翌日昼すぎ、病院を訪れ義父である渡辺卓に再度尋ねたのだった。ただし、当夜の電話に関し病院長がウソをついた可能性のある件、それを問いただすに確証がない今は早計と、止めておくことにした。直人に決定的ダメージを与えるに、三分では短すぎると思い直したからでもある。「念願の医師免許を、ご子息が取得なさって一年半弱とお聞きしましたが」
「そうなんですが、念願とまでは。合格して当たり前ですから。ちなみに誰からそれを」家政婦と見当をつけての質問だったが、そうなら、辞めさせる理由づけができるからだ。
しかし、実質の家長である恵子がこの家政婦を気に入っていた。料理上手なうえ家事全般に精通していて、しかも醜女(しこめ)である。旅行中に、夫が手を出す心配をせずに済むからだ。
「医師にもですが我々にも守秘義務があります。ですから申し上げられません。情報は各所での訊きこみの結果とだけ」当然のこと、家政婦との約束を守ったのである。「それより、質問は私だけということで」と強く出ながらも、作り笑いで機嫌を損ねないようにした。「では早速。医師免許を取得されたわけですし、自殺はどうも…」との質問の途中だった。
「同感です。だからよほどの理由がない限りは自殺なんて…。仮に自殺だとして動機ですか?…想像だにできません。将来を悲観する材料なんて何もないのですから」義父は無難だと、ひとまずこう口述したのである。だが、万が一殺人の嫌疑をかけられた場合の手立ても決めていた。ズバリ、自殺と警察が認定せざるを得ない明白な動機で武装するのだと。しかも、自殺の動機(真因)だと推定できる事実を警察に隠した、その口実(わけ)もすでに用意していたのである。「妻をこれ以上苦しめたくない」という、それらしいものをだ。
さても、この男の肚の内…直人が落胆喪心をしたとする真因を、自身を守るために、いざというときは開示する、そんな計略で満ちていたのだ。その真因とやらだが、八カ月前に始まった二カ月間の夜の外出と、じつは関係していたのだった。いわく、半年前の、とある不幸な事故に直人が深く関係していたと知れば警察も納得するはず…。だが今の段階では、秘事中の秘事なのである。
急なる外出の頻繁を、“好機当来の可能性あり”と読んだ義父の卓は黒い企みを懐くと、名の通った探偵社を使った。やがて、直人が大変な出来事に関わってしまったことを知らされる。ことが重大すぎたせいで、大金を工面しなければならないほどに、探偵社への口止め料は高くついた。かくも重大な事実を時期尚早とみて秘匿したのは、愛情ではなく打算のゆえであった。妻恵子の不興をかいたくない、所詮は、入り婿でしかないからだ。
調書を読んでいる和田は、卓に違和感を持った。自殺に関し、病院長の口述がぶれているように思えたからだ。医師免許取得が「念願とまでは」と否定し「合格して当たり前」とうそぶいた。つまり、医師免許取得に自殺志望を挫(くじ)くほどの重みはないとも聞こえる。取りようでは、自殺はあり得ると肯定しているのだ。一方、その舌の根も乾かないうちに「よほどの理由がない限りは自殺なんて…」と、この言葉は自殺に否定的である。しかしよほどの理由があれば、自殺もありうるとも、また取ることができるのだ。
たしかに、絶望するほどの事態が起これば、なるほど、人は自殺するかもしれない。
小さな矛盾と考えた和田だが、渡辺卓が示したぶれの原因については憶測で留めた。病院長自身が迷っている、あるいは単なる言葉のあやと取るのが妥当かもしれないからだ。
「妙なことをお訊きします、少々気になったので。セントニックですが、箱ごと自室にご自身でお運びになるその理由について教えてもらえれば。しかもふた月前からだとか」
「ああ、確かにそうですね」情報の出どころである家政婦の顔を思い出しながら、想定外の質問という小さな驚きをすぐにそっと消して続けた。「しかし、特に理由というほどの」ここで一息おいた。口を開いたのは寸刻のちであった。
この挙動だが、思い出すというより考えている様子に見てとれた。
