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不連続・連続・不連続な殺人事件 第九章  不連続だけれど連続性のある各殺人事件等の捜査に矢野係着手(後編)

前刑事部長だった長野は、なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか、不思議だと暗に言いたいのである。眠っていた被害者と性交渉できたはずなく、さらにそのあとで金銭トラブルが発生し殺害した、だから犯人像を娼婦に絞った、というのも解せないと、そう。

星野は二人のやり取りを聞いてもはや隠すべきではないと、事実を明かすことにした。

長野は小我の野望に自身呑み込まれ、事実直視を放擲してしまった。否、自分に都合のいい犯人像を作り出し、遺留物や証拠のうち好都合なものだけを採用し、犯人像に合致する被疑者を犯人に仕立て上げようと目論んだ。さらには出世のためなら冤罪をも厭わない、そんな驕慢に支配されていたのでは、とも述べた。ために、目くらます欲望の狂気が崇(たた)り、迷宮入り寸前だと言った。こうした秘匿なき披歴は、矢野係を信頼している証左である。
「ちょっといいですか」岡田が、おそるおそる訊いた。「性交渉がなかったのに、丸害はどうして射精してたんです。まさか夢精する年でもないでしょうに」
矢野は、こんなバカ田でも経験を積ませて一級品のデカにする自信があった。それで、和田の甥という関係とは関わりなく、自分の係に配属されるよう上層部に頼んだのだった。
「絞殺などの際、失禁や脱糞することがある、くらいは知ってるよな、もう四年なのに、まるで新米デカさん」趨勢で教育係になった和田が、呆れかえりながらも説明した。

先輩たちの丁々発止を、現矢野係配属順位では五番目となった西岡が黙って聞いていた。
「はい。窒息死によく見受けられる現象です」苦手でしかない叔父が解説を始めたので、より神妙に耳を傾けた。
「それと同じような現象や。解剖所見にその点も記してあるから、会議のあとで調書と併せて目ぇ通しとき」こういう質問は向上心から発したものだから、稚拙だがまだ許せた。
「もうひとついいですか」矢野が発した、どんな質問でも構わないの言葉に甘えて岡田は続けた。「ホテルマンによると、帽子の女は初めての客でしたよね」
「フロントクラークらの証言によればな」
「だとしたら、ロープをベッドの足にくくれるとどうして知っていたんでしょうか?足のないベッドもけっこうありますし…」月一で風俗嬢と行く各ラブホのベッドを思い浮かべながらの質問だった。
藤川が即答した。「それはきっと、インターネットで調べたか何かで。あるいはパンフレットで、かもしれません」
「『きっと』や『かもしれません』はアカン。確かでないと前には進めへん、真相に辿りつけんからな」不確実の上にどんな立派な論理を重ねても、所詮は砂上の楼閣だと矢野は自身の経験則としての捜査の鉄則を言った。
矢野の捜査における指針の一つは「後悔することがあっては絶対にならない」であった。
詳説すれば、犯人を逃がさないは目標でしかなく、冤罪を生まないことこそが絶対条件だ、である。そのために、不確実の上に論を積み上げることをさせない。憶測をそのままに捜査を無理に押し進め、予断から被疑者を想定し捜査することを禁じたのだ。長野とは真逆であることはいうまでもない。「被疑者に不都合な情報だけを選別し、有利なものは無視あるいは排斥して捜査を進める。その結果が冤罪を生む」過去幾多の失敗を繰り返させないためだ。無実の人を犯罪者にしない、これが矢野の捜査訓であり、口癖でもあった。
「早速やが、例のホテルのベッドの足がどんな具合か、ネットで調べてみてくれ」

操作する藤川の背中越しに、全員がディスプレーに集中した。

しかしホームページで紹介されている、犯行現場と同じ造りのスイートルームの写真からでは、ベッドの足の状況まではわからなかった。

背後から手を伸ばした藍出がホームページのトップページに画面を戻すと、そこに掲載されたXXホテルの電話番号をプッシュした。
藍出がフロントから聞きだした情報は以下のとおりだった。①ホームページに掲載したスイートルームの写真以外のものをネットで見ることはできない。②ホームページに掲載された写真は少なくともここ一年間は変更されていない。③旅行代理店に置いてあるホテル案内のパンフレットの写真でも、ベッドの足の状況までは確認できない。④ただし、グループホテルの広報の一環として、パンフレットコーナーをロビーに設置している。
「そのパンフならもう少し詳しいらしく、あるいはということで今調べてもらっています」
藍出が説明し終わるのを待っていたかのように、ホテルマンからの入電だった。
「このパンフレットの写真ですと、ベッドの頭側と足側両方の足の部分が写っております」
今度は、電話機のスピーカーから流れる声に、皆嬉しそうに肯いた。
藍出はホテルマンに礼を述べ電話を切ったあと、「先に、ファックスしてもらったので、その写真を見てください。たしかに手足をくくることは可能です。ということは、帽子の女が事前に、しかも目立たない服装でホテルにやって来て、ロビーに置いてあったパンフレットを予め持っていった、で間違いないしょう」こう呟き、それから唸った、当惑げに。

表情の理由がわかった西岡は、「ロビーに置いてあればそのままいつ来ても持ち去れるわけだし、クラークに面(めん)を曝すこともない。特別奇妙な行為でもないから目撃者も出ないでしょう」人相の特定は困難だろうとの、藍出の無念さを代弁した形となった。

何事につけ前向きな藤浪と違い、藍出はどちらかというとネガティブだ。つい、最悪のケースを想像してしまう。「頼みの綱は防犯カメラだけですね」祈るように言うと、藍出はリダイヤルした。先のフロントクラークに、防犯カメラがパンフレットコーナーに向けて捉えているかを見てもらった。祈りが弱かったわけではないが、残念な結果に終わった。
切ろうとする藍出を制し、フロントクラークにしばらく待っていてくださいとお願いした矢野。「そこを捉えてないとすると、ホテルへ事前に出入りした犯人を、映像から見つけるしかないやろ。その日にちやが、事件の一週間前の前後まずは二日、いや、おそらく後ということはないな」との推理の一部を部下に披露した。同時に、事前に出入りした時間の間隔だが、長居などの目立つことはせず、せいぜい十数分程度と考え「ところで随分前なんですが、そちらのホテルではディスク残されていますか」と、今度は電話口に向けて。
そのとき岡田は藍出に対し、「何で一週間前に絞るんです?」と小声で。こいつは相変わらず頭を使わない。
「ステーキハウスの予約は一週間前やった。殺害の計画が練り上がり帽子などの購入もほぼ完了したから予約を入れたと考えるべきやろ。なら、ホテルをどこにするかも決めてたはずや。少なくとも当たりくらいつけていないと計画が破綻しかねんからな」

このやりとりの間に、矢野がクラークから聞いた答えもバカ田の能力同様、残念なものだった。ホテルの規定で、保存は三カ月と決まっていたからである。
「なるほど、噂にたがわずです。さすがに矢野係は皆さん鋭いですね」藤浪はお世辞ではなく、本心で感心していた。――岡田巡査長は別ですが――との本音を呑みこみつつ。
「今ですね、念のために他のホテルのも調べてみたんです。やはりと言うべきか、キタ(大阪市北区)にあるどこのシティホテルのホームページもツインの寝室の写真に、ベッドの足まで写っているのはありませんでした」移動した藤川は別のパソコンの前に座っていた。犯人がどこのホテルにするかの決め手をツインのベッドの足と想定し調べていたのである。ツイン以外、例えばダブルベッドだと、被害者の手足をベッドの足に縛りつけるのに距離があり過ぎて手を焼く。シングルの部屋だと、男を連れ込むには不自然だし、ホテルの従業員に変に思われて、記憶されやすくなる。どうせチェックアウトしないなら、どんなに料金が高くても構わないはずだ。そう考え、キタのシティホテルのホームページを検索してみたのだった。…貧乏人の発想と嗤うなかれ、これぞ庶民感覚なのだ。

しかしこのアプローチの仕方では、残念ながら袋小路に迷い込んでしまった、そう思った刹那、岡田が、バカ田ならではといおうか、らしいことを口にした。
「ネットで調べるくらいなら大した手間ではないですが。梅田界隈のシティホテルちゅうてもかなりありますよね」と容喙(ようかい)したのである。
「何が言いたいんや」矢野は即座にピ~ンと感じとった。岡田のピント外れのさしで口がラッキーパンチになるのではないか。岡田の快刀?懐(かい)刀?怪(かい)刀?いや、壊(かい)刀がときに乱麻を断つの譬えで、突拍子の快挙を、今まで何度かみせてきたからだ。
刑事テレビドラマ“古畑任三郎”における、今泉巡査の役どころである。
「手間の話です。ホテルをいちいち訪れてはパンフレットを持ち帰る。…なんてけっこう大変やろうなと」無精者の岡田らしい考え方だった。もっと楽な方法があれば、俺ならそれでいくけどな、ただそれだけの発言で、意見というより感想に近かったのだが、
「今、なんて言うた」矢野も同じで手間の掛かる話だと藍出たちのやり取りを聞いているときふと思った。が、計画犯罪のためなら厭うまいにとの考えに落ち着いた。しかしながら、「十軒以上のホテルでそんなこと繰り返してるところを、知人に見られるかもしれん、いやその可能性は極めて少ないんやが、犯罪者心理としては目撃者を恐れたやろうな」よって、しなかったんとちゃうやろか、岡田に触発され、そう考えてみたのだ。頬ずりしつつ(むろんする気はないが)岡田を褒めてやりたくなった。が、賛辞はあとのお楽しみにということで、――たまにこういう《怪我の功名》があるから、こいつを手放せんのや――と、暗夜に光明を見いだした気持ちになった。野球で譬えると、手も足も出ない敵エースの決め球をホームランする意外性のバッターのようで、ときに貴重な戦力となるからだ。
「だとすると、情報収集はどうやったのでしょう」やっぱ、考えない岡田なのだ。

しかしこいつが下手に深慮する能力を身につけた場合、《瓢箪から駒》的天然力が消滅するかもしれないと、矢野は心配になる。今のままがいいのかもしれないと諦め半分思った。
「この手ならどうでしょう。つまり、パンフを自宅に郵送してもらう、これだと」目撃されることも、顔が印象に残ることもないですからと藤浪。
「それは…、う~ん。だって、例の女は大阪近郊に住んでる可能性が高いんでしょう。関西弁のイントネーションだったって」―もちろん、関西の人間だって日本中いたるところに移り住んでますが―とは、あえて藤川は言わなかった。「なのに郵送を依頼すれば、何で?と変に思われませんか。だって高い料金なんか払わって泊まらずとも、家に帰れるわけでしょう。タクシーって手もあるし。なのになんで予約をいれるんやって、そう、ホテル側の印象に残るでしょう」藤川は、藤浪に敵愾心でも燃やしているのか、妙に突っかかった。
「いや、その心配ならないな。新婚の友だちが、たとえば東京から遊びに来るから、ホテルを予約したいんやでとでも言えば、何の不審も懐かれんやろ。印象にも残りにくいんとちゃうやろか」矢野も藤浪と同じ手を考えついていたため、藤川のを言下に否定できた。
「なるほど。たしかにそれだと変な印象はないですね」西岡が皆の意見を代表した。
「今度は僕がホテルに電話しよう」藤川と藤浪への西岡らしい気の遣いよう、ならびに藤川の負けん気を良しとした矢野は、「お忙しいところ恐縮ですが、事件発生の十日ほど前にパンフレットを郵送していないか、古い事案ですがお調べ戴きたい」と丁寧にお願いした。

担当の係に代わってくれた。
今か今かと電話のスピーカーから流れくる声に、期待と不安相半ばで皆耳を澄ました。否。一年半以上前の、パンフ発送依頼に関する情報だ。しかもその依頼者が客になると決まってはいない。だから誰も口には出さないがそんな、古くて価値の微小な情報をホテルが残しておく理由などないとネガティブになり、まるで宝くじに一等を求めるような淡く可能性のあまりに希薄な事態に対し、それでもなお「叶ってくれ!」と祈ったのである。
「代わりました」担当の部署と名前を名乗ると、「お尋ねの件ですが」

皆、それでも固唾を飲んで返事の一言一言、それこそ聞き逃すまいと息を殺し耳をロジャー・ラビット(ウサギが主人公の米国製アニメ)のように伸ばした。
「七件ございます。読み上げるのもなんでしょうから、ファックスでお送りしましょうか」

お願いしますと一応頼んだあと、矢野は、それが必要としている情報なのかを念のために確かめるべく尋ねた。ひとつは時期であり、もう一つは依頼者からなのか、だった。

時期も、先方からのパンフレット郵送依頼という点でも合致していた。
「おかしなことをお聞きします。どうして、そんな依頼を今も保存しておられるのですか」
「ご愛顧を賜ったお客様は当然宝石のように大切ですが、これからのお方にもお客様になって戴けるよう、当ホテルは最大の御もてなしを心掛けております」と、一警察官に対する宣伝も兼ねての答えが返ってきた。つまり、接触があった人間を客へと誘引するダイレクトメールを送るため、個人情報は大事に保存しているということなのだ。
矢野たちが優秀とはいえ、所詮は公務員である。乱立する梅田界隈のホテル競争。どれほどに熾烈な顧客獲得を繰り広げているか、厳しい事実を想定できなかっただけである。
だがデカとして有能な彼ら(バカ田もときに)。当然、犯人は他のホテルにもパンフを要求したと考えた。藤川は指示を受ける前に、各シティホテルの連絡先を画面に出していた。
十数軒を手分けし、対象となったホテルに依頼内容を告げた。それから二十数分後、
すでに送られてきていたXXホテルからの受信用紙の上に、新たに印刷された用紙が重なり始めた。その紙に六人が貪るように飛びついた。
全受信完了直後、各自が受け持ったホテルからの送信内容を、声を出して照合しだした。
矢野が秘かに想定したとおり、同じ住所へ郵送したことを示す記入がいくつかあった。
パンフ郵送を依頼したほとんどは、アトランダムに数軒をピックアップしホテル選択の資料としたのではないか。数軒のみピックアップした人物は、だからこの際除外した。

はたして、各人が読み上げたなかに、全てのホテルに依頼した人物の名前があった。「おお」刹那、異口同音の歓喜のどよめきで部屋が満ちた。難事件が、解決するのではとの期待と、府警察本部として雪辱ができるのではないかとの感慨がこもったざわめきであった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第九章  不連続だけれど連続性のある各殺人事件等の捜査に矢野係着手(前編)

死体発見は2012年四月十五日日曜日午前十一時過ぎ。死亡推定時刻は前日午後十時から十一時。同日午後七時半過ぎから八時半過ぎに摂った食事の消化状況や死斑の固定化・死後硬直の弛緩具合・皮膚や粘膜の乾燥具合・体温低下等を総合的に判断した結果だった。

そう、彼らが受け継いだ事件とは、エリート警部全裸絞殺事件、であった。
当時の本部長は息子の恥辱と事件の長期化に耐えられず(は、表向き)辞任引退し、捜査の最高責任者だった長野刑事部長は異動という名の左遷を余儀なくされた、その原因となった世間騒然のあの事件である。
「何でも構わんから忌憚のない意見を聞きたい。不思議に感じた点や疑問も大いに結構」調書を聞かせ終わった矢野は、とりあえず自分の見解は後まわしにすることに。「とにかく解決に向け、皆で頑張ろうやないか」やや陳腐ながら、思いのこもった決意表明であった。

すでに構築された信頼関係のお蔭で、皆も奮い立ったのである。

星野管理官は無言のまま、彼らの士気の高さに、満足げに笑顔で肯いていた。

星野と矢野を除き、事件にいちばん詳しい和田が口火を切った。「犯人は、なぜ左腕をカッターナイフで刺したのでしょうか」星野と矢野の意を汲んで、年下の五人に考える体勢をとらせると、「暴れたり騒いだりしたから、それを阻止するため?やろか。けどそれはないと思う。すでに手足の自由は奪われており、猿ぐつわをされてた可能性も高いからや」上司二人になり代わったつもりで五人を見渡しながら続けた。「猿ぐつわはまだやったとしても、ナイフで脅せば騒ぐのを止めるやろうし。むしろ刺すことで、大声を出させてしまうしな。ところで、両隣や向かい側の部屋の宿泊客は叫び声等を聞いてなかった。ここはやはり、猿ぐつわされてたとみるべきや。そう考えれば、痛めることで恨みを晴らしたかった、としか考えられん。ならば犯人は、丸害と過去に何らかの関係があった人物となる」
「なるほど。しかも相当な恨みを持ってる、ですね」西岡が感心して言った。
「けど、あくまでも仮説や。感心するには、ちと早い。恨みを晴らすのが目的やったとしたら、小さな疑問が湧き起こるんや。何で一カ所だけやったんや?しかも傷は、たったの2センチ強といかにも浅い」むしろ縦長に切り裂いた方が、痛みは激しいに違いないと。
なのにそうはしなかった。和田の言のとおり小なりとはいえ不思議であり矛盾でもある。
「人ひとりの命を奪うための計画まで立てて実行したほどの恨みやったとしたら、もっと傷つけてやりたい」そう思うのが人情だと、すでに情報豊富な和田は一般論を述べた。
「たしかに。怨恨が動機なら、何カ所も刺して思い知らせるでしょうね。…僕ならそうします」普段は冷徹な藍出だが、真直ぐな性格のせいで今は熱情家に変身してしまった。というのも、フェミニストでもあったからだ。弱い女性を守れない奴は男として失格だとさえ思っている。そんな藍出だから、加害者の女性は被害者から以前、心に相当のキズを負わされていたに違いない、そう考え、思わず熱い思いを吐露してしまったのである。予断に左右されているという意味で、人間としても捜査官としてもまだ若いといえた。
「おいおい、穏やかやないな」言ってはみたものの、星野はこういう藍出を嫌いではない。
「済みません。僕としたことが、つい」素直に首をすくめた。
ここまでは同じ推測の矢野が、弟分の軽い失態にはあとでお灸をすえることにし、「それで…」と先を促した。ところで、さすがに推理が速い。詳細を知って幾分も経っていない。
「眠剤の血中濃度と半減時間から」鑑識から得た知識だった。「また証言からも、ステーキハウスで飲まされた可能性が大。となると二時間前後の経過となり、丸害はまだ眠っていたはずです。またそうでないと、警察官たるもの、易々と手足を縛らせなかったでしょう」SMプレーを端から否定しているのだ。そして、このあとの仮説を提示する前に、犯人になったつもりで状況を想像してみたと述べた。「眠剤による睡眠から覚醒させるために刺したのではないでしょうか。なぜ復讐されるのか、殺されるのかを全裸にした警部にどうしても理解させたかった。反省や後悔を促し、死へのさらなる恐怖を味わわせるために」

矢野は肯きながらも、口を挟まなかった。睡眠薬の血中濃度等が微量だったのは被殺害時、すでに半減期を過ぎていたからだろう、にも同じ意見だった。
「つまり、刺したのは恨みを晴らすというより目を覚まさせるためで、絞殺によって怨念を晴らしたということですか」叔父の仮説を言い変えただけのバカ田君、感心しきりだ。
「入念な計画犯罪という点からも相当な恨みを懐いていた、となりますが。帳場は、そんな人物はいなかったと結論づけています」説得力のある仮説だと先輩に同調しながらも、藍出はその弱点を指摘した。批判ではなく、被害者に対する新たな角度からの徹底した身辺調査をしない限り該当者は出てこないと言いたいのだ。一理ある意見だった。
むろん逆の考え方もある。被害者の過去をもう一度洗い直すべきなのか、だ。なぜなら、帳場が徹底して洗い出したはずである。にもかかわらず、見落としていた可能性が残っているだろうか。仮にあったとして、その残り物に福があるというのか。あえて捜査し直すとなると、問題は捜査の方向性を定める着眼点であり、よほどの新たな切り口であろう。
なるほど難事件やな、そんな不具合な空気を察したのか、「こんなことを言ってはなんやが、捜査方針に偏りがあったと僕はみている」矢野が口を開いた。「が、今さらそんなことを言っても始まらん。ただいえるのは、だから見落としがあっても不思議やないということや。そこで、僕らは僕らなりの視点で探ってみようやないか」と、士気を鼓舞した。

信頼する指揮官の言に、貧乏くじ的見方は雲散霧消していた。

さらに和田は、猿ぐつわの目的について被害者の左腕を刺したときに大声を発させないためだったとの当然の見解をとった。それは、刑事部長が交代したのを機に、縮小した捜査本部が、実家に居を戻していた被害者の新妻に確認をとった結果、和田が推測したとおり警部の下着と確定したからだ。犯人が用意した新品ではなかったわけで、やはり変態プレー云々は見当違いだったとした。被害者は昏睡の間に下着を脱がされたうえ、口に押し込まれたとみて間違いないだろう。
つまり、娼婦を犯人像とした長野前刑事部長の憶測は邪推だったと断言した口で、   以下は自分の憶測だとの断りを入れ、「激痛で目覚めた被害者に、犯人は汚れたパンツを含ませていると告げることで恥辱を倍加させたんやないやろうか」とした。この手段といい、下半身を曝したまま放置しさらに恥態をネットのウェブサイトに掲示したことといい、被害者への恨みには、性が絡んでいるのではとの想像を披歴したのだった。

