五星霜(五年)超である、正確を期せば。研究所の副所長のときから、相談者などずっといなかった孤独ななかでの思考と苦悶の日々だった。
すすむも止まるも堕地獄の一年、また一年。くるしみ・なげき・さけび…それら無間(=絶え間ないこと)の繰り返し。
挙句、足を踏みいれたところは精神の崩壊、その入り江の端だった。発進以降も三十九カ月ものながきにわたり、宇宙というなの無機質の空間にポッカリういていた天才の、決行という結論がうんだ悲痛な叫びとあえぎ。
ひとりを助けるためだけにひとりを殺すとしたら悪か?
では、十人を救うためにひとりを殺すのは許されるのか?百人のためなら善なのか?一万人のためだったら、犠牲も辞さないのは正義か?
むろん、正当防衛云々の法的論理では、当然ない。
じつはこの、救済と殺人の対比にたいするこたえだが、かれはすでにだしてはいた。しかしだからといって、正解だともおもっていない。
ただ幸か不幸か、かれの邪魔をする人間のいないなか、思慮の時間ならたっぷりあっただけである。それがよけいに、天才の精神をむしばんだのだが。
…無間の熟慮の帰結ならいわずとしれたこと、「それでも悪!」だ。
善悪論だけなら、明快だった。許されざる行為だと。
古来よりいとなまれてきた非文明的で非道な生贄…。不条理であり、まやかし以外のなにものでもないと、少年期よりかれはつよい憤りをもって断じてきた。
にもかかわらず、いまみずからの手でそんな悪逆の生贄を…二万人超、場合によっては三万人をもこえるかもしれない人々の尊貴な命を、べつの歴史の足下にさし出したのである、冷酷にも。
やさしさと理性がその人格を形成しているひとりの天才、かれの心奥から湧きいでた、だからこそのおおいなる矛盾。それでも、しでかしてしまったのだ。
理由は二つあった。
==じぶんなら広島・長崎における何十万人の命を救える、救ってさし上げられるのだ。なのに、たかだか善悪論からえた結論のために手をこまねいていろというのか…==彦原にはできない相談だった。
そして…さらにはおろかな人類を永きにわたり、核兵器の脅威からすくうために。うつくしい、宇宙のオアシスのような、この奇蹟の惑星・地球を放射性物質でけがさせないためにもだ。
しかし、しかし…。
つかれてベッドにもぐりこむたび、懊悩がぶり返した。いつまでたってもどこまでいっても堂々巡りするばかりだった。悪夢にうなされない夜はなかったのである。
数十万人を救うためとはいえ、払われる犠牲。だが、だれがその犠牲者をえらび決めだす権利をもつのか。
==じぶんごときであろうはずがない!けど、実行すれば結果的にはぼくということになる。不遜にすぎないか!==
カオスのような精神状態となり、この時点で思考に、もはやかれ本来の論理性はなくなりつつあった。
ならば、絶対者としての存在をかりに認めるとして、神なら生殺与奪の権利をもつのか。
そんな暴論で犠牲者が納得するはずがない。まして、犠牲者の無念を救済できるはずもない!
それとも、彦原が存在しないと断言する神がいて、そのひとたちを復活させられるとでもいうのか。
「…バカな!」おもわず鋭く叫んだ。それでも思考をきわめようとあがく彦原。だが、自己矛盾にまどい、いつしかじぶんを見失っていった。
たとえ自然律や道理を超越した存在であっても、生殺与奪の権利をば有しえないと断じていた。
にもかかわらず、ひとりのちっぽけな人間にすぎないおのが手で、多大な、のひとことではすむべくもない命を、人命を奪うのだ。
いっぽう、彦原はこれにも気づいていなかったが、もともと円満具足(=すべてが揃っている)ではなかった論理が、ここにきてより歪になり、ほころびすら露呈しはじめたことに、である。
暗黒の宇宙にあっての孤独な、千ニ百日間の思慮と、そして迷い、煩悶。
1945年以降の助かる人類と、そのために犠牲となる人々。
その人数の差がおおきければ、悪を善へと変転できるのか?それを、正義とよべるのか。熟慮のなか、==なにを青二才みたいに。もっと大人になれ!==とみずからを叱責した。ああ、その数、しれず。
ならばとの自問。大人とは?…《大の虫を生かして小の虫を殺す》という諺に首肯するひとのことか?よりおおくの命を救うことは、たしかに善にちがいない。
問題はだから、少人数(ニ万人超をあえてそうよぶ)なら犠牲はやむをえないのか、だ。
犠牲者をださずに、核兵器にかんする理論や実験および製造資料・データ類・工場や研究所などをことごとく消滅させる手段があればそれにこしたことはない。
じつは副所長に就任するまえまでの一年間、仕事の間隙をぬってあるいは食事中や帰宅後など時間のゆるすかぎり、かすかな望みにすがるようにその手段をみつけることしか考えない日がつづいた。
だが結局、おもいつかなかった。そんな夢のような話、あるはずがなかったからだ。
犠牲者をださずにすむ無血革命など、しょせんは夢想だ!絵空事でしかない。
歴史上の偉業であるフランス革命・アメリカ独立戦争・奴隷制の是非がぶつかった南北戦争・明治維新・おおくの死傷者や逮捕者にみまわれつつ長期にわたりつづいたアパルトヘイト撤廃運動等々。
どれも多大な流血をともなったではないか!
