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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(73)

大航海時代からの近代において、世界を支配してきた西洋人が編みだしていった説が、流布の歴史として定着してしまっている。

で、端的な例とは?

いやそのまえに、以下も当たりまえなのだが、この前後の記述も白日夢でおもったことである。

さて、端的な例だが、

教科書にも記載された、コロンブス(クリストバル・コロン)による“新大陸発見”云々。くわえて、それ以降の西・伊、さらには英・米にとって、都合よく塗りかえられすぎてしまった、そんな歴史、…とやらだ。

しかしながらここで、今日までにおいて言い尽くされたことを、あえて述べる。

そもそも、“発見”とはなにごとか!ということだ。無礼千万このうえないではないか。しかも北米大陸には、奴隷商人でもあった人非人男は一度たりとも上陸していない。

今日でいうところのベネズエラにはたしかに上陸し、そこが大陸の一部だとは認定している。が、南米大陸との認識などなくインドだと信じ、そう報告した。そのインドだがすでに、欧州人が知る地なのだ。

ならばどこが、“新大陸発見”なのか!コロンブス自身が、新大陸とはおもっていなかったことからも、不条理は明らかである。

また、コロンブスたちが上陸した島々を西インド諸島と呼称し、現地のひとをインド人とよんだことからも、“新大陸発見”であろうはずがない。

そのおかげなのか、超極悪人だからなのか、いまでもアメリカ大陸と命名されそれが流布してひさしい。

未知の、とは命知らずでしかない南緯五十度にまで南下し、そこで極寒と暴風雨に阻まれた探検であった。しかしながら、賞賛をこめて到達したと表現するにたる1502年の冒険により、アフリカ大陸でもインドでも、南緯からありえないとの論文を発表した。

つまり、そこの陸地が欧州人の知られざる大陸だと断定した、アメリゴ・ヴェスプッチに由来しているからである。

ちなみに学問を探究するかれは、探検家にして地理学者でもあり、金銀財宝をどん欲に求めつづけた大殺戮者とは隔絶の人物なのだ。

くわえて、北米大陸への上陸はそれよりもあとのことで、しかも西欧人(ノルマン人=バイキングをのぞく)が、一万二千年以上も遅れてやってきただけの話。発見どころか、程度のひくいキリスト教の世界観がうみだした、まさに寝言としかいいようのない、笑い話そのもの。

さらには、すでに中米においてはマヤ文明やアステカ文明などを栄えさせ、北米においても文化をなした先住民族がいたことを無視した、暴言ですらある。

あえて言おう。“発見”、とは、西洋人の傲慢そのものによる所産なのだ。

さらにいえば、先住民族を人間としてみていないからにほかならない。野生の動物かなにか、とでもおもっているのだろうか!

すくなくとも傲慢だからこそ、英国人による“新大陸への入植”といういいまわしがなされ、また米国は、“西部開拓史”なる呼称をつかって平気である。先住民にたいする、あきらかな“全面的侵略・掠奪・大量殺戮史”なのに、だ。

もっとも事実だからとして、以下は過小にすぎる実体なのだが、それでも“サギ史・人ごろ史”とも、欧米人はいまさら呼ばないであろうが。

たしかに、略奪や殺戮をみとめている良心的なひとたちも、皆無ではない。だが大多数はそしらぬふりで、一部には、正当化するふしぎな頑迷固陋もいる不可思議。

そういえばネオナチのひとは、ヒトラーを英雄視し、ホロコーストなどなかったとすら主張する。

見かたや捉えかたは自由だが、ウソはどこまでいってもウソである。当然、顰蹙をかうは必然の面々だ。

悪魔のささやきを遮断し、じじつを正視するならば、探検家・冒険家だったとするコロンブスへの評価だが、実態とはかけ離れすぎているとしか。

自国で困窮し落魄しつつも富をえたいという私的欲望のために、インドをめざした伊太利人が、植民地化による莫大な利益をもくろんだ西班(スペイ)牙(ン)王室からの資金提供をうけ、長い航路のすえ、西インド諸島の存在を西洋人としてはじめてしった。…これがまずは前提であり、正体である。