ただこの憶測の欠点は、前の帳場が被害者の学生時代からの歴代女性を捜査した結果、動機を見つけられず一応のアリバイも皆にあり、性に絡んだ女性群から被疑者を見出せなかったことだ。だからといって、帳場に見落としがなかったと言い切れるわけではないが。
たとえば恨みを持つ女性が捜査線上外にいた、という可能性だ。あるいは、露見しなかった動機を持つ犯人が歴代女性のなかにじつはいた、等である。
「ところで」と岡田。「白のハンカチを顔に被せた意味を我々はどう考えたらいいのでしょうか」死に顔を何かで覆うという行為は情愛を持った犯人がしがちで、恥態をサイトに掲示した行為とは明らかに矛盾するといいたいのだ。和田が判断に窮した矛盾である。
「お前はどう考える?」叔父の和田が、逆に問うた。
「ええっ?」奇声をあげたものの、頭の上がらない叔父に、「質問したのはこっちや」ともいえず、錆かけた脳の歯車を軋ませながら動かしてみた。「そうですね、死相の醜さを曝すのは可哀そうだと…」と。バカ田の、錆の回った脳にはやはり油を注す必要がありそうだ。
「下半身を曝させているのにか」と、あえてわかりきった事実を浴びせた。それだけに、手厳しい一言となった。容赦しなかった叔父の心は、――矢野係のなかで、せめても半人前くらいの戦力にはなってほしい――だった。

辛すぎるはバカ田君、心で舌打ちしながらもしょぼくれた犬のように黙るしかなかった。
ところで和田、次の発言は矢野警部にこそ聞いてほしかった。「白いハンカチは“男女の別離”を意味すると考える向きもあります。が、醜く歪んだ死相を犯人は単に見たくなかった。そのために予め用意していたのではないでしょうか。人の死相のなかでも窒息死はかなり醜穢(しゅうわい)ですしね。それからもう一つ。全裸を、特に下半身露出を強調する、そのための演出だったとも。事件解明にはあまり関係ないかもしれませんが」

たしかに憶測程度には違いないが、間違ってはいないだろうと全員納得した。
「あのぉ、わからないことが…、いいでしょうか」今度は藤川が発言した。「なぜタオルで絞殺したんでしょう?カッターナイフで頸動脈を切るほうが事は早く済むでしょうに」
「それやと体半分に相当の返り血を浴びてしまうぞ」藍出がすぐさま、欠陥を指摘した
「ですが、全裸か下着姿で切れば、浴びた返り血をシャワーで洗い流せますし」
「腕を刺した程度の血痕と違って、身体ごと洗い流さなあかん。それでは余分に時間を使ってしまう。腕を刺した程度なら洗面所で済む。犯罪者心理からすると、犯行後は少しでも早く現場から離れたい、や。計画犯罪ならば、よけい、そうするやろ」藍出も手厳しい。
引き継ぐように、「憶測やが、少しでも時間を掛けて苦しませたかったからや。絶命までに数分は掛かるし、窒息死というやつは相当苦しいらしい」和田が答えた。有意義に過ごした午前中のおかげで、思料する時間があったからだ。「ついでやが藤川、タオルを凶器にしたのは細い紐よりも掴みやすいぶん、非力な女性でも力いっぱい絞められるからや」
しかし、絞殺を殺害手段として選択したもう一つ理由が窒息死にあったことまでは、和田にも矢野にもわからなかった。それを知るための情報をまだ誰も得ていなかったからだ。
「ところで和田さん」藍出はさらに先輩の見解を聞きたかった。「犯人はなぜ、眠剤を使用したのでしょう。眠っていては性交渉など…」藍出らしからぬ愚問に思えた。
部下たちのバカな質問に少し苛立ちを覚えた和田は最後まで言わせず、「どうやら帳場の捜査方針を引きずってるみたいやな」と苦言を呈した。「暗礁に乗り上げたんは、前提が間違おてたからや。ズバリ言うわ、抵抗させんため…」に続けて、当たり前のことを聞くなと口から出かけた直後にピーンと、藍出が発した質問の意図を察した。“犯行をスムーズに済ますためだった”、などは承知したうえでの問題提起だったのだ。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第八章  難事件捜査に携わる矢野係(後編)

「みんな集まってくれ」矢野が、五人の部下に声をかけた。「欠員の補充が決まった。入ってきたまえ」矢野はせっかちな質で、「えっ」とのリアクションをする間を皆に与えなかった。ただ、彼らはそんなやりかたに慣れていた。
警部補へと昇進した部下平野の突然の異動(同じ捜査一課の別の係で定年退職した警部補の補充要員として乞われた)で出来た欠員の補充に、ふた月近く掛かったのである。
一斉に、ドアに視線が注がれた。
「藤浪と申します」入ってくるなり敬礼した。階級では下の岡田・藤川・西岡の三人に対しても、年少者として礼を払ったのである。きびきびした口調で簡潔な自己紹介をし、「よろしくお願いします」で完結させた。
部下の三人は、キャリア組でなりたて警部補という存在を珍しい生き物でも観察するように、じっくりと検分の眼で見つめていた。なにせ、キャリア組の警部補と身近で接するのは初めてなのだ。むろん彼らとて無礼は承知の上なのだが、それでもつい。
ちなみに和田だけが、自己紹介を聞いておやっという顔をした。渡辺直人溺死を捜査した警部補と同姓で、しかもそう多くない苗字だからだ。訊けば、やはり同一人物であった。
「今から捜査会議を行う」星野の部屋で聞かされた、ある事件を解決するようにと府警トップから指令が下された件について、だった。迷宮入り寸前となったがゆえに、強行犯でも断トツに優秀な矢野係を最後の砦と考え指名してきた、そんな裏事情があったのである。
大阪府警察本部長が吐露した「星野管理官を総括に据えた少数精鋭の矢野係に対し、難事件の解決を期待している」を、そのまま皆に伝えたのだった。
まずは情報だが、地取りでかき集めたものが玉石混淆なれど溢れるくらいにある。
あとは、幾多の難事件を解決してきた星野・矢野の名コンビがそれらを快刀乱麻で選り分けるであろう。そのうえで、彼らとその部下たちならば、闇に閉ざされた真相に強烈な光を当てつつ事件を解決してくれるのではないか、新本部長に就任して半年余りの村山知憲は、二人の高名を知るにつけ期待し始めたのだった。
しかし矢野にとっては、そんな期待はありがたくもなければ嬉しくもなかった。むしろ迷惑なのだ。たしかに、凶悪事件を憎み、その解決のためにデカになったのだったが。
それにしてもと、重く圧しかかる期待には閉口する。が、かといって警察の威信をこれ以上崩壊させるわけにもいかない。石に噛りついてもとの決意が、尋常でない緊張を、矢野の心に隆起させたのだろうか。むろん緊張は、指名された以上は犯人を逃さない、――必ず法の裁きを受けさせたる――との強い覚悟の表れでもあった。
事件の概要を説明する矢野の緊張感が皆にも伝播していった。さもあらん、暗礁に乗り上げた困難な事件を引き継いだのである。事件の名称を聞いた刹那、誰もが嫌がる貧乏くじだと、口には出さないが一人残らず実感した。
その事件、和田が星野から渡された調書の中にもあったものだった。星野の部屋を訪ねたあとで思わずした予測は的中してしまった。ただし、矢野係にまさか数時間後襲来するとはさしもの彼も思惑が外れた。それにしてもと和田、因縁めいたものを感じ背中がゾクっとした。何かに憑かれでもしたかのように、自ら調べ始めた事件だったからだ。

そしてこののち、さらに因縁と因果が連続して続くことになろうなどとはこのとき、さすがに知ること能わざるなり、であった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第八章  難事件捜査に携わる矢野係(前編)

午後一時半過ぎ、矢野警部がデカ部屋に入ってきた、星野警視とともに。
じつは和田が退出した二時間後、星野の執務室に矢野が呼ばれ、ある指令を受けたのだった。府警本部に到着後すぐ部屋に来るようにとの、星野からのメールが入っていたのだ。
二人とも、否、矢野の色白で甘いマスクは特に緊張し、やや蒼ざめていた。村山本部長からの名指しといえる指令を受けたのだが、そのあまりの困難さが蒼白にさせたのだ。

そんな三十分前。管理官は矢野に説明し始めたのだった、貧乏くじに近い指令の。
ある事件を、引き継ぐ形で捜査し解決するというものであった。「ついては、事件の内容を提示するから」と、まずイスに掛けさせた。「例によって、聞きながら調書のコピーに目を通してくれたまえ」星野も座ると概要を説明し、そのあと質疑応答となった。管理官は、調書を持たずに矢野の疑問に答えた。詳細にまで事件を諳(そら)んじていたのはさすがである。
最後に、新本部長より、多少のことは眼をつむるとのお墨付きをもらったとつけ加えた。
多少のこととは、経費や人員導入量の過多の認可を指すだけではなかった。捜査方針や手法の自主性をも含んでいるとのお墨付きであった。そのかわり、「何をおいても事件解決が最優先だ」と、星野は府警本部のトップに釘を刺されたのである。
談合の詰めとして、二人にとっては恒例の捜査方針を話し合ったのだった。

その、星野刑事部捜査第一課管理官だが、百九十センチ近い上背でがっしりした体形、なおかつ太い眉と眉間のキズが睨みをきかす強面(こわもて)だ。だけでなく、切れ長の眼が強烈でしかも鋭い光をひとたび放てば、暴力団員や凶悪犯でさえ縮みあがってしまう、ほどである。ところで晩婚の彼だが、家に帰れば愛妻家で子煩悩、やなんて、誰が想像できるだろう。
働き盛りの四十四歳。準キャリア組の中では、出世の速さは記録的だ。上層部も彼の優秀さを認めている証左である。ただし彼は、出世にはさほど興味を持っていなかったが。
そんな星野が、今が潮時と携帯で呼びつけた。すると待機していたのか、一人の青年が入ってきた。敬礼しつつまずは名前をはきはきと、次に階級を名乗った。警部補だった。
ひとつの係に警部補が三人も在籍するのは異例中の異例やと、星野は笑った。

その笑いの奥を矢野は読み取っていた。加えて目の前の警部補と自分との位置関係も。
それはキャリア組警部補の、彼を鍛え上げる教官役への信頼の笑みであった。和田も藍出も自分の下で鍛えたという矢野の秘かな自負を、さすがの星野は見抜いていたのだ。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第七章  走る空間にあって、犯罪を許さない矢野たち(後編)

午後一時半過ぎ、矢野警部がデカ部屋に入ってきた、星野警視とともに。
じつは和田が退出した二時間後、星野の執務室に矢野が呼ばれ、ある指令を受けたのだった。府警本部に到着後すぐ部屋に来るようにとの、星野からのメールが入っていたのだ。
二人とも、否、矢野の色白で甘いマスクは特に緊張し、やや蒼ざめていた。村山本部長からの名指しといえる指令を受けたのだが、そのあまりの困難さが蒼白にさせたのだ。

そんな三十分前。管理官は矢野に説明し始めたのだった、貧乏くじに近い指令の。
ある事件を、引き継ぐ形で捜査し解決するというものであった。「ついては、事件の内容を提示するから」と、まずイスに掛けさせた。「例によって、聞きながら調書のコピーに目を通してくれたまえ」星野も座ると概要を説明し、そのあと質疑応答となった。管理官は、調書を持たずに矢野の疑問に答えた。詳細にまで事件を諳(そら)んじていたのはさすがである。
最後に、新本部長より、多少のことは眼をつむるとのお墨付きをもらったとつけ加えた。
多少のこととは、経費や人員導入量の過多の認可を指すだけではなかった。捜査方針や手法の自主性をも含んでいるとのお墨付きであった。そのかわり、「何をおいても事件解決が最優先だ」と、星野は府警本部のトップに釘を刺されたのである。
談合の詰めとして、二人にとっては恒例の捜査方針を話し合ったのだった。

その、星野刑事部捜査第一課管理官だが、百九十センチ近い上背でがっしりした体形、なおかつ太い眉と眉間のキズが睨みをきかす強面(こわもて)だ。だけでなく、切れ長の眼が強烈でしかも鋭い光をひとたび放てば、暴力団員や凶悪犯でさえ縮みあがってしまう、ほどである。ところで晩婚の彼だが、家に帰れば愛妻家で子煩悩、やなんて、誰が想像できるだろう。
働き盛りの四十四歳。準キャリア組の中では、出世の速さは記録的だ。上層部も彼の優秀さを認めている証左である。ただし彼は、出世にはさほど興味を持っていなかったが。
そんな星野が、今が潮時と携帯で呼びつけた。すると待機していたのか、一人の青年が入ってきた。敬礼しつつまずは名前をはきはきと、次に階級を名乗った。警部補だった。
ひとつの係に警部補が三人も在籍するのは異例中の異例やと、星野は笑った。

その笑いの奥を矢野は読み取っていた。加えて目の前の警部補と自分との位置関係も。
それはキャリア組警部補の、彼を鍛え上げる教官役への信頼の笑みであった。和田も藍出も自分の下で鍛えたという矢野の秘かな自負を、さすがの星野は見抜いていたのだ。

「みんな集まってくれ」矢野が、五人の部下に声をかけた。「欠員の補充が決まった。入ってきたまえ」矢野はせっかちな質で、「えっ」とのリアクションをする間を皆に与えなかった。ただ、彼らはそんなやりかたに慣れていた。
警部補へと昇進した部下平野の突然の異動(同じ捜査一課の別の係で定年退職した警部補の補充要員として乞われた)で出来た欠員の補充に、ふた月近く掛かったのである。
一斉に、ドアに視線が注がれた。
「藤浪と申します」入ってくるなり敬礼した。階級では下の岡田・藤川・西岡の三人に対しても、年少者として礼を払ったのである。きびきびした口調で簡潔な自己紹介をし、「よろしくお願いします」で完結させた。
部下の三人は、キャリア組でなりたて警部補という存在を珍しい生き物でも観察するように、じっくりと検分の眼で見つめていた。なにせ、キャリア組の警部補と身近で接するのは初めてなのだ。むろん彼らとて無礼は承知の上なのだが、それでもつい。
ちなみに和田だけが、自己紹介を聞いておやっという顔をした。渡辺直人溺死を捜査した警部補と同姓で、しかもそう多くない苗字だからだ。訊けば、やはり同一人物であった。
「今から捜査会議を行う」星野の部屋で聞かされた、ある事件を解決するようにと府警トップから指令が下された件について、だった。迷宮入り寸前となったがゆえに、強行犯でも断トツに優秀な矢野係を最後の砦と考え指名してきた、そんな裏事情があったのである。
大阪府警察本部長が吐露した「星野管理官を総括に据えた少数精鋭の矢野係に対し、難事件の解決を期待している」を、そのまま皆に伝えたのだった。
まずは情報だが、地取りでかき集めたものが玉石混淆なれど溢れるくらいにある。
あとは、幾多の難事件を解決してきた星野・矢野の名コンビがそれらを快刀乱麻で選り分けるであろう。そのうえで、彼らとその部下たちならば、闇に閉ざされた真相に強烈な光を当てつつ事件を解決してくれるのではないか、新本部長に就任して半年余りの村山知憲は、二人の高名を知るにつけ期待し始めたのだった。
しかし矢野にとっては、そんな期待はありがたくもなければ嬉しくもなかった。むしろ迷惑なのだ。たしかに、凶悪事件を憎み、その解決のためにデカになったのだったが。
それにしてもと、重く圧しかかる期待には閉口する。が、かといって警察の威信をこれ以上崩壊させるわけにもいかない。石に噛りついてもとの決意が、尋常でない緊張を、矢野の心に隆起させたのだろうか。むろん緊張は、指名された以上は犯人を逃さない、――必ず法の裁きを受けさせたる――との強い覚悟の表れでもあった。
事件の概要を説明する矢野の緊張感が皆にも伝播していった。さもあらん、暗礁に乗り上げた困難な事件を引き継いだのである。事件の名称を聞いた刹那、誰もが嫌がる貧乏くじだと、口には出さないが一人残らず実感した。
その事件、和田が星野から渡された調書の中にもあったものだった。星野の部屋を訪ねたあとで思わずした予測は的中してしまった。ただし、矢野係にまさか数時間後襲来するとはさしもの彼も思惑が外れた。それにしてもと和田、因縁めいたものを感じ背中がゾクっとした。何かに憑かれでもしたかのように、自ら調べ始めた事件だったからだ。

そしてこののち、さらに因縁と因果が連続して続くことになろうなどとはこのとき、さすがに知ること能わざるなり、であった。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第七章  走る空間にあって、犯罪を許さない矢野たち(中編)

仰向けに倒れた変死体だったが、行政解剖はされなかった。監察医制度のない府下だから設備的・人的に簡単ではない、が一つ目の理由。公費削減のため、が二つ目。しかしいちばんは、検視担当官が事故死と見立てたからだ。それは現場に争った形跡も着衣の乱れもなく、強く押されてできる圧迫痕もなかった由。また、指紋から断定された女性の荷物や傘が階段に散乱していた等による。両手がふさがり手すりを掴めなかったとみたのだ。
当該階段や廊下にはPタイルが貼られていた。誰かの傘や荷物等から滴り落ちたのか、激しく降っていた雨の滴とPタイルのせいで階段はたしかに滑りやすくなっていた。しかも二段ぶん、滑り止めがとれてしまっていたのだ。となると、
事故の可能性大だが、それでも検視と並行して現場での検証も行われた。検視の見立て違いということもあるうる。上の判断で、念のため犯罪性も疑っての検証となったのだ。
捜査員たちは、犯罪行為があったとして、想定できるケースがあげてみた。
1殺意の顕著な犯人が待ち伏せをし、不意打ちで階段から突き落とした場合。だが、今回のは当たらない。いきなりの犯行ということはそれまでに二者間でそれ相応のトラブルがあり、由って加害者の姿を確認した被害者は、殺意までは察知しなくても何らかの危険を感じたに違いない。非力な女性ならなおさらである。具体的にはこうだ。階段を上っていた被害者が、玄関前で待ち伏せしていたその加害者に気づかないはずがない。すぐさま危機を察知し逃げようとする。その上体を押され転落した、となる。だが、それだとうつ伏せ状態になってしまう。しかも体に圧迫痕はなかった。ところで被害者に対する加害者、状況からまだ手が届かない距離にあったはずだ。道具を使えば押し倒しは可能だがそれでは圧迫痕を残す。つまり上記の設定だと、死体の状態を説明できなくなるのだ。
2百歩譲って凶暴な面相を隠し、被害者は加害者を認知できなかったとしよう。だが玄関前で佇んでいる人物を初めて視線が捉えた刹那、被害者はまだ階段を上る途中だったわけで、不審者が自分の部屋の前にいれば、若き女性ならなおさら不審に思ったはず。歩を停めて誰何するだろうし、返事がなければ警戒し逃げる体勢を取ったはずだ。上記同様、この時点では、加害者が手を伸ばして届く距離に被害者はまだいない。水平距離もだが、高低差にしても1メートル以上離れているからだ。こう、情景を推測すれば一目瞭然、逃げようと背を向けていたであろう女性が仰向けで転落するなどありえないのである。
ところで玄関前に真新しいタバコの吸殻が落ちていれば、もしくは傘を立て掛けたことでできる小さな水溜りが残っていれば、若くとび切り美しい彼女を待ち伏せする変質者がいたとも考えられるが、その可能性はないとした。吸殻はおろか、ガムやペットボトル等の遺留品もなく、ペットボトルを置いた痕跡(結露が作るリング)等もなかったからだ。
ちなみに、彼女の部屋の玄関前と一階までの階段や踊り場だけが明らかにきれいだったのだが、それは彼女が掃除していたからであろう。逆に、他の階段や廊下等に綿埃が転がっていたのは、大家が、管理人もしくは清掃員を雇っていないからに違いない。その二階の廊下だが、少量の滴は落ちていても、人が佇むことによってできる量の水滴はなかったのである。あれば、階段からは死角となる廊下に犯人が潜んでいたとも考えられたのだが。

3犯人の殺意が皆無か微小だった場合。たとえば元カレかストーカーが待ち伏せしていて結果揉み合いになり、はずみで転落したケースである。しかしながら、これだと何らかの痕跡を残したはずだ。一つは言い争う声だが、今回、それを聞いた住人はいなかった。さらにだ、揉み合った場合にできやすい概ね三種類の痕跡。それが、あるかないかだ。
①着衣に、破損やボタンの損失などがほとんどなかったという状況。
②Pタイル面にも痕跡は特になかった。争った場合、足を踏ん張る等により靴底と床面に強い摩擦が発生。結果、広義で“げそ痕”とも呼ばれる靴痕、今回のような若い女性のケースだとヒールの痕跡を残すことが多くみられる。が、それもなかった。
③手指の爪に、襲撃者の皮膚片や相手の服を掴んだときの糸片もなかった。
つまり、争ったことを示す形跡は皆無だったということだ。
ところで捜査員のなかには、争った痕跡がなかったのは両手が傘やバッグ等の荷物によってふさがれていたからでは、との見解を示す者もいた。
だが、はたしてそうだろうか?身の危急の場合、荷物を放りだしてでも防御するのではないか、とも。加えての否定意見。襲われた瞬間、裂帛(れっぱく)の声をあげたにちがいない、だ。
ゆえに、検視の所見もそうだったように、誤って転倒した可能性が極めて大きかった。
死体と散乱していた所持品の状況から憶測し、肩ではなく左手にショルダーバッグを、利き手である右手(左手首の腕時計から判断)に雨に濡れた折りたたみ傘(急な雨に遭い、バッグから出したものであろう)とコンビニのレジ袋を持っていたようである。中は一人前のコンビニ弁当だった。女性は、手すりが左側に設備されている濡れた階段を上っていて足が滑り体のバランスを崩した時、不運にもその段の滑り止めははがれていた。危うい体勢を立て直すべく手すりを掴もうとしたが、左手はふさがっていたのだ。一瞬のことであり、しかも利き手ではないぶんバッグを手放すという動作が遅れたのではないか。
靴は、ヒール高約5センチのパンプスだった。ベルトや留め金がないせいか、左足の方だけ脱げていた。左足裏に踏ん張ろうとする負荷が掛かったために脱げたのだとすると、左足が階段に着いたときに滑った可能性が高い。利き足でなかった場合、踏ん張る力が少し弱かったかもしれない。そして不運にも、右足はそのとき宙に浮いていたのではないか。
運の悪さはときに重なるものだと捜査員は思った。仮にヒール5センチのパンプスではなくスニーカーだったなら滑らなかったのでは。あるいは、もし朝から雨模様だったならば、滑りにくい靴を履いて出掛けたかもしれなかった。
以上により、捜査員たちは犯罪の可能性はまずないとみた。それでも念のため地取りも行なった。駅からの帰路、コンビニに寄ったとみて店の防犯カメラをチェックしたところ、彼女が映っていた。それで不審者の有無を確認したが、そんな形跡はなかった。映像に刻まれた時刻は十時三十五分。女性の足でマンションまで五分。おかげで、死亡推定時刻は午後十時四十分で固まったのである。住人が聞いた転落時の叫びの時刻とも符合していた。