人類は、阿鼻叫喚(ひじょうに悲惨で、むごたらしいさま)を具現する戦争のうえにしか理想的社会を成就しえないのだ。
そう結論したとき、あまりに悲しかった。無性に口惜しくおもった。かんだ唇から鮮血が流れおちた。心が、ドリルで揉まれでもしているかのようにはげしく痛んだ。そして空耳とはおもえない振動をともなう不気味なうなりに、畏怖したのである。
自己崩壊がはじまった音とは気づかないまま。
彦原は、世にもおそろしいことをたくらみながらも、自己崩壊に気づかないでいるぶん、本来のかれの良心は、阿鼻叫喚の具現を阻止できないままとなっていた。
彦原版ホロコーストをくわだてるじぶんを、夜毎にせめ苛んだのだった。葛藤や自己矛盾経験後の自己苛虐。
それは“決行!”と、じしん、心奥で決定したからにほかならなかった。
結果、自分を責めたてつづけてきたのだ。
《大の虫を生かして小の虫を殺す》…この、
最善ではありえない選択。否、最善など存在しえないなか、それでもとおく見劣りする次善ではあろうと彦原。そしてこれが、思慮分別のある大人とやらの見解なのだろうと。
しかしそれでもなお、多大にすぎる犠牲者をうむこの次善論すらも正直、詭弁としかおもえないのである。
やはり、「悪は悪だ!」
それなのに、ニ万人をこえる犠牲者をだしてまで、なぜ強行するのか?
いや、ニ万人超では済まない、すむはずがない。
シカゴ・パイル1号から噴出する放射性物質は、一部とはいえシカゴ市民を巻きこむにちがいないからだ。また、オーク・リッジ近郊にはノックスビルという都会もある。風向きしだいだが、犠牲者はさらにふえるかもしれない…。
それでもなお、おまえというやつはなぜ強行するのか?必ずや後悔するぞ!いいのか、やめる選択肢はないのか?
そう、彦原は毎日空く(そして飽く)ことなく、自答をこころみた。こたえをだしてはさらに熟慮した。悶えくるしんだ。すると自然、涙があふれでた。
そんななか、ひねりだしたひとつの帰結。
まちがいなく、これだけはたしかにいえる、「歴史とは残酷なものだ」と。
マンハッタン計画という歴史上の事実がなければ、核兵器は誕生しなかったであろう。(ことは、そう単純ではないのだが)
信長が腹心とたよりにしていた惟任光秀による謀反。異見は存在するのだが。
また、カエサル(シーザーは英語表記)の暗殺に加担の、腹心だったブルータス。
さて、でもって、歴史を、人間に置換してもこの方程式は成立するにちがいない。というよりもじつは、人こそが残酷な存在なのだ、きっと。
人間、つまり現生人類であるヒト。人類が地上にて覇をとなえたといえるのは、ラスコーやアルタミラ洞窟壁画が描かれた一万五千年前か?最古の、メソポタミア文明を生みだした五千五百年前か?それ以前だとしても、地球誕生からの、四十六億年の悠久からみれば、しょせんは最近でしかない。
そんなちっぽけな生きものがぶんをこえて創造し、母なる地球に、あろうことか災禍をもたらす、核兵器。
これこそが彦原には、恨めしくうとましい存在なのだ。否、悪魔そのものでしかないのだ、まさに。
おもえば、八百万前とも五百万年前ともいわれる人類創生のころ。
猿人はあまりにも非力であった。牙や角をそなえず走力でも勝てない草原居住のかれらは、まさに劣弱だった。身をまもるため、だから団結・協力するとともに、みなで木や石を手にしたのである。
進化した原人は火をつかって肉食獣を撃退しつつ、食料をえるために簡単な石器をつくり狩猟にいそしんだ。
旧人は火を自在にあやつり、槍や弓矢といった武器もつくりだした。それらはある意味、家族や仲間の尊い命と引きかえに手にいれたものだ。身内の犠牲に嘆き悲しみつつ、野獣をうち負かす方法として武器を編みだしたのである。
しかし人類が、欲のためつぎに矛先をむけたのは、肉食獣にではなく他の部族に、だった。
こうして、さらなる犠牲のうえに武器は進化?した。やがて人類は殺しあいのなかで知識と知恵をえた、とは過剰表現かもしれない。が全否定まではできないだろう。
このようにして現代は、数えきれない犠牲者のうえに存在している。ならば犠牲者をだしても、悪魔を根絶できるならゆるされるのではないか?少なくとも必要悪であろう、と。
深慮に深慮をかさね、彦原はそうきめたのだった。
すると、またしても混乱にみまわれる。
