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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(83)

察せられるはまず、豊臣の主秀吉と豊臣至上主義者の三成への、遺恨なればこそと。もしそうならば忘恩であり、かつ意趣返しにいたっては、幼稚そのものとしかいいようがないが。

さらには、叔母であり育ての母でもあるねね(高台院)が、糟糠の妻として藤吉郎時代からともに苦労して造りあげてきた豊家。それを掠(かす)めつつ牛耳った淀(茶々、信長のめいにあたる)をゆるせず、金吾(秀秋の官職名)や虎之助(清正の幼名)、市松(正則)たち子飼いの武将にむけ、「家康殿にお味方するべし」とそそのかしたため、との説も…。通説として、有名である。

なるほど、単なる説にすぎない。だが大作家である司馬遼太郎が、これを拠(よ)るべに執筆をしている。だからではないが、ありえない暴説だと、無視まではできないだろう。

ちなみに、家康に親近してはいなかったとする異説もむろんある。それは一次史料(当事者がその時々にしるした文書など。ただし、かならずしも信頼性と直結はしないが)とされる“梵舜日記”、および関ヶ原前後の、高台院とその側近の言動にも拠るのだが、詳細は、長くなるので省く。

ただしこの説に拠ると、淀との確執はなかったらしいとなる。

さて、北政所と淀が不仲だったのかそうではなかったのかだが、どちらともとれると言っておこう。ふたりの関係性をしめす信頼にたる文献を、みつけることが困難だからである。

どちらのばあいであれ、武闘派武将らを幼少のころより親身以上に育てていたねねを冷遇すれば、徳川のほうこそ血まみれになるであろうと、家康はかんがえたに違いない。

また、高台院と徳川との関係だが、いぜんは人質の立場として大坂城にて居住した秀忠を、北政所は手厚く遇していた。過去のそんな恩義に報いるため、二代目は物心両面で大切にあつかっている。

ちなみにだが、信長からの厚遇をうけた宣教師ルイス・フロイスは日本史のなかで、「依頼したことに応じてくれる北政所」だとして、“女王”としるしている。だとしても、秀吉存命までの権力であったとみるべきだろうが。

いずれにしろ問題なのは、秀吉没後の、正室と側室の関係性としたが、豊家にとってそれ以上に問題なのは、豊臣を、高台院が死ぬ気で護ろうとまではしていないさまだ。ボクには、そうとしか見えない。

「自分の目の黒いうちはなんとしてでも」との執念があれば、清正や正則などの子飼いにたいし、徳川に加担しないよう必死で説いたであろう。

「嫌悪する三成側に付きなさいはムリ」と承知しているが、しかしせめて、「天下分け目の戦が傍観しなさい」と説得することはできたはず。

それとも家康の、この美学のかけらもない古ダヌキの魂胆が見えなかったのか?

いや、そうはおもえない。戦国時代の女性のなかで、随一の器量だったとの史家の評価に、まちがいはないと見る。

だからこそ、周囲の反対をおしきって、どこの馬の骨ともしれぬしかもブ男と夫婦となり、紆余曲折のすえ、縁の下でついには、天下人へとおしあげる、その支え以上の存在となれたのだ。

糟糠の妻の代表である。この名にあたいする女性が、史上、ほかにいるだろうか。もし欠けること一つあるとすれば、二人で子をなせなかった、くらいだ。

それほどの女性なのだ、とは、穿ちすぎであろうか。

だとしても確信をもっていえるのは、下級といわれている身から、偶然や運だけで、天下人の妻となれるはずもないということだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(82)

ならば浅学のまま、ボクなりに穿(うが)つとしよう。べつの理由を探りだそうというのだ、浅薄・厚顔をさらしつつ。

手始めにだが、秀秋の人物像について。ついで、背景にもふれる必要があろう。

まずは出自から。

かれはまごうことなく、豊臣の血筋である。具体的には、ねねの兄の五男として生をうけている。

そのうえで幸運なのか、環境が急変する。

本州の近畿以西をほぼ平定し、1585年には四国をも支配下においた、秀吉のその養子となったのだ、幼児のかれの、あずかり知らぬところではあったが。

さらにいえば、大坂に巨城をきずきつつ、すでに織田家筆頭からの脱却もとげて昇華し、つまり天下人へとのぼりはじめた秀吉の、その後継者となったわけである。

だが、あざなえる縄のごとし。で、

その八年後のこと、淀とのあいだに実子秀頼が誕生したことにより、いとも簡単に破談・解消されてしまい、翌年には小早川家の養子へと。いうまでもないこと、家臣へと格をさげられたのである。

だけでなく、このあとにおきた出来事なのだが、十四歳で所領を没収されるはめに。しかしながら原因を一言でいうとなれば、分家として、わきが甘かったからであろうと。

さらにはその三年後のこと、養父隆景の隠居により譲りうけていた領地三十万石余においても、こんどは転封のうえ、十五万石に減封という憂き目にあうのである。

だからというべきか、苦労しらずのボンボン育ち秀秋を観察するに、恩をわすれて秀吉を憎んでいたであろうと。ついでの推測なのだが、遺恨をはらす機会をねらっていたところへ、“関ケ原”という好機が到来したとおそらく。

しかしそのまえに、ひとつ説明をしておく必要のある事項が。

慶長の役における総大将としての戦ぶりを、石田治部少輔が非難した(くわうるに忠臣として、長浜城主時代からつかえている秀吉へ、「大将の器にあらず」とそう進言したもよう)ことも、背景にはあったと文献に。

進言の大将の器にあらずとは、槍をふるって、敵陣にて戦闘したことをさしている。

で、三成にたいしても、私怨をいだいていたようだ。

ちなみに進言の動機だが、たんなる武人のごとき振舞いで参戦した軽挙妄動、まさに総大将にあるまじき愚行であり、豊家のためにならずとかんがえてのよし。けっして、讒言がその目的ではなかった。

