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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(33)

城をおおいつくした静寂、ピーンと張りつめていた緊迫と息苦しさ、思考が停止したままの時空間。

だがそれも、ゆるやかに緩みはじめたのである。

もはやあとの祭りだが、それにしてもの、前田家ものぞまない、否、あってはならない“事故”、ではあった。

そしてむろんのこと、おわってわけではない。

 それどころかこれからであり、不幸な“事故”でした、ごめんなさいで、かんたんに済むはなしで、あろうはずがない。

こんな最下の災禍、秀吉に、だけでなく羽柴家と、その配下にとってもだったのだ。

ところで、最悪をまだ知りようもない羽柴軍を、今はおく。

まずみるべきは、前田軍であった。五倍ちかい圧倒的な敵兵にとりかこまれている状況にかわりはない。たしかに城は、二重の堀でまもられている。とはいえ平城であり、攻め手からすれば難攻、ではありえない。

つまり戦おうにも、戦力においてすでに、勝敗は決しているの体だ。

それでも援軍がくるまでは城を持ちこたえるぞとの、手をうとうにも、やぶれた勝家軍は各地に雲散してしまっている。もはや、救援をたのめるはずもない。

さらに、城外にてひるがえる馬印から、敵軍副将は秀吉の片腕でもある弟秀長(1591年二月病死、享年五十一歳)としれた。かれは人望もあつく、かつ、知勇兼備でもしられている、相当の人物だ。

もはや絶体絶命のなか、それでも窮地を何としてでも脱せんと、難事中の難、戦闘以外の方途をば見いだすしかないのだが…。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(32)

さて、いつ殺されてもおかしくない状況にあえて身をおき、そしてみごとに人を誑しこみ、その甲斐あって織田家中にて、藤吉郎は頭角をあらわすことができたのだ。

ついで、戦国武将として一国一城の主となり、さらには、こんにちの望外にすぎる立身出世、いやいや、天下人にいちばんちかい存在へとつながったのである。

おもい返せば二十八年余、それにしてもと、かぞえきれないほどの死地においてですら護られてきた不思議。ゆえに「われこそは天恵(天からの恵み、幸運)を一身にうけている」と、驕(おご)りではなく、そういう自信が横溢していたのである。

_ひとの手がわが命をうばうなど、無論ついぞ無く、そしてこれからも、有りうべからざること。これ、もはや決まりごとにて_そう信じきっていたのだった。

だからいま、命運がつき果てつつあるこの状況、かれにとっては事故、いな、ありえざる“災厄”であった。いわく、なんでこんな目に…このオレが、と。

 つまるところは、過大なるうぬぼれ、以外にいいようのない誤算だったのだ、所詮は。結果から、あきらかである。

いっぽう、秀吉ならではの心象など知るよしのない前田家守備隊。目のまえのあまりの惨劇に、かれらは凍りついてしまっていた。

数人の門番だけが、瀕死の秀吉をかこんだのである。が、それでもただただ茫然と立ちつくすのみ、かれらもなにもできないでいた。

この、前田家にとって、一瞬にて勃発した一大悲劇、とりかえしのつかない大失態を、

前田家の破滅を惹起する最悪を、しかしながら、利家・利長父子はまだしらない。

やがてかれらが駆けつけたさき、門番たちのあいだ。そこに横たわる突如の、わが目をうたがうばかり、あまりにすぎる光景が。

悪夢でも、これほどの悲劇は……。さすがの猛者も、混乱した。

しつつ、急ぎ走りよると、旧友をだきかかえた利家。

すると、友の叫び声を耳にし、体をおこされた秀吉はおもむろに薄目をあけ、血色のうせたふるえる唇をすこしあけた。

くぐもったかすれ声が、かすかに漏れた。

辞世(最期のことば)を必死できく故友の顔は、なみだと鼻水で、崩れていた。

だが、それよりひどい様相こそ、前田家の向後にほかならなかった。なみだと鼻水はその大部分、自家と家臣たちを憂うるあまりのゆえ、留まりえなかったのである。

いっぽう、奥でむかえの支度をしていた“まつ”だったが一報をきくと、大門にむけいそいだのだった。

こうして前田家の主たちは、

本丸へ丁重に輸送されている秀吉、戦乱のなか、大仕事をなし遂げてきた一世一代武将の最期を、涙ながら、みとることとなったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(31)

