そんなグローブスに扮した彦原。MCが偽造してくれた身分証を提示し、シカゴ大学冶金(やきん)研究所とそのなかの隔離施設、原子炉シカゴ・パイル1号を単身「見学にきた」と、そう、冶金研究所の当直研究員につげた。十二月十五日の深夜である。

そのさい、「握手をすると願いごとが叶わなくなると占い師におしえられたので、科学者のきみにはわるいが遠慮しとくよ。国家にとって、大事な任務をおびてる身だからね」とウソをついて握手をことわった。

理由は、所詮、自身がバーチャルリアリティーだからだ。身体や制服にふれさせるわけにはいかない。ある意味、ドラキュラが鏡に映ず影をもちえないように、かれも実体のない、いわばニセモノでしかないのだ。

「じつはシカゴに内密の用があって、そのついでによったんや。説明なら不要。原理はエンリー(エンリコ・フェルミ、シカゴ・パイル1号の創設者、1938年ノーベル物理学賞を受賞)にきいて知ってるさかい。とりあえず一人にしてくれへんか。きみも眠いやろうし」

とはいったものの、当直研究員がさがろうとする、その背中に再度声をかけた。

「ああ、ちょっとわるい。おこしたついでにお願いしておきたいことがあるんや」

いずれ依頼しなければならない大事な付加事項を、むしろいま頼んでおいたほうがより自然だとかんがえ直したからだ。

 若い研究員は、「なんでしょうか?」という顔でゆっくり踵をかえすと近づいてきた。

「見学したのち、これはたんなる好奇心からやが、エンリーたちの研究室もみてみたい。それで、簡単でいいから配置図をかいてほしいな。無理をいってわるいが」

“たち”とは、コロンビア大学冶金研究所からやってきたハロルド・ユーリー(ガス拡散法開発によりウラン235同位体抽出に成功。1934年ノーベル化学賞を受賞)とカリフォルニア大学バークレイ校からのユージン・ウィグナー(1963年、ノーベル物理学賞受賞)、それにレオ・シラードのことだ。かれらの研究室もあわせて要望したのである。

「鍵はもっていませんが…」眠そうに目をこすったあと、おきがけに着たのだろう白衣の胸ポケットから、紙と鉛筆を摂りだした。

「なかに入れなくてもかまわへん。偉大なる科学者であるふたりのノーベル賞受賞者だけでなく、将来有望な白眉(=とくに優れたひと)たちの研究室も一目みたい、ただそれだけのこと。子どものごとき好奇心、というわけや。だからこのことはくれぐれも内密にたのむよ。わしの部下にも、エンリーたち偉才にも、ほかの研究員にも。そして、こののちここを訪問したときのこの私にたいしてもだ」

「えっ、准将にたいしても、…ですか?」聞きちがえたかと眼を点にした研究員は、あからさまにくびを傾げた。

しかしニセ准将はこともなげ。「きょうは単身やが、正式な訪問となれば、上院議員や部下など、何某(なにがし)かがそばにおるやろ。知れると恥ずかしいやないか」人生ではじめてのウインクだったが、スーツはなんなくこなした。

さて、後日もしほんものの准将が来所し、この研究員が「先日はどうも~」などと洩らしたら、不都合はじゅうぶんおこりうる。そんな事態は、事前に封じこまなければならない。むろん、この言動も計画にいれていた。

「今夜の訪問についてあとで詮索されると、子どもじみてて恥ずかしいさかいな」そういい終わるとすこし、はにかんでみせた。それから、「ジョーと呼んでええか」研究員の胸につけてあるジョージ・某と記載された名札をみて、ひと懐っこい笑顔でつづけた。「君のことはよくおぼえておくさかい。君の今後を楽しみにしとき」口封じには、極上の甘い飴をなめさせるにかぎる。

二度目のウインクまでしてみせたあと、ほんとうは不必要な配置図をうけとった。「おやおや、寝むそうやないか、ごめんな。もうさがってくれてええで」

あと二分で午前零時だ。研究員はみられないようにちいさく欠伸をすると、当直室にもどっていった。途中で見あげたかれの目に、星はひとつも映らなかった。いまにも泣きだしそうな曇天がひろがっていたからだ。

で当然、エンリコ・フェルミらもすでに帰宅していた。この時間、シカゴ大学冶金研究所では当直者以外はだれも従事していない。いっぽう、構内のシカゴ・パイル1号では、軍が二十四時間体制で警備していた。

