ともかくも、“七年以上の猶予期間”の謎ときがふりだしにもどってしまった。情けないはなしだが、いまは頭を抱えこむことしかできないのである。
それでも念のため、こんどは昨年の一月十一日を最終期限として、前回の条件にあてはまる出所者を検索させた。
犯人とおぼしきに洩れのないよう目をこらしつつ、それぞれの犯歴をみた。
そのけっかだが、血の気がおおいだけの連中ばかり。たとえば傷害致死や暴行傷害、それに知能犯とはいいがたいやり口の、強盗や窃盗の常習犯等々、今連続殺人事件を遂行できそうな顔ぶれではなかったのである。
これで踏んぎりをつけることができると、矢野はおもった。
デカだからこそかんがえつく“七年以上の猶予期間”が、刑期などのせいではなかったと、ポジティブにかんがえることにした。検索結果の見取りにとんでもない見落としをしていないかぎり、犯人が塀のなかにいたからとの見解は放擲して、べつの見込みを追求できると。
とはいっても、あらたな可能性がまったくもって見えてこない。連続殺人事件の捜査は、暗中模索の闇のなかであった。
そんな最中(さなか)、こんどは同日ほぼ同時間帯に、手口のちがうふたつの爆破事件がおきたのである.
ねらわれたのは、どちらも車中の人だった。しかも現国会議員ではなかった。それで、警護はまったくついていなかったのである。
爆破事件のひとつは、車じたいに仕かけられていた爆発物が作動したものと、翌日になり、科捜研と鑑識課の調査分析によりはんめいした。
被害者は国民党の一派閥の元領袖で、三年前の衆院選挙のさいに引退した前衆議院議長の、村川浩二(七十五歳)とかれの運転手兼私設秘書である。
もう一件は、マイカーで自宅の駐車場から出ようとしていたところを、ラジコン操作のドローンが激突し発生した事件であった。もちろんこちらも翌日になり、火薬を確認したのだった。
つまりドローンが、爆発物を搭載していたのである。被害者は、五年前に政界を引退した古賀清二(七十九歳)元参議院議長とかれのつまであった。
四人とも即死だった。
それにしても犯人は、政治家(元職をふくむ)というターゲットのほかに、六人もの犠牲者を出している。岩見事務所では、四人をまきぞえにしたからだ。
いわば、とばっちりで尊い命をうばわれたのである。ねらわれた政治家と、たまたま同席していたにすぎないのだ。むろん政治家も、たとえ悪事をはたらいていたとしてもころされる理由はない。まして六人には、いわれはまったくないのである。なんとも酷いやり口ではないか。
殺人という最悪の犯罪を、どんな理由や理屈があったとしても、ゆるすことはもちろん認めることも、矢野には少年時の酷い経験からも、できないのだ。
標的を仕留めるために巻きこまれた人の死は、いやまして、理不尽にすぎる。――ひとの命をなんだとおもってやがるんだ!!――“激憤”ということばでは到底、肚でさけんだ矢野のいまの感情を表現するには不充分だった。
また、遺族にたいし、ことばのかけようもない。ただただお気の毒で……などですませられるはずもない。警察官として、不甲斐なさともうしわけなさでいてもたってもいられず、いまは憤怒のやり場もないだけにいっそう、犯人を憎々しくおもった。いやがうえにも、犯人逮捕への闘志が燃えあがったのである。
そうはいっても現実は、警視庁も警察庁も、犯人によって翻弄されていた、が実態だ。
もっといえば、所属人数(事務職を除く全国の警察官)約二十五万人という巨大な組織が、手玉にとられているのだった。否、日本政府のみならず日本法治国家そのものが犯人の掌のうえで、弄ばれているのである。
そんな口惜しさは矢野だけでは、むろんなかった。それぞれが歯噛みしながら、ただ情けないはなし、つねに後手後手の帳場であり捜査陣であった。
それでも日々、切歯扼腕ののり移ったがごとき足音をにぶく発しながら、肉親や関係者それぞれのもとに事情聴取にむかったのである、手分けしつつ、地道ながらも入念な聴取を心がけながら。
