かんがえられるのは、料理人か運び役に、手のものを忍びこませた?…あるいは秀長の家臣に垂涎の利を提示し籠絡した、であろう。むろん、人選には苦労するだろうが。

ところで家康が完全犯罪をしかけたと、ボクがにらんでいる時期だが、天下人が秀吉で落ちついた1590年、いわゆる小田原城陥落直後だろうと。

理由ならば簡単。ポッと出のサルをさげすみ、その軍門にくだるを意味する屈辱的上洛を、拒みつづけた後北条家(政略結婚により、徳川とは姻戚関係にあり、同盟もむすんでいた)は没落した。

すでに、毛利はもとより、長宗我部も島津も屈服していた。遅ればせの伊達は、小田原城攻めに参戦している。豊臣家にたいし、臣従を拒否する大名はいなくなったのだ。この時点で事実上、日の本は、秀吉の手におちたと、そう。

とは換言すれば、1590年当時の徳川がこの事実をくつがえし、武力でもって天下を盗る、なんてこと、諦めざるをえなくなったのである。しかし、一寸先は闇。だからすくなくとも今はと。

いやいや、そんなはずがない。豊臣の一寸先を、闇にすればいいとすぐに。

よってこれから以降は、天下をうばうには面従腹背(いかにも家康らしい。とは、幼少期は今川家の人質ですごし、三河にもどれば信長にしたがうしかなかった。さからえば、真っ先に滅ぼされていたはず)で、謀略をもちいるしかない、が家康の立場となった。

ちなみに、始祖を早雲とする四代目の後北条氏政からみれば、家に歴史を有し、強力な姻戚・同盟関係にもある家康を頼みとおもっていたにちがいない。氏政にすれば、裏切られたかっこうで、切腹させられたのだ。

いっぽうの家康はというと、後北条家潰滅のけっか、代々つづいた三河をふくむすべての領地をとりあげられ,縁もゆかりかりもない関東への移封(領地がえ)を余儀なくされたのである。

たしかに、版図としてはひろがったかもしれない。

しかし家康とかれに忠誠をちかう家臣団にすれば、極端なはなし、蝦夷地(北海道)の原野に移りすんだような気分、だったのではないか。田畑には不向きな荒涼地もすくなくなかったからだ。

この措置は、六年前に逆らったこと(小牧・長久手の戦い)への報復、というより、巨大化した徳川の勢力をそぐためなのだろう。

後北条の残党がまだまだひそんでいる現況下で、しかも江戸周辺はたびたび洪水にみまわれ、大がかりな治水ならびに灌漑工事、さらには開墾が必要であった。

そのうえで新領主として、領民との友好関係までもきずくにしくはなかった。一揆でもおこされたら、徳川家は瓦解するかもしれないからだ。

懐柔には、年貢の比率(前領主であった後北条家は、早雲がきめた民六公四を継続)をすこしゆるめる方向にもっていくが最良とした。

それにはまず、公私ともの、このあらたな領地(徳川本家と家臣それぞれが分割所有することになった知行)に、労力をかけての検地(それ以外にも、各寺社は既得権益や特権をたてに伝来の格安比率を主張してくるはずだし、それぞれとの交渉も必要)から始めるしかなかったのである。

それもバカらしいことにだが、収入減を覚悟のうえで。

ただし、徳川側に不利な比率を採用したとしても、矛盾するようだが、必ずしも悲観しなくてすむかもしれないのだ。

なにをバカな!と、徳川家ですら、そのだれもがそうおもう意味不明。しかし、じつは矛盾しないのである。

つまり、前回のは(史上有名な太閤検地、ではない)、ふるくは平安時代のデータのままを活用していた程度にずさん(各地にて散見された手ぬき)で、しかも珍しくなかった。

実体とはズレがあり、それを修正するあらたな検地のおかげで、作づけ面積がじつはひろかったとわかれば、けっか、増大した収穫量を計上できることに。ひいては、年貢量をふやせるという好結果もえられるからだ。

そうなると困るのは農民で、うまみがなくなったぶん収入減となり、不満をもつことにはなろうが。

しかし比率をさげたという事実で、大義名分はたつ。まあ、こんかいの検地が、徳川側を利することになるかどうかまでは。

それはさておき、いまのは単なる一例にすぎず、それらが完了してからの、いわば治世となるのである。

つまるところ、すべてにおいて、ゼロからのスタートということだ。

たとえばの話、海外にも進出している多角経営の会社において、ある日突然ヘッドハンティングにより就任させられた社長が、各事業をいきなり把握、その月から総てにおいて利益をあげろと株主から強要されたとしよう、だが、そのほうがまだ簡単だと云々。

それほどに移封が、いかにたいへんな事態であるか、だ。

それでも家康は、世上しるひとぞ知るタヌキ親爺である。天下に色気をもっているとは思われていない状況下。それを逆手に、健康長寿の良薬だとでもいって親切心をよそおいつつ勧め、秀長にヒ素を送りつけたともかんがえられる。可能性はひくいが。

などと、毒殺説。

読者からは、動機についての異見がそろそろ出るころだろうと。

なるほど、ふたりは仲がよかった、らしい。すくなくとも、仲がわるかったとの史実はないようだ。だから動機が希薄だ、との異見である。しかも、秀吉の天下で世はおちついたではないか、ともつけ加えて。

だが、はたして論理的であろうか?鵜呑みにしてもいいのだろうか?