朝廷の威をかりて、幕府は権威回復をはたすべく、桜田門外の変直後に画策した公武合体。具体的には、孝明天皇の異母妹と将軍家茂の婚姻という政略による関係強化をなしとげる(1861年)。

それでも各藩の動揺は、おさまらなかった。そんななか開国(鎖国自体なかったとする学者もいるが)と不平等条約を因とする、攘夷論が時流となり、諸々のけっか、薩英戦争や下関戦争(英・仏・蘭・米の四カ国と長州藩の戦争)が勃発。

だが、武力の格差がおおきすぎたために敗北をきす(1863年と64年)。

こうしてハチの巣をつついた、ではすまないほどの大混乱がおこり、帰結として、列強への攘夷など画餅だったとおもい知り、尊王へと潮目がかわった。

討幕ののち天皇中心の中央集権国家をつくらなければ、日本は分断され植民地化するとの危機感が横溢。そして1866年、薩長同盟が成立するといっきに討幕へとのながれが。

この機運のなかの1867年、唐突にも大政奉還(徳川幕府の終焉)が宣言される。だがこれには、将軍慶喜による奇想天外のたくらみがあったと、司馬遼太郎氏も。新政府には行政能力が欠如しており、けっか、王政復古を断念するはずだと。

しかしながら慶喜のおもわくは 画餅と化した。

いじょう、桜田門外の変以降、七年と数カ月で大政奉還、というふうに時間の経過につれ加速していったのである。

そうしてだが、桜田門外の変の目撃者にかぎらず、日本人のほぼ全員が激動の巨大な潮流に巻きこまれ冷静をかいていった、まるで“ええじゃないか(大政奉還前後の社会現象)”の狂喜乱舞にのみこまれでもしたかのように。

つまり体制の変革に七年以上がついやされ、さらには維新後、既述した混乱と内乱(佐賀の乱や西南戦争など)をへて、そんな多大な流血からの学びもあったればの国家体制の確立。

というように、過去として認識できる平常心があってこそ、歴史として掌握できる、ということである。

 あ、忘れてはいけない世界的大事件が、はるかかなたの欧州でおきていた。それはたかが十数年前のできごとである