カテゴリー: こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文) (page 9 of 11)

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(13)

で、はなしを、天下人まえとあとの人格差にもどすと、

まずは天下布武のもと、北陸、中国、四国の平定をもくろむ信長は、秀吉の調略多用を快くおもっていなかった。毛利家をうつための有効な策、五十万石の大大名・宇喜多直家の懐柔にたいしてですら、最初はどなりつけ容認しなかったほどなのだ。またもや余談。

_秀吉が忠実な僕(しもべ)だったとして、それで、どちらがほんとうの秀吉なん?_を、いくらかんがえても答えはでてこなかった。風呂につかりながらも、このことが頭を占拠していた。おかげで、茹であがりそうになった。

母がようすを見にきてくれなかったならば、とおもうといまでも背筋が凍る。

でもって、あわてて湯船からでたのだった。

エアコンを起動させ、パジャマに着替えてふとんのうえに寝転がった。が、眠れそうになかった。だからといって感想文をかける心理状態でも、まだなかった。おおき過ぎる疑問をかかえこんでしまったせいだ。

同一人物の、その境涯が百八十度転換したからといって、劇的にかわる、いや変化(へんげ)してしまうものなのだろうか?

さて、天下をうばうというスケールがいかほどのものか、などわかろうはずもない小六生。すきな女の子の心もうばえない、はじめてのちいさな恋心にまどうだけの、まだ子どもであった。

懊悩煩悶させられる命題にぶつかり、寝返りをしては自問した。

いかほどの時間がたったかわからないまま、それでも、こたえを母に訊くことははばかられた。かといって翌日以降でも、父はあてにならない。たとえ答えをしっていたとしても、母に緘口令を敷かれているだろうから。

「じぶんで考えなさい」と叱られるのが、おちである。

となると、自力で答えをだすには、じぶんで調べるしかないと。

天下統一前後の秀吉の行動やかんがえ、そのころの時代背景や事件・できごとなどを、明朝(よくあさ)(秀吉が占領しようとしたのは明[国]と朝[鮮半島]、なんてネ…。中学校で日本の歴史をならったときのボクのダジャレ)、図書館にて調べることにした。

知識のとぼしいいまの段階での思慮は、意味のない悪あがきとさとったからだ。

秀吉にかんする調査内容だが、それを知るすべを朝食をとりながら、決めたのだった。

業績あるいは行状をしるのに必要な資料をさがす方法について、開館早々の図書館でたずねた。

「できるだけ簡単なものからだんだん掘りさげて調べたいので、よろしくお願いします」頭をさげたのだ。

親切な館員さんで、しかも歴史に詳しいひとだったから助かった。

見つくろってくれた五冊を両手でかかえると、テーブル席を陣どった。

むかいのひとが、新聞をおおきくひろげてよんでいた。傍若無人な年よりだ。おかげで、となりにすわる子どもは、一層ちいさくなっていた。

ちかくに設けられた畳敷きのうえで、幼児がさわいでいるが、母親はあやそうとも、注意をしようともしない。

_五月蝿いなあ_とはおもったが、口にはださなかった。内弁慶のボクは、外では“借りてきたネコ”状態になる。しかしそのうち、あまり気にならなくなった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(12)