ところで、秀吉の意図をはかりかねた城内では、緊張がはしった。大門をひらくべきか、撃ちかけるべきか、実質上の主君である利家の差配をうけるべく、城兵がはしった。

その間秀吉は城外において、小一郎(秀吉の実弟、あるいは異父弟との説の秀長)からの諫めをおもいだしていた。

ただし諫言は、いまにはじまったことではない。それでこんかいも「案ずるな」と、押しきったのである。

しかしながらもなぜか、諫めが妙に気にかかりだしたのだった。こんな胸騒ぎなど、ついぞ(はじめて)、であった。

そうこうするうち、重い大門がゆっくりとひらいたのである。で、心の揺らぎは、これを契機にきえさったのだった。

秀吉は馬上、その立ち居振るまいにて、信長の後継者よろしく、鷹揚に入城したのである。

直後、ギイといういやな音をたてて、門はとじられた。

_単騎で?まさか。いやいや、あのご仁ならばありうる_と、半信半疑のまま押っ取り刀で(取るものもとりあえず、間(かん)髪(はつ)いれずの意)、本丸から利家・利長父子が城門にむけ走りだしていた。

その、まざに同時刻であった、既述のわかき城兵が天にむけ、雄叫びをあげたのは。

直後、矢倉から地上へと一閃、矢が走ったのである。

「うっ」

射手のたましいが憑依した矢は、父に仇(あだ)なした秀吉の肝の臓をつらぬいたのである。

小柄な体躯が、馬上からドゥッとおちた。

おちながら秀吉は、慮外のできごとに、頭が混乱してしまった。人誑しの人生において、ありえない、信じられない事態なのだ。

たしかにこれは、秀吉にとって不慮の“事故”であった。半生が脳裏によみがえった。

あのときは無我夢中だったと。以前は敵国美濃の将であった、竹中半兵衛重治(こののち、得がたき軍師となる)を味方に引き入れるため、友好関係のない、いわば敵方の領地へひそみつつ乗りこんでいったときも単身で。また、蜂須賀小六正勝(のち、秀吉にとっての武功の将となる)とその一族郎党を、取りこんだときもそうであった。

ボクの白日夢は、さらにつづく。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(30)

幼き日よりの、武芸の稽古のおかげで仇を討てたわけだが、これで悲憤が癒えたわけではなかった。とはいえ城内にて、公然となげき悲しむことはできなかった。

戦場に身をおく以上は運命共同体であり、戦の展開いかんで喜や怒が錯綜し、哀や楽が渦巻く集団のなかの、ひとりでしかないのだ。

数倍の敵勢にとり囲まれた死ととなり合わせの状況では、誰もがじぶんのことで手いっぱいだった。

まして敵将は城攻めの名人、羽柴筑前守秀吉である。兵糧攻めにあえば、万にひとつも勝ち目はない。だから、個人の感傷など埋没させざるをえなかったのだ。

それに、領主の領地内の各所からつどう地侍たちは、もともとたがいに交流などほとんどしない。まして前田軍は、越前府中と能登の混成隊である。それゆえ、となりで討ち死にした兵士の氏素性をしらなくても、なんの不思議もなかった。

時代の流れのなかで、守護大名やそのあとに登場する戦国大名を領主として、その下に組みこまれただけであって、元来は、先祖伝来の小規模の土地をおさめてきた小領主なのである。

地元にて、もしじぶんたちの領地がとなり合っていれば、境界線をめぐって敵同士、あらそった経験をもつ間柄ですらある。それらの事由で、仲がいいということはなかった。

そんな地侍だが、ちなみに、豊臣秀吉による刀狩(兵農分離政策)以降は士分を取りあげられ、これも時代の流れで、江戸期には庄屋や名主などになっていくのである。

以上の理由から、たとえとなりの若造が悲痛なかおをしていても、気にかけるものはいない。いや正確には、忖度(他人の心裡をおしはかる)するだけの余裕をもてる状況下になかったのである、敵にかこまれている現下なのだから。

それにしても、父親の凄惨な死を間近でみた少年である、かれの心の奥底では、悲嘆がいえるどころか、増幅しつつ鬱積もし、渦巻いてもいたのである。

それが仇への憎悪へと変異し、さらに変化(へんげ)をとげての狂暴が、はけ口をもとめていたのだった、めらめらと燃えあがる復讐心の、そのはけ口を。

そこへのこのこ、父親の仇の主、この戦の元凶がやってきたのである…。

「又左殿(前田又左衛門利家…のちの豊臣政権の五大老、加賀百万石の始祖)、まつ殿(利家のつま)。筑前じゃ、わかるか。もとより、おたがいいがみ合う仲ではなかろう」

織田家家臣として、微禄のころよりとなり同士にて質素な居をかまえ、以来、助けあい励ましあいつつ心をゆるしあった友ではないか、筑前守秀吉はそう言っているのだ。

「太刀をおびてはいるが見てのとおり、単騎でまいった。よって、撃つな!撃つでないぞ。朋友の又左殿に、ちと、大事なはなしがあり推参したのじゃ。門をあけられよ。我ひとり入城ののちはすぐに、また固く門をとじればよいのじゃ」