「あえていえば、あの家政婦さんを信用できないと感じたからです」
くすねるとでも言いたいのだろうか。
ひとがどんな考えや感想を懐こうと、それを否定し間違いだと指摘するのはむずかしい。それに、この場面ではそぐわないと思った。ただ藤浪は正直、家政婦に正反対の印象を持ってはいた。それで、泥縄式の取って付けたような理由にしか感じとれなかったのだ。
一方の卓は、なぜそんなことを訊くのかと逆に質問したかったが止めた。藪蛇になるかもしれないからだ。それに当夜、直人はセントニックを飲んでいたのである。――質問に深い意味などなく、この若い刑事はあらゆる情報を集めようと必死なだけかもしれない、まあそんなところだろう――とて、寝た子を起こすような愚は止めたのである。
一方、藤浪は質問の方向を変えることにした。「邸で教えていただいたハルシオンですが、0.25mgと0.125mgがあるそうですね。どちらを渡されたのですか」
「0.125mgでした。0.25mgでは効き目が強すぎると思ったからです。もし効果が弱ければ、もう一錠追加して飲めば済むことですしね」
「0.125mgの方は金色の包装がなされていると聞きました」
「そうですが、そこまで調べられたのですか。今回の件には関係ないと思いますが、随分ご熱心なんですね」それがどうしたといわんばかりに、皮肉っぽい薄笑いを浮かべた。
「少々気になったので。というのは、普通なら包装されたままを渡すのに、なぜわざわざ包装をはずしビンに入れ替えられたのですか?」たしかに不思議な行為である。説明によっては、個人的に払拭しきっていない微細な疑惑を強めざるを得ない。入れ替えが、病院長にとって必要な行為だったと考えるのが妥当だからだ。
「疑義は、直人の性格をご存じないからです。あの子は変に生真面目というのか、片意地なまでに正義感が強い質なんです。だから睡眠薬を、たとえ不眠治療のためとはいえ潔しとはしない。正常な人間なら睡眠薬など…、まして自分は医者だ、そう考える性格なんです」返答しているのは、父親と医師をないまぜにした顔であった。「それとですね、実物を見られたことないでしょうが、0.125mgタイプの金色は、いかにもけばけばしく危険な匂いを発しています。包装のままでは飲まないだろうと。そんな直人に服用させるには、サプリのビンに入れ替えた方がまだいい。気分的に、少しでも罪悪感を軽減するためにです。それにあの子も言っていたように、短い期間の服用だとも考えていました」
じつは藤浪、包装された二種類のハルシオンをすでに見知っていた。0.25mgの銀色もだが金色の包装も、いかにもけばけばしく危険な匂いを発している、とまでの印象は受けなかった。しかし、感性の問題なので個人差がある。自分の印象をたてに、相手の感覚に異議を申し立てることはできなかった。「そうですか」と引き下がるしかなかったのである。
完全には納得できないことが、もうひとつできた。「睡眠薬とわかっているのに、入れ物を変えただけで、直人さんが懐く罪悪感が消えるとおっしゃるのですか」と質問したのだ。
「こうみえて僕は精神科医ですよ。思い込みを利用する方法だってあるんです。いわばプラシーボ効果の一種と、あるいはプラシーボ効果を逆手に取った手法ともいえるでしょう」
卓が発したプラシーボ効果とは、医学用語である。薬効も毒性もない偽薬(少量のブドウ糖や乳糖等)を特効薬と患者に思い込ませて服用させた場合、症状が改善する事例が世界的に認められている、心理的治療効果のことだ。つまり思い込みを利用し、サプリ感覚に切り替えられれば服用しやすくなる、そう宣(のたま)ったのである。
完全に納得したわけではなかったが、専門知識がない以上、これも今は引き下がるしかなかった。あとで調べたが、専門医でも、このやり方に対しては意見が分かれたのだった。
無意識のうちに腕組みし軽く瞑目したとたん、思わず眉間は狭まりそのぶん小さな皺ができた紅顔は、真剣な深慮に入った。やがて、ある情景が頭に浮かんできたのである。
