第三章     矢野の推理

 

 

和田は、観察の結果報告をおえた。

「和田さん、ご足労だがもういちど岩見の後援会事務所にいって、犯人の特徴を聞きだしてくれませんか」年長者である和田にたいし、つねに敬意をはらっている矢野警部も、むろん、あらたな情報を犯人特定につなげたいのである。

なんとしても手掛かりが、すくなくとも取っ掛かりがほしいのだ。

なにしろ、後援会時事務所のかれらだけが、犯人との長時間の接触をしたのだから。…あっ、もうひとりいた、下心ありありで酔っぱらってしまった中年の盗難被害者が。

さて、令をうけた六十五歳手前の超ベテランは、上司がもとめている“特徴”について思考回路をフルにはたらかせはじめた。鑑識課員がえた身体的特徴、傷痕やあざなど以外の、たとえば言葉づかいや方言、目だつ癖などだろうと。

前回は、おとながしかも三人もいたので鑑識の通例の似顔絵づくりに期待したが、(名探偵シャーロック・ホームズが主張するところの、特別な観察力によらない)人間の記憶といういいかげんさが壁となり、まともな似顔絵をつくることはできなかった。

こんかいもその記憶にたよらなければならないわけだから、ほしい正確な情報をえられる見こみは低いだろうが、それでも手をうたないわけにはいかないのである。

いわば大敵にたいし、しかも劣悪な戦法とされている“背水の陣”でのぞんだ、まさに韓信(漢帝国創建の三傑のひとり)の心境であった。定年退職のちかい和田にすれば、けっして大げさではなかったのだ。

和田はキャリア(国家公務員総合職試験合格者)の警部補一年生藤浪をともなって、岩見の地元後援会事務所へ出むいた、教育係の任も自覚しつつ。

ところで、前回時よりもさらに、事務所にとっては大切このうえない選挙戦がさし迫っていたのである。部外者なら、まだ二か月以上もさきだから、じゅうぶんに時間があるとおもってしまいがちだが。

会長たちには、無名の新人候補を立てなければならないうえ、落とすことのできない、こちらも背水の陣のつもりの補欠選挙だったのだ。すでに公示日直前であるかのように、準備におわれていたのである。

ちなみにこれはウラ事情だが、初七日があけての年明け早々のこと。

四月の第四日曜日が補欠選挙投票日だとの発表がなされ、後援会会長はすぐさま、「未亡人である奥様のほうが戦いやすい」ととうぜんの主張をした。

しかし、かのじょは受諾しなかった。

そのうえで、意外な人物を推したのである。

未亡人が一歩もひくことなく推薦する人物は、会長の恣意に反しており、それだけにイラだちをつのらせていった。

角をつき合わせる日がつづき、かんたんには決着しなかった。

だが、投票日から算出したタイムリミットがせまるなか、会長がおれるしかなく、ようやく、立候補予定者は岩見の義理の弟、長野拓一と決定したのである。

だが会長の、当初からの濃い難色もとうぜんだった。「無名なうえに、岩見の直系でもないから勝てない」後援会としてそう主張したのも、ゆえあることだ。

すったもんだののち、長野と決したわけだが、それは岩見と正妻のあいだに子どもがいなかったことによる、だけではない。

有権者にはしられたくない事情があったのだ。

それを後日、ある警部補があきらかにすることに。

其(そ)はさておくとして、ゴタゴタがあったとはいえ、いったん戦闘態勢にはいった事務所は、来訪者や電話のうけ答えなどでごったがえしていた。

 

いっぽう、一刻もはやく星野や矢野の鼻をあかしたい、敵愾心だけは一丁前の原刑事部長は、捜査の基本的視点にたったばあいは当然なのだが、今度は、岩見陣営の候補ときまった長野に疑惑の目をむけたのだった。

いわゆる、だれがいちばん得をしたか、である。

国会議員なればこその、あまい汁を吸える立場は、殺害動機になりうるとかんがえたのだ。目のつけどころといおうか、学業においてつねにトップをはしってきた、いかにもエリートらしい視点である。