いやちがうと。現時点でかんがえれば“はじめに結論ありき”でなかったと、否定することはできそうにない。となるとしょせんは、“必要悪”も詭弁だ。
そう、まごうことなき矛盾である。《大の虫を生かして小の虫を殺す》を“悪”と断じ、そのうえで、その悪を実行しようとしているのだから。
やはり、歴史が残酷、なのではなく人間が、ちかい将来においては彦原が残酷なのだ。
その彦原は、数十万人を救うため・将来の人類のため・地球環境のためと理屈をこねにこねた。
そこにしか大義名分を見出せなかった。また、心の逃げ場もなかったからだ。
彦原茂樹十二歳時の悲願。それは、地上から核兵器を一掃する!純粋にただそれだけだった。だから十九年後において、結果的にははじめに結論ありきの理屈ではあっても、核兵器完全消滅へのおもい自体は、いまも錆びることなく百%純だ。
私欲などの邪念はもちろん、俗念もふくめ毛筋も存在していない。ただただ、人類と地球をまもりたい、その一心だった。
それでもかれの良心がはげしく疼いた結果、自己叱責および自己嫌悪としてあらわれ、事実、吐き気をもよおした。結句、自身を憎悪しそして呪ったのである。
ときに、十二歳から約十九年以上追い求め続けた“核兵器完全消滅の完遂”は、天才科学者の理性に依ったものでも哲学から生じたものでもなかった。
有り体にいえば、強烈な感情論であった。唯一のおもい、それはほかならない「核兵器だけは、絶対に使用させてはならない!」だ。
いちばんの犠牲者は、非戦闘員である。なかんずく、子どもたちと女性たちではないか。
そんな不条理、いや、悲惨をこの地上からどうしてもなくしたかった。武器のなかでも悪魔の産物=核兵器だけは、このよから根絶したかった。その理想が、夥しい血にまみれつつも、まさに実現するのだ。
感情論の下地は、長崎原爆資料館見学を機に、母親になりかわり育ててくれていた伯母からきかされ、いらい耳朶にこびりついてしまった話である。見方によっては、伯母の話は卑近ともとれよう。
しかし切実とばかりに、多感な少年はおもわずもらい泣きしたのだった。
じつは、彦原の六代前の先祖である女性には、決まった婚約者がいた。
太平洋戦争に学徒動員でかりだされ、マレーシアの戦線にて脚部を負傷し帰還した男性であった。半年後、走るのに難儀はのこったが歩行には支障ないまでに回復していたらしい。
その男性は結納のすぐあと、入社二年目の新聞記者として、大阪本社から特命をうけ急遽広島におもむいたのである。1945年八月六日に投下された新型爆弾の取材のためだった。
そこで残留放射性物質により被爆し、一週間後、現在の病名でいうところの消化器多機能不全、つまりは、放射性物質による消化器系の機能障害で亡くなってしまったのだ。
先祖の女性は、目の澄んだ凛々しい青年に好感を抱き、結婚を楽しみにしていたという。
婚約者の男性はもちろん、大阪在住だったため放射性物質を浴びなかった六代前の先祖である女性も、原爆の哀れな被害者であった。
近代戦争の一番の被害者は、一般市民である。広島・長崎に投下された原爆は、瞬時に数十万になんなんとする人命を奪い去り負傷者をつくり、のちのちまで被爆者を塗炭の苦しみで苛んだ。
彦原少年はつい、「核兵器だけは…」とつぶやいた。
が、化学兵器や生物(=細菌)兵器なども同様に、だとおもっている。ぎゃくに、それ以外の兵器ならばよいというのでも、当然ない。あるていどのものなら許される、ともおもっていない。
では、なぜ核兵器に限定したのか。
他の兵器にくらべ“規模がちがいすぎる”、では、すこしもその実態、つまり他の兵器との格差を表現できていないとかれはかんがえた。
あえていえば、「核兵器は、人類の存亡にかかわる地球規模の悪!だから」だ。各国が所有する核兵器で、全人類をなんども殺すことが可能だというおそろしい現実を、多情な思春期にしった。
純粋な時期だけにいっそう、言いしれぬ衝撃をうけた。正直、少年彦原は最初、「なんどでも殺せる」を、じぶんの聞きちがいではないかと訝ったほどだ。
いちぶんの虚偽もない真実だとしると「バカ野郎!」と、創ったやつらにたいし吐きすてるように罵った。
しかしやつらは悪魔を創っておいて、地上と歴史に悲惨をのこしたままさっさと死んでしまっている。無念にも、責任をとらせることができないのだ。
しかし「そんなバカな…、こんなことがあってええんか!」、納得がいかなかったぶん、もってゆき場のない怒りが鬱積した。しだいに、ねむれないほどに義憤が増幅していったのである。
