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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(23)

さて、確立した権力を強固にしつつ実子(恵帝)にゆずるために呂雉は、夫であった初代皇帝劉邦の死後、いずれは脅威となるであろう劉邦の各庶子(側室がうんだ子どもたち、各地にて所領をえ、皇位継承の権利を有するもの)やその生母たちを殺害しつくしたのだ。

しかも側室たちの殺害においては、四肢切断・双眼摘出など、凄絶・無惨をきわめたという。これが事実ならば、殺戮の手法においては史上、稀であろう。

秀吉も、おいの秀次一族を惨殺している。この点で、似ているとする向きもあろうが、読みすすむうちにわかった。

呂雉が権力を掌握するまえの資料だが、あまりに乏しいのだ。懸命の子育てと劉邦の補佐をしたというたしかな史料以外、人間性を推しはかれる記述はあまり遺されていないのである。

したがって、人格に転変があったかどうかまではわからなかった。

これでは思量できない。残念ながら、比較できないことがわかったにすぎなかった。

とここで閉館時間となり、のこりは明日にまわすことにしたのである。

で翌朝以降、書かれていたべつの独裁者や権力を占有した人物を調べあげたかぎりでは、権力掌握とその後の人格激変において、完璧な相関関係は有しないとの印象をもつにいたった。

さて、それらののこりについてだが、せっかく調べたのだ。で、具体的には以下のとおりである。

まずは家康。一女をのぞき豊臣家を根絶やしにした人物ではあるが、だからといって、豹変が原因ではない。ただ、徳川幕府を盤石にするためであった。

つぎは、ヨーロッパを席巻しフランス皇帝にのぼりつめたナポレオン。

一連のナポレオン戦争では約二百万人の犠牲者をだしたとされている。現代的な視点では非人道の象徴であり、“人命の簒奪者”と忌みきらわれても当然とおもう。

よって、許されざる極悪ではあるが、それでもかれの非道の極みを弁護するならば、強大な大英帝国に対抗できる母国フランスを構築するためだったと。

またいっぽうで、罪だけでなく功もあったのも事実だ。

近代法の基礎となったナポレオン法典は、欧米はもとより日本の民法にも影響をおよぼした。また、フランス革命の理念(自由・平等・博愛)を西欧に根づかせもした。

だがそうだったとしても、暗殺計画に加担したアンギアン公の処刑は非難されてしかるべきだ。しかしながら、虐殺だったとまではいえない。

そのナポレオン。皇帝という最高権力者になったことで人格がかわったとか、暴君になった、というような事実はない。

たしかにフランス軍が、スペイン人を虐殺した(それを描写したゴヤの絵画“マドリード”は有名)というのは史実だが、兄のジョセフがスペイン王に就任直後のことで、なによりまず、ナポレオンが指示したわけでもない。

というわけで、秀吉と比較対照しても、今回の目的をはたせそうにないと判断したのだった。

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その一、村まつりに参加していた農民の皆殺し。

その二、悪政への不満による反乱ののち投降した捕虜数百人を、蕫卓は、みずから主催する大宴会において一人ずつ、文字どおり血祭りにしながら、その地獄絵に満悦したのである。

その三、遷都するにあたり洛陽を火の海にし、おびただしい焼死者をだした。燃えさかる火は、数日間消えなかったという。

快楽犯罪というおぞましい用語があるが、このおとこは快楽大量虐殺をなした、最悪の暴君であった。ここまで酷いと、ネロはもはやその比ではない。

 肝心の対比だが、秀吉との共通点は見いだせなかった。

秀吉とちがい、蕫卓は、権力奪取のまえから残虐・凶暴であった。奪取後も、悪逆無比にちがいはない。

このおとこはたんなる欲望の塊であって、英雄性のかすかな一面すら持ちあわせていない。けっかとして、蕫卓からも、秀吉変貌の参考資料を得ることはできなかった。

 ところでその秀吉だが、全権力を手にいれたこと、それ自体が原因で人格が破綻し豹変した、とはかんがえづらいのである。

というのも史観的に、権力掌握をさかいに、いわば天使から悪魔へ、両極端の人格を表面化させた、ようにみえる人物は、ほかに例がないからだ。以下は、その検証となるのだが、いずれにしろ、人類史上唯一の存在、なんて論理的ではないではないか。