それだけであれば、英雄視もゆるされていいかもしれない。

が、黄金を略奪するために、五百万人以上が野望の犠牲(奴隷とされた人々や疫病による病没者もふくむ)となった。この数値が正確性にかけているとしても、あきらかにかれをば、略奪者・征服者とよぶしかなく、いや、それ以外はありえないのだ。

それでもあえて、百歩ではなく地球半周の二万キロゆずっての、人類史的な一評価として好意的にみるとだが、西班牙から北米大陸手前までの航路を公式?に発見した人物だったと。

まあ、これが最大限である。なぜなら繰りかえすが、インドをめざしての航海であり、インドとおもったのだから。

さて、悪魔の化身についてはこれくらいにして、ほか、歴史における真実だが、上記のような故意に、ではなく単にときの経過のなかで変色したり、埋没してしまった例も、すくなくないだろうとも。ちなみに埋没した例は、それをみつけだすに窮する。

そこで、変形においてわかりやすい例が、美化されたり興味本位に修飾された“忠臣蔵”や“水戸黄門”などであろう。

また戦国武将なども、とくに江戸時代に美化されたか変質された、とのことだ。信長しかり、信玄しかり、エトセトラ。

太田牛一の“信長公記”とルイス・フロイスの“日本史”をのぞき、史料としては後世の文献がおおく、一部たとえば三成にたいするをのぞくと、悪意まではかんじないが、信憑性に問題があるからだ。

いずれにしろ真実と、後世における認識とのあいだには、数おおくの差異が存在しているということ、つまりは、そのていどの有史、なのである。

所詮、これらの変形や歪形は、歴史がもつ宿命そのものといえよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(72)

世界が驚天動地した、1989年11月9日の夜の、ベルリンの壁崩壊だ。

あのとき、ハンマーやつるはしを手に壁を壊していたひとびとも、映像をリアルタイムでみていた全世界のひとたちも、まさか壁崩壊が、ソ連邦の瓦解の主因となるとまでは、思いもよらなかったであろう。

アリの一穴というが、このとき壊された壁は、たしかにほんの一部であった。が、歴史の大転換となったのである。

その当時のいきさつをざっと荒く綴ってみる。ただし、体制崩壊や革命であるのだから、短期日でそれがなろうはずもなく、よって記述に、タイムラグが生じるのは致しかたないと云々。

だがそのまえに、キーパーソンを記しておかねばならない。ペレストロイカを断行していたソ連のゴルバチョフ共産党書記長(当時)である。かれが存在しなければ、冷戦は終結しなかったし、だけでなく東欧各国において、多大な血が流れていたであろう。

で、1989年11月9日の夜以降に流れをもどすと、ドイツは壁崩壊後に東西統一。東欧諸国においては共産党支配体制の瓦解。チェコスロバキアではビロード革命。ルーマニアは大統領チャウシャスクの公開処刑。そしてポーランドからはじまる民主国家の成立。ウクライナやバルト三国などの独立と、ソ連邦の瓦解。

強大だったソ連ですら云々。そういえば歴史上最大だったモンゴル帝国もだが、あえなく滅んでしまっている。

停滞、あるいは固定化してみえたふたつの巨大国家による二十世紀の世界の体制も、堰をきったように多大にすぎる劇的変化をしたのである。

月並みだが歴史は、顕在化、あるいは可視化の有無はべつとして、うごいているということだ。

ついで歴史とは?の、さらなる普遍的事実。

現代、それは必然の、次の現実へとつづいていく飽くなき流れの、その瞬間瞬間の連続である。よって、その一瞬一瞬こそが現代そのものなのだ。

むろんこれも当然だが、現実を体験しているひとたちにとっては、いまのその一瞬あとからが、平時的日常であったとしてもあえていえば、それが歴史なのである。

歴史とはなにも、大事件やトピックスのことをさすのではない。むしろ、平凡な日々の一瞬一瞬が過去となった瞬間、…歴史となっていくのだ。

くりかえすが、ひごろは変哲のない日常、あるいは、ごくごくたま…にも巡りあわない前代未聞、そのどちらであろうとも、本来ならばいうまでもなく事実がそのまま、時のながれに刻印されつつ形成されていくもの、なのである。

