指紋にはかすかだが、ほこりが付着してしまう。ということは、最近のは犯人がのこしたものではない、となる。

それでもとうぜん、ドローンのおいてあった部屋を中心に、玄関やトイレなどを採取してまわったが、結局、犯人のとおぼしき指紋は、矢野の予想どおりでてこなかったのである。

鑑識によると、拭いてけした痕跡も十数カ所あったというのだ。

さて、ふたりがのったタクシーの特定は、岡田が所轄とくむことに。

藍出が、これくらいの仕事ならこなせるだろうとまかせたのだ。三日後、行きの個人タクシーをみつけだしたのだった。

が、残念ながらドライバーは高齢者で、肝心の女性の容姿についての記憶はないにひとしかった。車内をとらえた映像は日にちのかんけいで、とっくに消去されていた。似顔絵づくりだが、あきらめざるをえなかったのである。

その二日後、帰りのタクシーもみつかった。

しかしながら、運転手から情報をえられる状況にないという、想定外がおきていた。

三週間前、襲いきた痛みにたえられなくなり、緊急入院していたのである。検査のけっかは末期の肺ガンで、各部位にも転移しており、いまは痛みどめとしてモルヒネをうっているという状態であった。そう長くはないだろうと、岡田は医師につげられた。

ところで結論からしるすが、映像からも、捜査を進展させるほどの情報はえられなかった。

しかし唯一の収穫といえるか、顔をかくしていた犯人の肉声をはじめて入手できたのである。だからといって、犯人特定に結びつくとはとてもいえなかった。印象としては、おとこの声のようだということくらいか。

まさかだが、だからニューハーフ、などとするのは早計というよりも、むしろ危険な憶測であろう。捜査を、まちがった方向にすすめかねないからだ。すくないとはいえ、おとこっぽい声の女性もいるのだから。

ただいえる事実、それは、出身を示唆するような方言やなまりはなかったことだ。

さてもこの日、もうひとつの検証けっかも、矢野たちは入手できたのである。

警部は科捜研からのこの報告を、じつは心待ちにしていたのだ。第一と第三の犯人の歩きかたが一致するかをである。男女のみた目は、変装でごまかせるだろうが、歩行時の癖をかくすのはたやすくないからだ。

だが期待は、ここでも裏切られた。速度も歩幅もあきらかにちがっており、もっといえば別人の歩きかたとしかいえないと、技師はそう断言したのだ。

矢野は、低いうなり声をもらした。やるかたない、まさに暗夜のなか、ただ途方にくれる状況をそんなかたちで表現するしか、いまはできなかったのである。

こうして帳場は、すくなくとも窃盗犯については、わかい女性と結論づけた。

ただもし、この技師がほんのすこしでも饒舌であったならば、帳場の景色は、すこしはちがったものになっていたかもしれない…。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (10)

四十日以上、つぎの事件が発生しなかったことで、緊張感をたもっていたつもりの警備担当者たちのこころに、いつしか安堵や油断がしょうじていたのだろうか。

目ざめから床に入(い)るまで、いや、夢のなかまでも緊張感を保持する毎日。そんななか、なにごともおきないことで、気がゆるんだとしても、人情としてはわからないではない。

しかしながら、市民をまもるべき警察官にとっては、故事成語になっている、“無事をよろこび(は、良いのだが)、姑息(息をつくていどの、みじかい時間。ちなみに、転じてのその場しのぎは、この故事成語のばあいは当てはならない)に安ずるの心”が、あってはならなかったのだ。

だがいま、それを悔いている暇(いとま)はない。

で、純粋にデカとして、矢野は思った。

――こんかいは、なぜ日にちがあいたのか――その意味を、かんがえずにはおれない。

犯行を確実なものとするために、捜査陣の気のゆるみをまっていたのか、それとも完全犯罪をしかけるための時間が必要だったのか。

いやいや、矢野の思考についてだが、いまはおくとして、警備部の大失態はとうぜん、全警察の汚辱となった。また、屈辱であった。

かれらのありさまを、ハチの巣をつついたようと表現したとして、それでは控えめにすぎよう。

未然にふせげなかったことにより、捜査に無関係の交番勤務の制服組にも、激震がはしった。

なんの、桜田門(警視庁)の全部署、のみならず察庁(警察庁)をも震撼させたのだった。

他方でも当然の事態が。マスコミが騒がないなど、あろうはずもなかったことだ。ひとことでいえば、大噴火したのである。

全国系一般紙は”縄張り意識の弊害”だとか、“一部エリートによる捜査機能の狷(けん)介固陋(ころう)(かたくなで頑固)的支配”とのみだしで、警察をここぞとばかりに指弾しつづけた。

各テレビ局のニュースや新聞系週刊誌もまけずに辛辣であった。さらに、三流週刊誌や夕刊系新聞にいたっては、”給与泥棒”とか”役立たずの木偶の坊”等、品位のかけらもない烙印をおし、おおいに嘲笑ったのである。

世間も世情不安から、いやまして騒然となった。たとえば非難・批判の嵐は、両組織の受付窓口電話の回線をパンクさせてしまった。

2ちゃんねるなどもだった。二つの警察組織への非難と批判で、いわゆる大炎上したのである。

さらには海外メディアも、前事件時を超過しておおきく取りあげた、政治家をねらい撃ちしたテロとして。

必然、警視総監が矢面にたたざるをえず、一度ではすまされなかった記者会見で陳謝し、どうじに現場捜査員の奮闘と精勤ぶりを強調し、苛烈なしつもんを必死でかわしたのだった。

また、早朝の緊急臨時閣議も、爆発殺害事件時につづき、ひらかれた。

一時間半後の国会では、予算委員会で、責任者である国家公安委員長と総理にたいし、与党議員ですらもきびしいしつもんが矢つぎ早に、はなたれたのだった。

こうして国会内外、いや、国の内外にて、たいへんな騒動となってしまったのである。

しかし捜査にはちょくせつ関係のない以上の件は、この記述でもってあとは割愛させていただく。

 

さて、第三の事件(原も連続殺人事件とみとめざるをえなくなっていた)翌日のはなし…、今件でもサイレンサ―がつかわれていたとわかった。狙撃現場付近において、銃声をきいたというものがでてこなかったからだ。

被弾した現場は、林議員の自宅まえ。ひと区画が二百坪をこえる、まさに上流階級が居住する閑静な住宅街である。

そういう地域だから、工場などがはっする騒音にまぎれて銃声がきこえなかったとはかんがえにくい。時間も、まだ午後九時であった。

肝心の状況だが、男性秘書が運転するクルマからおりた直後をねらい撃たれたのである。

頭部に被弾したせいで、即死だった。一発で仕留められていたことをふくめ、場壁殺害時と相似している、被害者が変装をしていなかった点をのぞき。

模倣犯の可能性もかんがえられた。だが、かなりひくいと推測される。サイレンサー使用も狙撃犯の腕のよさも、マスコミにはふせてあったからだ。そんな理由よりもだ、ライフルマークが、場壁の命をうばった凶弾と同一であったことによる。

さて銃声の直後、眼前のあまりのできごとにとうぜんの混乱をしながらも私設秘書は、いのるような気持ちで119番通報をした。死なれると失業してしまうよわい立場だからでもあった。

それにしてもふたつの事件の政治家にくらべると、政治力はさほどつよくない、――うちの議員に限ってまさかとの――油断とも安心ともつかないきもちが、一連の事件に鑑みるなかで存在した。

だが安心感が、根拠のない妄想であったことに、きびしすぎる現実を目のあたりにし、思いしらされたのだった。

 

ところで批判や非難のおおむねが上層部にむけられたわけだが、健全だったといえよう。

上層部のしじや命令で、現場の捜査員たちはうごくわけだから。つまり現場にとってはあるいみ、給料泥棒などの非難は的はずれでしかないのだ。

とはいってもかれらとて、気にならないは、あたらない。

どころか、ほとんどが責任の一端をかんじていたのである。

そのあたりの機微をくんだ星野管理官は、「しってのとおり、殺人事件の検挙率は100%ちかい」と、正確ではないとしりつつあえて励ますことばを、捜査会議のおり選択した。

では、星野も承知の実態とは…。殺人と認知した事件の95%以上にすぎない、だった。

つまり、殺人事件と認定されていないが、じつは殺害されていたというケース(兵庫県尼崎市や福岡市、さらには京都府向日市での多人数殺人事件のように、おきた当初は事件あつかいされなかった)は、ふくまれていないからだ。

激励をつづけた。「地道な捜査ながらもコツコツといそしんでいる諸君なら、必ず犯人を逮捕できる。だから自分をしんじ、同時に仲間をしんじようではないか。いまこそが正念場なんだから」

合同捜査会議の最後に鑑識をふくむ捜査員たちすべての士気を鼓舞したのである。

矢野係をはじめほとんどの捜査員が、犯人を逮捕すべくおのおの、さらに励んだのだった。

一例をあげれば鑑識課。第三の事件において、指紋や遺留品等の採集、現場写真の撮影など通常の任務とはいえ細大漏らさじの意気で、またこれもとうぜんではあるが、とりちがえや勘ちがいなどのミスをしないよう、いつにもまして細心かつ迅速に活動したのである。

過去において、かみの毛一本、唾液の一飛沫を見のがさなかったおかげで、事件解決につながったという事例は枚挙にいとまがないのである。

線条痕だが、場壁の命をうばった銃弾のものと、99.9%の確率でいっちしたとした。

だからといって、おなじ銃からだとは断言できないのだが。なぜなら、コールド・ハンマーリング製法の銃はどれも線条痕が同一となり、残念ながら、したがっていっちしてしまうからだ。

いわば、金型でつくった製品が、どれもおなじ形容となるように。

くわえてかれらは、こんかいの狙撃現場が廃屋となったビルの屋上であることを、証拠でもって迅速に証明した。

薬莢がおちていなかったことや犯人とおぼしき人間の指紋ものこされていなかったことなど、場壁暗殺との共通点も指摘した。狙撃現場をそこだと特定できたのは、弾丸の被害者頭部への入射角度や飛来方向の確定により、その廃屋の屋上と推定しそこから硝煙反応を検出したからだった。

狙撃した犯人の位置から着弾地点までの距離(射程)だが、計測により、ゆうに90メートルはあるとした。また、現場ちかくでは風速11~14メートル毎秒というつよめの風が、狙撃事件の時間ぜんご、ふいていた。

射程を考慮すると、弾道に影響をあたえる風速なのだ。緻密な計算をして標的をねらわなければ、一発でそれを射ぬくことはできない。

つまり今事件においては、射程と風のつよさからみて、犯人の銃の腕前だが、矢野が前回くだした評価よりも、数段あげざるをえないとおもった。

それはさておき、第二の狙撃事件が、あることへの可能性をかぎりなく100%にちかづけたのである。いまさらながらの、同一犯(複数犯を除外できてはいない)による政治家連続殺害事件をだ。

原刑事部長が忌みきらい、そうであってほしくなかったが、もはやうたがう余地はなくなった。

それでも持ってうまれた性格のせいか、内心――別々の事件であれかし――といまだ願っているのである。それでいちど、模倣犯説を私見として主張してみた。

「なぜなら、ライフルマークが一致したからだ、凶弾の写真やライフルマークをマスコミにすらも公表していなかったにもかかわらず」と。

ならば同一犯人説こそがとうぜんの常識、なのだが、原は異見を展開した。

負けぎらい(負けずぎらいは、異説もあるがやはり誤用であろう)だけでなく、唯我独尊ゆえに他者の意見をききいれない、原らしいあえての一致の理由だが、コールド・ハンマーリング製法による銃を模倣犯がぐうぜん使用した可能性、そこにもとめたのである。

だが、確率的にはかなりひくい。

これがたとえば米国だと、量産タイプだけに比較的安価で入手しやすいだろう。しかし、いざ密輸するとなると,そんなルートをもたないものには困難なはず。

かりに模倣犯だとして、やはり裏サイトをつうじて購入したのだろうが、警察がつかんだ銃にかんする情報には、つうじていないのだ。

ならば、たんなる当てずっぽうで同種の銃をかったことになる。

しかしながら、安手の銃ならアーマライトAR-16とその派生品など、ほかにもあるわけだし、そうかんがえると、模倣犯によるぐうぜんの一致が、どれほどの確率なのか?

自己保身のために、連続殺人事件であってほしくない原…には気の毒だなあ、とは思っていない星野と矢野は、模倣犯説を論理的ではないと、多数のおもいを代弁した。

出世に野心をもたないふたりだからこそ、同一犯と断定して、捜査をすすめるべきだと。

たしかに二番目は爆破事件である。手口がちがうとの原の意見を、無視することはできない。

が、それは捜査をまどわせる効果をねらった結果だと、かれらは主張した。

くわえて、警察は条件反射的に同一手口に警戒をするであろうと犯人はよみ、狙撃にたいする警護に重点をおいているそのウラをかかんとして、爆発物使用を二番目の手口にしたのだろうとも。

さすがに、会議での空気をよんだ原、「同一犯で捜査が混迷するようなら、そのときはわが説でいくぞ」と、いったんはおれたのだった。

ただ、そんな原でさえひとつのおもいをもっている。犯人逮捕もだが、あるべからざる四番目の事件に、厳重警戒せねばならないと。

狙撃、爆破とつづいた大事件をまえに、警察が戦々恐々として捜査を絞れずとまどっているスキに、三番目には狙撃という再度の手口をつかったからである。

深よみするならば四番目があり、その手口だが爆破である可能性がたかいのではと…。あるいは新手でくるかもしれない。

そうなると、警備や警戒をしたくとも、その的確な手法にこまってしまうのだ。警察として、いかなる手をうてば未然にふせげるのか、しかしながら有効な手だてがないというのが現状だからだ。

のこされた手は、もう一度、動機を絞りこむことである。その方途だが、被害者たちの共通項から、あるいはかくされた動機を見つけだすことができるかもしれない。

警視庁が束になっているにもかかわらず、情けないはなしだが唯一そこにのぞみを託すしか、もはやないのである。

何度目かがわからなくなるほどの、現捜査会議において。

かんがえられるのはやはり、政治的もしくは個人的なうらみであろう。

だがすくなくとも、政敵でないことは地取りではっきりしている。

となると、政治家三人にたいして怨嗟をいだく人間か、そのひとによほどちかしい人物が犯人と想定できる。たとえば親子・兄弟・配偶者・恋人のたぐいだ。

なぜちかしい人物にまでも想定をひろげたのかというと、あくまでも仮説だが、怨念をいだいていた人間はすでに死んでおり、その復讐と遺恨ばらしのための連続殺人かもしれないからだ。

