検視担当官や機動捜査隊の意見、それに現場の情況などから事故か自殺で、他殺の線はごく些少として、初動捜査のあとを引き継いだ若い警部補(キャリア組であるゆえ)はベテラン刑事とともに、二者の取捨をするための情報収集とその判断を任されたのだった。
藤浪という名の警部補はまず、バーボン摂取後に相当量のアルコールが血中に取り込まれるまでの時間を計算した。それで死亡推定時刻は早くて八時半ごろ、あるいはそれより遅めの八時四十五分から五十分くらいではないかと、現時点での独自の見解を持ったのである。しかし上には報告しなかった。科学的根拠に乏しくあくまでも私見だったからだ。
その、高級バーボンのボトルとグラスだが、鑑識によれば、ボトルには病院長と直人と家政婦、それと鑑定が困難な古い指紋を検出したとのこと。グラスからは直人と家政婦の指紋、食器類にも二人の指紋が付いていた。逆をいえば、怪しげな指紋は検出されなかったということだ。一方、指紋を拭い消した形跡はなかったとも。偽装工作を疑う状況にはない、となる。だとしたうえで殺人を想定した場合、犯人は手袋をしていたことになる。
ちなみに既述の睡眠薬入り小ビンだが、じつはサプリメント用のビンであった。藤浪は疑問を懐いた。誰がいつ、どんな理由で入れ替えたのか。しかも、錠剤に通常施されているプラスチックの包装を取り払ったむき身として。その理由と、さらにはいつ誰が?
発見時、鑑識がビンを調べ、中身は科捜研にまわした。いうまでもないことである。ビンからは渡辺病院長と子息直人の指紋のみを検出したと鑑識。他方、科捜研。中身は証言どおりベンゾジアゼビン系睡眠薬ハルシオンで、直人から検出したものと同成分だったと。そこで同一品かを確認するための精密な検査がなされた。結果、完全に一致したのである。
それで、テーブル上にあった睡眠薬をグラスに入れたバーボンで溶かしながら飲んだとの見方が有力視されることに。たとえそうであっても、藤浪は睡眠薬がむき身だった理由等々を病院長に訊くべしと、脳内の海馬(たつのおとしご)にメモったのである。
早い段階で記された、星野管理官作成の捜査資料から和田が得られたのは、概ね(藤浪警部補の思考内容までは当然わからなかったが)以上である。
和田は次に、別枠でファイルされた三人の供述調書(供述録取書ともいう)を開いた。責任者欄には、藤浪警部補とあった。
ところで溺死の件だが事故死として処理されたことを、和田は各種報道により知っていた。だから供述調書も、義父と家政婦のアリバイ等から鑑み、事故死を前提にした程度の、通り一遍で作成されたものだろうと思っていた。だが、思いのほか入念な事情聴取がなされたと読みとれる内容であった。さらには、藤浪の優秀さも垣間見てとれた。
「一昨日(昨日は葬儀当日であった)、こちらにお電話したあとのことですが、病院に行ってきました」火葬場から帰宅したのを見計らっての昨夕、面談のアポイントはとっていた。「カルテを調べるために。ですが、存在していませんでした。で、導き出せる結論は一つ。なぜ、息子さんに正式な診察を受けさせなかったのですか?カルテ作成は義務付けられてますよね」と、逸(はや)る藤浪はまず問うた。ズバリ、義理の息子に睡眠薬を渡した件についての質問から入ったのである。診察が正式でないと決めてかかったのは、薬ビンに親子二人の指紋以外なかったからだ。
直前に述べたお悔みは忘却の彼方へと、すでに霞んでしまっていた。
当然の疑問を病院長にぶつけたと、捜査資料を既読し医師法違反を疑っていた和田は、若き新米警部補をでかしたと褒めてやりたくなった。薬剤師の指紋が付いてなかったのは、処方箋が存在しなかったからだと。ゆえに正規の手続きを経ていない由も疑ったのである。
頭から事故死と決めての事情聴取ではないことが、この鋭い質問からもわかる。さらに、事前の準備においても一切手抜きをしなかったこともだ。まるで、殺人事件を扱っているかのような意気込みすら感じとれたのだった、経験豊富なデカのごとくに。
医師法違反を指摘すれば病院長は強気ではいられなくなる。弱みを握られたとわかれば、ウソをついてこれ以上心証を悪くするのは得策でないと考えるに違いない。また、親子のやり取りだから情状を酌量してもらいたいと、悪くいえば媚びを売ってくるだろうからだ。
しかしその前段階において、カルテの存在を問われる事態が病院側にとっては愉快でないために、捜査員の依頼の仕方が悪ければ、医局の協力を得られなかったに違いない。なぜなら令状がない以上は任意となり、病院は拒否できるのである。しかも若き警部補は病院を相手とする捜査経験がないどころか、捜査そのものにもまだ慣れていないはずだ。よって、カルテを調べる自体ひと苦労だっただろう。とはいえ、労作業だったからと調査に粗漏があり、手落ちを基にした見当違いの質問を、病院長に発することも許されないのだ。というのもカルテがないイコール診察をしていない治療上の薬剤投与は、医師法22条等の抵触する可能性のある大問題だからだ。よって、当然ながら慎重を期したはずである。
それで警部補はまず、インターネットで睡眠薬を処方する医科を調べたのではないか、と和田。精神科だけでなく神経科・精神内科・心療内科・内科でも処方することを知った。
渡辺総合病院の各医科ごとに足を運び、渡辺直人のカルテの存在を調べてもらったのだ。睡眠薬処方に関連しているとは告げず、事故死の裏付け捜査のためとおそらく偽って。
ところでこの件に対し、純粋な捜査以外の煩瑣が、若き警部補に派生しなかったとも思えない。一枚岩ではない府警本部がどこまで捜査員に協力的だったか、警察官歴三十年近い和田ならばこそ疑われてくる。むしろ、足枷(あしかせ)程度の制限をもうけたのではないかとも。
事件性が薄く事故の可能性が高いとの初期判断がなされたこの件のような場合、人員の投入は当然削られたに違いない、とみた。それゆえ、藤浪が所属する係から部下を貸してもらい、せいぜい三・四人で当たっただろうと推察したのである。
固陋(ころう)が府警上層部を支配している現実。ゆえに、なかには真相究明よりも円満な解決、マスコミと国民の忘却により事が済んでしまうならそれでよいという怠慢な風潮。さらには事件の片がついた後、その部署からはずれる人事異動後に何が発覚しようと自分は無関係だったと、自己保全のみに身をやつす役人根性丸出しの輩も旧態依然、存在するからだ。
彼らこそ忘恩の徒輩であり、まさに、“日本警察の父”と称される薩摩藩出身の明治政府高官川路利良をして、草葉の陰で悲嘆の眉へと曇らしめ、忸怩(じくじ)にあえがしむる所業である。
いずれにせよ、警察自体にはびこる悪しきしきたり、そして本来の捜査とは無関係な窮屈と真相解明などより自己保身を最優先させる巨大な警察組織(特に上層部)の一部病巣に対し、正義感に燃える若き警部補は、やがて怒りすら覚えることとなる。
「質問に答える前にひと言。そんなあなたなら、とっくにお調べになったんでしょう」不快感を隠そうとしない病院長は腕組みをし、口をへの字に曲げた。
藤浪は、病院長の発言の意味を察しかねた、「何をですか」と。あるいはとぼけたのか?