間髪入れず、情報収集に必要な手をうったのだった。長野を犯人とするにたる証拠を、えんがために。

さて、事件をすべて解決してきた英邁コンビを忌々(いまいま)しいと、原がそこまでの敵愾心をもやすのは、庁内をおおう空気を敏にかんじとっているからだ。

――刑事部長としておおきな顔でいられるのは、だれもが認める辣腕コンビのおかげ――などと云々。

小心ゆえに、ひとがする評判を気にするのだ。しかもくやしいかな、認めたくないが、事実なればこそと…。

小胆者ゆえのあわれ、うごめく己心に急(せ)きたてられているのだ。かげでの冷笑や嘲笑いが耳のおくで、いやおうなくひびいているのだった。幻聴にすぎないのだが、原には強迫観念であり、あえていえば、まさに悪夢であった。

将の度量をそなえているならば、部下の功績のうえにどんとあぐらをかいて、信賞すればよいのである。漢建国の太祖、劉邦のように。優秀な部下を活用すれば、原がのぞむ昇進もおのずとついてくるのだ。

だがかれは、梁山泊(ウィキペディアで、“水滸伝”を検索されたし)の初代頭領、晁(ちょう)蓋(がい)のように、みずからの軍功で力量をしめし、そのうえで、賞賛されたかったのだ。が悲運にも、かれは討たれてしまう。

ところで、長野を犯人とするには、クリアしなければならない問題がいくつかあった。

西と名乗った実行犯のゆくえが、杳としてつかめていないことと、ほかの殺人の動機が見あたらない点である。この二点の解明こそが、原にとっては必要不可欠なのだ。が、

いや、だけでなく、三十代前半から三十代後半と、身近でみていてもバラついている印象の実行犯とのつながりも見つけださなければ、送検はむずかしいということだ。

換言すれば、長野が犯人を、報酬で釣って、あるいは脅迫によって、後援会事務所におくりこんだと証明しなければならないということだ。

方法はふたつ。任意同行によってでは長野が自供するはずがないから、実行犯逮捕後に自白させる、がひとつ。ところが、実行犯の逮捕そのものが正直おぼつかない。のこるは、長野の銀行口座における金銭のながれ、つまり実行犯への現金の譲渡をつかむことでの立証だ。報酬で釣っていればだが。

しかし、それにはすくなくとも、裁判所を納得させるだけの状況証拠が必要となる。

捜索差押許可状(隠語ではガサ状)を、発布させるために。

だが現状では、それなりの状況証拠すら、入手するのは困難であろう。ひとつ方法があるとすれば、巣穴で安眠をと決めこんでいる蛇がでてこずにはおられなくする、つまり藪から棒で、巣穴の奥へむけ突っついてみる、との少々手荒な挙にでる、だ。

長野に、不安や疑心暗鬼をムリにでも生じさせ、けっか、墓穴をみずからほらせようという計算である。と、ここまでふみこんだ見こみ捜査にのぞむ原であるならば、まずは他の二件の殺害動機について、説明くらいはせねばなるまい。

そこで、原部長は必死で深慮した。やがて脳裏に思いうかんだのが、アガサ・クリスティ作“ABC殺人事件”であった。

かんたんにいえば、一連の事件はそれの模倣ではないかと。

つまり犯人は、本来の目的=Bの殺害をかくすために、あらかじめ、動機のわからないべつの事件=Aの殺害をおかし、さらにはCの殺害でもって粉飾していったとの、かの傑作推理小説から、連続殺人計画を思いついたのではないか、そうかんがえたのだ。

動機という木のまわりに、木を植えて林にする、そんな手のこんだマネを。

同作とおなじく、二番目の殺人が犯人の思惑だったということである。

ただし、証明するのは難しい。だけならまだいいのだが、この仮説には、法にたずさわる側として、ふたつの問題点を包含しているといえよう。

ひとつ。こまるのは裁判においてなのだが、第一審での裁判員や裁判官にたいし、説得力にかけるのではないかという、公判上での技術的問題点だ。

なるほど、“事実は小説よりも奇なり”とはいうが、それにしても動機をかくすために事前に無関係なひとをあらかじめ殺しておく、なんて口でいうほど簡単ではない。

このあたりが、小説と現実のちがいである。

よって、裁く側が、検察の主張を認定する可能性はかなりひくいとみるべきであろう。

また、偽装目的殺人の証拠をつかむべく内偵をすすめるなかで、ヘタにうごけば、選挙妨害ともなりかねない点だ。

となると、出世欲のつよい原にとって、ここは慎重にうごかざるをえない。

とりあえず“蛇の巣穴”をつつくために、木偶(でく)のぼう(坊)ではなく、如意棒(自在にあやつれ、役にたつ棒)をつくらねばならなかった。

よって、こんどはベテラン捜査員を起用することにした。木偶を起用した、前轍をふみたくなかったからだ。

かれは立場を利用し、捜査一課歴二十年の警部補を、昇進のうしろ盾になるとのエサを目のまえにぶら下げて、口説きおとしたのだった。

このやりかたに、さすがの原も気がひけたのだが、背に腹はかえられなかった。

 