ちなみにいったんは、これをあえて否定してみようとおもう。

権力奪取が、極悪な人格転換をさせた可能性のある事例について、だ。前漢の高祖劉邦の皇后呂(りょ)雉(ち)がそうかもしれない云々、そうみてとろうと。

あまり有名ではない呂雉だが、かのじょは“中国三大悪女”のひとりとして、知るひとぞしる存在なのだ。

で、ほかの二人は、唐代高宗(三代皇帝)の皇后則天武后(中国での呼称では武則天)と、清朝末期の西太后である。かのじょらも、教えてもらったなかに入っていた。

その則天武后だが、権力掌握前から非道比類なき魔物であった。

いっぽう、西太后のばあいは、伝承や俗説には偽説もすくなくない。むしろ虚像だったとの説が、最近では有力になりつつある。死後、辛亥革命以降において、人物像をゆがめられた可能性のほうがたかいようだ。

秀吉とはパターンがちがうゆえに、呂雉以外は参考にはならないとかんがえた。

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ところで、秀吉と対比してみると、共通個所がいくつかあることに気づく。

ひとつは、善政と悪政の両方を施行した点。以下は、初期の善政にはあたらないが、権力の魔性にとりつかれたネロですら、ローマ大火直後はその救済にと、食料の配給や仮設住宅建設に取りくんでいたのだ。にもかかわらずの、善政を台無しにした大量殺戮であった。

つぎに、母親を利用した点。

秀吉は、宿敵家康を上洛させて家臣の立場におくために、母親を一時的にではあるが人質としてあずけている。

いっぽうのネロは、皇位後継者?だった義母弟の、その地位をうばう謀略を実母に頼みこんで(すでに、先代の四代皇帝の後妻におさまっていたことから可能に)、帝位を手にできたのである。

さらに、人生の前段は人格者で、後半は破綻者となったこと。

その豹変の原因に、病気説があることもだ。

ただしボクは、脳梅毒が秀吉豹変の原因とはおもっていない(既述)。

で、人格の逆転と所業だが、ネロにおける地位保全のための悪行と、秀頼を後継者とするその障害(とは、ボクはみていない)たる秀次の殺害は、似ているようでちがう。秀次に、障害となれるほどのパワーや器量などなく、うすい存在だったからだ。執拗ではあるが、監視下のもと生かしておけばよかったのだ。

ただし、譜代の家臣がすくないなかでの親族の殺害は、豊家の力をよわめることとなった。まあそれはそれとして、

けっきょく、秀吉の人格豹変の原因や理由を、ネロを通してはみつけだせなかった。

 つぎに、東洋での最悪の暴君となると、三国志の前段に登場する、蕫とう卓であろう。

クーデターにより、城外へ逃れかくれていた幼い少帝とその弟を、見つけだすとかれは自軍をひきい、王朝末期ならばこその混乱に乗じて、後漢の首都である洛陽へ入城をはたした。

間かん髪はついれず、ほかの武将たちとクーデターを武力制圧するのだがその前にまず、巨大宮廷にて皇帝に侍はべる宦官かんがん(武官ではない)たちを大量虐殺した。クーデター参加の詮議をすることもなく、ただただ手あたり次第の血祭りだった。

ついで、こんどは武功を独占するために、のちに養子となる猛将呂りょ布などの武力を借りて、鎮圧直後で気のゆるんだ同僚の武将たちを謀殺していったのだ。

さらに、幼い少帝から弟の献帝へと移譲させ、そのうえで政権を奪取するため、現皇帝(献帝)の生母をはじめ前帝(少帝)、その側近をも虫けらのように殺害し、献帝を傀儡としたのである。

専横はつづく。金満家の財宝を強奪するなど、誘拐・凌辱・略奪・殺戮をくりかえし、ついに、蕫卓首謀の凶悪が、首都の茶飯事となった。最高権力者に君臨したこのおとこは恐怖政治に明け暮れ、首都は不法地帯と化したのである。