そこまでひろげてでも、導きだしたい犯人像なのである。

とここで、原部長が口をひらいた。「きてれつな政治結社、あるいはテロリストだとすれば、そうとうな困難を覚悟しなければならない。動機と犯人をむすびつけるのが難しいからである。もしくはある外国、たとえば近隣にいちする独裁国家がおくりこんだ殺し屋。経済力を盛りかえし、世界第二位の経済大国に返り咲いた日本国の政治力をよわめるとともに、恐怖により経済活動をよわめようとの邪悪な意図をもった国家テロ、しかし、これが事実ならきわめて厄介だ」と。

これがそとに洩れたら外交問題になりかねないが、リークする売国奴は、捜査陣にはいなかった。

「なるほど。しかしその件は公安部にまかせましょう」と星野、自分の責任論で頭がいっぱいいっぱいの原に逃げ道をつくってやりながらいった。

国家テロを示唆する情報がなにひとつない現状だ。事件が解決してみれば、杞憂だったとなるかもしれない海外の国家テロに煩わされるひつようはないし、ばあいでもない。ただ、粛々と捜査をすすめていくだけだ。

そうと決心し、星野の眉間はもとのかたちに納まった。事件解決もだが、以後もつづくと推考される犯行をくいとめる方途こそ大事と、腹をかためた。そこで、議論をもとにもどした。

かんがえるべきは、被害者三人の共通点が与党の幹部だということ。

だから、これは100%大丈夫とはいえないが、野党議員全員と与党の若手を警備対象からはずしてもよいのではとも。それでなくとも対象者がおおすぎて手がまわらないほどなのだ。

さらなる共通点について、星野が各事件の直後、場壁政権時のことをおもいだした結果、岩見は当時の党幹事長であり、林はふたつの大臣職を兼務する閣僚であった。

だからといってこの共通点が、犯人にとっての動機にかんけいしているとはかぎらない。この共通点だけでは、漠然としすぎているといえなくもない。

この三人が、たとえばひとを殺したとかいうのならば、はっきりとわかりやすいのだが。

そんな事実は、しらべたかぎりではなかった。たしかに当時の場壁政権は、PKO(国連平和維持活動)の一環として治安がさらに悪化したソマリアに自衛隊を派遣した。

だが、そこで命を落とした自衛隊員はひとりもいなかったのである。

ぎゃくに非共通項として、性別はむろんのこと出身地、出身校、所属する党内派閥等においても、これといって一致するものはなかった。場壁政権時の首脳だった以外にはなかったと結論したのである。

そこで――場壁政権時の政策にからんで、動機を見いだすことはできないか――と星野はとうぜんかんがえた、すこし飛躍しているかもとおもいつつ。

ただどんな可能性であれ、排除すべきではないのだ。というのも、三人が強力に推しすすめた政策がかなりあったと、記憶しているからだった。

――まずはそれらをピックアップしてみるべきだろう――

この提案を刑事部長に具申し、それに原はしかたなく応じたけっか、プロジェクトチームが立ちあげられた。場壁政権下でせいりつした大小百八(他政権と比較して少ないのは、野党がこぞって本気で反対する法案ばかりだったからだ)の法律の背景が、こうしてかれらにより検証された。

五日後、睡眠時間をおしんでの労作業のすえチームは、三つの法律にしぼったのである。それ以外の、たとえば消費税増税や法人税減税、相続税改正(控除額がそれまでの五割に減額された)法や民法の改正など、国民の生活に直結する法律も相当数あった。

が、殺害動機をはらんでいそうにはないとふんだゆえにだ。

たしかにこのなかでは重税感をもたせることになる相続税改正法ではあった。一例だが、巨額の相続税を納めねばならないたちばの人間がいたとする。しかしながらぎゃくに、自分の懐にはいる額はとうぜんながら納税額よりおおいわけで、その手の金満家なら、この法律の成立に殺意をこめた恨みがましさまではもたないであろう。

そういう論理で、プロジェクトチームはこの法の成立を該当外としたのだが、星野も同感であった。

なるほど相続税にかぎり、納税の手段として物納という方途も条件つきでみとめられているが、一般的手段としては不動産や有価証券などをまずは現金化する。そのばあい、購入時より価値がさがっていて損をすることも多々あろう。

たとえそうであっても、手元には相当額がころがりこむのだ。不満はのこっても、殺人などの違法行為にはいたるまい。

おおまかにいって以上のような取捨選択により、プロジェクトチームがピックアップしてきた三つの法律が、以下であった。

1 特別国家秘密保護法……国会内はもとより、社会全体で賛否がはげしく対立したこの法案の可決に、こんかいの被害者が三人ともおおきくかかわっていた。ところで当時、全野党のみならず、ことに法曹界と放送界をふくむマスコミ、文化人・学者の大多数が、いや国民(ことに、政治に無関心だった若者)のおおくが反対の意思表示をし、国会周辺はもちろんのこと、全国津々浦々で反対集会やデモが連日のように開催されていたのだ。

そんな、一国がヒートアップするなか、反対集会においてひとりの死者がでてしまった。場壁政権の熱烈な支持者がはなった凶弾にたおれたのである。後日、加害者はある右翼団体の構成員菅野辰則、被害者は弁護士の東浩とほうじられた。

ひとりとはいえ犠牲者がでた、にもかかわらず、それでも同盟国である米国の、とくに軍事機密をうけいれやすくするための法として、場壁首相は必要性を説き、岩見幹事長は「反対と声高にさけぶデモはテロにひとしい暴挙」と発言していた。

一方、林は内閣府特命担当相として国会で朝改暮令的な答弁をくりがえし、法案の不備を露呈させていた。つまり未成熟な法案だったわけだが、両院で合計たった五十時間と審議時間もおどろくほどにみじかいまま、ともに強行採決がなされ、国民不在と国内外で論評されるなか可決成立したのである。

じじつ、米国の有力数社のマスコミは、“日本の民主主義の危機”と警鐘をならしていたのだった。英・独・仏などでも同様の報道がなされていた。

2 子育て支援改正法……改善のスピードがおそい国の赤字べらし、その一環として、子育て支援の支給金減額を決定する法律。子供のいない世帯や子育てをおわった世代から“ばらまき“と悪評されたため支援をみなおすと、場壁と岩見は与党国民党の選挙公約としていた。林は少子化担当大臣の立場だったにもかかわらず、減額をうったえた。いっぽう、すべての野党は”子育て支援改悪法“とよんで、法案に反対した。

3 企業による子育て支援改正法……少子化対策として、労基法により労働者の権利としてみとめられている産前産後休業取得、もしくは平成十五年成立の次世代育成支援対策推進法の趣旨を無視し、労働者の産休・育休制度に消極的あるいは否定的な企業にたいしては、子育て労働者へのマタニティハラスメントのていどにより、段階的に罰金を科すとさだめた法律。野党はまとまって、中小・零細企業いじめだとして反対した。

ところで特別国家秘密保護法だが、のこりふたつの法律と比らべるまでもなく利害対立がほとんどないために、連続殺害の動機としては相当に稀薄とおもわれた。

それでもリストアップした理由をチームは、被害者となった三人ともが成立に並々ならぬ執着心をいだいていたと分析したからだった。

二番目の子育て支援改正法にかんしては、子育て真っただなかのひとたちの生活を直撃するだけに、成立当時、悪影響をうける国民の反対のこえがちいさいはずなかった。わけても、こどもが複数家族の憤懣が並たいていであろうはずなかった。

つまり、動機をもった人間がいて、なんの不思議もないということだ。

三番目の企業による子育て支援改正法も、経営基盤のよわい中小・零細企業の経営者にとっては死活問題ともなりかねず、会社を倒産させたくない、労使ともの大規模なデモが国会周辺で連日のようにつづいたことでおおきな社会問題ともなった。

特別国家秘密保護法案のときと同様、鮮明に記憶されているむきもおおいとおもう。

さらには案に反せず、施行後、倒産においこまれた企業は百社をこえたと、当時の新聞はほうじていた。というわけで、「ウラミ晴らさでおくべきか」という怨恨による動機にかんがみ、この法の施行にたいするのが、いちばん強烈にちがいない。

けっきょく、社会的弱者の生活に直結する、これらふたつの法律にむけられた怨嗟のこえこそがおおきかったということだ。

ただし事件解決をめざすにおいて、問題がふたつあった。

捜査サイドからみたばあい、動機をもつ対象者の絞りこみが「きわめて困難」ということだ。

子育て支援改正法において、あおりをくった人間は五万といる(じっさいには五万人では到底すまない)。

他方、企業による子育て支援改正法だと、これが原因で倒産したとの判断基準を、警視庁は有しえない。あるいは経済産業省や総務省ならば、それらしい情報をもっているだろうが。

それにしても、倒産との因果関係を客観的に峻別できるだろうか。倒産の因がひとつとはかぎらないからだ。倒産した側からすれば、稀代の悪法として憤りの標的にしたいだろうが。

したがって、警視庁として対象を特定することなどできない相談なのだ。

もうひとつは、射撃の腕をもつエリート官僚綾部のときもネックになった、八年あるいは七年(国会において審議をするために、各法案の可決成立には当然ながら数か月のズレが生じている)という、ブランクである。

なにゆえ犯人は、七年以上もまったのか。

相かわらず、その必要性、もしくは必然性を解明できていないことだ。

警察官らしい発想でおもいつくのは、その間、刑にふくしていた、である。塀のむこう側にいたのでは、たしかに手も足もだせない。

そこで矢野は犯人へべつの角度からせまるために、逮捕時を起点にカウントし、昨年の夏から十月末日の出所(仮をふくむ)まで七年半前後、官憲によって拘束されていた比較的若い前歴者をしらべてみたのだった。

昨年の夏から十月末日と想定したのは、連続殺害にたいする準備がひつようだと踏んだことによる。

たとえば、場壁の秘匿の夜間行動を追跡するとかライフル銃などを闇サイトで購入するとかには、相応の時間がひつようだったはずだと。

逮捕以降の裁判と刑期を合算して七年半前後としたのは、これも準備期間を考慮してのことだ。七年未満だったとしたら、場壁たちはとうの昔に殺害されていたであろうし…。

しかし藤川がそうさするパソコンの画面が表示した前歴者は、ことばはわるいが、どれもこれもちんけな犯罪者ばかりで、これほどの計画性(知力)と実行力をかねそなえた輩を、見つけだすことはできなかった。

では八年超のやつはどうかと月並みなことを藤川に頼もうとおもって、このときようやくじぶんのバカさかげんに矢野は気づいた。岡田のちいさなギモンが、かれの脳裏に蘇ったからだ。

犯人は一昨年末から昨年の年始にかけて、岩見のオフィスウェブサイトを見ていたのである。だから、誕生日を個人事務所で祝うパーティが恒例行事となっていることをしったのだ。

ということは、すくなくとも昨年の年始、すでにシャバにいたことになる。

つまるところ、こんかいの連続殺人は、自由の身の犯人が一年以上まえからその計画を練っていたとふんでまちがいない。

ならば、法の成立から八年経過の理由が、刑務所にはいっていたというのはとんでもない見たてちがいとなる。

――こんな簡単なことを見のがすとは…おれはあきらかに疲れている――そう自覚するしかなかった。

そういえば、家にかえれない日々がつづいている。睡眠も不充分なら、食事も、つまが毎日もってきてくれる夜のべんとう以外は外食ばかりだ。栄養がかたよってしまっている。部下もおなじなので表にはださないが、ストレスも溜まりにたまっていると。

しかし、そんな愚痴めいたことをいっているばあいではなかった。証言から、“若い男性”という以外、口惜しいけれど犯人像さえおぼろげな五里霧の中で、警視庁全体が立ちすくんでいるのだ。

すくなくとも、犯人は岩見の件でネットを検索したように、一年以上まえから自由の身であった。ならばその間、いったいなにをしていたのか。なぜもっとはやく犯行におよばなかったのか?できない理由があったとしたら、それはなにか。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (09)

いっぽう、岩見事務所への家宅捜索も午前九時にはいり、十時少しまえにはおわっていた。

そのさい、原刑事部長は鑑識員に、パソコンのデータをすべてダウンロード(原本の存在が明確であれば、そのコピーは証拠能力をもつとの、2021年四月施行の刑法および刑事訴訟法改正をふまえての発言)しておくようにと、しじしておいた。

爆発物製造法サイト閲覧記録や製造にしようする薬物と器具、およびライフル銃の購入記録などがのこっていれば、りっぱな証拠となるからだ。

しかし、そんな痕跡はまったくなかった。それでも原はねばった。記録を消去した可能性を主張し、その記録を復元するよう藤川に命じ、事務所にむかせたのだ。

ところで、任意での供出ということには、後援会長がしぶった。

そこで電話ではあったが、原の命をうけた星野が、しかたなく説得にあたったのである。

その巧みに会長はついに応じ、十五分後、許可をだしたのだった。

二台あったパソコンの両方と藤川は格闘したわけだが、結局、記録消去の痕跡をみつけることはできなかったのである。

藤川は命令者の原を無視し、当該事務所に現存するパソコンは事件とは無関係でしたと、上司の矢野に報告した。

かりに、もう一台あったばあい、あるいは会長か事務員の自宅のパソコンをつかったとしたら、しらべようがないわけだが、あんに、ふたりとも深追いするつもりはなかった。

 

で、爆発事件の一報がはいってから二十四時間後、同事件現場所轄の麹町警察署との合同捜査会議が、麹町署内会議室でひらかれていた。同警察署刑事課の大半のデカも、とうぜん招集されたのだった。

ちなみに、国会議事堂とその周辺や霞が関など、国内政治のもっとも重要な地域を管轄する麹町署だけに、人員・予算・建物の規模ともにそれに似つかわしいものであった。

そんな余談はおくとして、今回の爆破事件のせいで、動機にかんし立ちいった捜査をするよう、警視総監が昨夜のうちに原に命じたのである。

一事件にたいし直接のしじをだしたのは、異例中の異例であった。

その意をうけ、軽傷ですんだ秘書たち(和田警部補が事情聴取した)や岩見の妻に、さっそくの事情聴取がなされたのだが、けっか、殺意をいだくほどな政敵は、場壁のときと同様のりゆうで、存在しなかったのである。

にもかかわらず、今後もつづけるようにとの命令を、刑事部長はだした。

だが一カ月後、進展がないためにこの方面の捜査を断念することとなる。

同時並行で、綾部にたいし内偵捜査をすすめていた帳場だった。が、八年の空白のりゆうも、実行犯とおぼしきヒットマンにかんするどちらの情報も手にいれられなかった。

それにくわえ、岩見恒夫殺害にたいする動機を徹底的にしらべあげたが、この件においてはでてこなかったのである。

シロにちかい灰色として、捜査本部はしだいに、かれへの興味をうしなっていった。

ちなみに綾部とは、場壁のしじで閑職においやられたキャリア官僚で、クレー射撃をとくいとしていたことで疑惑をうけた人物である。

 

