巡査部長が口火を切った。「いつからこちらでお勤めですか」台所よりキッチンと称した方が相応しいスペースに、テーブルを挟んで三人は座った。このテーブルで食事をし休憩をとるのだろう。家政婦が落ち着ける場所こそ最適と、ベテランがここを選んだのだった。
「そうですね、かれこれ十七・八年、です」少しどぎまぎした顔が答えた。厚かましさでは世界ブランド?の大阪のオバちゃんも、デカの質問にはさすがに緊張するようだ。
「なるほど。となると渡辺家の事情にはお詳しい…」巡査部長の目尻の下がった優しげな顔が、声も言葉も表情さえも一層柔和にしつつ尋ねた。まずは不要な緊張を解きたいのだ。
それでもまだ警戒している家政婦は、小じわの目立つ顔をこわばらせつつ小さく肯いた。
「いつがお休みですか」
「毎、日曜日です。祝日はお仕事です」
「大変ですねぇ」井戸端会議のような会話で和ませようとした。「ところで、貴女に対し何の疑惑も不具合の心証も懐いておりません。ご安心を」犬好きがプードルに相対したような顔で諭した。「殺人の可能性が低いうえに、貴女には確実なアリバイもありますから」
それを聞いてそこそこ安心したのか、見た目にもわかるほどに肩のラインが下がった。剥げかけた口紅以外、化粧っけのほとんどない顔のこわばりも緩みはじめた。
少し馴染んだ様子に、質問し易くなったと警部補も安堵した。ベテランを見習い、簡単な質問から入った。「念のため、当家の家族構成について。第一発見者の病院長は義理の父親ですね」事情聴取など初めてに違いない緊張感をさらに解きほぐそうとしたのだ。先入観や思い違いなどのない正確な情報を得るには、まずはリラックスさせなければならない。
「そうです」当初、緊張感だけでなく警戒心も露わだった表情が、ずいぶん和らいだ。
「そして奥様が病院の理事長。つまりそういう力関係なんですね」笑みをたたえながら。
「そういう力関係」との意味を了解しつつ家政婦は肯いたあと、「奥様のお父上が先々代の院長を十四年ほど前までなさっていましたが、奥様の前の旦那様を後継者に据えられたのと同時に引退なさり、その後は亡くなるまで理事長として。つまり奥様は、そのお父上のあとを継がれたのです」今までなりをひそめていた生来の饒舌が徐々に発揮され始めた。
「つまり渡辺総合病院は、奥様のご実家が経営なさっていたと、こういうことですね」
「はい。今のご主人は、前院長が交通事故でお亡くなりになったあと、ご養子に入られたのです。その前院長もご養子でしたが」ようやく慣れてきたようだ。世間話然と、口が流暢になった。おしゃべりは、大阪のオバちゃんの多くが受け継ぐ”環境DNA”のせいか。
「現在のご主人は、いつ病院長になられたのですか」
問われた家政婦は、顔を近づけるよう手招きした。「七年半くらい前でしょうか」彼女もテーブル越しに身を乗りだすと小声で。雇い主の耳を気にしているのだ。「前のご主人が亡くなられて三カ月もたたないうち、でも婚姻届は就任の一年後でした。院長としてまた娘の夫、さらには孫の義父に相応しいか否か、先代理事長が一年のお試し期間を設けた、そんな印象でした」訊いていないことまで喋ったのだった。
捜査員は自分たちが予測していたよりも早い、空白三カ月での新病院長就任にいささかの驚きを覚えた。そして前理事長が、家業の病院経営に支障が出る前に手を打ったのだろうと推察した。「では直人さんは、前院長との間にできたお子さんということですね」
「はい、おっしゃるとおりです」
若い捜査員は予め思い描いていたとおりに進む事情聴取に手ごたえだけでなく、あらためて仕事甲斐すら感じ始めていたのである。
「お子さんは、直人さんだけですか」
さすがにこの質問は、家族でないとはいえ心の琴線に触れたようだ。子供を亡くした女主へ同情がこみあげてきたからだった。涙がこぼれ始めたのである。エプロンのポケットからタオル地のハンカチを取り出し、刑事を前に憚ることなく大きな音を立て鼻を噛んだ。
こうなったら、泣き止むまで待つしかなかった。しかし時間は、覚悟したほどには掛からなかった。この様子から推察できること。結局、直人は好かれていなかったようだ。
「ええ、お一人です。それだけにご両親、いえ、奥様のご期待はそれは大変なものでした」
「でしょうねぇ」相槌のごとく返すと世間話でもするように続けた。ベテラン巡査部長の手法を概ねマスターしたからだ。「奥様が再婚なされたとき、直人君は二十歳前後。充分に乳離れしている年ですが、でももしマザコンなら…。現ご主人との間に軋轢や諍いはなかったですか」質問の意図は、義父の内奥に直人殺害への動機が隠されていないか、だった。
「お二人が会されたところをあまり見かけてませんからわかりませんが、仲が良かったということは、ね。けれどケンカやいがみ合いは?と訊かれれば、いいえとなりますね」
念を入れあえて訊くことにした質問なのだ。人間関係悪化が原因の殺人の場合、動機となる争いごと等、何らかの前兆があるからだ。さしたる理由なく殺人を犯す度し難い輩もいるが、相当の因がない限り人命を奪うなどしないものだ。「殴り合いもなかった、ですね」
「ええ、私が知る限りでは」
「仲が良かったとはいえないが、悪かったというほどでもなかったということですか」ベテランも大事と考え、独り言をよそおい入念の確認をした。
「そういうことです。ところで…こんなことお訊きしていいのかと?」主家の怒りをかってはと家政婦はさすがに小声になった。とはいえ、好奇心が露わなのは眼が物語っていた。
「どんなことでしょう?できる範囲でならお答えしますよ」巡査部長は気さくに言った。
「刑事さんたち、ひょっとして旦那様を疑ったはるんですか?」訊いたあと、ちょっぴり後悔の表情となった。しかし、「この質問、内緒にしてください」撤回する気はなさそうだ。