にもかかわらず捜査員たちは困惑してしまった。なぜならその声や音を聞いた住人が、耳にした時点では転落に由った声や音とは認識していなかったからだ。人が階段から転落したというのにだ。捜査員は、それなりの声や音、振動を感知したはずだと念を押した。
「酒飲んでたしなぁ。それに半分寝かかってたし」男は首筋をポリポリと掻いた。
言いわけがましいと感じさせた口、なるほど酒臭かった。
「けど感じひんかったんやない。まさか、あれが転落音やと思て聞いてなかったからわからんかっただけや。聴き分けるテストならその気で耳澄ましたけどな。それに何ちゅうても、玄関前の大通りは高速に通じてるさかい、夜遅おても大型トラックがしょっちゅう通りよんねん、それも毎晩やで。そやさかい、騒音と振動に慣れてしもたんや。二つは違う種類の音と振動やし似てへんて言いたそうな顔やな。なら聞くけど、転落音やとあんたらそれを聞いた瞬間に確信できるんか?そやろ、できひんやろ。それにワシ、うつらうつらしてたしなぁ。そやのに、わざわざ何の音か確認しに部屋から出ていくなんて無理や。ごめんな、まんが悪かったちゅうこっちゃ。けどええ加減なこと言うよりましやろ」法律違反をしたわけではもちろんない。道義上も、非難されないかもしれない。ただし、酔っていたとはいえ同情の欠片もみせなかったこの人は、他人の死にあまりに鈍感といえた。
一番近くで聞いた人間がこれだ。離れた部屋の住人は、なおさら当てにならなかった。

「それでは転落音の直後、逃げるようにして階段を駈け去る足音は聞きませんでしたか」

男は、首を傾げるだけだった。
捜査員は勤務先にも当たった。大阪市北区梅田にある、食事を提供する二十四時間営業のチェーン店で、午後五時から九時半までのパート勤務であった。
定時に着替え、通勤帰路時間三十分弱。遅くとも十時すぎには帰宅しているはずだった。それが当夜は、帰途に一時間以上かかったわけだが、それは電車の二十五分遅延が原因であった。約二時間続いた激しい雷雨がダイヤを乱したわけだが、時間経過に鑑み、コンビニに寄ったことを除けば、勤務先からまっすぐ帰ったとみていい。どこかの店で酒類を飲んだ形跡はないということだ。それに雷雨の中、若い女性がまさか、自販機で“発泡酒”でもあるまいし、ならば飲酒(薬物をも含む)による転落とは考えにくいではないか。
捜査員は、彼女のもうひとつの勤務先、午前十時半から午後二時半までの別の飲食店にも当たってみた。結果、
両勤務先において、勤務態度は真面目でトラブルを起こすようなタイプではなかったと異口同音。しかし、どこか翳(かげ)があるような暗い感じで、人を避けているようだったとも。
それぞれにおける男性アルバイター数人が各人機会を狙って仲良くなろうと近づいても、会話として成立しなかったと述べた。ことに、自分のことに関しほとんど語らなかったというのだ。嫌われているわけではないが、周りからは浮いた存在だったらしい。
同僚のなかには興味を持って彼女の異性関係について尋ねた女性もいたが、意味不明に首を横に振るだけだったと。「触れてほしくないんやな感じた」と同僚は述べた。触れてほしくないという意思表示だったとすると、元カレやストーカーに悩んでいた可能性もある。
ちなみにこの女性、矢野は失念していたが菅野拓子という名前であった。
さて、ここで、死体発見当夜に時間を戻すとしよう。
男女各一名の捜査員は念のため、家の中も調べたのだった。若い女性にしては、写真を収めたアルバムはなかった。パソコンにも携帯にも写真を取り込んでいなかった。女性捜査員が写真を捜したのは、そこに男とのトゥーショットを見つけ出すためだったのだが。
書棚にも抽斗(ひきだし)にも日記帳はなかった。だがパソコンにブログが残されていた。ただし公開する目的のブログではなく、単なる記録(ログ)として使っている純粋な日記であった。

読み始めた女性捜査員。知りたいのは恋人や元カレの存在だった。しかし、恋愛に悩む若き女性を髣髴させる記述は全くなかった。ただ慮外だったのが、“自分は幸せになってはいけない”と彼女が思っていたことだ。曰く、【私には資格がない】【値しない】さらには、【身も心も血で汚れた私だから、一生かけて贖(あがな)わなければならない】等々の記載がそれだった。【血で汚れた…】は何かの比喩だろうか。直截にとれば犯罪者となってしまうが。
しかし後者の解釈は短絡的だと思い、とりあえず読み進んだ。ところが最後近く唐突に、【好意を寄せられること自体迷惑。というより何だか怖い。たとえ社会的地位や経済力があったとしても】との記述にぶち当たったのである。具体的事実を記したものか、あるいはこれからの事態を予測してのことなのか?
結局はそれを、文脈からも地取りからも掴めなかったのを、捜査員は残念がった。

男性捜査員はまず洗面所に向かった。歯ブラシは一人分のみ。洗面所はきれいに掃除されていた。彼女のと思われる黒髪が一本、マットの裏に付着していただけだった。ブラシに、短髪や染めた髪の毛がまとわってもいない。
それからトイレの便座だが、ふたがなされていた。洗濯機の中、そしてタンスにも、男物の下着はなかった。その他食器等、どこを調べても男っ気は一切なかったのである。

翌朝のこと、遺体確認のために兵庫県豊岡市からやって来た両親にも異性の存在について尋ねてみた。
しかし弱々しい声で全く知らないとのみ。悲痛を懸命に堪え、そして忍んでいる両親の、ことに母親の泣き腫らした瞼が痛々しかった。
結局、男の確たる存在どころか、陽炎(かげろう)のような不確実すらも見出せなかったのである。
翌日、事故死で処理された。殺人事件として捜査するには、それを匂わせる客観的事実が不足だと、総合的にみてそう判断が下されたのである。
「今聞いてみて、改めて思うことやけど、ほんまに事故かなぁ」親父さんがポツリ洩らした。「いずれにしろ、親御さんはたまらんやろうなぁ」憐憫(れんびん)の情がこもっていた。。
「けど…、殺人やったとしたらもっと気の毒やわ」元義母は涙ぐみ、小さくすすりあげた。
「もちろんそうやが、もし殺人ならせめても、犯人が捕まらんと…」娘ひとりの、しかも病死ですらこれほどな悲嘆なのにとの実感。ゆえに、他人事とも思えず、つい目頭を押さえたのだった。愛娘の命日だから感傷的になっているのでも、どうやらないらしい。
あえていえば、事故とは思えない親父なりの憶測と”勘”が働いているからだった。

大切な人を失う辛さを知悉する矢野も、二人の会話を聞き、沈痛な表情になった。
しこうして、三人は押し黙ってしまった。
いかばかりの時間が流れただろうか。「事故を疑う理由やけど、ないことはないんや」徐に、親父さんが訥々(とつとつ)たる口調で自論を展開し始めた。「若い女性が、いつもより三十分近く遅うなった夜分に帰宅した。それも防犯カメラが設置されていないマンションにやで。用心しながら、一段一段階段を上るんとちゃうやろか。ことによると変な奴がおるかもしれん、そう、いつもより神経を研ぎ澄まし気ぃつけて上ったと、僕はそう思うで。というのも、近頃は何かと物騒や。実際いろいろと事件が起こってるさかいな。だとしたら、いくら階段が濡れてたとはいえ転落するかな、よほどに不注意な女性でもない限り」

素人なれど一理あり!じつは矢野も、疑惑の人影を同様の推測のなかにみたのだった。
「それにしても若いのに何で正社員やなくパートやったんやろう。今日(きょう)日(び)、確かに正社員は狭き門やけど」経済的にも大変やったやろうと、いずれにしろ気の毒に思ったのである。

彼には、親父さんの想いが痛いほどにわかった。まして矢野一彦は、それを天職に!と誓ったデカだ。もし殺人ならば、犯人を野放しにすることなどできようはずがない。
とはいうものの、組織のなかで勝手な捜査はできない。それが現実なのだ。しかし…。

やがて矢野は、いつもながらの親父さんの直感力にあらためて恐れ入ることとなる。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第七章  走る空間にあって、犯罪を許さない矢野たち(前編)

和田が星野の執務室にいたころ、一台の車が大阪市内へ向かっていた。
運転しているのは矢野警部で、死別した妻の両親と、祥月命日の墓参りの帰り行程にいた。もっとも今は警部ではなく、プライベートな一個人の立場であったが。
「お疲れさまでした」俳優の阿部寛の若いころに似て眉目秀麗の矢野は、後部席に座る二人に、犯罪者には掛けることのまず無い温和な声でひとこと言った。
短かったが、心がこもっていたことは二人に通じた。
「いや…、一彦君の方こそ」車内のバックミラーの中の元義理の息子に、眼で謝意を伝えた。愛娘の貴美子から初めて紹介されたとき以来、“一彦君”と呼んでいる。息子もほしかった夫婦にとってはそのとき、本当の愛息を授かった、そんな想いが心を満たした。特に、長い居酒屋経営で人を見る眼には自信のある親父は、一発で気に入ったのだった。

矢野も、優しかった両親にどこか似ている二人に、心の底から甘えることができた。
その辺りの事情も含め理解してくれる現在の妻の真弓。寛容な質で、前の家族との付き合いを許してくれてもいる。矢野は心底から感謝しつつ、できた女房の真弓にも甘えているのだ。その代わりといってはなんだが、精一杯の優しさで抱擁しているつもりである。

貴美子の母親は目を閉じ深く頭を下げた、かけがえのない存在の矢野に対し。
「それにしてもあれから丸四年、早いもんやな」親父(矢野はどこか甘えるようにいつも“親父さん“と呼んでいる、貴美子の死後も変わることなく)のこの言葉、毎年のことだが感慨深い。永久(とわ)の別れから何百回も吐(つ)いてきた大きく静かなため息が三人を包みこんだ。一人っ子の、短い闘病の末のあっという間の死であった。諦め切れなくて当然だった。

ちなみに、夫婦は三十年以上、大阪市内で居酒屋を営んでいる。
接客をする仕事中とは違い、私生活では物静かな母親があらためて礼を言った。「お忙しい身なのにわざわざ…。本当にありがとうございます。あの子はほんとうに幸せ者です」
「たしかに…そうやな。毎年こうやってあの子に会いに行ってもらって」
「何をおっしゃいます」とだけ言った矢野は、あとを呑み込んだ。――こんな僕に連れ添ってくれ支えてくれた貴美子に、せめてもできることです。でもできることならもう少し、いやもっともっと生きていてほしかった――と。だが、日頃の想いを口にすれば、二人は喜びもするだろうが、死の悼みからかえって苦しませることにもなると知っていたからだ。
「それもこれも、今の奥様のおかげやし。ほんま、感謝しないと」
「そのとおりやな。前妻の墓参りを許してくれる女性ってなかなかいてないやろうし」

現夫人の真弓に対しても謝辞を忘れない夫婦であった。

高速を安全運転で走行する矢野は、時折バックミラーに視線を向けながら黙って聞いている。安全運転は警察官としてだけでなく、この大切な、矢野が少年期に殺された、優しかった両親を髣髴させる人たちを事故に遭わせるわけにはいかないからでもあった。万が一があれば貴美子を悲しませることになる。それだけは避けなければならなかった。
「ところで一彦君」できれば養子縁組をし、法的に息子になってほしいとの念願を心に潜ませているが、いまだ切り出せないでいる親父であった。仕方なく別の話になった。
「事故や殺人などで若い女性が亡くなると、娘を失った身としてはことのほか胸が痛くなる。例えば二年近う前のことやが、ナイヤガラの滝での転落死。それと一年ほど前には、別のお嬢さんが自宅マンションの階段を転げ落ちて…」搾り出すような言の葉はここで千切れた。苦しいのである。しかしある思いから気を立て直すと続けた。「これはわしの勘やけど、二人は姉妹やなかったかと思うねん。どちらもええと…それほど多くない苗字やったんや、確か。なんちゅう苗字やったかなぁ…。あかん、思い出せん」結局、記憶は蘇ってこなかった。「それにどちらも二十代で年も近かったからな…、ああ…」溜め息をついたのは、憐憫が心を支配したからだ。「もし姉妹やったら親御さんの嘆きや悲しみは如何ばかりやろか」切歯しながら、「それを思うと、こっちの心も千々に乱れて息苦しゅうなる」子供に先立たれた親の悲痛が、表情にも声色にも滲んでいた。
普段、ニュースを見ない元義母は「えっ!またそんなことが…」あとは言葉を呑んだ。が、こちらもいかにも辛そうに沈んだ声であった。

仕事柄、詳細を知っていた。が、「話を変えませんか」とても話す気にはなれなかったのだ、せめても祥月命日のこの日だけはと。それで不明にも、いい加減に聞き流していたのだった。本部に戻ればイヤでも“死”と向き合わなければならない立場である。
なんとなれば、凶悪犯罪と立ち向かう仕事を選んだからだ。それは、無惨に殺された、忘れがたき両親への供養のためであり、否、今はこの世から悲劇を失くすためであった。むろん理想にすぎず実現困難だと、いや不可能に近いと頭ではわかっているのだが、それでも無為では生きていけないのだ。また、生きている意味さえ貧弱になるではないかと。
星野も藍出も知っていることだが、未だに憎い犯人は捕まっていない。
それどころかとうに時効成立で、もはや罰することもできなくなっていた。そういうわけで、両親殺しの犯人を見つけ出すために、仕事に邁進しているわけではなかった。
もっとも、警察官に成り立てのころはそうではなかったが。
「僕らに気を掛けてくれるんは嬉しいけど、あの子も、この世から不祥な死を無くしたいと望んでいるやろう。そやからといおうか、これは僕の勘やけど」刑事にしたいくらい、親父の勘はたしかに的中率が高かった。「一年前のがもし事件なら、犯人を捕まえてやってほしいんや」これが、さきほどの“ある思い”であった。「こんなことをいうのも、この世に想いを残したまま逝ったあの子への供養にもなると信じてるからや」親父は懇願の相で首を伸ばすとバックミラーの中の顔を、元義母も運転する矢野の斜め後ろ顔を見つめた。

これほどの切ない想いと自分への信頼を心奥から吐露されれば、人として心が動かないはずなかった。民間人には明かさずとのデカの矜持(きょうじ)を忘れたことはないが、両親を殺された彼の、凶悪犯罪をば許さじとの使命感はそれより強い。矢野警部の頭に、今の件が鮮明に蘇っていた。ただ、担当事件に日々忙殺されており、女性の名前は忘却の彼方に消えてしまっていたが。当時、報道された事実から、デカの勘が、事故死とした警察発表に“違和感あり”と告げたゆえに、数年前まで部下だった平田警部補が所属する署の事件だったこともあり、詳細を聞いたのである。それで、違和感が疑惑へと変わった。転落を誘発した可能性の人影がほの見えたからだ。しかし、見立てに異を唱えられる立場にはなかった。
二人に向かい徐(おもむろ)に口を開いた。ちなみに、明かす内容だが、報道機関が披歴した情報の範囲内にとどめおくことにした。職務規定に違反することはさすがにできないと。
(ところで便宜上、以下のとおり、矢野の口述以上の詳細を記述させてもらう)
約一年前の十一月二日夜、二十八歳の独身女性が頚椎を折って死んだ。
検視の結果、死亡推定時刻は午後十時四十分から同十一時。
あるいは死亡直前の声かもしれない叫びを聞いたマンションの住人はいたが、家賃の安い古いワンルームだけに、隣の部屋からのテレビの音声だろうと思ったという。その時間は午後十時四十分ごろ。十時に始まったテレビ番組から推測したのである。
築二十四年。一階部は貸し店舗が入る四階建て。エレベーターは設備されていなかった。バブル期の建設だから、高騰していた人件費や機材費等で建築費用は思いのほか高くついた。それで、減価償却するまでは手を入れる気のない大家。防犯カメラも当然なかった。
現場は、二階にある女性の部屋を仰ぎ見るかたちの長めの階段。一階が天井の高い賃貸店舗だから、二階住宅部から上より五段ぶん段数が多いのだ。長かったぶん、女性にとっては不運だった、死を招く魔の階段となってしまったからだ。しかもその階段、いつ剥がれたのか、滑り止めがところどころ無くなっていたのである。そんな、ないない尽くしの古マンション。住民も“ないない”でその数は減ってきており、帰宅してきた彼女を見かけた、いわゆる目撃者はいなかったのである。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第六章  溺死体に悩む藤浪警部補(後編)

翌日昼すぎ、病院を訪れ義父である渡辺卓に再度尋ねたのだった。ただし、当夜の電話に関し病院長がウソをついた可能性のある件、それを問いただすに確証がない今は早計と、止めておくことにした。直人に決定的ダメージを与えるに、三分では短すぎると思い直したからでもある。「念願の医師免許を、ご子息が取得なさって一年半弱とお聞きしましたが」
「そうなんですが、念願とまでは。合格して当たり前ですから。ちなみに誰からそれを」家政婦と見当をつけての質問だったが、そうなら、辞めさせる理由づけができるからだ。
しかし、実質の家長である恵子がこの家政婦を気に入っていた。料理上手なうえ家事全般に精通していて、しかも醜女(しこめ)である。旅行中に、夫が手を出す心配をせずに済むからだ。
「医師にもですが我々にも守秘義務があります。ですから申し上げられません。情報は各所での訊きこみの結果とだけ」当然のこと、家政婦との約束を守ったのである。「それより、質問は私だけということで」と強く出ながらも、作り笑いで機嫌を損ねないようにした。「では早速。医師免許を取得されたわけですし、自殺はどうも…」との質問の途中だった。
「同感です。だからよほどの理由がない限りは自殺なんて…。仮に自殺だとして動機ですか?…想像だにできません。将来を悲観する材料なんて何もないのですから」義父は無難だと、ひとまずこう口述したのである。だが、万が一殺人の嫌疑をかけられた場合の手立ても決めていた。ズバリ、自殺と警察が認定せざるを得ない明白な動機で武装するのだと。しかも、自殺の動機(真因)だと推定できる事実を警察に隠した、その口実(わけ)もすでに用意していたのである。「妻をこれ以上苦しめたくない」という、それらしいものをだ。

さても、この男の肚の内…直人が落胆喪心をしたとする真因を、自身を守るために、いざというときは開示する、そんな計略で満ちていたのだ。その真因とやらだが、八カ月前に始まった二カ月間の夜の外出と、じつは関係していたのだった。いわく、半年前の、とある不幸な事故に直人が深く関係していたと知れば警察も納得するはず…。だが今の段階では、秘事中の秘事なのである。
急なる外出の頻繁を、“好機当来の可能性あり”と読んだ義父の卓は黒い企みを懐くと、名の通った探偵社を使った。やがて、直人が大変な出来事に関わってしまったことを知らされる。ことが重大すぎたせいで、大金を工面しなければならないほどに、探偵社への口止め料は高くついた。かくも重大な事実を時期尚早とみて秘匿したのは、愛情ではなく打算のゆえであった。妻恵子の不興をかいたくない、所詮は、入り婿でしかないからだ。
調書を読んでいる和田は、卓に違和感を持った。自殺に関し、病院長の口述がぶれているように思えたからだ。医師免許取得が「念願とまでは」と否定し「合格して当たり前」とうそぶいた。つまり、医師免許取得に自殺志望を挫(くじ)くほどの重みはないとも聞こえる。取りようでは、自殺はあり得ると肯定しているのだ。一方、その舌の根も乾かないうちに「よほどの理由がない限りは自殺なんて…」と、この言葉は自殺に否定的である。しかしよほどの理由があれば、自殺もありうるとも、また取ることができるのだ。
たしかに、絶望するほどの事態が起これば、なるほど、人は自殺するかもしれない。

小さな矛盾と考えた和田だが、渡辺卓が示したぶれの原因については憶測で留めた。病院長自身が迷っている、あるいは単なる言葉のあやと取るのが妥当かもしれないからだ。
「妙なことをお訊きします、少々気になったので。セントニックですが、箱ごと自室にご自身でお運びになるその理由について教えてもらえれば。しかもふた月前からだとか」
「ああ、確かにそうですね」情報の出どころである家政婦の顔を思い出しながら、想定外の質問という小さな驚きをすぐにそっと消して続けた。「しかし、特に理由というほどの」ここで一息おいた。口を開いたのは寸刻のちであった。
この挙動だが、思い出すというより考えている様子に見てとれた。
「あえていえば、あの家政婦さんを信用できないと感じたからです」
くすねるとでも言いたいのだろうか。

ひとがどんな考えや感想を懐こうと、それを否定し間違いだと指摘するのはむずかしい。それに、この場面ではそぐわないと思った。ただ藤浪は正直、家政婦に正反対の印象を持ってはいた。それで、泥縄式の取って付けたような理由にしか感じとれなかったのだ。