たとえば、「ただの人になって三年」とつぶやいた村川浩二のつまは、犯人に心あたりはないと悲しげに。看板やカバン等の三バンをついで代議士となった長男や、地盤そのままの後援会も異口同音であった。
もういっぽうの被害者である古賀家の家人や世襲議員となった次男も、新旧後援会のおもだった人々も、ただ悲痛な首を傾げるだけであった。
それでも捜査員はねばった。「脅迫の類はありませんでしたか?あるいは不審人物を見かけませんでしたか。どんなに些細な情報でもかまいませんから」
この質問にも、村川・古賀の両サイドともにこれといった反応はなかった。まったくおもい当たる節がないというのである。
過去三件における事情聴取とおなじで、結局、これといった収穫はなかったのである。
それでも各方面の奮闘はつづいていた。
さらに翌日になり、どちらもが岩見殺害につかわれた火薬と同一成分であったこと、村川浩二殺害には、クルマに取りつけられたのが時限装置つき爆発物であったことも判明した。
火薬が同一ということは、とうぜん同一犯人をしめす証拠となる。成分やその配合までは報道されておらず、したがって模倣犯にできるマネではなかった。
それにしてもなぜ、どちらのクルマにも時限装置を取りつけなかったのか。矢野には不思議だった。
時限装置のほうがかんたんで、しかも正確なはずだ。ドローンの操縦は爆発物を搭載させていたぶんいっそうむずかしさを増し、失敗の可能性もすくなくないのだからと。
そのドローンだが、ひと月半まえにぬすまれたものと同タイプであることが、刑事三課からの情報によりわかった。さらにしらべたところ、盗まれたドローンそのものが凶器だったと判明した。
つまり、犯人はつかい慣れていなかった可能性がたかい。だとすると、どこかで遠隔操作の練習をしたにちがいない。矢野はそうふんだ。そこで、盗難にあった被害者に、どこで飛ばしていたか等をふくめ、藍出に事情聴取にむかわせたのである。
似顔絵担当をふくむ鑑識員も、同行していた。
さて、ラジコン模型飛行機も所持している被害者だったが、刑事の来訪のせいでくやしさが再度こみあげてきたのか、「まいにち手入れしていたんですよ」でかい図体の四十代男だというのに、いきなり、半べそをかいてしまった。
そんなことには頓着せず、「知りあいなどのなかで、ぬすんだ人間にお心あたりは?」もしもとおもい、ダメもとで尋ねてみた。所轄がうけつけた盗難被害届の情報しか、この時点では持ちあわせていなかったのだ。
じつはこの被害者、盗難被害届を提出するさい、担当者した婦警がタイプだったため、肝心のことをふせてしまっていた。レンタルビデオ店の受付が若い女性だったばあい、エロDVDを借りにくい心理ににている。
で、おとこは鼻をふくらませると、ごくちいさく首をよこにふった、唇を噛みしめつつ。しかし、眸はちいさな逡巡でかすかにゆれていた。直後、なにかいいたげなそぶりをみせ、目をふせると、数秒後、グチりだした。
「ぼくにとっては子どもなんです。身体の一部なんです。だから、付属品にもお金をかけました。おねがいですからとり戻してください」
「まずは、すこし落ちつきましょうか」
「まってください、いたって冷静ですよ」一瞬、口をとがらせたあと、一転し「で、ぼくとしては、ネットオークションにかけられてないか、必死でチェックしてるんですが…、個人ではたかがしれていますし、どうか警察の力でもって」と、かるく頭をさげた。それからまた、歯噛みをはじめたのである。
ドローンが殺人事件につかわれた凶器だと、知らないのだからしかたないにしても、藍出には呑気にきこえた。
「どんな装備だったかですって?ええとですね、まずは太陽光をエネルギーに変換できるハイブリッドタイプで、記録用の3D8Kカメラ、遠隔操作にひつような飛行状況確認のためのGPSつき通常カメラ、それにピンポイント用集音マイク」と、はた目にはどうでもいいことなのに装備が自慢だったらしく、しだいにマニア顔を呈しせつめいしだした。「さらには、センサーによって進路上障害となる物体を自動で回避しつつ、重さ20キロの荷物を搭載し、目的地まで時速100キロで飛行できるすぐれものだったんです。むろん、操縦免許ももっています」
