さてその、前関白豊臣秀次一族惨殺の歴史的意味あいを史家は、まちがいなく、豊臣政権の屋台骨をよわらせる愚行であったと。
そのうえでおもう。本物の秀吉であったれば、つまり、聡明でこれほど先をよめる人物ならばまず、姉(日秀)の子という数すくない血縁者をころす愚をせず、それでいて、秀吉自身がえらんだ後継者からははずす方法をとったにちがいないと云々。
なんといっても、肉親なのだ。また赤子のころから面倒をみてきた、妻の甥でもある。
その秀次は武にも智においても、たしかに、一級品との評価はさすがにお世辞にも。
だからこそ、じぶんの死後において、秀頼との権力抗争にならないようにすればよいだけのこと。太閤秀吉ならば、それだけの権力はむろんのこと、知恵もあったはずだ。しかも、さほど難しい手だてはいらない。
秀次が野望をいだけないていどにかれの領地を減封し、やがては天下をうかがうであろう徳川領のちかく、その西側(たとえば現静岡県の沼津あたり)に移封すれば、そして太閤の息のかかった誠実な譜代大名を三人ほど、その周辺に移封しつつそなえておけば、豊臣政権存続の完璧な布石となったにちがいない。
それでも心配ならば、秀次の側近をまずは全員放逐させ、そのかわりとなる有能な家臣を家老として数人、大坂から送りこみ監視役としてかためておけば、もはや秀次には、拾丸(ひろいまる)(のちの秀頼)をまもることで生きていくしか、方途がなくなるではないか。
しかし影武者には、一族をまもろうとの情愛など、かけらもなかった。血肉は羽柴でも、そだちも心も別で生きつづけてきた“他人”であった。だから、秀次とその眷属(けんぞく)もろとも、かんたん無慈悲に惨殺できたのだ。
さらにだが、無謀なくわだてであった朝鮮出兵などしていなければ、ほぼまちがいなく、関ヶ原の合戦はおこらなかった、そう断言してもよい。
既述したとおり、朝鮮出兵が原因で、石田三成らの文治派と加藤・福島ら武断派間に、ぬきさしならぬ軋轢が生じたのだから。
つまり影が、国内平定で満足していれば、両者の対立が激化する理由もなかったわけで、そうなれば天下をわけた戦乱は、日本史上にその名をのこすことなく、家康は野望をもったまま、無聊として手をこまねいているしかなかったはず、だった。
関ヶ原の合戦というのは、くどいが、外地で命をかけた武断派と内地で後方支援にあたった文治派(小西行長は出兵の軍に加わっていたが)の、あくまでも豊臣政権における内部間抗争に、その因があるのだ。
ということは、大和など百十万石の大大名になっていた秀長が、かりに十七世紀初頭まで健在であったならば、豊臣政権内部の抗争を、そうなる以前にふせいだであろう。
立場からもかれにはそれくらいの力量はあったし、睨みをきかせる重みもじゅうぶんに備えていた。また抗争は、家康を利するだけだとかれらに、説くこともできたにちがいない。
いや、それ以前に、朝鮮出兵という暴挙をさせないか、はじまっても初期段階でやめさせたはずだ。大義も名分も、というより必要性のまったくない愚行なのだからと。
とにもかくにも影秀吉への説諭として、かく。朝鮮の対応が横柄だと激怒するのは、それ自体がまちがいであり、出兵の理由にはならないと云々。そのうえで、これを理解させる能力も、秀長ならばあったであろう。
さらには、「中華思想をもといとする明国は強大で国土も広大、李王朝はその属国なのだから、殿下の命令を無視し、明にのみ服従するのは当たりまえ」として、官兵衛とであれば納得させることもできたはずだ。
それでもどうしても領土を拡大したいと、影がごねるのであれば、蝦夷地を占領させるという手もあった。
影の口をとおして、徳川軍中心で兵馬をすすめるよう家康にむけ厳命させればよく、ならば徳川家としてはのらりくらりで時間をかせぐだろうし、そのうちに、影の寿命はつきるであろうと。
そうなれば、攻めるほうも攻められるほうも被害は最小限ですむわけで、影の死でこれにて一件落着と、まあるく収まったにちがいない。
とはいうものの、これもしつこいようだが、歴史に“もしも”という仮定は非現実であり、バーチャルでしかないのだ。