==なんとかせなあかん!このままやと、人類はいずれ滅んでしまう==少年は、本気でそうかんがえたのだった。
それから十九年強、純粋な心からはじまった夢…その、核兵器完全消滅が、目前なのだ。
そのためのあまりの暴挙。彦原自身もきづかない心の奥をだれかが探れば、大義とはべつの隠れた動機を、あるいはみつけたかもしれない。
創造者たちに責任をとらせたいとの、これも感情論の。
しかしそれはさておくとして、夢を現実のものとするにあたり、これほどの多大な犠牲をともなうことまでは、十二歳の少年にはおもいもよらなかった。天才とはいえ、具体的な計画があったわけではなかったからだ。
ただただ少年の心を支配していたのは、原爆を創らせないようにすべく、ワームホールをつかって、過去の地球にいくための理論を構築する、それだけだった。
とにもかくにも、十数日後には“核兵器完全消滅の完遂”をはたせるのだ。
いやいや、しかしそのためには、マンハッタン計画を完璧に駆逐したそのあと、さらに十人以上の命を奪わなければならない。
==それでも…まもなく==夢をかなえられるところまできた。
とはいえ歓喜に狂喜乱舞する心境、とは真逆の心情だったのである…。
ところで、原爆投下について。この史実を考察せずして、彦原の懊悩等はかたれない。
米国はこのおのが大犯罪を、人類になした極悪な大虐殺をごまかすために、ウソ偽りで修飾し、偽善化し、あまつさえ正当化までしている。
その言いぶんだが、しょせんは暴論であり、妄論でしかない。
彦原は、本来、真実であらねばならない歴史の、勝者による歪曲および捏造だと断じた。
少々ながくなるのだが、歴史上の事跡と、そこから導きだしたかれの見解はこうだ。さらに、宇宙に三年三カ月余いたあいだの回想もまじえて…。
1945年二月、ヤルタで米英と結んだ密約により、ソ連が日ソ中立(不可侵)条約を同年八月八日深夜、いっぽう的に破棄しどうじに宣戦布告、南樺太と千島列島および日本が(軍閥や財閥らによる暴挙だったとしても)実効支配していた満州国などに、1945年八月九日午前零時、突如侵攻してきたのである。
あきらかなる条約違反であり、ゆるされざる国家的大犯罪だ。
帝国陸軍上層部は日ソ中立条約の有効を、まだ期限内だからと盲信していた。手がまわらないという事情もあり、ソ連との国境の防備は手薄であった。多方面で展開していた戦線に人員をむけていた、というのが実態だった。
寝耳に水の侵攻に、日本軍は入植していた日本人をまもることなく投降、いちぶは潰走した。ここかしこ銃器炸裂する混乱のはて、そこは無法地帯と化した。
にげまどう民間人は財産をうばわれ、抵抗すれば命までも蹂躙された。その数、しること能わず(知ることはできない)だ。
また、性的凌辱された女性たちの悲鳴はくる日もくる日もやむことなく、どうようの殺戮の断末魔とあいまって、街といい村といい、壁や畳や庭に刻みこまれたのである。血となみだは暗い黒色へと変色し、大地を悲惨一色に塗りこめたのだった。
また民も兵も拉致され、シベリアの開拓などに無賃労働力として、数十万人が拘束されたのである。
無条件降伏した、しかも非戦闘員にたいしても見境なく、である。こんな表現ではとてもすまないが、一大犯罪であり、悪逆であり非道でしかない。しかも150年間、ろくな謝罪もしていない。
米国による原爆投下の前後数年の各国の歴史に鑑み、さらに未知の知識をえるなかで以下、悪逆非道の具体をしった彦原は、憤りをこえ、はらわたが煮えくりかえったのである。
衣食住すべてにおいて劣悪な環境下、奴隷、いや家畜以下のあつかいをうけたのだ。極寒、食糧不足、不衛生、過労働、非治療……。
奴隷や家畜は売買の対象となるぶん、持主として死なれてはこまる。損をするからだ。ひととしての、憐憫(かわいそうに思う)からではない。
いっぽう、拉致した人々が死んでも、ソ連にはなんの損失も発生しなかった。なぜなら、ありあまる奴隷以下の日本人らで、あふれかえっていたからだ。
結果、五万人をこえる死体を、ソ連はつくったのである。しかも遺体は、犬猫以下としてあつかわれた。
五万人超といえばひとつの町いじょうの人口。個々それぞれが尊厳であるべき生命を、しかもそれほどの人間を、虫けらのごとくにこき使ったのだ。この残虐無比!