やがてのことだが、時間ばかりがついやされるが、いっこうに捜査が前進しないでいるうちに、さらにべつの人物も凶弾により命をうばわれてしまうのである。つまり、第三の事件がおきるということだ。

が、その件にかんする勇み足的記述は、ここまでがよろしかろう。

それよりもいまは、足踏み状態とはいえ、千葉九区において当選をかさねてきた、二番目の被害者である岩見恒夫殺害事件の捜査にこそ眼をむけるべきであろう、第一の殺害事件も、とうぜん並行して。

でもって、

岩見に誕生日プレゼントをした地元後援会会長にたいしてもとうぜん、捜査員がむかい、すでに事情聴取をすませていた。

しかしかれらは、収穫をえることなく帰っていったのである。

原部長が、じぶんの息のかかった刑事にまかせたせいだった。かれらは原の意をうけ、懐疑をあからさまなままに事情聴取したからである。

せいぜい、いなかの名士ていどとたかをくくり、国家権力の一端をみせつければ手もなくひるみ、すぐにボロをだすだろうと臨んだのだった。

その後援会会長だが、岩見とは高校の同級生で、親のあとをついで建設会社の社長におさまった六十歳の男性であった。

人を見くだすことになれた人生をあゆんできただけに、――一介の刑事ごときが…――という肚で対峙した。両者がうまくかみあうはずなかったのである。

けっかを電話できいた原は、ちいさく舌打ちした。いちばん怪しい、いやそうとまではいえなくとも、爆破事件にかんし重大なキーをにぎっている人物を、任意同行の名目でひっぱりたかったのだが、拒否された以上は、断念せざるをえなかったからである。

令状がでない現状ではむろん、捜査本部での取り調べはできない。

その令状についてだが、あたりまえの話、発付するだけの正当な理由なくして、裁判所はうごかないのである。

だが、それであきらめる原ではなかった。岩見と会長の関係がしっくりいってなかったのでは?…とみて、内偵捜査を数人に命じたのである。

くわえて、ふたりいる女性事務員にも動機がないか、さぐらせたのだった。

だが三人ともに、いわゆる動機らしいものは、まったく出てこなかった。

ついで、テロリストとつながりをもっていないかも、原は調べさせたのだった。がその女性たち、どっからみても普通のおばさんなのだ。

けっかをここで記すまでもなかった。捜査会議でも、いまだ、なにもでてきていないとの報告ばからとなった。

矢野班ならずとも、刑事部長のあせりに、深刻さが増しつつあるとみてとった。

 

ところでだ、“おたんこなす”といわれる者たちがいる。

でもって、二種類あるようだ。学歴は申しぶんなく、頭もきれる、が、役にたたないやつ。たとえば原部長のように、頭でっかちで現場での捜査経験の稀薄ゆえに、かえって捜査のさまたげとなる人間だ。

もう一種類は、つぎに登場する正真正銘、尾頭つきの、すべて揃ったおバカさんである。

「犯人はどうして」内々で開催される岩見の誕生日パーティをしったのか。

矢野係のなかではもっぱら、おバカでとおっている岡田巡査長が合同捜査会議の途中で、隣にすわる二十五歳の藤浪警部補に小声できいた。

二十五歳で警部補ということは、こちらはキャリアである。

ちなみに矢野係には、警部補が三人もいる。古株の和田と昇格したばかりの藍出、それに藤浪である。この藤浪だが、英才教育をうけさせんと副総監じきじき、矢野警部のもとに配属させたのだった。

「おそらく、岩見のオフィシャルウェブサイトかブログなどでですよ」岡田が年上だということ、藤浪が矢野係に配属されてまもないということで、先輩に敬意をひょうし、ていねい語をつかったのである。

警察組織は階級社会ゆえに、そんな気をつかうひつようはまったくないのだが。

ちなみに、“オフィシャルウェブサイト”とはなんぞやという顔をしたので、企業・団体や著名人等が運営する公式ホームページといっぱんにはそう呼称されていると、せいかくな説明ではないとしりつつ、先輩の顔をたて、小声でおしえた。

その説明がむずかしすぎたのか、記憶にのこった、会議での報告のきれはしを反芻した。「半月で、勝手にきえちゃうんですか?そんなものなんですね」自動消去されるシステムが通常なのだと、勝手に思いこんでしまった。

いっぽう藤浪は、捜査の大勢に影響なしと、思いこみをそのままにした。

で、置きざりにされたまま、ツイッターをつづけた。「便利も善し悪しということですか」三十代前半だというのに、堂々たるアナログ人間なのだ。

その見た目だが、メロンパンのように凸凹で厳(いか)ついブサイク顔のせいか、女性についぞモテたことがない。

にもかかわらず、一丁前にすきな女性がいるのである。あろうことか、警視庁のマドンナ(女優の北川景子ほどではないが、かなりの美形)に、柄にもなくまいっているのだ。

叔父でおなじ係の和田警部補は、それを打ちあけられたとき、口のなかの日本酒を噴きだしてしまった。まさに噴飯ものであった。

凡庸なおいを、叱咤するいみで“バカ田”とふだんから呼称しているが、このときほどバカにみえたことはなかった。“高嶺の花”だからあきらめろと抑えぎみに諭したつもりだが、かのじょは別世界に咲く“月下美人”だと、いってやった方がよかったといまではおもっている。

ところで、身内のおじが凡庸だとおもうくらいだから、係のあるひとりをのぞいては、総意とみていいだろう。

では、その奇特な、ただひとりちがう見解のもち主とは?

だれあろう…矢野警部であった。そのわけだが、いずれわかるときもくるにちがいない。

さて、われらがヒーロー岡田君にかんするエピソードはここまでとして、

捜査会議の報告にあったとおり、岩見の秘書がウェブを作成し、運営する公式サイト上に記載していた。そして、半月にいちどのわりあいで更新され、直前の記載分はそのつど、自動的に消去されるというしくみとなっていた。

自動消去だが、二枚舌をとくい、あるいは常用する政治家という人種は、特殊だからなのかもしれないが、証拠をのこすことを、タブー視する習性のせいではないか。

消してもムダなのだが、失言も前言撤回すれば難をのがれられる、そんなあまい経験がおそらくは身に沁みついているのだろう、セケンを万事軽くみているようだ。

他者による、記載のとりこみや保存がかんたんだと、たとえしっていたとしても。

いやいや、臆断(根拠なく憶測し判断する)はこれくらいにして、事実にもとづいての筆をすすめよう。

とはつまり、去年の誕生日パーティのもようをしるには、昨年の十二月二十八日からことしの一月十一日までに記載されていた告知を、犯人サイドはリアルタイムでみるしかなかったということだ。

暮れから三が日、さらには松の内・鏡割りと、いっぱんてきにいって気忙しい半月である。

ひとにもよるので、こんな世事的なことからだけでは断言はできない。が、そんな最中(さなか)に犯人はある意思をもって、岩見のオフィシャルウェブサイトをみたにちがいない。

さて、会議で、半月ごとの自動消去をしった、このときの岡田のみじかいツイート。

それをつたえ聞いたが、不明にも矢野は、警部として歯牙にもかけなかった。

しかしやがてのこと、バカ田のこのちいさなつぶやきのおかげで、かすかながら光明がみえた気が、矢野はするのである。

矢野警部が“バカ田”とはおもわないばかりか、貴重な戦力だと確信し、ひそかに感謝すらしているのは、岡田ならではの、意外性に起因する。

常人だとおもいつかないギモンや、思い浮かばない発想をする点であろう。でもって岡田は、事件解決の糸口を、知らずしらず提示してきたのである、いままでにおいても。

 

倦怠ムードにおおわれ、士気のあがりにくい帳場において、狙撃事件のほうの捜査だが、地取りからも防犯カメラや監視カメラの映像解析からも、例の遠映いがい、有力な情報をえられないまま、時間だけがいたずらにすぎていることはすでに書いた。

それでも現場捜査員たちは(おざなりなごく一部をのぞき)、情報をもとめ這いずりまわっていた。どこかに手がかりがあるはずと、地取り班も映像の解析班も鑑識課も総力をあげて。

しかしながら、五里霧の中で手探りしている状況に、変化はなかったのである。

もういっぽうの爆破事件の動機についても、なんらあたらしい情報もまったく見いだせないままだった。

捜査本部上層部の――いやはや――というため息と浮かぬ顔ばかりが、会議中鎮座していた。停滞ムードが醗酵をはじめ、あせりすらほのかに漂いだしたのである。

こんな状況下では、犯人像がうかびあがってくるはずもなかった。

まさに手づまり状態がつづくだけの毎日、捜査を進展させるきっかけすら手にできないまま、時間だけが茫々とすぎていったのだった。

そして一月も下旬にさしかかったころ、捜査開始からまだ四十日たらずだというのに、お宮入りの様相を呈してきたのだ。

で、帳場においてだが、焦燥どころか、もはやちいさな諦観を、その不機嫌な眉のしわにみせる幹部すらいたのである。さすがにおもてだっては、口にしなかったけれど。

いっぽう、現場でも、あるいみベテランの捜査員ほど、内心、迷宮入りをかくごしつつ、ちいさく戦慄(わなな)いていたのだった。

外回りの寒さのせいだけが原因ではなかった、鳥肌がたったのは。

それでも捜査は、粛々とつづいていた。

気の毒だったのは、とくに足腰にもこたえるこがらしのなか、目撃者さがしや再度の訊きこみなどが徒労におわり、無為の日々にあまんじねばならなかったことだ。

進展のない捜査ほど、現場の気をなえさせるものはないのである。

そ~んな、狙撃事件から五十五日目の二月八日午後九時すこしまえ、こんどは、与党幹部で閣僚経験者の林絹代衆議院議員が射殺されたのだった。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (08)

またももどす、今度は、12月21日日曜日午前八時半からの緊急捜査会議のあとに。

現事件だけでも胃がいたくなるほどなのに、今以上のもんだいとなるのではと想像させる不吉がじつはある。

否、そこまで深慮しなければならない未来予測の到達点があるということだ。

とはいうものの、この不祥の予測にたいし……とくに根拠があるというわけではなかった。むしろかりの想定としたほうが、客観的には正鵠を射ているであろう。

だとしても、警察官として、危惧すべき事態にそなえる…すくなくとも、つぎの犠牲者をださないための手を打つ必要を、かんじとるということだ。

具体的に想定するに、当初の仮想とは矛盾するようだが、犯人が高飛びなどせずに潜伏し、メンが割れていないのをいいことに、殺害をくり返すという予見。

これが、矢野と星野がいだく危惧のひとつだ、しかももっとも恐ろしい。

そんな、警察官としての恐怖にもめげず憶測をかさねたけっかの大胆、それはプロファイリングもかねることになるのだが――連続殺人は、おそらく犯人にとってはそれなりに由(よし)のある動機や理のある意思をもっての結実、なのだろう――であった。

とりもなおさずそう推したのは、単独犯による徹底した計画犯罪と、矢野と星野にはそんな情景が脳のスクリーンにうつったからだ。

くり返すが、徹頭徹尾の計画犯罪だ、と。遠映(矢野は、背景的にうつっていたあの被写体こそ犯人だと確信している)と、偶然による唯一の目撃者しか存在させないように工夫や工作をし、さらに、カメラが遠映としてとらえた時間が狙撃から五分後だったことか  ら、犯行直後、最短時間で狙撃現場から撤収したとふたりはみてとった。

綿密に謀ったせいかか、あるいはとほうもない凄腕のプロか。

矢野は前者ととった。凄腕のプロならば、場壁邸付近で目撃者に姿をさらさないだろう。

たとえば場壁のスマフォに、技術革新した小型GPSと超小型マイクを取りつける手段のほうが、リスクはすくなかろうと。

腕利きのスリならスマフォを失敬し、工作のあと場壁のポケットにかえすなんて朝飯前だろうから。

ただし客観的にみたばあい、矢野ら見立ての単独犯とは断定できない状況が、醸しだされている。

それを、犯人の故意による工作と星野はいった。だがあくまで心証であって、確証はない。

ぎゃくに、醸された心象のせいで、ざんねんながら捜査経験のすくない、とくに上層部はというと、捜査上まことに不都合なことにおちいった。

場壁邸周辺における目撃者の出現およびかれらの発言内容にかんがみ、捜査をミスリードさせんがため、犯人は故意に露出したのではないか?あるいは、たんにうっかりミスで目撃されたのか、いまだ、その判断にまよってしまっている。

けっか、プロファイリングひとつとっても、原たち上層部は口にこそださないが、錯綜や混乱に埋没しているのである。

いっぽうで、臨機応変なかんがえ方をする現場のデカたちもいる。

頭がよさそうだ、以外の犯人像すらプロファイリングできない本件のようなばあい、異見もあろうが、単独犯よりも複数犯のほうが、捜査になれた現場組にとっては好都合だと。

複数犯だと仲違(たが)いすることもあり、となれば、おのずと尻尾を露呈させてしまうだろう、そう期待できるからだ。

で、犯人たちの反目の原因についてだが、たとえば殺害動機が全員おなじとはかぎらないこともある。

具体例としては、犯人Aは報復であっても、Bは金銭欲や独占欲など各種の欲望に起因する、というような異なる目的で共犯となることも。ことに独占欲のつよい人間をふくむ、金銭目的の犯行だったばあい、仲違いをおこしやすい。

ただし、こんなばあいの問題点も承知している。犯行グループが有象無象(うぞうむぞう)(種々雑多なろくでもない連中)でありすぎると、動機がしぼりにくくなることだ。

他方、なにも犯人側だけが割れるわけではない。集団になれば世の常、一枚岩はむずかしいのである。

それに輪をかける事態。捜査経験のすくない原のような頭でっかちが捜査の決定権をにぎっていると、まあ、ロクなことはない。

まして、リーダーシップも人望も希薄だと、さらにきびしい。警察官にかぎったわけではないのだが、遺憾ながら、同床異夢(おなじ立場ながら、べつべつの思考や目的をもつ)をうんでしまうのだ。

とくにけっかがでやすい警察組織においてだが、極端なばあい、捜査そのものが、真犯人逮捕と同義ではないという歪みがおきた事実もあった…。

いや、上層部の本音においては、事態収拾を第一義としていたのだ。ふるい話、戦前・戦中は冤罪もふくみ、ひどかったが、それはおく。

現場をあずかるデカたちは事件解決を、まずもって目標とする。が、うえは、マスコミの眼や世論への体面を重視する傾向にある。キャリア組ならではの、自己保身がそこに。

情けないが、警察トップのメンツのためだったり、上層部がじぶんらの都合上想定した犯人像と相違したばあいに、あえて“過去”とよぶ事例ではあるが、しんじられない事実が存在したのだ。

それは、警察トップの実体の露呈、事件解決できていないといういみにおいても悪例なのだが、あえて列記するならば、コールドケースとなった、まずは、世にいう”三億円事件“である。

