死体発見は2012年四月十五日日曜日午前十一時過ぎ。死亡推定時刻は前日午後十時から十一時。同日午後七時半過ぎから八時半過ぎに摂った食事の消化状況や死斑の固定化・死後硬直の弛緩具合・皮膚や粘膜の乾燥具合・体温低下等を総合的に判断した結果だった。
そう、彼らが受け継いだ事件とは、エリート警部全裸絞殺事件、であった。
当時の本部長は息子の恥辱と事件の長期化に耐えられず(は、表向き)辞任引退し、捜査の最高責任者だった長野刑事部長は異動という名の左遷を余儀なくされた、その原因となった世間騒然のあの事件である。
「何でも構わんから忌憚のない意見を聞きたい。不思議に感じた点や疑問も大いに結構」調書を聞かせ終わった矢野は、とりあえず自分の見解は後まわしにすることに。「とにかく解決に向け、皆で頑張ろうやないか」やや陳腐ながら、思いのこもった決意表明であった。
すでに構築された信頼関係のお蔭で、皆も奮い立ったのである。
星野管理官は無言のまま、彼らの士気の高さに、満足げに笑顔で肯いていた。
星野と矢野を除き、事件にいちばん詳しい和田が口火を切った。「犯人は、なぜ左腕をカッターナイフで刺したのでしょうか」星野と矢野の意を汲んで、年下の五人に考える体勢をとらせると、「暴れたり騒いだりしたから、それを阻止するため?やろか。けどそれはないと思う。すでに手足の自由は奪われており、猿ぐつわをされてた可能性も高いからや」上司二人になり代わったつもりで五人を見渡しながら続けた。「猿ぐつわはまだやったとしても、ナイフで脅せば騒ぐのを止めるやろうし。むしろ刺すことで、大声を出させてしまうしな。ところで、両隣や向かい側の部屋の宿泊客は叫び声等を聞いてなかった。ここはやはり、猿ぐつわされてたとみるべきや。そう考えれば、痛めることで恨みを晴らしたかった、としか考えられん。ならば犯人は、丸害と過去に何らかの関係があった人物となる」
「なるほど。しかも相当な恨みを持ってる、ですね」西岡が感心して言った。
「けど、あくまでも仮説や。感心するには、ちと早い。恨みを晴らすのが目的やったとしたら、小さな疑問が湧き起こるんや。何で一カ所だけやったんや?しかも傷は、たったの2センチ強といかにも浅い」むしろ縦長に切り裂いた方が、痛みは激しいに違いないと。
なのにそうはしなかった。和田の言のとおり小なりとはいえ不思議であり矛盾でもある。
「人ひとりの命を奪うための計画まで立てて実行したほどの恨みやったとしたら、もっと傷つけてやりたい」そう思うのが人情だと、すでに情報豊富な和田は一般論を述べた。
「たしかに。怨恨が動機なら、何カ所も刺して思い知らせるでしょうね。…僕ならそうします」普段は冷徹な藍出だが、真直ぐな性格のせいで今は熱情家に変身してしまった。というのも、フェミニストでもあったからだ。弱い女性を守れない奴は男として失格だとさえ思っている。そんな藍出だから、加害者の女性は被害者から以前、心に相当のキズを負わされていたに違いない、そう考え、思わず熱い思いを吐露してしまったのである。予断に左右されているという意味で、人間としても捜査官としてもまだ若いといえた。
「おいおい、穏やかやないな」言ってはみたものの、星野はこういう藍出を嫌いではない。
「済みません。僕としたことが、つい」素直に首をすくめた。
ここまでは同じ推測の矢野が、弟分の軽い失態にはあとでお灸をすえることにし、「それで…」と先を促した。ところで、さすがに推理が速い。詳細を知って幾分も経っていない。
「眠剤の血中濃度と半減時間から」鑑識から得た知識だった。「また証言からも、ステーキハウスで飲まされた可能性が大。となると二時間前後の経過となり、丸害はまだ眠っていたはずです。またそうでないと、警察官たるもの、易々と手足を縛らせなかったでしょう」SMプレーを端から否定しているのだ。そして、このあとの仮説を提示する前に、犯人になったつもりで状況を想像してみたと述べた。「眠剤による睡眠から覚醒させるために刺したのではないでしょうか。なぜ復讐されるのか、殺されるのかを全裸にした警部にどうしても理解させたかった。反省や後悔を促し、死へのさらなる恐怖を味わわせるために」
矢野は肯きながらも、口を挟まなかった。睡眠薬の血中濃度等が微量だったのは被殺害時、すでに半減期を過ぎていたからだろう、にも同じ意見だった。
「つまり、刺したのは恨みを晴らすというより目を覚まさせるためで、絞殺によって怨念を晴らしたということですか」叔父の仮説を言い変えただけのバカ田君、感心しきりだ。
「入念な計画犯罪という点からも相当な恨みを懐いていた、となりますが。帳場は、そんな人物はいなかったと結論づけています」説得力のある仮説だと先輩に同調しながらも、藍出はその弱点を指摘した。批判ではなく、被害者に対する新たな角度からの徹底した身辺調査をしない限り該当者は出てこないと言いたいのだ。一理ある意見だった。
むろん逆の考え方もある。被害者の過去をもう一度洗い直すべきなのか、だ。なぜなら、帳場が徹底して洗い出したはずである。にもかかわらず、見落としていた可能性が残っているだろうか。仮にあったとして、その残り物に福があるというのか。あえて捜査し直すとなると、問題は捜査の方向性を定める着眼点であり、よほどの新たな切り口であろう。
