さて、そんな矢野の六日前に、場面をもどすとしよう。

藍出からの報告のあと、「足立区千住大川の荒川河川敷の公園以外で、ドローンを操縦できる河川敷公園を地取りしてみるというのはどうでしょうか」行きづまった捜査を打開すべく、星野に提案したのだった。ただし、範囲がひろいことにおいては尋常ではないのだが。

きいた星野はすぐさま、矢野のおもわくを察知した。おたがい阿吽の呼吸というやつだ。警視庁で、絶妙のコンビといわれるゆえんでもある。

「犯人はどこかで、ぬすんだドローンをあやつる訓練をしたにちがいなく、そのばしょが荒川河川敷公園であろうはずもない」被害者とはちあわせする公算大だからだ。「そういうわけで、ぬすまれたドローンの写真を捜査員にもたせ、それを操縦していた初心者をここ一か月半のあいだで見かけなかったか、しらべようというんだな。わかった。さっそく手をうつとしよう」

即断即決であった。星野の、矢野にたいする信頼のあらわれでもあった。“初心者”との表現をつかったが、そのドローンには慣れていないが、操縦自体の経験はある人間もふくんでいた。はたから見て、ドローンの動きがぎこちなければ、そいつが犯人の可能性はひくくない。

しかも二十代から三十そこそこ(当てにはならないマニア男の証言によるのだが)であれば、事情聴取すべきですと矢野はいい、さらにつづけた。「かりにですが、もしそいつに、ほかの事件のときのアリバイがあったとしてもかまいません。複数犯だというだけですから」

それから一週間後、ドンピシャという情報を帳場は入手したのである。

わりと早かったのは、広場として、操縦訓練にもってこいの長さと広さがあり、電線などのない、しかもできるだけ人目につきにくい、そう、河川敷公園の外側に堤防のあるところを条件に地取りをかけたからだった。

で、ばしょだが江戸川区北小岩四丁目あたり、江戸川に沿い、ほぼ南北にひろがる公園であった。

古賀清二夫妻爆破殺害事件の二週間前から、ほぼ毎日、払暁直前の午前六時半すこしまえから三十分ほどとばしているのを、散歩を日課とする老人が見かけたというのである。

練習に時間をかけたのは、1…失敗できない、2…はなれたところからドローンをピンポイントで標的に激突させねばならなかった、ことによる。

この報告に、矢野係の皆がひざをのりだした。どうじに意外ともおもった。

目撃者によると、短髪で胸がなかったから男、ただし顔まではわからないとのこと。野球帽にサングラスとマスクをしていたというからしかたがない。

さらに残念なのは、のっていたクルマのナンバーどころか、車種もわからないということだった。なぜなら、ドローンを操縦しているおとこのそばで、クルマを見かけることはなかったからだと。

ちなみに、だれもがうけた意外についてだが、ほとんどが口にしなかった。ドローン窃盗犯と古賀清二夫妻爆破殺害事件の実行犯は「別人ですね」と発言したのは、岡田だけであった。

皆が、当たりまえのことなんか言うなという顔をした。

しかし矢野だけがちがった。「その件、ぼくはまだ断定すべきじゃないとおもう」そうかれがつげた以上、やがては明快な事実を披露するであろう。

そんな上司に、全幅の信頼をおいている部下たちは黙ってまつしかなかった。答えをいまはまだもっていない警部に、質問するは“愚”としっているからだ。

むろん、じぶんの推測に自信があったならば、こたえたであろう、犯人は同一人物だと。

おとこが女装し、複数犯にみせているのだと。だがいまは、たんなる思いつきでしかないし、はずれている公算のほうがたかい。その最大の理由が、盗難被害者の証言である。

いくら犯人の女装が巧みだったとしても、目撃者が数時間、身近でみたのなら「美女ではなく、相手はおとこだ」と、気づいたはずである。

「いますぐでわるいが、一連の被疑者の映像を、こんどは君たちで精査してくれ」と、しりたい具体的内容を藍出に命じた。捜査にとって重要であり、部下たちの信頼にこたえるためにも、必要な証拠をえるために。