一方の卓は、なぜそんなことを訊くのかと逆に質問したかったが止めた。藪蛇になるかもしれないからだ。それに当夜、直人はセントニックを飲んでいたのである。――質問に深い意味などなく、この若い刑事はあらゆる情報を集めようと必死なだけかもしれない、まあそんなところだろう――とて、寝た子を起こすような愚は止めたのである。
一方、藤浪は質問の方向を変えることにした。「邸で教えていただいたハルシオンですが、0.25mgと0.125mgがあるそうですね。どちらを渡されたのですか」
「0.125mgでした。0.25mgでは効き目が強すぎると思ったからです。もし効果が弱ければ、もう一錠追加して飲めば済むことですしね」
「0.125mgの方は金色の包装がなされていると聞きました」
「そうですが、そこまで調べられたのですか。今回の件には関係ないと思いますが、随分ご熱心なんですね」それがどうしたといわんばかりに、皮肉っぽい薄笑いを浮かべた。
「少々気になったので。というのは、普通なら包装されたままを渡すのに、なぜわざわざ包装をはずしビンに入れ替えられたのですか?」たしかに不思議な行為である。説明によっては、個人的に払拭しきっていない微細な疑惑を強めざるを得ない。入れ替えが、病院長にとって必要な行為だったと考えるのが妥当だからだ。
「疑義は、直人の性格をご存じないからです。あの子は変に生真面目というのか、片意地なまでに正義感が強い質なんです。だから睡眠薬を、たとえ不眠治療のためとはいえ潔しとはしない。正常な人間なら睡眠薬など…、まして自分は医者だ、そう考える性格なんです」返答しているのは、父親と医師をないまぜにした顔であった。「それとですね、実物を見られたことないでしょうが、0.125mgタイプの金色は、いかにもけばけばしく危険な匂いを発しています。包装のままでは飲まないだろうと。そんな直人に服用させるには、サプリのビンに入れ替えた方がまだいい。気分的に、少しでも罪悪感を軽減するためにです。それにあの子も言っていたように、短い期間の服用だとも考えていました」

じつは藤浪、包装された二種類のハルシオンをすでに見知っていた。0.25mgの銀色もだが金色の包装も、いかにもけばけばしく危険な匂いを発している、とまでの印象は受けなかった。しかし、感性の問題なので個人差がある。自分の印象をたてに、相手の感覚に異議を申し立てることはできなかった。「そうですか」と引き下がるしかなかったのである。

完全には納得できないことが、もうひとつできた。「睡眠薬とわかっているのに、入れ物を変えただけで、直人さんが懐く罪悪感が消えるとおっしゃるのですか」と質問したのだ。
「こうみえて僕は精神科医ですよ。思い込みを利用する方法だってあるんです。いわばプラシーボ効果の一種と、あるいはプラシーボ効果を逆手に取った手法ともいえるでしょう」

卓が発したプラシーボ効果とは、医学用語である。薬効も毒性もない偽薬(少量のブドウ糖や乳糖等)を特効薬と患者に思い込ませて服用させた場合、症状が改善する事例が世界的に認められている、心理的治療効果のことだ。つまり思い込みを利用し、サプリ感覚に切り替えられれば服用しやすくなる、そう宣(のたま)ったのである。

完全に納得したわけではなかったが、専門知識がない以上、これも今は引き下がるしかなかった。あとで調べたが、専門医でも、このやり方に対しては意見が分かれたのだった。

無意識のうちに腕組みし軽く瞑目したとたん、思わず眉間は狭まりそのぶん小さな皺ができた紅顔は、真剣な深慮に入った。やがて、ある情景が頭に浮かんできたのである。
その情景を、冷静な立場から論ずれば、たしかに空想の産物でしかない、となる。何ら、確たる証拠がないからだ。
……仮に、医師の知識を生かし何らかのアリバイ工作(おそらくは誤った所見を検視担当官に懐かせ、死亡推定時刻を早める偽装)をした病院長。午後八時三分に携帯で食事と飲酒を促し、帰宅直後さらに、強制か誘導するかして酩酊するまで酒を飲ませ、そのうえでハルシオンを服用させた。ついで風呂場まで連れていき、意識が喪失した義理の息子の服を脱がせたのち湯船に身体を浸け、後頭部を押さえつけ続けて溺死させたのである。
ただし、だとした場合に問題となるのは、直人の身体に圧迫痕があったとの記載が、検視報告書にはなかった点だ。直人を押さえつけたとしたらできたはずの圧迫痕の存在を正確に知るが肝要と考え、検視に当たった警部に直接問い合わせてみたのだった。しかし、当然のことだったが記入漏れではなく、痕は残念ながら全くなかったのである。
しかもだ、渡辺邸は一種の密室状態にあり、検視による死亡推定時刻…状況から判断するに午後八時六分からの二十四分間だが、直人以外に誰もいなかったのである。
アリバイ工作が存在したとして、せめてもそれを解明できれば別だが、そうではない現況において卓を攻めようにも、まさに矢も刀もないという徒手空拳に陥ってしまっていた。
崩せないアリバイの件や動機の解明、殺害を暗示する何らかの状況証拠すらない現場の実態等を客観的に考慮した場合、――殺しは無理やなぁ――と、諦めざるを得ないのか。

――やはりもうひとつの方が、可能性は比較にならない圧倒性をもって高くなる――

客観的にみたその、もうひとつとは、こうだ。
風呂場は広く湯船も縦2メートル、横1.2メートル、深さ0.6メートルと大きかった。人ひとりが寝た状態で足を伸ばしてもゆったり入れる寸法なのである。しかもステンレスホウロウ仕様の浴槽。毎日入っていたのだろうが、いかにも滑りやすそうだ。
それでも平常な肉体と精神なら溺死はしなかったであろう。が、無人となった邸で、食事をしながら直人はバーボンをストレートで飲んで酩酊し、判断能力が低下した状態で、心に突き刺さったある棘(とげ)の痛み(内容は不明)を忘れるために精神安定剤を兼ねた睡眠薬を飲んだ。しかもあろうことか、毎日の習慣に従い風呂に入ってしまったのだ。
病院長の言に依らず、つまりは無視し、藤浪自身が医学書で調べた結果においても、直人の医師らしからぬ行動は、発現した記憶障害のせいでは?と推測するが妥当なのだ。
これが、不幸を生んだ原因の内面部(心理的要因)だ。
他方、外的要因や不具合を指摘すると、”もし”ではあるが、母親が旅行中でなければ…、父親の帰宅がもっと早ければ死なずに済んだのでは、であり、浴槽がホウロウびきされていたからでもある。湯船に両足を入れた瞬間、滑ってうつ伏せになった。そのとき風呂の湯を飲んだために焦った。縁(ふち)をつかもうとするが滑る。焦る。膝を突こうとして滑る。一層焦る。この繰り返しだったのではないか。飲酒と睡眠薬の服用が、膝立ちし水面から顔をあげるという、常人が普通にする、なんでもない動作の大きな障害になったとも。
「そんなアホな!」誰もが思う入浴中の溺死の実態。じつは交通事故死よりもはるかに多く、年間でじつに約一万四千人が死亡しているのである。だからあり得ないことではない。
風呂での事故死を調べて、そんな実態を知った警部補がした上記の想像。過去において、入浴中の溺死で日常的にあるパターンのひとつなのだ。普通に対処すれば溺れるはずのない水深で、多くの死亡事故が毎年繰り返し起きているのである。
ただし一番多い事故原因は、高齢者の、血圧の急激な変化による意識障害だが。

捜査から一週間後の五月十八日、警部補はついに、上から判断を迫られた。
それで結局、本人の不注意による事故死と調書に認(したた)めたのである。持てる捜査力を駆使し、また思考の限りを尽くした結果だった。

自殺の動機は認められず、殺人の可能性も極めて希薄だと結論した所以(ゆえん)であった。しかし心の雲は一向に晴れず、捜査にも結論にも悔いが残ってしまっているのを否定できない。

だが、個人の感傷に組織は与(くみ)しない。即日、所轄の上層部として判断に誤謬がないか検討した。そのうえで事故死と判定し発表したのである。

和田は、若き警部補が下したこの判断に同情を禁じえなかった。
藤浪は、いわば相撲の行司に似た立場であった。行司とは、どちらが勝者かを即座に決めねばならない。白か黒しか選択肢を与えられていないということである。引き分け、つまり、どちらでもないとの審判を下すことは許されていないからだ。行司差し違えが起こる理由のひとつはこれに由る。今回の判断もある意味、白か黒かであった。
和田の結論も、判然としない、である。捜査員に対しては――頑張ったな――と評価する。一方で、上層部は判定を焦ったのではないか。そんな印象を拭えなかった。
自殺、あるいは、可能性はかなり低いが殺人。このどちらかの線は、全くないのか?それを見つけるためのもう一歩深い捜査をさせられたのではないか?上層部によるこの最終決定を和田は、良しとはしなかった。もう少し時間的猶予を与える、捜査に苦闘する現場の警察官をマスコミ等の世間の強風から守る、それが上層部の本当の仕事ではないのか!
頭でっかちで経験の希薄な高級官僚が警察機構を牛耳る今の態勢が定着してから、検挙率は下降の一途をたどっている(六割以上だったのが三割弱に)。現場を重視しないで一にも二にも結論に逸り、面子にばかり拘っている輩が上層部に多すぎる、これ、和田の実感なのだ。これでは現場が堪らない。捜査に当たるのは現場で汗を流し、ときには血を流す一般の警察官なのだ。デスクの前に座っているお偉い立場の連中では、決してない。
その点、矢野係だと日々働き甲斐を感じられると感謝している。そして、現場を重視し自らもそこに身を置く星野管理官には敬意すらも。

それでつくづく思う。いまだ解決の糸口さえ見えないエリート警部の高級ホテル全裸絞殺事件は、経験の希薄な刑事部長が臨んだからこそ、ここへきて迷宮入りしそうなのだと。

犯行現場の部屋をチェックインした正体不明の女性が被疑者である。いや、本ボシとみて間違いないだろう。ホテルの従業員はもちろん、防犯カメラもその姿を捉えていた。ただし、顔はわからなかった。大きなつば広帽に黒いサングラスをかけるなど、初めから人相を判別できないようにしていたからだ。さらに被疑者の指紋も掌紋も一切出なかった。

迷宮入りしそうな理由だが、顔や指紋などを判別できないから、だけではなかった。
金銭搾取が動機だった、とするには犯行の手が込みすぎている。むしろ、捜査を撹乱するために現金だけを持ち去ったとみる方が自然に思える。つまるところ動機も不明なのだ。
犯人を推定し捜査するうえで欠かせないのが動機である。むろん、公判においても重要視される。大事な要素だけに、動機に対する先入観や予断をまじえた捜査へ、ときに陥りがちだ。それは早期解決に心を奪われた愚昧であり、つまずく原因ともなってしまうのだ。
よって、未解決事件が増加している因の一つは、事実として、動機の見間違いである。
ところで先の全裸絞殺事件だが、これほどの計画犯罪、ましてCG技術を使ってまでの死者に対する冒涜(ぼうとく)…、大多数の捜査員の通念からすると、犯人が抱えていた激しい意図を感じて当然だろう。だが、
それがミスリードを誘う犯人の狙いだったとしたら…。それゆえ、被害者への並々ならぬ復讐とは決めてかからず、ひとつの大きな可能性とみて捜査していくべきではないかと。
まして近年は、わけのわからない事件、つまり(弱者であれば)誰でもよかったなどと、身勝手な動機で大量殺人を犯す輩も出てきているご時世なのだ。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第六章  溺死体に悩む藤浪警部補(中編)

巡査部長が口火を切った。「いつからこちらでお勤めですか」台所よりキッチンと称した方が相応しいスペースに、テーブルを挟んで三人は座った。このテーブルで食事をし休憩をとるのだろう。家政婦が落ち着ける場所こそ最適と、ベテランがここを選んだのだった。
「そうですね、かれこれ十七・八年、です」少しどぎまぎした顔が答えた。厚かましさでは世界ブランド?の大阪のオバちゃんも、デカの質問にはさすがに緊張するようだ。
「なるほど。となると渡辺家の事情にはお詳しい…」巡査部長の目尻の下がった優しげな顔が、声も言葉も表情さえも一層柔和にしつつ尋ねた。まずは不要な緊張を解きたいのだ。
それでもまだ警戒している家政婦は、小じわの目立つ顔をこわばらせつつ小さく肯いた。
「いつがお休みですか」
「毎、日曜日です。祝日はお仕事です」
「大変ですねぇ」井戸端会議のような会話で和ませようとした。「ところで、貴女に対し何の疑惑も不具合の心証も懐いておりません。ご安心を」犬好きがプードルに相対したような顔で諭した。「殺人の可能性が低いうえに、貴女には確実なアリバイもありますから」

それを聞いてそこそこ安心したのか、見た目にもわかるほどに肩のラインが下がった。剥げかけた口紅以外、化粧っけのほとんどない顔のこわばりも緩みはじめた。
少し馴染んだ様子に、質問し易くなったと警部補も安堵した。ベテランを見習い、簡単な質問から入った。「念のため、当家の家族構成について。第一発見者の病院長は義理の父親ですね」事情聴取など初めてに違いない緊張感をさらに解きほぐそうとしたのだ。先入観や思い違いなどのない正確な情報を得るには、まずはリラックスさせなければならない。
「そうです」当初、緊張感だけでなく警戒心も露わだった表情が、ずいぶん和らいだ。
「そして奥様が病院の理事長。つまりそういう力関係なんですね」笑みをたたえながら。
「そういう力関係」との意味を了解しつつ家政婦は肯いたあと、「奥様のお父上が先々代の院長を十四年ほど前までなさっていましたが、奥様の前の旦那様を後継者に据えられたのと同時に引退なさり、その後は亡くなるまで理事長として。つまり奥様は、そのお父上のあとを継がれたのです」今までなりをひそめていた生来の饒舌が徐々に発揮され始めた。
「つまり渡辺総合病院は、奥様のご実家が経営なさっていたと、こういうことですね」
「はい。今のご主人は、前院長が交通事故でお亡くなりになったあと、ご養子に入られたのです。その前院長もご養子でしたが」ようやく慣れてきたようだ。世間話然と、口が流暢になった。おしゃべりは、大阪のオバちゃんの多くが受け継ぐ”環境DNA”のせいか。
「現在のご主人は、いつ病院長になられたのですか」
問われた家政婦は、顔を近づけるよう手招きした。「七年半くらい前でしょうか」彼女もテーブル越しに身を乗りだすと小声で。雇い主の耳を気にしているのだ。「前のご主人が亡くなられて三カ月もたたないうち、でも婚姻届は就任の一年後でした。院長としてまた娘の夫、さらには孫の義父に相応しいか否か、先代理事長が一年のお試し期間を設けた、そんな印象でした」訊いていないことまで喋ったのだった。

捜査員は自分たちが予測していたよりも早い、空白三カ月での新病院長就任にいささかの驚きを覚えた。そして前理事長が、家業の病院経営に支障が出る前に手を打ったのだろうと推察した。「では直人さんは、前院長との間にできたお子さんということですね」
「はい、おっしゃるとおりです」
若い捜査員は予め思い描いていたとおりに進む事情聴取に手ごたえだけでなく、あらためて仕事甲斐すら感じ始めていたのである。
「お子さんは、直人さんだけですか」
さすがにこの質問は、家族でないとはいえ心の琴線に触れたようだ。子供を亡くした女主へ同情がこみあげてきたからだった。涙がこぼれ始めたのである。エプロンのポケットからタオル地のハンカチを取り出し、刑事を前に憚ることなく大きな音を立て鼻を噛んだ。

こうなったら、泣き止むまで待つしかなかった。しかし時間は、覚悟したほどには掛からなかった。この様子から推察できること。結局、直人は好かれていなかったようだ。
「ええ、お一人です。それだけにご両親、いえ、奥様のご期待はそれは大変なものでした」
「でしょうねぇ」相槌のごとく返すと世間話でもするように続けた。ベテラン巡査部長の手法を概ねマスターしたからだ。「奥様が再婚なされたとき、直人君は二十歳前後。充分に乳離れしている年ですが、でももしマザコンなら…。現ご主人との間に軋轢や諍いはなかったですか」質問の意図は、義父の内奥に直人殺害への動機が隠されていないか、だった。
「お二人が会されたところをあまり見かけてませんからわかりませんが、仲が良かったということは、ね。けれどケンカやいがみ合いは?と訊かれれば、いいえとなりますね」
念を入れあえて訊くことにした質問なのだ。人間関係悪化が原因の殺人の場合、動機となる争いごと等、何らかの前兆があるからだ。さしたる理由なく殺人を犯す度し難い輩もいるが、相当の因がない限り人命を奪うなどしないものだ。「殴り合いもなかった、ですね」
「ええ、私が知る限りでは」
「仲が良かったとはいえないが、悪かったというほどでもなかったということですか」ベテランも大事と考え、独り言をよそおい入念の確認をした。
「そういうことです。ところで…こんなことお訊きしていいのかと?」主家の怒りをかってはと家政婦はさすがに小声になった。とはいえ、好奇心が露わなのは眼が物語っていた。
「どんなことでしょう?できる範囲でならお答えしますよ」巡査部長は気さくに言った。
「刑事さんたち、ひょっとして旦那様を疑ったはるんですか?」訊いたあと、ちょっぴり後悔の表情となった。しかし、「この質問、内緒にしてください」撤回する気はなさそうだ。
内密にとの願いには眼で肯いた。それから頭をかきつつ、「疑っているわけでは。ただ、小さな疑問でも消し去っておかないと、職務怠慢で叱責されます。警察も今や、何かと大変な状況にありますから」さらに「何といってもアリバイがしっかりしてますし」と、ベテランだけあって手の内を全てさらすようなマネはしない。
つまり些少の疑惑だが、残滓のように存在していることは伏せたということだ。それでも、家政婦の疑惑をば消し去るにしかずと、ここは決めた。もし予断を懐かせれば、自身、色眼鏡を通していると気づかぬうちに、病院長には不利になる勘違い証言や事実誤認を口述するかもしれないからだ。となれば捜査にいらん混乱を招く。それだけは避けたかった。
「死亡推定時刻は、最も遅く見積もっても午後八時半です。その時刻、病院長は院長室を退出するところでした。秘書の証言で確認しています。ただそれはそれとして、仮に殺意を懐くような出来事があったかどうか知りたかっただけで、いや、いささか勇み足でした」

ところで、殺人の可能性が低い最大の理由。それは、渡辺邸が一種の密室状態にあり、死亡推定時刻には直人以外に誰もいなかったからである。侵入者もいなかったことは、契約している警備会社の防犯カメラが捉えた映像により証明されていた。
さてその邸だが、敷地面積は四百五十坪とかなり広い。にもかかわらず、四方を高い塀に囲まれているとはいえ、見合うような高性能のセキュリティを設置していなかった。ただ、住居部玄関への入りや門扉の出、庭の前景等を六台の監視カメラ(四面の庭用は赤外線カメラ)が捉えて警備会社のDVDに記録させ、塀越えの侵入者にはセンサー感知による警報音を鳴らしたうえ、警察への通報と警備員の急行が義務化されていただけである。
警備保障会社との請負内容を、初動捜査に当たった機動捜査隊員から教えられた藤浪の部下二人が、その足で警備会社に行き、映像を両の眼で詳細にチェックしていた。事件前数日だけであったが、不審者は認められなかった。そして、肝心の死亡推定時刻前後の二時間だが、退出は家政婦のみ、入ってきたのは直人と病院長だけだった。それで藤浪は、退出時に戸締りをしたか、あるいは渡辺卓病院長にもは施錠されていたかは訊かなかったのである。侵入者がいなかった以上、施錠の有無に意味があるとは思えなかったからだ。
それにしてもと、金満家にしてはセキュリティシステムが弱いという点に引っかかった。
そこで契約を取りつけた社員に問い合わせた結果、わかった。当初は午後九時半以降、室内操作盤でセンサーをONにすると、部屋内から窓を開けた場合でも警報が作動し警備会社に通報がいくシステムだった。その契約を止めたのは十一年前、当時十六歳の直人の要望だった。自室(当時は一階だった。現在は二階の、死亡した実父の部屋)の窓や庭へ出るガラス戸を開けるたび警報が鳴るので、「煩わしい」と主張し契約を変更させたからだ。
窓や戸を開ける前に解除をするのが面倒と言って譲らなかったかららしい。深夜、コンビニに行ったり、エロビデオの類を借りに行くのを知られたくなかったからに違いないと、おしゃべり営業マンは憶測による説明をした。たぶんに、自分の経験に依ったのだろう。
他方、警備会社との契約を示すシールと監視カメラをこれ見よがしの位置に設置しておけば、泥棒が狙うことはないだろうと両親が納得したことも、その説明のなかであった。
の内容は知っていたはずだ。ならば、何らかの工作は可能なのか。藤浪はその点を問うた。
邸内でシステム電源を落とせば可能だが、調べた結果そんな形跡はなかったと断言した。
ところで、セキュリティの内容を知っていたかと病院長には訊かなかった。当然で、わずかではあっても疑っていると教えることになり、手の内をさらす愚となるからだ。

さてとと二人は、ひとまず事情聴取を保留することにした。「これ以上だと貴女のお仕事の邪魔になるでしょうから。もう一度、今度はあなたのお家でお願いできないでしょうか」
時計を見「そうですね。あまり片付いていませんが」と了解し、住所を告げた。
ここでようやく、煎れてくれていた冷めた緑茶を飲んだ。飲み慣れた安物だった。「あっ、最後に一つ。風呂場を拝見させてください」
現場写真では見ていた。だが、浴槽は予想以上に大きく全体に広かった。さらに、中庭に面した擦りガラスの大きな窓と天窓が印象的だと。――実家の風呂とはずいぶん違うな――追い炊きができる経済的タイプでないことも、小さな一因ではあった。そして浴槽はヒノキ、ではなく、ステンレスホウロウ仕様だった。いかにも滑りやすそうである。