その出入り口でも、精巧な身分証を提示した。

でてきた警備の若い一等兵は、格のちがいすぎる准将をまえに緊張しているようすだった。

直後、ここでも案内を断った。ついで、きわめて甘いの飴を頬ばらせることもわすれなかった。おかげでひとりになれた。

だが、さすがのグローブス准将といえども、防護服着用を義務づけられた原子炉施設のなかにははいれない。

そのために、宇宙船内で汗をながしながらつくった強力な超小型物体を、それをもち運ぶための偽装大型懐中電灯(なかは空洞)から取りだしては、腕時計型レーザー光線照射器で、原子炉施設の、鉛製ドアやカベなどに埋めこんだのである。

計算上、付随装置つきの労作物体はニ十五枚だったが、目的をたっするにじゅうぶんすぎる量であった。

そのあと、レーザー光線照射器で照射跡がのこらないよう修復した。

翌日以降、おかげで工作には気づかれないまま、計画は成功するのである。

ひとつおおきく深呼吸し隔離施設をあとにすると、各研究室や実験室でもいまとおなじ作業をした。それから、特製メガネをつかって探しだした書類保管庫などのカベにも、念のため同様に埋めこんだのだった。

大学構内のそれらの所在地は、PCが事前におしえてくれていた。一時間ほどで作業は完了し、これにより、シカゴ大学冶金研究所全体において、計画どおり、もれなく網羅できたのである。

でもって、偽装懐中電灯は空になった。そして心も、なぜか空虚になった。同時にかれの胸奥から、黒くおもいため息がおもわず洩れたのである。

この、かれの意味不明な心裡については、おいおいあきらかとなろう。

大学をあとにすると、これも外観は当時の車にしかみえない小型乗用飛行車で、北へ200Kmほど離れた、まったく人家のない原野にもどった。そこはミシガン湖の西岸、ビールの製造で有名なミルウォーキーの北100Km、カナダとの国境ちかくである。

透明装置により、姿かたちがみえないドリーム号に帰船すると、つぎの訪問先にむけて発進したのだった。

 これ以上ない、順調な滑りだしであった。

そのうえで、移動中のかれはおもった、だれにも気づかれなかった幸運を。

原野だったとはいえ、宇宙船にしろ、バーチャルリアリティ仕様の小型乗用飛行車にしろ、自然はダマせなかったと。(せい)(はく)(=清らかで汚れがないこと)な雪がそれらをおおっていたからだ。

あ、読者は幸運の意味を早合点してはいけません。実景をみていないから仕方ないが。

隠してくれていた、のではないということ。それどころか、その逆で、いみじくも実際の外形を白雪は、浮き彫りにしていたのである。

ではなぜ幸運だったと?彦原なればこそ、目のつけどころがちがっているのだ。

コンパクト化したとはいえ、宇宙船は相当なおおきさである。また原野とはいえ、狩猟やリクリエーションなどで、ひとが来ないとはいいきれない。いっぽう、車は深夜という時間帯のおかげとはいえ、シカゴという大都市圏だった。

それでも見つからずにすんだ。このことこそが幸運だったと。今回も、やはり天佑、か。

 

テネシー州東部に、現在でもアトミックシティとの別名をもつオーク・リッジという名のまちがある。

その一隅、北緯にして3558分、西経だと8356分、アパラチア山脈の西麓に宇宙船を隠し、そこで寝ることにした。

午後八時をすぎて訪ねたのは、オーク・リッジに建設された工場など五か所であった。

まずは、1944年初頭建造の巨大電磁分離工場。コードネーム(情報漏洩防止のための暗号名)はY-12だ。ウラン濃縮などのための秘密工場である。

准将に扮し、昨夜とおなじ手法をもちいて各所に出入りした。疑いをいだくものはひとりとしていなかった。

二番目は、電磁分離機と電磁濃縮法を開発し、ウラン235同位体元素の抽出に成功したアーネスト・ローレンス(1939年ノーベル物理学賞を受賞。後年、軍に諫言す…後述)の部屋。

ついでコードネームX-10、原子核衝撃によりウランからプルトニウムを生成する工場。コードネームK-25、ガス拡散法をもちいたウランとプルトニウムを分離精製する施設。

さいごにS-50液体熱拡散法によるウラン235238を分離濃縮する工場である。

これら大小五つの施設に、シカゴ大学冶金(やきん)研究所のときとおなじものを、同様に秘匿して設置した。

そして、昨夜とおなじ口止めのための甘言をのこし、たち去ったのである。

 