一万歩ゆずって、秀秋にも言い分や弁明もあろう。

だとしても、やはり青さというべきか。かりに総大将が討ち死にともなれば、士気への悪影響は計りしれない。ぎゃくに敵陣の奮戦ぶりたるや、いや増すのである。

こんな当たり前すぎることを、いくら初陣のボンボンとはいえ、知らなかったでは済まされない。

このていどの愚昧だから、のちのことだが家康の誘いにのり、また、家臣たち数人の甘言もあり、加担、つまりは豊家を裏切ってしまったのである。

くわえてのべつの理由。秀吉の死後(関ケ原の二年まえ)のことであるが、減封と転封があらためられ復領されたのだ。

なるほどそれを、大老の家康が便宜をはかってくれたおかげとおもったようである。それで領地回復にたいし、家康に恩義をかんじたのかもしれない。

だがじつは秀吉の、事前の遺命によっただけなのだ…。

ただ以下は、証拠があるわけではないが、家康がその成果を偽装した可能性もあるのではと。なにせ謀略を、くらい灯火のもと、古ダヌキが謀臣の本多正信と密談し、あげくのこと、実行可能にまで練りあげる、なんつ~のはこの二人の、得意中の得意とするところだからである。

 だとしても、「それでもなぜ裏切りを?」の疑念は、いぜんとしてのこっている。

秀吉死後における家康の傍若無人ぶり(法度破りなどを、前田利家や三成が非難・糾弾している文献が現存)は、目にあまったはずだ。

 天下をねらっているからこそ、敵味方を識別するためにも、必然のゴリ押し法度破りをしたのだ、家康は。

だけではなく、もちろん味方をつのるための、檄文の意味あいもあり、じじつ有力外様大大名とのあらたな姻戚関係は、天下盗りにはかかせないと強行したのだった。

そんな政略結婚をあげると、以下のとおりである。

清正と正則や黒田長政(官兵衛の嫡男)らは家康の養女を継室(後妻)に。山内忠義(土佐藩二代藩主)は家康の養女を正室に、伊達忠宗(仙台藩二代藩主)は秀忠の養女を正室に、などなど。ちなみに後者の政略結婚は、秀秋の死後のことではあるが。

 このていどのあからさまな禁じ手すらも見抜けなかった、とすれば若かったとはいえ、やはりバカだった、となる。

それはおくとしても本来は、豊臣の血統をうけつぐ秀秋が、自身の血をうらぎった、そのおそらくの理由とは?

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(81)

現代でも似た構図として、秘書や部下が自殺することで疑獄事件は暗中へと。 “トカゲのしっぽ切り”との報道にて幾度となく、くやしいが、世間はその耳目にふれてきたとおりである。

それにしても秀秋の死において、打つ手はあったはずなのに、けっかは唐突に…そうみえるではないか。ならば、家臣団の無為無策もひとつの因といえるようだが。

ところがさにては候らわずで、じつは無為でも無策でもなかったのである。決して放任してはいなかったということだ。

文献を紐解くとわかるじじつ。それは必死の家臣たちのうち、杉原重政や松野重元、稲葉正成、滝川出雲などが諫言をし、そのせいで重政は上意討ちにより死を賜っている。それを知ったすくなくともほかの三者は“乱心の主君に仕えること、なりがたし”とて、出奔してしまったのだ。後年、復帰をしたものもいるが。

十重二十重(とえはたえ)の諫言を浴びていた秀秋。本来ならば反省し諫言をうけいれるべきだった。

にもかかわらず、主の命により重政は“死”をこうむった。

となれば、もはや正気をうしなっていたと、そうみるのが、客観的に自然である。

で、いわく。肝硬変が悪化したのだろうし、ならば、判断能力を劣化させる“肝性脳症”をも併発していたとおそらく。現代の医師ならばそんな診断を。

西軍をうらぎって大谷刑部の陣をうしろから攻めたのは、肝性脳症が原因だとする説もけだし。

ただし、ボクは首肯しない。肝硬変の悪化と肝性脳症がじじつならば、それなりの文献が残っていないのはおかしいからだ。

医師にすればじぶんが無能や無責任でないことをしめす必要があり、よって、二年前の二度目の診察以降も秀秋が暴飲を継続したのは、それは“自己責任”だと突きはなすか、すくなくとも“例をみない急変による突然死“と、後日しるすが、得策だったであろう。

ともかく、悪化は忠告を無視したからであり、また、それが事実でしょうと責任の所在を明記しつつ、証拠としてのこしておくにしくはない。

いっぽう重臣にすれば、上意討ちの前後に良策を乞う書簡をだしていたはずだし、名医にとっても、大大名の病状悪化はじぶんへの世評に悪影響をもたらす由々しき事態にちがいない。

往復書簡などで献策をしていた、いやしなかったはずがないと、ボクはみる。

ところが現存していない。だったらそんな書簡など、もともとなかったからだろうと云々。

よって、肝性脳症どころか、肝硬変の悪化すらもなかったと。ボクはそちら側に立つ。

さ~て、ここまでのわが浅識と愚論に終止符をうつべく、水戸黄門の“印籠”ではないが、ようやくここでボクなりの、変死説の決定打をうとうとおもう。

死の三日前のことである。秀秋はなんと、鷹狩りをしていたのだ!