その情景を、冷静な立場から論ずれば、たしかに空想の産物でしかない、となる。何ら、確たる証拠がないからだ。
……仮に、医師の知識を生かし何らかのアリバイ工作(おそらくは誤った所見を検視担当官に懐かせ、死亡推定時刻を早める偽装)をした病院長。午後八時三分に携帯で食事と飲酒を促し、帰宅直後さらに、強制か誘導するかして酩酊するまで酒を飲ませ、そのうえでハルシオンを服用させた。ついで風呂場まで連れていき、意識が喪失した義理の息子の服を脱がせたのち湯船に身体を浸け、後頭部を押さえつけ続けて溺死させたのである。
ただし、だとした場合に問題となるのは、直人の身体に圧迫痕があったとの記載が、検視報告書にはなかった点だ。直人を押さえつけたとしたらできたはずの圧迫痕の存在を正確に知るが肝要と考え、検視に当たった警部に直接問い合わせてみたのだった。しかし、当然のことだったが記入漏れではなく、痕は残念ながら全くなかったのである。
しかもだ、渡辺邸は一種の密室状態にあり、検視による死亡推定時刻…状況から判断するに午後八時六分からの二十四分間だが、直人以外に誰もいなかったのである。
アリバイ工作が存在したとして、せめてもそれを解明できれば別だが、そうではない現況において卓を攻めようにも、まさに矢も刀もないという徒手空拳に陥ってしまっていた。
崩せないアリバイの件や動機の解明、殺害を暗示する何らかの状況証拠すらない現場の実態等を客観的に考慮した場合、――殺しは無理やなぁ――と、諦めざるを得ないのか。
――やはりもうひとつの方が、可能性は比較にならない圧倒性をもって高くなる――
客観的にみたその、もうひとつとは、こうだ。
風呂場は広く湯船も縦2メートル、横1.2メートル、深さ0.6メートルと大きかった。人ひとりが寝た状態で足を伸ばしてもゆったり入れる寸法なのである。しかもステンレスホウロウ仕様の浴槽。毎日入っていたのだろうが、いかにも滑りやすそうだ。
それでも平常な肉体と精神なら溺死はしなかったであろう。が、無人となった邸で、食事をしながら直人はバーボンをストレートで飲んで酩酊し、判断能力が低下した状態で、心に突き刺さったある棘(とげ)の痛み(内容は不明)を忘れるために精神安定剤を兼ねた睡眠薬を飲んだ。しかもあろうことか、毎日の習慣に従い風呂に入ってしまったのだ。
病院長の言に依らず、つまりは無視し、藤浪自身が医学書で調べた結果においても、直人の医師らしからぬ行動は、発現した記憶障害のせいでは?と推測するが妥当なのだ。
これが、不幸を生んだ原因の内面部(心理的要因)だ。
他方、外的要因や不具合を指摘すると、”もし”ではあるが、母親が旅行中でなければ…、父親の帰宅がもっと早ければ死なずに済んだのでは、であり、浴槽がホウロウびきされていたからでもある。湯船に両足を入れた瞬間、滑ってうつ伏せになった。そのとき風呂の湯を飲んだために焦った。縁(ふち)をつかもうとするが滑る。焦る。膝を突こうとして滑る。一層焦る。この繰り返しだったのではないか。飲酒と睡眠薬の服用が、膝立ちし水面から顔をあげるという、常人が普通にする、なんでもない動作の大きな障害になったとも。
「そんなアホな!」誰もが思う入浴中の溺死の実態。じつは交通事故死よりもはるかに多く、年間でじつに約一万四千人が死亡しているのである。だからあり得ないことではない。
風呂での事故死を調べて、そんな実態を知った警部補がした上記の想像。過去において、入浴中の溺死で日常的にあるパターンのひとつなのだ。普通に対処すれば溺れるはずのない水深で、多くの死亡事故が毎年繰り返し起きているのである。
ただし一番多い事故原因は、高齢者の、血圧の急激な変化による意識障害だが。
捜査から一週間後の五月十八日、警部補はついに、上から判断を迫られた。
それで結局、本人の不注意による事故死と調書に認(したた)めたのである。持てる捜査力を駆使し、また思考の限りを尽くした結果だった。