そんななかでも極悪非道が三つ。

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かれはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)と縁(えにし)があり、また、カエサル暗殺後の第一後継者だったアントニウス(ふたりともが、古代エジプト王朝最後の女王クレオパトラ七世とのあいだに、子をもうけている)とも、さらには、古代ローマ帝国初代皇帝オクタウィアヌス・アウグストゥスの血族でもある。いわばサラブレットというわけだ。

その皇帝ネロだが、治世初期こそ名君であった。

しかし、やがて帝位をおびやかす存在の異母弟を毒殺してしまう。

謀殺理由の有力な説が、後世にまでつたわっている…本来ならば、異母弟こそが正当な後継者であったとの。

だから排除したのである。権力が強大であるほどに、魔性に、ひとは翻弄されるのだ。

四年後には恩ある実母を殺害。ついで、邪魔になった妻とじぶんの腹心をも、自殺の淵においこんでいったのだった。

悪行はさらにエスカレートする。

その根だが、ネロの人格云々はおいておくとして、六日以上もつづいたローマ大火にあった。出火の原因は不明で、しかも不運ではあるのだが。

と、ここで、石造りの建物が燃えひろがるのかと疑問におもい、ネロにかんする記述をさらに読みすすめたのだった。

説によると、当時のローマは人口が急増し、住居費をふくむ諸物価急騰や衛生面からみても、人口増それ自体が失政といわれはじめていた。

そのやさきに、急造の木造住宅から出火し、その密集ぶりが大火の遠因であると、そんな批判までが沸騰したのである。

さらにはネロによる放火説までが、市民のあいだでささやかれだしたのだ。

批判や不評を払拭するために、で、ネロがとったとんでもない行動。

“放火だった”と叫び、犯人は、新興宗教として流行しだしたキリスト教徒の信徒だ!かれらこそが“集団放火犯だ”との汚名を浴びせたのである。消火活動をするしりから、集団で放火したから大火になったのだと。

それらしい信憑性を付加したうえで、弾圧と迫害におよんだのである。火刑による大量殺戮であった。

この、おのれの悪評をかわし地位を保全するためだった、とは、欧米がキリスト教世界だけに、憎悪をこめた定説としてあまりに有名だ。つまり、放火説そのものが、信憑性にとぼしいというのである。

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ということで、今度は二冊だった、暴君たちをしるした書籍が。

“学習室”、前回はそんな名称があることすら気づかずに入室した。が今回は、神経をはりつめさせた人のおおい部屋のふんいきにも動じなかった。

一冊八時間、すくなくとも一人あたり一時間強、合計二日を目安に、さっそく調査を開始したのである。

 しかし結果からいうと、計算どおりとはならず、それなりに満足のいく調査に、みっかと半日を要してしまった。

 というのも、二冊をひととおり読んだあと、暴君のあまりのえぐ味のせいで、だれが誰だったか、あたまが混乱してしまったからだ。

理由ならかんたん、暴君とされる奴らだが、あまりにすさまじかった。残酷すぎて、これが人間のすることかよと、よんでいて正直、胸くそがわるくなるほどだった。

それで叶うならば、これ以上のくわしさで調べたくもなく、触れたくすらなかった。

だがそうもいかず、詳細にすぎる事跡の逐一の書写までは酷こくやし、とてもやないとやめたのだが、洋の東西から一人ずつを、むごさが強烈だったヤツをなんとか思いだし、ピックアップしたのである。