六時間半後、警部補は女性刑事を伴って家政婦の自宅を訪れていた。同行者を女性にしたのは、口さがない近所のオバちゃんに変な噂を立てさせないための配慮であった。
(先刻同伴のベテラン巡査部長と別の部下に任せた他の訊きこみとは、時間的に少し前後するのだが、便宜上、家政婦への事情聴取をこのまま続けさせて頂く)

奥様から御裾分けでもらったという煎茶での御もてなしを受けていた。こちらはいい香りだった。ところで女性刑事だけが感じたこと、それは、家政婦はおそらく口紅を引き直し、ほほにも紅するなど薄く化粧をなしたに違いない、だった。朝方、出勤前にほどこした化粧ならばもはや剥げる時間帯、にもかかわらず、それなりの化粧(けわい)を見てとれたからだ。
そんなかわいい?女心に忖度することなく警部補、「直人さんの部屋のゴミ処理も貴女が?」いきなり、しかも「はい」との返答となる質問から始めたのだった。彼には必要であり、また夜分につきさっさと始めて、早く切り上げようとの心配りからだったのだが。

つまらなそうな表情を隠そうともせず肯くと、「ゴミは毎日分別し特定日に特定のゴミを指定された場所に出します。ご近所にうるさいおばさんがいますし」とオバさんは言った。
ちなみに、「あなたも充分にそうですよ」とは、間違っても言わない。
「つい最近なんですけど、サプリメントが入っていた箱、これくらいなんですが」大きさを示した。「見ませんでした?可能性が高いのは直人さんの部屋のゴミ箱なんですけど」
「さあ…。生ゴミ、缶やペットボトル、プラッチックとか新聞雑誌等を分別することだけ心がけてますから」さすがに大阪のオバちゃん、必要ないことまで答えの中に入れてくる。しかもプラスティックでもプラスチックではなく、プラッチックと発音したのである。「ですからおそらく、普通ごみとして金曜の朝、出していますね」
というわけで、貴重品や珍しいゴミなら別だが、小箱にまで注意が及んでいるはずなかった。ダメ元と思っていたので次に移った。「人物像を知っておきたいのです。直人さんてどんな人でしたか」邸では話しにくいだろうと。で、こちらで訊くことにしたのだった。
「そうねえ。まずはマザコン。悪い意味でのお坊ちゃま。わがままで自己チュウやったし。ともかく愛すべき人やなかった、特に私にはね」手厳しいが、これでも遠慮気味であった。
やはり、そうかと肯いた。「では、健康状態は?たとえば最近、仕事で疲れ果ててたとか」
「そんな風には。だいいちまだお若いですし。ただ、痩せておられた分、風邪をひきやすいとか、啓蟄(けいちつ)の前後に花粉症を発症される、それくらいでしたよ」
「頑健な方ではなかったとの意見もあるんですが」病院長の受け売りである。
「そりゃあ確かに体育会系ではなかったですし、いたって丈夫とまではね」
「食欲の方はどうでした?最近は減退気味だったとか」
「中・高生時の育ち盛りに比べれば旺盛とは…。でもここ一カ月、それはなかったですよ」と。じつは半年ほど前、極端に食欲が落ちた時期もあったが、関係ない話と触れなかった。「けど当夜に限り、冷麺と餃子は半分程度、スープは手つかずのまま残されていました」
卓の証言からも、死の当日、精神的に堪える事態があったかもしれないと。だが食べ残したことを理由に迂闊な断定はできない。病院で何かを軽くつまんだ可能性もあるからだ。
そんな不確定より、事情聴取にも慣れた塩梅(あんばい)を見計らって重要な質問を藤浪が発した。「問題の日の朝の様子、どんな印象を受けましたか」病院長の口述と一致するかどうかだ。
「ううん、そうですねぇ…。訊かれるまでは気にしてませんでしたが、たしか…、そう、朝のご挨拶に対して、返事なさいませんでした。うなだれた様子で、元気がないようにも」

当然といえば当然だが、言葉にニュアンスがあるとはいえ義父の話と一致したのである。
「それは何時頃でしたか」朝一なら、前夜に異変があったとみるが妥当だろう。
「邸に着いてすぐですから、午前七時過ぎでした、確か」自信ありげの「確か」だった。
「では、前夜の直人さんの様子はどうでした」ただし、午後八時までの様子でしかない。
「う~ん…」と首をひねってからややあって、「覚えていないですね、でもそれって印象に残ってないということですよね。普段といっしょだったからではないでしょうか」
「はっきりしませんかぁ。数日前なんですがぁ」と、少し残念そうだった。なりたての刑事だけに一層、“事件”の方に当然やり甲斐を感じるからだ。「ではこれはどうです、いつもと違った発言や出来事はなかったですか」そのためにも、確実な情報を欲したのである。

首を傾げたがややあって、「ご期待にそえるかどうか。ただ、そういわれれば前日の朝、珍しく献立を注文なさいました。好物の冷麺と餃子と冷スープを、でした」そう断言した。
「間違いありませんね」思わず念を押した。ちょっと引っ掛かる証言だったからだ。
それほどボケちゃ~いませんよ、という小さなふくれっ面でおばさんは肯いた。
わざわざ注文したほどの好物三品。なのに、なぜ残したのか。だがすぐに――病院で誰かからもらった軽食を摂ったかも――という、先刻のをさらに進めた憶測をした。そこで翌日、そんな事実があったかを調べたがわからなかった。あるいはボンボンの気まぐれか。
この徹底ぶりに感心した和田。――警部の捜査法とピタリや。うちに欲しいな――
ところで藤浪警部補がみせるモリモリの意気込みにちょっぴり気圧されながらも、「こうみえて料理自慢なんですよ。なかでも胡麻だれ冷麺とにんにく控えめ野菜たっぷり餃子はご家族の皆さんが喜んでくださいます。お坊ちゃまも楽しみやなぁって」と饒舌に鼻高々。
それを無視し、「『珍しく』とおっしゃいましたが、滅多に注文されなかったんですか?」とにかく判定の材料を得なければならない。上司は解明を望んでいる。ただ藤浪にすれば事件であってほしい。だからといって無理やりこじつけることは、最もしてはならないと、逸る心を同時に戒めた。いたって冷静に事実確認する方針を維持しなければならないのだ。
「回数的に一番少ないので。月に一回、それもあるかないかでしたから。でも食べ盛りのころはもっと多く要望…」オバちゃんの眼が生き生きとし、独壇場になりつつあった。
「わかりました、ありがとうございます」遮ったのは、自慢話へと脱線しそうになったからだ。大阪のオバちゃんの本領は違う答えで発揮させるにしくはないと、「問題の前夜は沈んだ印象を受けなかったと。ところが、当日の朝は元気がなかった。そうでしたよね」使命ともいえる、死の真相を探るべしとて、もう少し叙述させることにした。
一方、大好きな多弁は叶わずで、少し気分を害した顔つきのまま「はい」とだけ。
「九時半を少し過ぎましたが、もう少しお付き合いください。その朝の様子をできるだけ詳しく思い出して頂けませんか」機嫌を直させようと、媚びた眼と口調で頼んだところ、
若い男性の仕草に母性本能が反応したのか、勘違いの、久しい女心が揺らいだのか、少しはじらいながら笑顔をみせた。そしてふっと目を閉じた。集中しようとしているのだ。ややあって、「朝食はトーストでよろしいですかとの問いに、生気なく『いらない』と。それに、ヘアースタイルもファッションにも気を遣われる質なのに、あの日はほとんど気になさっていないようすでした。そうですね、双子のもう片方と入れ替わったようだと表現したならば、少々洒落ているんやないでしょうか」と。自画自賛の言葉に嬉しそうだった。
それに反応しないのを悪いとは思ったが、洒落ているかはどうでもよかった。ただ、想像以上の重要な証言、”食欲がなく身だしなみにも気がいかない精神状態”に接したので、オバちゃんを《置いてけ掘》にし考えた。――当日朝七時より前、つまり直人の覚醒直後に問題が惹起したとは考えにくい。やはり前夜、家政婦が邸を去ったあとで〝お坊ちゃま”が落ち込むトラブルがあったんや――この点、疑う余地はなさそうだ。――その時間、邸にいたんは義理の親子だけやった。前途を約束され大きな悩みはなかった直人が動揺する何かを、義父が言うたんやないか――根拠はないが、可能性は大きいと思った。それと、当夜三分間の親子の電話。これと、直人の死を無関係とするのを藤浪は良しとしなかった。
というのは、直人のスマフォの交信記録によると、義父とのやりとりはメールを含め、この半年なかったのである。そんな義理の親子関係なのに、当夜だけ電話を掛けたことに違和感を覚えたからだ。
たしかに、通話内容自体の病院長の説明だが、おかしいと首を傾げるものではなかった。
しかしなのだ。刑事になり立ての彼は若く、意気込みと正義感は並大抵ではない。つまり、真相究明に労を惜しむことなどあり得ない、ということだ。そんな彼だから考えた。あったのではないか、激しく動揺させる何かが、だ。
――携帯での父子のやり取りでそれを成し得たとしたら――単なる事故ではなくなる。ばかりでなく、未必の故意としての人為的事故、否、殺人だって可能かもしれないのだ。
しかし今はここまでと、思考をいったん止めた。訊きこみはこれからという状況なのだ。「ところで、直人氏が飲んだウイスキーのボトルとグラスからあなたの指紋も出てきました。別の捜査員の事情聴取によると、グラス等を部屋にもっていかなかったはずですが、なぜ…」との、ソフトな口調での念のための質問の途中だったにもかかわらず、
「今度は私を疑ったはるん。だとしたら…」歯は剥かなかったが、目を剥いて食って掛かりかけたのである。さっきは話の腰を折られ、また無視されたこともあり、明らかにご機嫌斜めになっていたところへの不用意な発言に、完全にキレたのだった。
藤浪はまさに、経験不足を露呈したのである。昼間に言っておいたとはいえ、疑っていないことを夜分の質問の前にも再度、確認してからにすべきだったにもかかわらず。
重大犯罪かもしれない件の関係者となってしまった一般市民は、デカの言動には敏感になるものだ。不慮の事態が発生し、嫌疑を掛けられるような立場になったりすれば、最悪、仕事を失ったり、人間関係が崩壊したりの、いわば社会的な死を意味するからである。
その昔、若気の至りで同様の苦い経験を持つ和田も、この失策には目を覆いたくなった。
だが、藤浪は若いぶん頭も柔軟だった。これはマズイと、まずは疑惑を打ち消すために誠意をみせたのだ。ホールドアップでもするように両手をあげた刹那の振る舞い、ついで「いや、決して」と飛び出した言葉でうち消しにかかったのだ。ただしやや早口にはなった。それは彼の人間性といおうか、何ごとにつけ真面目な性格によったからだ。「あなたには確実なアリバイがあると渡辺邸にて申し上げたではないですか。これっぽっちも疑ってはいませんからご安心を。それに動機だって…」よほど窮したのか、検証が取れていないことにまで言及しかけた。もしも和田はそばにいれば、口を手で押さえたであろう。
直後、「当然!」と吐いてくれた。短い言葉だが助かった。まだ怒りの残滓はあったが。
それが、この若き警部補の耳朶に永くこびりつくことに。これから、おそらく四十年続く警察官人生の教訓として。
さて、「怒らせて済みません」深く頭を下げながら、心の中で感謝した。言わずもがなだからだ。アリバイを理由に、オバちゃんに完全無欠の免罪符を与えることはまだできない。彼女には、直人を嫌っていたきらいがあるのだ、ごく弱い動機でしかないとはいえ。
警部補のそんな、手柄を立てたいとのデカ根性を和田は読みとった。横溢するほどなら暴走しかねないので具合が悪い。だが逆に、意気込みが欠乏しているようでは、そいつは失格者だと、和田は自分に照らし合わせ、そう思った。
謝罪を兼ねた弁明は続いた。「僕が貴女を意図的に怒らせること、言(ゆ)うはずないですよ」説明不足だったとまた低頭した。「どうか、許してください」情なさそうな表情が呟いた。「ただですね、指紋が出た以上、理由を訊かないで済ますと、あとで上から怒鳴られるんです」と、本当はそこまではない作り話をし機嫌を直させることに努めたのである。
「そういうことなら気の毒やから」少しく恩着せがましい。そして上から目線になった。
若くて見栄えがいい藤浪の相手が女性だから、この程度の言動で功を奏したのである。現場とその周辺を這いずりまわって捜査してきた和田からみれば、これから幾度となく壁にぶつかるだろうと予測した。彼の予想が正しいかどうかはのちのち明らかになるとして、警部補は、こういうわかりやすい性格の人は扱いが簡単なので助かると。実感であり本音だった。
「ウイスキーのビンは旦那様が、そう、ナイトキャップっていうんですか、女性が寝る前にかぶる帽子と同じ言葉なんですってね。面白いですね」またも脱線した。