内密にとの願いには眼で肯いた。それから頭をかきつつ、「疑っているわけでは。ただ、小さな疑問でも消し去っておかないと、職務怠慢で叱責されます。警察も今や、何かと大変な状況にありますから」さらに「何といってもアリバイがしっかりしてますし」と、ベテランだけあって手の内を全てさらすようなマネはしない。
つまり些少の疑惑だが、残滓のように存在していることは伏せたということだ。それでも、家政婦の疑惑をば消し去るにしかずと、ここは決めた。もし予断を懐かせれば、自身、色眼鏡を通していると気づかぬうちに、病院長には不利になる勘違い証言や事実誤認を口述するかもしれないからだ。となれば捜査にいらん混乱を招く。それだけは避けたかった。
「死亡推定時刻は、最も遅く見積もっても午後八時半です。その時刻、病院長は院長室を退出するところでした。秘書の証言で確認しています。ただそれはそれとして、仮に殺意を懐くような出来事があったかどうか知りたかっただけで、いや、いささか勇み足でした」
ところで、殺人の可能性が低い最大の理由。それは、渡辺邸が一種の密室状態にあり、死亡推定時刻には直人以外に誰もいなかったからである。侵入者もいなかったことは、契約している警備会社の防犯カメラが捉えた映像により証明されていた。
さてその邸だが、敷地面積は四百五十坪とかなり広い。にもかかわらず、四方を高い塀に囲まれているとはいえ、見合うような高性能のセキュリティを設置していなかった。ただ、住居部玄関への入りや門扉の出、庭の前景等を六台の監視カメラ(四面の庭用は赤外線カメラ)が捉えて警備会社のDVDに記録させ、塀越えの侵入者にはセンサー感知による警報音を鳴らしたうえ、警察への通報と警備員の急行が義務化されていただけである。
警備保障会社との請負内容を、初動捜査に当たった機動捜査隊員から教えられた藤浪の部下二人が、その足で警備会社に行き、映像を両の眼で詳細にチェックしていた。事件前数日だけであったが、不審者は認められなかった。そして、肝心の死亡推定時刻前後の二時間だが、退出は家政婦のみ、入ってきたのは直人と病院長だけだった。それで藤浪は、退出時に戸締りをしたか、あるいは渡辺卓病院長にもは施錠されていたかは訊かなかったのである。侵入者がいなかった以上、施錠の有無に意味があるとは思えなかったからだ。
それにしてもと、金満家にしてはセキュリティシステムが弱いという点に引っかかった。
そこで契約を取りつけた社員に問い合わせた結果、わかった。当初は午後九時半以降、室内操作盤でセンサーをONにすると、部屋内から窓を開けた場合でも警報が作動し警備会社に通報がいくシステムだった。その契約を止めたのは十一年前、当時十六歳の直人の要望だった。自室(当時は一階だった。現在は二階の、死亡した実父の部屋)の窓や庭へ出るガラス戸を開けるたび警報が鳴るので、「煩わしい」と主張し契約を変更させたからだ。
窓や戸を開ける前に解除をするのが面倒と言って譲らなかったかららしい。深夜、コンビニに行ったり、エロビデオの類を借りに行くのを知られたくなかったからに違いないと、おしゃべり営業マンは憶測による説明をした。たぶんに、自分の経験に依ったのだろう。
他方、警備会社との契約を示すシールと監視カメラをこれ見よがしの位置に設置しておけば、泥棒が狙うことはないだろうと両親が納得したことも、その説明のなかであった。
の内容は知っていたはずだ。ならば、何らかの工作は可能なのか。藤浪はその点を問うた。
邸内でシステム電源を落とせば可能だが、調べた結果そんな形跡はなかったと断言した。
ところで、セキュリティの内容を知っていたかと病院長には訊かなかった。当然で、わずかではあっても疑っていると教えることになり、手の内をさらす愚となるからだ。
さてとと二人は、ひとまず事情聴取を保留することにした。「これ以上だと貴女のお仕事の邪魔になるでしょうから。もう一度、今度はあなたのお家でお願いできないでしょうか」
時計を見「そうですね。あまり片付いていませんが」と了解し、住所を告げた。
ここでようやく、煎れてくれていた冷めた緑茶を飲んだ。飲み慣れた安物だった。「あっ、最後に一つ。風呂場を拝見させてください」
現場写真では見ていた。だが、浴槽は予想以上に大きく全体に広かった。さらに、中庭に面した擦りガラスの大きな窓と天窓が印象的だと。――実家の風呂とはずいぶん違うな――追い炊きができる経済的タイプでないことも、小さな一因ではあった。そして浴槽はヒノキ、ではなく、ステンレスホウロウ仕様だった。いかにも滑りやすそうである。
六時間半後、警部補は女性刑事を伴って家政婦の自宅を訪れていた。同行者を女性にしたのは、口さがない近所のオバちゃんに変な噂を立てさせないための配慮であった。
(先刻同伴のベテラン巡査部長と別の部下に任せた他の訊きこみとは、時間的に少し前後するのだが、便宜上、家政婦への事情聴取をこのまま続けさせて頂く)
奥様から御裾分けでもらったという煎茶での御もてなしを受けていた。こちらはいい香りだった。ところで女性刑事だけが感じたこと、それは、家政婦はおそらく口紅を引き直し、ほほにも紅するなど薄く化粧をなしたに違いない、だった。朝方、出勤前にほどこした化粧ならばもはや剥げる時間帯、にもかかわらず、それなりの化粧(けわい)を見てとれたからだ。
そんなかわいい?女心に忖度することなく警部補、「直人さんの部屋のゴミ処理も貴女が?」いきなり、しかも「はい」との返答となる質問から始めたのだった。彼には必要であり、また夜分につきさっさと始めて、早く切り上げようとの心配りからだったのだが。
