秀長は、逝去の一年前から居城にて病床にふせていたのだが、やがて泉下へ。
これを機に影武者の、ぬきさしならない極悪非道、なかでも、関白秀次一族惨殺にはじまり朝鮮出兵におわる、ゆるしがたい悪逆無道があらわとなっていくのだった。
しかしその惨虐をとめる秀長を、のぞむべきもない。
たしかに、影武者政権のもうひとりの立役者である官兵衛は、まだそばにて仕えていた。
だが、しょせんは家臣の身である。天下人だと、そう“日の本”が認知したこのおとこの残虐を、とめることなどできるはずなかった。
これにおいて、官兵衛に非はない。
いやむしろ、つねに正論でなす諫言が皮膚に沁みこむ、は言うにおよばず、影の胃の腑にまでも到達していたのである。
だからこそ影には、鋭利で明智(めいち)な頭脳をもつ有能な官兵衛がしだいに疎ましくなっていった。耳をふさぐだけでよしとは、愚物ゆえにしなかった。目障りと、論客を遠ざける道をえらんだのである。(側近からはずされたのも史実)
ただし、粛清はさすがにむずかしいと。武にも智にもたけた人物なのだ、相手は。
不測の事態をまねくかもしれないと、能のない影武者といえどもそれを案じた。
戦上手の嫡男長政はむろんのこと、ほかにも敵をつくりすぎる事態をうむことになる、くらいは、愚者でもわかったからだ。
いや、また、智者を必要とする時がくるかもしれないとも。殺すには、不利がおおすぎるのだと、影はそれなりに考えた。
ここに、ひとつの逸話がある。
天下をうばいうる人物はだれかと、影が座興でとうたのだ。家康、利家、政宗、と家臣たちがくちぐちに。それを否定し、即答した名が、官兵衛であった。
だから功労のわりに、軍師は禄がすくないのだと皆、得心した。
さてさて、で、直言のものがいま一人いた。政治顧問のような存在でもあった、千利休(宗易)そのひとである。
かれが発してきた、年月をおうごとに辛辣さを増す諫言に影の、ついに堪忍袋の緒がきれたのだろう、
既述したようにけっか、切腹の刑に処せられてしまったのである。ただし、いいわたされた罪名がなんであったかは、いまだナゾのままだ。おもうに、朝鮮出兵に異を唱えつづけたからではなかったか。
ところで利休は、堺(以前は自衛力と、傭兵をしたがえた武力をもつ自治都市だったが、信長と秀吉により、その機構は解体させられていた)における会合(えごう)衆(かいごうしゅうとの別称あり)とよばれた商人で、このとき、武力をもたない文化人でしかなかった。
影は、いわば素手の利休だから、躊躇せず切腹をめいじたのである。利休を因とする火の粉が飛びちったとしても、天下人には、やけどを負う心配などなかったからだ。
だが、当然の疑問がのこる。突然のこの理不尽としかみえないナゾの切腹命令を、なぜ拒否しなかったのか、である。
憶測するに、家族に難がおよぶのを避けるためではなかったか。自刃しなければ、子らを処刑すると影が脅したからではないかと、ボクは見る。
これで一応の辻褄ならば合うだろうし、判然とはしないまでも、“それならありうるなあ”ていどの納得であるならば可能だとおもう。
それはそれとして、糟糠の妻(だった)ねねはどうしたであろう。傍若無人なやり口にたいし、傍観していただろうか?と問わずにはおれない。
いやいや、かのじょはことに、秀次助命に奔走しなかったとはかんがえにくい。
しかし影とは、むろん夫婦ではない。というよりはっきり言って、縁の稀薄な、否、まったくの他人と互いにおもっていたはずだ。
ただただ、うるさい婆あだと、謁見すら拒絶しつづけたのだった。かわいい淀のそばこそ、居心地がよかったにちがいない。
でもって、露呈させた地そのままの暴君となった影である。