前刑事部長だった長野は、なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか、不思議だと暗に言いたいのである。眠っていた被害者と性交渉できたはずなく、さらにそのあとで金銭トラブルが発生し殺害した、だから犯人像を娼婦に絞った、というのも解せないと、そう。

星野は二人のやり取りを聞いてもはや隠すべきではないと、事実を明かすことにした。

長野は小我の野望に自身呑み込まれ、事実直視を放擲してしまった。否、自分に都合のいい犯人像を作り出し、遺留物や証拠のうち好都合なものだけを採用し、犯人像に合致する被疑者を犯人に仕立て上げようと目論んだ。さらには出世のためなら冤罪をも厭わない、そんな驕慢に支配されていたのでは、とも述べた。ために、目くらます欲望の狂気が崇(たた)り、迷宮入り寸前だと言った。こうした秘匿なき披歴は、矢野係を信頼している証左である。
「ちょっといいですか」岡田が、おそるおそる訊いた。「性交渉がなかったのに、丸害はどうして射精してたんです。まさか夢精する年でもないでしょうに」
矢野は、こんなバカ田でも経験を積ませて一級品のデカにする自信があった。それで、和田の甥という関係とは関わりなく、自分の係に配属されるよう上層部に頼んだのだった。
「絞殺などの際、失禁や脱糞することがある、くらいは知ってるよな、もう四年なのに、まるで新米デカさん」趨勢で教育係になった和田が、呆れかえりながらも説明した。

先輩たちの丁々発止を、現矢野係配属順位では五番目となった西岡が黙って聞いていた。
「はい。窒息死によく見受けられる現象です」苦手でしかない叔父が解説を始めたので、より神妙に耳を傾けた。
「それと同じような現象や。解剖所見にその点も記してあるから、会議のあとで調書と併せて目ぇ通しとき」こういう質問は向上心から発したものだから、稚拙だがまだ許せた。
「もうひとついいですか」矢野が発した、どんな質問でも構わないの言葉に甘えて岡田は続けた。「ホテルマンによると、帽子の女は初めての客でしたよね」
「フロントクラークらの証言によればな」
「だとしたら、ロープをベッドの足にくくれるとどうして知っていたんでしょうか?足のないベッドもけっこうありますし…」月一で風俗嬢と行く各ラブホのベッドを思い浮かべながらの質問だった。
藤川が即答した。「それはきっと、インターネットで調べたか何かで。あるいはパンフレットで、かもしれません」
「『きっと』や『かもしれません』はアカン。確かでないと前には進めへん、真相に辿りつけんからな」不確実の上にどんな立派な論理を重ねても、所詮は砂上の楼閣だと矢野は自身の経験則としての捜査の鉄則を言った。
矢野の捜査における指針の一つは「後悔することがあっては絶対にならない」であった。
詳説すれば、犯人を逃がさないは目標でしかなく、冤罪を生まないことこそが絶対条件だ、である。そのために、不確実の上に論を積み上げることをさせない。憶測をそのままに捜査を無理に押し進め、予断から被疑者を想定し捜査することを禁じたのだ。長野とは真逆であることはいうまでもない。「被疑者に不都合な情報だけを選別し、有利なものは無視あるいは排斥して捜査を進める。その結果が冤罪を生む」過去幾多の失敗を繰り返させないためだ。無実の人を犯罪者にしない、これが矢野の捜査訓であり、口癖でもあった。
「早速やが、例のホテルのベッドの足がどんな具合か、ネットで調べてみてくれ」

操作する藤川の背中越しに、全員がディスプレーに集中した。

しかしホームページで紹介されている、犯行現場と同じ造りのスイートルームの写真からでは、ベッドの足の状況まではわからなかった。

背後から手を伸ばした藍出がホームページのトップページに画面を戻すと、そこに掲載されたXXホテルの電話番号をプッシュした。
藍出がフロントから聞きだした情報は以下のとおりだった。①ホームページに掲載したスイートルームの写真以外のものをネットで見ることはできない。②ホームページに掲載された写真は少なくともここ一年間は変更されていない。③旅行代理店に置いてあるホテル案内のパンフレットの写真でも、ベッドの足の状況までは確認できない。④ただし、グループホテルの広報の一環として、パンフレットコーナーをロビーに設置している。
「そのパンフならもう少し詳しいらしく、あるいはということで今調べてもらっています」
藍出が説明し終わるのを待っていたかのように、ホテルマンからの入電だった。
「このパンフレットの写真ですと、ベッドの頭側と足側両方の足の部分が写っております」
今度は、電話機のスピーカーから流れる声に、皆嬉しそうに肯いた。
藍出はホテルマンに礼を述べ電話を切ったあと、「先に、ファックスしてもらったので、その写真を見てください。たしかに手足をくくることは可能です。ということは、帽子の女が事前に、しかも目立たない服装でホテルにやって来て、ロビーに置いてあったパンフレットを予め持っていった、で間違いないしょう」こう呟き、それから唸った、当惑げに。