“シベリア抑留”という、たったの六文字でしるされてしまった、これが、恥ずべき歴史上の実体である。
ジュネーブ条約批准の有無や国際法の有効性を論議するまでもなく、まさに非道の、ゆるされざる国家的大犯罪だ!(いっぽう、日本も朝鮮半島の人々を九州の炭鉱などで強制労働させた事実、決して忘れてはならない!)あまりにむごい史実だから、強調せざるをえなかったのである。
しかし、たんに恨みごとをうったえたいのではない。
世界はこの凄惨酷虐を、子細にわたりしるべきである。
戦争というものが、いかに愚蒙であるかを不忘のものとするためにだ。
そして、ひとに辛酸苦汁と血涙をなめさせ、地上には地獄を現出させる万害だと、心にきざみつけるためにも。
ところでソ連軍急襲の報に、超ド級の戦犯(東京裁判に依らずとも、夥しいかずの若者を騙して戦地におくりこみ死なせた事実。それだけでも万死にあたいする大罪だ)である東條英機は、顔面蒼白になって戦いた。
ちなみに、英機ではなく“不出来”と呼ぶべき、と彦原はいつも冷眼視している。
さて、おろかでは褒めすぎの軍部政府といえども、さすがの事態に敗戦をさとり、翌十日、鈴木内閣は連合国側へポツダム宣言第一回受諾表明(=事実上の敗戦承認)を、腰をぬかしながらしたのだ。
が、受諾を、ほとんどの国民にはしらせなかった。
当時の日本は議会が形骸化し、軍部が実効支配する実質的独裁国家だった。一般国民は実態上からみて、隷属させられていたにすぎないのである。
軍部はいっぽうで、六日広島と九日長崎に大量虐殺をもたらした原爆投下を、新型爆弾による大規模空襲ていどにしかとらえていなかった。
すくなくとも、大本営はそう発表したのである。原子爆弾や放射性物質の存在をしらなかったとすれば、この甚大な脅威を認識すらできなかった体たらくということだ。しっていたなら、信じられないことだが、国民の命など価値なしとかんがえていたことになる。
数百万人の餓死者をだして平然としていた、二十世紀中期から二十一世紀にかけ朝鮮半島に金一族がきずいた時代錯誤の邪悪な王朝とまるでおなじだ。独裁国家に茶飯事でみられる、今日(二十一世紀末)では信じられない非道である。
さらにいえば、原爆にたいし正当な認識、つまり核兵器や放射性物質が激甚被害をもたらすという認識をもっており、あるいはすくなくとも国民の生命に正当な価値を見いだす正眼を有していれば、制空権をうばわれたゆえの東京や大阪などへの大空襲や、約十九万人の戦死者をだした沖縄戦とそれ以前の壊滅的敗戦(硫黄島での全滅、ほか)および広島の被爆により、即決で「もはやこれまで」と敗戦の明白を判断できたはずだ。
この当然にして正当なる判断を軍の上層がしていたならば、ポツダム宣言第一回受諾表明は、七日かおそくとも八日となっていなければ説明がつかない。とは、彦原にかぎらない見解である。
この事実から導きだされる結論、それは、被爆とポツダム宣言受諾表明との因果関係だが、まことにもって希薄ということだ。
その論証をひとつ。1989年に公開された米陸軍省諜報部の1946年時の文書に、「日本の降伏に原爆はほとんど関係なかった」とある。つまり、「投下した原爆(の激甚な被害)が戦争の早期終結をうんだ」という米国政府や同市民の言いぶんは、ゆるされざる偽善・欺瞞のたぐい!となるのである。
史実からの結論。それは、九日のソ連侵攻こそが、ポツダム宣言受諾を決断させた、だ。
彦原はまた、1980年代から90年代におけるいくつかの論文を、高校生のときに読んでいた。おかげで、偽善・欺瞞だ!とのおもいを決定的にしたのである。
それらの論文のひとつの執筆者は、米スタンフォード大学の歴史学教授バートン・バーンスタイン氏だった。
冒頭、部外秘だった米空軍史を数度にわたり資料請求し、数年後ようやく、一部を入手できたことで論文発表にこぎつけられたと記していた。
空軍が極秘文書の、少量解凍を許可したのは、投下後四十年ちかくたち、トルーマンをはじめ関係者が鬼籍入り(死亡)し、直接の非難がおよばないと判断したからだろうか。あるいは情報公開の先進国だからか。
それはともかく、氏のをふくむ数種類の論文、その要点の抜粋は、つぎのとおりである。
1.広島への原爆投下の最終命令をだした当時のトルーマン大統領の、「軍事施設破壊のための投下」発言はウソだった。
2.「日本への原爆使用は慎重であるべき」とするアーネスト・ロレンス(先述の物理学者)博士の意見は黙殺され、軍最高会議にて、広島の住宅密集地や商業地区への投下で決したのである。よって、軍事施設破壊が目的でないことは明白であり、非戦闘員を対象としていたこともうたがう余地がない。しかも投下時間を午前八時十五分とした。夏休み中の子どもたちがそとで遊びはじめる時間、また、就労者の通勤時間を狙っていたのはあきらかだ、とも。
3.日本の戦力を削ぐことで戦争終結をはやめようとした、というのもうたがわしい。1945年前半の日本軍連戦連敗で終戦はまぢかという戦況において、非戦闘員は、戦力としてはよわすぎるからだ。軍需労働力としても、また、数年から十数年後の戦闘員としても。
4.市民大量殺戮は、ハールハーバーにおける一般人をふくむ米軍兵士を殺した日本にたいする、軍部としての懲罰的意味あいが濃厚。
5.くわうるに、真珠湾攻撃にたいする意趣がえしも。要は、米市民の怒りを慰撫するための報復であった。
6.十九億ドル(1940年代前半の貨幣価値に鑑み、莫大な費用だったろう)をかけての核兵器開発にもかかわらず未使用でおわれば、政権はやがて国民の圧倒的批判にさらされる、そう危惧した。巨費にあたいする対価、つまり成果をしめす必要があるとの強迫観念にくるしんだ結果だ。あえていえば、政権維持のためだったと。
7.トルーマンもマンハッタン計画を許可したルーズベルト大統領も、日本人を人間未満の存在とみていた。原爆投下による甚大被害にも「心をいためることはなかった」と、トルーマンは後日のインタビューでこたえている。犬猫の命でさえ…いわんや、だ。国内むけの政治判断をはたらかせた言だったと割りびいても、“人間あつかいしていない”以外にいいようがない!