油断だった。しかし若い刑事たちは笑わなかった。小さい咳ばらいが返答であった。
仕方なく、「ナイトキャップされることが結構あるので」と続けた。「でもお医者様ですから毎日は飲まれませんが、一応、リビングのサイドボードから適当に二・三種類出して、いつもテーブルに置いて帰ります。グラスは、洗ったあと乾いてからサイドボードにしまいます。指紋はそのときのですね」脱線に対し少し反省したのか、懇切な説明だった。
「ということは、問題の日もいつものようにテーブルに置かれたということですね」
「ええ。あ、言い忘れてました。旦那様お気に入りのセント何とかは、毎日必ず置きます」
そこで、病院長にもお願いした、チェイサー等を含むバーボンウイスキーに関連する質問をした、「直人さんも大体はセントニックなんですか」からだった。
「さあ。サイドボードには高級そうなのをいつも数種は。ですから何を飲んだはったか、全く覚えてません」飲酒習慣のない、ことに女性の場合、銘柄に興味などないのだろう。
「さっきの事情聴取の確認となりますが、貴女が邸を退出する直前、セントニックはリビングのテーブル上にまだあったでしょうか」どの時点で飲み始めたかを知りたかったのだ。
「私が出した状態のままでした、ボトルは三本、グラスもミネラルウオーター用と二個」
ということは、飲み始めたのは午後八時以降ということだ。それと、家政婦はいつも病院長の分だけを出していたということもわかった。
「とすると、直人さんが自室でウイスキーを飲むときなんですが、氷や水はどうされてましたか」大事な質問である。オバちゃんの言動に注視した。
「どうやったかなぁ」寸の間首をひねった。「そういえばアイスベールでしたっけ、鑑識さんが出していた現場の入室制限が解かれた昨日、部屋の片付けしたときはなかったですね」
「なるほど」義父にウソはなかった。「で、いつもはどうでした?氷は不要だったですか」
通常は、ミネラルウオーターも氷も置いていなかったことを家政婦は思い出し、「ピチャーも」と答えた。アイスベールはともかく、キャッチャーと間違わなかっただけ上出来だった。ピチャーならまだ意味が通じるからだ。「ミネラルや炭酸水も、いつもありませんでした。ただし、お部屋には飲み物やアイスクリーム用の小型冷蔵庫がありますから、喉が渇いたりしたら、麦茶やミネラルを適当に飲まれていたようです。もちろんビールや白ワインも冷やしてありました」無くなる前に補充するのも彼女の仕事であった。
鑑識が撮った現場写真には直人の部屋のもあり、今の説明で、冷蔵庫が写っていたことを思い出した。「ウイスキーを自室にもって行かれることはよくあったのですか?」
「週に一・二度でしょうか。でもセント何とかは記憶にないです。が、断言はできかねます。確かなのは、缶ビールだけという日や飲酒されない日も当然あったということです。ところで、お酒の種類の飲み分け方ですが、料理に合わせると以前おっしゃっていました」
「かなりの辛党ですね。で、冷麺のときは何を飲まれてました?」ベテランも左党だった。
「いつもはビールでした。でも、そういえばビールの空き缶、なかったですね」
あれ?とは思ったが、平常な精神状態ではなかったという義父との証言に鑑み、特に藤浪は問題視まではしなかった。「ところで、セントニックの十五年物は入荷しにくいのではありませんか」現場写真には、この高級バーボンも収められていたのである。
残念ながら飲んだことはないのだろう鑑識班員が、「こんな高級酒、誰か奢ってくれへんかな…、あはっ、安月給の仲間が相手では、やっぱ無理か」と言っていたのを思い出しながら。知らず知らず舌舐めずりしそうな彼から、入手困難との情報も得ていたのだった。
彼はあちこちを巡り、些細な事実であろうとも引き出させることで、なんとか死の真相を解く判断材料をと、餌にありつこうとするハイエナのように捜し求めていたのである。
「さあ、そこまでは」知らないらしい。「ただ、いつも半ダース単位を旦那様がネットで購入なさっていらっしゃいます」そう言ってから微かに首を傾げた。
「どうしました?ネットでの購入が何か」同行の女性刑事が、オバちゃんの眉の微妙な震えに気づいて問うた。同性だから、心の微動をキャッチできたのだろう。
「えっ?ええ…」と小さな逡巡を呈したあと、「そのぉ、セント何とかなんですが、今から五・六日前だったんですけど、妙なことがあったんです」首を傾げつつ囁くように言った。
家政婦の明々な変化に気づくと神経が明敏になり、「続けてください」警部補は促した。
「夜いつものとおりテーブルに置いたビンですが、残りは確かに半分程度だったのが、次の日なおすときに“あれって?”って。上が少し空(す)いてる程度、ほぼ満杯だったからです」
「えっ?増えたってことですか」女性刑事は、思わず問うたのだった。
合わせるように、「間違いありませんか?失礼とは存じますが、別のウイスキーなどもテーブルの上にお出しになるんですよね」藤浪は念を押さずにはおれなかった。
「間違いありません!半分だったのがほぼ満杯になってました!それに他の二つのウイスキーは前日の状態、つまり残量に変化などなく、位置はそのままで動かされた形跡もありませんでしたから」少しむくれて答えた。感情を隠さないのは、根が正直だからか。
「済みません。疑ったわけではなく、確認のためなんです」藤浪は子供っぽい笑顔を作って、情報をさらに引き出そうとした。「他に気づかれたことはありませんか」
秀麗な若い笑顔にのせられたのか「これも不思議なんですが、中身は間違いなく増えていたのに、そのビンが空(から)になるペース、かなり速かったんです」そう首を傾げつつ答えた。
「どういうことですか?」同時に問うた二人、いわんとする意味がわからなかったのだ。
「そのセント何とか」銘柄名を覚える気などさらさらないようだ。「新品が空になるペース、いつもならほぼ同じです、夏と冬では多少違いますけど。ところが今回に限っては、随分速いなって。なぜそれがわかるかですか。だって不用品の仕分けも仕事の一つですからね」
「今の時期だと、どれくらいのペースで新品が空になってましたか」
「週に最低でも二日は休肝日と決めておられましたし、翌日の仕事を考慮しビールだけの日も。夏場は特にそうなんです。それでこの時期は二週間に一度くらいのペースでした」
「なるほど」二人は同時に肯いた。
ところで藤浪は「ですがここ数日は葬儀などで心身ともの疲れがひどく、そのぶん酒量が増えた可能性もあるのでは」と、さらなる疑問を。性分で、疑義は全て払拭したいのだ。
「それがですね、逆にほとんど飲まれていません。理由はわかりませんが」
セントニックの分量が増えた話、疑うわけではないが、事実とすると奇天烈(きてれつ)だ。飲んだのに量が増えるとしたら酒を売る側はたまったもんじゃない、となろう。むろんそんな道理もなく、ということは量が増えた理由だが、他のウイスキー類とブレンドしたとか水で薄めた…はしかし、通である病院長に鑑み、あり得ない。名酒の味と香りを貶める行為などするはずないからだ。それにブレンドした形跡はなかったと家政婦が証言したばかりだ。
そこで違う理由を考えた。唯一の可能性は、新品のセントニックを開封し、約半分に減った方に補充しほぼ満杯にした、かその逆。新品の方から約半分の方へ少し注ぎ、新品の方をテーブルに置き、約半分の方を自室か病院の院長室に持って行った、である。“量が増えたにしては、中身のなくなるサイクルが速い”の理由も、これで一応の説明がつく。
だとして、そんな必要性はどこに?それとも単なる気まぐれか。それはともかく院長室に持って行ってとして、空のボトルを邸に持ち帰った理由がわからない。では、自室へ運んだということか、本当の寝酒とするために。だがこの憶測は、いかにも苦しい。
ところで六本単位での購入という証言のおかげで、ボトルに薄っすらほこりの付いた不明指紋の理由がわかった。静電気等のせいで、空気中の微小なほこりをボトルが吸着したのだ。熟成からビン詰めまでを担う、三人しかいない職人の、この件には無関係な古い指紋だったというわけだ。伝統を重んじる彼らは、プレミアムバーボン、セントニック十五年物を、職人が量りながら手でビン詰めすると以前聞いたことがあったのを、家政婦の口述から思い出したのだ。どうでもいい猥雑事だが、おかげで内心スッキリしたのだった。
「酒類の、その補充方法は」セントニックの十五年物と違い、同じテーブルに並べられるサントリーの“響”やマーテルXOなどは簡単に手に入りそうだと思ったからだ。
「セント何とか以外は、空になる前に酒屋さんに頼み、サイドボードに私が補充しておきます。箱単位でネット購入されるセントは、旦那様のお部屋へご自分で運ばれました」
すると、もう一本を自室に持って行く理由はなくなった。思考回路のシステムに異常をもたらす小さな嵐が頭の中で暴れ始めた気がした。今それを考えることは休止するにしかずだと。「ということは、セントニックのサイドボードへの補充は病院長が?」
家政婦は黙って肯いた。
「なぜセントニックだけそうなのか、その辺の経緯を聞かせてください」
「経緯もなにも…。旦那様がそうするとおっしゃったからで」
「いつからですか」
「今年の三月からです」
理由を訊き出すすべがない以上、内容を替えるしかなかった。「さきほどの質問に関連しますが、毎日の朝食と祝日の昼食や土曜の晩御飯のとき、父と子はどんな風に食事されていましたか」平日、病院長が晩御飯を摂る前に家政婦は邸から退出していたので、普段の三人の晩の風景を知りえないはずと織り込み済みだった。それで訊かなかったのだ。
「そうですねぇ、お坊ちゃまの方が一緒を避けておられたのではないでしょうか。傍からはそんなふうに見受けられました。朝食などはいつもご自分の部屋でしたから」
――となると殺しの線は薄いな――昼間も思ったが、殺意や動機を想像できないのだ。殺人は大きなリスクを伴う。関係が一触即発だったならば殺人に発展しても不思議はないが、そんな問題が起きる前に距離を置いていたのである。それに、もし抜き差しできないほど険悪だったなら、恵子が納得しなくても、別居という選択肢をとることもできたのだ。
ならば突発的殺人…と惑(まど)った。しかし突発を示唆する状況を、微塵も感じ取れなかった。
「ところで直人さんの睡眠障害の原因について、何かご存知ですか?」口調が改まった。これも非常に重要な質問ということもあり、関係者全員にぶつけたのだった。
家内の出来事に対しじつは好奇心旺盛な中年女性だったが、しかし仕事柄それをおくびにも見せず、そのためか睡眠障害については初耳という顔つきで首を小さく横に振った。
「直人氏が睡眠障害だったという話、貴女の耳には入っていませんか?」
それに対し、なぜか申し訳なさそうに「ええ」とだけ。
「ですが直人氏の言動などから、あるいは思い出すきっかけになるかもしれませんので質問を続けます。朝食はお聞きしましたが、平日の夕食は奥様と二人だけで?」
「ええ。ただ、今回のように奥様がお出かけの日は自室で、あっ、それと、…これは関係ないんでしょうが…。というのも、半年以上前のことですから」饒舌とはいえ、言い淀むしぐさをみせた。見当違いだと発言を断られそうだったからだ。
「何でしょう?貴女に不具合がなければお願いします」意外な方向へと進路が変わったが、藤浪はそれも良しとした。これが因で一点突破し、解決へと向かうかもしれないからだ。
「オフレコということなら、不具合の心配はないんですけど…」
「お約束します」即行で断言した。殺人事件の可能性に道筋をつけれる情報収集であれば最高との、もの欲しげな手が喉から出ていた。
「ならお話します。正確には八カ月ほど前からですが、夜間、よく外出なさっていました。そんなとき夕食は召しあがらなかったり、帰宅後に召し上がったりでした」翌日の朝食作りの段階で、コーヒーを淹れたあとに出る挽いた豆カスをゴミ箱に捨てるさい、前夜の生ゴミを見ることになり、それで帰宅後に食べたかどうか知ることができたと説明を加えた。「食べなかったときは残らず廃棄する、というようなことは、奥様のお蔭ですぐに改まりました」命をつなぐ大切な食べ物を粗末にしたくなかったと、さらに述べたのである。
また脱線したが、さきほど怒らせたばかりなので今度は制止しなかった。理由はもうひとつあった。義父からは全く出なかった外出の件に、デカとしての興味が湧いたからだ。
「その夜間外出ですが、どこに行ったかおわかりになりますか」
見当もつかないと、残念そうに首を横に振った。
「では、出掛ける前はどんな様子でした?」八カ月前とはいえ、外出先でのトラブルに死亡の遠因があるかもしれないとも考えたからだ。
「ごめんなさい、説明が下手で。確かに外出とは申し上げましたが、それは病院からといいますか…。仕事を終えられたその足で直行なさっていたようです」
とは、家政婦がいる時間には帰宅しなかったということだと、見当をつけた。
「ただ、朝の時点でいつもより入念におめかしされてました。恋人でもできて、今夜はデートかなとの印象を受けました。ところが、二カ月ほどのち、急に外出をされなくなり…」
「急にですか。で、止めた原因わかりますか?」意気込んで尋ねた。なにごとにつけ、急なる変化には原因となる特別な理由があるものだ。それを調べだす手間を惜しんではいけない。彼の愛読書、名捜査官と謳われた人物が書いた“捜査のいろは”にそうあったのだ。
「わかりません」と首を横に。数瞬後、「…ですがぁ」そう続けようとし、そして躊躇した。
「ですがって、何でしょう?どんな些細なことでも教えて頂きたいのです。事故か自殺か事件か判断する材料を、僕たちは喉から手が出るほど欲しているのですから」
正面に座る若い二人の刑事の真剣さが、彼女にいやまして伝わった。それで肯くと「外出しなくなった直後から明らかに食欲が減退し、当時はえらく沈んでいらっしゃいました。相当なショックを受けたんやなと傍目にもわかるほどに」
「ふられたからでしょうか」と、至極当然を口にした。
「さあ」と首を傾げ、「わかりません。誰も何もおっしゃいませんから」いたって真面目な表情になっていた。「ただ、学生のときも振られたとしか思えないお坊ちゃまを知ってますが、比ではないような。そうはいっても、恋慕の大きさで受けるショックも違いますし」
ところでだ。一連の証言の中にじつはある重大なことが含まれていたのである。ただし、発言した本人も聞かされた捜査員も和田すらも、その重大さをもとより知る由なかった。ただ、今回の件を解くうえでも、別の件の真相を知るうえでも重要そのものだったのだ。
それはさておき、重複する質問だが重要なのでと、角度を変えてあえて実行した。少し時間が経過しており、何か思い出したかもしれないからだ。「当日の朝食を不要と言われたと先刻。以前にもありましたか」責任感と使命感、加えて生来の正義感から真相を突き止めずには引き下がれない、上司からこの件の担当を命じられた彼は初心で、そう決意し臨んだのである。引き受けた事案として、忽(ゆるが)せにするつもりはさらさらなかった。
「半年前は一カ月近く続きました。ですが、それ以降はちゃんと摂っておられました。お医者さんご一家ですから、朝食をしっかり摂ることの大切さを…」
半年前に何があったかを翌日、家族に訊くなどして巡査部長と調べはした。だが、杳としてわからなかった。
「朝食の重要性、小さい時から教えこまれ習慣づけられていたというわけですね」もう夜も遅い。それで次の質問に移った。「前日の朝、珍しく翌晩の献立を注文なさった。そうでしたね。なぜその夜ではなく翌晩だったんです?出掛ける予定でもあったからですか」出掛けたとしたら、その時に落ち込むような問題を抱えたのかもしれない、そう考えたのだ。
「それは違うと思います」
自分としてはいい着眼点だと自身を褒めかけていた憶測に、あっさり冷や水を浴びせ掛けられた。勇み足ぎみになったのは、焦っていたからかもしれない。
「そういう予定ならおっしゃったはずです。以前、晩御飯をお召しでないことがたびたびあり、あ、言いましたよね。ある朝、奥様が注意なさいました。『要らないならそうおっしゃい、人に作らせておいて失礼でしょう』それ以来」知らせるようになったというのだ。
――そうやった。『奥様のお蔭で』とさっき――そのときに訊いておけば勇み足をせずに済んだのだ。すぐ反省した。「で、要らないときは貴女に事前に言(ゆ)う。そういう慣例ができたのですね」家政婦が肯くのを待って続けた。「それにしても、なぜ翌晩だったのでしょうか」
「それは、前日の晩の献立がすでに決まっていたからです、旦那様のご要望で」
予想外の答えだった。そんな捜査員の口が動こうとするのを制し、
「旦那様は、月に二・三回あるんです。だから珍しくはないですよ」最前、口を封じたことへのしっぺ返しのつもりであった。少し溜飲を下げたのか、嬉しそうな表情になった。
「なるほど」残念な憶測だったと認めざるを得なかった。しかしガッカリは少しもなかった。「それで、当夜、直人さんが帰宅されたときの様子は?」
しばし思案の、眉間にしわがよった。基本的には直人に対し好感を持てず、関心も薄かったからだ。「そう言われれば物凄く暗い顔でした。相当へこんでおられたように見受けられました」懊悩の理由を刑事が知っていて、教えてくれるのではないかと、内心、期待したのだが、当てははずれたのだった。それで、一種の誘い水を向けることにした。「こんなことが参考になるか…。でも何でも教えて、でしたよね」二人が肯くのを待って、「あの夜は、帰宅するなり自室へ。それで八時十分前、部屋の前まで行き「お食事、お運びしましょうか」と尋ねたのです。ご要望の料理でしたから。するとね、「これを済ませたら自分で冷蔵庫から出すからいい。冷麺、冷たい方がいいから」との返事が返ってきたのです。
ここで若さが出た。懸案を早く解決したいと逸(はや)ったのだ。じつは重要な証言であったのに逸したのである。「では、ズバリお尋ねします、自殺だとした場合」さらい、不具合な印象を与える質問の仕方も迂闊であった。もっと慎重を期すべきだったということだ。
訊かれた途端、好奇心が眸の奥で見え隠れし、ではなく満身から横溢し、「えっ、自殺なんですか?」と勝手に解釈するだけでなく、口元とほほを緩め逆に尋ねたのである。
仮定の話と言ったにもかかわらず、好奇心から、仮定をうつつへと勝手に曲げてしまう人を、居酒屋などでたまにみかけるが、このオバちゃんもその類いか。
「勘違いさせたのなら申し訳ありませんが、あくまでも仮りの話です。もしそうだった場合、何かお心当たりは?」遺族ではないぶん、大胆な質問はたしかに可能だった。しかも彼らの傍にいるのだ。身内みたいなものである。一家の秘密に長けていて不思議はなかった。――さすが大阪のオバはんや。好奇心もやけど、他人の不幸は蜜の味…なんや、きっと。昼間は、母親の気持ちを察して泣いてたのに――仕事柄、被害者の不幸な日常を見ているだけに、少ない訊きこみ経験ながらも、この手の人間も少しは見てきたのである。
一方の家政婦はというと、直人に対し――生意気な若造――との不満を日ごと秘めていた。突然の死に同情はするが、自殺するほどの苦悩を抱えていたとしたら、――ええ気味や――と。よほどに癪に障ることをしかも何度か経験させられたようだ。そんな汚く醜い思いも心の片隅にあったのである。それが口元とほほに出たのかもしれない。さすがにマズイと思ったか、さらには自身の醜さに気づくと、「…」家政婦はその一瞬、黙したのだった。直後、目を伏せ表情を急ぎニュートラルにしたのである。
そんな女性特有の、産まれ持っての技を垣間見たのは同性の若い女性刑事であった。しかし、家政婦がみせた醜さなどどうでもよかった。真相究明こそが眼目なのだ。
そこで、家人ではないとはいえ、たしかに答えにくい質問ではあると。それで誘い水のつもりで、「お仕事に障るマネも決してしませんから」と、家政婦の立場を汲んでみせた。それから、「どうか教えてください」と懇願した。これこそが、掛け値なしの本音であった。
邸の近所でも訊きこんでいたし、渡辺総合病院でも目立たぬようにだが、していた。さらに他の病院にも情報提供を願ったのである。全て、巡査部長たち別働隊が頑張っていた。
しかし、優良情報を得られなかった。こんな不調は、日数を掛けても変わるものではない。事実、三日後も同じだった。できれば決定的な、そうまでなくとも、確信の持てる証言を、マラソン選手が途中で特製ドリンクを欲するように、強く望んだのだった。
明日もう一度、直人が勤務する医科で、当日の直人の精神状態を、今度はお座なりにならないように細心の注意をしながら訊いてみるつもりでいる。
しかしながら、(時の流れを多少無視させてもらうが)結果は同じこととなるのだった。
家政婦から得た以上の優良情報を、入手できなかったのである。悪口に繋がること、理事長があとで知って情報提供者を首にする、その理由となる言を、前回同様、教える者はいなかったということだ。また他の病院が、御曹司とはいえ、まだひよっこにすぎないボクちゃんに関心を持ち、その情報を集めるなんてことも当然ながらなかったのである。
さればとてここで、若い二人が頑張っている家政婦への事情聴取に戻るとしよう。
「そうは言われても」困惑げに呟いた。「なにせ、ご家族間の会話はあまりありません。私がいないところでは、奥様とお坊ちゃま、旦那様と奥様はむろんいろんな会話をなさっている様子です。けれどよそ者の私がいるときは、通り一遍の会話しかなさいません。外に洩れるのを警戒なさってのことでしょう。ご家族のことで知ったといえば、お坊ちゃまが医大に合格されたこと、もっとも一浪でしたが。それと一年半ほど前、ようやく医師免許を取得されたことくらいです。その時はもの凄いお喜びようで、特に奥様は。念願叶ったとわざわざ、この私にお教えになったほどでした」それから申し訳なさげに頭を下げた。
ところで、病院長の話と重複する内容とはいえ、この口述にも大事が含まれていた。
二十七歳の渡辺直人が医師免許を取得して一年半弱。調書にもあるとおり医大への入学も一浪もなら、合格率およそ90%の国家試験も一浪で合格したくらいだ。だから、優秀とはお世辞にも。ゆえに家政婦が述べたように“ようやく”であり、両親の、特に母親の念願叶った合格だったに違いない。それでも義父が「前途洋々」と称した直人だ、ふさぎ込むほどの悩みを仮に抱えたにしろ、自殺なんて勿体ないこと、考えもしなかったであろう。

二人の捜査員は夜分の訪問の詫びを、そして協力に対する礼を述べ家政婦宅を辞去した。

不連続・連続・不連続な殺人事件 第六章  溺死体に悩む藤浪警部補(前編)

検視担当官や機動捜査隊の意見、それに現場の情況などから事故か自殺で、他殺の線はごく些少として、初動捜査のあとを引き継いだ若い警部補(キャリア組であるゆえ)はベテラン刑事とともに、二者の取捨をするための情報収集とその判断を任されたのだった。

藤浪という名の警部補はまず、バーボン摂取後に相当量のアルコールが血中に取り込まれるまでの時間を計算した。それで死亡推定時刻は早くて八時半ごろ、あるいはそれより遅めの八時四十五分から五十分くらいではないかと、現時点での独自の見解を持ったのである。しかし上には報告しなかった。科学的根拠に乏しくあくまでも私見だったからだ。

その、高級バーボンのボトルとグラスだが、鑑識によれば、ボトルには病院長と直人と家政婦、それと鑑定が困難な古い指紋を検出したとのこと。グラスからは直人と家政婦の指紋、食器類にも二人の指紋が付いていた。逆をいえば、怪しげな指紋は検出されなかったということだ。一方、指紋を拭い消した形跡はなかったとも。偽装工作を疑う状況にはない、となる。だとしたうえで殺人を想定した場合、犯人は手袋をしていたことになる。
ちなみに既述の睡眠薬入り小ビンだが、じつはサプリメント用のビンであった。藤浪は疑問を懐いた。誰がいつ、どんな理由で入れ替えたのか。しかも、錠剤に通常施されているプラスチックの包装を取り払ったむき身として。その理由と、さらにはいつ誰が?
発見時、鑑識がビンを調べ、中身は科捜研にまわした。いうまでもないことである。ビンからは渡辺病院長と子息直人の指紋のみを検出したと鑑識。他方、科捜研。中身は証言どおりベンゾジアゼビン系睡眠薬ハルシオンで、直人から検出したものと同成分だったと。そこで同一品かを確認するための精密な検査がなされた。結果、完全に一致したのである。
それで、テーブル上にあった睡眠薬をグラスに入れたバーボンで溶かしながら飲んだとの見方が有力視されることに。たとえそうであっても、藤浪は睡眠薬がむき身だった理由等々を病院長に訊くべしと、脳内の海馬(たつのおとしご)にメモったのである。

早い段階で記された、星野管理官作成の捜査資料から和田が得られたのは、概ね(藤浪警部補の思考内容までは当然わからなかったが)以上である。
和田は次に、別枠でファイルされた三人の供述調書(供述録取書ともいう)を開いた。責任者欄には、藤浪警部補とあった。
ところで溺死の件だが事故死として処理されたことを、和田は各種報道により知っていた。だから供述調書も、義父と家政婦のアリバイ等から鑑み、事故死を前提にした程度の、通り一遍で作成されたものだろうと思っていた。だが、思いのほか入念な事情聴取がなされたと読みとれる内容であった。さらには、藤浪の優秀さも垣間見てとれた。
「一昨日(昨日は葬儀当日であった)、こちらにお電話したあとのことですが、病院に行ってきました」火葬場から帰宅したのを見計らっての昨夕、面談のアポイントはとっていた。「カルテを調べるために。ですが、存在していませんでした。で、導き出せる結論は一つ。なぜ、息子さんに正式な診察を受けさせなかったのですか?カルテ作成は義務付けられてますよね」と、逸(はや)る藤浪はまず問うた。ズバリ、義理の息子に睡眠薬を渡した件についての質問から入ったのである。診察が正式でないと決めてかかったのは、薬ビンに親子二人の指紋以外なかったからだ。
直前に述べたお悔みは忘却の彼方へと、すでに霞んでしまっていた。
当然の疑問を病院長にぶつけたと、捜査資料を既読し医師法違反を疑っていた和田は、若き新米警部補をでかしたと褒めてやりたくなった。薬剤師の指紋が付いてなかったのは、処方箋が存在しなかったからだと。ゆえに正規の手続きを経ていない由も疑ったのである。

頭から事故死と決めての事情聴取ではないことが、この鋭い質問からもわかる。さらに、事前の準備においても一切手抜きをしなかったこともだ。まるで、殺人事件を扱っているかのような意気込みすら感じとれたのだった、経験豊富なデカのごとくに。
医師法違反を指摘すれば病院長は強気ではいられなくなる。弱みを握られたとわかれば、ウソをついてこれ以上心証を悪くするのは得策でないと考えるに違いない。また、親子のやり取りだから情状を酌量してもらいたいと、悪くいえば媚びを売ってくるだろうからだ。

しかしその前段階において、カルテの存在を問われる事態が病院側にとっては愉快でないために、捜査員の依頼の仕方が悪ければ、医局の協力を得られなかったに違いない。なぜなら令状がない以上は任意となり、病院は拒否できるのである。しかも若き警部補は病院を相手とする捜査経験がないどころか、捜査そのものにもまだ慣れていないはずだ。よって、カルテを調べる自体ひと苦労だっただろう。とはいえ、労作業だったからと調査に粗漏があり、手落ちを基にした見当違いの質問を、病院長に発することも許されないのだ。というのもカルテがないイコール診察をしていない治療上の薬剤投与は、医師法22条等の抵触する可能性のある大問題だからだ。よって、当然ながら慎重を期したはずである。