表情の理由がわかった西岡は、「ロビーに置いてあればそのままいつ来ても持ち去れるわけだし、クラークに面(めん)を曝すこともない。特別奇妙な行為でもないから目撃者も出ないでしょう」人相の特定は困難だろうとの、藍出の無念さを代弁した形となった。

何事につけ前向きな藤浪と違い、藍出はどちらかというとネガティブだ。つい、最悪のケースを想像してしまう。「頼みの綱は防犯カメラだけですね」祈るように言うと、藍出はリダイヤルした。先のフロントクラークに、防犯カメラがパンフレットコーナーに向けて捉えているかを見てもらった。祈りが弱かったわけではないが、残念な結果に終わった。
切ろうとする藍出を制し、フロントクラークにしばらく待っていてくださいとお願いした矢野。「そこを捉えてないとすると、ホテルへ事前に出入りした犯人を、映像から見つけるしかないやろ。その日にちやが、事件の一週間前の前後まずは二日、いや、おそらく後ということはないな」との推理の一部を部下に披露した。同時に、事前に出入りした時間の間隔だが、長居などの目立つことはせず、せいぜい十数分程度と考え「ところで随分前なんですが、そちらのホテルではディスク残されていますか」と、今度は電話口に向けて。
そのとき岡田は藍出に対し、「何で一週間前に絞るんです?」と小声で。こいつは相変わらず頭を使わない。
「ステーキハウスの予約は一週間前やった。殺害の計画が練り上がり帽子などの購入もほぼ完了したから予約を入れたと考えるべきやろ。なら、ホテルをどこにするかも決めてたはずや。少なくとも当たりくらいつけていないと計画が破綻しかねんからな」

このやりとりの間に、矢野がクラークから聞いた答えもバカ田の能力同様、残念なものだった。ホテルの規定で、保存は三カ月と決まっていたからである。
「なるほど、噂にたがわずです。さすがに矢野係は皆さん鋭いですね」藤浪はお世辞ではなく、本心で感心していた。――岡田巡査長は別ですが――との本音を呑みこみつつ。
「今ですね、念のために他のホテルのも調べてみたんです。やはりと言うべきか、キタ(大阪市北区)にあるどこのシティホテルのホームページもツインの寝室の写真に、ベッドの足まで写っているのはありませんでした」移動した藤川は別のパソコンの前に座っていた。犯人がどこのホテルにするかの決め手をツインのベッドの足と想定し調べていたのである。ツイン以外、例えばダブルベッドだと、被害者の手足をベッドの足に縛りつけるのに距離があり過ぎて手を焼く。シングルの部屋だと、男を連れ込むには不自然だし、ホテルの従業員に変に思われて、記憶されやすくなる。どうせチェックアウトしないなら、どんなに料金が高くても構わないはずだ。そう考え、キタのシティホテルのホームページを検索してみたのだった。…貧乏人の発想と嗤うなかれ、これぞ庶民感覚なのだ。

しかしこのアプローチの仕方では、残念ながら袋小路に迷い込んでしまった、そう思った刹那、岡田が、バカ田ならではといおうか、らしいことを口にした。
「ネットで調べるくらいなら大した手間ではないですが。梅田界隈のシティホテルちゅうてもかなりありますよね」と容喙(ようかい)したのである。
「何が言いたいんや」矢野は即座にピ~ンと感じとった。岡田のピント外れのさしで口がラッキーパンチになるのではないか。岡田の快刀?懐(かい)刀?怪(かい)刀?いや、壊(かい)刀がときに乱麻を断つの譬えで、突拍子の快挙を、今まで何度かみせてきたからだ。
刑事テレビドラマ“古畑任三郎”における、今泉巡査の役どころである。
「手間の話です。ホテルをいちいち訪れてはパンフレットを持ち帰る。…なんてけっこう大変やろうなと」無精者の岡田らしい考え方だった。もっと楽な方法があれば、俺ならそれでいくけどな、ただそれだけの発言で、意見というより感想に近かったのだが、
「今、なんて言うた」矢野も同じで手間の掛かる話だと藍出たちのやり取りを聞いているときふと思った。が、計画犯罪のためなら厭うまいにとの考えに落ち着いた。しかしながら、「十軒以上のホテルでそんなこと繰り返してるところを、知人に見られるかもしれん、いやその可能性は極めて少ないんやが、犯罪者心理としては目撃者を恐れたやろうな」よって、しなかったんとちゃうやろか、岡田に触発され、そう考えてみたのだ。頬ずりしつつ(むろんする気はないが)岡田を褒めてやりたくなった。が、賛辞はあとのお楽しみにということで、――たまにこういう《怪我の功名》があるから、こいつを手放せんのや――と、暗夜に光明を見いだした気持ちになった。野球で譬えると、手も足も出ない敵エースの決め球をホームランする意外性のバッターのようで、ときに貴重な戦力となるからだ。
「だとすると、情報収集はどうやったのでしょう」やっぱ、考えない岡田なのだ。