つまらなそうな表情を隠そうともせず肯くと、「ゴミは毎日分別し特定日に特定のゴミを指定された場所に出します。ご近所にうるさいおばさんがいますし」とオバさんは言った。
ちなみに、「あなたも充分にそうですよ」とは、間違っても言わない。
「つい最近なんですけど、サプリメントが入っていた箱、これくらいなんですが」大きさを示した。「見ませんでした?可能性が高いのは直人さんの部屋のゴミ箱なんですけど」
「さあ…。生ゴミ、缶やペットボトル、プラッチックとか新聞雑誌等を分別することだけ心がけてますから」さすがに大阪のオバちゃん、必要ないことまで答えの中に入れてくる。しかもプラスティックでもプラスチックではなく、プラッチックと発音したのである。「ですからおそらく、普通ごみとして金曜の朝、出していますね」
というわけで、貴重品や珍しいゴミなら別だが、小箱にまで注意が及んでいるはずなかった。ダメ元と思っていたので次に移った。「人物像を知っておきたいのです。直人さんてどんな人でしたか」邸では話しにくいだろうと。で、こちらで訊くことにしたのだった。
「そうねえ。まずはマザコン。悪い意味でのお坊ちゃま。わがままで自己チュウやったし。ともかく愛すべき人やなかった、特に私にはね」手厳しいが、これでも遠慮気味であった。
やはり、そうかと肯いた。「では、健康状態は?たとえば最近、仕事で疲れ果ててたとか」
「そんな風には。だいいちまだお若いですし。ただ、痩せておられた分、風邪をひきやすいとか、啓蟄(けいちつ)の前後に花粉症を発症される、それくらいでしたよ」
「頑健な方ではなかったとの意見もあるんですが」病院長の受け売りである。
「そりゃあ確かに体育会系ではなかったですし、いたって丈夫とまではね」
「食欲の方はどうでした?最近は減退気味だったとか」
「中・高生時の育ち盛りに比べれば旺盛とは…。でもここ一カ月、それはなかったですよ」と。じつは半年ほど前、極端に食欲が落ちた時期もあったが、関係ない話と触れなかった。「けど当夜に限り、冷麺と餃子は半分程度、スープは手つかずのまま残されていました」
卓の証言からも、死の当日、精神的に堪える事態があったかもしれないと。だが食べ残したことを理由に迂闊な断定はできない。病院で何かを軽くつまんだ可能性もあるからだ。
そんな不確定より、事情聴取にも慣れた塩梅(あんばい)を見計らって重要な質問を藤浪が発した。「問題の日の朝の様子、どんな印象を受けましたか」病院長の口述と一致するかどうかだ。
「ううん、そうですねぇ…。訊かれるまでは気にしてませんでしたが、たしか…、そう、朝のご挨拶に対して、返事なさいませんでした。うなだれた様子で、元気がないようにも」
当然といえば当然だが、言葉にニュアンスがあるとはいえ義父の話と一致したのである。
「それは何時頃でしたか」朝一なら、前夜に異変があったとみるが妥当だろう。
「邸に着いてすぐですから、午前七時過ぎでした、確か」自信ありげの「確か」だった。
「では、前夜の直人さんの様子はどうでした」ただし、午後八時までの様子でしかない。
「う~ん…」と首をひねってからややあって、「覚えていないですね、でもそれって印象に残ってないということですよね。普段といっしょだったからではないでしょうか」
「はっきりしませんかぁ。数日前なんですがぁ」と、少し残念そうだった。なりたての刑事だけに一層、“事件”の方に当然やり甲斐を感じるからだ。「ではこれはどうです、いつもと違った発言や出来事はなかったですか」そのためにも、確実な情報を欲したのである。
首を傾げたがややあって、「ご期待にそえるかどうか。ただ、そういわれれば前日の朝、珍しく献立を注文なさいました。好物の冷麺と餃子と冷スープを、でした」そう断言した。
「間違いありませんね」思わず念を押した。ちょっと引っ掛かる証言だったからだ。
それほどボケちゃ~いませんよ、という小さなふくれっ面でおばさんは肯いた。
わざわざ注文したほどの好物三品。なのに、なぜ残したのか。だがすぐに――病院で誰かからもらった軽食を摂ったかも――という、先刻のをさらに進めた憶測をした。そこで翌日、そんな事実があったかを調べたがわからなかった。あるいはボンボンの気まぐれか。
この徹底ぶりに感心した和田。――警部の捜査法とピタリや。うちに欲しいな――
ところで藤浪警部補がみせるモリモリの意気込みにちょっぴり気圧されながらも、「こうみえて料理自慢なんですよ。なかでも胡麻だれ冷麺とにんにく控えめ野菜たっぷり餃子はご家族の皆さんが喜んでくださいます。お坊ちゃまも楽しみやなぁって」と饒舌に鼻高々。
それを無視し、「『珍しく』とおっしゃいましたが、滅多に注文されなかったんですか?」とにかく判定の材料を得なければならない。上司は解明を望んでいる。ただ藤浪にすれば事件であってほしい。だからといって無理やりこじつけることは、最もしてはならないと、逸る心を同時に戒めた。いたって冷静に事実確認する方針を維持しなければならないのだ。
「回数的に一番少ないので。月に一回、それもあるかないかでしたから。でも食べ盛りのころはもっと多く要望…」オバちゃんの眼が生き生きとし、独壇場になりつつあった。
「わかりました、ありがとうございます」遮ったのは、自慢話へと脱線しそうになったからだ。大阪のオバちゃんの本領は違う答えで発揮させるにしくはないと、「問題の前夜は沈んだ印象を受けなかったと。ところが、当日の朝は元気がなかった。そうでしたよね」使命ともいえる、死の真相を探るべしとて、もう少し叙述させることにした。
一方、大好きな多弁は叶わずで、少し気分を害した顔つきのまま「はい」とだけ。
「九時半を少し過ぎましたが、もう少しお付き合いください。その朝の様子をできるだけ詳しく思い出して頂けませんか」機嫌を直させようと、媚びた眼と口調で頼んだところ、