それで警部補はまず、インターネットで睡眠薬を処方する医科を調べたのではないか、と和田。精神科だけでなく神経科・精神内科・心療内科・内科でも処方することを知った。

渡辺総合病院の各医科ごとに足を運び、渡辺直人のカルテの存在を調べてもらったのだ。睡眠薬処方に関連しているとは告げず、事故死の裏付け捜査のためとおそらく偽って。
ところでこの件に対し、純粋な捜査以外の煩瑣が、若き警部補に派生しなかったとも思えない。一枚岩ではない府警本部がどこまで捜査員に協力的だったか、警察官歴三十年近い和田ならばこそ疑われてくる。むしろ、足枷(あしかせ)程度の制限をもうけたのではないかとも。
事件性が薄く事故の可能性が高いとの初期判断がなされたこの件のような場合、人員の投入は当然削られたに違いない、とみた。それゆえ、藤浪が所属する係から部下を貸してもらい、せいぜい三・四人で当たっただろうと推察したのである。
固陋(ころう)が府警上層部を支配している現実。ゆえに、なかには真相究明よりも円満な解決、マスコミと国民の忘却により事が済んでしまうならそれでよいという怠慢な風潮。さらには事件の片がついた後、その部署からはずれる人事異動後に何が発覚しようと自分は無関係だったと、自己保全のみに身をやつす役人根性丸出しの輩も旧態依然、存在するからだ。
彼らこそ忘恩の徒輩であり、まさに、“日本警察の父”と称される薩摩藩出身の明治政府高官川路利良をして、草葉の陰で悲嘆の眉へと曇らしめ、忸怩(じくじ)にあえがしむる所業である。
いずれにせよ、警察自体にはびこる悪しきしきたり、そして本来の捜査とは無関係な窮屈と真相解明などより自己保身を最優先させる巨大な警察組織(特に上層部)の一部病巣に対し、正義感に燃える若き警部補は、やがて怒りすら覚えることとなる。
「質問に答える前にひと言。そんなあなたなら、とっくにお調べになったんでしょう」不快感を隠そうとしない病院長は腕組みをし、口をへの字に曲げた。
藤浪は、病院長の発言の意味を察しかねた、「何をですか」と。あるいはとぼけたのか?
「直人について、です。むろん、どんな仕事についているかも」
これに対し、「ええ」や「まあ」などの曖昧でお茶を濁そうとはしなかった。「渡辺総合病院で、臨床研修医をなさってました」ズバリこの方が、話が早いからだ。
「つまり、当院に勤務しているわけですから、本人にすれば『うちやと顔見知りの医師や看護師ばっかり』当たり前ですよね。『睡眠障害の原因をあれこれ詮索されるのが煩わしいからイヤや。それとカルテも作らんといてや』と勝手なことばかり。『あとで誰かが見たら、尾ひれまでつけて噂を肥大化させるに決まってるし。そうなったら僕自身、他の病院に移るで』そう脅したあと直人は、『ともかく医師法違反を盾に薬を出せないなんて言うんやったら、よそへ診察を受けに行くまでやから』と脅したのです。まず第一に、息子が他院で勤めるなんて妻が許すはずありませんし、責任を私が取らされる破目にも。それは何としても回避しなければなりません。また他院での診察にしても、あとあと変な噂をたてられてもと考え、仕方なく手渡した次第です。医師法22条に抵触するのは覚悟の上でした。息子の申し出とはいえ申しわけありません」さすがにこのときばかりは見逃してほしいとの下卑た心みえみえで、ひと回り以上は年下の捜査員に丁寧に頭を下げ謝罪したのだった。
ところで、今は医師法違反になど何の興味もない捜査員たちは「あなたが危惧した変な噂とは?」と、事情聴取にのみ専念した。
なぜなら、医師法違反で逮捕したとして、検察はおそらく起訴猶予とするだろうと、さる名門大学の法科大学院を優秀な成績で卒業したこの警察官(司法試験と国家公務員総合職試験合格のキャリア組)は踏んだ。証拠捏造等で検察に対する世人の目は厳しさを増している。こんな時期に、家族の病気というプライバシー秘匿目的の医師を起訴すれば世間は同情するだろうし、そんな世論を無視できないと検察庁は考えるはず、そうみたからだ。
加えて実際の話。親族が被疑者を隠秘した罪で起訴されても、裁判では刑が免除(刑法105条)されるに似て、犯人蔵匿罪(刑法103条)等において検察は裁判で幾度となく苦汁を舐めたのだ。それでもあえて起訴し、そのぶん税金の余分な使用をすれば、悪質な犯罪行為のためではないのにと、マスコミからの批判と世の不評を買うことにもなろう。
「よそで受診した場合、親の病院を信用してないからとか親に知られるとまずい理由があるからやとか。とかく悪い噂となり、尾ひれまでついて、そのために当院の信用を落とす。それだけは避けたかったのです」眼前のデカが違法を咎めなかったことに安堵したからか、社会的地位に裏打ちされた自信のゆえか、本来のゆったりした口調に戻って答えた。
だが実際には、信用失墜より妻の不興をかう方が自分にとっての被害は大きい、そんな腹だったのである。この、損得を計り尽くした打算だが、やがて実体が明らかとなる。
だが捕らぬ狸の皮算用、病院長にとってこれ以下はない最悪を迎えてしまうのだ…。
「なるほど。で、睡眠薬を所望されたのはいつでした」
「妻が旅行に出かけた日の昼、院長室で、です」
「そのとき、ご子息はどんな風でした」今度はベテランが、口を挟むように尋ねた。
「とおっしゃいますと」先日からの質問の連続で、今だけでもそっとしておいてほしいが正直な気持ちだった。しんどいのである。だから、間の抜けたことを訊いてしまったのか。
しかし、もしこの間の抜けた問いが演技なら大した役者に違いない。
「悩みをかかえ沈んだ感じだった、落ち込んでいた等々、受けられた印象のことです」
即答だった。「感情を表に出すタイプやない、少なくとも僕に対してはそうだったので、それに数日前のことでもありよくは覚えていないのですが、これといった印象は受けなかったのではないかと。つまり、普段どおりやったように」と、それからしばし沈思した。数瞬後、低く唸りながら左の掌を額に押し当てつつ、「思いだしました。そう訊かれて、ええ確かに、悩みごとを抱えている風に。しかしあくまでも印象です。処方させるための演技だったとも考えられます。そういえばあのとき、入院患者に変なのがいて同室の患者さんが転院したい云々で、僕はその件で頭を悩ましていたものですから。頭の中、まだ混乱しているようです。頼りなくて申し訳ない」病院長も大変なのだと言いたいのだろう。
たしかに、心身の疲労は無理もない。名士だけに仮通夜から葬儀まで参列者は多かった。それらの段取りから式後処理まで気が抜けなかった。加えて、喪主も三度務めたのである。
しかも陰が囁く「酒好きやったって噂やし。お酒飲んでから風呂に入ったんと違うやろか。としたら、医者のくせに不注意やわ」「ほんまに事故なん?自殺って聞いたけど…」「いや、私は殺害って聞いたし」等の無責任な放言の数々、耳に入ったのもあったに違いない。
睡眠不足の上に、精神的・肉体的疲労が重なっていたことは想像にかたくない。
幸せ家族の突然の不幸に、ここぞとばかり、人は、悪意の想像を逞しくするものなのだ。
それでもお構いなく部下のベテラン巡査部長は、相手の表情を観察しながら尋ねた。「睡眠薬を渡されたのは、さきほどのお話からだと直人氏に睡眠障害があったからですね」
「ええ。ですが正直、悩むほどの問題があったとは…」答える表情に特に変化はなかった。
悩みがないのはお坊ちゃまだから、とは口にせず「なるほど」と肯くと、「ですが人命が失われました、捜査に抜かりがあってはいけません」ご協力のほどをと軽く頭を下げた。「そこで睡眠障害の原因について。何かお心当たりは?」遺族に対し厳しい質問である。
「医師の立場からも当然、尋ねました。が、何も…。いまだに心を許していないからでしょう、残念です」溜め息をひとつ吐くと少しの沈黙をおいて続けた。「だから直人の都合で僕を医者として利用したり、父親としていいように接したり。まあ、そんな感じです。今回は医者として便利使いしたのでしょう」曇った眉は寂しそうにも、わけありともとれた。
だがこのとき捜査員たちは、家庭内にまで首を突っ込むことはしなかった。親子間が義理であれば、ぎくしゃくはしないまでも、しっくりいかないのは当然と思えたからだ。
また、事故死か自殺の判定とも関係なしと判断したことにもよった。義理の関係が不具合くらいでは、酒と睡眠薬に頼った自殺はしないだろうし、医師がそれらに幻惑され、毎日入る風呂で事故を起こすとも考えにくかった。不和であれば、別居すれば済む話だとも。
「睡眠薬のビンに、お二人の指紋以外ついていなかったわけを詳しくお聞かせください」
「処方箋がないわけですから薬剤師に依頼はできません。それが理由です」同じ話をさせられたことに内心閉口しつつ、「僕の指紋はですね、ビンに睡眠薬を入れたときのぶんでしょう。それと、誤用を防ぐため、服用方法を直人に手渡ししながら説明しました。そのさい箱からビンを取り出しましたので」いつしか父親というより病院長の表情になっていた。
「ご子息も医師でしたね。誤用などあり得ますか?」と、これも巡査部長。
「この期に及んでもなかったと…。しかし」言い淀み唇がしぼんだ。ややあって「医師免許取得は約一年半前。考えてみれば実際、経験も知識もまだまだ半人前でした。また睡眠薬にも各種あり、効能や副作用にも各々違いが。それで親として万が一を考えたのです。老婆心でしょうか。それに医師として長年の習慣が出たことも否めません。それはさておき、もし別人の指紋が出ればかえっておかしなことになるかと」当夜、第三者が睡眠薬を飲ませたとなると、殺人の可能性が出てくる。病院長としても義父としても、殺人事件として扱われるのは何かと煩わしいし正直イヤだ、そんな印象を与える表情を隠さなかった。
猜疑心をもっていえば、第三者の指紋が検出されなかったことで殺人の可能性はかなり低いと、逆説的にそう匂わせた、ともとれた。
「余談ですが、ビンには元々、僕のサプリが入ってました」とは、訊かずもがなの追加。
だが二人は無表情を装い続けた。「睡眠薬を渡された場所は」今度は若い警部補が問うた。
「家です。院内で手渡すには互いに抵抗がありました。私の場合、特にそれは」“違法行為”との言辞を避けて供述したのである。触れたくないからだろう。「どこであれ許されませんが、院内でだと二重に犯しているようで。それで家の方がまだ…。一方、直人は、もし誰かに見られたらマズいではなかったかと」刑事を正視できず徐々に目を伏せていった。
「渡された睡眠薬の量は」
「就寝五分前に一回、一錠服用で二週間分でした」
鑑識の報告書では残量十一粒となっていた。三粒服用したということだ。もらった日に一錠、当夜は二錠だったとすれば、計算上不自然さはない。一応、納得顔で肯いてみせた。
「では、渡された睡眠薬が入っていた小ビンの箱は、今どちらに」
そう問われ、視線を捜査員に戻した病院長は、「ということは、直人の部屋にはなかったということですね」逆に尋ねた。ホームズやポアロでなくとも簡単にできる推理だ。瞑目し「…」一旦口を閉じた。ややあって、「親馬鹿と嗤われようとも、とにかく不適切な服用を避けるために服用方法を紙に書き、それとビンを箱に入れて渡しました。ですがその後どうしたかまでは」口述に間違いがあってはいけないと、思いだしつつ答えている様子だった。「不要だと、捨てたんでしょうか…」深い溜息を吐いた。無念を表わしたものなのか。
それはともかく根がまじめで親切なのだろうか、懇切丁寧に答えている印象を、読んでいる和田警部補は受けた。それとも、“医師法違反”の先制パンチが効いたからなのか。
ところで院長の質問めいた発言をあえて無視し、「手渡されたのは奥様が出掛けられた日でしたね。そのわけは?」と藤浪は続けた、ゴミの件は家政婦に訊くべしと考えながら。
「直人なりの理由ならあったかもしれませんが、僕には」このときは首をひねった。質問内容が意外だったからだ。しかし後刻、さりげなくフォローする、直人の発言に絡ませて。
読みながら和田は、藤浪警部補がこの件を任された背景を想像した。上層部の誰かが学閥の後輩に経験を積ませるため、肩慣らしのつもりで殺人事件ではない件を担当させたのではないか。もちろん本人には、責任性が薄いからという理由は秘匿しただろうが、とも。
だとするならば先輩キャリアの素人考えだ。これは肩慣らしには全くもって不向きである。熟練でも手に余る難件だからと、和田の勘がボソッと自身に告げた。
「お疲れのところ申しわけないのですが、本当に疑問だらけなんです。直人氏が院長より早く帰宅されていたのはなぜですか」だから結果的に、遺体を発見することになったのだ。
「母親で理事長でもある妻の意向です。直人は頑健な体ではないうえに、医者という仕事は精神的にも激務です。医科にもよりますが、患者さんのお命をあずかるわけですから」
「大変なお仕事ですよね。それに、モンスターペイシェントに悩まされることだって…」あるいはこれが睡眠障害の原因ではないかと、予断による質問をぶつけてみた。
しかし「いえ。まだまだひよっこですから、重要な案件を手に患者さんと接することはありません。ですからそんな心配はないでしょう。が、暴言や暴力をはたらく輩にもし遭遇したら、理事長が黙っていません。直人を護るためなら警察の介入だって躊躇しないでしょう。本来なら、病院に介入させるのは控えるのですが」と、簡単に否定してしまった。
「では、臨床研修医ともなれば日々の勉強が大変と、こういうわけですか」通り一遍の捜査など眼中にないのだろう、あくまでも死の心因(自殺と想定した場合)を探ろうとしていた。むろん、真因(事故死か他殺を想定した場合)も、である。
「まさに、妻の心配はそれなんです。『家での安らぎの時間が短すぎる。最後の外来患者に合わせてたら、家でゆっくりできるのは十時間半程度や』となります」妻の言の部分、思わずの浮かない表情でボソリ。「仕方ないのかもしれません。一人っ子だから甘くなるのでしょう」愚痴っぽくなったのは本音か。短く小さな吐息は、病院長としての不満を表現していた。「体調を崩して病気にでもなれば大変と、午後七時半には家に着くよう、理事長の権限で決めたのです。それなら一緒に晩御飯も摂れますし、直人の様子を窺うこともできますから。だからあの日も直人は普段どおりにしたのでしょう、母親が不在にもかかわらず」恥ずかしそうに言った。「せいぜい一年くらいで終わればいいと思っていたのですが…」
と、ここで突然ベテランが「自殺とは考えられませんか」最も肝心な質問をぶつけた。
藤浪は感心した、《虚に乗ずる》ことで――本音を吐露させん――を見て取ったからだ。
唐突で非情ともいえる問いへ返答に詰まった一瞬ののち「想像だにできません。というより今は、何も考えられない」と徐(おもむろ)に。義理とはいえ、息子の死に衝撃を受けたというのか。名状しがたい表情になり、「なぜそんな質問を?」と質問に質問を重ねた。