ちなみに、フランクリン・ルーズベルトによる日本人強制収容政策(42~46年に実施、米国だけでなく連合国にも強いた)も有名だ。日系アメリカ人をふくみ日本人というだけで住居・財産などをうばった非人道のきわみである。
ナチによるアウシュビッツ云々ほどに有名でないのは、日米の力関係か、日本人がやさしすぎるのか、寛容なのか…。
これを少年時にしったかれは憤怒や苦痛を堪えしのびつつ、それでも誇張や誤謬はないかなど、日にちをずらし視点をかえてなんども読みかえした。そのうえで、論文にあった証言や状況証拠は信頼でき、説得力もじゅうぶんだとかんじた。
よって、1から7までの論旨の合理性に納得し、この論文群は信じるにたると。
それだけに無垢な胸は、あるまじき酷い内容におし潰されそうになった。どうじに、戦争のほんとうの恐ろしさ、戦争がもたらす狂気をいやというほどにおもい知ったのだ。
あまりに強烈な事跡。しかもそれにくらべ何十万人も殺した原爆投下が、おどろくほどに軽薄な理由からだったとの事実。
しかし日にちがたつにつれ、かれは冷静さをとり戻したのである。
史実が論旨をうらづけているともしった。最後の読了からひと月たっていた。
それら、史実のごく一部。
その1、追記となるが、強制収容所への非道で事由なく自由をうばった隔離政策。ただ日本人の血がながれているというだけで(スパイ活動や破壊活動への予防処置という理不尽な理由によった)、すでに米国市民になっていたひとびとの財産などをうばったうえ、非合法にもかかわらず、むろん犯罪者でもないのに囚人あつかいの過酷な生活を強いた。しかも年齢や性別も考慮せず、つまり子どもや老男女にすらもどうようの苦しみを強いたのである。もはや、報復だったとしか解せない。
その2、軍事施設破壊のための投下ならば、広島県呉市の軍需造船工場こそ有効な標的だったはずだ。しかし、市民の殲滅が目的だから中国地方最大の都市広島市、であった。
その3、アイゼンハワー連合軍最高司令官(のち、三十四代大統領)をはじめ、マッカーサー元帥など陸海軍最高幹部のおおくが原爆投下に反対していた。
その理由だが、①まもなく投了する日本への原爆投下は悪価値をうむだけ。②なぜなら日本人の反米感情を決定的なものにしかねない。③さらに戦後の占領政策の支障となるだけ、というものだった。
それにしても「てまえ勝手すぎる」内容に憤慨した。最大歩ゆずって、戦時下という特別非常時だった、そう認識しても、米国人による自国益だけのための論理に慷慨したのである。
くわえての、米政府の政策において看過できない大犯罪。
原爆投下はいうにおよばず、その正当性顕示のための我田引水の主張、つまり戦争の早期終結のためだった、だけでなく、日本国民救済のためだった、との偽善・瞞着の暴論を教科書に堂々とのせ、自国の子どもに欺瞞にみちた教育を強いていることだ。これでは、教育というより、もはや洗脳ではないか!