「直人について、です。むろん、どんな仕事についているかも」
これに対し、「ええ」や「まあ」などの曖昧でお茶を濁そうとはしなかった。「渡辺総合病院で、臨床研修医をなさってました」ズバリこの方が、話が早いからだ。
「つまり、当院に勤務しているわけですから、本人にすれば『うちやと顔見知りの医師や看護師ばっかり』当たり前ですよね。『睡眠障害の原因をあれこれ詮索されるのが煩わしいからイヤや。それとカルテも作らんといてや』と勝手なことばかり。『あとで誰かが見たら、尾ひれまでつけて噂を肥大化させるに決まってるし。そうなったら僕自身、他の病院に移るで』そう脅したあと直人は、『ともかく医師法違反を盾に薬を出せないなんて言うんやったら、よそへ診察を受けに行くまでやから』と脅したのです。まず第一に、息子が他院で勤めるなんて妻が許すはずありませんし、責任を私が取らされる破目にも。それは何としても回避しなければなりません。また他院での診察にしても、あとあと変な噂をたてられてもと考え、仕方なく手渡した次第です。医師法22条に抵触するのは覚悟の上でした。息子の申し出とはいえ申しわけありません」さすがにこのときばかりは見逃してほしいとの下卑た心みえみえで、ひと回り以上は年下の捜査員に丁寧に頭を下げ謝罪したのだった。
ところで、今は医師法違反になど何の興味もない捜査員たちは「あなたが危惧した変な噂とは?」と、事情聴取にのみ専念した。
なぜなら、医師法違反で逮捕したとして、検察はおそらく起訴猶予とするだろうと、さる名門大学の法科大学院を優秀な成績で卒業したこの警察官(司法試験と国家公務員総合職試験合格のキャリア組)は踏んだ。証拠捏造等で検察に対する世人の目は厳しさを増している。こんな時期に、家族の病気というプライバシー秘匿目的の医師を起訴すれば世間は同情するだろうし、そんな世論を無視できないと検察庁は考えるはず、そうみたからだ。
加えて実際の話。親族が被疑者を隠秘した罪で起訴されても、裁判では刑が免除(刑法105条)されるに似て、犯人蔵匿罪(刑法103条)等において検察は裁判で幾度となく苦汁を舐めたのだ。それでもあえて起訴し、そのぶん税金の余分な使用をすれば、悪質な犯罪行為のためではないのにと、マスコミからの批判と世の不評を買うことにもなろう。
「よそで受診した場合、親の病院を信用してないからとか親に知られるとまずい理由があるからやとか。とかく悪い噂となり、尾ひれまでついて、そのために当院の信用を落とす。それだけは避けたかったのです」眼前のデカが違法を咎めなかったことに安堵したからか、社会的地位に裏打ちされた自信のゆえか、本来のゆったりした口調に戻って答えた。
だが実際には、信用失墜より妻の不興をかう方が自分にとっての被害は大きい、そんな腹だったのである。この、損得を計り尽くした打算だが、やがて実体が明らかとなる。
だが捕らぬ狸の皮算用、病院長にとってこれ以下はない最悪を迎えてしまうのだ…。
「なるほど。で、睡眠薬を所望されたのはいつでした」
「妻が旅行に出かけた日の昼、院長室で、です」
「そのとき、ご子息はどんな風でした」今度はベテランが、口を挟むように尋ねた。
「とおっしゃいますと」先日からの質問の連続で、今だけでもそっとしておいてほしいが正直な気持ちだった。しんどいのである。だから、間の抜けたことを訊いてしまったのか。
しかし、もしこの間の抜けた問いが演技なら大した役者に違いない。
「悩みをかかえ沈んだ感じだった、落ち込んでいた等々、受けられた印象のことです」
即答だった。「感情を表に出すタイプやない、少なくとも僕に対してはそうだったので、それに数日前のことでもありよくは覚えていないのですが、これといった印象は受けなかったのではないかと。つまり、普段どおりやったように」と、それからしばし沈思した。数瞬後、低く唸りながら左の掌を額に押し当てつつ、「思いだしました。そう訊かれて、ええ確かに、悩みごとを抱えている風に。しかしあくまでも印象です。処方させるための演技だったとも考えられます。そういえばあのとき、入院患者に変なのがいて同室の患者さんが転院したい云々で、僕はその件で頭を悩ましていたものですから。頭の中、まだ混乱しているようです。頼りなくて申し訳ない」病院長も大変なのだと言いたいのだろう。
たしかに、心身の疲労は無理もない。名士だけに仮通夜から葬儀まで参列者は多かった。それらの段取りから式後処理まで気が抜けなかった。加えて、喪主も三度務めたのである。
しかも陰が囁く「酒好きやったって噂やし。お酒飲んでから風呂に入ったんと違うやろか。としたら、医者のくせに不注意やわ」「ほんまに事故なん?自殺って聞いたけど…」「いや、私は殺害って聞いたし」等の無責任な放言の数々、耳に入ったのもあったに違いない。
睡眠不足の上に、精神的・肉体的疲労が重なっていたことは想像にかたくない。
幸せ家族の突然の不幸に、ここぞとばかり、人は、悪意の想像を逞しくするものなのだ。
それでもお構いなく部下のベテラン巡査部長は、相手の表情を観察しながら尋ねた。「睡眠薬を渡されたのは、さきほどのお話からだと直人氏に睡眠障害があったからですね」
「ええ。ですが正直、悩むほどの問題があったとは…」答える表情に特に変化はなかった。
悩みがないのはお坊ちゃまだから、とは口にせず「なるほど」と肯くと、「ですが人命が失われました、捜査に抜かりがあってはいけません」ご協力のほどをと軽く頭を下げた。「そこで睡眠障害の原因について。何かお心当たりは?」遺族に対し厳しい質問である。
「医師の立場からも当然、尋ねました。が、何も…。いまだに心を許していないからでしょう、残念です」溜め息をひとつ吐くと少しの沈黙をおいて続けた。「だから直人の都合で僕を医者として利用したり、父親としていいように接したり。まあ、そんな感じです。今回は医者として便利使いしたのでしょう」曇った眉は寂しそうにも、わけありともとれた。
だがこのとき捜査員たちは、家庭内にまで首を突っ込むことはしなかった。親子間が義理であれば、ぎくしゃくはしないまでも、しっくりいかないのは当然と思えたからだ。
また、事故死か自殺の判定とも関係なしと判断したことにもよった。義理の関係が不具合くらいでは、酒と睡眠薬に頼った自殺はしないだろうし、医師がそれらに幻惑され、毎日入る風呂で事故を起こすとも考えにくかった。不和であれば、別居すれば済む話だとも。