だから事実としておこった、その現実のつみ重ねでしかないと。

いやはやこんな見解、無味乾燥でおもしろみにかけている、または教科書的にすぎるといわれれば、そのとおりである。

ならばと歴史の実体について。…歯に衣(きぬ)きせなければ、それは虚と実。いいかえれば、ウソとまことということだ。

つまりは、当代の権力者や支配者たちが、じぶんに都合のいいように事実を歪曲したり、べつの虚偽を用意して書き換えてきたものであり、極言すればそれこそが、おおむね人類の有史といえる。

例をあげよう。まずは石田三成像。徳川幕府下では、極悪人あつかいであった、豊家を乗っ取ろうとした忘恩の強欲ものとして。しかし実体は、盗人家康から豊臣を、秀頼をまもろうとしていたと既述したように、これが史家の大多数の見解である。

いまひとつは、大化の改新あらため“乙巳(いっし)の変”で殺害された蘇我入鹿。とぼしい史料のゆえ、人物像ははっきりしないが、天皇家側がのこした一方的な悪人説を、良し、あるいは鵜呑みにするのはいかがなものかと。

権力闘争に、斬殺により負けたけっか、誹謗中傷を流布されたわけで、いっぽう、遣唐使による国力増強に尽力した人物との説も。国家の枠組みが未熟そのものだった倭国を、近代法治国家にしようとしたとの、学者の見解である。

などをふまえて、ついで、世界に眼を転じるとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(71)

朝廷の威をかりて、幕府は権威回復をはたすべく、桜田門外の変直後に画策した公武合体。具体的には、孝明天皇の異母妹と将軍家茂の婚姻という政略による関係強化をなしとげる(1861年)。

それでも各藩の動揺は、おさまらなかった。そんななか開国(鎖国自体なかったとする学者もいるが)と不平等条約を因とする、攘夷論が時流となり、諸々のけっか、薩英戦争や下関戦争(英・仏・蘭・米の四カ国と長州藩の戦争)が勃発。

だが、武力の格差がおおきすぎたために敗北をきす(1863年と64年)。

こうしてハチの巣をつついた、ではすまないほどの大混乱がおこり、帰結として、列強への攘夷など画餅だったとおもい知り、尊王へと潮目がかわった。

討幕ののち天皇中心の中央集権国家をつくらなければ、日本は分断され植民地化するとの危機感が横溢。そして1866年、薩長同盟が成立するといっきに討幕へとのながれが。

この機運のなかの1867年、唐突にも大政奉還(徳川幕府の終焉)が宣言される。だがこれには、将軍慶喜による奇想天外のたくらみがあったと、司馬遼太郎氏も。新政府には行政能力が欠如しており、けっか、王政復古を断念するはずだと。

しかしながら慶喜のおもわくは 画餅と化した。

いじょう、桜田門外の変以降、七年と数カ月で大政奉還、というふうに時間の経過につれ加速していったのである。

そうしてだが、桜田門外の変の目撃者にかぎらず、日本人のほぼ全員が激動の巨大な潮流に巻きこまれ冷静をかいていった、まるで“ええじゃないか(大政奉還前後の社会現象)”の狂喜乱舞にのみこまれでもしたかのように。

つまり体制の変革に七年以上がついやされ、さらには維新後、既述した混乱と内乱(佐賀の乱や西南戦争など)をへて、そんな多大な流血からの学びもあったればの国家体制の確立。