警察組織をまもるために。それが、迷宮いりした最大の理由であろう…通説(ネットで検索してほしい)で、なんともはや恐縮ではあるが。

つぎも、警察への悪口とうけとってほしくはないのだが、同床異夢をもうひとつ。

現場が逮捕すべきだと主張したにもかかわらず、力ずくによるうえからの異議でもって、逮捕のジャマまでしたという、ウソのような話も。が残念ながら…事実ある。

NHKが、特別番組“未解決事件”でとりあげた、有名なグリコ森永事件だ。

捜査員たちがはりめぐらせた網にかかった実行犯を、「犯行グループ一網打尽のためだ」ととうじの大阪府警本部長が、「タイホするな。泳がせろ」と命令したのである。

現場からの再三の、「逮捕を!」との悲痛なひっしの要請を、頑迷にも拒絶しとおしたのである。

未解決は、とうぜんの帰結であった。

 

少々脱線したことをわびつつ、矢野たちの推理にもどるとしよう。

つぎの事件がおき、それが模倣犯によったばあいだ。世間がさわぐのをおもしろがって犯行をコピーする、そんな、ていどのひくい輩(やから)による、過去にもよくあった犯罪である。

あらたな犯罪の発生自体おぞましいことだが、こまるのはわけのわからない奴の介入で、捜査が混乱の底におちいることだ。

じぜんに警戒しておくにしかずと、星野と矢野はどうじに気をひきしめていた。

ただ模倣犯には、精巧な計画性まではもちえないはずだと、そう即座に。

しょせんは愉快犯であり、つよい動機をいだいていない殺害ゆえに、アリバイづくりや動機をかくす精緻(きわめて綿密)な工夫など、輩にはできないにちがいない。極端ないいかたをすれば、いき当たりばったりなのである。

ベテラン捜査員からみれば、へんな表現だが、犯罪そのものに真剣みがなく、そのぶん犯行ないようの質の軽薄さを、矢野らにすればかんたんにみてとる自信がある。

だからといって、むろん油断は禁物だ。ただもんだいは、じぜんの阻止はほぼ不可能だということ。犯罪に傾向性が存在しないぶん、ねらう相手をまったくしぼれないからだ。

無力に歯噛みつつ、でたとこ勝負するしかなく、阻止そのものは、あきらめざるをえない。で、こんな心配、杞憂(とりこし苦労)であってほしいのだが…、

それはそれとして“こだわり”をすて、つぎの犯行を想像するのだが、捜査と同時並行で、いわゆる要人警護にもそうとうな人員をさかねばならなくなるだろうと。

ただしつぎのターゲットが犯人の計画では存在するとしても、だれがいつどこでいかなる手段でねらわれるか、皆目見当のつかない事態こそもんだいなのだ。

それを原部長に進言したのだが、もちいる風情ではなかった。じぶんが希(こいねが)う方向での、事件解決をなし遂げなければと、そのことで頭はいっぱいいっぱい、正直それどころではないのだ。

このときにも、かれの狭量がでてしまった。おきるときまったわけではない事件にかまけておれる精神状態では、もはやなかったということである。

まあそうなるだろうとはお見通しの俊英コンビは、「公安等、ほかの部署に申請や応援依頼をしては…」と打診した。

すると「まかせる」と高圧的に。「ただし、ぼくからというのではなく、参事官の名前で手つづきしてくれたまえ。どういうことかわかるね」頭をさげるのはイヤだ、プライドが許さないということのようだ。だから、部下に懇請させようとのハラである。

なるほど学業は優秀だったのだろうがこのオトコ、はっした言のせいで、度量のほどがわかるということにまでは気がまわらないらしい。

星野管理官は、三階級うえの参事官にたいし、先刻とおなじセリフで打診をした。

定年まぢかの参事官は、温和な人物であった。星野としてはたすかった。それで、原の意向にそったというよりも、かれにたいする軽蔑をこめた無視というきもちで、原刑事部長の愚劣セリフを省略して、参事官に具申したのである。

そのじつ、要人警護強化の必要性をかんじていた参事官は、現場からの依願もあって早速うごいたのだった、上司の軽薄にグチをこぼすこともなく。

 

それはそうと…、日本の警察、ことに上層部には辛辣であったが、存在意義までを全否定するつもりはない。

むしろぎゃくで、国民の生命や財産をまもってもらいたいと、叱咤激励しているのである。

さて、各部はそれぞれのもち場で、とうぜんのことながら、すでにうごいていたのだった。

まずは公安部。守備範囲であるテロ集団や国家転覆をはかる組織への、さいどの調査からはじめていた。可能なかぎりの組織力と機動力で、不穏なうごきをしている集団がいないか、情報あつめに、いやまして奔走していた。

いっぽう原刑事部長はというと、かげで推移をきにしていた。テリトリーが公安とかぶったことが過去に何度もあり、敵愾心をもっていたからだ。

他方、組織犯罪対策部(丸暴とよばれた旧捜査四課)も、暴力団のなかに曲々(まがまが)しいうごきをしているヤカラがいないか、まずは情報屋全員をしぼりあげていたのである。

しかし、どちらもまったくのカラ振りにおわったのだった。

資金に窮しているのか、人材不足なのか、蠢(うごめ)いているテロ集団などなかったのである。

それは暴力団もどうようだった。マイナンバー制度導入では資金面で、さらに約一年前に施行されたいわゆる暴力団非合法化法により完膚なきまでに弱体化し、警察を、完璧なまでに敵にまわす要人暗殺など毛筋もかんがえられないくらい、おとなしくなってしまっていたのだ。

どちらの部署も、こんかいの特別捜査によって、それぞれが日ごろからマークしなければならないヤカラの実態を、知りえたのがいちばんの収穫であった。

いっぽう、要人警護を任務とする警備部は、つうじょうの守備範囲である総理大臣以下全閣僚や両院議長、各党党首等の警護にあたっていた。

そんなさなかでの事件だっただけに、警備部長は守衛強化の方途に頭をなやましていた。人員に余裕があるわけではない由による。

そこへ他部署の参事官から、つぎの事件を未然にふせぎたい旨の懇請があったわけだが、上記の理由により、ことはかんたんではなかった。

しかたなく、警視副総監に警備部として、他部署から人員をさいてもらえるよう請願したのである。

さっそく、交通部を中心にじんいんの補充があった。緊急の特別措置としてだ。

それはいいとしてもんだいは、狙われるつぎがいるとして、それがだれでどんな手段なのか、つまりはだれをどう警護すればいいのか、まるで雲をつかむような話だったことである。

具体的には、現総理大臣以下各大臣などへのSP体制を強化すべきか、場壁元首相が総理だった時代の元閣僚を警護するのか、歴代の総理をたいしょうにすべきかで、検討にはいったのだった。

しかし、結論はでなかった。

そこで、指揮をとる警備部長に一任されたのである。

妙案にないかれは安全策をとり、上記の検討案を網羅することにした。

その肚は、責任のがれにあった。ひとつに絞ってあてがはずれた結果にたいする追及をおそれたのである。結句、ふじゅうぶんな警備になることはさけられなかった。

それでも、配備された担当官は精一杯はたらいたのだった。

しかしながら…、犯人は狡知であった。

 

捜査本部をたちあげて一週間。

にもかかわらず捜査はすでに停滞してしまい、光明を見いだせそうな気配すらなかった。これはといえる有力な目撃者の不在も、因のひとつであろう。

のみならず、星野が不安視し矢野もとうしょから案じていた、銃による捜査がいきづまってしまったためでもある。

死体から摘出した弾丸の線条痕(ライフルマーク)だが、ほかと対比できるような特徴がなかったからだ。先述した大量生産タイプのコールドハンマーリング製法の銃が、捜査にわざわいしたのである。

おそらく犯人は、遺留品というだけではなく、証拠物件でもある銃弾から足がつかないように、大量生産タイプの銃をチョイスしたのであろう。

それでも帳場はだ、犯人がいかに奸智であろうともと…、捜査を粛々とすすめた。

そのかいあって、五カ所の銃砲店において同タイプの銃を、ここ三年のあいだに購入した人物がいたことを突きとめた。むろん購入者は、それぞれ別々である。

またそれよりも早く、凶器と同タイプの銃を、いぜんから所持している被許可者の存在をわりだしていた。

被許可者の氏名と住所等だが、かれらからの届けでをうけつけるのは、各人の住所地を管轄する各警察署であり、おのおのの生活安全課がその名簿を管理している。

そこで警察庁が、警視庁だけでなく首都圏の各県警本部に要請したのだ、同タイプの銃の所有者名簿のコピーを、捜査本部に提出するようにと。

数時間後には、該当者の住所氏名等を記載した書類がファックスでとどいた。合計で、十五人だった。

さっそく捜査員が選抜され、各人の自宅におもむいたのである。

凶器と同タイプの銃をあずかるまえにまず、原が指示したとおり、法により設置が義務づけられている銃保管設備の点検から、かれらははじめた。

けっか、法令を遵守(じゅんしゅ)(法などを守りしたがうこと)した堅固な保管設備を設置しており、いずれも問題はなく、施錠後のキーの保管にも疑義をはさむ余地はなかった。また、鍵穴にキズなどなく、鍵を壊された形跡もなかった。

各担当班から、帳場はそう、報告をうけたのだった。

ところで保管設備を点検したのは(銃所持被許可者が犯人だったばあいは不要なのだが)、ねんのため、盗難の可能性も確認するひつようがあったからだ。

おかげではっきりしたことは、犯人がぬすんで犯行にしようしたあと元にもどしておいた形跡はないということである。

並行して、十五人の各アリバイもしらべたのだった。

日曜の深夜だけにいえにいたと主張し、家人も異口同音にそう証言した。家族だけにとうぜん、信憑性のもんだいはある。

さりとて疑うにたる理由…そのだいいちが動機であることは論をまたないが、それも後日の捜査ではっきりしたのだが、全員にそれらしいのはなかったのだった。

狩猟の時期にまだはいったばかりだったからか、同種のライフル銃からの硝煙反応もでなかったのである。これこそが重要な事実であった。

さらには、猟銃所持許可証も、各人隔三年更新のものを取得していた。

これらを総合的にはんだんし、あやしい人間はいないということに帰結したのだった。

こうなると犯人は、闇サイトをりようしての購入の可能性がたかいということに。

だが、それを追うことはできなかった。既述したとおりである。

 

こんな手づまりのなか、捜査当局の稚拙ぶりを嘲笑うかのように、つぎの犠牲者がでたのである。

与党国民党の元幹事長である、岩見恒夫の爆殺だ。

地元後援会会長から事務所にとどいた荷物をあけた瞬間、惨事はおきたのである。負傷者をのぞき、岩見と秘書や事務員の計五人が即死したのだった。

死者のおおさからもわかるように、かなり強力な爆発物であった。

しかも、2013年四月十五日におきたボストン・マラソン爆発事件を模倣したのか、爆発物をおさめた木箱のなかに無数のクギもいれてあった。

標的については、手口がちがうこともあり、いまの段階での断定はさけるべきだが、おそらくは政治家岩見であろう。かれをかくじつに殺害したい…と。クギは、その殺傷力を高めるためだったにちがいない。

そこから、犯人の執念を、矢野はかんじとった。

事務所のひと部屋が木端微塵となってしまったことからも、その凄まじさがわかろうというものだ。音響もただごとではなく、永田町のとあるビルの十階に事務所をかまえていたのだが、そこを中心にすくなくとも半径二百五十メートルに、爆音がなり響いたのである。

とうぜんのこと、同ビルにどうじにおこった阿鼻叫喚だが、しばらくは収拾がつかなかった。

くわえて、けたたましい火災警報がいっそう、逃げ惑う人々をパニクらせてしまった。

それで、重症者たちの救急搬送の支障になったほどであった。まさに、ごった返していたということだ。

爆破直後にしらせをうけた機動捜査隊とすこしおくれての鑑識が到着したとき、スプリンクラーはすでに作動を停止しており、あちこちで書類ファイルや書物、それにテーブルなどがすこしだが、まだ燻ぶっていた。火事場独特のキナ臭さが、かれらの鼻を圧したのである。

さて、この情報が飛びこんできたのは十二月二十七日(土)、八度目の捜査会議がはじまる間際の午後九時半だった。

この日は岩見の誕生日で、事務所での誕生日パーティは、毎年の恒例行事であった。

通年、本会議も党の行事もない年末であるおかげで、本人が出席することはまちがいなかった。それを狙ったのだろうと、妻と秘書たちは駆けつけた機動捜査員にそう証言したのである。

とはいえ、岩見をねらったと断定できるだけの確証は、せいかくを期するならば、まだなかった。マスコミにたいしての姿勢もそうであった。

そうではあるが、庁内はむろん騒然などの表現ですむはずもなく、巷は巷で、巻きぞえをくうことをおそれる声で、にわかにかまびすしく…。

 

嗚呼。星野や矢野が危惧していた連続殺人の可能性。

それがおそらくは現実のものとなったいま、ふたつの事件からかれらが導きだしたあたりまえの帰結……与党の実力者政治家殺害が犯人の目的だと。

すると、これでおわりという保証はどこにもない、となる。

むしろ、序章でしかないとしたら…?それこそをかれらは、数日来おそれもし、頭をなやませてもいたのである。

「テロ行為だ!」としたうえで、その目的が政治的理由からだろうとの憶測は、被害者が大物政治家であることからまちがいないだろうと。しかし、だからといって、具体的な動機にまでは、いまだ行き着かないもどかしさをふたりは同時にかんじていた。

独善的な宗教者がとく人道上においては、そんな想念こそは不吉だとして、ひかえるべきと苦言を呈するかもしれない。

が、かれらは警察官だ。つぎの標的が殺されるまえに、すべての能力を犯人逮捕に、いや、すくなくともつぎの標的割りだしにつとめ、なんとしてでも阻止しなければならないと。杞憂でおわるならば、それでいいわけだから。

もんだいは畏るべし、つぎもおきるとして、だが、標的が与党の大物政治家なのか、それともべつの括(くく)りに該当する人物なのか。だが見当をつけようにも、データが不足しているということだ。

 

こんな状況下、ふたつの事件にたいし一部に異見もあったが、連続殺人事件として翌早朝、合同捜査本部をたちあげることとなった。

ところで異見についてだが、たしかに一理あった。

犯行声明はなく、殺害手口もことなることから、連続ときめてかかるのはどうかとの少数意見だ。さらに、模倣犯である可能性も無視できないとの意見もでた。

それでも与党の大物政治家の殺害、時期的にちかいこと、および三人目がでれば警察の威信にかかわるなどを理由に、警視総監がじぶんの責任においてと、ふたつの事件をむすびつけたのである。