翌日、米西海岸、カナダと国境をせっするワシントン州の南東部に船首をむけた。

コロンビア川とヤキマ川にかこまれたハンフォードに、デュポン社の技術者が建築監督をつとめた施設がある。1943年四月に稼働開始した秘密工場だ。米軍用コードネームはサイトW。

入植するものなどいない荒涼とした土地だけに、秘密工場建設にはうってつけとおもったのだろう。砂漠化しつつある荒涼たる地に宇宙船を(ひそ)め、深夜をまった。やがて適時となった。

ここでも彦原は、おなじ手法・段どり・セリフ、そしておなじ行動をとった。(原子番号94)プルトニウム精製および抽出のための原子炉と、プルトニウム処理施設の各エリアに、例のものをおおめに隠して設置しおえたのである。

肉体より精神的につかれる作業だ。帰船した彦原は、やがて就寝した。

決行しているせいか、かつて地上にいたとき、夜ごと、苦しめられた悪夢をみることは、もはやなかった。

 

で翌夜のために、宇宙船をのこしたまま、西海岸のワシントン州から東海岸のワシントンD..に移動せねばならなかった。首都や近郊には宇宙船をかくすに適したばしょがないからだ。

透明装置をいくら稼働させていても、人口密度のたかい都会が密集した東海岸では、宇宙船がみつかってしまう可能性はすくなくない。

ミシガン湖南西部に位置し、まわりに都市のすくないシカゴとはその点、ようすがちがう。

ハンフォード付近の砂漠にかくした宇宙船から、小型乗用飛行車を発進させた。ステルスゆえに、レーダーにひっかかる心配はない。時速800Kmで首都にむかったのである。

 

最大最終の目的地は、ニューメキシコの州都サンタ・フェより北西40Kmの標高2200m、ロッキー山脈南端にひろがる田舎町ロスアラモスにあった。北緯355328秒、西経1061752秒、1943年に稼働したロスアラモス国立研究所が、である。

だが、そこに赴くまえに、なすべき大事がふたつあった。

そのためのワシントンD..行きである。

どこにでもいるような白人紳士のすがたで一流ホテルに投宿し、部屋で再度グローブス准将になりすますと、ニューメキシコ州の現地時間(米国には計六つの標準時、つまり時差があり、サンタ・フェは山岳部標準時の圏内)で夜九時半(首都では夜十一時半)をすぎたころ、計画どおりホテルから電話をつぎつぎといれていく。宵のうちだと、食事や妻子との会話などなにかと邪魔のはいる可能性があるからだ。

ところで彦原にとっては好都合にも、ほんもののグローブス准将は就任以来、調査によると秘密主義者に徹していた。よって、外部との接触を極力断っていたはずである。将官としてはとうぜんだろう。

いうまでもなく“マンハッタン計画”が、超ド級の脅威的軍事計画だからである。それで、極秘主義をとったのだ。

機密工作の手はじめ。それは、各部署の情報を完全に隔離したことだ。

別セクションの所在地や担当メンバーの存在をしる(すべ)をたつことにも役だった。さらに、各々が別の部署の研究内容をしりえない状況をつくることにも(つな)がった。それぞれのセクションからでは、じぶんたちがどういう目的で全体のどの部門を担当しているのかがまったくわからない、ということだ。

そのうえで、それぞれに担当を割りあてて、専従の研究・開発・実験をおし進めさせたのである。内外にたいしもっとも有効なスパイ行為の防止手段だった、本来なら。

しかし史実がしめすように、ソ連の情報機関はそれでもだし抜くのだ。が、そのへんはおいおい。

さらに、個々の科学者にあたえる情報も、個別の担当分野だけに限定したのである。競走馬に遮眼帯をつけさせ、きっちりコースわりした枠内だけを走らせるの(てい)だ。科学者にすれば、じぶんがなにをなすために従事しているのかがわからないまま、ということになる。

全体像をしるのは、上層の一部やとくに選ばれた科学者たちだけだった。グローブスのこの方針に、科学者たちがつよく反発していたのは事実だ。しかしながらたがいが協力することもできず、具体的行動にまではいたらなかったらしい。

これが事実かどうかについて、彦原はあまり関心をもたなかった。最高責任者としての准将の権限を活用すればよいとだけかんがえたからだ。

彦原はよこの連絡がほぼないこの状況を利用し、科学者たちを恣意(=おもいどおり)にうごかすことにした。

「ボブ、夜分でもうしわけないが…」電話の相手は、ロバート(略称ボブ)・オッペンハイマー“マンハッタン計画”科学部門のトップ、ロスアラモス国立研究所所長だったのである。