若い男性の仕草に母性本能が反応したのか、勘違いの、久しい女心が揺らいだのか、少しはじらいながら笑顔をみせた。そしてふっと目を閉じた。集中しようとしているのだ。ややあって、「朝食はトーストでよろしいですかとの問いに、生気なく『いらない』と。それに、ヘアースタイルもファッションにも気を遣われる質なのに、あの日はほとんど気になさっていないようすでした。そうですね、双子のもう片方と入れ替わったようだと表現したならば、少々洒落ているんやないでしょうか」と。自画自賛の言葉に嬉しそうだった。
それに反応しないのを悪いとは思ったが、洒落ているかはどうでもよかった。ただ、想像以上の重要な証言、”食欲がなく身だしなみにも気がいかない精神状態”に接したので、オバちゃんを《置いてけ掘》にし考えた。――当日朝七時より前、つまり直人の覚醒直後に問題が惹起したとは考えにくい。やはり前夜、家政婦が邸を去ったあとで〝お坊ちゃま”が落ち込むトラブルがあったんや――この点、疑う余地はなさそうだ。――その時間、邸にいたんは義理の親子だけやった。前途を約束され大きな悩みはなかった直人が動揺する何かを、義父が言うたんやないか――根拠はないが、可能性は大きいと思った。それと、当夜三分間の親子の電話。これと、直人の死を無関係とするのを藤浪は良しとしなかった。
というのは、直人のスマフォの交信記録によると、義父とのやりとりはメールを含め、この半年なかったのである。そんな義理の親子関係なのに、当夜だけ電話を掛けたことに違和感を覚えたからだ。
たしかに、通話内容自体の病院長の説明だが、おかしいと首を傾げるものではなかった。
しかしなのだ。刑事になり立ての彼は若く、意気込みと正義感は並大抵ではない。つまり、真相究明に労を惜しむことなどあり得ない、ということだ。そんな彼だから考えた。あったのではないか、激しく動揺させる何かが、だ。
――携帯での父子のやり取りでそれを成し得たとしたら――単なる事故ではなくなる。ばかりでなく、未必の故意としての人為的事故、否、殺人だって可能かもしれないのだ。
しかし今はここまでと、思考をいったん止めた。訊きこみはこれからという状況なのだ。「ところで、直人氏が飲んだウイスキーのボトルとグラスからあなたの指紋も出てきました。別の捜査員の事情聴取によると、グラス等を部屋にもっていかなかったはずですが、なぜ…」との、ソフトな口調での念のための質問の途中だったにもかかわらず、
「今度は私を疑ったはるん。だとしたら…」歯は剥かなかったが、目を剥いて食って掛かりかけたのである。さっきは話の腰を折られ、また無視されたこともあり、明らかにご機嫌斜めになっていたところへの不用意な発言に、完全にキレたのだった。
藤浪はまさに、経験不足を露呈したのである。昼間に言っておいたとはいえ、疑っていないことを夜分の質問の前にも再度、確認してからにすべきだったにもかかわらず。
重大犯罪かもしれない件の関係者となってしまった一般市民は、デカの言動には敏感になるものだ。不慮の事態が発生し、嫌疑を掛けられるような立場になったりすれば、最悪、仕事を失ったり、人間関係が崩壊したりの、いわば社会的な死を意味するからである。
その昔、若気の至りで同様の苦い経験を持つ和田も、この失策には目を覆いたくなった。
だが、藤浪は若いぶん頭も柔軟だった。これはマズイと、まずは疑惑を打ち消すために誠意をみせたのだ。ホールドアップでもするように両手をあげた刹那の振る舞い、ついで「いや、決して」と飛び出した言葉でうち消しにかかったのだ。ただしやや早口にはなった。それは彼の人間性といおうか、何ごとにつけ真面目な性格によったからだ。「あなたには確実なアリバイがあると渡辺邸にて申し上げたではないですか。これっぽっちも疑ってはいませんからご安心を。それに動機だって…」よほど窮したのか、検証が取れていないことにまで言及しかけた。もしも和田はそばにいれば、口を手で押さえたであろう。
直後、「当然!」と吐いてくれた。短い言葉だが助かった。まだ怒りの残滓はあったが。
それが、この若き警部補の耳朶に永くこびりつくことに。これから、おそらく四十年続く警察官人生の教訓として。
さて、「怒らせて済みません」深く頭を下げながら、心の中で感謝した。言わずもがなだからだ。アリバイを理由に、オバちゃんに完全無欠の免罪符を与えることはまだできない。彼女には、直人を嫌っていたきらいがあるのだ、ごく弱い動機でしかないとはいえ。
警部補のそんな、手柄を立てたいとのデカ根性を和田は読みとった。横溢するほどなら暴走しかねないので具合が悪い。だが逆に、意気込みが欠乏しているようでは、そいつは失格者だと、和田は自分に照らし合わせ、そう思った。
謝罪を兼ねた弁明は続いた。「僕が貴女を意図的に怒らせること、言(ゆ)うはずないですよ」説明不足だったとまた低頭した。「どうか、許してください」情なさそうな表情が呟いた。「ただですね、指紋が出た以上、理由を訊かないで済ますと、あとで上から怒鳴られるんです」と、本当はそこまではない作り話をし機嫌を直させることに努めたのである。
「そういうことなら気の毒やから」少しく恩着せがましい。そして上から目線になった。
若くて見栄えがいい藤浪の相手が女性だから、この程度の言動で功を奏したのである。現場とその周辺を這いずりまわって捜査してきた和田からみれば、これから幾度となく壁にぶつかるだろうと予測した。彼の予想が正しいかどうかはのちのち明らかになるとして、警部補は、こういうわかりやすい性格の人は扱いが簡単なので助かると。実感であり本音だった。