かなりの運動であり、瀕死の病人には、とてもじゃあないがムリ。元気なひとにもハードだという。ボクには経験はないが、じじつそうらしい。獲物をとらえるべく飛翔する鷹をおい、馬上にて山野をかけめぐるのだから。

くわうるに鷹狩りは、家康が推奨したように、合戦のための訓練でもあったのだ。

“鷹狩りは訓練”、これはなにを意味するであろう。

すくなくとも病は改善されていた、が自然な憶測である。まして肝性脳症説など、いかがなものか。

ならばなぜおきたのだ、いうまでもないが、突然死が。

でもっての、さらなる不可思議。変死の疑惑をつよくせざるをえない取り潰しの、その理由がまさに、それなのだ。

江戸初期、ちなみに小早川家断絶はそれより一年以上まえながら、徳川家による初の処断であり、これを前例として、以降、無嗣断絶という処断はなんども下されている。

だがいっぽうで、取り潰されていない大名もあったのだ。

広島の浅野本家(あとにのべる浅野幸長の死後のできごとで、じつはこの当時は国替えまえにあたり、和歌山の城主であった)や米沢の上杉家(1664年、嫡子も養子もいないまま当主が急死するなど、なぜか、男系断絶傾向がある大名だ。ところでこのとき養子となったのが有名な吉良上野介の子息であり、また後年のはなしだが、ケネディ大統領が称賛した治憲=鷹山も、秋月家からの養子である)など、いくつかあるというじじつ。

しかも上杉家は、重臣の直江兼続と三成とが蜜月関係にあったことにより、関ケ原の前夜、家康を討とうとしたという過去に重大な来歴があった。またいっぽうの幸長は、豊家を守ろうとした人物だ。

にもかかわらず、それでも改易されなかったのである。

とりなしてくれる有力大名がいたからではあるのだが。ただし上杉家は、三十万から十八万石へとの大幅な減封処分をうけてはいる。

となると、小早川家にたいする理由だが、まったくもって薄弱となる。

家康や徳川家に、最大級の利をもたらしたことは周知のじじつであり、ぎゃくに加害したという事実などないのだから。

さにては候わずの、無嗣除封。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(80)

宗永はもともと秀吉の家臣で、しかも目付け役でもあるから、つよい立場にいた。“物言う”家臣いじょうの存在であり、秀秋からすればスーパー“目のうえの瘤”だったということだ。

またほかの家臣にとっても、(1603年、家康が征夷大将軍となり徳川政権が確立する、まだ三年ちかく前であり、くわえて豊臣家はもとより健在であった。だから徳川に面従する必要性を、どこまでかんじていたかは疑問だ)流血をともなうがごときお家騒動がおこったとして(じじつ、秀秋の命により重臣が上意討ちされている)、それよりもお世継ぎ不在のほうが、よほど深刻だったにちがいない。

理由ならふたつある。

他家のはなしだが、後継者をきめないまま謙信が病死してのまもなく、有力戦国大名である上杉家で、家督相続をめぐり内乱(1578年御館の乱)が勃発したのだ。

現在とちがい、情報の質量ともにとぼしい時代にもかかわらずそれでも、家を二分し流血に流血をかさねた大事件として、二十年以上たった当時も世間の記憶にあたらしいからである。

でもって、肝心の小早川家。当家は、二代つづけて他家からの養子により家を存続させてきたのである。まさに、異常事態そのものだ。

本来の血筋は、すでに途切れてしまっている。ならばしかたなきことだと、現当主の血流でいいから、それを継続させねばならないと。つまりはお世継ぎづくりこそが当面の、そしてこのうえなき命題だったのだ。

さらには、まだこの時期だからこそ、小早川家を固める必要があった。ゆえに、頼りなげな若当主が酒浸りのままで、いいわけがなかった。

 情勢からもあきらかだ。前当主の隆景ならば、お家を任せられる優れた武将であったが、いつ、おおきな戦が勃発し、それに巻きこまれるかわからない日々が続いている。天下は、いまだ不安定なのだ。

たしかに関ケ原において、家康はかれに敵対する勢力には大いなる勝利をした。だが天下人としての、不確定要素はまだけっしてすくなくないのである。

資金や領地、さらには恩顧の大名の数においても遜色ない豊家の存在が第一だ。南北朝時代を例にするまでもなく、世に二君は、災いのもととなるのだから。

ついでいえば、北から京(=天下)をのぞむ伊達家とてブキミな存在だ。また、南にて強兵をほこる薩摩も、徳川の軍門にくだったとまではいいきれない。関が原において“島津の退き口”とよばれる敵中突破により、たしかに、島津豊久をはじめ優秀な人材をおおく失ってはいるが。

それと、黒田如水だ。天下をとる力量を有する人物ならば“孝高こそ”と、秀吉が家臣にかたったとする逸話は別としても、関ヶ原での戦が長期化していればその隙に、九州を平らげ中国地方にも攻め入るつもりだったとの旨をしるした手紙がのこっており、じじつ、版図をひろげる戦をおこしている。

よって、明日、どんな戦乱にまみれるかしれないそんな危なげな天下…、というより、いまだ乱世の真っ只なかなのだ。

だからこそどんな状況に陥ろうとも、つまりは天下の趨勢などよりも、大名の家臣にとっては一にも二にも、主家の存続と安泰が第一なのである。

にもかかわらず他家からきたこの不出来な養子は、秀吉の死後、箍(たが)がはずれたがごとく過剰な飲酒をつづけたようだ。食欲不振や高熱、嘔吐、黄疸(重篤化?)などを発症したと、文献「医学天正記」には、時をおいての悪化をしめす記述がある。

この、二度目の診察をうけたその所見からも、極楽とんぼぶりを読みとることができるのだ。

曲直瀬玄朔はだからこそ再診のけっかから、飲酒をさせないよう家老たちに進言しなかった、はずがない。名医でなくとも疾病の原因をとりのぞく、それが務めだからである。ましてやかれは、歴史にその名を遺すほどなのだ。

そうとなれば方途に万全をつくすが、先々代や先代からの家臣たちの、まさに責務であった。まだまだ戦国の世なればこそ、断酒療法として、座敷牢に押しこむというような荒療治も、たとえばその一手であった。

完治させたあとで、主君の意にはんした咎の責めとして家老が切腹すれば、お家の存続が第一の時代だから、それですむのである。むろん、その重臣の家の存続をもはかりつつの。

だがはたして、文字どおりのそんな滅私奉公の奇特人がいるのだろうか?