「それはいつものことで慣れとるよ。それより、いつもと声が少々ちがうようだが」所長は立場上、警戒心のカタマリだった。

案の定、二十世紀中期の録音技術をもとにした音源は、粗悪であった。計画段階からの彦原の不安は的中したのである。「激務によるつかれかなぁ。それとも最近はじまった、盗聴防止のため複数回線を経由させてるからかな。

そんなことはどうでもいいが、下院議員に数人、五月(うるさ)蝿いのがおってな。莫大な経費をかけてるこの国家プロジェクトの、詳細を把握させろといってきかんのだ」と、ここで巧みなウソをついた。声の不審などふっ飛ぶ爆弾話だからだ。

「トップシークレットなのに?」と、ウソばなしとはしらず、ついくるまれてしまい半信半疑となった所長。“マンハッタン計画”はたしかに、“超”がつく国家機密である。が、=どうやってしったのか?=は蛇足とかんがえ、口にしなかった。訊いてもおしえてくれるはずないとわかっていたからでもある。

「むろんそうなんやが、どっかから漏洩したらしい。それはこちらで調査するとして…。とにかく、現状のままやと機密を保つのはむずかしいということかな。そういうわけで、これからはセキュリティをもっと強化せねばとおもっている。それはともかく、こんかいの議員たちにかぎり、秘匿は不可能と判断した。それでそちらの時間で明後日の十五時、研究所にきみはもちろんのこと、研究員全員をあつめてもらいたい。ええか、全員やぞ!お偉方を納得させなきゃならんからな。『クリスマスまえなのに』なんて、大事なこの時期にそんなくだらんことはいわんでくれよ」内容はともかく、声には有無をいわさないつよい響きがこめられていた。「念のためメモしてほしい。用が済んだらメモは焼きすてること」と。そしてつづけた。

ニールス・ボーア(1922年ノーベル物理学賞を受賞、ウラン235は分裂しやすいとの原子核分裂の予想をした)、オットー・フリッシュ、メト・ラボ、アーサー・コンブトン(1929年ノーベル物理学賞を受賞)、ジェームズ・チャドウィック(1935年にノーベル物理学賞を受賞した英国人)、イジドール・イザーク・ラービ(1944年ノーベル物理学賞を受賞)、フェリックス・ブロッホ(1952年ノーベル物理学賞を受賞)、ポール・エメット、オーエン・チェンバレン、エミリオ・セグレ(チェンバレンとセグレはともに1959年ノーベル物理学賞を受賞)、ハンス・ベーテ(1967年ノーベル物理学賞を受賞。同計画の理論部門の監督。大戦後、水素爆弾の開発にも参画)、グレゴリー・ブライト、ジョン・アーチボルト・ホイーラー(”ワームホール”の命名者、既述)、アーサー・ワール、グレン・シーボーグ(ワールとシーボーグは、プルトニウム精製・抽出のための原子炉建造を進めた科学者)、エドウィン・マクミラン(マクミランと前述のシーボーグはともに1951年ノーベル化学賞を受賞)、ウィラード・リビー(1960年ノーベル化学賞を受賞。ウラン238同位体を濃縮するためのガス拡散法を開発)など、この国家プロジェクトに従事する著名な科学者や、リチャード・ファインマン(1965年ノーベル物理学賞を受賞)、クラウス・フックス(後述)などの若手の研究者もふくめ全員を招集するよう、具体名をあげて命令したのだ。

 所長は黙ってしたがうしかなかった。准将の背後には、大統領が存在するのだから。

「とうぜんだが時間厳守だ。遅刻したものは厳罰に処す。欠席したものはスパイの容疑をかけ、逮捕する。カゼなどの体調不良もその理由とはしない!」有無をいわさない高圧的口吻(くちぶり)。声色もさらに厳しいものにかわっていた。裁判でスパイとの判決がくだされれば、死刑もありうる。だからじゅうぶんな脅しとなった。最後に「議員たちはわがままだから数分、いや十数分ていどは遅れるかもしれん。が、心配せんで会議室にて待機してくれればよい」と。この時点でようやくふつうの口調にもどり、少々のやりとりをし「では」と、電話をきったのだった。