「お忙しいところをおそれいります。そこで単刀直入におうかがいします」慇懃な態度をともなった如意棒警部補は如才ない(ぬかりがない)。

「マスコミ対策として、事実をしっておきたいのです。候補者としては長野氏より未亡人のほうが同情票をえやすいでしょうに、どうして未亡人ではないのですか。むろんここだけの話で、口外はけっしていたしませんから」

長野が捜査線上にのぼっていることを覚られないように、さも世間話の態で、警部補は疑惑の核心にちかい質問をした。

さすがに、用心をこころがける棒である。また、マスコミ対策云々と言及したのは、長野らにとっても同一の防衛線のはずだからと。おたがい、マスコミ発の風評被害はゴメンということだ。

さらに警部補のは、趣旨をオブラートでくるんでの質問でもあった。

それはそれとして、会長もだれかに話したかったからなのか、で、相手が守秘義務のなんたるかをしる警察官であったことに気をゆるめたのか、グチをまじえつつ、隠さずに語ったのだった。

「奥さんは口をにごしていましたが、長野氏がつよく要望した、つまり代議士になりたいとの欲をあらわにした、そんな弟に姉は圧された。これが姉弟間でかわされた密談だったようですね。支援者からもおなじ質問をいやというほどうけましたが、事実をいうわけにもいかず、『奥さんの体調がすぐれないから』でごまかしています」ため息がこぼれた。

マスコミ対策云々といったさらなる理由は、ニュース等でおおよその経緯をしっていたからだが、会長の心裡もよんでの質問でもあった。

そしてやはり、見当をつけていた答えがかえってきたのである。長野が代議士のイスに色気たっぷりなことはまちがいなく、したがって動機はじゅうぶんだと、そう判断した。

ただし、そんな心証などおくびにもださない警部補であった。「あの悲惨な爆破事件から時間が経過したことで、すこしは平常な状態にもどられたとおもうのですが、なにか思いだされたのでは…」

「いや、まだまだ平常心にはほどとおく…」

「そうですか。大変ですね、ごじぶんの本業も、オリンピックがおわって二年以上がたち、いろいろと大変でしょうに」建設業界をうるおわせた五輪はもはや過去のこと。で、斟酌(あいての立場などをくみとること)することをわすれないところも、ベテランならではであった。

「ところで、長野氏にはなんどか会われたのですか」に首肯をした会長に、そのときの印象をたずねた。

「これでもひとをみる目はやしなってきたんだが…。ひとことでいえば、うさん臭いやつ。あはは、立場上は寡黙を旨とすべきなのだろうが。さてさて、ところで、これはオフレコでしょうな」お山の大将でいきてきた人物らしいもの言いであった。

「もちろん、会長のお言葉が外部にもれることは一切ありません」デカ業のながい経験をいかし、安心させた。警部補がほしいのは、長野にかんする情報なのだ。

かといって、露骨に長野のことばかりをきいてはまずい。いわゆる内偵というやつだから、いまは捜査対象者であることを秘匿しておく時期なのだ。ふんわりきかねばならなかった。

――まあ、逃げかくれする心配のないおとこが相手なのだ――

長野が犯人であるならば、もうこれ以上の犯行はないはずだし、だいいちそんな危険をおかす理由も皆無である。じっくり攻略すればよいときめ、このあとは世間話でそれとなくお茶をにごし退去したのだった。

――さてと――これ以上長野そのものを攻めるよりも、原の期待にこたえるには、西と名乗ったおとことのつながりのウラをとることこそ肝要であると。

それを確認できれば、外堀どころか内堀までうめつくし、たとえ巨城であったとしても、丸裸にできるであろう。そのためには、このあとどう行動すべきかだが、――それが最大の問題――となる。