場壁殺害事件の捜査会議を中止した原は、初動捜査にあたった機動捜査員(現場保全もかれらの任務)をよびつけるとともに、まずは岩見恒夫の近辺、肉親やごく軽症だった秘書・事務員などへの事情聴取を、てわけして開始させたのだった。

ひとり数分ならばということで、治療後に、医師の許可がおりた。

鑑識は、粉々になった爆発物遺留品を、時間をかけておおかた回収すると、科捜研にもちこんだ。おおかたというのは、遺体や負傷者のからだに刺さったクギを、現場では回収できなかったからだ。

爆発時刻は、パーティのとちゅうの午後九時二十三分ごろ。祝誕生日パーティにおけるひととおりの慣行がすみ、贈りもののお披露目がはじまった直後であった。

地元後援会会長からということで、参加者ぜんいんの拍手のあと、横三十五センチ、縦二十五センチ、高さ二十五センチほど(幸運にも軽症ですんだ秘書の記憶による)の木箱をあけた瞬間、爆発したのだった。

その報告をきき、星野・矢野ともにこのときも一致した推測をした。が、べつに話しあったわけではない。話しあわずとも通じあうのだ。阿吽の呼吸というやつである。

じじつ、藍出や和田などの部下は、ふたりを“阿吽のコンビ”と呼称している。また、互いがおなじ見解をもっただろうと、ふたりはともにそう推察していた。

その1 時限装置をつかって爆発させたのではないであろう。依頼者による届けさきへの配達だが、せいかくな時間指定のできない宅配便をつかったとわかったからだ。だいいちヘタな時間にセットすれば、岩見殺害という目的(くどいようだが、証拠から、そうと断定されたわけではない)をはたせずに爆発する事態がおきてしまう。

ということは、爆発により世間をさわがせたいとねがう模倣犯や社会的恐怖心をあおるのが目的のテロではなく、岩見恒夫をねらったテロとの、ごく自然な見解をふたりはとったということだ。

ただし、明確な動機まではまだ推測できないでいた。

その2 箱をあけたときに起爆装置がはたらくタイプであろう。プロパガンダ的意味あいもある政治家の誕生パーティなら、プレゼントの品々をあけて中身を披露することもおおいにありうる。もしそうはしなかったとしても、いざ選挙となればもっともたよりになる地元後援会会長からの贈りものにかぎってはお披露目しただろうし、そのとき、主役の岩見がすぐちかくにいる可能性も相当にたかくなろう。というより、主役なしの披露はかんがえられない。

よって、爆破の規模からさっし、この手法でなら確実に目的をはたせたはずだ。

翌夜、初となる合同捜査会議における、鑑識と科捜研合同の報告(あとかたもなく吹きとんでいたので仮説をふくまざるをえなかった)が、おおむね裏づけた。

木箱のふたにとりつけられたワイヤーが、ふたをあけると同時にひっぱられ、爆発物の起爆装置のスイッチがはいるという、単純なしかけだったと。

くわえて、箱のおおきさと爆発の威力から、爆薬の種類をTNT火薬だと推定できるとした。

具体的には、木箱のなかにアルミ製のうすい箱がおさめられており、その中身は爆発物と起爆装置と無数の五寸クギであったと、回収物から推して、ほぼ確実だと自信をみせた。

つづいて、TNT火薬や起爆装置の製造だが、高校の教科書ていどの化学的および物理学的知識をゆうする人間が製造法をおしえる裏サイトをみれば、慎重さが欠如しないかぎり可能だと、これも科捜研担当者の意見として。

慎重さとは、製造工程で爆発をおこさせないためにもひつようだと。

その、TNT火薬や起爆装置の材料だが、ホームセンターのような量販店でおおくをかうことができ、たとえ手にはいらないものでも、裏サイトでなら購入が可能だと後日わかった。

知能犯らしく、これも、捜査を進展させないための犯人のやり口ではないか。証拠をのこさない巧妙さのなせる業(わざ)ではないか?と。

それは、爆破とそのあとにおこる火災焼失で、配送物の木箱やその中身および包装紙などからは、指紋も届けさき記入欄の筆跡もとれる状況になかったこともさしている。

…そう矢野、ここまでかんがえて、イヤな予感がよぎった。

犯人は、捜査の糸口すらのこさない狡知なやり口を、徹底させているかもしれないと。それが矢野のひらめいきと同一のやり口であったならば、捜査はまちがいなく停滞する。

そうではないことをねがうばかりだが、はやりここは、最強の犯人とみて対処すべきだ。でなければ遺漏(手抜かり)はさけられない。強大な警察力をもってしても足をすくわれるだろうと。

暗鬼(妄想がひきおこす恐れや疑い)からではない。が、やはり瑕疵(ミス)や粗放をさけんとすれば、頭をかかえたくなる問題点がふたつでてくる。

遺留物から、指紋やDNAなどを検出できないであろう。

となるとそれらから、犯人を追うことは実質不可能であり、また、爆薬製造用の薬品や器具の入手経路などの捜査は茫漠としすぎていて、困難をきわめるだろうと。

さらには犯人による裏サイト利用の痕跡、それを追跡しようにもしゅだんがない点も、である。

犯人がつかったパソコン、それが自前ではなく、たとえばネットカフェのパソコンであったとしてもかまわないのだが、とにかく特定ができ、さらに押収もできれば道はおおきくひらけるであろう。

しかし、それらしい被疑者すら浮かびあがってこない現状では、そのパソコンに遭遇はおろか、接近すらもかなわないにちがいない。

 

翌朝いちばんで、地取り班が二十人態勢でくまれた。

被害者家族・あやうく難をのがれたふたりの秘書・訊きこみが可能な軽症の事務員たち、および宅配業者への聴取をまかされたデカたちがふたり一組で十班にわかれたのである。

どうじに、宅配会社と地元後援会事務所には、家宅捜索がなされた。

ちなみに“大物政治家連続殺害事件”であってはこまる原部長、つまり事件が政治がらみでしかもこれ以上おおごとになってほしくない(アジアや欧米各国がニュースとしてとりあげるほどに、じゅうぶんに驚天動地な大事件なのだが)出世主義者のかれは、――単純な誤配か、どこかでまちがって配送物が入れかわった、であってくれ――とただひたすらねがっている。

が、かれにかぎっては、真剣であればあるほど、はた目にはコッケイにうつった。

たとえ連続殺人ではなかったとしても、捜査に進展をみこめない現況がつづけば、おおきな汚点となる、くらいは、だれであっても想像にかたくない。

――そうなったとき、詰め腹をきらされるのはじぶんだ――それをおそれているのである。

できればなにかをきっかけに犯人が逮捕され(別件の被疑者がゲロするケースがたまにあることに期待)、自身はめでたくつぎへと昇進する、ただそれだけなのだ。

しかし誤配ではないことが、配送会社の東京集積センターへの訊きこみ、および奇跡的にかすり傷ですんだ秘書からのききとりでわかった。

この秘書へのききとりは、脳波検査などで異常がでなかったことから事件の翌日、それは宅配会社への事情聴取や二カ所の家宅捜索の三時間後にあたるのだが、医者からの正式な許可がでたよしによる。

また、東京集積センターでの訊きこみにより、配送さきはまちがいなく岩見恒夫事務所、とうぜん、その所在地もあっていたことを確認したのである。

原のうすっぺらな希望的誤配送説は、完膚なきまでにたたきのめされてしまったのだった。

忖度(そんたく)(相手のおもいをおしはかる)しつつも、原の肚づもりなどはどうでもいい部下の星野管理官が、爆発物を荷物としてあつかった運送会社と岩見事務所に届けた従業員にたいし、暖房のきいたデカ部屋で仮眠をとっただけの捜査員をむかわせたのである。

一班をまず、従業員が勤務につきだす、翌日の午前八時まえに着かせたのだった。

睡眠不足ぎみのあたまを、濃いめのブラックで覚醒させた捜査員たちは、犯人の氏名・住所だけでなく指紋や筆跡までもが手にはいると、たかをくくっていた。

しかしながら、物証として提出させた配送伝票ではあったが、それからはなにもゲットできなかったのだ。

ここでも犯人に、みごとにしてやられてしまったということに。矢野のひらめきどおり、犯人による狡知なやり口がなされていたからだ。

じつは、配送依頼をうけたのがちいさなクリーニング店で、気のいい店主が、配送伝票への記入事項を代筆したというのである。

右手親指を痛めているので、書くのがつらいからと、たのまれたらしいのだ。

つまりだ、犯人はそのとき、ニセの氏名と住所をかかせただけでなく、指紋や筆跡ものこさない工夫までしていたのである。

また、個人経営のクリーニング店をチョイスしたのも、そこには防犯カメラが設置されていなかったからであろう。

まったくもって抜かりのないやつと、捜査員は舌をまいたのだった。

ところで、事件関係者である配送会社従業員の事情聴取にあたった捜査員は、配送員をとうぜん被疑者のひとりにあげていた。

それで、配送コースをきめる責任者にも、当日のルートをかくにんしたのである。

各配送員はGPSとパソコンで管理され、きめられたコースどおりか、あるいは食事休憩以外でサボっていないかを、会社側が地図でかくにんできるシステムとなっていた。

その記録をみせてもらったうえで、星野のしじどおり、これには藍出があたったのだった。

ちなみに藍出について。じぶんは矢野警部の、一番弟子と自負している。それだけに、矢野流捜査法を、あるていど踏襲しつつある。

そのかれが、入念な事情聴取をした。

だが捜査員たちの期待にはんし、とうじつの勤務前から終了後においても不審な行動はなかったと、責任者は断言したのである。

ねんのため、ふたりの携帯もしらべた。頻繁に連絡をとりあっていれば犯行グループの仲間ともかんがえられる。が、そんな事実もなかった。

翌日の、通話とメールの履歴調査からも、不審をいだかせる記録はみあたらず、たんなる上司と部下の関係でしかないことが確認された。

つまるところ、地元後援会会長からの贈りものを、爆発物にすりかえる工作は、当配送員ではできないとの判断を、帳場(捜査本部)はくだしたのだった。

そのりゆうを詳述すると、

当該配送会社の東京集積センターにいったんあつめられた荷物は、そこでこまかく区分けされ、最終の各地域配送担当の事業所に、まずはとどけられる。

そして、差出人の素性などしるよしもない荷物を、配達員ははじめて、指定場所へおおまかな指定時間枠内に配達するようにと、しじされるのである。

つまり、岩見事務所に後援会からの荷物をおくりとどける依頼がきたことを、当配達員はしたがって、事前にはしりようがないということだ。

これでは、工作のしようがない。

それでもあえて、担当エリア内の岩見事務所に、いつ依頼があってもいいようにとあらかじめ爆発物を用意しておいたとしよう。

だがそれを、どこに隠しておけるだろうか。

まずは職場の、じぶん専用のロッカーにだったとしよう。

勤務直前、それをもちだして配送用トラックの助手席においたばあいだが、同僚がいるなかでの不審な行動、いかにも目立つではないか。

仕事にはかんけいのない個人の荷物を、なぜ会社の車にはこびこむのかと。

犯罪者心理として、目撃者に不審をいだかせるバカはしない。のちのち、疑惑をまねくからだ。

では、岩見事務所のちかくに爆発物をかくしておいたのだろうか。

岩見事務所への配送頻度はかなりたかかったろうと察せられる。歳暮の時期をすぎていたとはいえ、贈りものなどのとどけものは、頻繁にあったであろう。

だったとしても永田町界隈にて、おき場にてきするところなど存在しない。危険な爆発物を、ぬすまれることなく安全に保管できるとしたら、駅のコインロッカーくらいか。

しかし…、配達員は、きめられた経路と時間枠指定のスケジュールにしたがい配ってまわらねばならず、これがけっこう分刻みという時間とのたたかいなのだ。

そのうえで、道路の渋滞や留守宅があったりすれば、そこでいらん時間をくうことになる。当日のルートにはなかった駅のコインロッカーまでいこうにも、駅周辺での駐車は困難だし、なんとかそれをこなしたとしても、コインロッカーとのあいだを往復する時間的余裕もない。

藍出はそのへんも、ぬかりなくしらべた。

監視のためなのだが、トラックにはGPSがとりつけてあり、それによると、コースをはずれたという記録はのこっていなかった。

それでも、動機についてしらべないわけにはいかない。もしあれば、べつの捜査や手段を検討する必要がでてくるからだ。

だが、捜査員の足をつかれさせただけで、岩見にたいする個人的恨みや悲憤をみいだすことはできなかったのである。ねんのための、場壁にたいしてもだが、同様であった。

しこうして、勤務歴三年目の三十代の契約社員にうたがわしい点は、すこしもなかったのである。

原にとって、有力な被疑者候補がひとりきえたのだった。犯人逮捕にはやる原部長は、この件のみずからの断にたいし、内実では落胆していた。

だが矢野は、これをまずは進展とおもった。さらには、よきかなとも。誤認逮捕しなくてすんだからだ。

一般的にいって、普通ならないことではあるが、もしものときは、大変ではすまない事態となる。誤認逮捕がもたらすこと。ざっと、こうだ。

逮捕されたというだけで、まだ起訴もされていないのに、もっといえば有罪判決を受けてもいない推定無罪のだんかいなのに、世間は犯罪者あつかいをし、つまるところ、そのひとは社会的に抹殺されてしまうのだ。

後日、冤罪と判明しても、もはやとりかえしがつかない。

ゆえに、矢野はタイホには慎重を期してきた。冤罪の基(もとい)となる誤認逮捕をおかすよりは、犯人を逮捕できずにお宮入させるほうがまだましとおもっているくらいなのだ。

むろん、犯人が野放しになったせいで最悪、あらたな犯罪被害者をうむ危険をはらんでしまう。それをかんがえると、お宮入させるほうがまだましというのはたしかに苦汁の選択となるのだが。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (07)

その遠因……嗚呼、かれがまだ十歳のときにこそ見いだせよう。それは、

ふだんの生活において想像できるはずのない、とつぜん感受したる刹那の悲嘆。

それが悲憤に変わるか変わらぬうち、心身をこおりつかせるにあまりある衝撃を、まだ庇護者がひつようなちいさな命は経験したのである。

凝視はむごすぎて、寸秒ももたなかった。ちょくごに気絶したからである。それでも、紅色におおいつくされた記憶は、角膜はむろんのこと、指のさきにまでいまなお刻まれている。

しんじられようか、目のまえによこたわった両親の、血でそまった刺殺死体。

それこそ、筆舌につくしがたい…絶望。

盆のひるすぎにかわした、「暗くなるまえに帰っておいで」とのなにげないいつものやりとりが、今生のわかれになろうとは。

それから二十七年。辛酸をわが身でしりつくしたがゆえに、他人の、とくにおなじような苦悩にたいしやさしく寄りそいつつ、さらにはひとに慈しみすらいだく度量の、それが源泉なのであろう。