「ウイスキーのビンは旦那様が、そう、ナイトキャップっていうんですか、女性が寝る前にかぶる帽子と同じ言葉なんですってね。面白いですね」またも脱線した。
油断だった。しかし若い刑事たちは笑わなかった。小さい咳ばらいが返答であった。
仕方なく、「ナイトキャップされることが結構あるので」と続けた。「でもお医者様ですから毎日は飲まれませんが、一応、リビングのサイドボードから適当に二・三種類出して、いつもテーブルに置いて帰ります。グラスは、洗ったあと乾いてからサイドボードにしまいます。指紋はそのときのですね」脱線に対し少し反省したのか、懇切な説明だった。
「ということは、問題の日もいつものようにテーブルに置かれたということですね」
「ええ。あ、言い忘れてました。旦那様お気に入りのセント何とかは、毎日必ず置きます」
そこで、病院長にもお願いした、チェイサー等を含むバーボンウイスキーに関連する質問をした、「直人さんも大体はセントニックなんですか」からだった。
「さあ。サイドボードには高級そうなのをいつも数種は。ですから何を飲んだはったか、全く覚えてません」飲酒習慣のない、ことに女性の場合、銘柄に興味などないのだろう。
「さっきの事情聴取の確認となりますが、貴女が邸を退出する直前、セントニックはリビングのテーブル上にまだあったでしょうか」どの時点で飲み始めたかを知りたかったのだ。
「私が出した状態のままでした、ボトルは三本、グラスもミネラルウオーター用と二個」
ということは、飲み始めたのは午後八時以降ということだ。それと、家政婦はいつも病院長の分だけを出していたということもわかった。
「とすると、直人さんが自室でウイスキーを飲むときなんですが、氷や水はどうされてましたか」大事な質問である。オバちゃんの言動に注視した。
「どうやったかなぁ」寸の間首をひねった。「そういえばアイスベールでしたっけ、鑑識さんが出していた現場の入室制限が解かれた昨日、部屋の片付けしたときはなかったですね」
「なるほど」義父にウソはなかった。「で、いつもはどうでした?氷は不要だったですか」
通常は、ミネラルウオーターも氷も置いていなかったことを家政婦は思い出し、「ピチャーも」と答えた。アイスベールはともかく、キャッチャーと間違わなかっただけ上出来だった。ピチャーならまだ意味が通じるからだ。「ミネラルや炭酸水も、いつもありませんでした。ただし、お部屋には飲み物やアイスクリーム用の小型冷蔵庫がありますから、喉が渇いたりしたら、麦茶やミネラルを適当に飲まれていたようです。もちろんビールや白ワインも冷やしてありました」無くなる前に補充するのも彼女の仕事であった。
鑑識が撮った現場写真には直人の部屋のもあり、今の説明で、冷蔵庫が写っていたことを思い出した。「ウイスキーを自室にもって行かれることはよくあったのですか?」
「週に一・二度でしょうか。でもセント何とかは記憶にないです。が、断言はできかねます。確かなのは、缶ビールだけという日や飲酒されない日も当然あったということです。ところで、お酒の種類の飲み分け方ですが、料理に合わせると以前おっしゃっていました」
「かなりの辛党ですね。で、冷麺のときは何を飲まれてました?」ベテランも左党だった。
「いつもはビールでした。でも、そういえばビールの空き缶、なかったですね」
あれ?とは思ったが、平常な精神状態ではなかったという義父との証言に鑑み、特に藤浪は問題視まではしなかった。「ところで、セントニックの十五年物は入荷しにくいのではありませんか」現場写真には、この高級バーボンも収められていたのである。
残念ながら飲んだことはないのだろう鑑識班員が、「こんな高級酒、誰か奢ってくれへんかな…、あはっ、安月給の仲間が相手では、やっぱ無理か」と言っていたのを思い出しながら。知らず知らず舌舐めずりしそうな彼から、入手困難との情報も得ていたのだった。
彼はあちこちを巡り、些細な事実であろうとも引き出させることで、なんとか死の真相を解く判断材料をと、餌にありつこうとするハイエナのように捜し求めていたのである。
「さあ、そこまでは」知らないらしい。「ただ、いつも半ダース単位を旦那様がネットで購入なさっていらっしゃいます」そう言ってから微かに首を傾げた。
「どうしました?ネットでの購入が何か」同行の女性刑事が、オバちゃんの眉の微妙な震えに気づいて問うた。同性だから、心の微動をキャッチできたのだろう。
「えっ?ええ…」と小さな逡巡を呈したあと、「そのぉ、セント何とかなんですが、今から五・六日前だったんですけど、妙なことがあったんです」首を傾げつつ囁くように言った。
家政婦の明々な変化に気づくと神経が明敏になり、「続けてください」警部補は促した。
「夜いつものとおりテーブルに置いたビンですが、残りは確かに半分程度だったのが、次の日なおすときに“あれって?”って。上が少し空(す)いてる程度、ほぼ満杯だったからです」
「えっ?増えたってことですか」女性刑事は、思わず問うたのだった。
合わせるように、「間違いありませんか?失礼とは存じますが、別のウイスキーなどもテーブルの上にお出しになるんですよね」藤浪は念を押さずにはおれなかった。
「間違いありません!半分だったのがほぼ満杯になってました!それに他の二つのウイスキーは前日の状態、つまり残量に変化などなく、位置はそのままで動かされた形跡もありませんでしたから」少しむくれて答えた。感情を隠さないのは、根が正直だからか。
「済みません。疑ったわけではなく、確認のためなんです」藤浪は子供っぽい笑顔を作って、情報をさらに引き出そうとした。「他に気づかれたことはありませんか」
秀麗な若い笑顔にのせられたのか「これも不思議なんですが、中身は間違いなく増えていたのに、そのビンが空(から)になるペース、かなり速かったんです」そう首を傾げつつ答えた。