だがそれでも、いや、健勝だからこそ信長暗殺の黒幕は、その最大の受益者たる秀吉、との説が一部においてだがあるのも事実である。

となれば、はたして真偽のほどは?…

そこでまずは、クーデター実行者との関係を検証してみることにした。

いわずと知れた、陰の光秀と、陽の秀吉のふたりについてである。気むずかしい主君をまえに、戦功をあらそいあう、両極のライバルだったというわけだ。

武功の光秀に所領と城を、これ見よがしに信長があたえれば、負けじと秀吉は、それ以上の武勲でもって、信長の寵愛を一身にうけようとがんばる。

と、信長にとって、競わせる意義はまことにおおきい。

よって、敵愾心むきだしのふたりの、仲がいいはずなかろうと。

文献においても、秀吉と前田利家(又左)との、終生のあいだがらのような、仲のよさをしめす記録はのこっていない。

利家とちがい、ふたりともが外様で、どちらも成りあがりという一致点はあるが、それだけに、負けるのは、たがいのプライドがゆるさなかったであろう。

じじつ、とくにこの二人のおかげで、天下布武は成功しつつあったのだから。

また知識人で、のちの将軍義昭と信長のあいだをとりもった功績もあり、さらにガチガチの守旧派(本能寺の変のひとつの動機との説はこれに由来。体制破壊者信長は延暦寺焼き討ちや次期天皇への譲位問題をおこし、守旧派として言いしれぬ危機感をいだいていた)光秀は、無学でどこか軽薄で女ずきな秀吉を軽侮していた節がいくつか。

だがいっぽうの秀吉はというと、信長ゆずりの革新派である。

とにもかくにも、水と油なのだ。

それでも戦乱の世のこと、極秘裏に同盟をむすばなかったとはいいきれないとの反論も、一理ありそうにもおもえる…、

ならばとうぜん、やがては雌雄を決することとなる“山崎の合戦”の前夜、光秀は秀吉を「裏切り者」と罵倒し、密約の実態を各大名にむけて、“檄文を飛ば”したはずである。

それにより、信長の三男信孝や丹羽長秀などは態度を一変させ、秀吉への加勢などとんでもないと。

そうなるとむろん、戦況は一変するのである。京をめざし遠路を駆けつけた秀吉軍よりも、京で敵をむかえうつ光秀のほうが、がぜん優勢となったにちがいない

そこで、秀吉軍を一掃すれば“勝てば官軍”で、ようす見だった細川藤孝や筒井順慶などが傘下になったであろうし、さらには、元々仲のよかった家康(嫡男信康は信長の命で自刃した。ゆえに、信長を怨んでいないはずがない)からの援軍も、のちのち期待できたのだ。

ちなみに、家康との仲を追記するならば、光秀は生きのびて名を天海と号し、家康の側近としてつかえたとの根拠(家紋の一致や二人の筆跡の酷似など)ある説もあり、また春日局は、光秀の重臣だった斎藤利三のじつの娘であったとの史実。

 

つまり、このふたつのおおきな理由により、秀吉黒幕説については、胡散くさいとみるべきなのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(11)

ところでボクは今日、図書館でしった事跡、その一からその四を文字面(づら)ではなく、それがはなし言葉で生々しかったぶん、実感をともなっており、母がこの春ふともらした“秀吉は血塗られてる”の意味に、ようやく思いあたることができたのだ。

あまりに衝撃的で、巷にきく事績や英雄伝とは隔絶していた。

父や世人がうけいれている巷間の伝を、ボクも先入観としていたわけだが、母の言も今日えた知識も疑わなかった。それどころか、史実としんじたのである。ウソをいう理由がないからだけではなく、滅多なことでは、ボクにウソをつかない母だからだ。

すると、木下藤吉郎およびのちの羽柴秀吉と、天下人となった豊臣秀吉は、そのどちらが真実の秀吉なのか、との疑問にぶつからざるをえない。

_とても同一人物にはおもわれへんくらいの格差や。どっちかがネコを被ってたんや、きっと_と、刹那はそうおもった。

ついで、_それにしても、なんでネコを被ったんや?_との疑問が湧いた。

人気を気にしていたとの説のある武将秀吉だけに、天下を盗るまでは万人に好かれようとしたのではないかと。秀吉研究の書物をよんだあとでは、そんなおもいつきをした。

しかしこれは、生まれてはじめての急激な猛勉強のせいで、脳の状態が普段どおりではなかったゆえの、愚にもつかないおもいつきにすぎないと。

でもって数時間後には、はたしてそうなのかとおもい直しはじめていた。

さらに日付がかわった翌朝、全面否定するにいたったのだった。

_きのうの説、あれはあかん。とてもやないけど、なってない_なぜなら、信長が横死するまでは、天下人になろうとした形跡など、まったくなかったからだ。

つまり、秀吉が好ましい人物だったころ、かれは忠臣以外のなにものでもなく、いっぽう、天下人をめざし破竹の勢いの主である信長は、畏怖そのものの存在であり、しかもまったくもって健在であった。塩辛いもの好きゆえに、現在の知識をもってすれば、かれは高血圧だったかもしれないが。