どうじに、矢野一彦がデカになった、その基(もとい)でもある。

つまの真弓も上司の星野もぶかの藍出たちも、少年矢野がどれほどに過酷な体験をしたかよくしっている。

両親を惨殺されたばかりか、第一発見者となってしまったことを。紅い海に横たわる変わりはてた父と母をまえにし、そのまま昏倒したことも。

それでも小学校五年生はめげなかった、いや、その悲劇をじんせいの糧にまで昇華させた矢野に、かれらはみな、敬意すらいだいているのである。

 

「場壁は、目的達成のためならたとえ恩恵をうけない人々(“犠牲となる国民”と表現しなかったのは、場壁への愛の所以(ゆえん)か)が出たとしても切りすてるなさけ容赦のない政治家だと、世間では吹聴されています。ですが、個人のたちばにかえったときには、ほんとうに心優しいひとになります」

過去形にしなかったのは、愛するひとの死をいまだうけいれられないからか。「ですから特定の恨みをもつ、そういう個人をわたしは思いえがくことができません」

かのじょのまえでは政治家を脱ぎさったひとりの男であったと。事実であろう。ならば、政治や経済、およびそれにかんする人物のはなしなどという野暮をもちこまなかったのではないか。

「そうですか」犯人を逮捕してほしいにちがいないかのじょを斟酌(しんしゃく)(心情をくみとる)しつつ、ざんねんとの嘆息のこもった「そうですか」であった。

捜査の材料をえられないということは、犯人逮捕がとおざかるということだ。かのじょも辛かろうと。「ではどうでしょう、命のキケンをかんじられていたというようなことは?」

「以前、わたし軽いきもちできいたことがあるんです、政治家ってたいへんなお仕事ですねって。

すると、『どんな仕事もたいへんだけれど、きみがいうように、命をねらうやからがいることには正直閉口するね。政治家がひとりいなくなったくらいで、日本の未来が劇的にかわるわけではないのに…』って、もらしていらっしゃいました」

「それはいつのことです、つまり、最近のことをさしておられたのでしょうか」ならば、秘書にきけば具体的な名前をしりえるかもしれないのだ。

しかし否定のいみでちいさく首をふりながら、「国会議員になったときからずっと、だそうです。『当時からテレビ出演のおおかったぼくは、政治信念をズバリいい放つ若造だったから、でる杭はうたれるってやつでね』って、さびしそうにわらっておられました」そうつげると、涙にうるんだ瞳をふせた。

嗚咽を必死でたえているふうにみえた。

かのじょから事情聴取でえられる情報はもうないと判断し、使いなれたじぶんのスマフォの番号をおしえた、なにかおもいだしたら連絡をくださいといい添えて。これ以上わずらわせるのは気の毒とかんがえたわけだ。

慰めのことばをかけたかったが、迷ったあげくやめにした。そっとしておくことのほうが親切におもえた。ときが慰め、やがて蘇生させてくれるだろうからだ。

それで、さきほどのこたえにあったのこり数人の名前と職業などわかる範囲だけをきいて辞したのである。

その足は、つぎへとむかった。

小林晴香との関係をいちばんよくしっているのは元(議員が死亡や失職したばあいは、国家公務員特別職のたちばをはずれる)公設第一秘書の片山だが、かれは最後にまわし、ほかからさきに事情聴取をこころみた。

場壁を喪(うしな)ったことで、あけ渡さねばならなくなった議員宿舎などからの撤去や事後のさぎょうおよび葬式の手配などで、中心者たる片山はいまだにおおわらわだろうと推察したからだ。(どちらも元)第二秘書と政策秘書・私設秘書などの四人からはしかし、なにもえるものはなかったのである。

さて、その事情聴取だが、必要性のないアリバイをきいたりはしなかった。

うたがわれていると、変なプレッシャーをかけないほうが得策と判断したゆえにだ。各人には、動機をもつ可能性のある周辺人物をしらないかとだけとうたのだった。外部の人間だけでなく、秘書たちに不仲が存在すればいわゆるチクリあいをするだろうし、よって内部の被疑者の具現化も可能との手段をとったのである。

がけっきょくは、それも不首尾となったのだった。

 

晴香たちからえられなかった情報をもとめ、すでに元秘書となってしまった片山をたずねた。

「あくまでも犯人を逮捕するためですから、不躾(ぶしつけ)な質問があったとしてもご容赦ください」と前置きし、いまだ残務整理におわれているようすなので単刀直入にたずねた。

「小林さんが場壁氏の奥様公認だったというのはほんとうですか?」小手しらべに、かんたんかつ大事な質問からはいった。

片山は、晴香からきいたのだろうとけんとうをつけた顔で、「そのとおりです。まちがいありません。古希を再来年むかえられる奥様としては、『先生のお相手はできないから』だと、そうだいぶ以前、先生からきいておりました」とこたえた。

そういえば、場壁はまだ六十三歳であった。男として現役であってもふしぎではない。

「ほかに愛人はいましたか。とくに、捨てられたような…」

たしかに不躾だとおもいながら、「小林さん以外にもかこには五人、三年ほどまえまでのはなしですが。むろん、奥様非公認でした」そのときにもいろいろと下の世話をさせられたことをおもいだし、片山のきもちはまだらな青に変色していった。

「しかし、小林さんの愛をえるために、場壁はすべて清算しました。そのひとたちとはお金であとくされなく」元々は婿養子のくせにあつかましい、とは元秘書はいわなかった。

やりたくもない後始末だっただけでなく、ずいぶんな扱いもうけてきたのだが。

「ということは、かこの五人の愛人のなかに動機をもつ人間はいないとおかんがえなんですね」

「おそらくこの点もおききになりたいでしょうから、さきに申しあげますが」国会議員の元秘書だけあって、ことばづかいは丁寧だった。そのいっぽうで計算高かった。

「夫婦仲はとてもよろしかったです。姉さん女房だから、先生のたしょうのイタズラはゆるしておられました。そういうわけで、奥様に動機がある可能性はゼロです。それと、ああ、これはついでということで申しあげますが、ご家族にもおろかなマネをする動機をもったおかたはいらっしゃいません」妙に肩をもったくちぶりは、未亡人に、つぎの議員の第一秘書もわたくしでと、おねがいしていたからである。

場壁陣営としても、内情をしる男を野にはなつよりも活用しつつ飼いごろしにするほうが得策とかんがえ、内諾をあたえていた。片山秘書の給与なら、どのみち国費がまかなってくれることになるだろうと。

未亡人が捜査に協力的ではなかったとの報告をおもいだしながらも、さすがにそこまでは見ぬけない矢野ではあったが、仲がよかったというのは、選挙のための仮面夫婦と同義だとはかんじた。

また場壁じしんも、片山を懐刀的秘書として重宝していたのではないかと、目のまえの五十代の男性を見つめつつおもった。

「こんなことをいうと不知恩な人間だとおもわれるでしょうが、いまさら義理だてするひつようもないたちばです」現状、失業したことをさしているらしい。「ですから庇いだてはしません。ただ長いあいだ、ぼくも国家公務員特別職として税金でたべさせてもらっていた人間ですから」

在職期間等にもよるが、公設第一秘書が国から支給される給与はけっしてすくなくない。

「いらん手間をとらせて、税金のムダづかいはさけたい、ただそれだけです」

そうはいわれてもとうぜん、夫婦仲について翌日しらべた。私設をふくむ五人の秘書や場壁家の家政婦に事情聴取したのだ。そのけっか、片山の申述にウソはなかった。

というのも片山が、全員と口裏あわせをしていたからである。

「はなしがそれて申しわけありません。かこの愛人についてでしたね。確認のいみで申しますが、かのじょらはけっこうな手切れ金をもらっていましたし、それで、いわゆる愛情の縺(もつ)れ的な動機をいだく女性はいないだろうとぼくにはおもえてなりません」

かのじょたち全員が、ビジネスとして愛人関係にあったといいたいのだろうが、もってまわったような歯切れのわるいくちぶりは、政治家に倣ったのか、それとも出が官僚だからなのか?

「女性かんけいのなかに思いあたる節はないということですね。では、視点をかえていただいて」矢野は、今日いちばんのデカの眼で、標的の瞳のうごきを凝視している。

「ほかにはどうですか、殺意をもってもおかしくない人間にお心あたりは?」

元秘書は二度ほど首をひねったあと、「政敵がすくないほうではないのはご推察のとおりですが、だからといって立場のあるかれらが殺害などという愚をおかしたとは、とても…」

「ええ、そうでしょう。けれども念のため、そのひとたちの具体的な名前をおしえてください。これは殺人事件の捜査ですから、ご協力を」念をおした。

むろんのこと、数日かけて、敵対かんけいにあった政治家数人の動機を中心にしらべた。

慎重を期すためとうぜん、人員もさいたが、殺害の動機となりうるほどのものはでてこなかった。

基本、政治家どうしのたたかいは、政策を基(もとい)とする言論や各種の工作など(とうぜんながら、ウラ工作や足のひっぱりあいをふくむ)でもって、なされるものだ。

年になんどかある、スキャンダルやオフレコでの失言などの暴露による追いおとしがウラ工作の例だ。きたないやり口だが、これでけっこう、政治家生命を断たれた、どころか、じっさいにみずから命を絶った政治屋も数人いる。

日本政治史の本をひもとけば、実名を掌握できよう。

それはそれと、国政にたずさわる政治家たるもの、チンピラやくざじゃあるまいし、やはり、ちょくせつ手をくだす切った張ったは似あわないのである。

「わたくしがしるかぎり、場壁は政敵の恥部をリークするという手はつかいませんでした。じしんも脛にキズもつ身だったからです。その手法で政敵を追いおとせば、今度はじぶんにはねかえってくるわけで…」と、あとは政治家の秘書らしくお茶をにごした。

そんなようすを、矢野はだまって観察している。

すると片山は、おもむろにじしんのかんがえを述べだした。「おもうに、政敵なんかよりもはるかにつよい動機をもつ、たとえば、規制緩和や増税などの政策により不利益をこうむった企業や団体および個人。そのなかに、殺害動機をいだいた者もすくなからず…」

未亡人に、おもねっているようにきこえた。

「ただ、だとしても、時間が経過しすぎていて、しょうじき、いまさらとしかいいようがありません」総理の辞任からでも、八年はたっているのだ。国民とマスコミのおおくがつよく反対した数種類の法律の成立からだと約九年である。

「いまさら」にはたしかに一理あると、うなずかざるをえない。くわえて、退陣でSPなどの警備が手薄になったのだから、すぐにでもことをおこせたはずだと矢野もおもった。

ぎゃくに、どんなに強烈な恨みであったとしても、例外をのぞき時間の経過とともに風化し衰微していく人間の性(さが)にかんがみ、みじかいほうの八年でも待ちすぎてはいないか。

場壁の施策による被害者が犯人だったばあい、片山に指摘されるまでもなく、じつはこの点に、矢野はずっとひっかかっていたのである。

でもって、やがてこの“八年後云々”が、犯人像を浮かびあがらせるおおきなヒントとなるのだった。

だが、いまは五里霧の中にてたたずむ、不甲斐ない身でしかない。このあともいくつか質問をこころみたが、えるものはなかった。

それは、私設をふくむ秘書五人および事務員などへの、矢野係による再度の事情聴取においてもおなじであった。犯人像すら浮かびあがってこなかったのである。

さらには、家政婦をふくむ場壁家の面々からも…前回と同様、ざんねんの、散々なけっかしかえられなかったのだった。

矢野係以外の地取り(訊きこみのこと)捜査班においても、それには地元後援会への事情聴取などもとうぜんふくまれていたが、すこしも芳しい情報はでてこなかった。

けっきょく、場壁の行動パターンをしっている人間やその周辺を洗いだしたものの、そのなかから動機をもつに足るうたがわしきを見いだすことはできなかったのである。

となると、まったくの外部犯とみたほうがよさそうだ。しかしその仮定でいくと、事実上茫漠としすぎてしまって、とらえようがなくなったのである。

なさけないの一言だが、捜査本部の一部には、口にこそださないが、はやくも士気を減退させてしまった捜査員もでたのだった。

 

だがそんなやからはむろんごく一部で、おおくはじぶんの持ち場にたいし真摯に取りくんでいた。

その筆頭はむろん矢野警部である。

晴香のもとを辞去して以来、かれは深慮していた。元首相のお忍びのうわさを確認するために、犯人はどんな手段をとっただろうか。

SNSに因(よ)らなかったことを、サイバー班があきらかにした。

むろん、秘書などにきくわけにはいかないとなると、のこるは足でかせぐ的手段、つまり場壁の夜間の行動をしるべく、毎日あとをつけまわしたのではないか。

時間も労力もかかるが、そのぶん、かくじつな情報をえることができたであろう。ただし、被害者じしんやほかの目撃者にじぶんの存在をしらしめるという、最悪の危険性をはらんでしまう。

で、こうなったら、仮説ついでだ。狙撃をヒットマンにたのんだり、すこしでもそりのあわない共犯者とくんだりすると、ちいさな不協和音が発生し、けっか、想定の完全犯罪にアリの一穴をしょうじさせる可能性がでてくる。

ナノクラスのかすかな隙間すらできないくらいの信頼をもてる共犯関係でないならば、むしろ安全な単独犯行のほうが安心できる、そうかんがえるのではないか。

それで、比率的にはたかいであろう単独犯で想定したのだが…。

じぶんならそうしたであろうからと矢野。犯人は気づかれないようにと、おそらくは服装をかえ、変装もしそしてようやく、日曜の深夜に自宅からでていく元首相の行状をしることとなった。そのあとを数回つけることで、定期性があるだけでなく、時間(月曜午前零時三十分ごろ)まできまっていたおしのびだと確信できたのではないか。

しかも場壁は人体(にんてい)をかくすために、外出時にはかならずサングラスや帽子等を着用していることも、犯人はそのときあわせてしった。

おかげで、場壁がタクシーから降りたすぐあとだというのに狙撃できたのだと。

ただ、矢野の推論はここでとまってしまった。材料がついえてしまったからだ。

かれは、じぶんの憶測を上司の星野につたえた。

うなずいた星野にたいし、「被害者の自宅周辺に地取りをかけ、防犯カメラの映像もチェック(いいながら、徒労を覚悟していた。知能犯ならば、死角に、しかも日ごと、ちがうタイプのを駐車しているはずとふんでいる)します」と、とうぜんの方針をつげた。

地取りの具体だが、場壁邸のようすをうかがっていた不審人物や長時間駐車していた不審車両をみかけなかったか、訊きこみをかけたいと申しでたのだ。

星野はむろん、全面的に同意した。犯人が、車をつかっただろうこともふくめ。

タクシーに乗車した場壁を追尾する手段としてのアイテムであり、身を人目にさらさないためにも、の乗用車なのだから。

時期的にも、また、高級住宅街にはバイクだとあまりそぐわず、しかも目だちすぎるとかんがえ、了解した。

即日から十日間、矢野係は地取りに徹した。港区白金にて、旧大名屋敷跡地がなごりの閑静な高級住宅街、場壁邸はなかでも、ひときわ立派な屋敷であった。

界隈にては、たにんのプライバシーののぞき見を、はしたないとするひとたちが大勢(たいせい)だが、それでも夜間に不審人物をみかけたとの数人の目撃者をなんとか見つけだし、すぐに、矢野の推論をうらづける情報を入手できたのである。