で、一時間後の成果だが、かんばしくなかった。なにより、犯人がコートを着ていたせいで、体つき、ことに肩幅や胸のふくらみなどを確認したかったのだが、みられなかったからだ。

それにしても、なんという用心深さだと。爆破で、証拠品のドローンは粉々になるはず。それでもドローン盗難と爆殺事件を、警察が万が一むすびつけてもいいようにと、駐車場やタクシーにおいても、顔を隠すための、帽子にサングラスとマスクの装着である。ホクロや傷があったとしても、これでは確認のしようがなかった。

犯人は、綿密で慎重すぎるほどの計画をたてていたのであろう。操縦の練習ちかくに駐車していなかったことでも、計画のきめの細かさがわかる。さらにいえばおそらくは、監視カメラ等の死角に駐車していたにちがいない。

ところで、かりに犯人宅からだとして、公園との往復に、なぜ他の移動手段ではなく車だと、矢野は断定したのか。

これについては岡田でもわかった。バイクや自転車で運ぶには、当該ドローンは大きすぎるからだ。

ちなみにコントローラーからの電波だが、約5キロは届くという。

犯人があるていどの操縦技量を身につけたのならば、かなりはなれた場所から衝突させることも可能だった、となる。

また、盗んだ理由だが、購入に数十万円はかかることもその理由だったかもしれない。犯人の年齢を二十代にかぎったばあい、購入は困難と判断したともかんがえられる。

むろん、ヘタに正規で購入したりすれば足がついたり、かといってネットオークションなどだとガラクタを手にいれてしまう可能性もある。そんなリスクを避けたのかもしれない。

いずれにしろ、矢野らしいせっかくの目のつけどころだったが、さしたる情報をえることはできなかったのだった。

 

矢野はとうぜんながら、八方塞がりのこんな状況下でもあきらめない。

標的の被害者五人に共通するのは、国民の生活におおきくかかわる法律の成立にふかく関与していたことだ。

ほかの六人の巻きこまれ被害者とは、この点におおきなちがいがある。

それを犯人は、さきに殺害した政治家三人にたいし無理やりでも法案をとおそうと画策した輩、あとの元政治家二人は立法府の議長としてそれに加担した、とみたのではないか。

事件解決のための矢野の論理的手段のひとつである、犯人の視点や心理から動機や犯行そのものを穿(うが)ってみたのである。

とはいっても、動機の対象となったのが三つの法律のどれであるかを、ここにきても絞りきることができずにいた。両院の議長だが、場壁が組閣した直後に被害者二人が就任し、そのまま継続していたとわかったからだ。

しかも、与党の党首でもある場壁の意向で人選されたとのこと。つまり、三つの法律のすべてだけでなく、場壁にもふかくかかわっていたのである。

ふだんは事件に追いまくられ、政治ごとにはほとんど縁のない暮らしをしているせいで、両院の議長がいつどうやってえらばれ、いつ交代するのか、星野たちはしらなかったのである。弁護するわけではないが、デカとしては無知であっても、なんの支障もなかったのだった。

ただし今回にかんしては、迂闊の誹りはまぬがれない。むろんのこと、四番目と五番目の事件をふせげなかったからである。いくら政治(世事ではない)にうとかろうとも。

 