というように、過去として認識できる平常心があってこそ、歴史として掌握できる、ということである。

 あ、忘れてはいけない世界的大事件が、はるかかなたの欧州でおきていた。それはたかが十数年前のできごとである

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(70)

近ごろ(2003年現在)では、インターネットが全世界を網羅し、ブログや写メなどを駆使して、リアルタイムで発信や配信ができるようになった。とりもなおさず受信側も、即座に情報をえられるわけで。

とはいうもののわずかだが、そこにはとうぜん、時間にズレが生じているのである。

前述のくだり、場所がたとえばテレビ局の本社もしくは大使館だったとしよう。でもって、そこでたてこもり事件がおき、しかも長期化したばあいは、歴史的との表現に違和感はない。

ついでの仮定でもうしわけないが、数日間のその発端を、つまり事件発生の瞬間を近隣が目撃しつつパソコンなどをつかって発信したとして、でもって歴史とはなにかを考えるうえで問題にしたいのは、事件発生直後であろうともすでに“過去”だということだ。

あたり前である、だがそのいっぽう、現実に大事件を現在進行形でひきおこしている犯人は、一般的には異常な精神状態にあるため、その後の影響などを、せいかくに把握していない愚もありうる。

また被害者や目撃者も、原因や背景・規模・影響など、事件の全容を掌握できていない当事者にすぎず、過去という客体的視野の広がりうる範疇にはいない。

ひとは、突然の身近なできごとにドギマギしうろたえ、冷静さを欠いてしまうが通例だ。平常心と時間的ズレ、また冷静と空間的距離感とは相関関係にある。

当事者はまさに歴史のなかにいながら、その時空ともがたんなる現実でしかなく、そのひとたちにとっては現代そのものなのである。つまり過去ではないと。

たとえるならば、桜田門外の変(1860年)がわかりやすい。犠牲者は、過去のひとだから対象外だとして、

大事件の張本人である浪士たちも、そして大老井伊直弼暗殺の目撃者も、歴史的現場のなかには.たしかにいた。がその時点では、極論…、まだ“歴史”として、つまり事件がなにを招くか、その意義を認識できてはいなかったはずだ。

具体的にのべると、大老直弼は、実質的に幕府そのものですらあった。

というのは、水戸家徳川斉昭の子息、一橋慶喜(のちの十五代将軍)を排斥しつつ、将軍にすえた紀伊の家茂を傀儡化し、全権力を握っていたからだ。

そのひとを“暗殺”…。

この驚愕の大事件により、江戸幕府の衰退が急速化するという史実。および幕末から明治維新へとの大変転。まさに歴史的意義が発生したわけだが、それが具現化するのはしばらくあととなるからだ。

現代ならばマスコミが社力のかぎりを尽くすほどの一大事件、なのだが。それでも社会が一転する、ましてや明治維新の惹起、まではだれびとも洞察できなかったであろう。

さてこのあたりをできるかぎり簡略にしつつ、経緯をのべよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(69)

では、もういっぽうの過去についてはどうか。

まごうことなく不変不動なわけで。だから、切実とはならないし身におよぶこともむろんない。

そのぶん、ゲーム感覚でおもしろさをバーチャルとして、楽しめるのである。

歴史に興味を持てない、あるいは知識が希薄なひとでも、織田信長や坂本龍馬が横死したことは有名だから、知らないということはないであろう。

だが、1582年六月一日夜半から二日未明にかけて、その信長が本能寺にはおらず、よそで饗宴をひらいていたとしたら…。

また、1867年十一月十五日の夜、カゼ気味ではなく体調良好な竜馬が好物の軍鶏(しゃも)鍋を欲せず、密議をかわした中岡慎太郎と屋台のうどんでも食べにでかけていたならば…。