それらを総合すると、今年(2022年)の十月五日からすくなくとも三週間かけての犯人らしき人物の不審行動であった。

ただし、いずれのばあいも不審者がのったそれは車種だけでなく色においても不同一だった。

「たしかにそうでした。停車時間や停車位置がです、おおよそ同じでした。だからいまおもえば、不審車両だったのではないか」と、その点を指摘されればと合点する、目撃者たちの異口同音。

さらに、ナンバーを見のがさなかった車好きによると、レンタカーだったと。

なるほど、事前の憶測どおり、食堂の定食のように、車は日替わりだったようだ。

で、一定のばしょに駐車していた理由だが、やはり、防犯カメラの死角をえらんだからであろう。そのへんからも、高い計画性をみてとれる。

そんな犯人ならばこそ、場壁邸やその近隣にあやしまれ、だれかに車のナンバーをメモされたら、かんたんに人物特定されてしまうおろかを、なによりもおそれたであろう。

ならば、メモさせないよう、さらなる工夫をしたのではないか。

犯人を斟酌するいつもの矢野は、そんな予想も事前にしていたのだが、それをうらづけしてくれるとしたら、目撃者の正確なキオクである。

うまく引きだすかは、矢野係の面々にかかっていた。

期待に、和田や藍出たちはみごとにこたえた。

不審者が、日によっては中年のサラリーマンふうであったり、わかい女性やおばさんだったり、とにかくまちまちであった。たんに別人なのか、同一人物による変装なのか、断定するまでにはいたらない証言だったのが玉にキズなのだが。

ただし、各人に共通項もあった。車中の、夜間におけるサングラスの装着だ。各人、形状はちがっていたようだが、それでも、人相を曝(さら)さないためとみてまちがいない。

いずれにせよ、想定の、同一人物による変装だったのなら犯人は、矢野が当初からかんじていたように、用意周到な知能犯となるであろう。

すくなくともこれで、複数でなくても犯行は可能との矢野の予想…それを不可能ではないと目撃情報が提示してくれたのである。

ともかくも、それぞれの似顔絵をかいてマスコミにも協力をえた。

だが、このときも有力情報をひとつとしてえられなかったのである。

これも矢野ならではのこと、すでにだが、不審者についての情報をえるまえから、矢野は場壁邸を中心に半径200メートル内の防犯カメラや監視カメラの映像を入手できないか、それぞれについてしらべさせていた。

しかし二か月ちかくまえということで、いずれも日にちが経過しすぎていた。映像はのこされていなかったのである。

期待できないとおもっていた矢野に、だが落胆はなかった。のこっていればラッキーとかんがえていたていどだった。

さて、そんな矢野警部以外にも、たとえば時間をおしんで捜査にあたっている例として、防犯カメラなどの映像を、数班にわかれ精査・解析している捜査員たちがいた。

狙撃現場ちかくに設置されたカメラの、それをである。とくに、逃走用の車をとめていた可能性のたかい駐車場の監視カメラに、重点をおいていた。

ただし、半径50メートルにしぼっても十数カ所、100メートルにまでひろげると駐車場は七十カ所以上あった。

いっぽうで、全タクシー会社(個人タクシーもふくむ)をつうじ、全乗務員に、例の遠映の一件(狙撃現場から百メートル設置の防犯カメラがとらえた映像)のコピーをみてもらっている。

が、のせたという情報は、いまだ出でず、だ。

で、けっきょく出てこなかったのだった。

ちなみに、現場に隣接する各駅周辺の防犯カメラにも、当たらせてはいる。

しかしバカな犯人ならいざしらず、あちこちに防犯カメラが設置されている駅に、のこのこ歩をむけるだろうか。

しかも深夜である。乗降客がすくないぶん、雑踏にまぎれる、なんてマネは期待できない。つまり、目につきやすいということだ。

犯罪者心理は、そういう状況をけっして好まない。

だったら、それよりも意味のある、べつに目をむけて捜査する…が、ベターであろう。

それで現在、駐車場の監視カメラにたいし、ひとつずつ目をひからせている。

だが、銃がおさまっているはずのリュックやカバン類をもっていて、しかも人相をかくす帽子やマスク、サングラスをしている人物を、遠映以外、見つけるにはいまだいたっていない。

それを捜査会議できいた星野と矢野が、同時にひらめいた。

犯人は、防犯カメラだけでなく、人目もさけながら、おそらくは駐車場の車のかげなどで装着物(マスクやサングラスなど)をはずし、たとえばリバーシブルのコートを活用しつつ、分解していた銃をば、コートのなかにかくしてしまったのではないか、だった。

でもって、リュックなどを廃棄するかすくなくとも最小化した、のではないか。

凶器の銃を、おおきなリュックにおさめたまま逃走したとおもわれていた犯人だからこそ、姿をかえたことで、この地から忽然ときえることができたのである。

この憶測をきいた捜査員には、さながらイリュージョンの種あかしにきこえた。

ちなみに星野らふたりのこのひらめきだが、いちどは防犯カメラで撮影されたにもかかわらず、その直後から卒然と姿をけした理由の、説明可能な、唯一の帰結に因(よ)った。

この仮説どおりだったとしたら、圧倒的な警察力であろうとも、もはやさがしだしようがないということだ。

だからといって、諦めるわけにはいかない。

それに、ほんのかすかだが希望ものこっていた。たとえ1%にみたなくても可能性はゼロではないということだ。

例せば、狙撃現場ふきんのコンビニや食事提供の店の防犯カメラ映像である。

食事提供の店と限定したのは、犯人には飲食をたのしむつもりなどなかったはずだから、で。居酒屋などで、じぶんの顔をさらす長居などしたら、よほどのアホウだ。

さて、こちらの班は駐車場担当班にくらべ、ざっと目をとおすだけでも三百倍超の労力をようしたのだった。なぜなら店舗数で十倍強(防犯カメラ不設置もかなりあったが)、確認するのべ時間でも、約三十倍見なければならなかったからである。

こんなムダばかりの労作業。

ではあるが、この捜査の意味するところ、もとは土地勘のなかったものがそれをえるためにじゅうぶんな下見をしていたであろうし、そのおりには、どこかで飲食をした可能性もあると、星野らと同意見の原が指示してのことだった。

だがけっきょく、どの防犯カメラの映像からもあやしい人物を見つけだすことはできなかった。

その理由だがつまるところ、狙撃現場ちかくの路上で、アルバイトがえりの目撃者が証言したのと同じ格好をした人間がうつっていなかったからだ。

だけでなく、歩きかた(歩容認証による個人の特定)や所作においても類似する人物を見いだすことができなかった。

だからといって、狙撃現場周辺を下見しなかったとの断定を、星野と矢野は避けた。

かつ、現在かあるいは過去において、この近辺で居住していたから、の見解もとらなかった。

狙撃をここときめたのは、犯人が場壁を追尾したけっかからだと既述した。土地勘があるから、犯人は狙撃現場をそこにきめた、は偶然にすぎるというものだ。

追尾とおそらくの下見のかいあって、あるていどの土地勘をもちえたではあろう。しかしそれだけでは、逃走経路の確保には、ふじゅうぶんなはずだ。

確保のための詳細をしるべく、下見に自転車をつかったのではとこのあと、矢野が憶測を披露、しかも、近場まで車ではこんでから?と。

なるほど、自転車だと、所作や歩きかたの癖を、映像がとらえるのは絶望にちかい。いうまでもなく、両手はハンドルにあり、足はペダルをこいでいるからだ。

星野に異論はない。

それで、駐車場の防犯カメラ映像を再点検したのである。このときも根気がいった。

狙撃現場から半径五百メートルの、月極ではない駐車場において、車から自転車をだした人物が、時期的にみて二人いた。

ところで、車のナンバープレートをみるかぎり、どちらもレンタカーではなかった。

場壁を追尾したときがそうだったからと注視したのだが、今回もおなじとはかぎらない。

で、狙撃現場方向に進路をとったのはひとり。

捜査員としては、特定するための手がかり、喉から手がでるくらいなのだが。ああ、ざんねんなことに、目撃者が指摘した被疑者の特徴といっても、帽子・サングラス・マスク・リュック・黒っぽいコートの五点だけであって、顔や手のキズとかおおきなホクロとかいうのではなかった。

狙撃ばしょや逃走経路を物色している時点では、銃をいれたとおもわれるリュックをもってはいなかったろうし、だいいち、コートや帽子・サングラスのどれひとつとして、犯行当夜とおなじものを身につけるなどは、ちょっと知恵のある犯罪者ならしなかったであろう。

よって、このままでは特定のしようがない。

あとは、二人のうちのどちらかでいいから、自転車を車にもどした人間を見つけるしかなかった。

憶測どおりなら、漕ぎながら逃走経路の選定をしたあと、やがて、自転車と車ともども消えさった、とふんだのだ。

だが時間経過のあと、どちらも自転車をもどすことなく、車は駐車場からでていったのだった。

映像からわりだしたナンバープレートから車の所有者を特定すると、捜査員は事情をきいてみた、ただし、交番勤務の制服警官姿になってだが。

それは、犯人に警戒心をもたせないためだった。そのうえで、「自転車盗難にあってませんか」とたずねさせたのである。

けっか、男のひとりは同棲していた女性の自転車を、出ていって日が浅いかのじょの気をひいてかんがえ直させようとおもい、渡しにいったと。気の毒にも、そんなことをしても女心にへんかなどおきないのだが…。

もうひとりは「残業のせいで終電にまにあわず、自宅がとおいので、カギのかかっていなかった自転車をついぬすんでしまい、翌日になって反省し」かえしにいったと、低頭しつつつげたのだった。

どちらも裏づけがとれた。

となると、下見時、犯人はあるいたのか、それともそうとおくない自宅から、自転車をこぎつつ逃走経路を選定したのか。

現段階では知りようがない。つまり、この方向からのアプローチも暗礁に乗りあげたというわけだ。

嘲笑う犯人のこえが、矢野にはきこえた気がした。

自転車を、どこかにおき捨てた可能性もあるが、犯人の指紋がわからない現在、こちらもたち往生である。

 

そんななか、原が執念をもって、以上の事案とは別途ながら並行してしじしていたある種の内偵捜査。ある種としたのは、巨大犯罪組織への潜入と比するには規模がちいさいからだ。

それにしても内偵捜査というやつにたずさわるのを、捜査員はイヤがる。

時間のわりに“遅々として”という表現がピッタリで、なかなかけっかがでない。それで苛立ちをおぼえることもしばしばだ。

また、捜査対象者にけどられてはいけない、という細心さに、神経をすりへらすハメに。

さらに、長びけば心身に疲労やストレスもたまる。それもこれも、ナメクジのようにおそい進展のせいだ。

そんな、スローな捜査の対象となったのが、既述の、クレー射撃をとくいとするキャリア官僚綾部だった。

かれにとって、場壁はたしかに“不倶戴天の敵”であった。

キャリアとして、順調に出世階段を他者よりも一・二年はやくあがっていただけに、天下りさきをつぶす場壁の規制改革と構造改革に、かげでだが、猛烈な異議をとなえたのだった。

そんなふうに強気になれた背景には、各省の垣根をこえたキャリア組の大同団結があった。

ところが当時、国民の支持率がまだたかかった場壁によって、足もとをすくわれたのである。

マスコミを中心に世論が白アリ官僚たたき、いや集中砲火をあびせかけてきたからだ。“諸悪の根源”とののしられつづけ、やがて大同団結は崩壊した。

それでも綾部は規制改革に頑強にはんたいし、ついには、みせしめのため閑職においやられたのだった。各省へのさらしものであり、島ながし的人事であった。

なるほど、これほどの冷遇をうけたからといって、そういうすべての人間が殺意をいだくわけではない。しかしそれでも、殺害動機としてはじゅうぶんだとおもえる。

ではアリバイはどうか。これについては内偵せず、直接本人にたしかめた。すると、確たるものがあった。日曜日もあいている行きつけのスナックでひとりでのんでおり、それを従業員のみならず、客も証言したのである。

原刑事部長を中心に刹那、諦念(あきらめ)のふかいため息がもれた。

が、矢野はちがっていた。一喜一憂せず、べつの可能性について、とうぜんといえばとうぜんの一般的な意見をのべた。

ところでべつの可能性とはいっても、あらゆる可能性を排除しないというかれの基本的理念がそういわせるのであって、ある理由から、綾部は犯人ではなかろうとじつはかんじている。

「本人にアリバイがあってもかまいません、プロのヒットマンをやとえばいいのですから。ただし、綾部を犯人と想定するにはいささかこまった点があります」

動機をいだいてから実行までに八年は、いかにもながい。今回もおなじぎもんだが、やはり、時間がかかりすぎてはいないか?という疑義は、星のない夜空のように、矢野を覆いつくしていた。

それでも犯人だとあえて仮定したばあいの、つぎの一手。「そこでです。ヒットマンを特定するか、少なくとも支払いと断定できるだけの、金線のめいかくなうごきを証明しなければなりません」

現場をしらず、捜査経験がすくないわりに手柄をたてたがる原部長にたいし、動機があることを理由に突っ走ることのないよう、ちくりと、クギをさしたのだ。

それにたいし原は「当然のことだ」と吐きすてた。不快げな眉でだった。「よって、以後も内偵をすすめてくれ」キャリアのプライドが露出した表情で命令した。

~ 秘密の薬 ~  第一部 悪法への復讐 / 第二章 殺人事件が立てつづけに (06)

さて、既述したとおり、狙撃現場の特定についてだが、銃も薬莢ものこされていなかった。さらに、星野と矢野は想定していたのだが、指紋も検出できなかった。

くわうるに、ほこりにまみれていない体毛、もしそれがおちていたならば、ふだんは施錠されていた屋上のゆえに、さいきんのものと推定できるのだが、鑑識の労作業にもかかわらず、ついに発見することはできなかった。

余談だが、検出されたほこりまみれの体毛、それは古いもので、事件に無関係とみてまちがいない。

それでもばしょを断定できたのは、屋上にあがる階段のカギがこわされていたことと、発射残渣を検出したからだ。この月曜は終日、かすかの雨雪もふらなかったおかげである。

それはそうと、硝煙反応だけが決定的な痕跡だったわけだが、犯人は、狙撃現場をしられてもかまわない、つまりそれでじぶんに警察がせまってくる心配はない、狙撃者はそうふんだにちがいないとふたりは、犯人の肚を忖度したのである。