答えならば、あにはからんや、ひとりやふたりにあらずと。

主家をまもるために切腹した例としてでも、秀吉による備中高松城水攻めのさいの、城主清水宗治の殉死(既述)はそのひとつとできる。既述したが、ほかにも千利休・豊臣秀次も秀吉の命に従ったとはいえ、あえていえば主家のために切腹や自刃をしている。本音はむろん、自家や家族を守るためであったが。

ただ、秀次が犬死におわったのは、お気の毒に…、ではすまない話しだが。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(79)

慶長の役において秀秋は総大将として、秀吉の命により十六歳(1597年)で駆りだされている。ちなみに本格的な初陣としては、けっして早くはない。

でもって、清正や正則などの名だたる歴戦の猛将が連日たたかっている、まさに修羅の日々であった。

だからだろうか、たしかにかれも、槍を手に敵を十数人、討ち果たしている。総大将だったにもかかわらず。

そんなさなかにおいて、立場上、夜ごと、酒をあびられたであろうか?夜があければ、戦闘がまっている。二日酔いなどゆるされないのだ。

それでもかりに乱行があったとしてだが、じつは、補佐すべき付家老としての山口宗永がそばにつかえていたのである。強諫しなかったはずがない。なぜならば宗永は、天下人秀吉がつかわした目付け役だったからだ。

いじょうの理由により、不本意ながらも飲めない日すくなからずであったろうし、自然、いわゆる休肝日をもうけざるをえなかった、にちがいないと。むろん、ときおりの酒宴にうち興じた日もあったとはおもうが。

以上は想像の域だが、まちがいないことが一つ。何といっても敵地だということ。八方が敵というなかでの兵站を考慮にいれると、食料や武器弾薬、医薬品の補給こそが最優先となり、憶測ではあるが、二の次の酒を入手できない日がつづくこともあったはずだと…。

そうだとしたら秀秋のばあい飲酒歴にかんがみ、代償性(ていどの軽い)肝硬変だったのではとも想像できる。

よって相応の肝臓疾患だったとしても、それが死因(だとする医学者もいるが)とはかんがえにくいのだ。

推量をかさねる・

ならば“唐突な”死だったと、いえるのではないか?

いずれにしろ、いわくありげな変死とみるべきであろう。

現代であれば死因究明のため、“行政解剖”がなされるべき異常死だと。さりながら、問題の死体についてはその地域が岡山(関ケ原後の論功行賞で岡山城主に)なので、政令がさだめる“狭義”の行政解剖は、監察医制度がないため不可ではあるが…。いやはや、これは座興の余談である。

ところで、度をこえた飲酒が原因で“病にいたる”ことは、中世十六世紀末(このおとこの飲酒癖を確認できた時期)、未発達の医学とはいえど、それでも当時からしられていた。

そんななかでしかも秀秋とて、世継ぎをもうけねばならない立場の主君であった。サケに狂って伽(直截表現すると、子作りのこと)をおろそかにするは、それ自体、家臣にたいする背信となる。

諫言を軽んじたうえで、伽という義務の不履行がたび重なるようならば、いまだ戦火の臭いがくすぶる時代(家康健在時の大坂の役、あるいは三代家光統治時の島原の乱までを戦国時代とする説もある)ゆえに、極論のようだが、秀秋はしょせん養子でしかなく、義父はむろんのこと、主筋である毛利家始祖の元就の血流でもない主君であり、よって道義的にみても、そのすげ替えやさらにいえば、下克上すらもまだ不可能ではなかったはずと云々。

というのも、秀吉が制定した惣無事令(私闘、とくに大名間の)は有名無実化(関ヶ原の戦いはまさに)しており、家康による武家諸法度はいまだ制定されていない、そんな端境期であったのだから。

ちなみに下克上においては、成りあがりの“蝮(まむし)の(斎藤)道三”はその常習犯として、ついに国盗りまでなしとげており、ことに有名である。

流れをもどすとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(78)

ちなみに曲直瀬玄朔は、重篤だったり危篤状態となったふたりの天皇や重病の毛利輝元(元就の孫)を完治させるなど、名医の誉れたかい漢方医であり、秀吉や徳川秀忠などからも重用されていた。

ところで病因は秀秋の飲酒癖によるのだが、叔母であり秀吉の正室でもあるねねの、頭痛のタネであったとも。

悪癖は、ねねが養育していた時期(1585年から約九年間)からであろうし、だとしたら、今日ではかんがえられないことだが、満で十一歳前後より酒浸りであったことになる(生誕は1582年で、小早川家の養子となったのは1594年。ただし、飲酒開始年齢はあくまでも推測)。

なるほど、たしかに若すぎる肝臓は、アルコールを分解するに臓器自体の大きさもふくめ、成育度においてまだ不充分である。ゆえに負担はかなりだ。そのぶん肝臓を痛めてしまい、疾患の因ともなろう。

大正十一年にいたり、二十歳未満の飲酒を法令で禁止(非行防止のためでもあった)するのだが、その医学的根拠をここにもとめているようである。

“よう”、と表現したのはあたり前のことで、個人差があるからだ。また昭和期までは、高校卒業後であれば飲酒には寛大であった、暴力をふくむ犯罪行為や不健康な飲みっぷりなど、問題をおこさないかぎりにおいてだが。

ついでなので、肝機能のひとつであるアルコールの分解について、科学的な概説をさせていただく。

アルコールを分解しやがて無毒化するに必要となるのは、まずはアルコール脱水素酵素、ついで、アセトアルデヒド(アルコール分解後にできる物質で毒素の一種。二日酔いなどの因)脱水素酵素、およそこのふたつである。