「睡眠薬のビンに、お二人の指紋以外ついていなかったわけを詳しくお聞かせください」
「処方箋がないわけですから薬剤師に依頼はできません。それが理由です」同じ話をさせられたことに内心閉口しつつ、「僕の指紋はですね、ビンに睡眠薬を入れたときのぶんでしょう。それと、誤用を防ぐため、服用方法を直人に手渡ししながら説明しました。そのさい箱からビンを取り出しましたので」いつしか父親というより病院長の表情になっていた。
「ご子息も医師でしたね。誤用などあり得ますか?」と、これも巡査部長。
「この期に及んでもなかったと…。しかし」言い淀み唇がしぼんだ。ややあって「医師免許取得は約一年半前。考えてみれば実際、経験も知識もまだまだ半人前でした。また睡眠薬にも各種あり、効能や副作用にも各々違いが。それで親として万が一を考えたのです。老婆心でしょうか。それに医師として長年の習慣が出たことも否めません。それはさておき、もし別人の指紋が出ればかえっておかしなことになるかと」当夜、第三者が睡眠薬を飲ませたとなると、殺人の可能性が出てくる。病院長としても義父としても、殺人事件として扱われるのは何かと煩わしいし正直イヤだ、そんな印象を与える表情を隠さなかった。
猜疑心をもっていえば、第三者の指紋が検出されなかったことで殺人の可能性はかなり低いと、逆説的にそう匂わせた、ともとれた。
「余談ですが、ビンには元々、僕のサプリが入ってました」とは、訊かずもがなの追加。
だが二人は無表情を装い続けた。「睡眠薬を渡された場所は」今度は若い警部補が問うた。
「家です。院内で手渡すには互いに抵抗がありました。私の場合、特にそれは」“違法行為”との言辞を避けて供述したのである。触れたくないからだろう。「どこであれ許されませんが、院内でだと二重に犯しているようで。それで家の方がまだ…。一方、直人は、もし誰かに見られたらマズいではなかったかと」刑事を正視できず徐々に目を伏せていった。
「渡された睡眠薬の量は」
「就寝五分前に一回、一錠服用で二週間分でした」
鑑識の報告書では残量十一粒となっていた。三粒服用したということだ。もらった日に一錠、当夜は二錠だったとすれば、計算上不自然さはない。一応、納得顔で肯いてみせた。
「では、渡された睡眠薬が入っていた小ビンの箱は、今どちらに」
そう問われ、視線を捜査員に戻した病院長は、「ということは、直人の部屋にはなかったということですね」逆に尋ねた。ホームズやポアロでなくとも簡単にできる推理だ。瞑目し「…」一旦口を閉じた。ややあって、「親馬鹿と嗤われようとも、とにかく不適切な服用を避けるために服用方法を紙に書き、それとビンを箱に入れて渡しました。ですがその後どうしたかまでは」口述に間違いがあってはいけないと、思いだしつつ答えている様子だった。「不要だと、捨てたんでしょうか…」深い溜息を吐いた。無念を表わしたものなのか。
それはともかく根がまじめで親切なのだろうか、懇切丁寧に答えている印象を、読んでいる和田警部補は受けた。それとも、“医師法違反”の先制パンチが効いたからなのか。
ところで院長の質問めいた発言をあえて無視し、「手渡されたのは奥様が出掛けられた日でしたね。そのわけは?」と藤浪は続けた、ゴミの件は家政婦に訊くべしと考えながら。
「直人なりの理由ならあったかもしれませんが、僕には」このときは首をひねった。質問内容が意外だったからだ。しかし後刻、さりげなくフォローする、直人の発言に絡ませて。
読みながら和田は、藤浪警部補がこの件を任された背景を想像した。上層部の誰かが学閥の後輩に経験を積ませるため、肩慣らしのつもりで殺人事件ではない件を担当させたのではないか。もちろん本人には、責任性が薄いからという理由は秘匿しただろうが、とも。
だとするならば先輩キャリアの素人考えだ。これは肩慣らしには全くもって不向きである。熟練でも手に余る難件だからと、和田の勘がボソッと自身に告げた。
「お疲れのところ申しわけないのですが、本当に疑問だらけなんです。直人氏が院長より早く帰宅されていたのはなぜですか」だから結果的に、遺体を発見することになったのだ。
「母親で理事長でもある妻の意向です。直人は頑健な体ではないうえに、医者という仕事は精神的にも激務です。医科にもよりますが、患者さんのお命をあずかるわけですから」
「大変なお仕事ですよね。それに、モンスターペイシェントに悩まされることだって…」あるいはこれが睡眠障害の原因ではないかと、予断による質問をぶつけてみた。
しかし「いえ。まだまだひよっこですから、重要な案件を手に患者さんと接することはありません。ですからそんな心配はないでしょう。が、暴言や暴力をはたらく輩にもし遭遇したら、理事長が黙っていません。直人を護るためなら警察の介入だって躊躇しないでしょう。本来なら、病院に介入させるのは控えるのですが」と、簡単に否定してしまった。
「では、臨床研修医ともなれば日々の勉強が大変と、こういうわけですか」通り一遍の捜査など眼中にないのだろう、あくまでも死の心因(自殺と想定した場合)を探ろうとしていた。むろん、真因(事故死か他殺を想定した場合)も、である。
「まさに、妻の心配はそれなんです。『家での安らぎの時間が短すぎる。最後の外来患者に合わせてたら、家でゆっくりできるのは十時間半程度や』となります」妻の言の部分、思わずの浮かない表情でボソリ。「仕方ないのかもしれません。一人っ子だから甘くなるのでしょう」愚痴っぽくなったのは本音か。短く小さな吐息は、病院長としての不満を表現していた。「体調を崩して病気にでもなれば大変と、午後七時半には家に着くよう、理事長の権限で決めたのです。それなら一緒に晩御飯も摂れますし、直人の様子を窺うこともできますから。だからあの日も直人は普段どおりにしたのでしょう、母親が不在にもかかわらず」恥ずかしそうに言った。「せいぜい一年くらいで終わればいいと思っていたのですが…」
と、ここで突然ベテランが「自殺とは考えられませんか」最も肝心な質問をぶつけた。
藤浪は感心した、《虚に乗ずる》ことで――本音を吐露させん――を見て取ったからだ。