さらには狙撃現場のビルについて。

着弾地から道路をはさんで直線距離で約31メートルの、築四十年はたとうかというふるい雑居ビルだったせいか、出入りぐちに防犯カメラは設置されていなかった。

上記のように、痕跡を最小限にした犯人のことだ。

標的をとらえやすく、しかも防犯カメラもないというような、犯行にてきした物件をじぜんに物色していた可能性がたかい。

だとすると、うたがう余地のない計画犯罪となる。メンがわれないように、サングラス等を用意し装着していたことからも、それはうかがえよう。

つまり標的だが、だれでもよかった、で、たまたまだったではなく、元総理にねらいをさだめての狙撃とみるべきだと。

でもって、犯罪者プロファイリングをこころみるなか、材料にとぼしい矢野にとってもっとも腹だたしかったのは、捜査はこんめいすると予感させられたことだ。

どうじに犯人にたいし、感心もした。狙撃の腕前にというよりもむしろ、プロ級といえる銃のあつかいにだ。

タクシーからおりた直後をねらって、一発で仕とめているのだから。標的との距離がみじかいとはいえ、実際にやってみたらわかること(なんて、ムチャぶり)だが、短時間で、その頭をかんたんに撃ちぬけるものではない。

とうぜんながら、万全の下準備もなされていたとのことは、いうまでもない。

それに、現場周辺で銃声をきいたとの情報が、三日間かけた地取りでもえられなかった。そのわけならかんたんで、サイレンサ―を使用したからだと断定していいのではないか。

ただし、消音目的のサイレンサー使用は銃刀法に抵触するいじょう、実銃に取りつけるためのサイレンサーを正規で入手するのはひじょうに困難で、それをウラで取りあつかっている銃砲店がもしあったならば見つけだし、購入者がいれば、それが犯人の可能性大だとして事情聴取からアリバイ確認、証拠がためへと…。

この常套の段取りをへることができれば、逮捕にもちこめるかもしれない、だった。

そうかんがえるいっぽうで、ウラで取りあつかっている不心得業者が存在していたとしても、犯人は銃砲店では購入していないだろうと。

足がつきやすい、おろかな行動だからだ。

だが、それでもねんのため原が命じ、全店舗の協力という名目(拒否できるはずのない)のもと、捜索をなしたのである。

 

ちなみにこんな矛盾する思考のなか、試行錯誤しつつあたるのも、捜査というものがあらゆる可能性を視野にいれてなさねばならないからである。

こんかいのばあいだと、実銃に適合するサイレンサーをうる銃砲店などないだろうとして、まま放置すれば、捜査がいきづまったときに悔いるだけでなく、禍根をのこすことにもなる。

その銃砲店が犯行にじつは加担していて、つぎのおおきな事件にもかかわるかもしれないからだ。

ところで、捜査に一筋の光明すらも見いだせないなか、それでも矢野はさらに推測をかさねた。

周到なやつならばこそとうぜん、元首相の行動パターンを知悉していたであろうと。

ぎゃくにそのてんだけ、狙撃の手法に計画性がなかったとはかんがえられないからだ。犯人が当該狙撃現場をきめたのがたまたまここだった、なんて、ゼロではないにしろ、そんな可能性を主張するとしたら、そいつはどうかしている。

ならばとて、だれもがするごく必然的な推量のながれからつぎに考慮されるのが、ではどうやって場壁の行動パターンをしりえたのか、つまり4だ。

可能性のひとつに、ブログやツイッタ―があげられた。

おかげで、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)を検索する班もいそがしくなった。結果、

やはりというべきか、元首相もだったのだが、政治家ならねこも杓子ものブログサービスを活用していたとわかった。むろん、選挙運動の一環だ。開設した日づけから推して、首相を辞任し一政治家にもどったときからはじめたようだ、

強引な政治手法の首相時代がまるでウソのよう、ひとがかわったように、国民の目線を意識しだしたのだ。発足当初から一年強は有権者の圧倒的支持をほこっていた政権だったが、“特別国家秘密保護法案”や他の法案の提出などを機に不支持率が55%をこえ、強行採決による可決成立で支持率は一割台にまでおちこみ、ついには、世論のうねりから退陣に追いこまれたのだった。それがよほどにこたえたのかもしれない。

そんな裏事情などかんけいない担当捜査員たちは、八年にわたるブログを一文一句見のがさないようにしてよんでいった。それがいかにたいへんだったか。

しかしとうぜんのこととはいえ、オフの時間帯の行動、ことによるのお忍び(殺害後のことだが、さっそく、出版社系週刊誌がこぞっておもしろおかしく取りあげたのだった)にかんしての公表はしていなかった。

蛇足だが、女性票をうしないかねない愚をおかすはずないからだ。

ということは、犯人はSNSから情報をえたわけではないとなる。

いっぽうで、元首相を誹謗中傷、さらには罵倒する書きこみなども存在していた。

週刊誌などからの情報をもとにしているのだろうが、これも、かれの下半身のだらしなさにたいする攻撃はしているものの(ハンドルネームから推するにおおくは女性の書きこみであろうが)、お相手女性の名前やオフの時間帯の行動など具体性のある記述は見あたらなかった。まして犯行を示唆しているものなどまったくなかったのである。

あそびの範疇をでない誹謗中傷ごっこと、捜査本部はかいした。

ところで、ウラで取りあつかっている銃砲店だが、やはりなかった。

サイレンサーそのものが、店舗の存亡にかかわる危険をおかすほどに高価ではないというのも、りゆうのひとつだろう。

犯人は、闇サイトで仕入れたか、海外から違法にもちこんだのであろう。

いずれにしろ、入手経路から犯人にせまる捜査、あきらめざるをえないということだ。

可能性がつぎつぎときえていったことは前進とみていいわけだが、それにしても港区白金台にある場壁の自宅や千代田区永田町にほどちかい個人事務所からはなれた地(けっかとして殺害現場になったわけだが、ばしょは中野区内JR中央線東中野駅から徒歩十数分)にての単独行動…それを捜査本部としても、看過はできるはずもない、

たしかに、下世話な週刊誌の憶測によるよるのお忍びだったと仮定し、その具体を犯人がしっていたとなると、やはりみぢかな人間だからか。

星野以下は、まさかとはおもったがまずは身内、つぎに殺意をもつ可能性がまだすくない地元後援会、そしてしだいに高くなっていく事務員や秘書等、…さいごは愛人と、その全員に眼をむけざるをえなかった。

かといって、週刊誌の憶測にまどわされたわけではない。だが一考すべきはやはり、撃たれたのが縁のない、また選挙区でもない地であり、深夜であったということだ。

元首相という社会的立場や資産をもつおとこが、夜中に秘書も随行させずうろつくばあい、愛人に会いにいったからとみていいのではないか。発覚をさけるためであることは言をまたない。

やはり、現場ちかくに女性をかこっているのではないかと。

そしてこの、矢野たちのとうぜんの推測はあたっていた。はじめは“しらぬ存ぜぬ”をとおしていた公設第一秘書の片山だったが、矢野のたくみな誘導に、抗しきれず白状したのだった。

やはり、元首相が撃たれたばしょからほどちかいマンションの一室に、もんだいの女性はすんでいたのである。

星野から命をうけた矢野はさっそくその住所におもむいた。

入室後すぐに目についたのが、わかい女性には不似合いの仏壇であった。そのなかに、四十代半ばとおぼしき女性の遺影がおかれていた。しかしそのことにはふれず、事情聴取をかいしした。

愛人の泣きはらした瞼がものがたる憶測もいまはころし、事務的に名前や年齢などをきいたあと、「であった経緯(いきさつ)についておしえてください」犯人につながる人間関係がうかびあがるかもしれないからだ。

それともうひとつ。片山から探りだしたかのじょの情報とを比較し、ウソがないか確認するためでもあった。

小林晴香、二十六歳と名のった女性がきえいりそうな声でこたえたところによると、場壁が常連だった銀座のクラブで二十歳からホステスとしてはたらきだし、三年まえにいわば見そめられたとのことだった。

ホステスのまえはOLであった。が、病弱な母親の入院費や手術代をかせぐための転職であった。甲斐なくそのははも他界し、いまは天涯孤独だという

この質問からではざんねんながら、犯人につながる人間関係はうかびあがってこなかった。

片山は優秀な秘書らしく、場壁が愛人にするまえに、素性を調査していた。転職のりゆうも事実であった。

そのあたりの情報もふくめ、矢野はたくみにききだしていたのである。

かれはここで、単刀直入な質問へうつった。「このすまいの所番地や、被害者とあなたとのかんけいをしっているひとに心当たりありませんか」元首相とはいえ、矢野には特別あつかいするつもりはさらさらなかった。

生前のたちばはどうあれ、おなじ人間であり、尊い命の重さはひとしいとおもっているからだ。それで肩書はつけず、“被害者”とだけいったのである。

寸毫(ほんのすこし)、美形がゆがんだ。じぶんのようなたちばの女、この刑事にはけがらわしくみえるだろう。そうおもったとたん、含羞(恥じらい)のいろが顔をみたした。

二枚目俳優の風間トオル三十五歳時と見まごうほどに矢野の見栄えがすぐれていたせいか、かのじょは寸秒、返答をためらった。

「先生より年上の奥様もわたしの存在をみとめておられたときいております。くわえて、公設第一秘書の片山さんやあと数人は…」と、まつ毛をこまかく震わしながら、力ないこえで正直にのべた。

「ここへの訪問日はきまっていたのですか」

「はい、いつもきまって日曜日の深夜零時半ごろです」たしょうのズレは道路事情によったということか。「いちばんひと通りがすくなくなる時間帯で」

顔をさすしんぱいを比較的しなくてすむからといっていたとのことだった。それでも帽子・メガネ・マスクを着用していたと。

被害にあったときもおそらくおなじようないでたちであったろうと、鑑識がとった現場写真を思いおこしながら矢野。それはいまおもえば、場壁がうたれた直後に衝撃でどちらもとばされ路面におちたのであろう、サングラスと帽子が、そういえばうつっていた。

サングラスは被害者の足下から30~40センチほどの歩道に、帽子は1メートルほどはなれて。ただし、現場をみた時点では、被害者の持ちものだと特定できていなかった。落としものの可能性もあるからだ。翌日、鑑識が両方とも指紋で確認したのである。

じじつをしったその時点でおもったことだが、ならば変装するとしらなければ犯人は、元首相と確信できなかったであろうと。ぎゃくをいえば、たとえ顔をかくしていても定期的だった訪問をしっていれば、ねらいを定めること、プロならばむずかしい仕事ではなかったはずだ。

さらにかんじたこと。ここまでの供述にウソはない、であった。

「つらい質問ばかりでもうしわけありませんが」矢野は、このじょせいが犯人である可能性はきわめて低いとみた。実行犯はもちろんのこと、狙撃犯への依頼主としてもである。

かなしんでいるすがたにウソはないだろう、などというような根拠薄弱な理由にはよらない。

よほどのバカでないかぎり、じぶんからはできるだけ離れたばしょを狙撃地にえらぶだろうからである。じじつ、近かったせいで、さっそくデカの襲来となったくらいだ。そして、こうなることくらいは想定できたであろう。

なぜなら警察として、被害者の日曜よるの行動をしる人間を事情聴取しないわけにはいかないのだから。

かりに事件が日中であったならば、場壁のスケジュールをしりうる領域から晴香ははずれるだろうが。

なぜなら一週間にいちどしかあえない、しかも政治にたずさわっていない愛人に、場壁が政治家としての日程をおしえるとはかんがえにくいからだ。だいいち、場壁じしんが重要な日程以外を事前にしっていたともおもえない。秘書まかせにしていたのではないだろうか。そこで、片山に電話で確認した。おもったとおりだった。

いっぽう、かのじょがおろかでないことも垣間見えた。質問にたいし、ムダのない適確なこたえをかえしてきたからだ。くわえて、論理的思考力もそなえていそうだとおもった。

そんなかのじょが犯人なら、やはりべつの場所をえらんだであろうし、そのための工夫、たとえば日曜日以外のスケジュールをしる手立てを、この女性ならばかんがえつくのではないかともおもった。じぶんの見立てを信じつつ、にもかかわらず、かのじょはなんの手立てもとっていないのだ。

それでもあえて晴香がもし犯人だとしたばあい、動機の有無はおいておくとして、場壁の行動を把握している日曜の深夜をしかたなく選んだとのかんがえを、さきほどのとは矛盾するが蒸しかえすしかない。だがそうだとしても、もんだいがある。

狙撃のうでを見こんだうえ、ふるまいまでが神出鬼没の、トップクラスのプロをやとうほどの資金をわかい晴香がはたして融通できるだろうか、だ。

愛人になるまえは高級クラブでホステスをしていたわけだから、同世代の女性とくらべれば収入は破格であったろう。しかしそのおおくを、ははおやの入院および治療費として費消していたはずである。

この憶測が正鵠(せいこく)を射ている(ズバリと正しい)か、確認する必要がでてきた。

――まあそれはそれとしても――ホステス業の支出も並たいていではない。

ほんらい、光のないよるを煌びやかにみせるための演出料は、それが夢幻であるぶん、よけいにかかってしまう。ざっとみて衣装代や装身具もだが、そのほかにも化粧や髪のセットなど、身をかざる装飾にとにかくいるのだ。でもって、化けるのである。

つまり、収入ほどには手元にのこらなかっただろうし、だいいちかのじょは、ホステス歴がみじかかった。となると、晴香にそれほどの蓄財があったとはおもえない。

蓄財の多寡にかんし把握すべく、病院名と母親のなまえをきいた。ついで、勤務していたクラブについての情報もえた。

クラブのママさんや当時の同僚のはなしから、おとなしくて控えめだったぶん、かえって人気があり、指名はおおかったとのこと。ただ、東京オリンピック20直後だったにもかかわらず、中国でクーデターがおき、世界経済のあしをおもいっきり引っぱった。でなければ、豪華なプレゼントや相当量のチップをもらえたであろうと。

そして翌日。さっそくははおやの件を調べたけっか、子宮から肝臓やすい臓へと転移した悪性腫瘍が、五十一歳の命をうばったのである。

仏壇内の遺影はむろんははおやのであった。余命半年という運命にあらがうように、娘はいのるおもいで保険適用外の最新医療も施術してもらった。がけっきょく、甲斐がなかったのである。気の毒としかいいようがない。

しかしながら憐れんでばかりもいられない。二十時間前の時空にもどすとしよう。

「とくべつな恨みをいだいていた人物に心当たりありませんか」“殺害動機となる”ということばを意図して頭につけなかった。いっそうの悲しみを呼びおこすだろうとかんがえてのことだ。こんなところにも矢野の優しさが、おもわず湧きいでるのである。

« Older posts Newer posts »