憤懣は増幅するばかりであった。が、いずれにしろ…とかんがえるなかでぶち当たる、中学生のころからながきにわたり懐きつづけた当然の疑問。「とくに、その3の投下反対の多数の意見を無視してまで、なぜ原爆を投下したのか?」だ。
だがそのまえに彦原が、東條ひきいる軍事政権をどうみていたかについて加筆しておきたい。
兵法にかんする知識は貧寒(とぼしい)だったが、それでも【戦争とはやっかいなものだ。だからこそその開始と終結の時期等の判断にこそ、軍首脳の優劣があらわれる】との戒めくらいはしっていた。この点においても、東條を、やはり“不出来”と断じた。大局をもっていなかったからだ。
いっぽう、国力の差から対米戦に反対しつつ、開戦と決した暁には、「短期決戦・早期和平」との大局をしめし、もって、今日でも評価される山本五十六とは天地の差をかんじてしまった。ただし、「短期決戦・早期和平」の信憑性をうたがう説もあるが。
さて、日本は、ミッドウエー海戦の敗北いらいのあいつぐ敗戦で、1945年初頭、すでに戦争を継続できる状態ではなかった。国民の窮乏はいうにおよばず、燃料も爆弾製造の材料にもこと欠いていたのだ。
さらにこんな事実もあった。三度にわたり総理大臣をつとめた近衛文麿の発言である。1944年七月九日、サイパンが陥落した直後、「東條に最後まで全責任をおわせるようにしたらよい」と。
敗戦は必至とわかっての発言だ。卑怯なこの愚物は、敗戦の責任をのがれるべく手をうった。だけでなく、開戦の責任のがれまで画策したのである。
たしかに開戦前においては、外交決着にうごいてはいたが本気の度あいはうたがわしい。戦後、A級戦犯として逮捕がきまったのは、開戦の責任のがれに奔走するばかりで、戦前から戦中にかけて為政者として戦争回避あるいは停戦にかんし、無為だったからである。
「政治上おおくの過ちをおかしてきた…」云々と遺書にあるとおりだ。そしてかれは軍事裁判からのがれるため、逮捕前に自殺してしまったのである。
このていどのやからが一国の命運をにぎっていたということだ。
さてと、もうこれいじょう、かような愚昧どもに時間を割くひつようはないであろう。
肝心なのは先述の兵法、戦争終結のための火急の判断についてである。
日本が連敗にまみれるなか、いっぽうで、最大の同盟国であったナチスドイツが1945年五月七日に無条件降伏を表明してしまった。
じつはこの直後こそ、降伏という絶好のチャンスだったのである。なぜなら最後の同盟国が降伏したということはとりもなおさず、これからは、連合国対日本一国の戦争をいみするからだ。
世界を敵にまわしたわけで、敗戦は、うごかすことのできない既定の事実となったのである。こうして追いつめられたにもかかわらず、「本土決戦、神州必滅、一億玉砕」と狂妄の軍部政府は、おろかにも戦争を続行し、好機を逸してしまったのだ。
上記漢字十二文字の、ありえないほど愚劣にすぎるスローガン。この信じがたい能天気ぶり、人命がかかっていなければ、噴飯ものである。しかし死者のあまりの膨大さ、それをおもわずとも、噴飯どころか、慷慨がこみあげてくる愚策だ。
もし、太陽に闘いをいどむバカな蜂がいるとしても、脳乱の軍部政府は、それをわらえない。
いじょう、暗愚な指導者連のせいで、日本国民は最悪の事態をむかえたのである。
いごの沖縄戦などで、自国民(ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊はその象徴)は徒に、死においやられたのだった。
孫子は「利にあえばうごき、利にあわざれば止む」として、無益な戦争を愚劣と断じた。また別記で、長期の戦争も愚行とといている。愚昧な東條不出来以下、軍部も傀儡政府もそろいもそろって「無能で劣悪な国家指導者たち」と、彦原は結論づけたのである。
いっぽうで軍部の傀儡政府は、ソ連に戦争終結の仲介を依頼しさらに期待までしていた。あきれるばかりの史実である。他人任せほどあてにならないものはないのに、それすらもしらなかったのだ。一国と全国民の命運をにぎっているという自覚の欠落にたいし、言葉をうしなった。
このように、冷静なあるいは正当な判断すらできなかったのは、度しがたい「凡愚と頑愚の徒輩だった」からだ。さらにおもった。
日本国民だけでなく、近隣のアジアのひとたちにも、当時の敵国人にたいしても塗炭の苦しみを強いつづけた愚劣の奴輩だったからだと。
ところで米英ニ国は、戦争の終結をすでに模索していた。
国家支出の八割をこえる、莫大というよりも異常そのものの戦費が国家の財政を逼迫させ、自国民の犠牲も増大の一途(向後の国家的労働力不足を引きおこす事態)だった事由による。
戦勝しても、このままでは国家が破綻しかねないとの危機感をもっていたのだ。
三年をこえる戦争は、孫子の寸鉄をかりるまでもなく、ながすぎたのである。終戦こそ最優先課題ととらえたルーズベルトとチャーチル英首相は、ここかしこで協調しあった。
大日本帝国とちがい、すくなくともこの二国は内政において大人の冷静さをたもっていたのだ。
ときに、大戦末期における米英協調最大の産物とはなにか。
連合国であるソ連邦の独裁者スターリンに、日ソ中立条約破棄をせまったのが米英首脳だったという史実からしれる。両国の利が合致した外交的決断であった。