だとしても、信長の忠臣に天下をねらう野望、どころか、それをうむ心の隙間すら、どこにもなかったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(10)

さても、たのみの家臣にある夜、いともかんたんに寝首をかかれるような事態もひきもきらず。下剋上の時代とよばれるゆえんだ。

一例をあげよう。一介の流浪坊主からなりあがった(とされるが、別説もある)、まむしの(斎藤利政)道三を、である。

変名と変転をめまぐるしくかさねながらようやく仕官をはたし、だが、その重用してくれた主たる土岐頼芸を、やがては駆使した謀略と武力のすえに駆逐し、で、“国盗り”に成功するのである。ただし…。

さらにいえば、下剋上とはとりもなおさず、主従以上に濃密なはずの子が親から、あるいは弟が兄にたいし、などなど、領国をうばいあう醜態をさらしつづけた史実でもある。日本的儒教秩序喪失の、まさに戦乱の世、に他ならない。

この例にもれない筆頭が、家督をゆずってくれた父信虎を追放した武田晴信(信玄)である。また信長や伊達政宗は、嫡男であるにもかかわらず、その弟に肩いれする母親の暗躍のせいで、骨肉相食(は)むこととなった。そのけっかの勝者なのである。とはいえ晴信は、弟信繁とはさいごまで助けあい、相食むことはなかったが。

ぎゃくに道三は、嫡男としんじていた義龍(父殺しの汚名をさけたいかれは土岐頼芸の子だとして、道三との親子関係を否定した)によって、わが子たち(義龍にとっては実弟)は殺され、自身も長良川の戦いでついに、屍(しかばね)をさらすこととなった。

でもって、このような乱世のなかにあっての木下藤吉郎(羽柴秀吉)は、異色といえる存在なのだ。

のちの豊臣秀吉は、溺愛する秀頼への天下人継承の障害(?)になると、おいの秀次一族をほろぼす(あくまでも通説で、文献が証明しているわけではない)のだが、この事件をのぞけば、親兄弟だけでなくねね(正妻)の親族木下家や浅野家をも大事にしてきたのである。

いわゆる、一族たちへの情にあつかったわけだが、それだけでなく…、

羽柴秀吉だったころまでは、敵と対峙しながらも、武力制圧のための戦闘準備をするまえに知略や策謀を多用し、血をながすことすくなくして勝利をえてきたのだ。人誑(たら)しの名人といわれる所以(ゆえん)は、このあたりにもある。

“善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも戦うに非(あら)ざるなり”…名将というものは、武力を行使せず敵を屈服させられるとの意。孫子も、秀吉的戦勝こそ、最良としているのだ。

ところで、武士としてまだ小者だった当初、家臣のすくなかった藤吉郎は、敵方の美濃の斎藤家に与(くみ)していた蜂須賀小六正勝とその一族郎党約五百人に注目した。この目のつけどころも、さすが秀吉である。

決断すると、行動は大胆かつ迅速だった。

なんと、敵方の小六の土豪屋敷に、単身で出むいたのである。そして丹心(真心)でもって整然と説破し、信長家臣団に引きいれたのだった(やがては、藤吉郎の配下同然となる)。