それだけにいっそう、じぶんの持ちばである事件解決の突破口を希求する星野と矢野は、原点回帰すべく、ある人物に再度の接触をはかることでいっちした。

キーパーソンとして、地元後援会会長を指名したのである。

もちろん、岩見に誕生日プレゼントをした後援会会長にはとうぜん、捜査員が出向き、すぐに事情聴取をしていたことは既述したとおりだ。

そして今日も、となる。ただしこんかいのは、後援会会長になんらかの嫌疑をかけてのことではない。

“無疑”を根底に事情聴取にあたる理由だが、星野管理官と矢野警部に、いっちした推測があったからだ。爆発物を実名で送るアホウはいないだろう、とかんがえてのこと。

プレゼント自体が粉々になって送り主の名前や住所を再現できなくても、配送会社の記録にはとうぜんのこるのだから。

ところでむかった捜査員だが、二人から直々の指令をうけひとりでやってきたのだ。それだけ、信任が厚い人物といえよう。

二人の希望的観測ではあるが、まともな事情聴取ができていない以上、なんらかの手掛かりがのこっている可能性が、後援会会長のはなしにならありうる。

それを探りあてられるのは、定年退職間近の和田警部補をおいていない、そう判断したからだ。

さて、小雪がちらつく屋外にもかかわらず、後援会事務所を取りまく一部マスコミ陣の熱気だが、ちいさな音を発しつつくすぶっていた。かれらは、矢野係の鬼警部補がうごくことをめざとく察知した連中であった。

その雰囲気に気圧されたのであろうか、来所者はほとんどなかった。

「前回の捜査員とはべつの係なので、あらためていちから質問します」と警察手帳を開示しつつ、和田警部補は断りをいれゆっくりめに頭をさげた。

会長は不満げなくちびるで「さっさと頼む。それで」と、ぶすっと。

了解の意をこめてちいさく低頭した和田は「なにを送られたのですか」まず、プレゼントの内容をかたるときの、会長の目のうごきを見ておきたいとかんがえた。

ウソをついていないか、デカとしてしる必要があったからだ。習性でもあった。また、単刀直入に問うたのは、バタバタしている情況を忖度してのことでもあった。補欠選挙にかんする電話がひっきりなしなのである。

ちなみに、家宅捜索とは名ばかりの捜索は爆破事件のよくじつ終了していた。星野が原の顔をたてつつ助言し、簡易ですませたのだった。時間と経費の浪費をさけるためだ。

さて、地元後援会会長なる人物、岩見とは高校の同期で、親のあとをついで建設会社の社長におさまった六十歳の、ふだんなら脂ぎり、みるからに頑固そうな顔は正直、困りそして疲れはてていた。しかし立場上、そうもいかない。

諸事・雑事は妻にまかせていたが、それでも候補者選任にたいする支援者からの不満や予定候補者への要望などのほか、有力与党議員の応援の日程調整や有力支援者への電話、マスコミの取材対応もしなければならなかったからだ。

そこへ刑事の、いきなりの来訪である。しかも短兵急な質問であった。

以前になされた家宅捜索。それは、警察サイドからすれば簡易だったかもしれないが…。くわえての、けんか腰になった事情聴取。

いずれにしろ、家宅捜索も刑事とのやり取りも、会長がなれているはずもない。だいいち事件から今日にいたるまで、会長にとっては、それどころではなかったのだ。

なのに、しかも殺人のうたがいをむけられたと感じたのである。身におぼえがないだけに、腹がたった。まして、なにごともじぶんが仕切らなければ気がすまないワンマン社長だ。傲岸でわがままな性癖が、眉間にもあらわれていた。

ところで事件現場の近隣居住者という、ただそれだけの無垢の一般人でも、デカの訪問ならびに質問にたいし、快くは受けいれがたいもの。

まして関係者であるうえに、それなりの公的立場もある人物だ。世間の目を気にしないわけがない。くわえてかれの現状をいうと、立候補者の人選が恣意(おもうがまま)とはいかず、こんごの展開も想定できないまま、ただただイライラしていたのである。

さらには報道によると、じぶん名義での贈りものに爆発物が仕かけられていたと。

プレゼントを宅配業者に依頼したことはみとめたうえで、しかし「爆発物であろうはずがない」と、眉をあげてつよく否定したのだった。全面支援していた国会議員の横死だけでもまいってしまうのにと、怒鳴るように本音をあびせたあと、プイとへそをまげたのである。