ちなみに、同研究所にはハーバードやカリフォルニア大学など名門校の俊英が、常時あつめられていた。

かれら科学者のなかに、セオドア・アルビン・ホールという物理学者もいた。

彦原はなかでも、このおとこの招集を念おしで要請したのである。天才のかれは飛び級でハーバード大学に入学、十八歳で卒業した逸材だ。

ところが“学者バカ”のゆえんか、おろかな理由(ここでは詳細は省く)でこの年すでに、ソ連のスパイになると決心していた。かれが研究所からもちだした情報のなかには、「ファットマン」(後述)の詳細な設計やプルトニウムの精製法など貴重そのものがおおくふくまれていた。

第二次世界大戦後四年で、ソ連が大量殺戮兵器の実験に成功したのは、このスパイのおかげでもある。

スパイといえば、ホールと同大学時代のルームメイトだったサヴィル・サックスおよびロナ・コーエンも、だった。さほど優秀ではなかったかれらはたんなる運び屋にすぎなかったが。それでも同所に従事する研究員である。

彦原はさらに、かれらの名前を告げるのもわすれなかった。

ほかにも、いまとなっては氏名があきらかではないスパイが多数いたようだ。それで「ええか、全員やぞ!」と、所長にたいしつよく念おしをしたのだった。

ところで、研究所で従事していたのは上記のような科学者たちだけではない。

1944年当時、コンピュータはまだ実用化されていなかった。そのため、計算だけを任務とするひとたちも多数あつめられた。数学者はもとより、数学で成績優秀な高校生や大学生たちも、である。そのなかには、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当。より小型化した装置で、ZND理論における核爆発を可能にした数学者。みずからの実験による被爆?で全身、ガンにおかされ死亡)、スタニスワフ・ウラム(ポーランドから亡命した数学者。ノイマンがロスアラモスに招いた。戦後、水爆の基本機構を創案)などもいた。いずれも未来を嘱望された、わかき英才たちである。

さらには、高度な精密性を必要とする臨界計算(核物質ウランとプルトニウムを爆発させるときに要するエネルギー量をはじき出す計算術)の第一人者、クラウス・フックスもいた。この物理学者がいなかったら、大量殺戮兵器の実験成功は大幅におくれていたといわれている。

ところでこのおとこは共産主義に賛同し、セオドア・アルビン・ホールとおなじく、ソ連のスパイとなったのである。

マンハッタン計画に参集した科学者や技術者は、総勢で千人を超えていた。くわえて、四千人以上の従事者もいた。ひとつの研究所で五千人を超えるひとたちが従事していたのである。

しかも当時の総額で、十九億ドル(当時の日本の国家予算の約十倍)という巨費を投入しての、おそるべき国家プロジェクトだったのだ。(余談。比較はむずかしいが、戦艦大和の建造総費用は一億三千七百八十万円だった)

要求はつづいた。「研究と実験の詳細をしるした書類もだ。みてもわからんだろうに、みせろというやもしれんから。しかし、コピィにはおよばん」漏洩防止上、コピーを原則禁じていたからだ。「議員には、持ちだし禁止で了解ずみだから。それから盗聴防止のため、おたがいの連絡は一切厳禁。もしなにかあれば、このわたしに電話をいれさせてくれたまえ。面倒だろうが、わたしが中継するから。ナチのスパイがどこに潜んでるかわからんからな。もうひとつ、わかってるとはおもうが、老婆心ながら、こんかいの招集の件は家族にも他言無用だ!」いかにもグローブスをまねた、イヤも応もない厳命であった。

彦原はこの指令のまえすでに、エンリコ・フェルミ、ハロルド・ユーリー、ユージン・ウィグナー、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス(全員既述)にも同様、電話をいれておいた。

シカゴが中西部標準時であるため、ニューメキシコ州より時差が一時間はやかったからだ。それぞれ、自身の研究室で同日、リアルタイム、時間厳守で待機しておくように、と。書類持参も厳命した。

ついで、問いあわせはすべてじぶんにし、他者とはこの件で連絡を取りあわないよう念をおした。文句をいうものはいたが、機密保持のためと反発を封じこめた。

不満げなものには、違反者はスパイとみなすと脅して、電話をきったのである。

さらに、のちに“水爆の父”と呼称されたエドワード・テラーにも、研究書類一式を持参のうえ、ロスアラモス国立研究所にくるよう連絡をいれた。研究開発のためのさらなる予算をえるチャンスだと(にお)わしたのである。手もなくくいついてきた。