賤ケ岳の合戦のこのとき利家は、秀吉の敵将柴田勝家の与力との立場にあった。二十三万石の能登領主として、越後以北を平定するために勝家をたすけよと、生前の信長にめいじられたからだった。本能寺の変の前年にあたる。

それはそうと、信長死後の織田家を二分したこの合戦以前すでに利家は、秀吉に内応していた、つまり勝家をうらぎり、「秀吉殿にしたがいまする」との密約をむすんでいた、との説をとなえる学者もいる。

しかしながら確証となる文献は、いまだ発見されていない。

にもかかわらずの、拠りどころとしては、秀吉軍と勝家軍の戦がたけなわだったおり、前田軍は陣をはっていた茂山から独断でひき払い、いわば柴田家与力としての立場を放棄し、敵前逃亡したとするむきである。

よって、退陣のさいの小競りあいは別として、本格的な一戦をまじえてはいないと。

たしかに陣をはらい、府中城にこもったというのは、史実ではある。

しかし敵前逃亡説のいっぽうで、秀吉軍と交戦、二千人はいた前田軍の相当数が討ち死にし、嫡男の利長とも一時(いっとき)ははぐれたとの文献が存在する。

ならば、乱戦になったということだろう。

おもうに、軍配があがるとしたら、この後者のほうではないか。

だとしても、内通の真偽についてはおいておく。

さて、二万の本陣をちかくに控えさせているとはいえ、敵城へ豪胆にも秀吉は、単騎でおしかけたのである。敵をとりこむさいの策として、たしかにこのやり口こそ、若きころからのかれの常套手段ではあった。

人誑(ひとたら)し藤吉郎(秀吉)の、だれにもマネのできない奥義だったのである。

大胆にして不敵な敵懐柔法はしかし、命のほかにうしなうものがなかった小者藤吉郎がもちいた、おのれの強烈にすぎる出世欲を満足させるための最終手段であった。

なるほど、数度経験した命賭けの手錬ではあるが、いまは、天下人にいちばんちかい存在なのだ。そんな危険なマネをと…、

それでも、秀吉にすればこのたびも、慣れた手法をもちいたにすぎない。

いや、こんかいの相手は家族ぐるみのつきあいで、しかも旧くからの友でもあり、昔のように隣家をたずねる気軽さで身をまかせた、という程度なのかもしれない。

ところで、平穏な現代日本とはちがい、戦国時代の武将は、いつ死んでもおかしくない状況に身をおいていたのである。文字どおりの常在戦場、現代からみればそれはまさに、異状な時代であった。

よって現代人が、秀吉のこのときの心境を推しはかるのは至難、ということだ。

ただまちがいない実、それは、このように幾度となくおとずれた死地にあっても、命を落とさなかったという事実である。

主君の信長以上に、強烈にすぎる運が味方をしていたということだ。

一例として、世にいう”金ヶ崎の退き口(朝倉家を攻めていた信長軍は、妹婿である浅井長政の逆襲にあい、信長は危機に瀕し、命からがらの撤退をした)“における、秀吉の殿(しんがり)(浅井・朝倉連合軍が勢いづいて襲いかかってくる攻撃にたいし、防戦しつつ活路をひらいた。おけげで、信長は命びろいをする)としての奮闘ぶりもそうだ。死を覚悟の、無謀な戦において、自軍の犠牲者が思いのほかすくなかったのも、奇跡としかいいようがない。

ところでこんかいは、水魚の交わりのゆえに、油断もあったのだろう、しかも二重(ふたえ)に。

さて、そのさらなる油断。

とは、いばりくさった目のうえのたん瘤、若きころから大きらいだった勝家にうち勝ち、またその以前には、「上様(信長)と嫡男信忠様の敵討ち」をしたとの最高の武勲もあり、次男信雄以下をしりぞけ、織田家の総帥に事実上なったからだ。

織田家中において、実子とはいえ単独では、もはや本気で歯向かうものなどいない、つまり怖いものなし、になったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(29)

 小六時にいだいた疑念、これを解こうと、じつは以後も十八年ものあいだ、文献に接しつづけてきたのだった。ナゾ解きは日課であり、暇つぶしではない茶飯事であった。

ちなみに、あきらめが悪すぎるのも、ボクの欠点である。でないと、タイガースファンなんて、やってられない。

それにしても長かった。ほんとうに長かった、

が、辛抱と研鑽へのごほうびなのか、ついに来た!のである。

猛暑だった夏のつかれからか、日ごろの激務のけっかの疲弊によったか、はたまた、積年のおもいが化身にでもなって、頭のなかで構築された蜃気楼だったのか?