プレゼントの中身について素直にいえばいいものを、あえて口をつぐんだのはわがままな坊ちゃんそだちのせいか。

そこで、プレゼントを買いにいかされたという事務員に、その内容をたずねた。

「シャツとネクタイとタイピンでした」

会長の怒りのようすにわざとらしさがなく、この四十代中ごろの事務員の応対ぶりにも演技めいたものを、矢野係の最年長者である和田はかんじなかった。

鬼警部補との異名をもつ和田の心証からだと、二人が結託している可能性はきわめてひくかった。二言三言ではあったが、聴取事項は内容的に事実とみてまちがいないであろう。

ならば、どこかでだれかが爆発物とすりかえたことになる。どの時点ならそれが可能か。その可能な時点にかかわれるのはどんな立場の人間か。それが主犯、ではなくとも少なくとも実行犯とみてまちがいないであろう。

ただ実行犯だったばあい、爆発物にかえたあとの主犯にたのまれて、中身をしらずに宅配業者に依頼したという可能性も考慮しておくひつようがあるだろうと。

しかし和田は一時間後、その必要性がないことをしる。

「それらをどこで買いもとめましたか。できれば案内してください」と、さりげなく同行をもとめた。原部長の息のかかったデカたちによる前回の事情聴取とは、この二番目の質問からかなりちがう内容となっていった。

かれらは会長にも、うたがいの“への字眉”で質問していたのである。

そんなことでは、わがまま育ちのかれがすなおに応じるはずなかった。語り手は、きき手であるデカを無視したのだった。

ひと悶着があったあと、立場を失ったデカたちは、まだ若いぶん経験不足だったこともあり、つい感情的に任意同行をもとめた。

会長が応じるはずもなく最後に、「令状かなんかしらんが、その手の書類をもってこい」と一喝したのである。地方の建築会社の社長をながくやってきたワンマンだ、気のあらい連中に睨みをきかす迫力は筋金入りであった。くわえて、デカなど、馬の骨くらいにしかおもっていないのだ。

気圧され、“桜の代紋”のいろが褪せた。結局、噛みあわないまま、かれらはすごすごと事務所をあとにしたのだった。

前回、そんなやりとりもあったが、ベテラン和田の腰のひくい態度に、会長は不承不承の許可をだしたのである。

いった先は、クルマで十数分のデパートだった。

そこで、売り場の店員に問うてみた。

数十日という時の経過はあったが、それでも買いもとめにきたのは目のまえの女性でまちがいないと、パソコンにのこされた売上伝票から贈りものの三点もあわせて確認できた。

「このデパートから直接送らせなかった理由をおしえてください」ふつうならデパートのサービスを利用し相手先にとどけさせるだろうに、さきほど、会長が宅配便で送らせたといったことから、こう推量したのだ。

さすが、警視庁一優秀なデカ集団とうたわれている矢野係で、しかも警部補をはっているだけのことはある。ふつうならきき逃すような些細でも、捜査にいかす技量を身につけているのだ。

「会長が『ネクタイの柄などじぶんの眼で確認したいから、いったん、事務所に持ちかえるように』こんかいはそうおっしゃったので。それでこちらの店員さんに包装しないでください、それと包装紙をください、そうお願いしました」おばさん事務員はなぜか不満げだった。

店員がした肯定のしぐさを尻目に、和田はそのふくれっ面と「こんかいは」が気になり、こんな質問が口をついてでた。「ということは、例年はそうではなかったということですね」

矢野や星野が信頼しているゆえんだ。ここでも事務員のなにげない言動を見すごさなかったのだから。しかもである、この問いのおかげで、第二の事件まえに犯人がかれらのそばにいたと知ることができるのだ。

いわずもがな、このあとの記述でわかることだが、原部長お気にいりの捜査員たちが逆だちどころか空中浮遊しても、凡庸ではできない芸当であった。

「ええ、今回がはじめてです。いままでは一任されていましたから」との尖った眼が、店員にはちょっぴりこわかった。

「理由をききましたか」さすがベテランデカの勘というやつで、はじめてだったり、今までとちがう事態にたいしては、アンテナにピンとくるのである。

前回の捜査員とは、まったくちがった事情聴取となっていった。

かれらは「シャツやネクタイがどうして爆発物にかわったのか。否、だれがかえたのか!」と、そこばかりを責めたてたのである。事務所にいる三人のうちのだれかがすり替えたにちがいないと、はじめからうたがってかかる、先入主による見こみ捜査だったからだ。