「どういうことですか?」同時に問うた二人、いわんとする意味がわからなかったのだ。
「そのセント何とか」銘柄名を覚える気などさらさらないようだ。「新品が空になるペース、いつもならほぼ同じです、夏と冬では多少違いますけど。ところが今回に限っては、随分速いなって。なぜそれがわかるかですか。だって不用品の仕分けも仕事の一つですからね」
「今の時期だと、どれくらいのペースで新品が空になってましたか」
「週に最低でも二日は休肝日と決めておられましたし、翌日の仕事を考慮しビールだけの日も。夏場は特にそうなんです。それでこの時期は二週間に一度くらいのペースでした」
「なるほど」二人は同時に肯いた。
ところで藤浪は「ですがここ数日は葬儀などで心身ともの疲れがひどく、そのぶん酒量が増えた可能性もあるのでは」と、さらなる疑問を。性分で、疑義は全て払拭したいのだ。
「それがですね、逆にほとんど飲まれていません。理由はわかりませんが」
セントニックの分量が増えた話、疑うわけではないが、事実とすると奇天烈(きてれつ)だ。飲んだのに量が増えるとしたら酒を売る側はたまったもんじゃない、となろう。むろんそんな道理もなく、ということは量が増えた理由だが、他のウイスキー類とブレンドしたとか水で薄めた…はしかし、通である病院長に鑑み、あり得ない。名酒の味と香りを貶める行為などするはずないからだ。それにブレンドした形跡はなかったと家政婦が証言したばかりだ。
そこで違う理由を考えた。唯一の可能性は、新品のセントニックを開封し、約半分に減った方に補充しほぼ満杯にした、かその逆。新品の方から約半分の方へ少し注ぎ、新品の方をテーブルに置き、約半分の方を自室か病院の院長室に持って行った、である。“量が増えたにしては、中身のなくなるサイクルが速い”の理由も、これで一応の説明がつく。
だとして、そんな必要性はどこに?それとも単なる気まぐれか。それはともかく院長室に持って行ってとして、空のボトルを邸に持ち帰った理由がわからない。では、自室へ運んだということか、本当の寝酒とするために。だがこの憶測は、いかにも苦しい。
ところで六本単位での購入という証言のおかげで、ボトルに薄っすらほこりの付いた不明指紋の理由がわかった。静電気等のせいで、空気中の微小なほこりをボトルが吸着したのだ。熟成からビン詰めまでを担う、三人しかいない職人の、この件には無関係な古い指紋だったというわけだ。伝統を重んじる彼らは、プレミアムバーボン、セントニック十五年物を、職人が量りながら手でビン詰めすると以前聞いたことがあったのを、家政婦の口述から思い出したのだ。どうでもいい猥雑事だが、おかげで内心スッキリしたのだった。
「酒類の、その補充方法は」セントニックの十五年物と違い、同じテーブルに並べられるサントリーの“響”やマーテルXOなどは簡単に手に入りそうだと思ったからだ。
「セント何とか以外は、空になる前に酒屋さんに頼み、サイドボードに私が補充しておきます。箱単位でネット購入されるセントは、旦那様のお部屋へご自分で運ばれました」
すると、もう一本を自室に持って行く理由はなくなった。思考回路のシステムに異常をもたらす小さな嵐が頭の中で暴れ始めた気がした。今それを考えることは休止するにしかずだと。「ということは、セントニックのサイドボードへの補充は病院長が?」
家政婦は黙って肯いた。
「なぜセントニックだけそうなのか、その辺の経緯を聞かせてください」
「経緯もなにも…。旦那様がそうするとおっしゃったからで」
「いつからですか」
「今年の三月からです」
理由を訊き出すすべがない以上、内容を替えるしかなかった。「さきほどの質問に関連しますが、毎日の朝食と祝日の昼食や土曜の晩御飯のとき、父と子はどんな風に食事されていましたか」平日、病院長が晩御飯を摂る前に家政婦は邸から退出していたので、普段の三人の晩の風景を知りえないはずと織り込み済みだった。それで訊かなかったのだ。
「そうですねぇ、お坊ちゃまの方が一緒を避けておられたのではないでしょうか。傍からはそんなふうに見受けられました。朝食などはいつもご自分の部屋でしたから」
――となると殺しの線は薄いな――昼間も思ったが、殺意や動機を想像できないのだ。殺人は大きなリスクを伴う。関係が一触即発だったならば殺人に発展しても不思議はないが、そんな問題が起きる前に距離を置いていたのである。それに、もし抜き差しできないほど険悪だったなら、恵子が納得しなくても、別居という選択肢をとることもできたのだ。
ならば突発的殺人…と惑(まど)った。しかし突発を示唆する状況を、微塵も感じ取れなかった。
「ところで直人さんの睡眠障害の原因について、何かご存知ですか?」口調が改まった。これも非常に重要な質問ということもあり、関係者全員にぶつけたのだった。
家内の出来事に対しじつは好奇心旺盛な中年女性だったが、しかし仕事柄それをおくびにも見せず、そのためか睡眠障害については初耳という顔つきで首を小さく横に振った。
「直人氏が睡眠障害だったという話、貴女の耳には入っていませんか?」
それに対し、なぜか申し訳なさそうに「ええ」とだけ。
「ですが直人氏の言動などから、あるいは思い出すきっかけになるかもしれませんので質問を続けます。朝食はお聞きしましたが、平日の夕食は奥様と二人だけで?」
「ええ。ただ、今回のように奥様がお出かけの日は自室で、あっ、それと、…これは関係ないんでしょうが…。というのも、半年以上前のことですから」饒舌とはいえ、言い淀むしぐさをみせた。見当違いだと発言を断られそうだったからだ。