これも余談だが、この、人類をうらぎったおとこは、巨匠スタンリー・キューブリック監督の映画、“博士の異常な愛情”で水爆好きのマッドサイエンティストとして登場する、ストレンジラブ博士のモデルである。当該異常博士はとうぜんながら、道化師あつかいされていた。

 

ハンフォードでひと仕事をおえたあとワシントンD..にきたもうひとつの目的。それは、彦原のこの計画をなし遂げるにあたって、見すごせざる人物宅を訪問するためである。

米国第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトの、元商務長官兼任元大統領首席補佐官だったハリー・ホプキンス現外交顧問その人の住まいをだ。在宅はとうぜん、確認ずみである。

大統領側近のハリー・ホプキンス邸の警戒は厳重だった。が、2095年の科学技術は、まるで自宅のドアでもあけるように、高官邸への侵入を容易にした。

寝室のドアをあけたままで彦原は、ベッドにて(いびき)をたてているおとこの顔を確認した。まちがいなく標的だった。検死では心臓発作(急性心不全なのだが、当時、そこまで病理学が発達していたかは不明)にしかみえない毒薬を、すぐさま首筋に皮下注射した。ところで、極細で八本の注射針ゆえに痕は残らない。ごく微小な痛みのため、予期したとおり目をさますこともなかった。隠密行動ゆえ、もちろん無灯のなかでおこなった。だが廊下にともされていた明りで、かれにはじゅうぶんだった。星明かりていどでも部屋全体があかるくみえる暗視レンズ、2095年だとだれでももっているメガネをかけていたからだ。

けっこう役にたつアイテムとして、シカゴ大学冶金研究所内・オーク・リッジの各工場や施設等・ハンフォードの各施設等でも使用したように。

かれが寝室のドアをしめる寸前、ベッドのなかからおとこのちいさな(うめ)き声が洩れた。彦原はおもわず墨色の歎息を洩らした。できることならおかしたくない殺人だったからだ。

戦後、このおとこホプキンスは、ソ連へのスパイ行為容疑にさらされる、はずだった。死ななければ、史実のとおりに。だが、死期が十三カ月はやまった(1946年一月胃癌で死去)おかげで、汚名に悩まされずにすんだ。あわせて、ガンによる激痛もしらずにすむのである。だから結果的には、二重苦を回避できたこととなるこの夜の一瞬の断末魔を、かれ自身、むしろ喜ぶべきなのかもしれない。代償として、少々寿命がみじかくはなってしまったが。

翌朝、チェックアウトせずむかったのは、ジュリアス・ローゼンバーグの家だ。殺戮兵器製造にかんする情報をソ連にうった、スパイである。かれは妻とともに後年、国家機密漏洩による罪で死刑を執行された。国家反逆の汚名をうけるまえに死をむかえるのは、幸か不幸か。

そのローゼンバーグに機密をながしたのは、妻の実弟デビッド・グリーングラスだった。勤務していたロスアラモス国立研究所から盗みだした情報であった。

彦原が、とうぜん見のがすはずはない。明日、このおとこの命運もつきることとなる。

ところで、米国での使命をおえたあとは、ソ連に情報を洩らしたスパイたちを遺漏なく消しさる…、という計画がまっている。英情報部MI6でのちに長官候補となるキム・フィルバー、英国外交官のドナルド・マクリーンなどの大物をふくむ、ケンブリッジ五人組とよばれたおとこたちをだ。

そして、ソ連製殺戮兵器製造のためのスパイ活動をしたアレクサンドル・フェクリソフ大佐も。旧ソ連では英雄あつかいのKGB諜報員である。かれらが、人類にたいしおかす大罪を未然に阻止するためだ。

これが、計画遂行の第二段階だ。

彦原の心を鮮血でそめる凶行が完了すると同時に、”マンハッタン計画”の根幹にかかわる(おびただ)しいほどの情報流出は、これを未然にふせぐことができるのだと。

ちなみに、スパイにかんする情報はほかにもあった。セオドア・ホールたち以外の大物スパイのことだ。

既述の三人、ロスアラモス研究所所長オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーアである。

しかしソ連の元スパイの証言によるものなので、真偽まではわからない。ほんもののスパイを隠しまもるためのニセ情報かもしれないし、三人の科学者を陥れるため、さらには米国国家機関を疑心暗鬼でおおうための姦計かもしれないからだ。

 

いずれにせよ、これでソ連への情報流出等を防止できると確信したがゆえの、非道・非情の計画だったのである。