唐突で非情ともいえる問いへ返答に詰まった一瞬ののち「想像だにできません。というより今は、何も考えられない」と徐(おもむろ)に。義理とはいえ、息子の死に衝撃を受けたというのか。名状しがたい表情になり、「なぜそんな質問を?」と質問に質問を重ねた。
「そうだと疑う理由は今のところ…。だからこそ、その可能性を身近な方にお聞きしないわけには」ベテランらしく、誤解を生まないよう答えた。むろん本音は、捜査員として死の真相を明らかにしなければ、に尽きる。「どうかお気を悪くなさらないでください」
刑事の立場を理解して、「仕方ないですね。医者だって治療のため、患者さんが嫌がることでも訊きますから。ですが妻にはその質問、避けて頂けませんか」と懇願の眼つきで。
「絶対にとは…。ですが、できるだけそのように配慮を」と言いつつ了解の眸をみせた。
肯いた義父の思考の眉が続いたあと、「よほどでない限りは自殺なんて…。やはり、想像できません」そう返答した。
了解の眸で応えた。だが納得してはいなかった。「しつこいようですが、睡眠薬を渡されたときも、必要とする理由やその心因について、直人さんは何も明かさなかったのですね」
「ええ。残念ながらこれっぽっちも。それで、まさかあんなことに…」少し機嫌を損ねた様子でぶっきらぼうに答えた。「こうみえて、医者のはしくれですし義理とはいえ父親です。だからしつこいと言われ嫌われようとも、その点、二度・三度と尋ねました。でも」と首を横に振り、キッと唇を固く結んだ。そしてロウ人形のように沈黙したのである。
捜査員たちは、仕方なく黙って続きを待った。
やがて院長は徐に詳述を再開した。言葉つきも態度も元に戻っていた。「自殺なんて!人生これからという年ですし、まだ未熟とはいえ医者という社会的地位も手にした。しかも十五年後には院長となる身、前途洋々やないですか」と言うやゴホンと一つ咳をした。
「なるほど。ひとが羨む将来を約束されているわけですね」さきを促すための相槌を打ってみせた。じつはキャリアの藤浪も、三年以内には警部に昇進する身なのである。
相槌につられたのか、「ええ。だから穿(うが)った見方をすれば」と断りを入れつつ「睡眠障害など本当はなかったのではないかと…」唐突、捜査員には寝耳に水の発言をしたのだった。
青天の霹靂とはかくの如きか、渡辺卓の発言の真意を忖度(そんたく)できずにいた。
「いや、不確かな穿ちは止しましょう。所詮は憶測であり、欠席裁判の呈ですから」と口をつぐんでしまった。それから、家政婦が先刻運んできたコーヒーに初めて口をつけた。
二人も含んだ。まず香り立ち、直後にコクが広がり僅かな酸味もほどよかった。その軽い刺激が藤浪の明敏な脳に疑惑を立たせた――何か企ててるのでは――。だが心証だけで根拠はない。それで質問を続ける中(うち)、秘匿事を探りだす取っ掛かりを得られればと考えた。
ややあって、先刻の問いに対し何か思い出したのか、開口した。「急な不幸に見舞われ、また疲れと睡眠不足で頭が混乱しています。それでよくは思い出せないのですが」病院長の口調は元のゆったりめに戻っており、「問題の日の朝は、いつもと違っていたようにも」と首を捻った。「何か問題でも起きたのか、沈んでいる風にも。ですがあくまでも印象です」
ちなみに“義父犯人説”を捨てきれない藤浪は、相手を混乱させるような質問を故意にぶつけた。もし犯人ならば、言わずもがなの不用意発言をするかもしれないからだ。「直人さんの様子ですが、睡眠薬を所望された時にあなたが懐いた印象とは、今の話、言葉にニュアンスがあるようですが」
それに対し、理解しかねるのか少し考えてから「それは前日の昼間の…直人の様子についてでした。しかもそのすぐあと、悩みごとを抱えている風にもみえたと言い直したはずですが」そう、気分を害しながら答えたのである。たしかに陳述のとおりであった。
真相解明に努めたい、一計の藤浪のいわば勇み足?であり、若さが出たということか。
藤浪を見据えつつの病院長。「沈鬱との印象は、当日朝のことです。前日の昼の要求時とは十九時間ほどタイムラグがあり、その間に直人に何かが起こったとしても不思議はない」
この言が正しいなら、死亡する前の夜にトラブルが発生したということか。直人の携帯履歴と家の電話の受送信履歴を調べる許可を、間髪入れず義父の卓から得たのだった。
翌日、両電話会社に問い合わせたのだが、不審な通話記録は見当たらなかった。
真相解明とは程遠い状態のままだ。
ところでここにきて、卓の口述がどこか慎重になった、換言すればより正確を期しているようにとれたのだ。彼に何か思案があってのことか。藤浪の思い過ごしか。だがまさかこの場で、病院長の言動を観察しているベテランの見立てを聞くわけにもいかず、青い藤浪は人間観察の経験不足から判断に窮し、ただ黙して推移をみるべしにここは一応決した。
そんな思惑に反し、「とにかく、当日のことは正確性を欠くので、話を、薬を手渡した時点に戻して考えます」病院長はまるではぐらかすように、話題をタイムトリップさせた。
親として義理の息子の死が辛いからか、病院長として触れられたくない話へと展開しそうになったゆえにか。警部補はどう舵を切ればいいかわからず、決めた方針のままとした。
「あの若さで心身ともに健全であれば、睡眠薬など必要としません。表現は悪いが、僕を脅してまで所望したからには、相当な理由があってのことでしょう」話は右顧左眄の風、寸前の発言を訂正している呈だ。「当然心配になり、手渡すときに大きな悩みがあるのかと尋ねたことは先刻も。しかし貝のように口を開かなかった。となれば、もはやどうすることもできないではありませんか」最後の方は投げやりで少し感情が出た発言となった。それから少しあって「しかも口止めさせられたのです、むろん睡眠薬の件ですが」と言った。
意外な発言に、二人はつい身を乗り出した。「どういう理由で、誰に対し、ですか」
「直人の言うには『おふくろに要らん心配かけたくないから』と、院長室で。『心配の件、ついでにあんたにもやで。四・五日か、長くても一週間くらいで、薬、要らんようになるやろうし、そしたら返すさかい』退出間際、背中越しにそう言いました」
――あんた呼ばわりか。婿養子でしかも義理の父親に対してやとそうなるんかなぁ――いずれにしろ我が儘に育ったのだろうと思った。そして「もう少しお付き合いを」感想とは別を口にした。「睡眠薬っていろんな種類がありますよね。なぜハルシオンを選ばれたのですか」流れに変化が出たのを歓迎しつつ、機を見るに敏なベテランの方が質問をぶつけた。