以下のことは、2003年九月十五日敬老の日の、突然の、いわば白昼夢である……。

 「開門、かいもーん」

越前府中城の大門の矢倉にむかって、馬上、大声をはりあげてよばわる一軍の将らしき武士。

しかしここは、硝煙にかすむ戦場(いくさば)。にもかかわらず甲冑をおびてはいない。いぶかる敵兵をまえに、いかなるわけか、平装である。

とはいうものの、絹製の衣装といい腰にさしたる意匠をこらした太刀といい、そうとうに立派な品々だった。さらに、手には金箔の采配をにぎっていた。

城内にたて籠もる男どもはもちろん兵装で、城をとりまく二万以上の敵方の将兵も戦闘態勢をとり、たがいに牽制しあっていた。まさに、一触即発といえた。

じじつ、半刻(一時間)まえにもはげしい銃撃戦をしあい、ようやく治まっての睨みあいだったのだ。

衆目の一致する緊迫したなか、あっけにとられるいで立ち。まるで物見遊山のような装束で場ちがいにのんきな風情を、この武士だけが漂わせていた。小康状態とはいえ、どうみても、まだそんな状況ではないのに、だ。

 それが証拠に守兵たちは、高楼にあって敵の動向に絶えまない警戒の視線をおくっていた。

まさに殺気だちの最中(さなか)を、“開門”とさけび、「撃つな!射かけるな!」と大声で要請しつつ、単身、馬上にておもむろに歩をすすめるこの武将だけが、撃ちあいなどなかったような、おだやかな笑顔をたたえているのだ。

すべてにおいてこの場に相応しくない、安寧を醸(かも)しだしていた。

さらに、ひとかどの武将であろうはずなのに、馬の口をとる従者すらともなっていないのだ。太刀をおびているとはいえ、敵味方双方の眼に、丸腰で無防備の、それはまるで道化に映っているのだった。

じつをいうと、銃撃戦において、この武将は指揮をとっていなかった。半刻まえに到着すると、「鎮まれ」とまずは命じ、それから平服にあらためさせたのである。

そのうえで、馬廻役を単騎たずさえて自陣をでたが、それも先ほど帰したのだった。だれびとも帯びざるが最良と、門前にては単騎でのぞんだのである。肝が据わっているとしか、いいようがない。

ところでかりに平安の世でならば、客人として平装こそ、あたりまえである。

「なにやつ!」府中城の大手大門わきの矢倉にたつ城兵のうち、年わかき守兵が誰何(すいか)した。初陣という理由だけでなく、気がたっていた。じぶんを戦場につれだした父親が、目のまえで討ち死にしていたからだ。

昨日の茂山から退陣中の戦においては、地侍(ちいさな村落ていどの土地を所有する小豪族で士分)という身分だった父親もじぶんも、殿(しんがり)集団(退却する自軍をまもるため、最後尾で敵軍とたたかう役柄)にいたのである。

ちかくで太刀を振るっていた父親の首に、ズブリと槍をつき刺した敵兵。それを、初陣祝いにと父親より譲りうけていた槍でつき殺したのだが、その感触が、いまだ両手にのこっていた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(28)

1985年八月二十五日の昼すぎ、人の姿がまばらになった学習室にて、おもわず漏らした「くっそぅ!」の一言は、じぶんでも魂消(たまげ)るほどにおおきく、

 図書館をあとにしての家路、漕ぐペダルが、やけにおもかった。

 はからずも舐めてしまった苦汁という敗北感に食欲はうせ、風呂にはいる気にもならなかった。

しかしながら、母の手前そうもいかず、夕食はそこそこに、風呂も格好だけですませたのである。萎えた、みじめな肩で、二階にあがりかけたボクは、

洗いものを終えたばかりの、ふりかえった心配げなその眉に、

「暑かったし、きょうは疲れたから」とだけつたえ、自室に引っこむなりベッドに、力なく倒れこんでしまったのだった。

嗚呼とため息をついては、あれこれ不成功の因を悶々かんがえ、鬱々頭をかかえこんでは、唇をかんだ。

まるで暗中、手さぐりで四方八方をうかがうに、つまり答えを求むるに、なんの感触もえられずの体(てい)。換言すれば、夢のなかにあらわれた蜃気楼を、つかもうとする様だった。