「なるほど…、障害物を回避しながら飛行するドローンだったと」二・三度うなずく被害者を視界からはずすと、藍出はちいさくうなった。
思考回路が機能しはじめるとき、無意識にうなりがもれるのだった。――センサーに細工をほどこし、機能させなくしたということか――
でないとクルマをよけることとなり、爆破できないからだ。犯人(かりに単独犯だとして)はメカにつよい、とみていいだろう。
しかも、爆発物をはこぶ能力があったとの証言もえた。
しかし肝心なのはここからだ。ぬすまれたときの状況をしることである。犯人特定の材料をえられるかもと。
「じつは…」相手がこんどは男性なので、ようやく決心がついたようすで、「さきほどの質問の件、格好わるい話なんで…。ふたりだけの秘密ということで」これでも、羞恥心らしきものはのこっているようだ。
ん?…てなわけにはいかないでしょう、とは口にださず「だれでも、他人にはしられたくないミスやうっかりはあるものです。で、」とあえてとぼけると、先をうながした。いいにくそうだった眸とくちびるから、なにか隠しているとみていたのだ。
おとこは「そうですよね」と苦笑いしつつ、咳ばらいのあと、つづけた。「ええとですね、…晩ごはん兼晩酌のつまみとして、コンビニでおでんと弁当をかって家路をいそいでいたんです。そこへ、うしろからぶつかってくる人がいて、はずみで、レジ袋からおでんも弁当も路上にぶちまけられてしまいました」
はなしがながくなりそうなので、以下、かいつまんでの記述としたい。
相手が妙齢(年齢をきかれ、女性の年齢はわかりにくいですが幅をもたせて、二十代から三十代前半と被害者はこたえた)の美人だったのでおこることもできないでいると、お詫びにと食事にさそわれた。さらにバーでものみつづけ、気がついたら頭の痛い朝だった。
そこは自宅で、なにがあったかわからないままおきだすと、美女はドローン、コントローラーとともに姿をけしていたというのだ。
目のまえの刑事におしえられ、半強制的に、凶器をぬすまれた顛末を書類に認(したた)める作業をした。二日酔いはほぼおさまっていたが、べつの頭の痛みになやまされることに。
それにしてもだ、藍出には、犯人が女性とはまったくおもいもよらない、青天の霹靂であった。
しかしそれをおくびにも出さず、「犯人は、あなたが飛ばすドローンをどこかで観察していたにちがいない」と推測したのだった。客観的に、偶然による盗難とはかんがえにくいからだ。
ねらいをつけて、このマニアと接触したとみるほうが、計画犯罪を仕組んでいるこの犯人には似つかわしいのである。
「条例にかんがみ、ドローンを操縦していた場所ですが、そうとおくない河川敷公園で、ですか」
…じつは、この質問の返答を、矢野はまっていた。
建物や電線などがなく、歩行者に万が一などもない適切な場所でとばしていたはずだとふんで、矢野は藍出と、訪問まえに地図で確認しておいたのだ。
それによると、被害者の家からクルマで15分ほどの距離に公園はひろがっていた。
「はい、雨のふっていない週末の早朝、たいていは、うちから北西方向の荒川河川敷で」
ドローンの性能や被害者のようすから、最適なブツをこれなら奪いやすそうだと、犯人は標的ときめ、帰路をおそらくは尾行したであろう、被害者の住居の特定は、犯行の端緒であった。
さらにほかの情報も収集後、被害者を食事にさそうために、弁当を路上に故意にぶちまけた。あとは酒をすすめて酩酊させ、おとこの自宅へと誘(いざな)ったのであろう。
で、ふとおもった、これもしっておくべきかと。ギモンをのこしたままは、矢野係では禁物なのだ。「参考までに。コンビニは家のちかくだったんでしょう」
「徒歩で三分くらいですか」
「それで食事はどちらへ…、家のちかくの居酒屋ででしたか」