「トリアゾラム、商品名でいうとハルシオン」と、俄かに医師の顔になった。「理由は超短時間型の睡眠導入剤だから。神経を鎮め緊張感をほぐし気分をリラックスさせる抗不安作用の効能、つまり精神安定剤的な効果も期待できます。また自然に近い眠りを誘いますし、翌朝の眠気や不快感も少なくて済む。命と関わる医師にはこれが一番相応しいといえます。加えて不眠治療にも適していると判断した。乱用しなければ、まあ安全度の高い薬です」
警部補、「なるほど、それでハルシオンにされたのですか」一歩引く形で納得してみせた。
しかしどこかわざとらしいその態度が癇に障ったのか、病院長は「ええかな、そろそろ仕事に戻らんと。今日の午後四時半には病院に戻ることになってるさかい」クルリと背を向けた。事情聴取の当初、医師法違反があったため低頭したが、もはやなかったような態度だ。「その前に少しでも仮眠しとかんと。なにせ、ここんとこまともに寝とらん。通夜や葬儀、また失意に苦しむ妻を守り励ますのも私の役目やったから。頭の芯が少し痛いようでもあり、頭の回転も鈍い。今日のところは引きとってくれ給え。このままでは仕事に支障が出かねん」最後は名目上の当主として、病院を統率する院長の命令口調となっていた。
しかし彼らとて、否、今は彼らこそが仕事をしているのである、しかも徹して。居間を出ていこうとする病院長の背中に、警部補が質問の毒矢を放った。「素人なので教えて頂きたいのです。飲酒後にハルシオンを服用した場合、どうなりますか?どういう状態になるかという意味です」答えに対し、まやかしは許さないという強固な意志が横溢していた。
ベテランはというと、質問の間に院長の表情が見える位置にまで移動したのである。
もとより、ハルシオン服用前後の飲酒が御法度であることなど承知の上での質問だった。
しかし彼らが淡く期待した答えは、当初返ってこなかった。動揺や何か隠そうとしている顔つきでも、さらになかった。むしろ、医師として暴挙を鼻で笑っている表情だった。「そんなことをすればハルシオンの効能が増強されるでしょう。ですから使用上の注意として、医師は必ず患者に飲酒厳禁を伝えなければなりま…」との、説明するのもバカらしいと云いたげな言辞が、しかし急に止まった。その直前、眉が翳ったのである。「ちょ、ちょっと待って下さい」重大な何かに勘づいたのか、さらに顔つきが変わった。「な、直人の血液検査を踏まえての質問?なんですか」行政解剖がなかったのだから血液検査による血中アルコール濃度を検査したと、医師としてそう推測したのである。そして、刑事からの答えを聞く前から想像はついたのだろう、俯きかげんの“邯鄲(かんたん)男”(能面の一種、人生に思い悩む男を演じる役で使われる)の面(おもて)でもつけたような、暗く重い表情になったのだった。
「ご推察の通りです。ご子息の血液から、多量のアルコールが検出されました。もちろんハルシオンもです」振り向いた病院長の表情を藤浪は凝視しつつ、あとは口を結んだ。
捜査員たちの硬い表情が、病院長には非情に映った。
「バカな!まがりなりにも医者ですよ。酒との併用が暴挙だくらいの知識はあったはずです。それでも念を入れて釘を刺した。だから、そんな愚行…信じられない」と吐き捨てた。
反論により息子の名誉を守ろうとしたのか。あるいは警部補の言への意味のない反論は、悲劇的事実を妻に知らせる酷い立場を避けたいとの願いから出た精一杯の抵抗だったか。
藤浪は同情の声音で、「残念ですが、事実です」と発した。そしてデカの素顔に戻った。「ところで直人さんの部屋のテーブル上に、ウイスキーとグラスはあったのですが、アイスペールはありませんでした」との重要だと思う疑問をぶつけかけたところ、
即答で「当然です。セントニック十五年ものほどな上物をロックや水で割るくらいなら、端(はな)から安酒を飲んどけばいい」味音痴に最高級酒を飲む資格なしと鼻で笑いながら、病院長は、仕方なく居間の隅のイスに座った。「僕は年だからチェイサ―(強い酒の直後にのどを潤す水など)を横に置いておくが、あの子は若いから胃も肝臓も元気そのものでしょう」
若い警部補はセレブとは別の世界を棲みかにしている。それに普段は酒を飲まない質で、そんな飲み方に馴染みがなかった。まあ、他者の飲酒を注視しなかったせいなのだが。
ただ、直人の場合は、義父譲りかまたは祖父からの伝承かもしれないと、一応納得した。
「それにしても、何で酒と一緒にあれを飲んだんや」病院長は独りごつと顔を伏せた、目の前に立つ警察官の存在を忘れたかのようにだ。
「具体的にお聞きします。飲酒との併用はなぜだめなのですか」さきほどは少し脇道に逸れたので、今度こそはといわんばかりにあえて、さらなる専門的意見を聞く形式をとった。
そして二人は渡辺卓の顔が見える位置へイスを移動し、腰を掛けた。
我に返ったように面を上げ、捜査員の視線にさらした。「正しく服用しても記憶力低下や妄想などの副作用も発現する場合があります。薬とはそういう物ですから。さらに飲酒は、むろん量にも由りますが副作用を増大させます」息子の、《医者の不養生》が悔しいのか、誤用を制止できなかった自分を責めているのか、一言一言噛みしめながらの発言であった。
「承知であえて併用した、とは考えられませんか。それほどの大きな苦悩を忘れるために。だったら、医師にも関わらずとおっしゃった説明もつきます」執拗な質問となったが、ある推測が外れた警部補は、今は不明や不詳という後悔の種を残しておきたくなかったのだ。
「忘れたいほどの苦悩ですか…」そしてまた沈思した。今度は短かった。「感情を表に出さないと申しましたが、それにしても感じとれませんでした。一緒に暮らす直人の様子を私見の限りでは、苦悩にふさぎ込んでいるまではなかったと。だから、腑に落ちないのです」にて留まり、またも思案顔になった。“腑に落ちない”の肝心の主語を言い淀んでいる風だ。
黙ったまま主語の正体に頭を悩ませた二人。が、正着には至らない。待つしかなかった。
ややあって、病院長は決心した眼つきとなった。
直後、二人が耳にしたのは、想像の外の見解であった。
「…薬、本当に必要だったのか…と。どうしてもこの疑惑を払拭しきれないのです」で、また言葉を切った。だが、まだ何か言いたげではあった。