ただし疑惑をいだいていても、爆発物を作ったのは別人で、しかも、そんな危険なものと摺りかわったとは知らされていなかった可能性も想定はしていた。

もしそれが真相だったならばこそ、利用されたとしった事務員はおそれ戦(おのの)くにちがいない、「大変だ」どころですむはずのない、最悪のばあい、共犯者として事件に引きずりこまれたことを。

そこまでの原刑事部長の憶測を、捜査員は事前にきかされていたのだった。

そこでかれらがとった手っとり早い手法、それは事情聴取という名目で事務員を個々に別室によび、脅すことであった。

もし主犯を隠避したりすれば、家族とは完全に離別することになりますよと。

「これ以上の犠牲者をだすわけにはいかない」警察官としての使命ばかりを気にしていたから最悪の手段にでたのだ。

原にすれば、じぶんのこの完璧なプランで、「ゲロしないはずはない」…であった。部下は上司に命じられ、したがったまでである。

だがけっかは、成果ゼロという、《急いてはことを仕損じる》を、まさに地でいってしまったのである。犯人逮捕にあせった、愚策でしかなかった。

しかし、だからといってそんなことを警視庁の、しかも刑事部長たるエリートがするだろうか。なるほど、読者としてはとうぜんの疑義であろう。

ならばおもいだしていただきたい、2009年6月逮捕、同7月起訴された村木厚子厚生労働省元局長の冤罪事件を。

いわゆる思いこみから、同女史が障害者郵便制度を悪用したと大阪地検特捜部担当主任検事がきめつけ、立証するための証拠改ざんと同隠滅、さらには上司による犯人隠避までなした、組織ぐるみの犯罪の存在を。==閑話休題。

いっぽう、事情聴取をされた側の事務員たちは、うける直前まで、裏事情どころか、嫌疑の渦中にあるともしらず、よって危機感ももっていなかった。別室にて、警察が殺人事件にかんし疑惑の眼でみていると、はじめて知ったのだ。

戦慄なんてものではすまなかった。どうじに、警察に不信感と敵意をいだいたのだった。

ところで原のプラン、弱いものいじめ程度ですんだのならよかったのだが、捜査の足枷となったのである。

かれらからの捜査協力を、えられなくしたからだ。それどころか、警察に逆らい、捜査員に敵対するような言動をとれば、結局じぶんの身が危ない、そう彼女たちにおもわせただけだった。

ふつうに日常生活をし、嫌疑をうけるなどまったくない善良なひとたちである。

子育てにもはげむ母でもある。なのに、警察にうたがわれ責められればられるほどに、被疑者あつかいされる母親にただ当惑するわが子の顔がうかぶ。

だけでなく、子はいじめにあい、やがては学校での居場所をなくすだろう。

そうおもうと、申しわけなさに心が支配され、焦燥をよび、冷静さをなくし思考力を低下させ、ついには、ふだんなら気づくことさえ、その力を喪失させてしまったのだった。

彼女らは、ただイノセントなだけであった。ふだんならあることを思いだすことで、捜査協力したであろうに、できなかったその不甲斐なさをだれが叱責できようか。

つまり、こういうことだ。

オレオレ詐欺なんかに引っかかる高齢者にたいし、なぜ?そう首を傾げるのは、絶望の淵に立つ危機感へと煽(あお)られつつ、犯人にマインドコントロールをされた経験がないからだ。

彼女たちもある意味、操られていたのである。身におぼえがないぶん、うろたえるばかりでどうしていいかわからず、だからこそまずは身の保全をかんがえる。

ただ、嫌疑をうけた経験がないから、弁護士うんぬんにまでは思慮がいたらない。悪循環だが、身の潔白を証明するしゅだんがわからないから頭が混乱する、そんな状況下におかれてしまったのだ。