エトセトラ、エトセトラ。命拾いをしたそのあとを想像するだけでも、興味はつきないではないか。

しかしながら、所詮は意味をなさない虚構だというのも事実。ゆえに、これでおく。

ところでさらに、たびかさなる閑話にお許しをねがいつつ、“歴史”について考察してみたいとおもう。

そののっけから、「わかりきったこと」をあえて言わせてもらう。歴史は、過去においてでしか存在しえないと。

でこの当たりまえをふまえつつ…、さて、ある事実が因となり、驚愕の事件がひき起こされたとしよう。

それをその直後に知ったひとが、規模やそのあとの社会的影響にもよるが、歴史的大事件と表現することもありうるであろう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(68)

それを理解したうえで、まいどの横道。まずは未来についてのバーチャル。

たとえば日進月歩で進化する新技術、そのなかにはガン治療など、医療のめざましい進展に寄与するものもあるであろう。

さらには経済への波及。とくに雇用にだが、新技術による消失と逆にあらたなる創出、および画期的な新製品(過去においては電話やロケット・ロボット等それ自体もだが、そこから派生する事物)、これらが未来を劇的に創りだし、あらたな展開をみせていくだろうと想像できるではないか。

ついで、将来的には、民間企業が宇宙開発に着手する可能性も…。

そんなきたるべき未来が、実生活にどころか、もっといえば人生に深くかかわってくるわけで、ということはやがて、まちがいなく切っても切れない切実な現実、具体的には収入の増減、どころか、仕事の存続とふかく繋がっていくのである。

ロボットにかぎってだけでも、単純労働なら、あすにも勤労者を失業させるかもしれない。いやいや、たとえば弁護士という職種だって、とってかわられる日がこないと断言できようか。

それとは逆にしんじられない幸運にめぐまれ、宇宙旅行会社がうみだす巨万の富の海に、満悦しつつ浸っているかも。つかりすぎて、溺れているかも…。

「なんやそれ…、つまらん」仮想のはなしならいらないと。ならば、こういう事実ならどうであろう。

いまや、世界に冠たる任天堂。しかし創業当時は花札やトランプを製造販売する町工場規模であった。それがファミコンの開発・製造・販売で、世界企業へと。平たくいえば、“鯉(コイ)が飛龍へと大変身”をとげ、巨万の富と巨大な雇用(日本以外、欧米の販売拠点は八、中韓には三、研究開発拠点も欧米に四、日本にも四ケ所)などをうみだしたのである。

おかげで潤ったひとも数多(あまた)。また、株で金満家の仲間入りをはたしたひともすくなからず、なのだ。

ただそれが日本人であれば、いうことはないのだが…。との、情実な発言はさておく。

いずれにしてもやがてくる未来、だれもが時空の波に、その影響の多寡はあるにせよ漂い、世事との隔絶をなしとげないかぎり、さらされていくのである。かといって、世捨て人にはなりたくないし。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(67)

さてその、前関白豊臣秀次一族惨殺の歴史的意味あいを史家は、まちがいなく、豊臣政権の屋台骨をよわらせる愚行であったと。

そのうえでおもう。本物の秀吉であったれば、つまり、聡明でこれほど先をよめる人物ならばまず、姉(日秀)の子という数すくない血縁者をころす愚をせず、それでいて、秀吉自身がえらんだ後継者からははずす方法をとったにちがいないと云々。

なんといっても、肉親なのだ。また赤子のころから面倒をみてきた、妻の甥でもある。

その秀次は武にも智においても、たしかに、一級品との評価はさすがにお世辞にも。

だからこそ、じぶんの死後において、秀頼との権力抗争にならないようにすればよいだけのこと。太閤秀吉ならば、それだけの権力はむろんのこと、知恵もあったはずだ。しかも、さほど難しい手だてはいらない。