にもかかわらずその言葉を待たずに、「えっ?どういうことですか」意味するところだけでなく、相手の意図をも思惟できなかった藤浪の口が動いてしまったのである。若いから経験不足はいた仕方なかったとはいえ、勇み足による思慮不足は否めないと、やがてこのやりとりを思い出すたびに、藤浪は赤面しつつ強く自省することになるのだ。
そんな若造の心層を忖度することなく、病院長は踏ん切りをつけたように、「ある種脅迫めいた言動が睡眠薬を出させる演技やとしたら、真の目的は…」またもや独りごとのよう。入手先が判然としないのを、いや入手そのものが記録に残らないのをいいことに別の用途に使おうとしたのではないか、しかも悪いことにと匂わせたのである。さらに小声は続いた。「まさかとは思うが…相手は…」とつぶやき、渋い顔がここで押し黙った。
この一連の言動だが、刑事たちに忖度させ、己が意図を伝えるにこれで充分だとの深慮があってのことかまでは、年かさの巡査部長でも判然としなかった。
一方、成果を挙げたいと血気にはやる警部補は大いに気になったので、すかさず問うた。ただ、声のトーンは極力抑えた。「何がまさか、です?」病院長が醸し出している空気をあえて壊したのは、何回かあった沈黙により、続きをうやむやにされたくなかったからだ。
渋面が、問われたことで苦虫をつぶしたような表情に変わった。困惑の風にもとれた。
不快顔のまま、長く低く小さい唸り声が、渡辺卓の喉の奥から洩れたのである。
もどかしい藤浪は、相手の背中を少し押してみることにした。「真相を知りたいのです。(死亡原因の)判断に困っているので、どんなことでも構いませんからおっしゃってください」恩にきますと言いたげに、深々と頭を下げた。
それでも黙考は続いた。さらに瞑目した。が、やがて腹を固めたのか、パッと見開いたその両眼は光を帯びていた。「親は子の若気の至りが心配なんです。たとえば今回の苦悩を忘れるために女性を、性の道具として利用しようと思いつき」いつの間にか少し早口になっていた。「その前に、効き目がどれほどかを自身で実験した。だから酒と併用した。若き短慮というやつで、それがまさかの不幸な結末を生んでしまっ…」受けたショックのゆえであろうか。唐突に言葉が切れ、代わりに大きな溜め息が呻き声とともに洩れたのである。
「なるほど、自身で試した人体実験ですか。併用もそれなら説明がつきますね」合点した藤浪だった。頭脳は明晰でも、性根が単純だからなのか。
「もし不埒な用途に使ってたら、渡辺家は困り果てたでしょう」レイプにより、代々の家名と病院を”嫡男が潰してしまったかも”という意味だろう。「それは、不測により避けられた。…しかしながら結果は知ってのとおり、正真正銘の最悪となってしまった」閉じた瞼が小さく震えた。一方、動きを止めた唇は強い意志を示すようにぎゅっと結ばれていた。
病院長の心の揺れの意味に悩みながら二人は、口を挟むことなく次の言葉をじっと待った。真相解明に期待しているからだ。さらに藤浪は心底で、罪を犯したのなら自白をと。
だが次の言は「不埒を考えてたにしては、当日の朝の様子に合点がいきません」であった。疑問を呈しただけで真相解明とはならなかった。結局、たしかに直人は普段より暗かったわけだが、それなら”人体実験”とは符合しないではないかといいたげに聞こえた。
しかしそうとも言えないと和田。朝はまだ不埒に考えが至らないまま悩んでいたが、帰宅前には、女性の体を苦悩解消の道具にする算段に至っていたとすれば辻褄が合うからだ。
「暗い表情が、演技だったとは考えられませんか?睡眠薬を要求しているご子息の様子は、演技の可能性ありとおっしゃっていましたが」ベテランの方が訊いてみた。
質問に当惑げな表情を浮かべつつ頭(かぶり)を振りながら「わかりません」と。経験豊富な精神科医といえど、判断しかねている風にみえた。
が、これが演技なら大したものだと、ベテランは正視したまま感じた。
「嗚呼…」やがて悔恨と無力感がないまぜとなったような嘆息が口をついて出た。「死んでしまうくらいなら…。いや、僕が細心の注意を払っていればこんな不幸は起きなかったのではと自責しながら妻にも申し訳ないと」いなや、沈痛な表情が色濃くなっていった。「むろん、…人体実験とは言い切れません。が、そうだったなら実験などせず、いっそ直接、不埒に使ってくれた方が、恵子にとってはよかったかもしれません。犯罪に及んでも生きてさえいてくれたらときっとそう思うでしょうから」これが妻への憐憫だったとはいえ、犯罪を容認するという人としての配慮に欠けた、あまりにも感情に任せた発言をした。
先刻までの医師らしい冷静さはどこへ行ったのか。その、突如の異変の因は?身内を突然亡くすと果たして、人はこんな不道徳も考えてしまうのか。単にただそれだけなのか。
それにしてもどこか似つかわしくないとも。社会的地位や性格のゆえであろうが、今までは立ち居振る舞いも沈着冷静にみえたから、二人には釈然としないのかもしれなかった。
だがともかく、言動に小さな矛盾をみた気がした二人、否、和田を含む三人は。
言動の小さな矛盾。そこには、何かの意図があってのことだろうか。
義理とはいえ、身内の名誉を踏みにじる発言、さらには自身の人格を疑われるリスクすら負う証拠なき言を発したのは、不幸を防げなかった自分への歯痒さのせいか。あるいは、まさかだが、立証するに何の手だてもない警察に対し、犯罪を隠匿せん自己防衛がゆえか。
捜査員にも、供述調書を読んでいる傍目八目(おかめはちもく)の和田ですらもそこまではわからなかった。
ところがだ。「お恥ずかしい話ですが、今のは杞憂が発した空想の産物です。正直、あまりの不幸に心身とも、もはや限界なんでしょう。思慮分別なく、ついお二人の仕事熱心に誘導されてしまいました。不本意な仕儀と反省しています」と先刻の落ち着いた口調に戻っていた。「忘れてください」卓の過去八年において二度目の、謝意を込めた低頭をした。
「それはどういう」発言の意図をつかみかねてすかさず尋ねかけたのを、
「警部補さん」院長は両手で制しながら「申しわけありません。過労による妄想、疑心暗鬼です。どうか聞かなかったことに。あまりにも突然だったので今もなお頭が混乱している、そういうことなんです」と、また少し早口になり、後半は怒ったような口調となった。
