さて、確立した権力を強固にしつつ実子(恵帝)にゆずるために呂雉は、夫であった初代皇帝劉邦の死後、いずれは脅威となるであろう劉邦の各庶子(側室がうんだ子どもたち、各地にて所領をえ、皇位継承の権利を有するもの)やその生母たちを殺害しつくしたのだ。

しかも側室たちの殺害においては、四肢切断・双眼摘出など、凄絶・無惨をきわめたという。これが事実ならば、殺戮の手法においては史上、稀であろう。

秀吉も、おいの秀次一族を惨殺している。この点で、似ているとする向きもあろうが、読みすすむうちにわかった。

呂雉が権力を掌握するまえの資料だが、あまりに乏しいのだ。懸命の子育てと劉邦の補佐をしたというたしかな史料以外、人間性を推しはかれる記述はあまり遺されていないのである。

したがって、人格に転変があったかどうかまではわからなかった。

これでは思量できない。残念ながら、比較できないことがわかったにすぎなかった。

とここで閉館時間となり、のこりは明日にまわすことにしたのである。

で翌朝以降、書かれていたべつの独裁者や権力を占有した人物を調べあげたかぎりでは、権力掌握とその後の人格激変において、完璧な相関関係は有しないとの印象をもつにいたった。

さて、それらののこりについてだが、せっかく調べたのだ。で、具体的には以下のとおりである。

まずは家康。一女をのぞき豊臣家を根絶やしにした人物ではあるが、だからといって、豹変が原因ではない。ただ、徳川幕府を盤石にするためであった。

つぎは、ヨーロッパを席巻しフランス皇帝にのぼりつめたナポレオン。

一連のナポレオン戦争では約二百万人の犠牲者をだしたとされている。現代的な視点では非人道の象徴であり、“人命の簒奪者”と忌みきらわれても当然とおもう。

よって、許されざる極悪ではあるが、それでもかれの非道の極みを弁護するならば、強大な大英帝国に対抗できる母国フランスを構築するためだったと。

またいっぽうで、罪だけでなく功もあったのも事実だ。

近代法の基礎となったナポレオン法典は、欧米はもとより日本の民法にも影響をおよぼした。また、フランス革命の理念(自由・平等・博愛)を西欧に根づかせもした。

だがそうだったとしても、暗殺計画に加担したアンギアン公の処刑は非難されてしかるべきだ。しかしながら、虐殺だったとまではいえない。

そのナポレオン。皇帝という最高権力者になったことで人格がかわったとか、暴君になった、というような事実はない。

たしかにフランス軍が、スペイン人を虐殺した(それを描写したゴヤの絵画“マドリード”は有名)というのは史実だが、兄のジョセフがスペイン王に就任直後のことで、なによりまず、ナポレオンが指示したわけでもない。

というわけで、秀吉と比較対照しても、今回の目的をはたせそうにないと判断したのだった。