秀次が野望をいだけないていどにかれの領地を減封し、やがては天下をうかがうであろう徳川領のちかく、その西側(たとえば現静岡県の沼津あたり)に移封すれば、そして太閤の息のかかった誠実な譜代大名を三人ほど、その周辺に移封しつつそなえておけば、豊臣政権存続の完璧な布石となったにちがいない。

それでも心配ならば、秀次の側近をまずは全員放逐させ、そのかわりとなる有能な家臣を家老として数人、大坂から送りこみ監視役としてかためておけば、もはや秀次には、拾丸(ひろいまる)(のちの秀頼)をまもることで生きていくしか、方途がなくなるではないか。

 しかし影武者には、一族をまもろうとの情愛など、かけらもなかった。血肉は羽柴でも、そだちも心も別で生きつづけてきた“他人”であった。だから、秀次とその眷属(けんぞく)もろとも、かんたん無慈悲に惨殺できたのだ。

 さらにだが、無謀なくわだてであった朝鮮出兵などしていなければ、ほぼまちがいなく、関ヶ原の合戦はおこらなかった、そう断言してもよい。

既述したとおり、朝鮮出兵が原因で、石田三成らの文治派と加藤・福島ら武断派間に、ぬきさしならぬ軋轢が生じたのだから。

つまり影が、国内平定で満足していれば、両者の対立が激化する理由もなかったわけで、そうなれば天下をわけた戦乱は、日本史上にその名をのこすことなく、家康は野望をもったまま、無聊として手をこまねいているしかなかったはず、だった。

関ヶ原の合戦というのは、くどいが、外地で命をかけた武断派と内地で後方支援にあたった文治派(小西行長は出兵の軍に加わっていたが)の、あくまでも豊臣政権における内部間抗争に、その因があるのだ。

 ということは、大和など百十万石の大大名になっていた秀長が、かりに十七世紀初頭まで健在であったならば、豊臣政権内部の抗争を、そうなる以前にふせいだであろう。

立場からもかれにはそれくらいの力量はあったし、睨みをきかせる重みもじゅうぶんに備えていた。また抗争は、家康を利するだけだとかれらに、説くこともできたにちがいない。

いや、それ以前に、朝鮮出兵という暴挙をさせないか、はじまっても初期段階でやめさせたはずだ。大義も名分も、というより必要性のまったくない愚行なのだからと。

とにもかくにも影秀吉への説諭として、かく。朝鮮の対応が横柄だと激怒するのは、それ自体がまちがいであり、出兵の理由にはならないと云々。そのうえで、これを理解させる能力も、秀長ならばあったであろう。

さらには、「中華思想をもといとする明国は強大で国土も広大、李王朝はその属国なのだから、殿下の命令を無視し、明にのみ服従するのは当たりまえ」として、官兵衛とであれば納得させることもできたはずだ。

 それでもどうしても領土を拡大したいと、影がごねるのであれば、蝦夷地を占領させるという手もあった。

影の口をとおして、徳川軍中心で兵馬をすすめるよう家康にむけ厳命させればよく、ならば徳川家としてはのらりくらりで時間をかせぐだろうし、そのうちに、影の寿命はつきるであろうと。

 そうなれば、攻めるほうも攻められるほうも被害は最小限ですむわけで、影の死でこれにて一件落着と、まあるく収まったにちがいない。

 とはいうものの、これもしつこいようだが、歴史に“もしも”という仮定は非現実であり、バーチャルでしかないのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(66)

秀長は、逝去の一年前から居城にて病床にふせていたのだが、やがて泉下へ。

これを機に影武者の、ぬきさしならない極悪非道、なかでも、関白秀次一族惨殺にはじまり朝鮮出兵におわる、ゆるしがたい悪逆無道があらわとなっていくのだった。

しかしその惨虐をとめる秀長を、のぞむべきもない。

たしかに、影武者政権のもうひとりの立役者である官兵衛は、まだそばにて仕えていた。

だが、しょせんは家臣の身である。天下人だと、そう“日の本”が認知したこのおとこの残虐を、とめることなどできるはずなかった。

これにおいて、官兵衛に非はない。

いやむしろ、つねに正論でなす諫言が皮膚に沁みこむ、は言うにおよばず、影の胃の腑にまでも到達していたのである。

だからこそ影には、鋭利で明智(めいち)な頭脳をもつ有能な官兵衛がしだいに疎ましくなっていった。耳をふさぐだけでよしとは、愚物ゆえにしなかった。目障りと、論客を遠ざける道をえらんだのである。(側近からはずされたのも史実)