「何でしょう?貴女に不具合がなければお願いします」意外な方向へと進路が変わったが、藤浪はそれも良しとした。これが因で一点突破し、解決へと向かうかもしれないからだ。
「オフレコということなら、不具合の心配はないんですけど…」
「お約束します」即行で断言した。殺人事件の可能性に道筋をつけれる情報収集であれば最高との、もの欲しげな手が喉から出ていた。
「ならお話します。正確には八カ月ほど前からですが、夜間、よく外出なさっていました。そんなとき夕食は召しあがらなかったり、帰宅後に召し上がったりでした」翌日の朝食作りの段階で、コーヒーを淹れたあとに出る挽いた豆カスをゴミ箱に捨てるさい、前夜の生ゴミを見ることになり、それで帰宅後に食べたかどうか知ることができたと説明を加えた。「食べなかったときは残らず廃棄する、というようなことは、奥様のお蔭ですぐに改まりました」命をつなぐ大切な食べ物を粗末にしたくなかったと、さらに述べたのである。
また脱線したが、さきほど怒らせたばかりなので今度は制止しなかった。理由はもうひとつあった。義父からは全く出なかった外出の件に、デカとしての興味が湧いたからだ。
「その夜間外出ですが、どこに行ったかおわかりになりますか」
見当もつかないと、残念そうに首を横に振った。
「では、出掛ける前はどんな様子でした?」八カ月前とはいえ、外出先でのトラブルに死亡の遠因があるかもしれないとも考えたからだ。
「ごめんなさい、説明が下手で。確かに外出とは申し上げましたが、それは病院からといいますか…。仕事を終えられたその足で直行なさっていたようです」
とは、家政婦がいる時間には帰宅しなかったということだと、見当をつけた。
「ただ、朝の時点でいつもより入念におめかしされてました。恋人でもできて、今夜はデートかなとの印象を受けました。ところが、二カ月ほどのち、急に外出をされなくなり…」
「急にですか。で、止めた原因わかりますか?」意気込んで尋ねた。なにごとにつけ、急なる変化には原因となる特別な理由があるものだ。それを調べだす手間を惜しんではいけない。彼の愛読書、名捜査官と謳われた人物が書いた“捜査のいろは”にそうあったのだ。
「わかりません」と首を横に。数瞬後、「…ですがぁ」そう続けようとし、そして躊躇した。
「ですがって、何でしょう?どんな些細なことでも教えて頂きたいのです。事故か自殺か事件か判断する材料を、僕たちは喉から手が出るほど欲しているのですから」
正面に座る若い二人の刑事の真剣さが、彼女にいやまして伝わった。それで肯くと「外出しなくなった直後から明らかに食欲が減退し、当時はえらく沈んでいらっしゃいました。相当なショックを受けたんやなと傍目にもわかるほどに」
「ふられたからでしょうか」と、至極当然を口にした。
「さあ」と首を傾げ、「わかりません。誰も何もおっしゃいませんから」いたって真面目な表情になっていた。「ただ、学生のときも振られたとしか思えないお坊ちゃまを知ってますが、比ではないような。そうはいっても、恋慕の大きさで受けるショックも違いますし」
ところでだ。一連の証言の中にじつはある重大なことが含まれていたのである。ただし、発言した本人も聞かされた捜査員も和田すらも、その重大さをもとより知る由なかった。ただ、今回の件を解くうえでも、別の件の真相を知るうえでも重要そのものだったのだ。
それはさておき、重複する質問だが重要なのでと、角度を変えてあえて実行した。少し時間が経過しており、何か思い出したかもしれないからだ。「当日の朝食を不要と言われたと先刻。以前にもありましたか」責任感と使命感、加えて生来の正義感から真相を突き止めずには引き下がれない、上司からこの件の担当を命じられた彼は初心で、そう決意し臨んだのである。引き受けた事案として、忽(ゆるが)せにするつもりはさらさらなかった。
「半年前は一カ月近く続きました。ですが、それ以降はちゃんと摂っておられました。お医者さんご一家ですから、朝食をしっかり摂ることの大切さを…」
半年前に何があったかを翌日、家族に訊くなどして巡査部長と調べはした。だが、杳としてわからなかった。
「朝食の重要性、小さい時から教えこまれ習慣づけられていたというわけですね」もう夜も遅い。それで次の質問に移った。「前日の朝、珍しく翌晩の献立を注文なさった。そうでしたね。なぜその夜ではなく翌晩だったんです?出掛ける予定でもあったからですか」出掛けたとしたら、その時に落ち込むような問題を抱えたのかもしれない、そう考えたのだ。
「それは違うと思います」
自分としてはいい着眼点だと自身を褒めかけていた憶測に、あっさり冷や水を浴びせ掛けられた。勇み足ぎみになったのは、焦っていたからかもしれない。
「そういう予定ならおっしゃったはずです。以前、晩御飯をお召しでないことがたびたびあり、あ、言いましたよね。ある朝、奥様が注意なさいました。『要らないならそうおっしゃい、人に作らせておいて失礼でしょう』それ以来」知らせるようになったというのだ。
――そうやった。『奥様のお蔭で』とさっき――そのときに訊いておけば勇み足をせずに済んだのだ。すぐ反省した。「で、要らないときは貴女に事前に言(ゆ)う。そういう慣例ができたのですね」家政婦が肯くのを待って続けた。「それにしても、なぜ翌晩だったのでしょうか」
「それは、前日の晩の献立がすでに決まっていたからです、旦那様のご要望で」
予想外の答えだった。そんな捜査員の口が動こうとするのを制し、
「旦那様は、月に二・三回あるんです。だから珍しくはないですよ」最前、口を封じたことへのしっぺ返しのつもりであった。少し溜飲を下げたのか、嬉しそうな表情になった。
「なるほど」残念な憶測だったと認めざるを得なかった。しかしガッカリは少しもなかった。「それで、当夜、直人さんが帰宅されたときの様子は?」