というのも、二者のつながりを突きとめるのが困難なのは、火をみるよりも明らかだからだ。

さっそく、経緯を電話で原につたえた。

ところで原部長はというと、おもわずしたり顔になっていた。かれがかんがえた第二の殺人の動機を、後援会会長の証言がウラづけたからだった。

ここはやはり、実行犯をつかまえることで、お坊ちゃまそだちの長野逮捕にこぎつけるしかないとした原。

そこでつぎの一手は、とて、捜査そのものの原点にかえることにしたのだった。

鑑識課にでんわし、似顔絵の専従員に後援会事務所への再度の訪問要請をしたのである。失踪男西の似顔絵をもう一度描かせるためにだ。ただしかれは、一計をおもいついていた。

既述した、三人それぞれがもった別々の印象を、忠実に具体化しようとの計である。前回のように、合致点をムリに見つけようとはしない、ということだ。

つまりこう、あるひとりがうけた、のこるふたりの印象に左右されない、そのひとだけの印象をそのまま似顔絵にしようとの。

で、けっかとして、三者三様の印象を具現化した三つのべつな顔が画用紙上にあらわれたのである。

前回分の似顔絵を否定する、描き直しもふくめ、おもいきった、異例の手法だ。

ただもんだいは、時間が経過しすぎていたことである。記憶がうすれているぶん、どこまで信頼できるか、だった。

こうなると、どれかが偽名西にちかい可能性が高い、ただそうねがうしかなかった。

混乱をまねかないようていねいな説明をしたうえで、三様の似顔絵をつかい、捜査の基本である地道な訊きこみを再度かける、同時並行で、マスコミにも再度依頼する、であった。

ちなみに矢野の変装説を、原は無視しつづけた。ただただ手柄をたてて、自己を誇示したかったからだ。

「変装、変装ってかんたんにゆうが、間近でみていた会長たち、その三人の眼をごまかせられるかね、スパイ映画じゃあるまいし。それにもうひとり、ドローンの被害者だが、美人だったと証言しているじゃないか、くわえて、場壁邸付近で目撃された三人も性別年齢ともにバラバラだった。ならば変装などではなく、別人だったとするのがごく自然で、ということは複数犯とみるべきだろう」

部下の進言にたいする、これが答えだった。

つづけて原、「いずれにしろ、こんどの似顔絵で勝負がつくはずだ。まあみていたまえ」自信をあえて、口もとに漲らせていた。

こうして全員がかりだされ、前回と手法も場所も時間帯も同じにし、二週間かけて訊きこみをかけさせたのだった。

だが、無残にも成果なしでおわったのである。捜査員の疲労度は山の頂きの岩となり、士気は谷底の枯野状態になってしまった。

あとになってわかったことだが、結果からいうと、どの絵も犯人に似ていなかったからだった。

その事由。じつは三人の観察力不足でもなく、時が経過しすぎていたせいでもなかった。

くり返すが、付け焼刃でしかなかった原部長が自賛のおもいつきは、もののみごとに失敗してしまったのである。

 

ともかくも、原の自慰的なもくろみのあおりを食うかたちで、星野管理官の許可をえていたにもかかわらず、矢野係の捜査方針は中断を余儀なくされ、おおきく狂わされてしまっていた。

ために、警部がたのんだ和田への依頼は、十五日後にようやく具現化したのだった。

後援会事務所をおとずれた和田は、犯人の肉体的特徴や話しぶりなどなど、情報をえんと腐心の聴取をこころみた。

鼻の横のホクロや出っ歯以外の特徴について、からだの各部位に細かくわけて、重複を覚悟で、キズやあざ・火傷のあとなどいちいち具体的に例をあげたのだった。

「なにか特徴はありませんでしたか?」というような、おおざっぱな質問にしなかったのは、記憶をよび覚ましやすくするためである。

偽名男西の言葉づかいについても、しっているかぎりのイントネーションでそれぞれの方言を、北海道から九州地方さらに沖縄へと徐々にスライドさせ、例をあげながら言ってみたのだった。