ただし、粛清はさすがにむずかしいと。武にも智にもたけた人物なのだ、相手は。 

不測の事態をまねくかもしれないと、能のない影武者といえどもそれを案じた。

戦上手の嫡男長政はむろんのこと、ほかにも敵をつくりすぎる事態をうむことになる、くらいは、愚者でもわかったからだ。

いや、また、智者を必要とする時がくるかもしれないとも。殺すには、不利がおおすぎるのだと、影はそれなりに考えた。

ここに、ひとつの逸話がある。

天下をうばいうる人物はだれかと、影が座興でとうたのだ。家康、利家、政宗、と家臣たちがくちぐちに。それを否定し、即答した名が、官兵衛であった。

だから功労のわりに、軍師は禄がすくないのだと皆、得心した。

さてさて、で、直言のものがいま一人いた。政治顧問のような存在でもあった、千利休(宗易)そのひとである。

かれが発してきた、年月をおうごとに辛辣さを増す諫言に影の、ついに堪忍袋の緒がきれたのだろう、

既述したようにけっか、切腹の刑に処せられてしまったのである。ただし、いいわたされた罪名がなんであったかは、いまだナゾのままだ。おもうに、朝鮮出兵に異を唱えつづけたからではなかったか。

ところで利休は、堺(以前は自衛力と、傭兵をしたがえた武力をもつ自治都市だったが、信長と秀吉により、その機構は解体させられていた)における会合(えごう)衆(かいごうしゅうとの別称あり)とよばれた商人で、このとき、武力をもたない文化人でしかなかった。

影は、いわば素手の利休だから、躊躇せず切腹をめいじたのである。利休を因とする火の粉が飛びちったとしても、天下人には、やけどを負う心配などなかったからだ。

だが、当然の疑問がのこる。突然のこの理不尽としかみえないナゾの切腹命令を、なぜ拒否しなかったのか、である。

憶測するに、家族に難がおよぶのを避けるためではなかったか。自刃しなければ、子らを処刑すると影が脅したからではないかと、ボクは見る。

これで一応の辻褄ならば合うだろうし、判然とはしないまでも、“それならありうるなあ”ていどの納得であるならば可能だとおもう。

 それはそれとして、糟糠の妻(だった)ねねはどうしたであろう。傍若無人なやり口にたいし、傍観していただろうか?と問わずにはおれない。

いやいや、かのじょはことに、秀次助命に奔走しなかったとはかんがえにくい。

しかし影とは、むろん夫婦ではない。というよりはっきり言って、縁の稀薄な、否、まったくの他人と互いにおもっていたはずだ。

ただただ、うるさい婆あだと、謁見すら拒絶しつづけたのだった。かわいい淀のそばこそ、居心地がよかったにちがいない。

 でもって、露呈させた地そのままの暴君となった影である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(65)

 羽柴秀吉は、こうして、越前府中城内にて露と落ち(影武者による、辞世にあるように)消えたのである。

跡をうけた秀吉の影武者は、秀長や官兵衛たちの画策が功をそうし、抗うもののすくないなか、時流にのりやがては天下をとるのだが、途上、増大していく権力をば、おのがほしいまま,しかも奢(おご)りもあってか、次第しだいに本性を露わにしていくのだった。