でようやく、この二種類のおかげで弱酸性の無害な酢酸へと、化学的変化がなされるのだ。

そして最終的にアルコールを、水および炭酸ガスへとかえられるかは、その化学反応の速度をもふくめ、肝臓内での両酵素の量(ゼロの場合もある)によるのである。

だから人それぞれ、うけつけが可能となる飲酒量の差も、また日本人に5パーセントほど存在するとされる下戸(げこ)も、持って生まれたものなのだ。酒量において個人差があり、医師いわく、正真正銘の下戸をきたえて酒飲みにせんとのお節介は、よって傷害罪にひとしいと。

ちなみに両酵素を有しない体質は、民俗学的に日本人だけ、らしい。

脱線ついでと甘えさせてもらう。

秀秋の、血液検査をふくむデータなど当然だがあろうはずもない。ならば以下、推定するしかないのだが、まずは飲酒歴。せいぜい十年ていどであったろう。長いとはいえない。

通常、悪化の一途をたどる非代償性、つまりは不可逆的肝硬変にいたるまでには、すくなくみても十数年か、それいじょうの飲酒歴を要する。

卑近な例でもうしわけないが、ボクの祖父は十代後半から深酒を茶飯事としていたと本人。だが、還暦をむかえてもそれでも肝硬変にはならなかった。歴が四十年越え、でもだ。

つまり個人差はあるが、医学的データからみておおむね、中年以降におきる病変なのである。

なるほど秀秋は、たしかにわが祖父よりわかく、というより幼くして飲酒に耽溺(不健全にふける、おぼれる)してきたようで、そのぶん肝臓への負担はおおきかったであろうが。

さらなる余談。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(77)

この大名は桓武平氏(桓武天皇の子孫)の流れをくみ、平安時代からつづく、いわゆる名門というやつだ。でもって、桓武平氏にかんたんな注釈をするならば、代表する人物としては大河ドラマの主役ともなった平将門であり、平安末期の清盛であろう。

ところでの話、名門といえども、時のながれには抗うことができず、

そしておとずれた戦国時代真っ只なかの1540年のこと、当主小早川興景は、しかけた城攻めのさなか急な発病により死亡したのである。だけなら問題はさほどではないのだが、この武将には、若かったせいか後継ぎの男子がいなかった。

となるとこのままでは最悪、お家は断絶、家臣も流浪の身という憂き目に。

さけねばと家臣団は協議をかさねた。そしてようやく、関係のふかい大名に話をもちかけることに決したのだった。つまるところ、

現中国地方の覇者、毛利元就の三男徳寿丸が乞われ、養子として、八歳で小早川家の後継者に据えられたのである。推定ではあるが十五歳で元服すると小早川隆景と称しやがて知将として、毛利家をもささえつづけたのだった。

しかし側室をもたなかったためか、かれにも実子ができず、諸般の事情により死の三年前に、二人目の養子をむかえることとなった。

それがのちの小早川秀秋(秀詮)である。そう、後世にまでもかたりつがれる、裏切り者の代名詞となった愚物だ。

ちなみに隆景は1579年、三十四歳下の異母弟をすでに養子にしていた。

さてこの、のちに秀包(かね)と名乗る(改名時は十六歳)年のはなれた弟は、有能なわかき武将として秀吉の寵愛をうけ、やがて独立大名に取りたてられたのである。

さあさあ、面白きはここからで、

こは、これこそは、歴史のイタズラとでもいうべきか。

つまり、秀吉が“良かれ”との行動をおこさなければ、豊家はながく続いたかもしれない、からだ。

換言すると、秀包がそのまま小早川家を継いでいたとすれば、くわうるに“良かれ”のぶんの加増がなされていれば、いやされていなくともだが、九分九厘、江戸が東京となることはなかったであろうと云々。

なぜ?とならば…、おそらく家康のほうの首が、三条河原に晒されていたであろうから。そうなれば、江戸が大規模な埋め立てや同様の都市整備などで、巨大化することはなかった。

えっ?唐突に、なにを意味不明なことを…、であろう。では、補足を少々。

というのも、秀吉恩顧で戦上手(戦勝の数いちじるしい)の秀包。史実では小大名として大阪城の守備についたのだが、信義の兄隆景のあと、小早川の当主として約一万五千の軍勢をもってもし参陣していたならば、関ヶ原にて、ここが秀秋とは逆なのだが、徳川軍をまっさきに蹴散らしたであろうからだ。

なにせ秀包は、恩義を重んじる情誼の人であった。

ああ、またもや過去に、“たられば”をしでかした…。

で、ボクに代わりこれいじょう仮想をつづけたい向きは、人物秀包を調べていただければ、ボクが言わんとした具体を、想像することもむずかしくはないとおもう。

ところで裏切りの件、いまはおくとして、小早川家をついだ秀秋ではあったが、かれもまた世継ぎをもうけないまま、数え二十一歳で早世してしまう。

よって1602年、無嗣(むし)(後継ぎがいない)を理由に取り潰された、とされている。“されている”との表現には、含みをもたせる意図があってのこと。それはおいおいとして、

無嗣改易のさた、家康が征夷大将軍になる一年前だというのにだ。

つまりすでに趨勢は、徳川の世だったからであろう。背景には、武力の格差が。具体的にいうと、五十万石ていどの大名が徳川家にさからえば、家臣たちまでもが壊滅させられてしまうと。