駅までわざわざタクシーをつかまえて行き、イタリアンをご馳走になり、そのあとのバーもちかくだったというのだ。
ならば、帰りもタクシーをつかったはずだ。
運転手にも事情聴取し、車内設置のカメラが記録した映像もチェックできればと。
もんだいは、そのタクシーをみつけだすことだが、やはり被害者は、行きは個人タクシーだったとだけ、帰りはどんなタクシーだったか、記憶になかった。タクシーの特定には、時間かかかりそうだと。
で、その日のうちにしらべた、イタリアレストランの防犯カメラの映像は、帽子とサングラスで顔をかくしている女性しか、とらえていなかったのである。
それでもひょっとして…、支払いがカードであれば犯人を特定できたのだが、残念ながら現金であった。
ついでながら、指紋がついていたであろう紙幣だったが、とっくに銀行にあずけられていた。
そんななかでもせっかくの映像情報ということで、こんかいも、後日手にいれたタクシーのぶんもふくめ、ニュース番組や新聞などをつうじて公開したのだが、以前とおなじで徒労に終わったのだった。
「ご自宅でねていたご家族は、盗難に気づかなかったのですか」とうぜんのギモンをぶつけた。
「残念ながら独り身です。現在、恋人募集中」死ぬまで恋人募集中をかかげていそうなのは、デブ・ハゲの見た目をもふくむ、典型的なオヤジだからか。
そんなことより捜査である。頭を切りかえた藍出は、こんどもまた、それにしてもとかんがえた。
事前にしらべておいたのだが、ぬすまれたドローンは縦横とも最長部で890ミリと、かなりのおおきさだった。そんなものをどんな手段でもち去ったのかと。夜とはいえ、むき出しのドローンをもち運んだりはしていないだろう。
基本的に、人目につき記憶されることを、犯罪者はおそれるからだ。また、タクシーを利用したともおもえない。たとえなにかで包(くる)んでいたとしても、わかい美人というだけで目立つのに、しかも似つかわしくないおおきさの荷物を持ちこめば、運転手にかならずや記憶されてしまう。
推するに、こんかいの連続殺人犯ならばぬすんだあとどうするかも計画していたにちがいない。藍出は師である矢野に倣った。――ぼくが犯人なら…――と深慮したのである。
けっか、標的ときめたのなら、下調べも完了させていたにちがいないと。あいての正確な住所だけではなく住環境をもだ。
となるとあとはかんたんだった。ちかくに、あらかじめ駐車しておく。これで、目立つことなくはこび去ることができた。
前後するが、事情聴取の最後に、もよりの駐車場の所在をきいた。すぐにおもむくと、管理者に電話をいれ、監視カメラがとらえた映像はチップに記録されていることがわかった。
それを管理会社のパソコンに転送してもらい、そのコピーを鑑識にもち帰ったのである。
こんどこそはと切実な願望をこめて期待したのだが、くやしくも、第一の犯行現場付近で入手したカメラ映像とおなじで、犯人は、顔がわからないよう工夫していたのだった。
しかも盗難車であった。犯人がボロい軽トラをえらんだのは、盗難防止センサーなどがついていないほうが、好都合だったからであろう。
映像を、鑑識課の部屋で見せてもらったわけだが、手袋をするなど、隙をみせない犯人にイラだち、イノセントな床につま先で、おもわず八つ当たりしてしまったのだった。
とはいえ、まったくの無収穫とまではいえない。
盗難車からロン毛を採取できた。調べたけっかは人工毛で、ウイッグから脱落したものだった。がしかし、ウイッグは足のつきにくい量販ものであった。で結局、やはりだが、購入者を特定できなかったのである。
もうひとつは、女性にしてはやや大柄ということだった。車高と対比し、靴のヒールの寸法を差しひいて、それでも163~165センチくらいはありそうだ。
第一の犯行現場付近で入手したカメラ映像とも、ほぼ一致していた。気になるのは、男女のちがいである。そこで思いきった仮説を立ててみた。一番目の犯人であるおとこが、下心見えみえの中年男からドローンをぬすむために、女装していたとしたら?…。
