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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(47)

ところで吟味をまかされた秀長だったが、兄の仇にたいする処置に言及しなかった。

前田家に、処断をまかせたのである。あえて、伝える必要はないだろうと。

まちがっても_当方にて刑に処する_ことあらば、それが生みだすけっか、想像するまでもない。よって、最悪の愚策と断じたからだった。

無念ではあるがやはり…。

恨みからかりにだ、敵兵をひとりだけ処断したとする。しかしながら、そのまえに秀吉が敵陣におもむき、いまだもって帰陣していない。それらがなにを意味するか、だれにでも想像できるとかんがえたのである。

だいいち、自陣に引きつれてくること自体、できないことであった。それほどに微妙で、そのいっぽう、おおきすぎる事態だったからだ。

敵が自軍の兵士を相手軍にさしだし、こちらも敵に自兵士をわたす、それなら交換であり、対等な交渉のけっかであろう。すくなくとも、はた目にはそう見える。

 大将どうしでどんな交渉をしたかまでは知りようもないが、最前線で、命をかけて戦っているのはじぶんたち兵士なのだ。それをウラでこそこそ、じぶんたちに不利な交渉をされては、たまったものではない、とかんがえるのは至極。公平・公正を、可能なかぎりのぞむのは当然だ、とも。

そんなこと、秀長も利家も百も承知ゆえ、いたくもない肚をさぐられないよう、ことに総大将をうしなった立場としては、最大限の努力をするしかないのである。

で、いったん退去のさいだったが、まつの到着が気配でわかった。_前田家も必死なのだ。が、内儀までとは、いかにも大儀(たいへんな事態をはらみ、厄介)_である。

この、“重い”とわが陣がうけとめかねない敵方の内儀の到着を、軽いできごととしてゴマカさねばならない。そのために、きびすを返すと父子のもとにもどったのだった。

すぐさま耳うちで、利家に意向をつたえ、さらに了解をとったのである。

そのあと藤堂高虎に命じたのだ、奥村永福を府中城にかえせと。

永福がなにごともなく帰城していくすがたを自軍にみせつけることで、まつの来訪により、羽柴軍内で噂がたちはじめたであろう異変を、「杞憂やった」とおもわせることができるはず、そんな狙いがあったのだ。

 さて、その奥村帰城のあとだが、城代(城主の代行)を一時つとめることとなった村井長頼は、主君の命をうけ、少年兵を斬首に処したのである。

首だが、それが外見わからぬよう木箱にいれ、草の者(いわゆる忍者)をつかい深夜ひそかに、秀長の寝所にとどけたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(46)

さいごに、「家臣の咎(とが)は城主である倅(せがれ)利長とこのわたくしにありますゆえ、いかようなる処分にも異存はござらん。されど身勝手をお許しいただけるならば、わが、ほかの家臣どもには全(まった)き咎のないことにて、命を安堵し、できますれば禄などもそのままでお召しかかえいただければ、幸甚このうえなきにございます」と再度の平伏をし、真情だけでなく、家臣のゆくすえへの願望をも吐露したのである。

たしかに、あまりにも虫のよすぎる申しでであった。が、これが利家流交渉術の極みでもあった。あくまで家臣のことだけをおもう主の、“我田引水”ではないその懇願、相手にはつよく響くであろうと。

最悪聞きいれられなかったとしでも、_ただ、それまでのこと_とも。今風だと『ダメ元』と、ともかくも人事をつくしたのである。

それはそれとして、人心みだれた戦国の世にあって、利家の言動がしめした身のおき方、まことにみごとな潔さであった。

 秀長とても清廉にふれ、ひそかに感服したのであった。

しかしここでも利家自身は同時に、この廉潔をいかように裁くか_とくと見てつかわそう_との、わが身のすべてを捨てた、その覚悟をきめたものの豪胆さで、心底にて刮目していたのである。

 いっぽうでじつは、厚徳とのうわさが本物であることを、期待しての計算、いや、企みもあったのだった。

 ところで、陳述を最後までだまってきいていた秀長は、「一時の感情にはやっての処断は、禍根をのこすことと。よって、しばし待たれよ。別室にて、熟慮したき大事にござれば」とだけいいのこすと、特別につくらせた帷幕のなかに移動することにした。

そのさい、奥村には平服に戻させ、そのうえで人払いをとくと、三人を監視させたのだった。

ちなみに利家の…、だれにも明かせぬひそかな企み。

それはあろうことか、前田家をなんとしてでも存続させたい、である。この期におよんで、それでも主ならば、とうぜんの企み、であった。

恥も外聞もすててかき口説き、人情にうったえる。その、人事を尽くしたけっかが、移封(領地替え)や減封ですむのならばありがたし、_よろこんで腹をかっさばいてみせようぞ_とそう、決めていたのである。

つまり、利家と利長の死罪は、これを甘受するとして、もんだいは存続させるための、やり方であり手練だった。

嫡男には男子はいなかった。しかしながら利家は、まだ幼少ながら次男利政をもうけていたのだ。前田家を継げる男子がいたのである。

 まずは利政を元服させ、恭順の誓紙(代筆)をしたためたのち血判をし、名目上、羽柴家の家臣にとりたててもらう。そのうえで前田家は、利政とまつと子女をひとり、人質としてさしだす。のち、利政に世継ぎができたあかつきには、その子を身代わりの人質に。

 というような目論見であった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(45)

秀長は秀吉同様、百姓の子(こ)倅(せがれ)(正確な出自は不明)であった。

いっぽうの利家は、織田家譜代で城持ち武将前田利昌の子息である。とうぜん、故信長の直参(直属の家臣。命により現在、柴田勝家の与力をつとめてはいるが、勝家の家臣ではない)で、能登二十三万石を領有する大名である。その利家にたいし、