自殺の動機は認められず、殺人の可能性も極めて希薄だと結論した所以(ゆえん)であった。しかし心の雲は一向に晴れず、捜査にも結論にも悔いが残ってしまっているのを否定できない。
だが、個人の感傷に組織は与(くみ)しない。即日、所轄の上層部として判断に誤謬がないか検討した。そのうえで事故死と判定し発表したのである。
和田は、若き警部補が下したこの判断に同情を禁じえなかった。
藤浪は、いわば相撲の行司に似た立場であった。行司とは、どちらが勝者かを即座に決めねばならない。白か黒しか選択肢を与えられていないということである。引き分け、つまり、どちらでもないとの審判を下すことは許されていないからだ。行司差し違えが起こる理由のひとつはこれに由る。今回の判断もある意味、白か黒かであった。
和田の結論も、判然としない、である。捜査員に対しては――頑張ったな――と評価する。一方で、上層部は判定を焦ったのではないか。そんな印象を拭えなかった。
自殺、あるいは、可能性はかなり低いが殺人。このどちらかの線は、全くないのか?それを見つけるためのもう一歩深い捜査をさせられたのではないか?上層部によるこの最終決定を和田は、良しとはしなかった。もう少し時間的猶予を与える、捜査に苦闘する現場の警察官をマスコミ等の世間の強風から守る、それが上層部の本当の仕事ではないのか!
頭でっかちで経験の希薄な高級官僚が警察機構を牛耳る今の態勢が定着してから、検挙率は下降の一途をたどっている(六割以上だったのが三割弱に)。現場を重視しないで一にも二にも結論に逸り、面子にばかり拘っている輩が上層部に多すぎる、これ、和田の実感なのだ。これでは現場が堪らない。捜査に当たるのは現場で汗を流し、ときには血を流す一般の警察官なのだ。デスクの前に座っているお偉い立場の連中では、決してない。
その点、矢野係だと日々働き甲斐を感じられると感謝している。そして、現場を重視し自らもそこに身を置く星野管理官には敬意すらも。
それでつくづく思う。いまだ解決の糸口さえ見えないエリート警部の高級ホテル全裸絞殺事件は、経験の希薄な刑事部長が臨んだからこそ、ここへきて迷宮入りしそうなのだと。
犯行現場の部屋をチェックインした正体不明の女性が被疑者である。いや、本ボシとみて間違いないだろう。ホテルの従業員はもちろん、防犯カメラもその姿を捉えていた。ただし、顔はわからなかった。大きなつば広帽に黒いサングラスをかけるなど、初めから人相を判別できないようにしていたからだ。さらに被疑者の指紋も掌紋も一切出なかった。
迷宮入りしそうな理由だが、顔や指紋などを判別できないから、だけではなかった。
金銭搾取が動機だった、とするには犯行の手が込みすぎている。むしろ、捜査を撹乱するために現金だけを持ち去ったとみる方が自然に思える。つまるところ動機も不明なのだ。
犯人を推定し捜査するうえで欠かせないのが動機である。むろん、公判においても重要視される。大事な要素だけに、動機に対する先入観や予断をまじえた捜査へ、ときに陥りがちだ。それは早期解決に心を奪われた愚昧であり、つまずく原因ともなってしまうのだ。
よって、未解決事件が増加している因の一つは、事実として、動機の見間違いである。
ところで先の全裸絞殺事件だが、これほどの計画犯罪、ましてCG技術を使ってまでの死者に対する冒涜(ぼうとく)…、大多数の捜査員の通念からすると、犯人が抱えていた激しい意図を感じて当然だろう。だが、
それがミスリードを誘う犯人の狙いだったとしたら…。それゆえ、被害者への並々ならぬ復讐とは決めてかからず、ひとつの大きな可能性とみて捜査していくべきではないかと。
まして近年は、わけのわからない事件、つまり(弱者であれば)誰でもよかったなどと、身勝手な動機で大量殺人を犯す輩も出てきているご時世なのだ。
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