この仮説の弱点は、女装に気づかないなんて、はたしてありえるのか?である。
――あるとしたら、夜であり酒をのんで…。しかし、イタリアンを食べるまえは素面だったろうし…――
藍出は再訪した。
むかえた中年マニアは、「つれていかれたレストランの照明ですか?食堂や居酒屋ほどにはあかるくなかったですよ。ムーディだったのでおぼえています、美人を目のまえにして、いい雰囲気だなぁって。正直、人生ではじめてでしたよ、あんな素敵なデートは。でも、それがドローンをぬすむためだったなんて、…残念です」
ききつつ、藍出は首を傾げた。「失礼ですが、視力のほうは?」
「08から1.0です、ことしの免許更新のときの検査のけっかですが。それがなにか?」
「失礼ついでに。ほんとうに女性でしたか?おとこが女装していたのでは」
“棚ぼた”で食事にさそわれ、しかも下心があったので平常心ではなかったが、いくらなんでもと、おとこはすこし気分を害した。
が、そんなことにひるむ藍出ではなかった。「具体的におききします。ですからよーくおもいだしてください。肩幅は、ひろくなかったですか」
「ふんわりとゆったりしたセーターでしたし」肩幅に興味をもたなかったのも無理はない。まさかおとこではないか、との疑いの眼でみていなかったからだ。「ですが、胸はおおきかったですよ」
パットなどでいくらでもごまかせるのに、マニアはどうやら、はなからスケベ心ありありだったことを露呈させてしまった。
ただしそのぶんは、しっかりと観察し、記憶もしていた。
「女装の可能性なら、ぼくは“いいえ”に手をあげます」ある意味、マニアらしい表現なのだろう。「だって、のど仏がでていませんでしたから」
これには藍出も説得力をかんじた。しかし、であった。「では、最後にひとつ。声はどうでしたか」きかざるを得なかった。
「風邪をひいてるかららしく、少々ハスキーでした。たまにちいさく咳きこんでもいましたし」
「つまり、おとこの声のようにきこえたんですね?」しつこいようだが、とても大事なのだ。
「いえ、そうではなく…。たとえ美人女優でも、のど風邪をひけばあんな声になりますよ」なんの咎(とが)もないイノセントな被害者の立場なのに、せめたてられているようで、気分がわるかった。
そうおもわせたあたりが、デカというまえに人として、いまだ未熟であった。あいての立場やようすに気をくばりつつ、接すべきであった。
「美人を強調されていますが、サングラスをしていたのにわかるんですか?それとも食事中ははずしていたとか」ならば似顔絵をかく、手伝いを頼めると。
その刹那「いえいえ」と、いともかんたんに否定されてしまった。
「サングラスをはずさなくても肌はすべすべしていたし、美人はくちびるのうごきで、なんとなくわかりますよ。あのひとの場合、食事中、くちびるの動きが妙にセクシーで」
には藍出、トホオと落胆したのだった。
これでは、似顔絵だが、期待できそうにないと。
でもって、この予測は的中した。顔をかくしたサングラスのせいもあるが、この中年男、思いこみがつよく、このあと、鑑識員がつくった似顔絵に、世間の反応はなかった。
目撃者として当てにならなかった、ということだ。
ただ、もし当てにならなかったといわれたら、おとこにも言いぶんはあった。まさか、ドローンを盗まれるとはおもってもみなかった、そうとわかっていれば、正確に記憶していたのに、がそれだ。
だがじつは、あわよくばの下心。これが、おとこをたよりない目撃者に仕立てた、最大の因である。
そんな理由はどうあれ、藍出刑事にすれば、犯人と接触した有力な目撃者だと期待していただけに、みごとに肩すかしをくらった、心境だった。
おそらく、もてた経験がないからなのだろう。女性から誘われただけで舞いあがってしまい、いわばクラゲのように、骨抜き状態になってしまったのだ。ちなみにクラゲは、流れにただ身をまかせているような、雄雌異体の浮遊性動物で、脳はない。
犯人は上記のように、もてない男ということを、計算にいれていたのかもしれない。