だからこそ、ただただ虚しさだけが…、

いつの間にかの涙が、耳を濡らしていた。

学校でならうことには答えがあるだけに、こんなのは初めてだったのだ。

あとで聞いたはなしによると、ボクのふさぎようを、両親はいたく心配したらしく、母にせかされた父は、よってドアをノックし、「大丈夫か」とたずねた、とのこと。

 が、ボクはなぜか、このくだりを記憶していない。

「うん、ちょっと疲れただけやし、寝たらなおるよ、きっと」に、

階下におりての「もう寝てたわ」とウソを、とくにいまだデリケートな妻を安心させ、守り、いたわりたくてそう言った、らしい。

いっぽうボクはというと、母の身におきていた驚くべき事実を、夏休みのおわる二日前にしらされ、そのデリケートな内容に涙がながれたこと、いまも忘れることはできない。

さて、でもって酔っていた父、息子にたいし肚で、“そろそろ思春期やし、初恋やら、それにおとこの生理もいろいろあるしな。母さんにはわからんやろうけど”と、二人だけのときに、後日ぽろっと。

邪推だったが、父のおおらかな性格が、涙目のボクにとってはケガの功名をもたらしたのかも。

おかげで、そっとはしてもらえた。

だが、それがよかったのかとなると、今でははたして?である。

ま、それはいいとして、このときはぽつり。とにかく独りで暗夜を明かりもなくすすむ心境、出口のみえない不安、というより、いったい、出口そのものが存在するのかとの怯えややり場のない憤懣、それらをどうすることもできなかったのだ。

_このあと、なにをどうすればええんや_

 これ、生来の性格によったのであろう。

おもえば大げさなのだが、進退きわまるとはこういうことか?とこのときは。

少なくともなにかにとり憑かれ、金縛りのようなものにでもあっているのだろうか?と、そう。

二進も三進も(にっちもさっちも)いかないなんてこと、人生初だったから、この先どうすればいいのか、正直、見当もつかなかったのである。

ともかくも、おしえられた、秀吉をふくむ十六人を徹してしらべた。その作業において、やりのこしたことはないと、いまもそう自負している。

にもかかわらず、捜していた根本的因を見つけだせなかった。眠れないほどにくやしく心底無念だったのだ。

じじつどう足掻(あが)こうと、堂々めぐりでしかなかったし、それがかなしく、また辛くもあったのだった。

ただただ解決したい、たったそれだけやのに…。なんで、願いがかなわないのかと。

当初いだいた、夏休みを存分にはあそべなくなるとの予見の後悔など、比すべくもない悔恨に、紅のなみだが耳にはいった。

しかし、だからといって、苦悩をかかえたままでずっと、というわけにもいかないことくらいは…。

ついには、秀吉転変の理由を特定できないままに、けっきょく、投了したのである。いや、放りだし、無理やりにでも忘れることにしたのだった…。

あとは、なるようになれ!

翌日からは、苦艱にまみれたまま、それでも読書感想文もかいていった。宿題という責務にとりくむことで、懊悩は、おかげで日にち薬、まぎれていったようだ。

十二歳のガキの苦渋と苦汁なんて、生活に根ざしていないだけに、このていどのものかと。

こうして不完全燃焼のまま、小学生最後の夏はおわり果てたのだった。

そうではあったが一方で、これもなにかの縁(えにし)か、こびりついたコゲのようにしつこく心の片隅、否応なく引きずりつづけていたのである、それこそ、ああ十八星霜……。

   十八年後の、突然の…変転、いや、解決とスッキリ

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(27)

さらなるもうひとりは、旧ソ連のスターリン書記長で、推定約七十万人を処刑したとされる“大粛清”(1937年~1938年)をおこなった、まさに極悪非道の化身なのだ。

 しかしこのおとこが、人々を虫けらのように殺戮しはじめたのは、それ以前の1919年からで、レーニンがまだソ連の最高指導者として君臨していた時期であった。

 この時すでに、のちの大量殺戮のはしり、といえば語弊があるが、予行演習をしていたということだ。

で最高権力者たるソ連邦共産党書記長への就任は、レーニンが発病し、その政治権力が弱体化した1922年四月三日のことである。

 さかのぼっての1919年、この悪魔はまず手はじめに、反革命分子と断じたひとびとを処刑していった。ついで、レーニンの提唱のもと組織された赤軍兵(当時は数百万人の兵力)の大規模な逃亡や離脱を阻止するため、脱走兵などを“裏切り者”だとし、見せしめのために、公然と大量処刑したのである。

 歴史においては特に”もし”などないのだが、1921年のレーニン発病とそれによる政治力の低下がなければ、スターリンは解任され追放されていたのではないかと。

 重篤により、求心力を急速にうしなったのちではあるが、1923年一月四日のいわゆる“レーニンの遺書”とよばれる、その覚書執筆の段階で、スターリンの書記長解任を提案していたからだ。