それ以上となると、苦痛で頭が変になりそうだった、からだ。

まずはひとり分を再読し、ノートに書きうつしていく手法を、それで今度はとったのだ、が、

 あっ、そのまえにまずは、豊臣秀吉を暴君とよぶことが正当か不適切かについて、である。意見がわかれるところだとおもう。

ただ、先日よんだ書物によらずとも、大量殺戮の数においてはるかに、天下布武をとなえていた“信長越え”をしていることだけはまちがいない。

とにもかくにも二人ぶんをとがんばって、調査と書写をおしすすめながら、

しかし、ボクがこいつならばとチョイスした暴君が、秀吉の豹変のヒントを提供してくれない可能性だってと、事前にそうかんじてはいた。

そのばあいは、つぎのえぐ味へと材をもとめるしかないか…あああ。まあ、その時はそのときだ。

しかし、である、

もしそうなったとしたら、先がおもいやられるし、ほんま辛い。

だからといって、お母んには勝てない以上、前進あるのみだ。

ああ、それにしても、みたてが甘かった。結論からいうと、のこりの十三人もすべて、となってしまったのだから。

いやはや、先走りがすぎたようだ。

ともあれ、残虐性だけでも希釈しながら。

で…、

まず向きあった、いまわしきその悪名は数多あまたあれど、西洋では、古代ローマ帝国の第五代皇帝ネロこそが、暴君のなかの暴君であろうと。

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 秀吉を解剖し詳(つまび)らかにするには、角度をかえたうえでの、検証が必要だと。

具体的には秀吉だけでなく、ほかの人物をもしることであらたな景色として眼に映じ、もっといえば、比較対照することであらたなる発見が可能となり、おもってもみなかった秀吉像がみえてくるのではとかんがえたのだ。

と、切り口はおもいついたのだが、その具体法であたまを悩ませることとなった。

果てとして、このひとならばと、図書館のしんせつな館員さんをたよることにしたのだった。

ボクの意図をくんでくれ(斟酌(しんしゃく))、寸考ののち「それでは」と、秀吉をふくむ十六人の暴君や独裁者の名前をおしえてくれたのだ。

ついでに、それらの人物像や事績とその背景をしるための本も、ピックアップしてくれたのだった。本好きな少年に、もっと書物のすばらしさを知らしめたいとの、親切であろう。

かれは、ルイス・フロイスが“暴君”にたいし記述をのこしていることをしっていて、それに基づいての書籍を紹介してくれたのだろうと、最近になり忖度できた。

ちなみに、ルイス・フロイスほどの知日家は、今日においても数すくないのではないか。

パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、日本に帰化)とドナルド・キーン(米出身の日本文学と日本文化研究の第一人者で、日本に帰化)くらいではないか、優劣つけがたいのは。

で、脱線のついでである。

イエズス会員として三十一歳のとき、戦国期に来日し、六十五歳で病没するまで滞在した。

わるくいえば西洋かぶれの信長に、西洋文明や精神文化を伝授するなどして、重用されている。権力者の豊臣秀吉らにも謁見するがそれだけでなく、日本各地を旅し見聞もひろげた。

著名な“日本史”などの著作は、戦国期研究の貴重な資料としていまも重きをなしている。

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 つぎの日も分析についやした。一冊ごとにメモをとったので順不同になってしまった事項を、まず、ふるい事跡から新しい順に並びかえた。

秀吉がいつどこでなにを、なぜなしたのか。その事跡のけっか、なにが起きたか。この整理で、歴史のながれがあるはっきりとわかったのである。

あとは記憶するくらいに読みかえし、秀吉のかたわらに、じぶんが控えるくらいに接近することにした。

 この日も翌日もさらにつぎの日も、寝てもさめても“秀吉”であけ暮れた。とり憑かれた…ように。

 三日間必死であがいた。が、それでも豹変ぶりの原因を見つけることはできなかった。_殿、ご乱心!_でかたづけられれば苦労はない。そんないい加減な結論ですませられたなら、この難問だけでなく、人生においてこれから発生するほかのおおくの難題をも、かんたんに処理はできるだろう。

ただしそれは、解決ではけっしてない。いや、正確には処理でもない、たんなる逃避だ。ところで人生だが、逃避でかたがつくほどに甘くはない、…おそらく、いや、きっと。

だから、母がそんな安易を、ゆるすはずがない。いや自分自身、なさけない(2003年のいまならば、敵前逃亡と明確におもうだろうから)と、のちのち悔いをのこす気がした。