それもある意味、致しかたなきことだったのかもしれない。

登りつめるに、過程や経緯において、人にはいえないほどの辛酸や汗血にまみれた思いが、通常ならばあってこそなのだが、影武者には、ほぼなかった。

所詮は、時流にのっかっての、天下人であった。秀長や官兵衛をはじむ家臣たちがつくってくれた状況のうえに、胡坐をかいていたにすぎない。戦って勝ちとったという裏うちがないのだ、つい先日まで農作業をしていた身の、血闘とは関係のうすい“影”には。

だから、後年の無茶苦茶な悪行・蛮行を、迷うことなくできたのである。

卑近な例になるが、詐欺師の、金銭のつかい方がまさにそうだ。苦汁をなめていないぶん、ばくちや異性にたいし乱用しても平気、まるで湯水のように浪費ができる。豊田商事事件の永野一男はその典型である。

常軌を逸した濫用、それは、惜しむきもちが欠落しているからだ。

流した汗や涙の対価としての収入ならば、ひとは、そんなバカはしないし、いや、できるはずもない。

つまるところ、影の行状は“悪銭身につかず”、簡単に手にいれたものは簡単に使い切ってしまってなにも残らない、とのことわざどおりであった。

でもって、後年の悪虐も、天下平定に心血をそそいだ歴史が影にはない、だからである。

もっといえば、労苦のはての天下ではなかったからこそ、けっか、豊家の滅亡をまねいたのである。

ところで、漸次(しだいに)あらわになったのだった、理性の欠如した本性が。あわれ、その魔性に、日・月・年を追うごとじょじょに残虐性もが加わってゆき、やがて棚ぼたの天下人は、殺人鬼と化すのである。

いきつく果て、朝鮮半島に死人の山をきずいていくのだった.

そしてこの影武者も慶長三年(1598年)八月十八日、満五歳になったばかりでゆくすえ、かぎりなく不安な愛息秀頼をのこし、懼(恐れ)れおののきの心を患(患って)わせつつ、身悶えながら死んでしまうのだ。

で、このおとこが不幸なのは、越前府中城での椿事のせいで余儀なくされた、代替わりの当初ではなく、跡継ぎとなる子息が、かれの晩年に誕生したこと、くわえて、秀長が天正十九年(1591年)の一月に世を去ってしまったこと、のふたつである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(64)

而(しこう)してこの終日、秀長はじつに冷静かつ忍耐づよく、ことにあたっていた。

しかし、かれが非情だったからでは、決してない。肉親ならではの情が発する悲嘆や苦衷、いかんともしがたい無念を、胸奥にムリに押しこめていただけであった。

ありうべからざる波乱は天のいたずらであろうか、いな、そんなことをかんがえる暇(いとま)もなかった。最良とおもえる善後策をひねり出すべく、ひたすら没頭していたまでである。

唐突に、羽柴家の命運を一身にてになう立場となったため、じぶんをおし殺していたにすぎなかったのだ。

しかしやがてのこと、激情が雷雲のごとく現れるのである。

主の野望をかなえるために、無理やり抑えこんでいた肉親としての情愛が、けっしておおきくはない身体のなかを奔流のごとくに暴れだし、しかも払暁まで、おさまることはなかった。

内外の難事を万事とり仕切りおえ、ほのかな灯(ともしび)がかすかにゆれる薄明かりにたたずむなか、たった独りになったとき、羽柴家でいちばん強固な支柱としての、また秀吉の名代としての羽柴秀長から、ようやくひとりの人間、はだかの小一郎に、戻ることができたのだった。

兄という存在、それをはるかにこえた頂きであった秀吉の面影を知らずしらず思いうかべつつ、涙にくれる、どころではなく、気がふれたかのように野辺を、こぶしが痛くなるのも感じずにたたきつづけ、身悶えしながらただただ号泣したのであった、弟、素の小一郎として…。

 いや、それでは正確でない。じつは、縁のうすかった父親に成りかわる存在、つまりは敬愛する家長とひたすら慕いつつ。

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