 と、このように二匹の悪魔だが、いずれにしろ既述のごとく、全権力を掌握するまえからジャマな存在を“粛清”と称し、大殺戮していたのである。

つまり、このふたりも信長や始皇帝と同様、権力奪取のまえから苛烈・悪逆であった。ということでこの独裁者たちも、秀吉変貌の参考にはならなかった。

 いっぽう、独裁者あつかいされているキューバのカストロ議長についてだが、なるほど宗教を否定する共産主義者の立場から、国内のキリスト教を弾圧はした。が、短期間であり、教会側とは早期に和解している。

また弾圧時に、残酷とよべるほどの所業をしたとの報道を、ボクはしらない。

さらには、革命後のかれが豹変したようすもない。独裁者にありがちな、私財といえる巨富ともあまり縁がないようだ。

 さて、十五人目の棹尾をかざる(?)のは、人類史上最大の帝国の基盤をつくったチンギス・ハーンである。

歴史学者の推測によるのだが、一代の征服戦争においてなんと、数千万人を殺戮したとされている。となると、敵兵士だけでなく農民やおんな子供と高齢者などの非戦闘員もふくんでいたのであろう。

想像を絶する膨大な数値だが、中国人は過剰な表現をする民族ではある。はなし半分、いやそれ以下とする見方もある。

それにしても悪逆のきわみ、悪魔すら眉をひそめる大量殺戮だ、たしかに。

だが、蕫卓のような嗜虐性、あるいは暴君ネロ的な悪業は史料としてのこっていない。暗殺計画ものこっていないところをみると、敵には苛烈・非道でも、味方はもちろん協力者にも穏当だったと推察できる。

その一例として、捕虜となった異国人官僚の耶律楚材を登用したことがあげられる。

異説もあるが、陳舜臣氏著の“耶律楚材”によると、すくなくとも、租税をとるというシステムを教示したことで、略奪や破壊ならびに殺戮から中国を、すくなからず護ったという功績はあったようだ。

ちなみに氏だが、おおくの文献をしらべあげたけっかの執筆であり、ボクも楚材の功績にかんし、確認をしている。なるほど他国の史書には、楚材の名は見あたらない。

しかしだからといって、中国史による、まったくの捏造ともかんがえづらいのだ。

モンゴル帝国成立の初期段階でかれが、租税による財源制度を提示したことにまちがいはないのだから。

そんな楚材がつかえた人物だけに、その後も、たんなる血に飢えた殺戮者と断定するにはムリがある。

とはいえ、正確な史料のすくないチンギス・ハーン(井上靖氏作“蒼き狼”を学生期によんだけっかにおいても、血に飢えた殺戮者とはおもえなかった)だけに、秀吉との対比をすることができず、豹変の理由をしることはかなわなかった。

痛恨ではあるが、これら十五人とを、対比するという手立てでも、成功しなかったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(26)

 さて、検証ものこりわずか。

でもっての、中国統一をなし遂げた秦の始皇帝。

かれにまつわる暗殺失敗の史実も今日までつたわっている。かれは天下統一のまえ、敵国を攻むるに殲滅するがごとく殺戮に徹し、けっして容赦しなかったのだった。それを最善の方途としんじたのは生来の、苛烈な性格のせいだろう。

この独裁者がなした焚書(その功罪に賛否両論あり。罪は論ずるまでもないほどに数多。ただし、かの文豪魯迅は進歩的行為と評した)は、これをおく。問題となるのは、その対となる坑儒を命令したことだ。

坑儒とは、冤罪の儒学者四百六十人を、かれの激情から生き埋めにした、虐殺事件のことである。それらのゆえか、司馬遷は“史記”の中で、「恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な性格のもち主」としるした。

信長といい、天下統一には冷厳な人格が必要悪なのだろうか?両者ともが無慈悲に徹し、武力で国を制圧していった。そのさい、残忍な性格のままに旧体制・旧権威の打破を完遂しようとしたのだ。

また、独裁者の代名詞ともいえるユリウス・カエサルは、政敵ポンペイウスと戦場にて雌雄を決しこれをしりぞけ(ポンペイウスは逃亡の地エジプトで、エジプト軍によって殺害された)、元老院派を武力で制圧したのち終身独裁官に就任した。

やがてかれにむけられた“非道”との謗りはしょせん、権力闘争の敵方がかれを刺殺後にじぶんたちを正当化するためにつけた烙印にすぎない。かれにかんする記述を読んで、当時のボクはそんな印象をうけた。ゆえに、秀吉転変の参照とはならなかった。

いっぽう、近代の独裁者たち。カエサルからみて約二千年後の以下の二人が、異論をさしはさむ余地なく、その代表であろう。ありえざるほどに突出する、大殺戮をなしたからだ。