だが、いずれにおいても空まわりの聞きとりに終始してしまったのである。

そんな、大ベテランの警部補が目のまえで事情聴取の手本を教授してくれているのを、藤浪はよこでだまったまま、魂魄でうけ止めていた。

先輩がしめすオレ流の、それのジャマをしないでいる後輩の存在をかんじながらも、“嗚呼…”一縷の望みもついえたと、じつは心裡でため息をもらす和田であった。

手ぶらでおめおめ帰らねばならない。それで、矢野に衷心でわびつつ立ちあがろうとした刹那、

先日、百貨店までつき合ってくれた話ずきのおばさん事務員が、和田の顔を凝視しつつ、もの言いたげにしている、その姿がベテランの眸にとまった。

「なにか思いだされましたか」ほほえみながら、やさしく声をかけた。ついで、話しやすい状況をつくらねばと、かのじょの立場をおもんばかることに。

「お忙しいのはわかっていますが、もう少しよろしいでしょうか、捜査に協力していただきたいので」会長の許可をえておくことも忘れなかったのである。

警察にさんざん時間をつぶされた会長ではあったが、亡き友のためにとちいさくうなずいた。

「参考になるかどうか」と自信なさげな表情で、「ゆくえのわからない西君は、陸自(陸上自衛隊)出身ではないかとおもうのです」とポツリ。

「それはまたどうして」陸自出身という興味ぶかいはなしは大歓迎とばかりに、その理由をうながした。

「なにげない会話のなかで、陸自の隠語にちがいないということばを耳にしたからです」

願ってもないとは、このことだ。

警察官を、警部補からスタートさせたキャリアは、すでにメモをとり始めていた。

「具体的には?」とうぜんながら、陸自出身ではないか?とした、その信憑性を確認するひつようがあった。

というのも、和田同様、矢野もした憶測によると、犯人が単数だったとしてその必須条件だが、ライフル銃や爆発物に精通していなければならない、となる。

 

二週間以上まえのことだったが、犯人がもし陸自出身者だと仮定したならば、単独の条件をみたせると、矢野を中心に晩飯をかきこみながら、なんどか話題にしたからだった。

またおなじ理由で、一部に存在する、特別な訓練をうけた警察官は?…。

プロファイリングを重視すると、警察官を対象者からのぞくという身びいき心理は、これを排除しなければならない、となる。

どうじに、藤川が言いだしたのだが、ふたつの職種と断定できる時代では、もはやなくなっている、とも。

グアムにいけば、素人がライフルの腕前をあげることもさほどに困難ではなく、爆発物作製にいたっては、ネットでその知識を手軽に手にできるからだ。

こう敷衍(ふえん)(趣旨をおしひろげる)していくと、犯人像だが、茫漠な海にただようような、あやうい結果となってしまった。いまは、的をしぼる、なんてできない時代でもある。

矢野が和田に、祈るがごときおもいで再度の訪問をさせたのは、ほんとうに手詰まり状態だったから、なのだ。

とうぜんながら、単独犯との確証など、現時点ではもてる状況にない。

そんな晩飯時の話題を、和田はおもいだしたのだった。

周知のことだが、陸自ではいろんな訓練をおこなう。励めば狙撃のうでまえをあげることができ、爆発物の知識を身につけることも可能であろう。もっといえば、爆発物をつくる訓練すらもうけられるかもしれない。小型無人機操縦の基礎訓練をもだ。

犯人像が敷衍してしまったとはいえ、それだけに和田には、おばさん事務員が神々しくみえた。

しかしながら、である。

そのうえで和田は、もっと沈思すべきであった。

犯人が各種の技能にピカ一ですぐれ、けっか、上官から精鋭な隊員だとのお墨付きをもらったならば、特殊部隊入りをはたし、そこでさまざまな訓練をうけたであろうと。

いわゆるスパイ養成訓練だ。じぶんの存在をかくすことも変装も盗みも、それらすべて、特殊部隊の訓練をこなしたものになら、造作もない些事だったにちがいない。

寄る年なみで、和田も衰えたのか。いや、そこまではいうまい。

ただただ和田は、陸自出身者のはなしに、待ってましたと食いついてしまったのだった。俄然、のどに渇きをおぼえた。どうじに、緊張で脳がかたまったのである。

ああ、残念なことがもうひとつあった。おおきかった疑念(このことを読者はおぼえておいでだろうか)もこれで払拭できる、とまでには深慮できなかったことだ。

和田の肩をもつわけではないが、かれの頭のなかの犯人像の年齢は、三十代であった。

そしてそれ以上に和田が和田らしくなかったのは、想定外の、天佑(天のたすけ)としか表現できないこの大収穫に、大ベテランともあろうものが、気がうわついてしまったことである。

事実として、たとえばプロ野球史上最高の打者である王貞治氏ですらも、サヨナラのチャンスという場面で、相手投手が投じたど真ん中の絶好球をうち損じたことがあった。あまりの天佑に、ぎゃくに、平常心をなくしたからだろう。