それでなくとも、事務所的には、いま、最悪の状態であり、会長の不如意が醸しだすピリピリ感の体現者となっていた。いうなれば、軽いパニック状態にあったのだ。

結局のところ、贈りものが爆発物にかわった理由など、見当がつかなくなっていたのである。

他方、警察官の態度を無礼だとして、激越な感情をたかぶらせてしまった会長。不埒だとして立腹を余儀なくしたかれらに、こたえてやる気持ちなどあろうはずなかった。

それが、かれらがいだいている疑惑を一層深めさせ、やりとりを噛みあわなくさせたのである。

ところで目のまえのおばさん事務員。「会長に理由をきいたりしたら、頭ごなしにしかられるだけですから」和田の質問に、すなおにそう答えたのだった。

先刻のぶっきらぼうな言動に、なるほどと納得した和田は、会長には糺(ただ)すのではなく、やんわりときくほうがよいとおもった。

事務所にもどり、電話応対などで忙しくしている会長の体があくのをおとなしく待った。

そういう殊勝な態度に、「お待たせしました」と。仏頂面ながら、もうおこってはいなかった。和田の物腰もだが、同世代だったことも、会長の気をすこしは和ませたのかもしれない。

「五・六分ください」では、じつは済まなかったが。「で、こんかいのプレゼントにかぎり、会長みずからが確認したいとおっしゃったのはなぜですか?」

「なんだ、そんなことを訊くためにわざわざもどってこられたのですか」こうみえてオレは忙しいんだぞといいたげに。

「中途半端な事情聴取をすると、あとで上司にしかられますので」六年前、うっかりミスを注意されたことが一度だけあったのは事実である。以来、そんなヘマをしたことは一度もない。懲りた、ではなく、自戒したからだ。さらには、年齢が息子ほどの矢野警部を尊敬もしているから、もある。

さて、この矢野係の長は、凶悪犯罪と取っ組みあっているという自覚のもと、捜査に一毫(ほんのわずか)の妥協もゆるさない人物として、刑事部で遍(あまね)くとおっている。

その矢野が十歳のとき、両親を刺し殺され、一般論だが、死刑を宣告されるべき凶悪犯罪者が逮捕されないまま時効が成立したことと、けっして無関係ではない。

「どうかお答えください」ちいさく頭をさげた。

仕方がないという顔がうなずくと、「今回…、アドバイスした若いのがおってな。ここの事務をてつだってくれることになった奴なんだが。その意見をだな、一理あるとおもったから。それに偉ぶらないこのわしは、ひとの意見に耳をかたむける質(たち)だから。とくに若いひとのにはな」自慢げにいうなり、 “ははっ”とこれ見よがし、豪気にわらった。

ひとを心地悪げにする笑みだった。

「“奴”…ですか…おとこだから奴なんですよね」男性事務員がいないのを再度眼で確認すると、「おかしなことをききますが、あの~、どうして男だと」ドローンの窃盗犯は美人だったとの証言が、質問の背景にあった。

「どうしてって、…声も顔つきも、あれはどう見たっておとこだよ」からかわれたとまでは思わないが、それでも少しムッとしたのか、額のしわが深くなった。

「いろんな可能性を想定しておりまして、ですからどうか、お気をわるくなさらないでください」かるく低頭した。つまらんことで、キゲンを損ねる愚はさけたかった。「ところで、どんなアドバイスをうけたのですか」

「寡黙なタイプの人間のアドバイスだからなおさら傾聴したのだが、『人まかせにせず、最終においてごじぶんでお決めになったほうが。でないと、岩見先生が贈りもののネクタイ等をされていても、会長ご自身がそのことにお気づきにならないかもしれませんよ』そんな内容だったよ」

「なるほど」若いおとこの助言にしては気が効いているとかんじた。「それで、そのお若いかたは今どちらに」話をきくひつようがあるとデカ根性がつげていた。

「それが、アドバイスがあった次の日から見かけんのだよ。まあ、ボランティアだから、急にこなくなったからといって、叱るわけにもいかなくてね」

すると横から、「うらやましい話、『家計は家賃収入で充分まかなえる』らしいのですが、母親が入院中なので、こられないときはごめんなさいと初日にいってました。じじつ、きたのは一週間たらずでしたね」おなじみの事務員嬢が口をはさんだのだった。