 で、調べつくすしかないと。

気持ちをそこにおくと、専門書の抜粋をよみかえした。難解このうえなかったが、それでもこれではないかという箇所が、眸にうつった。その文献によると、秀吉は脳梅毒をわずらっていたらしいと。

推測するに、病気だろうけれど、だとしても、どういう類のものなのか、当時はしるよしもなかった。

抜粋をさらによみ進むと、それでは納得がいかなくかった。五冊目にあった医学者の、つぎの意見を支持するからだ。

「脳梅毒をわずらっていたとしても、そんな、非人間的な行動をとる可能性はきわめて低い」

さらに歴史学者は、「主君であり、秀吉にとって絶対者だった、いやそれ以上の、ある意味おそろしい神ですらあった信長がえがいた、天下統一のあとのつぎの目標、朝鮮半島および明国(当時の中国統一国家)への侵攻ならびに征服、(神になろうとした節のある)絶対者がなしえなかったことを、じぶんが実現することで達成できる“信長越え”。

それは絶対者にたいし、いだいた劣等感からの解放を意味した。

足軽時代はうち据えられ足蹴(あしげ)にもされ、才能を見込まれたあとも“猿”や“禿(はげ)ネズミ”と蔑(さげす)まれ、武将と取りたてられてからは、やすむ間もなく道具のようにあつかわれつづけた。

それだけに、心身ともに支配されていた絶対者を、その死後ではあったが凌駕することで、かれは信長の家臣としての秀吉ではなく、名実ともに天下人となり、“太閤秀吉”となっていったのである」と説明していた。納得できる見識だとおもった。

 しかしこれでは、豹変の説明にも理屈にもならないと。

文禄・慶長の役を指令した動機にはなるが、関白秀次一族郎党の惨殺の理由にはならない。

また、歴史学者たちがその根拠たる定説をいまだ見いだせない、千利休にたいする切腹命令。そしてキリシタン二十六人処刑が、禁教令に実効力をもたせるため、あるいは、日本植民地化をねらうスペインへの牽制だったとする、奇説の事由にもならない。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(16)

いままででいちばんで最高の勉学。それでもナゾは、まだ解けなかった。しらなかった情報を可能なかぎり収集したにすぎない状態だからだ。これから取りかかる分析によって、解明できるかもしれない。そこに期待した。

午後九時半、メモを読みかえしながらあらためてかんじた。

_世に名をのこすほどの人物、どころか、天下を手中におさめた超大物や。変心には、よほどの理由があったとしかおもえん_と、ブツブツ。

_かといって、どうしようもない小早川秀秋(節操のない変節漢の代名詞。秀吉恩顧という以前に正室ねねの兄の子で、しかも秀吉の養子となったまさに身内である。にもかかわらず、関ヶ原の合戦で敵方に寝返った)や、義経をだまし討ちした奴(藤原泰衡のこと。平安末期の1189年、父秀衡の意にはんし、頼朝の機嫌をとるために源義経を討ち、かえって、奥州藤原家を滅亡させることとなる)とは、おなじ変心でも、内容(実体と表現すべきだった)はまったくちがうし…_

子どものころ(小六もまちがいなく子どもだが)は、虫を、それこそ虫けらのように踏みつけて殺したなど、…ふだんは虫も殺さないボクにでも残虐性はあるし、酷いこともし、イヤごとを言ってもきた。だからといって、人格が逆転したわけではない。

これくらいの変化(へんげ)なら、だれしもあろう。

それとは根本的にちがう、豹変の真相や原因がなにか?だが、メモを片手に、皆目見当がつかなかった。

 やがて、ふとんの上でまどろみはじめた。で、そのまま、疲れから寝入ってしまった、ようだ。

目覚めは、ラジオ体操二十分前だった。照明は消されており、タオルケットにくるまっていたのだ。母のやさしさ、だろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(15)

もともとは文盲の秀吉だったから、誤字や当て字もおおいと、この専門書には。

小六(蜂須賀小六、のちの秀吉の家臣、ではない)のボクには、どれが当て字かもわからなかったくらいだから、手紙の内容をほとんど理解できず、その意味では影響はなかったといえる。ちなみに四冊目の書籍にも数通あったが、こちらはわかりやすい解説を記載していた。