これを、1945年二月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国三大首脳がかわした極東密約、別称ヤルタ秘密協定と史家はよぶ。
ソ連軍が条約を破棄し日本にむけて侵攻することを、だから米国は当然、六カ月前から織りこみずみだったのである。
ではと、ここで再度の疑問。彦原が中学生のころから懐きつづけた疑問だ。
なぜ原爆を投下したのか?その背景には、米国の思惑など既述した歴史的事跡があり、バーンスタイン教授などが指摘した4から7までの政治・軍事上などの専断的理由もあったのである。
こうしたことに立脚したうえで、彦原が想像したさらなる理由。
原爆投下は結局、終戦後の外交益=対ソ連との冷戦を視野にいれた世界戦略という自国益のためだった。どうじに、敗戦表明を引きだせるとかんがえた米首脳の存在の可能性もある。
ところで、日本がソ連に停戦仲介を依頼していたと既知の米国は当然、ソ連参戦まぢかもしっていた。そこで米政府はソ連軍侵攻により、日本軍部政府の退路をたち、降伏を一日もはやく表明させる手法にでたのだ。
いっぽうで、ソ連がのばすであろう触手の範囲(支配下の領土あるいは影響力)を最小限にとどめねばならない。だからソ連参戦は両刃の剣で、綱わたりのように危険なものだった。
当面の敵国日本に決定的ダメージをあたえられるかわり、身をきる覚悟もせねばならない。大統領の指示のもと、米軍はおそらくベストからワーストまでをシミュレーションしたであろう、との想像は容易にできる。
そして現実には、すべて、米国にとっていちばん望ましい思惑のとおりとなる。自国はほんのかすり傷ですんだのだった。
おかげで、日本だけが深手をおわされた。北方領土はうばわれてしまい、昭和・平成と弱腰外交に終始した無能な外務省の無為のせいで、国民、とりわけ道民はながく苦しんだのだ。
が、日本戦後の歴史的内憂外患はさておき、米国の思惑だが、ここも読み勝ちであった。
それは、ソ連の突然の侵攻に東條以下、あわててポツダム宣言受諾を表明したからだった。米政府は、してやったりとおもったことだろう。
それをうけ、連合国側として日本政府とつめの協議の結果、八月十四日、日本の無条件降伏をソ連政府に通告している。
おかげで侵攻する大義名分を、ソ連はうしなった、はずだった。
ところが旧態依然、南下政策を国是としてきた共産党ロシア政権は、あいかわらずの汚い手をつかい、九月一日まで、ということは受諾承認から十八日間も侵略しつづけ、北方領土までも不当にも占領したのである。
だから彦原は、歴代ロシア政権に、よい印象をかすかにすらももっていない。
まあ、かれの個人的好悪はおいておくとして、くだんの原爆投下だが、外交上さらにさらにべつの理由もあった。理由は多重で複合的だったのである。つまり、
二度の、種類のちがう原爆投下は、軍事目的とどうじに外交的手段でもあった。
戦後の仮想敵国ソ連にたいし、未曽有の大規模破壊兵器所有をみせつけるためでもあったのだ。
圧倒的な軍事優位をしめすために、だった。対ソ連外交上、原爆という圧倒的兵器が威力を発揮すると判断したのである。
いっぽう、米科学者の一部の愚かものがスパイとなり、ソ連に原爆製造のための決定的情報をながしたのは、ぎゃくに米国絶対的優位は世界にとって脅威となり、不幸をもたらすと愚考したからだ。
が、この問題、いまはおいておくとして、貪欲にも米政府は、外交上ゆずれないべつの戦略も有していた。極東に位置する日本を支配下におくことだった。
そのためにどうしたか。ムチで日本の旧体制を打破し、アメで手なずける政略をとることに決したのだ。
まずは広島・長崎で二十二万弱(推定)の非戦闘員の尊い命をうばったのである。そうしておいての、敗戦後の日本の復興に手をかす占領政策であった。
たび重なる空襲などにより、単身での再起は不能となってしまった日本。敗戦後の政府は、米国にたよらざるをえなかった。これも、かの国の思惑どおりだったのである。
マッカーサーたち軍人の見解よりも、ホワイトハウスを中心とした政治判断のほうが、結果的にはあたっていたようだ。
すこし話をもどすとしよう。
日本の降伏とGHQ、実質的には米国による占領。どちらもが米国にとって、一刻をあらそう要実現事項なのだ。なにがあっても、ニ兎のどちらをも確保しなければならない最重要事項だったのである。
ソ連に参戦をうながした米国にとっては、既述したように諸刃の剣であった。
ソ連が、日本の北方領土と日本占領下の満州を蚕食するくらいなら許容範囲である。だが、ソ連に日本を支配させるわけにはいかない。日本列島侵蝕のまえに戦争を終結させることこそ肝要だと。
どのみち、戦勝後の自国を有利にするためであり、しょせんは、事後の大局のためであった。
ながびく戦争での日本国市民の被害者をすこしでも減らしたかったとの米国の主張は、したがって、まったくの詭弁である。あくまでも自国益を追求した結果だった。
いずれにしろ、先のふたつの理由、そして自国兵のこれいじょうの犠牲拡大をくい止めたいとの、米国市民・有権者のつよい要望にたいする配慮によったことはいうにおよばないが。
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