ところで若死にだが、信長の四男で数え十七歳で病死した羽柴於次秀勝(秀吉の養子になった、既述)のように病弱(既述)だった、との説はきかない。

他方、日ごろから酒量はおおかったとする説は、耳にしたことがある。それを証拠づけるような文献も、のこっている。 だけでなく医師の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が、数えで十九歳時(死の二年前)の秀秋を診察したその所見などを記録した「医学天正記」までもが存在…。いうなればカルテともいえるそれをみるに、黄疸(おうだん)が出、肝の臓は固くなっていたとのこと。なるほど、肝硬変をうたがうに足る症状だ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(76)

何やらいわくありげな死ゆえに、江戸期からのウワサ、毒殺だったとの説をとる(理由は後述する)として、おそらくは遅効性のヒ素による中毒症であったろう。

文献にある病状(高熱・不整脈・皮膚の黒色化・おそらくは意識混濁など)も、ヒ素服用後の症状とおおむね一致しているからだ。

発病後に脈をとった医師の診察(一部にある梅毒説をボクは否定する)の所見では、“しだいに病重くなり、舌不自由にして”と。言語障害は、意識混濁のせいとみてとれる。

そして死の数日前、「嫡男を守り立てよ」とのかんたんな遺言をのこしてはいるが、にもかかわらず辞世はない。清正ほどならする当然の儀式をおこたったのも、意識が混濁していたからではないか。

ちなみに秀吉の影武者も家康も、その辞世は有名だ。

また“熱を病みて卒(しゅっ)す(死亡)”との文献から、高熱がつづいたにちがいない。ほか、“脈よろしからず”とも。ヒ素中毒は低血圧を誘発し、けっか、不整脈となる。

さらには皮膚が黒く変色していた旨も【清正記】に。ヒ素中毒死だったならば末梢血管障害が原因のチアノーゼにより皮膚が、日照をひかえていたであろう病床では青紫色(チアノーゼによる変色)ではなく、黒色にみえたともかんがえられる。あるいは肝障害(これもヒ素中毒の症状)をおこしていれば、どす黒く変色してみえたとしても不思議はない。

ただ侍医の江村専斉はお抱えにもかかわらず、診察の結果をのこしていないもよう。文献が見あたらないからだ。

憶測するに、近しいからこそ後世をはばかり、故意をもって記さなかった、さらにいえばひとかどの人物とみていただけに、名誉を傷つけたくなかったのかもしれない。約ひと月、よほどの苦しみようだったとすれば、みるに忍びなかっただろうし。

というのも、ヒ素中毒がもたらす症状をあえてあげるならば、泌尿器の焼けるような痛み、精神障害、呼吸困難、肝臓をふくむ多臓器不全による嘔吐、はげしい腹痛と頭痛などである。

なるほど、恐ろしいかぎりだ。人情から、書きのこせなかったとしても不思議はない。

さて、その毒殺のやりくちとしてだが、家康いわく、京から肥後までは長旅であることもふくめ、「清正殿、なにかと気苦労もござったであろう。ならば健やかさを保つには、この薬をのむにかぎる」と勧めた…か、あるいは信頼できる家康私設の薬師(くすし)(現行の医師や薬剤師)を帯同させた、のではなかろうか。

これの傍証に値するか、御三家である水戸藩に、二条城での首脳会談ののち、だされた毒入り饅頭が原因で、清正は死んだ(趣旨)との資料が、信頼するかはその人しだいだが存在はしているのだ。

これらから、動機だけでなく、アリバイ的にも、また心証も状況証拠も、クロに近いとボクはおもう。よって家康にたいし、つよい疑惑をもたざるをえないのだ。

ぎゃくに、家康を亡き者にせんと謀ったとされる人物が複数いた。加賀藩二代当主の前田利長もそのひとりである。

これに信憑性がある理由として、浅野長政・大野治長(豊臣家の家臣)らが連座で、他藩へお預けの身という厳しい処分をうけているからだ。

その前田利長にかんしても、手段や事情はちがうが、老獪ダヌキは得意とする手をつかったのである。

利長の父で家康と同格の豊臣政権五大老のひとり、その利家が、関ヶ原の合戦の前年に死去したのだが、それで策謀が可能となった。

とはどんなやり口、いかなる理由で?

前田家が、徳川家領内に攻め入ろうとしているとの流言飛語を、家康はまず、世に撒きちらした。いわれなきの類(たぐい)である。

いっぽうの前田家は、利長の交戦派と回避派で対立。そんな困惑ぶりをみすかすと、つぎに「徳川が大名どもをしたがえ、防衛のために攻めこむ手はずをととのえている」とのウワサを、間者をつかい追加で流したのである。

利家が存命ならば、こんな茶番など粉砕したであろう。だが、戦国乱世における何でもありの、そんな謀略や暗躍に不慣れなボンボン利長は、うろたえた。

どころか、大大名の前田家にもかかわらずビビリまくった。白旗をたかく掲げるがごとく、恭順の意をあらわしたのである。到底勝ち目がないとおもったのだ。

ために母の芳春院(まつ)は、恭順の証しである人質として、江戸にくだっていった。

こうして前田家はいとも簡単に、度しがたい古ダヌキに屈したのだ。関ヶ原において、東軍につかざるをえなかったのである。

そうではあるのだが、

ただ、前田家の良心を垣間見ることもできる。利長の弟利政が、西軍に属したからだ。

おかげで改易させられたのだが。ただしこれには、べつの説もある。東西のどちらが勝っても、前田家の存続が可能となる。

また真田家も分断をしたのだが、穿(うが)つむきは、権謀術数にたけた昌幸が自己防衛をはかったのではととらえている。

ちなみに当時の当主だった真田昌幸は、弱肉強食といわれればそれまでだが、領地のことで煮え湯をのませた家康をにくんでいた。対照的に、所領を安堵してくれたのは秀吉であった。で、恩義もあり、また勝ち馬にのれるだろうと、豊家に加担したのである。