しかしこいつが下手に深慮する能力を身につけた場合、《瓢箪から駒》的天然力が消滅するかもしれないと、矢野は心配になる。今のままがいいのかもしれないと諦め半分思った。
「この手ならどうでしょう。つまり、パンフを自宅に郵送してもらう、これだと」目撃されることも、顔が印象に残ることもないですからと藤浪。
「それは…、う~ん。だって、例の女は大阪近郊に住んでる可能性が高いんでしょう。関西弁のイントネーションだったって」―もちろん、関西の人間だって日本中いたるところに移り住んでますが―とは、あえて藤川は言わなかった。「なのに郵送を依頼すれば、何で?と変に思われませんか。だって高い料金なんか払わって泊まらずとも、家に帰れるわけでしょう。タクシーって手もあるし。なのになんで予約をいれるんやって、そう、ホテル側の印象に残るでしょう」藤川は、藤浪に敵愾心でも燃やしているのか、妙に突っかかった。
「いや、その心配ならないな。新婚の友だちが、たとえば東京から遊びに来るから、ホテルを予約したいんやでとでも言えば、何の不審も懐かれんやろ。印象にも残りにくいんとちゃうやろか」矢野も藤浪と同じ手を考えついていたため、藤川のを言下に否定できた。
「なるほど。たしかにそれだと変な印象はないですね」西岡が皆の意見を代表した。
「今度は僕がホテルに電話しよう」藤川と藤浪への西岡らしい気の遣いよう、ならびに藤川の負けん気を良しとした矢野は、「お忙しいところ恐縮ですが、事件発生の十日ほど前にパンフレットを郵送していないか、古い事案ですがお調べ戴きたい」と丁寧にお願いした。

担当の係に代わってくれた。
今か今かと電話のスピーカーから流れくる声に、期待と不安相半ばで皆耳を澄ました。否。一年半以上前の、パンフ発送依頼に関する情報だ。しかもその依頼者が客になると決まってはいない。だから誰も口には出さないがそんな、古くて価値の微小な情報をホテルが残しておく理由などないとネガティブになり、まるで宝くじに一等を求めるような淡く可能性のあまりに希薄な事態に対し、それでもなお「叶ってくれ!」と祈ったのである。
「代わりました」担当の部署と名前を名乗ると、「お尋ねの件ですが」

皆、それでも固唾を飲んで返事の一言一言、それこそ聞き逃すまいと息を殺し耳をロジャー・ラビット(ウサギが主人公の米国製アニメ)のように伸ばした。
「七件ございます。読み上げるのもなんでしょうから、ファックスでお送りしましょうか」

お願いしますと一応頼んだあと、矢野は、それが必要としている情報なのかを念のために確かめるべく尋ねた。ひとつは時期であり、もう一つは依頼者からなのか、だった。

時期も、先方からのパンフレット郵送依頼という点でも合致していた。
「おかしなことをお聞きします。どうして、そんな依頼を今も保存しておられるのですか」
「ご愛顧を賜ったお客様は当然宝石のように大切ですが、これからのお方にもお客様になって戴けるよう、当ホテルは最大の御もてなしを心掛けております」と、一警察官に対する宣伝も兼ねての答えが返ってきた。つまり、接触があった人間を客へと誘引するダイレクトメールを送るため、個人情報は大事に保存しているということなのだ。
矢野たちが優秀とはいえ、所詮は公務員である。乱立する梅田界隈のホテル競争。どれほどに熾烈な顧客獲得を繰り広げているか、厳しい事実を想定できなかっただけである。
だがデカとして有能な彼ら(バカ田もときに)。当然、犯人は他のホテルにもパンフを要求したと考えた。藤川は指示を受ける前に、各シティホテルの連絡先を画面に出していた。
十数軒を手分けし、対象となったホテルに依頼内容を告げた。それから二十数分後、
すでに送られてきていたXXホテルからの受信用紙の上に、新たに印刷された用紙が重なり始めた。その紙に六人が貪るように飛びついた。
全受信完了直後、各自が受け持ったホテルからの送信内容を、声を出して照合しだした。
矢野が秘かに想定したとおり、同じ住所へ郵送したことを示す記入がいくつかあった。
パンフ郵送を依頼したほとんどは、アトランダムに数軒をピックアップしホテル選択の資料としたのではないか。数軒のみピックアップした人物は、だからこの際除外した。

はたして、各人が読み上げたなかに、全てのホテルに依頼した人物の名前があった。「おお」刹那、異口同音の歓喜のどよめきで部屋が満ちた。難事件が、解決するのではとの期待と、府警察本部として雪辱ができるのではないかとの感慨がこもったざわめきであった。