早速だが心許ないのが、まずは秀吉の年齢。覇王になったのが五十三歳と、当時では高齢で、しかも実子の男子はひとりだけ。家康のように、第二、第三というふうに男子を次から次ともうけていくには、年齢的にきびしい。くわえての、鶴松元服時にはすでに六十代中ごろとなり、健在だとの保証などまったくない、いわば闇。

じじつ後継者にかんし、暗黒の最たる大事件として、こののちではあるが、高齢秀吉と嫡子が幼児だからこその苦悩からうまれた、関白秀次問題を惹起させるのだ。

さらにはこれも家康とちがい、秀吉家臣団は一代での俄かづくりだけに、歴史がないせいか、家臣間での姻戚関係、あえていえば一種の政略結婚に乏しく、また交流を深めたりなどにも欠けるところがあった。たしかに真田信繁は、大谷刑部吉継の息女を正室にしてはいるが。

つまり扇の要、カリスマ秀吉をうしなえば、結束力はどうなるだろうとの危惧もある。

そんな家臣団だからこそと、国内での戦乱がなくなったことにより存在価値のうすれた軍務担当の武断派と、統治を維持継続するに必要性の増した石田三成ひきいる文治派のあいだで、いずれは対立がと、期待したであろう家康。

ならばと、分断をはかるくさびを、音しれず打ちこんでいくのである、期間をかけて。

しかし外見、秀吉の死のそのまえまでは、いかにも豊臣政権維持のおんためにと江戸城からはなれ、1592年築城の伏見城に常駐して政務にはげんでみせたのだった。

このさまで、天下への下心などなさげに、豊臣恩顧の武将たちにみせつけることができたのだ。

で、つぎなるは六年後、秀吉死後だからうてた一手なのだが、文禄四年(1595)八月に制定された法“御掟”にて取り決められていた無許可の婚姻禁止令をやぶり、福島正則や黒田長政、蜂須賀正勝などの各家と姻戚となり、豊臣恩顧の武将たちを取りこむことに、やがて成功していくのである。

ちなみに〈石の上にも三年〉どころか、六年も待ちつづけたことなどから我慢づよい性格と家康を。一面そうだろうが、戦力からみて秀吉には勝てないからで、それを最大の理由と既述した。

むろん、忍耐力を否定するものではない。が、そのいっぽうで、短気だったとする余話もおおく残しているのだ。

 たとえば、武田信玄にいどんだ三方ヶ原の戦い。家臣の制止を無視し、血気のまま攻めかかり、家臣に多大な犠牲者をだし自身も命からがらであった。また、戦場(いくさば)で危機にひんすると、自刃しようとしたことも数度。家臣がとめなければ、短慮がまさに命とりとなっていたであろう。

ところで本筋にもどると、このように秀吉亡きあとの豊臣政権は、水面下でも謀略にさらされ、よって客観的見地から、長期安定政権を形成していくには、ムリがあった。

むしろ、瓦解と背中あわせと、当時から武将たちをふくむ世間は、シビアにそうみていたのである。

つまりいよいよ、内乱が内在するあぶなっかしさに塗(まみ)れてきたというのが、正当な見立てであった。

さかのぼって、天下がみえてきた1584年。いまだ嫡子のいない秀吉にも、やがてはおとずれる死。以降の政権不安定がみてとれる不安や恐怖に、つきうごかされる想いもあったにちがいない。

それで朝廷を味方につけ、権威が政権安定の一助になればとて利用すべく、いっそうの手をうっていった。仰天させるほどの貢物で、である。

おかげで、権大納言、内大臣、関白、賜豊臣氏など朝(あ)臣(そん)(天皇の側近)としての、いわゆる叙勲をうけることができた。むろん、天下統一の正当性を内外にしめすためでもあった。

朝廷とて、政権の安定と豊家の繁栄はねがわしいことだった。が、いかんせん、朝廷はその存在自体がのれん程度であり、糠(ぬか)でしかなく、しょせんは、頼りにならなかったのである。

だからいっぽうで、ひとの目をひく建造物や派手なトピックスなどで世人に、豊家の権威をみせつけたのだった。

聚楽第や伏見城築城、二条城の大改築、そのあとではぎゃくに聚楽第の破壊、北野大茶会、醍醐の花見、あげくは、激怒(じぶんの思いどおりにならない李朝朝鮮にたいし。しかし客観的には、秀吉の無知と傲慢のゆえ)と征服欲からでた朝鮮出兵(最終目標は、主君信長が豪語したとされる明国=中国支配の実現)。

ところでこの出兵だが、秀吉らしい狙いもあったのだろうと。

国内での戦がなくなったことで、武断派たちはその役目をほぼうしなった、1590年を潮に。

かれらの失地を回復させんがための、だから海外派兵である。くわえて、領地がふえれば、子飼いの清正らや親せきの福島正則たちをよろこばすこともできる。

また、目的はいっぽうで、覇王の絶大な力量を誇示する効果をも、ねらっていたのではないかと…、これは私論。

ちなみに、その根拠ならばある。甲子園球場十三個分にあたる敷地面積十七万平方メートルに、前線基地として、五重天守の巨大な名護屋城を短期間で構築した、これが誇示のその証拠だ。世間を「あっ!」といわせるためである。一夜城、高松城水攻め、中国大返しのときのように。