なるほど難事件やな、そんな不具合な空気を察したのか、「こんなことを言ってはなんやが、捜査方針に偏りがあったと僕はみている」矢野が口を開いた。「が、今さらそんなことを言っても始まらん。ただいえるのは、だから見落としがあっても不思議やないということや。そこで、僕らは僕らなりの視点で探ってみようやないか」と、士気を鼓舞した。
信頼する指揮官の言に、貧乏くじ的見方は雲散霧消していた。
さらに和田は、猿ぐつわの目的について被害者の左腕を刺したときに大声を発させないためだったとの当然の見解をとった。それは、刑事部長が交代したのを機に、縮小した捜査本部が、実家に居を戻していた被害者の新妻に確認をとった結果、和田が推測したとおり警部の下着と確定したからだ。犯人が用意した新品ではなかったわけで、やはり変態プレー云々は見当違いだったとした。被害者は昏睡の間に下着を脱がされたうえ、口に押し込まれたとみて間違いないだろう。
つまり、娼婦を犯人像とした長野前刑事部長の憶測は邪推だったと断言した口で、 以下は自分の憶測だとの断りを入れ、「激痛で目覚めた被害者に、犯人は汚れたパンツを含ませていると告げることで恥辱を倍加させたんやないやろうか」とした。この手段といい、下半身を曝したまま放置しさらに恥態をネットのウェブサイトに掲示したことといい、被害者への恨みには、性が絡んでいるのではとの想像を披歴したのだった。
ただこの憶測の欠点は、前の帳場が被害者の学生時代からの歴代女性を捜査した結果、動機を見つけられず一応のアリバイも皆にあり、性に絡んだ女性群から被疑者を見出せなかったことだ。だからといって、帳場に見落としがなかったと言い切れるわけではないが。
たとえば恨みを持つ女性が捜査線上外にいた、という可能性だ。あるいは、露見しなかった動機を持つ犯人が歴代女性のなかにじつはいた、等である。
「ところで」と岡田。「白のハンカチを顔に被せた意味を我々はどう考えたらいいのでしょうか」死に顔を何かで覆うという行為は情愛を持った犯人がしがちで、恥態をサイトに掲示した行為とは明らかに矛盾するといいたいのだ。和田が判断に窮した矛盾である。
「お前はどう考える?」叔父の和田が、逆に問うた。
「ええっ?」奇声をあげたものの、頭の上がらない叔父に、「質問したのはこっちや」ともいえず、錆かけた脳の歯車を軋ませながら動かしてみた。「そうですね、死相の醜さを曝すのは可哀そうだと…」と。バカ田の、錆の回った脳にはやはり油を注す必要がありそうだ。
「下半身を曝させているのにか」と、あえてわかりきった事実を浴びせた。それだけに、手厳しい一言となった。容赦しなかった叔父の心は、――矢野係のなかで、せめても半人前くらいの戦力にはなってほしい――だった。
辛すぎるはバカ田君、心で舌打ちしながらもしょぼくれた犬のように黙るしかなかった。
ところで和田、次の発言は矢野警部にこそ聞いてほしかった。「白いハンカチは“男女の別離”を意味すると考える向きもあります。が、醜く歪んだ死相を犯人は単に見たくなかった。そのために予め用意していたのではないでしょうか。人の死相のなかでも窒息死はかなり醜穢(しゅうわい)ですしね。それからもう一つ。全裸を、特に下半身露出を強調する、そのための演出だったとも。事件解明にはあまり関係ないかもしれませんが」
たしかに憶測程度には違いないが、間違ってはいないだろうと全員納得した。
「あのぉ、わからないことが…、いいでしょうか」今度は藤川が発言した。「なぜタオルで絞殺したんでしょう?カッターナイフで頸動脈を切るほうが事は早く済むでしょうに」
「それやと体半分に相当の返り血を浴びてしまうぞ」藍出がすぐさま、欠陥を指摘した
「ですが、全裸か下着姿で切れば、浴びた返り血をシャワーで洗い流せますし」
「腕を刺した程度の血痕と違って、身体ごと洗い流さなあかん。それでは余分に時間を使ってしまう。腕を刺した程度なら洗面所で済む。犯罪者心理からすると、犯行後は少しでも早く現場から離れたい、や。計画犯罪ならば、よけい、そうするやろ」藍出も手厳しい。
引き継ぐように、「憶測やが、少しでも時間を掛けて苦しませたかったからや。絶命までに数分は掛かるし、窒息死というやつは相当苦しいらしい」和田が答えた。有意義に過ごした午前中のおかげで、思料する時間があったからだ。「ついでやが藤川、タオルを凶器にしたのは細い紐よりも掴みやすいぶん、非力な女性でも力いっぱい絞められるからや」
しかし、絞殺を殺害手段として選択したもう一つ理由が窒息死にあったことまでは、和田にも矢野にもわからなかった。それを知るための情報をまだ誰も得ていなかったからだ。
「ところで和田さん」藍出はさらに先輩の見解を聞きたかった。「犯人はなぜ、眠剤を使用したのでしょう。眠っていては性交渉など…」藍出らしからぬ愚問に思えた。
部下たちのバカな質問に少し苛立ちを覚えた和田は最後まで言わせず、「どうやら帳場の捜査方針を引きずってるみたいやな」と苦言を呈した。「暗礁に乗り上げたんは、前提が間違おてたからや。ズバリ言うわ、抵抗させんため…」に続けて、当たり前のことを聞くなと口から出かけた直後にピーンと、藍出が発した質問の意図を察した。“犯行をスムーズに済ますためだった”、などは承知したうえでの問題提起だったのだ。
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