「つまり、ボランティアできるのは金と時間にこまってないから。それと来所しないことがあっても電話をしてくれるな、とまあ、穿(うが)ったことをいえばこういうことですかね。ところで、だれかの推薦かなにかで」急にすがたをけした青年のことを詳しく知るひつようにかられた。

「そんなもんはひつようないよ、しょせんはボランティアだからね。まあ、交通費やコンビニ弁当(公職選挙法に抵触しない)くらいはだしてたかもしれんが」とセコく、経費に関心をもってたくせに、それでも厚顔にも「若いひとが政治に関心をもつのはいいことだ」と付けくわえたのだった。

会長のとってつけた、まさに戯言(ざれごと)であり無視した。ただ、うたがうことを習性とする身にとって、会長ののんきさにはちょっと驚いたこともあり、「たとえば他陣営からのスパイの可能性について、考慮されませんでしたか」失礼とはおもいつつも、いっぽ踏みこんで問うた。布石の意味あいもあった。

その心は、アドバイスした青年に焦点をあて、情報を蒐集したかったからである。

ところが意外にも、鼻でわらったのだ。「採用時は選挙の時期でもないし、わしのところは岩見の個人事務所でもない。それにいまの時期ここにあつまる情報なんて、他陣営は鼻もひっかけないよ」それから真顔にもどり、「まあ、ほしいとしたら支援者名簿だろうけれど、それもふくめ貴重な資料はすべて金庫のなかだし、開けられるのはボクだけときてる。…だからかれがスパイだったとしても、すこしも怖くないよ」いいつつ、日頃みせるすこし横柄な態度にもどっていた。

そんな会長の言葉を聞きながしながら、またもや和田のアンテナに、今回はややおくれてだったがピンとくるものがあった。それは、先ほどの会長と事務員のはなしに、だった。おくれたのは、場壁殺害の犯人と同一とみたときに矛盾がないか、かんがえていたためだ。

具体的には、「アドバイスをうけたつぎの日から見かけん」という会長のと、一週間にも満たないボランティアという発言に鑑(かがみ)みたけっかであった。つまりこういうことだ。

場壁が射殺された日から時をおかず、そのおとこは事務所に出入りするようになった。そして、プレゼントをおくった翌日から来なくなったからだ。

が偶然といえなくもない。あるいは必然なのか?その点が最重要にちがいなく、だが捜査対象を一民間人におしえる愚を冒すわけにもいかず「贈りものものですが、取りにこさせたのですか、宅配業者に」と、それとなく問うたのだった、そうではない可能性のほうがたかいと思慮しながら。

しかしここでも、和田のまじめな気質がでてしまった。

刑事の真剣な眉をみてとると会長は、「どうだったかな、大事なことのようだから」苗字をよぶ手間をはぶき、先刻の事務員にきいたのだった。

「ええっと、そういわれれば…」ようやく思いだしたのだった。「たしか、西って名前だったけれど、かれが『じぶんで持っていく』って。頼みもしないのに」

――じぶんから進んで!やはり勘はあたった――その、西という若者が爆発物にすり替えて宅配業所に渡した、このように推測した。そのとき以外に、チャンスがないからだ。

――よっしゃ!!――ようやく犯人にたどりついた。ゴクッと固唾をのみこんだ和田は、被疑者とはとらえず、西を犯人と断じた。むろん、和田が雀のごとく、内心躍りあがらんばかりに欣喜したことはいうまでもない。

どうじに急(せ)いた。つぎの犠牲者が、むろんイヤな想定ではあるが、出るまえに逮捕したいからにほかならなかった。「西というおとこの写真はありますか?」おもわず声が尖った。