また、墨俣(すのまた)(洲股とも)に一夜城築城(逸話であって、史料などの裏づけはない)ののち、藤吉郎の知略の源泉となった竹中半兵衛重治(かれも斎藤家の旧臣、戦国時代をとおし卓越した軍師として現代にまで、その名をのこしている)を、報酬ではなく木下藤吉郎の赤誠と人間的魅力で、膝下につけた。

主の凡庸を叱責する目的で、いったんは奪ってみせた城を主にそのまま返すなど、少欲知足(欲すくなくして満足をしる)の半兵衛には、美学をかんじる。が、そんな一人当千の奇才が惚れ、換言すればこのひとと見こまれた秀吉も、やはり人物だったのである。

余勢をかって、美濃斎藤家(当主は義龍)家臣団の柱ともくされていた西美濃の三人衆をも、信長の臣下につけていった。さらに十数年後のことだが、備前・美作(現岡山県の大部分)等をおさめる五十万石の大大名、宇喜多直家をも懐柔している。かれには信長に与する利を説き、毛利家を背かせた。

またもう一人の参謀、黒田官兵衛孝(よし)高のちの如水の案により成功した備中高松城の(戦国史上、画期的)水攻め。中国地方の覇者たる毛利家を攻めるその前哨戦を、刀槍・弓矢・鉄砲を交えること少なくして戦利したことも有名である。

さらには、賤ヶ岳の合戦の前夜、敵将である柴田勝家の養子となった支城の主、柴田勝豊を調略して長浜城を無血で奪取している。また旧友ながら、勝家の与力となっていた前田利家の嫡男である利長の居城(越前府中城)に単騎で乗りこみ、旧交をあたためつつ説得し、前田軍約五千を自軍に引きいれてもいる。

この逸話は吉川英治だけでなく、司馬遼太郎の“新史太閤記“、山岡荘八の“豊臣秀吉”などでも採用しているのだ。名だたる大作家たちがこの説を基に執筆していることは、注目にあたいする。

ほかにも機略を縦横に駆使し、敵を味方に引きいれつつ、やがては信長の後継者となりあがったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(9)

その二、千利休(宗易)にたいする切腹命令と、そのあと首を曝しものにした史実。武将でもない利休が謀反をくわだてたとはかんがえづらい。

ならばなぜ?との疑義にたいしいくつか説はあるのだが、いまだだれも完璧には説明できないでいる。

既述の、秀次一族郎党の件も、おなじだ。ただ、まちがいないのは、秀吉の勘気にふれたということである。その勘気の根因がなんだったのか、日本史におけるかずあるナゾのひとつとなっていると母。

その三、キリシタン二十六人を処刑した。ほんとうの因はわからないが、禁教令に違反したその見せしめとされている。だが、これもナゾのひとつだ。

その四、二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)における大量殺戮。犠牲者は、推定十万余と。大量破壊兵器のない当時の戦では、未曽有といえる膨大な犠牲者をだした…。たったひとりの異常者が野望のため、尊い、これほどの人命を奪ったというのだ。さて、好戦説や領土拡張説など諸説があり、いまもってこれの動機を特定できないでいる、朝鮮李氏王朝との(我田引水的で一方的な)外交交渉の(必然の)失敗による朝鮮出兵だったのである。

それにしてもいきなり、属国になれといわれて、承知する国がどこにある!日本を支配下におさめた独裁者には、そんな道理もわからなくなっていたのだ、きっとと、母は切りすてた。

でもって、朝鮮半島制圧は、あくまでも通過点のつもりだった。秀吉の最終目標は、スペインとの連合軍で明国を支配することだったようだ。じじつならば、傲岸不遜の極みである。

いずれにしろ秀吉がいきた世はたしかに、戦国時代との呼称どおりの世紀であった。

裏切りや策略、背信と謀殺によって浮かびあがり栄えた門閥や一族が存在するいっぽう、謀られてほろびさった族親も数多(あまた)あった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(8)

いっぽう、首肯(うなずき)を肯定ととった母は、“血塗られた”秀吉の実歴を順不同ながら、こんどは具体的にあげていくのだった、メモをみながら。母もひそかに、時間をさいてどこかでしらべていたのだ。