いっぽうで嫡男の信之はすでに、本多忠勝の娘で家康かあるいは秀忠の養女でもある小松姫を正室にしていた。よって、徳川につかざるをえなかった、との見方もできる。そういえば大坂の陣で豊臣に与した弟の信繁(=幸村)は、大谷刑部の娘を正室にむかえていた。

愛情のゆえか兄弟はともに、妻の実家(刑部は関が原にて自刃し、のち改易されているが)に斟酌をし、そちらについたのではとの説も。

当節では、後者とするほうが有力である。

いずれにしろだが、戦国乱世を生き抜くというのは、それほどに並大抵ではなかったということだ。

群雄割拠の大大名ですら、そのほとんどが没落したことからもわかる。

今川家、武田家、後北条家(一万石余の弱小大名に)、織田家(信長の子息が大名として生き残ったが、影響力などはみる影もない)、長宗我部家、豊臣家などがそうだ。

また、上杉家、そして毛利家や島津家も、最大だったかつての領地とは比すべくもないほどに押し込められてしまったのである。

なれど、これらはおくとして、豊臣への恩義をうらぎらせた徳川、であったにもかかわらずその後、問答無用の改易(領地没収など)を無慈悲にもおこなっている。あとでのべる福島正則は、憂き目にあったその代表格だ。

しかし、その正則より酷い目にあった大名が存在した。小早川家である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(75)

秀吉の遺徳をたたえ、慰霊と追善のための寺社造営を秀頼親子に推奨(豊家の戦費ともなりうる蓄財を大幅に減少させるのが目的)していたのだが、そのうちのひとつ、1614年、豊臣家が再建した方広寺の梵鐘に、それはかくれていたのである。

のちに“鐘銘事件”と称される、梵鐘にしるされたその一部、“国家安康”と“君臣豊楽”というたった八文字にいちゃもんを、無理やりつけることができたのだ。これが、大義名分である。

いわく、“家康”を“安”の字で分断したのは、身の切断をねがう呪詛であると。このような言いがかり的抗議をし、さらに“君臣豊楽”においては、豊臣の繁栄をねがう文言だ、ときめつけたのだ。

自家の繁栄をねがってなにが悪いのか、理解にくるしむが。

つまり難癖でしかないのだが、むろんケンカをうる口実として利用したのである。

それにしても家康、高齢のゆえに、あせっていたにちがいない。目の黒いうちに、根こそぎ消しさらねばならないと。二代目将軍にすえた秀忠では、“荷がおもすぎる”と、そう考えたのだ。

理由だが、十一年前にさかのぼらねばならない。

“天下わけめ”の開戦前夜、江戸を発したのち、別働隊として上杉勢ににらみをきかせつつ、信濃一帯を傘下におさめておいて、そののち,関ヶ原へとむかう目算であった。

初戦として、東軍側から西軍へ寝返った真田本家に、眼にもの見せんとしたのだ(第二次上田合戦)。

ニ・三日で片がつくはずだった。ところが、十倍以上の圧倒的兵力にもかかわらず、真田昌幸ひきいる約三千に手こずり、けっか、関が原に参戦できなかったのである。遅刻のせいで、東軍が敗北していたかもしれないのだ。

ちなみに、東西の陣だてをみたドイツの将は、西軍が勝ったはずと自信をもってこたえたという。

ひとえに、小早川や脇坂家・朽木家をうらぎらせた家康の周到さが、三成より数倍うえだったということだ。

それはそれであって、参陣できずの大失態のゆえに、秀忠の評価を低くしていたからだった。

長男信康亡きあとの三男秀忠(ちなみに秀吉の命名により、その一字だけでなく、豊臣姓までも付与されている)ではあったが、最悪のばあい、後継者候補からはずされる可能性すらあったとの話は有名だ。

それはいいとして、猜疑心がつよく慎重居士でもある家康のこと、秀頼への脅威をかんじたのは二条城での再会直後、ではなかっただろうとボクは思う。

いよいよ会見がせまったその段階となって、秀頼という存在にたいしなんらかの思索をしはじめた。直後かそれとも以前か、たいした違いではないだろうが、以前の可能性のほうがつよいとみるべきではないか。

それまでは徳川体制の確立に日夜、余念がないほどに家康は、忙殺されていたにちがいない。政権を手放さざるをえなかった豊家の二の舞だけは、演じまいと必死であった。

その最大の施策が、1605年の、秀忠への将軍職移譲だった。秀吉との約束を反故にし、豊臣にはけっして実権をわたさないぞと、天下にむけ檄をとばした、つまり宣言をしたからである。

しかしじつは移譲後も、実権は秀忠にはなく、家康が駿府城にてにぎっていたのだ。禁中並公家諸法度や武家諸法度の制定に代表される、いわゆる、大御所政治である。

だがそのまえに大御所政治の前段階、1603年の征夷大将軍となる以前からとりくんでいた家康の事業についてのべねばなるまい。

関東への移封後、手始めの江戸と近郊の整備がそれだ。具体的には、大規模な埋め立てや治水工事および街づくり、および範囲もひろげていった開墾や灌漑工事などである。

関ヶ原以降も巨大プロジェクトを進行させ、それと並行しつつ、以下は大御所政治であるが、李氏朝鮮との国交回復(文禄・慶長の役の戦後処理)、オランダとの交易の許可、キリスト教にたいする禁教方針の決定、御三家の確立などなど。

そして豊家ならびに、とくに西国外様大名にたいする備え、だ。関が原直後からそれはなされていった。

具体的には国がえである。井伊直政を現滋賀県北東部(彦根城築城は直政の死後)に据え、また家康の次女をめとった池田輝政には、堅牢な姫路城でもって睨みをきかせた(とくに豊家の地盤である、京・大坂を挟みこむためでもあった)、等々。

