ところで、秀吉と対比してみると、共通個所がいくつかあることに気づく。
ひとつは、善政と悪政の両方を施行した点。以下は、初期の善政にはあたらないが、権力の魔性にとりつかれたネロですら、ローマ大火直後はその救済にと、食料の配給や仮設住宅建設に取りくんでいたのだ。にもかかわらずの、善政を台無しにした大量殺戮であった。
つぎに、母親を利用した点。
秀吉は、宿敵家康を上洛させて家臣の立場におくために、母親を一時的にではあるが人質としてあずけている。
いっぽうのネロは、皇位後継者?だった義母弟の、その地位をうばう謀略を実母に頼みこんで(すでに、先代の四代皇帝の後妻におさまっていたことから可能に)、帝位を手にできたのである。
さらに、人生の前段は人格者で、後半は破綻者となったこと。
その豹変の原因に、病気説があることもだ。
ただしボクは、脳梅毒が秀吉豹変の原因とはおもっていない(既述)。
で、人格の逆転と所業だが、ネロにおける地位保全のための悪行と、秀頼を後継者とするその障害(とは、ボクはみていない)たる秀次の殺害は、似ているようでちがう。秀次に、障害となれるほどのパワーや器量などなく、うすい存在だったからだ。執拗ではあるが、監視下のもと生かしておけばよかったのだ。
ただし、譜代の家臣がすくないなかでの親族の殺害は、豊家の力をよわめることとなった。まあそれはそれとして、
けっきょく、秀吉の人格豹変の原因や理由を、ネロを通してはみつけだせなかった。
つぎに、東洋での最悪の暴君となると、三国志の前段に登場する、蕫とう卓であろう。
クーデターにより、城外へ逃れかくれていた幼い少帝とその弟を、見つけだすとかれは自軍をひきい、王朝末期ならばこその混乱に乗じて、後漢の首都である洛陽へ入城をはたした。
間かん髪はついれず、ほかの武将たちとクーデターを武力制圧するのだがその前にまず、巨大宮廷にて皇帝に侍はべる宦官かんがん(武官ではない)たちを大量虐殺した。クーデター参加の詮議をすることもなく、ただただ手あたり次第の血祭りだった。
ついで、こんどは武功を独占するために、のちに養子となる猛将呂りょ布などの武力を借りて、鎮圧直後で気のゆるんだ同僚の武将たちを謀殺していったのだ。
さらに、幼い少帝から弟の献帝へと移譲させ、そのうえで政権を奪取するため、現皇帝(献帝)の生母をはじめ前帝(少帝)、その側近をも虫けらのように殺害し、献帝を傀儡としたのである。
専横はつづく。金満家の財宝を強奪するなど、誘拐・凌辱・略奪・殺戮をくりかえし、ついに、蕫卓首謀の凶悪が、首都の茶飯事となった。最高権力者に君臨したこのおとこは恐怖政治に明け暮れ、首都は不法地帯と化したのである。
そんななかでも極悪非道が三つ。