そんなかげの努力に、ひととしてのあるべき姿を教えられたこともあり、いっそう好きになった。

ちなみに母はこのとき、なにをおもったであろう。無言で、人倫をしめしたかったのだろうか。

その一、姉の子で、いちどは後継者として遇した関白秀次とかれの側仕(そばづか)え数人に切腹をめいじ、子息と息女五人および妻妾や侍女など三十九人を、無実なのに惨殺したこと。拾丸(ひろいまる)(のちの豊臣秀頼)を天下人にせんがための、邪魔者を排除したとの説が有力だ。そのいっぽうで、秀次による謀叛説、あるいは“殺生関白”といわれた異常人格説もある。だが謀叛説は、秀吉好都合の色がつよいぶん根拠がよわく、よって、色褪せてみえると。

するとここでわりこむという、ボクの悪い性癖がでた。脱線ぐせである。だから手短ですませるが、つまり、

ではなぜ、こうも諸説があるのか、である。疑義の、ここ数年の結論だが、当事者が口をつぐんでしまったからだと。秀吉は筆まめなれど“不都合”のゆえ、は理解できる。しかし、賜死の秀次も手記をのこしていない。存在はしたが、刑後、処分されたからかもしれない。

それにしても頂けない説は、後継問題云々だ。関白とはいえ、傀儡(あやつり人形)であり、どう転んでも実権を手にはできない。秀吉の死後であっても、秀次にしたがう軍勢など、秀吉恩顧の兵力に比すべくもない。しかも人望も刮目にあたいする戦功もなく、戦術や戦略は凡庸である、ないない尽くしなのだ。

よって、秀頼豊臣家にとって脅威とはならない。換言すれば、害毒になどなろうはずもない存在。元来、知恵者だからこそ覇者となれた秀吉である。

賜死の必然がない以上、生かしておけばよかったのだ、目障りだとしても。

結論。殺した理由がみつからないのである。閑話休題。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(7)

そのボクはというと、生つばを飲みくだしポワ~ンとちいさく口をあけて、母が発するつぎの言葉をまっていた。

聞くだけだから、口を開けるひつようはなかったのだが。ヒナが、エサを欲してくちばしを開けているふうに見えたらしい(とは、後日談)。そんなボクに母は満足した。

わが家のカレーにつきものの牛乳をのみ干すと、上唇のうえに細くうすい白ひげをつくったまま、「しだいに残虐さを剥きだしにする秀吉を、描きたくなかったからや、きっと」そう発したのである。

「ざっというと、天下をとるまでとあととでは、人格が百八十度逆転する。命を愛(め)で、おおよそ、ひとをできるだけ殺さずに敵とたたかってきた木下藤吉郎(から羽柴秀吉まで)が」

さて、“おおよそ”をしたのは、見せしめにと、女子どもまでも虐殺した過去があるからだろう。具体的には、天正五年(1577年)十二月の第一次上月城の合戦における大虐殺をさしている。ほかにも羽柴性の時代に、惨殺行為をしたかもしれない。

四百年以上もまえの合戦の詳細を網羅する史料はのこっていないのだから、否定も肯定もできない。しかし、

「天下統一をなしとげ、豊臣秀吉と姓をあらためるころには、これが同一人物かとうたがわずにはおれないほどに、冷酷無慈悲で血塗られた人間になりさがってしまっていた」ことを説明したあと、

「おそらく大量殺戮行為が、大作家ですら筆をにぶらせた、いや、これが執筆の意欲を喪失させた理由とちがうやろか」

この説明に「なるほど…」と、いったんは納得した。

しかしすぐに「けどそんなことは、執筆するまえから知っていたんと違(ちゃ)うの?」と、素朴なギモンを投げかけたのである。

「もちろんそうや。けど、羽柴秀吉となのっていたころまでのこの武将は、比類なき忠誠心と一族や仲間への情にみちており、おとことしても人間としても魅力が横溢していた。そやから、人格の逆転を承知で、天下人寸前の秀吉を書いたんとちがうやろか」