ひとりは、いわずと知れたヒトラーである。

この悪魔が手をくだした“長いナイフの夜”(三日間つづいた突撃隊への弾圧)とよばれる非合法的殺戮は、1933年一月三十日、首相に選出されてすぐに成立させた悪法、全権委任法があっての粛清だった。

ところでこの殺戮だが、死体の数からはすくなくとも116人分、との一方で、1000人を超えていたとする証言ものこっている。いずれにしろだが、ほんの七十年前にもかかわらずの大量殺人である。

第一次世界大戦(1914年7月28日勃発)における凄絶すぎた悲惨(犠牲となった死者数、推定1600万人以上)を経験し、人命や人権に、かぎりなき尊さを見いだしたはずの二十世紀にだ。

国際連盟という、画期的世界機関をも創設した人類の英知。

にもかかわらず、ひとの命が異常に軽かった中世以前だけでなく、この二十一世紀の現代世界においてもなお、内戦や無差別テロが、まごうことなく頻発しているではないか!

極端かもしれないが、第三次世界大戦がおこらないと、核抑止論をたてにしたとしても、否定しきれるであろうか…。

かなしいかな、すくなくとも歴史が証明している、二十世紀なんてまだまだ…懲りていないと。

たった二十五年後の1939年9月3日勃発(独がポーランド侵攻を契機に英が宣戦布告)の第二次世界大戦では、全世界で、関連の餓死者などをふくむ死者が5000万人とも8000万人とも。

人間とはなんと救いがたく、愚かな動物であることか!

さておく。いまは全権委任法について、である。

悪法と断ずるのは、ナチ党なかんずくヒトラーに白紙委任状を差しだすというしろものだったからだ。こちらも、歴史が生き証人である。

ただしこの時点ではまだ、のちに“総統”とよばれる絶対的権力者の地位にはついていない。

で、このすこし前、世界に冠たる民主的憲法(ワイマール憲法)、…悪法によりたしかに、ほぼ形骸化させられたが、しかしそれだけでなく、この憲法のもと、得票率で過半数獲得により選出された二期目のヒンデンブルク大統領(八十四歳六か月と高齢だった)、かれが、ヒトラーの首相就任に難色を示しつづけるなど、なおも、重しとして存在していたのだ。

また、“ほぼ”としたのは、総統ヒトラーの絶頂期にあっても、それでも憲法の遵守をさけび、ナチ党に異をとなえる知識人や一部ではあったが、良識派がいたからで、

そういえば、”サウンド・オブ・ミュージック”で描かれたトラップ大佐(じつは少佐だったが)のような人物も現実にいたわけだし、

そのうえで現大統領は、ヒトラーには目のうえのたん瘤ではあった、就任当初はとくに。

がしかし、八十六歳と高齢による老衰がすすみ、死期もちかいとみたヒトラーは、気力減退のヒンデンブルクとの政治的かけ引きをしたそののち、ナチ党の反対勢力となった突撃隊を粛清したのである。

となると、“長いナイフの夜”はヒトラーだけの咎ではない、ことにはなるのだが。

そんななか、大統領の死をうけると、ゲシュタポとの呼称でおそれられた秘密警察をつかい、反ナチ派やユダヤ人たちを根こそぎとらえていくことに。

こうして誰もがしる、ユダヤ人たちなどへのホロコーストがはじまるのだった。

人類史上、最悪の殺戮者、それがヒトラーなのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(25)

ナポレオン暗殺計画は1800年の十二月二十四日に実行された。王党派が、第一執務だったかれとジョセフィーヌがのった馬車に爆弾を仕掛けたのだが、けっか、失敗している。さらに、大英帝国がフランスブルボン(ルイ)王朝の王政復古をもくろむ王党派と手をくんだのだが、こちらも未遂におわった。

また、いくつかあったヒトラー暗殺計画の中でいちばん有名なのが、ヴァルキューレ作戦がからむ時限爆弾事件(1944年七月二十日)である。

歯止めなく暴走する侵略戦争がやがては国家・国民をあやうくするとして、一部の有志がはかったのだ。

計画の動機は私的恐怖に帰するものではなく、おおむね、公憤であり公益のためといえるものだった。むろん、これ以上の人命の損失を憂いた人たちである。

暗殺計画は存在したが、成功も失敗もなかった史実もある。標的は皇帝ネロだった。

横暴のかぎりをつくしたせいで、すでに、国を憂える声が津々浦々に充満していた。ネロはついに、近衛兵や側近からも見放された。元老院からは“国家の敵”との宣告をうけ、追いこまれ逃げ場をなくし、けっか、自刃して果てたのである。

 で、主題の秀吉にもどすと、人格崩落ののちも、かれにたいしては、主君信長に存在したような暗殺計画があったとはきかない。文献をしらべたが、そのかぎりにおいて計画はなかった。