話の継ぎ穂を失ったデカたちを含む三人を、しばしの沈黙が支配した。ちなみに刑事たちの沈黙だが、義父の、百八十度違う急変に戸惑ったからというのが正直なところだった。
ややあって病院長の小さな咳ばらいが静寂を破った。「ご納得頂けませんか。では医師として、ないとは断言できない別の可能性についてお話しましょう」刹那、表情がいささか強張ったようにみえたのは何がしかの緊張のゆえか。しかしじきに溶けていった。「先述のとおり、ハルシオンは服用後に記憶障害を起こすことがあります。飲酒がさらにそれを増幅させてしまい、あろうことか服用すら忘れて習慣どおり入浴した、とも考えられます」講義のように学生を諭すがごとき口調となっていた。「この方が、先刻のより現実的です」
言われればなるほど、説得力のある仮説だ。また、脳内スクリーンに映像としても描きやすい。聞くほどたしかに、真相に近いとも思えてきた二人だった。
そんな様子を何気に、医師から義父の面に表情を変えつつ、「ただ原因はどうあれ、不帰の人となったことに変わりはありませんが」沈鬱な眉間のしわが俯いた。
しかし彼らはデカである。関係者の供述を鵜呑みしているようでは、焼きが回ったといわれてしまう。そこで、冷静になって考えた。結果、以下に落ち着いたのだった。
たしかに定見があちこちと揺らぐ申述だった。だが家人(かじん)としての動揺や疲労を考慮すると、それをおかしいとは言い切れないと、二人はそう思慮したのだ。それで趣きの違う質問となった。「当夜の八時三分から三分程度、息子さんと携帯でお話をされていますが、その内容は?」直人のスマフォの交信記録を見、携帯会社に問い合わせ情報を得たのだった。
ところで、今までの話から藤浪は正直な心証として、事故の可能性九割、自殺は一割弱、卓による殺人は一・二分程度とみた。つまり、事故でないとの観測は厳しい、となる。しかしながら完全にシロだと確信できない以上、デカとして鼻の蠢きを止められないでいる。
「ああ、そうでした。電話しました。おっしゃって頂いて思い出しました」俯いていたがゆっくりと水平に戻しながら、疲れた表情をそのままに、続けた。「病院からの帰宅時間の件で苦言を呈しつつ、いろいろ言いました。君だけが早退するのはいかがなものかとか、仕事にも慣れたやろうし通常勤務にするべき時期やとか。他にも、君の口からママにそう言ってほしい。ただし病院長命令ではないし、またそう受けとられても正直困る、とか。加えて、直人の立場や苦情を言ってきた人数や内容等、できる限りの説得をしたのです」
「なぜ問題の晩に、しかも、家ででも伝えられることを」当然の疑問を口にした。
「問題の晩になったのは単なる偶然といおうか、結果論です」徐々に、無表情という応答モードに変わっていった。「わかりました。妻が数日間不在のタイミングだったから、これが真実です。直人も大人ですから、すぐに母親に泣きつくとまでは思いませんが、告げ口的のことを言わせないために」続けて、直人の携帯は手続きをしなければ国際電話できないタイプだったこと、ホテルの電話番号を知らされているにしても数人の同行者がいる旅先にまで電話を掛けたりはしないだろうと察しをつけたからと。「それと自分で決める、その時間を与えるために。加えて、面談となる家よりも電話の方が伝えやすい、それでです」
「そのとき息子さんは何と」
「考えておくとのみ。素っ気ない返事でした」質問攻めにうんざりした様子が垣間見えた。
が、意気込みに逸る若き優駿(ゆうしゅん)は斟酌(しんしゃく)しなかった。
「そのとき、再度の使用上の注意はされなかったのですか、睡眠薬の」
「今となってはそれが一番辛い」またもや溜め息をついた。「『睡眠薬をなんで渡したんや、渡すんなら誤用せんよう、どうして徹底せんかったんや』と何度も責められ、そのたびに謝っています。が、果たして僕のミスなんですかねぇ」最後のは、誰に言ったものなのか。
穿った見方かもしれないが、とって付けたように感じた。少なくとも、不自然さは否めないと。しかしながら、これは和田の印象である。
「むろん妻が在宅していれば、誤用しないようにと伝えたのですが、あいにく」と言葉を濁した。「ちなみに妻は、自身をもずっと責めています。むろん、彼女には何の罪もありません。あっ、ごめんなさい、内輪の話で」少し卑屈にもみえる会釈をした。そして話を戻した。「家政婦さんに頼もうにもすでに家にいない時間帯ですし、引き返してもらうのも気の毒と。それに時間外でもありましたし」何度目かわからなくなった吐息を大きくついた、一番重く暗い。「≪後悔先に立たず≫といいますが、本当に悔やまれます。無理やり頼んで、私が帰宅するまで直人の傍にいてもらえば良かった…」次第に暗鬱な表情が浮かび上がると、愚痴を最後に沈黙し、また眼を伏せた。
静寂がのしかかるように、三人がたたずむ空間を支配した。捜査員たちも静かにゆっくりと息をするだけだった。
三分ほど経過しただろうか。沈鬱が覆う面体の卓は、考えた末に口を開いたのである。「捜査の参考になるならと、手渡し時の注意喚起について具体的に申しますと」ぼそり、声は低い。「食後二時間以上経過後の服用と飲酒は絶対厳禁。服用後の入浴も危険なので厳禁。最良のタイミングは、ベッドに入る直前だとも。それでも、今思えば油断がありました。注意しながら、直人も医者やし当然わかってるはずやと。真剣みに欠けてたんですね」自責しているが、心底からなのか口先だけのものか。むろん、本人以外わかろうはずない。「ただ、患者さんに対しても注意喚起は二度もしません。弁明するわけではありませんが」
こんな、やや一貫性に欠ける詳述や、質問に直接関係ない発言は、彼を苛む苦悶が発させたのか。疲労からか。いずれにしろ、病院長の心裡を知る手だてを見出せないでいた。
そうしているうちに相手は、またもや口を閉ざしてしまった。
どんよりした空気となったなか、二人は辛抱強く待つしかなかった。
だが、義父の口をついて出たのは愚痴だった。「飲酒していたと聞いたときは信じられませんでした」そう、苦しげに洩らし唇を噛んだ。「このあと、飲酒との併用を知った妻の嘆きがいかほどか。それを思うとあまりに哀れで…」言うなり目頭を押さえうなだれた。
藤浪は少し時間をおき「本日最後の質問です」と断りを入れ、「お辛いでしょうが教えてください。直人さん発見時前後のことです」義父の行動を知らねばと思ったからだ。
