ところでまさか、明国を勢力下におくなど、本気だったとボクにはおもえない。高齢の自身や幼年の秀頼に鑑み、夢想にすぎるくらいはわかっていたはずだと。地球儀をみて自国のちいささと、中国の広大さをしらなかった、なんてありえない。段ちがいの国力の差も、自明である。
だから、巨大で大音響の打ち上げ花火さながらに、その派手さで衆目をあつめ、とくに支配下武将たちに絶対服従を強いること、そこに眼目をおいていたのだろうと。
あるいは本気で、小国の李氏朝鮮くらいならば支配できるとおもっていたのだろうか?そこまではないとしても、上記の配下たちをよろこばすに、半島の一部でも割譲させよとたくらんだのか。
だとしたら、当時の国際情勢に無知でありすぎた、としか言いようがない。
李氏朝鮮は、小国であるがために明の属国となった、ことくらいはさすがにしっていた。
だが明が中華思想のゆえに、従いつづけている李氏を守るためならば兵を出す、とまでは無知のせいで、秀吉といえども思慮できなかったのだ、おそらく。
ちなみに中華思想とは、約2500年前の孔子がその提唱者とされている。いわく、中国は、神聖であり最高の文明・文化を有し、その頂点にたつ中国皇帝は世界の支配者であり、だから劣等な周辺国から全幅の敬意をうけるべき存在だ、とする思想。そのけっか、君臨の対価として、保護者であらねばならないと。
しかしながら十六世紀末当時、中華思想の標榜じたい、せまい世界観に支配されていたにすぎなかっただけである。
実際には、スペインとポルトガルが力まかせで世界を席巻しており、よってすでに、傲慢と身の程しらずの思想となっていたのだ。
ところで、“明がせまい世界観に支配云々”の既述にたいし、異論をとなえるむきの存在も承知している。
それは1405年が最初だった。明の永楽帝が、“鄭和”という人物に命じ、最後は二十八年後の次々代皇帝の指揮のもと、で合計、七度の大航海(遠く、アフリカ東海岸にまで船団をむかわせた)を実現させている。
つまり、明は驚異すべきことに、西欧の大航海時代に先駆けていたと、反論のいわくだ。
なるほど、たしかに。最長だと、上海の西、蘇州から現ケニアまでの約一万キロにおよぶ大航海であった。だから、“せまい世界観”は当たらない、ようにもおもえる。
しかしながら、ばくだいな経費が負担となり、また鄭和の高齢もあり、大航海をとりやめると同時に、明は鎖国政策にもどしている。
それから百五十年ものあいだ、国を閉ざしつづけたことで、世界観はせばまっていったのだ。百五十年はいかにもながい。こうして新陳代謝さながら、国民は数世代にわたり入れかわったのである。
よって、大航海のことすら忘れさってしまった民衆の世界観が、その間に変化するには充分で。どうじに内憂外患の百五十年は、国力を衰退させるにも充分であった。国家も、〈貧すれば鈍す〉、なのである。