まあ、人間とは不完全な身のうえのもの、ミスや見落しをしないなんてないのだから。

「そのまえに、どうしてそれらが陸自の隠語だとおもったかをおはなしします」和田の緊張感がのり移った、そんな表情になっていた。

いっぽう、俎上の“和田岬の”魚のごとく、ベテランも、――あなたの話の進めかたにおまかせしますーーの心境であった。

ただ、そうこられるとぎゃくに大変だったのはおばさんのほうで、どう説明すればわかりやすいかを、頭ですこし整理しなければならなくなった。

ようやく、「高校を卒業したわたくしは、父親の影響で陸自に入隊しました。そんななかで隠語も自然とおぼえたのです。それを先日、しかもふたつも久しぶりで耳にしたことを、いま、刑事さんの具体的な質問のおかげで思いだしたのです。無口な西君から聞いたときはあれぇとおもったのに、年をとると記憶がうすれてしまって…」と。が、忙しさにかまけて、とは会長の手前、いわなかった。

ところで、有力な情報にうえていた和田が、犯人の特徴をなんとかひき出さんとあれこれ具象したうちの、イントネーションや方言云々の例示が、かのじょのなかで連想をうみ、……そういわれればとなったのだった。

後日、和田なればこそのお手柄と、星野も矢野も讃嘆しきりとなる。が、それはいまの話とはあまりかかわりがない。

犯人特定にむけ重要な情報となる可能性に、刑事たちの心身は自然、まえのめりになった。

「できればもっと具体的に。たとえば、そのときのシチュエーションとかを添えていただければありがたいのですが」

「具体的にですか。ううん」と、しばし頭をひねった。「わかりました。が、そのまえに一言。“煙(えん)缶”というのと”台風”が、西君がはっした陸自での隠語です」

「あ、はなしの腰を折ってすみません。えんかんって、漢字でどう書くんですか」そう訊かなければ、はなしがみえないと思った。

このおばさんはおしゃべりだが、聞かせ上手ではないとみたからだ。

いっぽう、気分を害するでもなく質問にこたえると、「で、ボランティアの初日、会長の机のそばをとおりながら『煙缶に吸殻がたまっているので、捨ててきましょうか』って、わたしに向かって。…ああっ」直後、またもやなにかを思いだしたようすだ。

「そういえば彼、そのときちらばっていた灰を拭き掃除し、台拭きをあらったあと、物干場(ぶっかんば)はどこですかって」

またひとつややこしい言葉を耳にしたのだが、いまはきき流した。

「え?って。そのときも一瞬はおもったんです。けど、いそぎの仕事があったもんで…。でもってつぎの日、こんどは倉庫代わりにつかっている隣室の書類が整理されていないので、『台風のあとみたいですね』と。西君って、血液型がAなのか、けっこうマメでしたね」おばさんの、身上(しんじょう)のおしゃべりが止まらない。

「ちょっと待ってください。ひとつひとつ訊いていきますから」ゆっくりと唾をのみこむと、「煙缶って、灰皿のことですよね」おしえられた漢字と吸殻ということばから、そう推測した。

目のまえの刑事がバカでないことをしって、満足げにうなずいた。後援会にたずさわる人間としても、犯人を逮捕してほしいのだ。

「ちなみに台風って、なにを指す隠語ですか」

「ええっと、そうですねぇ。どう説明したらいいのか…」、陸自においては、教育期間中の新入隊員に、居住環境の清掃や整理整頓を身につけさせる習わしの一種で、キチッとできていないものへの制裁として、教官が故意に寝具や衣服などをもっと乱雑に荒らしてみせる戒めのこと、まるで台風一過のごとくに、とのイマイチの説明をした。

倉庫内が整理整頓されていないさまを、偽名西は “台風”という隠語で表現したのだろう。

「では、ぶっかんばって何のことです?」あてはまる漢字があるのかも問うた。

「物干し場のことです。漢字でもそう書きます」

「なるほど。あらった台拭きをそこに干そうと」“ぶっかんば”という隠語には、正直恐れいった。すくなくとも、関係者でなければしる由もないからだ。西が陸自出身ではないかと唱えた“おばさん説”に、得心したのである。

今日のところは“これくらいにしといたらあ”ではないが、この成果に大満足し笑顔のまま辞したのだった。