「そうだと疑う理由は今のところ…。だからこそ、その可能性を身近な方にお聞きしないわけには」ベテランらしく、誤解を生まないよう答えた。むろん本音は、捜査員として死の真相を明らかにしなければ、に尽きる。「どうかお気を悪くなさらないでください」
刑事の立場を理解して、「仕方ないですね。医者だって治療のため、患者さんが嫌がることでも訊きますから。ですが妻にはその質問、避けて頂けませんか」と懇願の眼つきで。
「絶対にとは…。ですが、できるだけそのように配慮を」と言いつつ了解の眸をみせた。
肯いた義父の思考の眉が続いたあと、「よほどでない限りは自殺なんて…。やはり、想像できません」そう返答した。
了解の眸で応えた。だが納得してはいなかった。「しつこいようですが、睡眠薬を渡されたときも、必要とする理由やその心因について、直人さんは何も明かさなかったのですね」
「ええ。残念ながらこれっぽっちも。それで、まさかあんなことに…」少し機嫌を損ねた様子でぶっきらぼうに答えた。「こうみえて、医者のはしくれですし義理とはいえ父親です。だからしつこいと言われ嫌われようとも、その点、二度・三度と尋ねました。でも」と首を横に振り、キッと唇を固く結んだ。そしてロウ人形のように沈黙したのである。
捜査員たちは、仕方なく黙って続きを待った。
やがて院長は徐に詳述を再開した。言葉つきも態度も元に戻っていた。「自殺なんて!人生これからという年ですし、まだ未熟とはいえ医者という社会的地位も手にした。しかも十五年後には院長となる身、前途洋々やないですか」と言うやゴホンと一つ咳をした。
「なるほど。ひとが羨む将来を約束されているわけですね」さきを促すための相槌を打ってみせた。じつはキャリアの藤浪も、三年以内には警部に昇進する身なのである。
相槌につられたのか、「ええ。だから穿(うが)った見方をすれば」と断りを入れつつ「睡眠障害など本当はなかったのではないかと…」唐突、捜査員には寝耳に水の発言をしたのだった。
青天の霹靂とはかくの如きか、渡辺卓の発言の真意を忖度(そんたく)できずにいた。
「いや、不確かな穿ちは止しましょう。所詮は憶測であり、欠席裁判の呈ですから」と口をつぐんでしまった。それから、家政婦が先刻運んできたコーヒーに初めて口をつけた。
二人も含んだ。まず香り立ち、直後にコクが広がり僅かな酸味もほどよかった。その軽い刺激が藤浪の明敏な脳に疑惑を立たせた――何か企ててるのでは――。だが心証だけで根拠はない。それで質問を続ける中(うち)、秘匿事を探りだす取っ掛かりを得られればと考えた。
ややあって、先刻の問いに対し何か思い出したのか、開口した。「急な不幸に見舞われ、また疲れと睡眠不足で頭が混乱しています。それでよくは思い出せないのですが」病院長の口調は元のゆったりめに戻っており、「問題の日の朝は、いつもと違っていたようにも」と首を捻った。「何か問題でも起きたのか、沈んでいる風にも。ですがあくまでも印象です」
ちなみに“義父犯人説”を捨てきれない藤浪は、相手を混乱させるような質問を故意にぶつけた。もし犯人ならば、言わずもがなの不用意発言をするかもしれないからだ。「直人さんの様子ですが、睡眠薬を所望された時にあなたが懐いた印象とは、今の話、言葉にニュアンスがあるようですが」
それに対し、理解しかねるのか少し考えてから「それは前日の昼間の…直人の様子についてでした。しかもそのすぐあと、悩みごとを抱えている風にもみえたと言い直したはずですが」そう、気分を害しながら答えたのである。たしかに陳述のとおりであった。
真相解明に努めたい、一計の藤浪のいわば勇み足?であり、若さが出たということか。
藤浪を見据えつつの病院長。「沈鬱との印象は、当日朝のことです。前日の昼の要求時とは十九時間ほどタイムラグがあり、その間に直人に何かが起こったとしても不思議はない」
この言が正しいなら、死亡する前の夜にトラブルが発生したということか。直人の携帯履歴と家の電話の受送信履歴を調べる許可を、間髪入れず義父の卓から得たのだった。
翌日、両電話会社に問い合わせたのだが、不審な通話記録は見当たらなかった。
真相解明とは程遠い状態のままだ。
ところでここにきて、卓の口述がどこか慎重になった、換言すればより正確を期しているようにとれたのだ。彼に何か思案があってのことか。藤浪の思い過ごしか。だがまさかこの場で、病院長の言動を観察しているベテランの見立てを聞くわけにもいかず、青い藤浪は人間観察の経験不足から判断に窮し、ただ黙して推移をみるべしにここは一応決した。
そんな思惑に反し、「とにかく、当日のことは正確性を欠くので、話を、薬を手渡した時点に戻して考えます」病院長はまるではぐらかすように、話題をタイムトリップさせた。
親として義理の息子の死が辛いからか、病院長として触れられたくない話へと展開しそうになったゆえにか。警部補はどう舵を切ればいいかわからず、決めた方針のままとした。
「あの若さで心身ともに健全であれば、睡眠薬など必要としません。表現は悪いが、僕を脅してまで所望したからには、相当な理由があってのことでしょう」話は右顧左眄の風、寸前の発言を訂正している呈だ。「当然心配になり、手渡すときに大きな悩みがあるのかと尋ねたことは先刻も。しかし貝のように口を開かなかった。となれば、もはやどうすることもできないではありませんか」最後の方は投げやりで少し感情が出た発言となった。それから少しあって「しかも口止めさせられたのです、むろん睡眠薬の件ですが」と言った。
意外な発言に、二人はつい身を乗り出した。「どういう理由で、誰に対し、ですか」
「直人の言うには『おふくろに要らん心配かけたくないから』と、院長室で。『心配の件、ついでにあんたにもやで。四・五日か、長くても一週間くらいで、薬、要らんようになるやろうし、そしたら返すさかい』退出間際、背中越しにそう言いました」
――あんた呼ばわりか。婿養子でしかも義理の父親に対してやとそうなるんかなぁ――いずれにしろ我が儘に育ったのだろうと思った。そして「もう少しお付き合いを」感想とは別を口にした。「睡眠薬っていろんな種類がありますよね。なぜハルシオンを選ばれたのですか」流れに変化が出たのを歓迎しつつ、機を見るに敏なベテランの方が質問をぶつけた。
「トリアゾラム、商品名でいうとハルシオン」と、俄かに医師の顔になった。「理由は超短時間型の睡眠導入剤だから。神経を鎮め緊張感をほぐし気分をリラックスさせる抗不安作用の効能、つまり精神安定剤的な効果も期待できます。また自然に近い眠りを誘いますし、翌朝の眠気や不快感も少なくて済む。命と関わる医師にはこれが一番相応しいといえます。加えて不眠治療にも適していると判断した。乱用しなければ、まあ安全度の高い薬です」
警部補、「なるほど、それでハルシオンにされたのですか」一歩引く形で納得してみせた。
しかしどこかわざとらしいその態度が癇に障ったのか、病院長は「ええかな、そろそろ仕事に戻らんと。今日の午後四時半には病院に戻ることになってるさかい」クルリと背を向けた。事情聴取の当初、医師法違反があったため低頭したが、もはやなかったような態度だ。「その前に少しでも仮眠しとかんと。なにせ、ここんとこまともに寝とらん。通夜や葬儀、また失意に苦しむ妻を守り励ますのも私の役目やったから。頭の芯が少し痛いようでもあり、頭の回転も鈍い。今日のところは引きとってくれ給え。このままでは仕事に支障が出かねん」最後は名目上の当主として、病院を統率する院長の命令口調となっていた。
しかし彼らとて、否、今は彼らこそが仕事をしているのである、しかも徹して。居間を出ていこうとする病院長の背中に、警部補が質問の毒矢を放った。「素人なので教えて頂きたいのです。飲酒後にハルシオンを服用した場合、どうなりますか?どういう状態になるかという意味です」答えに対し、まやかしは許さないという強固な意志が横溢していた。
ベテランはというと、質問の間に院長の表情が見える位置にまで移動したのである。
もとより、ハルシオン服用前後の飲酒が御法度であることなど承知の上での質問だった。
しかし彼らが淡く期待した答えは、当初返ってこなかった。動揺や何か隠そうとしている顔つきでも、さらになかった。むしろ、医師として暴挙を鼻で笑っている表情だった。「そんなことをすればハルシオンの効能が増強されるでしょう。ですから使用上の注意として、医師は必ず患者に飲酒厳禁を伝えなければなりま…」との、説明するのもバカらしいと云いたげな言辞が、しかし急に止まった。その直前、眉が翳ったのである。「ちょ、ちょっと待って下さい」重大な何かに勘づいたのか、さらに顔つきが変わった。「な、直人の血液検査を踏まえての質問?なんですか」行政解剖がなかったのだから血液検査による血中アルコール濃度を検査したと、医師としてそう推測したのである。そして、刑事からの答えを聞く前から想像はついたのだろう、俯きかげんの“邯鄲(かんたん)男”(能面の一種、人生に思い悩む男を演じる役で使われる)の面(おもて)でもつけたような、暗く重い表情になったのだった。
「ご推察の通りです。ご子息の血液から、多量のアルコールが検出されました。もちろんハルシオンもです」振り向いた病院長の表情を藤浪は凝視しつつ、あとは口を結んだ。
捜査員たちの硬い表情が、病院長には非情に映った。
「バカな!まがりなりにも医者ですよ。酒との併用が暴挙だくらいの知識はあったはずです。それでも念を入れて釘を刺した。だから、そんな愚行…信じられない」と吐き捨てた。
反論により息子の名誉を守ろうとしたのか。あるいは警部補の言への意味のない反論は、悲劇的事実を妻に知らせる酷い立場を避けたいとの願いから出た精一杯の抵抗だったか。
藤浪は同情の声音で、「残念ですが、事実です」と発した。そしてデカの素顔に戻った。「ところで直人さんの部屋のテーブル上に、ウイスキーとグラスはあったのですが、アイスペールはありませんでした」との重要だと思う疑問をぶつけかけたところ、
即答で「当然です。セントニック十五年ものほどな上物をロックや水で割るくらいなら、端(はな)から安酒を飲んどけばいい」味音痴に最高級酒を飲む資格なしと鼻で笑いながら、病院長は、仕方なく居間の隅のイスに座った。「僕は年だからチェイサ―(強い酒の直後にのどを潤す水など)を横に置いておくが、あの子は若いから胃も肝臓も元気そのものでしょう」
若い警部補はセレブとは別の世界を棲みかにしている。それに普段は酒を飲まない質で、そんな飲み方に馴染みがなかった。まあ、他者の飲酒を注視しなかったせいなのだが。
ただ、直人の場合は、義父譲りかまたは祖父からの伝承かもしれないと、一応納得した。
「それにしても、何で酒と一緒にあれを飲んだんや」病院長は独りごつと顔を伏せた、目の前に立つ警察官の存在を忘れたかのようにだ。
「具体的にお聞きします。飲酒との併用はなぜだめなのですか」さきほどは少し脇道に逸れたので、今度こそはといわんばかりにあえて、さらなる専門的意見を聞く形式をとった。
そして二人は渡辺卓の顔が見える位置へイスを移動し、腰を掛けた。
我に返ったように面を上げ、捜査員の視線にさらした。「正しく服用しても記憶力低下や妄想などの副作用も発現する場合があります。薬とはそういう物ですから。さらに飲酒は、むろん量にも由りますが副作用を増大させます」息子の、《医者の不養生》が悔しいのか、誤用を制止できなかった自分を責めているのか、一言一言噛みしめながらの発言であった。
「承知であえて併用した、とは考えられませんか。それほどの大きな苦悩を忘れるために。だったら、医師にも関わらずとおっしゃった説明もつきます」執拗な質問となったが、ある推測が外れた警部補は、今は不明や不詳という後悔の種を残しておきたくなかったのだ。
「忘れたいほどの苦悩ですか…」そしてまた沈思した。今度は短かった。「感情を表に出さないと申しましたが、それにしても感じとれませんでした。一緒に暮らす直人の様子を私見の限りでは、苦悩にふさぎ込んでいるまではなかったと。だから、腑に落ちないのです」にて留まり、またも思案顔になった。“腑に落ちない”の肝心の主語を言い淀んでいる風だ。
黙ったまま主語の正体に頭を悩ませた二人。が、正着には至らない。待つしかなかった。
ややあって、病院長は決心した眼つきとなった。
直後、二人が耳にしたのは、想像の外の見解であった。
「…薬、本当に必要だったのか…と。どうしてもこの疑惑を払拭しきれないのです」で、また言葉を切った。だが、まだ何か言いたげではあった。
にもかかわらずその言葉を待たずに、「えっ?どういうことですか」意味するところだけでなく、相手の意図をも思惟できなかった藤浪の口が動いてしまったのである。若いから経験不足はいた仕方なかったとはいえ、勇み足による思慮不足は否めないと、やがてこのやりとりを思い出すたびに、藤浪は赤面しつつ強く自省することになるのだ。
そんな若造の心層を忖度することなく、病院長は踏ん切りをつけたように、「ある種脅迫めいた言動が睡眠薬を出させる演技やとしたら、真の目的は…」またもや独りごとのよう。入手先が判然としないのを、いや入手そのものが記録に残らないのをいいことに別の用途に使おうとしたのではないか、しかも悪いことにと匂わせたのである。さらに小声は続いた。「まさかとは思うが…相手は…」とつぶやき、渋い顔がここで押し黙った。
この一連の言動だが、刑事たちに忖度させ、己が意図を伝えるにこれで充分だとの深慮があってのことかまでは、年かさの巡査部長でも判然としなかった。
一方、成果を挙げたいと血気にはやる警部補は大いに気になったので、すかさず問うた。ただ、声のトーンは極力抑えた。「何がまさか、です?」病院長が醸し出している空気をあえて壊したのは、何回かあった沈黙により、続きをうやむやにされたくなかったからだ。
渋面が、問われたことで苦虫をつぶしたような表情に変わった。困惑の風にもとれた。
不快顔のまま、長く低く小さい唸り声が、渡辺卓の喉の奥から洩れたのである。
もどかしい藤浪は、相手の背中を少し押してみることにした。「真相を知りたいのです。(死亡原因の)判断に困っているので、どんなことでも構いませんからおっしゃってください」恩にきますと言いたげに、深々と頭を下げた。
それでも黙考は続いた。さらに瞑目した。が、やがて腹を固めたのか、パッと見開いたその両眼は光を帯びていた。「親は子の若気の至りが心配なんです。たとえば今回の苦悩を忘れるために女性を、性の道具として利用しようと思いつき」いつの間にか少し早口になっていた。「その前に、効き目がどれほどかを自身で実験した。だから酒と併用した。若き短慮というやつで、それがまさかの不幸な結末を生んでしまっ…」受けたショックのゆえであろうか。唐突に言葉が切れ、代わりに大きな溜め息が呻き声とともに洩れたのである。
「なるほど、自身で試した人体実験ですか。併用もそれなら説明がつきますね」合点した藤浪だった。頭脳は明晰でも、性根が単純だからなのか。
「もし不埒な用途に使ってたら、渡辺家は困り果てたでしょう」レイプにより、代々の家名と病院を”嫡男が潰してしまったかも”という意味だろう。「それは、不測により避けられた。…しかしながら結果は知ってのとおり、正真正銘の最悪となってしまった」閉じた瞼が小さく震えた。一方、動きを止めた唇は強い意志を示すようにぎゅっと結ばれていた。
病院長の心の揺れの意味に悩みながら二人は、口を挟むことなく次の言葉をじっと待った。真相解明に期待しているからだ。さらに藤浪は心底で、罪を犯したのなら自白をと。
だが次の言は「不埒を考えてたにしては、当日の朝の様子に合点がいきません」であった。疑問を呈しただけで真相解明とはならなかった。結局、たしかに直人は普段より暗かったわけだが、それなら”人体実験”とは符合しないではないかといいたげに聞こえた。
しかしそうとも言えないと和田。朝はまだ不埒に考えが至らないまま悩んでいたが、帰宅前には、女性の体を苦悩解消の道具にする算段に至っていたとすれば辻褄が合うからだ。
「暗い表情が、演技だったとは考えられませんか?睡眠薬を要求しているご子息の様子は、演技の可能性ありとおっしゃっていましたが」ベテランの方が訊いてみた。
質問に当惑げな表情を浮かべつつ頭(かぶり)を振りながら「わかりません」と。経験豊富な精神科医といえど、判断しかねている風にみえた。
が、これが演技なら大したものだと、ベテランは正視したまま感じた。
「嗚呼…」やがて悔恨と無力感がないまぜとなったような嘆息が口をついて出た。「死んでしまうくらいなら…。いや、僕が細心の注意を払っていればこんな不幸は起きなかったのではと自責しながら妻にも申し訳ないと」いなや、沈痛な表情が色濃くなっていった。「むろん、…人体実験とは言い切れません。が、そうだったなら実験などせず、いっそ直接、不埒に使ってくれた方が、恵子にとってはよかったかもしれません。犯罪に及んでも生きてさえいてくれたらときっとそう思うでしょうから」これが妻への憐憫だったとはいえ、犯罪を容認するという人としての配慮に欠けた、あまりにも感情に任せた発言をした。
先刻までの医師らしい冷静さはどこへ行ったのか。その、突如の異変の因は?身内を突然亡くすと果たして、人はこんな不道徳も考えてしまうのか。単にただそれだけなのか。
それにしてもどこか似つかわしくないとも。社会的地位や性格のゆえであろうが、今までは立ち居振る舞いも沈着冷静にみえたから、二人には釈然としないのかもしれなかった。
だがともかく、言動に小さな矛盾をみた気がした二人、否、和田を含む三人は。
言動の小さな矛盾。そこには、何かの意図があってのことだろうか。
義理とはいえ、身内の名誉を踏みにじる発言、さらには自身の人格を疑われるリスクすら負う証拠なき言を発したのは、不幸を防げなかった自分への歯痒さのせいか。あるいは、まさかだが、立証するに何の手だてもない警察に対し、犯罪を隠匿せん自己防衛がゆえか。
捜査員にも、供述調書を読んでいる傍目八目(おかめはちもく)の和田ですらもそこまではわからなかった。
ところがだ。「お恥ずかしい話ですが、今のは杞憂が発した空想の産物です。正直、あまりの不幸に心身とも、もはや限界なんでしょう。思慮分別なく、ついお二人の仕事熱心に誘導されてしまいました。不本意な仕儀と反省しています」と先刻の落ち着いた口調に戻っていた。「忘れてください」卓の過去八年において二度目の、謝意を込めた低頭をした。
「それはどういう」発言の意図をつかみかねてすかさず尋ねかけたのを、
「警部補さん」院長は両手で制しながら「申しわけありません。過労による妄想、疑心暗鬼です。どうか聞かなかったことに。あまりにも突然だったので今もなお頭が混乱している、そういうことなんです」と、また少し早口になり、後半は怒ったような口調となった。
話の継ぎ穂を失ったデカたちを含む三人を、しばしの沈黙が支配した。ちなみに刑事たちの沈黙だが、義父の、百八十度違う急変に戸惑ったからというのが正直なところだった。
ややあって病院長の小さな咳ばらいが静寂を破った。「ご納得頂けませんか。では医師として、ないとは断言できない別の可能性についてお話しましょう」刹那、表情がいささか強張ったようにみえたのは何がしかの緊張のゆえか。しかしじきに溶けていった。「先述のとおり、ハルシオンは服用後に記憶障害を起こすことがあります。飲酒がさらにそれを増幅させてしまい、あろうことか服用すら忘れて習慣どおり入浴した、とも考えられます」講義のように学生を諭すがごとき口調となっていた。「この方が、先刻のより現実的です」
言われればなるほど、説得力のある仮説だ。また、脳内スクリーンに映像としても描きやすい。聞くほどたしかに、真相に近いとも思えてきた二人だった。
そんな様子を何気に、医師から義父の面に表情を変えつつ、「ただ原因はどうあれ、不帰の人となったことに変わりはありませんが」沈鬱な眉間のしわが俯いた。
しかし彼らはデカである。関係者の供述を鵜呑みしているようでは、焼きが回ったといわれてしまう。そこで、冷静になって考えた。結果、以下に落ち着いたのだった。
たしかに定見があちこちと揺らぐ申述だった。だが家人(かじん)としての動揺や疲労を考慮すると、それをおかしいとは言い切れないと、二人はそう思慮したのだ。それで趣きの違う質問となった。「当夜の八時三分から三分程度、息子さんと携帯でお話をされていますが、その内容は?」直人のスマフォの交信記録を見、携帯会社に問い合わせ情報を得たのだった。
ところで、今までの話から藤浪は正直な心証として、事故の可能性九割、自殺は一割弱、卓による殺人は一・二分程度とみた。つまり、事故でないとの観測は厳しい、となる。しかしながら完全にシロだと確信できない以上、デカとして鼻の蠢きを止められないでいる。
「ああ、そうでした。電話しました。おっしゃって頂いて思い出しました」俯いていたがゆっくりと水平に戻しながら、疲れた表情をそのままに、続けた。「病院からの帰宅時間の件で苦言を呈しつつ、いろいろ言いました。君だけが早退するのはいかがなものかとか、仕事にも慣れたやろうし通常勤務にするべき時期やとか。他にも、君の口からママにそう言ってほしい。ただし病院長命令ではないし、またそう受けとられても正直困る、とか。加えて、直人の立場や苦情を言ってきた人数や内容等、できる限りの説得をしたのです」
「なぜ問題の晩に、しかも、家ででも伝えられることを」当然の疑問を口にした。
「問題の晩になったのは単なる偶然といおうか、結果論です」徐々に、無表情という応答モードに変わっていった。「わかりました。妻が数日間不在のタイミングだったから、これが真実です。直人も大人ですから、すぐに母親に泣きつくとまでは思いませんが、告げ口的のことを言わせないために」続けて、直人の携帯は手続きをしなければ国際電話できないタイプだったこと、ホテルの電話番号を知らされているにしても数人の同行者がいる旅先にまで電話を掛けたりはしないだろうと察しをつけたからと。「それと自分で決める、その時間を与えるために。加えて、面談となる家よりも電話の方が伝えやすい、それでです」
「そのとき息子さんは何と」
「考えておくとのみ。素っ気ない返事でした」質問攻めにうんざりした様子が垣間見えた。
が、意気込みに逸る若き優駿(ゆうしゅん)は斟酌(しんしゃく)しなかった。
「そのとき、再度の使用上の注意はされなかったのですか、睡眠薬の」
「今となってはそれが一番辛い」またもや溜め息をついた。「『睡眠薬をなんで渡したんや、渡すんなら誤用せんよう、どうして徹底せんかったんや』と何度も責められ、そのたびに謝っています。が、果たして僕のミスなんですかねぇ」最後のは、誰に言ったものなのか。
穿った見方かもしれないが、とって付けたように感じた。少なくとも、不自然さは否めないと。しかしながら、これは和田の印象である。
「むろん妻が在宅していれば、誤用しないようにと伝えたのですが、あいにく」と言葉を濁した。「ちなみに妻は、自身をもずっと責めています。むろん、彼女には何の罪もありません。あっ、ごめんなさい、内輪の話で」少し卑屈にもみえる会釈をした。そして話を戻した。「家政婦さんに頼もうにもすでに家にいない時間帯ですし、引き返してもらうのも気の毒と。それに時間外でもありましたし」何度目かわからなくなった吐息を大きくついた、一番重く暗い。「≪後悔先に立たず≫といいますが、本当に悔やまれます。無理やり頼んで、私が帰宅するまで直人の傍にいてもらえば良かった…」次第に暗鬱な表情が浮かび上がると、愚痴を最後に沈黙し、また眼を伏せた。
静寂がのしかかるように、三人がたたずむ空間を支配した。捜査員たちも静かにゆっくりと息をするだけだった。
三分ほど経過しただろうか。沈鬱が覆う面体の卓は、考えた末に口を開いたのである。「捜査の参考になるならと、手渡し時の注意喚起について具体的に申しますと」ぼそり、声は低い。「食後二時間以上経過後の服用と飲酒は絶対厳禁。服用後の入浴も危険なので厳禁。最良のタイミングは、ベッドに入る直前だとも。それでも、今思えば油断がありました。注意しながら、直人も医者やし当然わかってるはずやと。真剣みに欠けてたんですね」自責しているが、心底からなのか口先だけのものか。むろん、本人以外わかろうはずない。「ただ、患者さんに対しても注意喚起は二度もしません。弁明するわけではありませんが」
こんな、やや一貫性に欠ける詳述や、質問に直接関係ない発言は、彼を苛む苦悶が発させたのか。疲労からか。いずれにしろ、病院長の心裡を知る手だてを見出せないでいた。
そうしているうちに相手は、またもや口を閉ざしてしまった。
どんよりした空気となったなか、二人は辛抱強く待つしかなかった。
だが、義父の口をついて出たのは愚痴だった。「飲酒していたと聞いたときは信じられませんでした」そう、苦しげに洩らし唇を噛んだ。「このあと、飲酒との併用を知った妻の嘆きがいかほどか。それを思うとあまりに哀れで…」言うなり目頭を押さえうなだれた。
藤浪は少し時間をおき「本日最後の質問です」と断りを入れ、「お辛いでしょうが教えてください。直人さん発見時前後のことです」義父の行動を知らねばと思ったからだ。
卓は唾を飲み込んだ。それから口を開き、…慌てて浴槽から出した直後の通報と施した心肺蘇生法、そして事情聴取、妻に掛けた辛く哀しい国際電話等、簡潔に述べたのである。
以上、多岐にわたる口述に接したが不合理までは感じかった。小さな不備や錯誤・矛盾は否めないが、混乱していれば、誰でも記憶が前後したり思い違いをするものだ。穿ちかもしれないが、ただ、父親として心底悲しんでいるふうにも見えなかった。
二人はこのあと、母親と家政婦にも事情聴取している。また、病院長には再度の事情聴取をお願いしていた。この再度の事情聴取もだったが、特に家政婦には念を入れていた。

突如、夫からの国際電話を受けた恵子は、あまりの衝撃に一人では何もできず、同行の婦人たちに付き添われ、やっとのことで帰国したのである。翌日の便で、だった。
病院長にもしたように、当然、まずはお悔やみからはいった。
やはり、彼らが辛くなるくらい消沈していた。肉親、いや母親というのはこれほどに打ちひしがれるのか、犯罪被害者家族と接した経験の少ない警部補はさらに胸が痛くなった。
義理の父親と実の母親。みせたふたつの悲嘆、まさに歴然たる差だったのである。だが、その方が自然とも当然だとも思えた。
客間の壁には、どちらかの趣味なのか能面が三面と、少し離れたその横に湖畔を彩る秋を描いた大きな写実的風景画が掛けられていた。窓際には花が活けられ、家政婦の手によったのか安息香という名のお香が焚かれていた。来客時の決まりなのかもしれない。落ち着ける佇まいは、上質の家具や調度類のせいだけではなかった。
「お辛いでしょうが辛抱頂いて、真相を見つけ出すお手伝いをお願いします」彼女の苦痛を鑑み、息子の名も死という言葉も出さなかった。ベテランの、せめてもの心配りだった。
母親は眼を伏せたまま、徐(おもむろ)に小さく無言で肯いた。その所作も蒼白な顔色も哀れそのものであった。
「睡眠障害の原因ですが、何かご存知ですか?」病院長にしたのと同じ質問からだった。
エステなどで普段から美顔に励んでいるのだろう、五十歳を超えているとはみえない美しさを保った母親だったが、苦痛に歪んだ顔で「睡眠障害ですか。いいえ…初耳です。もう立派な大人ですから、あの子からいちいち悩みを相談するなんて……」か細い声を発した。ようやくといった様子で、だった。しかし直後、顔をテーブルに伏せて嗚咽し始めたのである。上半身が咽びに合わせるかのように小刻みに波打つ姿が痛々しかった。
自分が旅行で浮かれていたことを、おそらく責め苛みつつ日毎夜毎に泣き尽したのであろう、目は充血し、瞼は腫れあがっていた。普段は気丈夫なのだろうが、今はみる影もない。このまま後追い自殺をするのではと、危ぶまれるほどの嘆きようである。
落ち着くまで、捜査員たちはただただ待つしかなかった。お悔やみに留め、同情や下手な慰めはかえって苦しませるだろうと考え、今は控えたのだ。嗚咽がおさまった様子にようやく、ゆっくりと静かに「次の質問ですが、ご主人からは止められており、事実、不適切とも思いますが、ただ不審がある場合は避けて通れないのでお許しください」と、断りを入れ再開したのである。同時に居住まいを正した。「自殺だったとして、動機にお心当たりはないでしょうか」絶望している遺族には、あまりに酷な質問である、間違いなく。
しかし自殺か事故死か等を判断しなければならないし、いい加減な断を下したあとで、隠れた事実が出、余儀なく変更したとなれば、警察はまたも面目を潰すことになるからだ。
が、考えもしなかった内容に、唖然が顔となった。「じ、自殺、ですか…。お、思いあたりません。健康体でしたし、悩みも特になかっ…」ようようそれだけを告げると刹那、眼が泳いだ。直後、その目と鼻をハンカチで覆い、肩が崩れ腰も折れて泣き伏せたのだった。
その様子、微かの表情とはいえ、何かを隠しているようにもどこか感じられた。それでも、予定していた簡潔な事情聴取に変更を加える必要性はないと判断した。よって、「健康体」との発言に対し、あえて質問はしなかった。家政婦に問えば済む話だからだ。ただし、次のことは確かめないわけにはいかなかった。ゆえに、落ち着くのを黙って待った。
「直人さんは、いつも何時ごろ帰宅なさってましたか」
「午後七時半には必ず」か細い声に変化はなかった。
「誰が決めたことですか」病院長の発言を疑ったのではなく、確認が必要だったからだ。
「それは私が。医師という仕事に慣れるまでは無理をさせたくないと」理事長としての威厳、渡辺家の真の当主、直人の母親としての思いがないまぜになって、我が子を保護するための小さな専横に出たのだ。だから病院長と違い、恥ずかしげではなかった。

二人は黙って肯いたのだった。

一方、母親は気力を振り絞った。「それに…、モンスター・ペイシェントの対応に当たらないで済むようにと…。それなのに直ちゃんたら…、どうしてママを残して先に…」あとは言葉にならなかった。刑事の存在などすっかり忘れ、ただただ泣き砕けたのだった。
ある程度の事件性があれば、帰宅時間を知っていた他者の存在について訊いたであろう。しかし事件当日、家族と家政婦以外の第三者が邸に出入りした形跡は全くなかったのである。といって、母親はもちろん、義理の父親にも家政婦にもアリバイがあった。さらにいえば、二人のどちらかを疑うにたる根拠もしくは不審な言動も現在のところないのである。
和田が読んでいる調書、アリバイの記述はなぜか後段だった。藤浪は疑っているのか。

ところで一般論ではあるが、自殺は、遺された家族に不具合という事態も少なくない。そんな場合、自殺の事実を隠そうとする。特に社会的地位とやらが高い遺族ほどその傾向が強い。宙吊りの縊死体を勝手に降ろしたり、風呂場で手首を切っていた死体を強盗に殺されたと見せるべく、包丁を隠し部屋を荒らした。そんな遺族も過去に存在したのである。

自殺だとして、母親がそれを秘匿したい心情を察した巡査部長は、家政婦に事情聴取しましょうと耳打ちで提案した。玄関で応対した、見るからに大阪のオバちゃんとの印象の、よくいえばふくよかで、遺族ではない中年女性になら突っ込んだ事情も訊けるだろうと。

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