みるからに、女性に縁がなさそうなこの中年が当てにならないとなれば、このあと入手できるであろう映像を、対照してみるしかなかった。
後日談だが、まずは歩き方にちがいがあるかどうか。駐車場で入手した映像と、例の遠映との比較だ。歩容認証については、科捜研が判断するだろう。
で既述の、藍出とともに七つ道具をたずさえた鑑識が、指紋や体毛採取にとりかかっていたのである。
おおきさからみて、女性の指紋とわかるものが、風呂場を中心に数種類でてきた。
真新しいごく最近の指紋には興味をしめさない刑事経験もあるベテランが、被害者にたずねた。「デリヘリ嬢をよびましたか」
理由はふたつ、①もてそうにないのに、数種類②しかも風呂場付近にのみ集中。
電話で自宅訪問要請におうじてくれる、風俗女性であるデリヘリ嬢の来訪の有無をたずねたのだった。
バツわるそうに頭をかいたすがたが返事であった。
ちなみに真新しい指紋には興味をしめさなかった理由だが、犯人が被害者宅にやってきたのは一カ月半ほどまえであった。
時間経過とともに、指紋にはかすかだが、ほこりが付着してしまう。ということは、最近のは犯人がのこしたものではない、となる。
それでもとうぜん、ドローンのおいてあった部屋を中心に、玄関やトイレなどを採取してまわったが、結局、犯人のとおぼしき指紋は、矢野の予想どおりでてこなかったのである。
鑑識によると、拭いてけした痕跡も十数カ所あったというのだ。
さて、ふたりがのったタクシーの特定は、岡田が所轄とくむことに。
藍出が、これくらいの仕事ならこなせるだろうとまかせたのだ。三日後、行きの個人タクシーをみつけだしたのだった。
が、残念ながらドライバーは高齢者で、肝心の女性の容姿についての記憶はないにひとしかった。車内をとらえた映像は日にちのかんけいで、とっくに消去されていた。似顔絵づくりだが、あきらめざるをえなかったのである。
その二日後、帰りのタクシーもみつかった。
しかしながら、運転手から情報をえられる状況にないという、想定外がおきていた。
三週間前、襲いきた痛みにたえられなくなり、緊急入院していたのである。検査のけっかは末期の肺ガンで、各部位にも転移しており、いまは痛みどめとしてモルヒネをうっているという状態であった。そう長くはないだろうと、岡田は医師につげられた。
ところで結論からしるすが、映像からも、捜査を進展させるほどの情報はえられなかった。
しかし唯一の収穫といえるか、顔をかくしていた犯人の肉声をはじめて入手できたのである。だからといって、犯人特定に結びつくとはとてもいえなかった。印象としては、おとこの声のようだということくらいか。
まさかだが、だからニューハーフ、などとするのは早計というよりも、むしろ危険な憶測であろう。捜査を、まちがった方向にすすめかねないからだ。すくないとはいえ、おとこっぽい声の女性もいるのだから。
ただいえる事実、それは、出身を示唆するような方言やなまりはなかったことだ。
さてもこの日、もうひとつの検証けっかも、矢野たちは入手できたのである。
警部は科捜研からのこの報告を、じつは心待ちにしていたのだ。第一と第三の犯人の歩きかたが一致するかをである。男女のみた目は、変装でごまかせるだろうが、歩行時の癖をかくすのはたやすくないからだ。
だが期待は、ここでも裏切られた。速度も歩幅もあきらかにちがっており、もっといえば別人の歩きかたとしかいえないと、技師はそう断言したのだ。
矢野は、低いうなり声をもらした。やるかたない、まさに暗夜のなか、ただ途方にくれる状況をそんなかたちで表現するしか、いまはできなかったのである。
こうして帳場は、すくなくとも窃盗犯については、わかい女性と結論づけた。
ただもし、この技師がほんのすこしでも饒舌であったならば、帳場の景色は、すこしはちがったものになっていたかもしれない…。
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