たしかに、人間味ゆたかではあった羽柴筑前。しかしながら、小牧長久手の戦い(秀吉と家康両雄のジャブの応酬的戦闘)を経たあと、関白任官のあたりでおわるという終末のあっけない理由が、そうなのかどうなのかは半信半疑であった。

だからといって、文豪に真相をじかにきくこともできない。

「それが証拠に、あんたもわたしも魅了されて読みきったやないか。文豪の力もさりながら、秀吉に魅力があったからやろ」

ボクは黙って、ただうなずいたのだった。理由にかんして、全面同意したわけではなかったが、否定するに、材料がないのもじじつであった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(6)

画竜点睛(がりょうてんせい、晴は瞳のことと母)を欠く、というやつだ。が、だからといって、いだいている疑問とは、まったく結びつかなかった。

母は、大作家の失態ではないことを説明したあと、「精魂こめて執筆したはずなのに、なんで、急に筆をおるにひとしい印象をあたえてしまう終わりかた、したんやろ?唐突にすぎるんちゃうやろか?」

母は、まさに代弁者であった。

「吉川作品が大すきな読者は、こんな終わりかたをだれも望んではいなかったとおもうで。天下をとった秀吉の、関白から太閤(関白職を甥の秀次にゆずったことで、そう呼ばれた)へと立場をかえながらの治世をえがき」

だからこその“太閤記”なのだ。

「ついに、『…難波のことも夢のまた夢』との辞世をのこし、まだおさない秀頼のゆく末を、気も狂わんばかりに案じつつ、一代の英傑は最期をむかえる。そんな人間くさい一代記をよみたかったんとちがうやろか」

なるほどそうだと賛同しつつ、はなしに引きこまれてしまっていた。

「栄耀栄華を手にした人間のもろさと儚さ・おろか・哀れを、文豪がどう描ききるかを」

拍手をせずにはおれないほど、お説ごもっとも、であった。

「ところでやけど、考えるべきはここからやで…。つまり、吉川英治ほどの大作家が、それがわからんはずないやろ」

さらなる、あらたな転回的展開に、すっかり魅入られてしまった。で、黙って、ただうなずいたのである。

「なのに何で?と、わたしはそう思た」肺ガンで、すでに鬼籍にいった(死んだ)祖父が大河ドラマのファンで、母妙子もその影響から、中学生のときに読んだとつげたあと、「あんたはどう思た?」眼が怖いくらいに、真剣な顔つきでたずねた。

「…」おもわず身をのけぞらせた。それから、「そのとおりやとは思うけど、どういう理由かまではわからん」正直にいった。ただ、ここにきてようやく、この問いと“血塗られた“太閤秀吉が関連しているのだろうと、なんとなく想像できたのだった。

「わたしもあんたと同(お)んなじやった。それで欲求不満みたいに、胸のなかがモヤモヤしたんや。けど、いくら考えてもわからんかった。ならばと、ちゅうことで秀吉の晩年を調べたわけや。なんらかのヒントをつかめるんとちゃうか、そう思てな」

まだ中学生だった母の当時の真剣さを、みてとることができた。

「おかげで、なるほどと合点(がてん)がいった。まるで絶筆でもしたように、吉川英治が筆をおいた理由を推測できたわけや」とここで、すこし間をおいた。じっくりと、ボクの反応を見さだめたかったのだろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(5)