ちなみに石川五右衛門による暗殺計画は、ウケをねらった後世の偽説である。

暗殺計画がなかったということは、ネロや蕫卓とはちがうからだろう。さらには、むりな外征をしたことにおいては同じなのだが、暗殺計画の有無においては、ナポレオンやヒトラーとも一線を画すひつようがありそうだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(24)

つぎは、前漢の高祖劉邦。秦の始皇帝の死後、覇をあらそった項羽をたおし戦乱の世をおさめた人物だ。

かれは権力を独占せんと、彭越や英布など建国の元勲たち(“背水の陣”や“韓信の股くぐり”で有名な韓信は、おなじく建国の元勲で謀臣だった蕭何が謀殺)を滅ぼしていった。

しかしながら、蕫卓のような悪逆な惨殺はしていない。

その劉邦だが、もとは地方のしがない下級役人であった。親分肌の一面もあったが、当初から無頼の徒でもあり、のちの家来に「傲慢でひとを侮蔑する性格」と評されてもいる。伝承によると、頭角をあらわすまでは、阿漕(あこぎ)な商売などにも手をそめていたようだ。

だが張良などの有能な家臣にめぐまれるにつれ、天下に名をとどろかせてゆくことに。

紀元前205年、五十万人超の軍勢、連合軍ではあるのだが、それを有するまでにいたり、やがては雌雄を決することとなる項羽と、まずは彭城の戦いにのぞんだのだった。

だが、そこで敗残ののち追手からわが身をまもるため、嫡男(のちの恵帝)と娘を馬車から落として負荷を軽くしたというエピソードは有名である。直後、御者がたすけたからいいようなものの。

さて、この点の比較。母親や妹を利用したことのある秀吉とはいえ、とくに直系を大事にしていたわけで、そこがずいぶんと違う。

 また劉邦のように、かりに独裁者のほとんどが、権力奪取をさかいに家臣たちを粛清していったならば、側近であれ、また、のちの建国の元勲といえども、覇者に仕立てるべくと、いのちをあずける覚悟で、つかえる者などでてくるはずもない。

成就のあかつき、いつ逆賊の汚名のもとほろぼされるか、わからないからだ。

たしかに誅殺の名のもと、臣下たちをほろぼした権力者もすくなくない。中国史においてはとくに。

だが、もし劉邦式という粛清の定理があったならば、こんどは下剋上こそが、人類の歴史となったはずである。無為のまま殺されるのではなく、わが身の安全をはかるために、主君暗殺を計画し実行するだろう。

いうまでのなく、自己防衛は本能であり、とうぜんの人情なのだから。

ところが、殺戮をくり返す下剋上が有史を覆ってはいない。

独裁者は数多存在したが、家臣に冷酷な劉邦タイプはむしろ寡少なケースで、この点でもやはり秀吉とはちがう。

ちなみに、わが身の静謐(せいひつ)をはかった数すくない史実として、腹心で養子にもなった呂布(既述)が、蕫卓を暗殺した事例はある。

おなじように腹心に命をうばわれたとのキーワードで見過ごせないのが、ユリウス・カエサルと織田信長だろう。

呂布とは動機がちがうようだが、前者は側近のブルートゥスたちの手で暗殺され、後者はいわずとしれた明智日向守光秀によって、横死させられたのである。

ところでこの二人の独裁者ともが、今回のナゾ解明の、役にはたたないであろうと。

人格の転変において、横暴さの度合いが増したていどならあるかもしれないが、逆転といえるほどのものは、両者ともにみられないからだ。

たしかに、つぎつぎと政敵を葬りさったカエサルではあったが、クレオパトラをしたがえローマへ凱旋すると、終身独裁官に就任(共和制をこわした、これが暗殺の根源因)する。しかしその前後において、無益な殺戮はしていない。

また、信長においてもせいぜい、長年つかえた林通勝や佐久間信盛などを、廃品のように突然放逐したくらいである。それも信長にすればゆるすまじき咎がかれらにあったからで、にもかかわらず命まではうばっていない。ほかの配下への配慮もあったのだろうが。

ちなみに、比叡山での無差別大量殺戮は非道のきわみだが、延暦寺の、仏法者にあるまじき強欲・淫蕩・搾取にたいする見せしめのためだったと。むろんやりすぎではあるが、人格が激変したことによる、残虐ではない。

ところで暗殺といえば、その計画が失敗したことで有名なのが、対ナポレオンと対ヒトラーの史実であろう。ただ、この二人を暗殺しようとの立案者たちは、蕫卓を刺殺した呂布とは趣旨がそれぞれにちがっている。呂布はあくまで、じぶん個人の危険回避が目的であった。

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