卓は唾を飲み込んだ。それから口を開き、…慌てて浴槽から出した直後の通報と施した心肺蘇生法、そして事情聴取、妻に掛けた辛く哀しい国際電話等、簡潔に述べたのである。
以上、多岐にわたる口述に接したが不合理までは感じかった。小さな不備や錯誤・矛盾は否めないが、混乱していれば、誰でも記憶が前後したり思い違いをするものだ。穿ちかもしれないが、ただ、父親として心底悲しんでいるふうにも見えなかった。
二人はこのあと、母親と家政婦にも事情聴取している。また、病院長には再度の事情聴取をお願いしていた。この再度の事情聴取もだったが、特に家政婦には念を入れていた。
突如、夫からの国際電話を受けた恵子は、あまりの衝撃に一人では何もできず、同行の婦人たちに付き添われ、やっとのことで帰国したのである。翌日の便で、だった。
病院長にもしたように、当然、まずはお悔やみからはいった。
やはり、彼らが辛くなるくらい消沈していた。肉親、いや母親というのはこれほどに打ちひしがれるのか、犯罪被害者家族と接した経験の少ない警部補はさらに胸が痛くなった。
義理の父親と実の母親。みせたふたつの悲嘆、まさに歴然たる差だったのである。だが、その方が自然とも当然だとも思えた。
客間の壁には、どちらかの趣味なのか能面が三面と、少し離れたその横に湖畔を彩る秋を描いた大きな写実的風景画が掛けられていた。窓際には花が活けられ、家政婦の手によったのか安息香という名のお香が焚かれていた。来客時の決まりなのかもしれない。落ち着ける佇まいは、上質の家具や調度類のせいだけではなかった。
「お辛いでしょうが辛抱頂いて、真相を見つけ出すお手伝いをお願いします」彼女の苦痛を鑑み、息子の名も死という言葉も出さなかった。ベテランの、せめてもの心配りだった。
母親は眼を伏せたまま、徐(おもむろ)に小さく無言で肯いた。その所作も蒼白な顔色も哀れそのものであった。
「睡眠障害の原因ですが、何かご存知ですか?」病院長にしたのと同じ質問からだった。
エステなどで普段から美顔に励んでいるのだろう、五十歳を超えているとはみえない美しさを保った母親だったが、苦痛に歪んだ顔で「睡眠障害ですか。いいえ…初耳です。もう立派な大人ですから、あの子からいちいち悩みを相談するなんて……」か細い声を発した。ようやくといった様子で、だった。しかし直後、顔をテーブルに伏せて嗚咽し始めたのである。上半身が咽びに合わせるかのように小刻みに波打つ姿が痛々しかった。
自分が旅行で浮かれていたことを、おそらく責め苛みつつ日毎夜毎に泣き尽したのであろう、目は充血し、瞼は腫れあがっていた。普段は気丈夫なのだろうが、今はみる影もない。このまま後追い自殺をするのではと、危ぶまれるほどの嘆きようである。
落ち着くまで、捜査員たちはただただ待つしかなかった。お悔やみに留め、同情や下手な慰めはかえって苦しませるだろうと考え、今は控えたのだ。嗚咽がおさまった様子にようやく、ゆっくりと静かに「次の質問ですが、ご主人からは止められており、事実、不適切とも思いますが、ただ不審がある場合は避けて通れないのでお許しください」と、断りを入れ再開したのである。同時に居住まいを正した。「自殺だったとして、動機にお心当たりはないでしょうか」絶望している遺族には、あまりに酷な質問である、間違いなく。
しかし自殺か事故死か等を判断しなければならないし、いい加減な断を下したあとで、隠れた事実が出、余儀なく変更したとなれば、警察はまたも面目を潰すことになるからだ。
が、考えもしなかった内容に、唖然が顔となった。「じ、自殺、ですか…。お、思いあたりません。健康体でしたし、悩みも特になかっ…」ようようそれだけを告げると刹那、眼が泳いだ。直後、その目と鼻をハンカチで覆い、肩が崩れ腰も折れて泣き伏せたのだった。
その様子、微かの表情とはいえ、何かを隠しているようにもどこか感じられた。それでも、予定していた簡潔な事情聴取に変更を加える必要性はないと判断した。よって、「健康体」との発言に対し、あえて質問はしなかった。家政婦に問えば済む話だからだ。ただし、次のことは確かめないわけにはいかなかった。ゆえに、落ち着くのを黙って待った。
「直人さんは、いつも何時ごろ帰宅なさってましたか」
「午後七時半には必ず」か細い声に変化はなかった。
「誰が決めたことですか」病院長の発言を疑ったのではなく、確認が必要だったからだ。
「それは私が。医師という仕事に慣れるまでは無理をさせたくないと」理事長としての威厳、渡辺家の真の当主、直人の母親としての思いがないまぜになって、我が子を保護するための小さな専横に出たのだ。だから病院長と違い、恥ずかしげではなかった。
二人は黙って肯いたのだった。
一方、母親は気力を振り絞った。「それに…、モンスター・ペイシェントの対応に当たらないで済むようにと…。それなのに直ちゃんたら…、どうしてママを残して先に…」あとは言葉にならなかった。刑事の存在などすっかり忘れ、ただただ泣き砕けたのだった。
ある程度の事件性があれば、帰宅時間を知っていた他者の存在について訊いたであろう。しかし事件当日、家族と家政婦以外の第三者が邸に出入りした形跡は全くなかったのである。といって、母親はもちろん、義理の父親にも家政婦にもアリバイがあった。さらにいえば、二人のどちらかを疑うにたる根拠もしくは不審な言動も現在のところないのである。
和田が読んでいる調書、アリバイの記述はなぜか後段だった。藤浪は疑っているのか。
ところで一般論ではあるが、自殺は、遺された家族に不具合という事態も少なくない。そんな場合、自殺の事実を隠そうとする。特に社会的地位とやらが高い遺族ほどその傾向が強い。宙吊りの縊死体を勝手に降ろしたり、風呂場で手首を切っていた死体を強盗に殺されたと見せるべく、包丁を隠し部屋を荒らした。そんな遺族も過去に存在したのである。
自殺だとして、母親がそれを秘匿したい心情を察した巡査部長は、家政婦に事情聴取しましょうと耳打ちで提案した。玄関で応対した、見るからに大阪のオバちゃんとの印象の、よくいえばふくよかで、遺族ではない中年女性になら突っ込んだ事情も訊けるだろうと。
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