しばし思案の、眉間にしわがよった。基本的には直人に対し好感を持てず、関心も薄かったからだ。「そう言われれば物凄く暗い顔でした。相当へこんでおられたように見受けられました」懊悩の理由を刑事が知っていて、教えてくれるのではないかと、内心、期待したのだが、当てははずれたのだった。それで、一種の誘い水を向けることにした。「こんなことが参考になるか…。でも何でも教えて、でしたよね」二人が肯くのを待って、「あの夜は、帰宅するなり自室へ。それで八時十分前、部屋の前まで行き「お食事、お運びしましょうか」と尋ねたのです。ご要望の料理でしたから。するとね、「これを済ませたら自分で冷蔵庫から出すからいい。冷麺、冷たい方がいいから」との返事が返ってきたのです。
ここで若さが出た。懸案を早く解決したいと逸(はや)ったのだ。じつは重要な証言であったのに逸したのである。「では、ズバリお尋ねします、自殺だとした場合」さらい、不具合な印象を与える質問の仕方も迂闊であった。もっと慎重を期すべきだったということだ。
訊かれた途端、好奇心が眸の奥で見え隠れし、ではなく満身から横溢し、「えっ、自殺なんですか?」と勝手に解釈するだけでなく、口元とほほを緩め逆に尋ねたのである。
仮定の話と言ったにもかかわらず、好奇心から、仮定をうつつへと勝手に曲げてしまう人を、居酒屋などでたまにみかけるが、このオバちゃんもその類いか。
「勘違いさせたのなら申し訳ありませんが、あくまでも仮りの話です。もしそうだった場合、何かお心当たりは?」遺族ではないぶん、大胆な質問はたしかに可能だった。しかも彼らの傍にいるのだ。身内みたいなものである。一家の秘密に長けていて不思議はなかった。――さすが大阪のオバはんや。好奇心もやけど、他人の不幸は蜜の味…なんや、きっと。昼間は、母親の気持ちを察して泣いてたのに――仕事柄、被害者の不幸な日常を見ているだけに、少ない訊きこみ経験ながらも、この手の人間も少しは見てきたのである。
一方の家政婦はというと、直人に対し――生意気な若造――との不満を日ごと秘めていた。突然の死に同情はするが、自殺するほどの苦悩を抱えていたとしたら、――ええ気味や――と。よほどに癪に障ることをしかも何度か経験させられたようだ。そんな汚く醜い思いも心の片隅にあったのである。それが口元とほほに出たのかもしれない。さすがにマズイと思ったか、さらには自身の醜さに気づくと、「…」家政婦はその一瞬、黙したのだった。直後、目を伏せ表情を急ぎニュートラルにしたのである。
そんな女性特有の、産まれ持っての技を垣間見たのは同性の若い女性刑事であった。しかし、家政婦がみせた醜さなどどうでもよかった。真相究明こそが眼目なのだ。
そこで、家人ではないとはいえ、たしかに答えにくい質問ではあると。それで誘い水のつもりで、「お仕事に障るマネも決してしませんから」と、家政婦の立場を汲んでみせた。それから、「どうか教えてください」と懇願した。これこそが、掛け値なしの本音であった。
邸の近所でも訊きこんでいたし、渡辺総合病院でも目立たぬようにだが、していた。さらに他の病院にも情報提供を願ったのである。全て、巡査部長たち別働隊が頑張っていた。
しかし、優良情報を得られなかった。こんな不調は、日数を掛けても変わるものではない。事実、三日後も同じだった。できれば決定的な、そうまでなくとも、確信の持てる証言を、マラソン選手が途中で特製ドリンクを欲するように、強く望んだのだった。
明日もう一度、直人が勤務する医科で、当日の直人の精神状態を、今度はお座なりにならないように細心の注意をしながら訊いてみるつもりでいる。
しかしながら、(時の流れを多少無視させてもらうが)結果は同じこととなるのだった。
家政婦から得た以上の優良情報を、入手できなかったのである。悪口に繋がること、理事長があとで知って情報提供者を首にする、その理由となる言を、前回同様、教える者はいなかったということだ。また他の病院が、御曹司とはいえ、まだひよっこにすぎないボクちゃんに関心を持ち、その情報を集めるなんてことも当然ながらなかったのである。
さればとてここで、若い二人が頑張っている家政婦への事情聴取に戻るとしよう。
「そうは言われても」困惑げに呟いた。「なにせ、ご家族間の会話はあまりありません。私がいないところでは、奥様とお坊ちゃま、旦那様と奥様はむろんいろんな会話をなさっている様子です。けれどよそ者の私がいるときは、通り一遍の会話しかなさいません。外に洩れるのを警戒なさってのことでしょう。ご家族のことで知ったといえば、お坊ちゃまが医大に合格されたこと、もっとも一浪でしたが。それと一年半ほど前、ようやく医師免許を取得されたことくらいです。その時はもの凄いお喜びようで、特に奥様は。念願叶ったとわざわざ、この私にお教えになったほどでした」それから申し訳なさげに頭を下げた。
ところで、病院長の話と重複する内容とはいえ、この口述にも大事が含まれていた。
二十七歳の渡辺直人が医師免許を取得して一年半弱。調書にもあるとおり医大への入学も一浪もなら、合格率およそ90%の国家試験も一浪で合格したくらいだ。だから、優秀とはお世辞にも。ゆえに家政婦が述べたように“ようやく”であり、両親の、特に母親の念願叶った合格だったに違いない。それでも義父が「前途洋々」と称した直人だ、ふさぎ込むほどの悩みを仮に抱えたにしろ、自殺なんて勿体ないこと、考えもしなかったであろう。
二人の捜査員は夜分の訪問の詫びを、そして協力に対する礼を述べ家政婦宅を辞去した。
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