当惑顔の会長にかわり「ありません。飲み会やなにかで写真でも撮っていればべつですが」と、おばさん事務員が答えた。

「おとこの履歴書をみせていただけますか」当然、あるとおもっている。

「履歴書…ですか。けど、住所や連絡先ならわかります。でも、顔写真はありませんよ」

顔写真がないのは仕方ないとあきらめつつ、「ではその書類、あずからせてください」犯歴があればデータをひきだせる、指紋を採取するためだ。ついでに筆跡も。

「履歴書、ですよね」意気ごんでいる刑事をまえに、申しわけないと、おばさんは口のなかでしばし唸っていたが、それから首をちいさく横にふった。

「ないということですか?」

今度はこっくりうなずいた、

とは、指紋はこの線からも手にはいらないということである。和田の額のしわがふかくなった。

「普通だとあまりないことなんでしょうが、かれの手帳に住所等がかいてあり、それを見せてくれ、わたしがかき写すと、手帳をじぶんのリュックにしまい込みました」

メモ用紙であれば、それをほしいと気軽に手をのばせたのだろうが、手帳ならばあいてが差しださないかぎりそれはできないし、その部分を破ってほしいとも頼みづらい。

この犯人は、ひとの心理をそこまでよんで、計画性をもって、有力な手がかりをのこすメモではなく、手帳をつかったのではないか。

事務員のもうしわけなさそうな眉が気の毒ではあったが、そんなことよりも和田は、できるかぎりの情報を欲したのだ。もはや、ないものをとやかく言っても詮ないいことだった。

ただ、犯人のシッポをしっかり捕まえておきたかったのだ。「だとしても、見せてくれた住所や連絡先くらいはそれにのこしてあるのでしょう」

いわれておばさんは、望みのデータをパソコンのディスプレーにだした。

それをうしろから見ていた和田は、いそぎ、携帯の番号に電話をかけたのだ。

しかしでたのは、田中と名乗る人間だった。

そこで事務員にかわってもらったが、関西弁のうえ、声もまったくちがうとのこと。それでも念のため事情を説明し、当人の今日現在の写真をメールでおくってもらった。やはり別人であった。

さらに必要事項をメモにした和田は、そこに足をはこぶことにした。そのさい、事務所そなえつけの、千葉九区内住宅地図の当該部分をコピーしてくれたことにも礼をいった。

だがおもったとおりであった、番地じたい存在しなかったのである。電話番号も住所も虚偽であった。ならば西も偽名であろう。残念だが、犯人はやはりバカではないということだ。

「西と名乗った青年ですが、会長の言によると交通費をだしていた、で、まちがいないですか」和田は電話で、例のおばさんに問うた。

「たしかに。かれの住所の最寄り駅からこちらの最寄り駅まで」事務員の顔の相だが、先刻までとはうって変わり晴れやかである。

「で、駅からは徒歩で」

「はい、バスにのるほどの距離ではありませんから」ここまですなおに答えていた事務員のムズムズしていた口があつかましくなった。

「西君が、爆破事件の犯人なんですか、やっぱり」好奇心にそまったわかやいだ声であった。どうじに、いちばん大切なじぶんたち家族のきずなが、警察からのうたがいが晴れたことで守られた。それをよろこんでいるトーンでもあった。

「ご協力いただいたので正直に申しあげますが、いまはまだそこまでの嫌疑をかけれる状況にはありません。ただ、警察としてはしらべないわけにはいかない、そのていどです。それゆえご忠告申しあげますが、犯人の可能性について他言されたばあい、名誉棄損に問われるかもしれませんからご注意ください。他言のあいてがたとえあなたのご家族でも、同じです。民事裁判になったばあいは、むろん勝ち目はありませんから、慰謝料を支払わされるでしょう」いらんウワサをたれ流されてはこまると、先手をうったのだ。

ジャブていどの脅しではあったが効いたのか、…慰謝料が数千円単位ではすまないわけで、それに民事裁判の弁護士費用などをかんがえたらすくなくとも数十万円、いや、百万をこえるかも…、入道雲のごとくにふくれあがったおばさんの好奇心はまたたく間に霧消したのであった。