つぎの日も分析についやした。一冊ごとにメモをとったので順不同になってしまった事項を、まず、ふるい事跡から新しい順に並びかえた。
秀吉がいつどこでなにを、なぜなしたのか。その事跡のけっか、なにが起きたか。この整理で、歴史のながれがあるはっきりとわかったのである。
あとは記憶するくらいに読みかえし、秀吉のかたわらに、じぶんが控えるくらいに接近することにした。
この日も翌日もさらにつぎの日も、寝てもさめても“秀吉”であけ暮れた。とり憑かれた…ように。
三日間必死であがいた。が、それでも豹変ぶりの原因を見つけることはできなかった。_殿、ご乱心!_でかたづけられれば苦労はない。そんないい加減な結論ですませられたなら、この難問だけでなく、人生においてこれから発生するほかのおおくの難題をも、かんたんに処理はできるだろう。
ただしそれは、解決ではけっしてない。いや、正確には処理でもない、たんなる逃避だ。ところで人生だが、逃避でかたがつくほどに甘くはない、…おそらく、いや、きっと。
だから、母がそんな安易を、ゆるすはずがない。いや自分自身、なさけない(2003年のいまならば、敵前逃亡と明確におもうだろうから)と、のちのち悔いをのこす気がした。
で、調べつくすしかないと。
気持ちをそこにおくと、専門書の抜粋をよみかえした。難解このうえなかったが、それでもこれではないかという箇所が、眸にうつった。その文献によると、秀吉は脳梅毒をわずらっていたらしいと。
推測するに、病気だろうけれど、だとしても、どういう類のものなのか、当時はしるよしもなかった。
抜粋をさらによみ進むと、それでは納得がいかなくかった。五冊目にあった医学者の、つぎの意見を支持するからだ。
「脳梅毒をわずらっていたとしても、そんな、非人間的な行動をとる可能性はきわめて低い」
さらに歴史学者は、「主君であり、秀吉にとって絶対者だった、いやそれ以上の、ある意味おそろしい神ですらあった信長がえがいた、天下統一のあとのつぎの目標、朝鮮半島および明国(当時の中国統一国家)への侵攻ならびに征服、(神になろうとした節のある)絶対者がなしえなかったことを、じぶんが実現することで達成できる“信長越え”。
それは絶対者にたいし、いだいた劣等感からの解放を意味した。
足軽時代はうち据えられ足蹴(あしげ)にもされ、才能を見込まれたあとも“猿”や“禿(はげ)ネズミ”と蔑(さげす)まれ、武将と取りたてられてからは、やすむ間もなく道具のようにあつかわれつづけた。
それだけに、心身ともに支配されていた絶対者を、その死後ではあったが凌駕することで、かれは信長の家臣としての秀吉ではなく、名実ともに天下人となり、“太閤秀吉”となっていったのである」と説明していた。納得できる見識だとおもった。
しかしこれでは、豹変の説明にも理屈にもならないと。
文禄・慶長の役を指令した動機にはなるが、関白秀次一族郎党の惨殺の理由にはならない。
また、歴史学者たちがその根拠たる定説をいまだ見いだせない、千利休にたいする切腹命令。そしてキリシタン二十六人処刑が、禁教令に実効力をもたせるため、あるいは、日本植民地化をねらうスペインへの牽制だったとする、奇説の事由にもならない。