大航海時代からの近代において、世界を支配してきた西洋人が編みだしていった説が、流布の歴史として定着してしまっている。
で、端的な例とは?
いやそのまえに、以下も当たりまえなのだが、この前後の記述も白日夢でおもったことである。
さて、端的な例だが、
教科書にも記載された、コロンブス(クリストバル・コロン)による“新大陸発見”云々。くわえて、それ以降の西・伊、さらには英・米にとって、都合よく塗りかえられすぎてしまった、そんな歴史、…とやらだ。
しかしながらここで、今日までにおいて言い尽くされたことを、あえて述べる。
そもそも、“発見”とはなにごとか!ということだ。無礼千万このうえないではないか。しかも北米大陸には、奴隷商人でもあった人非人男は一度たりとも上陸していない。
今日でいうところのベネズエラにはたしかに上陸し、そこが大陸の一部だとは認定している。が、南米大陸との認識などなくインドだと信じ、そう報告した。そのインドだがすでに、欧州人が知る地なのだ。
ならばどこが、“新大陸発見”なのか!コロンブス自身が、新大陸とはおもっていなかったことからも、不条理は明らかである。
また、コロンブスたちが上陸した島々を西インド諸島と呼称し、現地のひとをインド人とよんだことからも、“新大陸発見”であろうはずがない。
そのおかげなのか、超極悪人だからなのか、いまでもアメリカ大陸と命名されそれが流布してひさしい。
未知の、とは命知らずでしかない南緯五十度にまで南下し、そこで極寒と暴風雨に阻まれた探検であった。しかしながら、賞賛をこめて到達したと表現するにたる1502年の冒険により、アフリカ大陸でもインドでも、南緯からありえないとの論文を発表した。
つまり、そこの陸地が欧州人の知られざる大陸だと断定した、アメリゴ・ヴェスプッチに由来しているからである。
ちなみに学問を探究するかれは、探検家にして地理学者でもあり、金銀財宝をどん欲に求めつづけた大殺戮者とは隔絶の人物なのだ。
くわえて、北米大陸への上陸はそれよりもあとのことで、しかも西欧人(ノルマン人=バイキングをのぞく)が、一万二千年以上も遅れてやってきただけの話。発見どころか、程度のひくいキリスト教の世界観がうみだした、まさに寝言としかいいようのない、笑い話そのもの。
さらには、すでに中米においてはマヤ文明やアステカ文明などを栄えさせ、北米においても文化をなした先住民族がいたことを無視した、暴言ですらある。
あえて言おう。“発見”、とは、西洋人の傲慢そのものによる所産なのだ。
さらにいえば、先住民族を人間としてみていないからにほかならない。野生の動物かなにか、とでもおもっているのだろうか!
すくなくとも傲慢だからこそ、英国人による“新大陸への入植”といういいまわしがなされ、また米国は、“西部開拓史”なる呼称をつかって平気である。先住民にたいする、あきらかな“全面的侵略・掠奪・大量殺戮史”なのに、だ。
もっとも事実だからとして、以下は過小にすぎる実体なのだが、それでも“サギ史・人ごろ史”とも、欧米人はいまさら呼ばないであろうが。
たしかに、略奪や殺戮をみとめている良心的なひとたちも、皆無ではない。だが大多数はそしらぬふりで、一部には、正当化するふしぎな頑迷固陋もいる不可思議。
そういえばネオナチのひとは、ヒトラーを英雄視し、ホロコーストなどなかったとすら主張する。
見かたや捉えかたは自由だが、ウソはどこまでいってもウソである。当然、顰蹙をかうは必然の面々だ。
悪魔のささやきを遮断し、じじつを正視するならば、探検家・冒険家だったとするコロンブスへの評価だが、実態とはかけ離れすぎているとしか。
自国で困窮し落魄しつつも富をえたいという私的欲望のために、インドをめざした伊太利人が、植民地化による莫大な利益をもくろんだ西班(スペイ)牙(ン)王室からの資金提供をうけ、長い航路のすえ、西インド諸島の存在を西洋人としてはじめてしった。…これがまずは前提であり、正体である。
それだけであれば、英雄視もゆるされていいかもしれない。
が、黄金を略奪するために、五百万人以上が野望の犠牲(奴隷とされた人々や疫病による病没者もふくむ)となった。この数値が正確性にかけているとしても、あきらかにかれをば、略奪者・征服者とよぶしかなく、いや、それ以外はありえないのだ。
それでもあえて、百歩ではなく地球半周の二万キロゆずっての、人類史的な一評価として好意的にみるとだが、西班牙から北米大陸手前までの航路を公式?に発見した人物だったと。
まあ、これが最大限である。なぜなら繰りかえすが、インドをめざしての航海であり、インドとおもったのだから。
さて、悪魔の化身についてはこれくらいにして、ほか、歴史における真実だが、上記のような故意に、ではなく単にときの経過のなかで変色したり、埋没してしまった例も、すくなくないだろうとも。ちなみに埋没した例は、それをみつけだすに窮する。
そこで、変形においてわかりやすい例が、美化されたり興味本位に修飾された“忠臣蔵”や“水戸黄門”などであろう。
また戦国武将なども、とくに江戸時代に美化されたか変質された、とのことだ。信長しかり、信玄しかり、エトセトラ。
太田牛一の“信長公記”とルイス・フロイスの“日本史”をのぞき、史料としては後世の文献がおおく、一部たとえば三成にたいするをのぞくと、悪意まではかんじないが、信憑性に問題があるからだ。
いずれにしろ真実と、後世における認識とのあいだには、数おおくの差異が存在しているということ、つまりは、そのていどの有史、なのである。
所詮、これらの変形や歪形は、歴史がもつ宿命そのものといえよう。