出張中の父がいないふたりだけの食卓。

カレーを食べおえ、まさに口をひらこうとしたボクを制し「さてと」と、母が口火をきった。

「わるいけど先にきかせて。吉川英治の太閤記、どうやった?昨日もやけど、あんだけ、いろんなことを覚えてたんやさかい、おもしろかったみたいやね」

ボクはペコリ肯いた。あれほどの長編小説を一気によんだのだから、それは否定できない。だとしてもだ。それでおもわず、「けど…」と言いかけた。しかしだった、

饒舌の母が、「ちなみに聞くけど、すべてに満足した?」まじまじと、ボクの顔を覗きこんだのだ。忌憚のない(おもったことをズバリの意)感想をしりたいからだろうか。

_いやいや_こっちは、ずいぶんな犠牲をはらったのだ。かんたんに妥協できるはずもなかった。それなのについ、「うん」と。母の威厳か、母への敬意のあらわれか。

そんなつもりじゃないのにだ。だからこそ、いっぽうで、不満が内心でジワリと。もとはといえば、かの文豪にたいしてであり。むろん、母にもだ。

それにしても、意外な質問だった。意図をよみかねていると、つぎの質問をぶつけられた。

気圧されているいまの状況から、「約束がちがう」とは言えなくなっていた。それでも_さきに質問したんはこのボクやのに_と心中、さらにくすぶってはいた。

「物語の完結のしかたに不満、ない?」

じつはそのとおりであった。たしかに、得心のいかない終わりかただ。ところで、それはそれとして、この質問の意図を理解できないでいた。

「つまりやね。えっと思うような、なんか、変な終わりかたやろ」

たしかにそうだ。尻切れトンボと、ボクはおもった。

「“太閤記”って、かんたんにいえば出世物語やろ。だからピークは、天下人となるところであり、さらに筆をすすめて、死去で完結させる。名のある作家ならだれでもそう書くだろうに、吉川英治ほどが、天下をとる(北条家小田原平定や奥羽諸大名の臣従)、その寸前で終わらせてしまってる、まるで絶筆したみたいに。不思議やろ?けど言(ゆ)うとくよ、遺作やないからね(氏の死去は1962年九月七日、著作は1949年に完成)」

いわれてみれば、たしかに不可思議だ。完結のしかたへの不満という質問の意味、これで得心がいった。

それはまさしくボクが、文豪にたいして、くすぶっていた言いしれぬ不満とも一致していた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(4)

 母がさえぎった理由。豊臣秀吉は、ほんとうにひとの命を大切にしたのか?それにまちがいないか、だった。

それには、血塗られてると告げたその理由をしらねばならず、そ必要条件として、“羽柴”ではなく、“豊臣”秀吉についてくわしく調べるようにと、ややつよい口調で母はいった。

息子の性格にかんがみ、積極性の発露として、がんばって調べあげるはずだ。そうすれば、血塗られた天下人だったとわかるにちがいないと、そう。

今になってみれば、みごとなまでに術中にハマったことになる。

というのも、翌日、図書館にいき、館員におしえてもらった本でもって、けっか、一日かけて調べあげたからだ。

 その足で帰宅すると、習っていない漢字はひらがな表記にし、で、年表ふうにかきあげた、秀吉の行状をみせたのだった、どうだと言わんばかりに。

「ほんま嬉しいわ。がんばって、そこまでちゃんと読んだうえにしらべあげてくれて。ありがとう」母は心底からよろこび、そして、あえて感謝の言をつけくわえたのだった。

「…」ボクは気勢を削がれた。_そういうことやないねん、だいいち、質問に答えてくれてないし…_約束がちがうとの不満顔のままあきれてしまい、二の句がつげられなかった。

かわりに、おおきなため息が洩れた。母には、まだまだ勝てないでいるじぶんが、きっと、不甲斐なかったからであろう。

ところで、息子の不完全燃焼をかんじとった母は、「わかった。あんたのすきなカレーつくってるさかい、ナゾの解明は晩ご飯のあとに(パクリ、です)。で、ええやろ?」そうやさしく提案したのである。

以前アニメでみた、孫悟空を仏が諭すときの、包みこむような声音で、だった。

「否」とつっぱねる理由は、なくなっていた。

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