すでに元服している嫡子ふたり以外にも男子を多くもつ家康とちがい、秀吉には、世継ぎ候補はひとりだけだった。しかも当時は、子どもの死亡率はたかく、じじつ、天下人になってからの嫡男鶴松は、満二歳と二カ月少々で夭折している。
と、ここで話をすこしもどすとして、まずは良好な関係だったとしよう。
さて動機だが、平時なら、稀薄はさもありなん、だ。
しかし当世は戦国時代であり、すくなくともまだ乱世の余燼がくすぶっていた世相であった。それを忘れたひとの発想で、善人による異見だと、ボクはおもう。
歴史的に、応仁の乱からだとすると、百二十年以上と長くつづいた血で血をあらう戦乱の世。それが完全に収束するには、それなりの時間がひつようということだ。
証明する例として、少々ながくはなるが、
まずは鎌倉時代。あえて戦乱の期間を短くするために、源頼朝が征夷大将軍となった1192年からみても、八年後には梶原景時の変、その翌年、建応の乱、二年後には比企能員の変、そして朝廷と覇をあらそった承久の乱と、枚挙にいとまがないのだ。
室町時代はというと、尊氏による開幕ののち、弟直義との確執による争い、また、南朝と北朝にそれぞれ天皇がおり(五十年以上つづいた南北朝時代)、王位継承の正当性をめぐり、中央、地方がともに戦乱にあけくれている。
江戸初期も、大坂の陣、島原の乱、由井正雪の乱と大乱はつづき、五十年ちかく太平とはいいがたかった。
明治においても、佐賀の乱が勃発すると、各地で反乱が相つぎ、西南戦争の終結まで戦火のなかにあったのである。
それは、ひとには権力欲や征服欲・支配欲などがあり、私欲まみれだからだ。
以上。つまり、秀吉が安寧をもたらしたとみるのは早計、なのである。
で、次。豊臣家の、世襲はスムーズにいくのか?という、日の本全体にとってもの大問題をみてみるとしよう。