ところが、五冊目の専門書はそれがおざなりだ。わからない奴はついてこなくてよい、という筆者のおごりをどこかかんじた。それに腹がたち、なにくそと、食らいつくようにしていどんだ。

ここまできて退くのは、まるでたたかいを放棄したようでくやしいからだ。つよい相手に怯(ひる)んで尻尾をまいてにげる様(さま)は、まさに無様である。見苦しい有様をさらして、夏休みをおえたくなかった。

とはいえ、辞書で調べてもわからないところは正直やりすごし、とにかく、秀吉の最期を看取ったのである。

 よみ終わったとき、目はショボショボ、肩はゴリゴリ、腰はガクガク、尻はヒリヒリ。それでも達成感に満足した。ところで、まわりにいた勤勉家たちは、いつのまにか半減していた。時計をみると、閉館間際の午後六時五十分。外はくれかけていた。

_お母んが心配してるやろ_と、館外の公衆電話で、母を安心させた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(14)

とにもかくにもと、おしえられた順番どおりに本を見開いていった。まずは、“よくわかる日本の歴史”の安土桃山時代編だ。しかし、意気ごみは空回りした。もの足りないというのか、ほとんど手ごたえがなかったからだ。すぐ、つぎのに移った。

二冊目、三冊目とかさねるごとに、想定していた以上に専門色がつよくなっていった。

ひとつの事項にたいする記述もおおくなり、言葉もむずかしくなった。こうなると、途中からひつようとかんじ棚からかりてきた国語辞典を、ひくしかない。持参した新(さら)のノートに記入したメモは、すでに十項目をこえていた。三冊目がおわったところで、休憩をかね、おそめの昼食をとることにした。

 はじめの三冊は棚にもどし、のこりの二冊を確保したいと申しでると、貸出あつかいとして、あずかってくれた。片道十三分、家にかえってインスタントラーメン・ライスを食べることにした。母はパートにでているので、ラーメンはつくるしかない。卵とモヤシをなべに。包丁をつかわなくてもすむからだ。

 五十分後、傍若無人な年よりと五月蝿かった幼児と無責任な親はいなかった。

手すきのときにボクのようすを見にきてくれていた、親切な館員さん。取りくみかたが真剣だったので、もどってきたボクに、静かな部屋があるとおしえてくれた。昼になって、席がひとつあいたかららしい。

_やった、大歓迎や_あずかってもらっていた二冊を両手でかかえこみ、その部屋のドアを背中であけた。眼にうつった光景は、本をにらみつけるような真剣な顔ばかり。ちょっとこわかった。が、集中しているのか、新入者に一瞥をくれるひとはすくなかった。過半数は受験生だろう。

 なんだか負けていられないという気になり、真剣度が増した。

 四冊目はかなり高度だった。辞書をひく回数も格段に増えた。しかし、おかげでいろんなことをしることとなる。四冊目をおえたとき、メモのかずは二倍以上になっていた。時計をみると三時半を幾分すぎていた。静かにトイレにたった。

 アンモニア臭いトイレからでると、外でおもいっきり背伸びをした。腰も伸ばした。このときはじめて、肩に違和感をおぼえたのである。すぐにはわからなかったが、人生初の肩こりというやつだろうと察した。

_お母んのような肩になってる_さわってみてわかった。母親という役目の大変さに、あらためて思いがいたった。同時に、ガンバっているじぶんを褒めてやりたくなった。学ぶことの面白さを、このときはじめて知ったようにおもう。

_さあ、最後や_気をひきしめなおし、いざ参る、とのぞんだ。

 とはいうものの、五冊目の専門書には、悪戦苦闘した。途中でなげだしたくなるくらいだった。筆まめな秀吉の手紙が、章の約七分の一をしめていた。いまはつかわない言葉やちがう言い回しに手をやいた。古語だから、もあったし、専門家専用のせいでもあるようだ。

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