くわえて、人事や姻戚関係の構築による幕藩体制の強化等がそれだ。

どうじに、豊臣の所領を三分の一以下に減封したのである。また秀吉への追善供養のためと称し寺院の改装や構築をすすめ、蓄財を浪費させるなどの策も講じ、これで力をおとろえさせたと満足、秀頼については思慮する必要性すらかんじないまま、日々忙殺されていたのである。

そんななかで、七年ぶりの再会を機に、無視してきた秀頼という存在をこれからは注視すべしと。

最大の理由はやはり、秀頼が発していた、今でいうオーラである。くわえての、落陽まぢかと旭日の勢いという年齢の落差、鏡に映さずともわかる加齢とおとろえに、湧きいずる恐れをいだいたからであろう。

ならば、どうすべきか?と、当然ながら。で、脅威はのぞくべしと即断したのだ。

その結論だが、豊家には最悪の、清正たちによる和解のその破棄をめざすのではなく、破壊を画策したのである。豊家の完全なる消滅こそが、最大の安全策だからだ。

そしてこれも史実。世紀の会見のあとの清正だが、帰国とちゅうの船上にて発病し、約一カ月ののち、回復することなく死亡したのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(74)

ところで…、

三成は、前記のごとく悪逆非道なそんな秀吉に強諫(つよくいさめる)もしたが、いっぽうで恩義にむくい、命がけで豊臣家を護ろうとしたのだ。せっかく治まった国内に、戦火を再燃させたくなかったからでもある。

この想いが、既述したように…万民はひとりのために、ひとりは万民にむけて尽くせば太平の世がおとずれる、“大一大万大吉”という標榜となり、で、安寧への願いを紋どころとし、また旗指物としてもつかったのだが、これこそまさに、万民のためであった。

そんななか、かれの想いと人間性に、盟友の大谷刑部(ぎょうぶ)は是非もなしと肚をきめ、つき従うべく1600年、不自由な重い病身に鎧をつけたのではないだろうか。だが本音、かれは不本意であった。家康との戦争に勝てるとする本気度は、かなりひくかったからだ。

ひとえに、他者との意思疎通を不得手とする三成の、人望のなさによるとかんがえた。

目から鼻にぬける三成には、加藤清正や福島正則以下が愚物にしかみえなかったし、だから懇親の情をもてないどころか、軽侮してしまったのである。

そんな欠点を、友の三成に忠告もし諫めもしたのだった。

 いっぽう豊臣恩顧の大名で、武断派の清正と正則および黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政ら、それに藤堂高虎(秀長の元家老)や前田利長らは豊臣家にたいする恩義をかえりみず、だけでなく亡き影武者秀吉の子、秀頼のあきらかな窮地にもかかわらず、家康側に与し、関ヶ原で西軍をやぶったのである。

忘恩の、いや、恩を仇でかえした非道な人非人たちではないか。もちろん、これとはことなる論義も存在するだろうが。

たとえばその論。清正など数人は、秀頼を一大名に格下げしてでも豊臣を存続させようと願っており、だからなのだがそれを危険視した家康により、清正は毒殺されたとの説が当時からあった。しかも、語りつがれるほどに有名なのである。

というのも、大坂冬の陣の三年前、清正と浅野幸長は、秀頼と家康の和解のための会見をとりもち、豊家の安泰をはかろうとしたからだ。また正則は、秀頼の警護にあたっていたとの説もある。

天下盗りの野望をもつ家康としては、愉快な事態ではけっしてなかった。

ましてや、聡明さをかもすほどに立派に成長していた秀頼。いまでいうところの、まばゆいばかりのオーラをはなっていたのだ。

だからなのだが、この会見は歴史がしめすように、かえって仇となってしまったのである。

二十五年前、小牧長久手の戦いで野戦上手の家康は、勝者となった。にもかかわらず外交戦で苦杯をなめ、けっか、秀吉の軍門にくだることに。

そのときの屈辱がよみがえり、“秀吉の血脈をうけつぐ秀頼は脅威”と。よっていまのうちに討つべしと、決したのである。

それは、“なにかにつけ弱気”の裏返しのゆえんだ。というのも、家康の履歴書を紐解くと、けっこう“あかんたれ”だった、からにほかならない。

信長から、信康(嫡男)と築山殿(正室)殺害を命じられたときにも、それにしたがった。秀吉にも、頭があがらなかった。そういえば信玄にいどんで、三方ヶ原の戦いにて敗走するさいに、恐怖のあまり脱便している。そのときの屈辱を絵にのこしたことは、有名である。さらには本能寺の変の直後、逃走中の伊賀越えにおいて、史実、敵の追手をおそれ、逃げきれないからと自刃しようとした…エトセトラ。

くわえての最大の恐怖。豊臣恩顧の大名たちが、偉丈夫で頼もしげな秀頼に接し、秀吉への恩義がよみがえり再度の寝返りで、徳川に反旗をひるがえすかもしれないと。

ところで秀頼にたいし、二条城で会見するいぜんの家康のイメージでは、子供のままであったであろう。

なぜなら1604年、“太閤殿下七回忌法要”での再会を最後に、会っていないからだ。そのさい秀頼は満で十一歳にならんとする、まだ少年であった。

だから関が原から十数年間、豊臣氏にたいする脅威など、家康はかんじなかったのだ。

豊家からみればおかげで、存続をあやぶむまでの禍はふりかかってこなかったのである。たしかに豊家の所領が、220万石から65万石へと大幅削減されはしたが…。

ところが1611年の三月以降、満をじしての、豊臣家根絶やしの戦いに着手するのだ。二度の大坂の陣は、その総仕上げである。

しかしそのためには、開戦の大義名分がひつようであった。各藩に動員要請をかけるにたる、そのための理由である。だからこそ虎視眈々と、豊家のようすを窺うにぬかりはなかった。

そしてきっかけは、意外なところから転がりこんできたのだ。

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