秀吉の舎弟とはいえ、しょせんは秀吉の家臣でしかなく、信長からみれば陪臣(かんたんにいえば、家臣の家臣)という立場の秀長なのだ。信長への単独の謁見を、基本ゆるされていない身分であった。

これを極端にたとえれば、主君にとっては路傍(みちばた)の石同然のかえりみられない存在、ということだ。石高も、利家の約半分の十二万石にすぎない。

 にもかかわらず、利家は下座(しもざ)にて、しかも土のうえで伏したのである。たとえ野戦場の敵陣とはいえ。平時であればありえないことだが、今はこうしなければならない状況であり、立場であった。

この戦のとちゅうにて降(くだ)るつもりだったとはいえ、旧友の秀吉にたいしてですら、内心、穏やかではなかったであろう。すでに大身の利家が平伏に値するのは、領地をあたえた主君の信長だけであったからだ。

まして、いまの相手は同僚の弟であり、格下でしかない。

このときのかれの苦衷と汚辱、いかばかりであったろうか?

しかし平身低頭の礼をつくすことからはじめなければ、到底、前田家の誠意をわかってはもらえないだろうと。いまは虚心坦隗(率直に肚をわるさま)、ただそれだけであった。

 利家は、「どうか、最後までわがはなしをお聞きくださりませ。そのうえでの処分をお決めいただきとう存じまする」と、頭(ず)をさげたまま述べた。

幾多の戦場でのはたらきから猛将と畏怖され、主君信長からも[肝に毛がはえておるわ]と称賛された利家が、これ以上はない礼を、はらっているのである。

 秀長は忖度すると、「又左衛門殿」“利家殿”とか官名とかでは呼称しなかった。敬意よりも、あえて親しみのある呼び名をつかったのである。

「わかり申した。いかなるお話であれ、口をさし挟まずおききいたす。まずは、おもてをあげられよ」穏やかな声でゆるやかにいった。かれの人となりがにじみ出ていた。

 もとより利家に、粉飾や虚偽を一切まじえるつもりはない。まずは有り体に、事態をつたえはじめたのだった。

あらためてではあったが、遣いの奥村よりも無残にすぎる詳細をきき、さすがの秀長も絶句したのである。しかし、約束は違(たが)えなかった。

「『なぜじゃ、なぜわしは射かけられたのじゃ?又左殿の指示によるものか?わしにはまだ、せねばならぬことがあるというに。無念じゃ…』虫の息のなか、これが最期のおことばでござった」

利家の双眼には涙が光っていた。赤貧(どん底の貧乏)時代からの友、みそやしょうゆの貸し借りをしあった家族ぐるみの親しさであり、莫逆(ばくぎゃく)の(たがいに気心がつうじあった真の)友をうしなった、悲愁の涙でもあった。

その、うしろにひかえていた長子は、父親のむせび声を今生、はじめて聞いたのだった。

そんな、おどろく嫡男を尻目に利家は、本丸の奥、城主の寝所にて手あつく菩提を弔うよう、城下の寺の住職に申しわたしていることもつけ加えた、死者の身分を、むろんつたえることなく。そのうえで寺のものすべてに、呼ばれたことすら他言無用と言いつけてあるとも。

 つづけて、わかい城兵が独断専行で射かけたこと、父親の仇としんじての所業であったむね、さらに、わが手では成敗せず「秀長殿が吟味できまするよう、捕えたままにして」いること、そのうえで「われら自体も、秀長殿の裁定に身をおまかせせんがためまいりました」とのべた。

で、秀長にじぶんたちの将来をまかせるとしたのには、じつは底意があった。取りはからいのしかたで、人品を観てやろうとの。

かたや、兄おもいの秀長ではあったが心中、死は戦場のならわしとて_…されど兄を討ったやつばらをできれば八つ裂きにて恨みをはらしたい…、ところなれど_それをすれば、自軍のうちに噂がたち、それがひとり歩きすることを恐れ、吟味すらあきらめることにしたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(44)

 床几(簡易の腰掛)の上、内心、やりきれぬ憤怒と悲嘆と不安が大きな渦となっていた。だが、つとめて、平静をよそおっているのであった。

それでも隠しようのない蒼ざめた顔色の秀長のまえ、利家と利長が平伏していた。入梅前の草いきれでむせかえりそうになる、草土のうえにてだ。

平装の父子は、大小(の刀)をおびないまま、誓書か親書らしきものを懐に、敵陣にやってきたのである。

使者であるかのように身をやつし、いわゆる無条件降伏を、羽柴秀長にその出で立ちでわからせようとの思惑もあった。奥村の白装束とは、意味がちがっていたということだ。

で、ふたりの平服だが、くすんだ、見るからに安手の麻製であった。

利家はちいさな屈辱と、そんな汚辱などは凌駕する誇りと使命感をまといつつ、それを着していたのである。

たしかに、普段、着用する絹製とは、あきらかは落差があったのだが。(ちなみに木綿製は、江戸元禄期においてもなお輸入品であったため、高級だったのである)

それもこれも、質素な平装であれば、敵陣の兵には、身分をさとられなくて済むとの配慮もあってのこと。もっといえば、城内での異状の惹起を、「羽柴軍にはかんじさせまじ」との意図もあったからだ。

そのうえで念をいれ、信長から「見栄えがしない」と揶揄(からか)われた口ひげも剃りおとし、さらにひとかどの武士(もののふ)ならば、たずさえることが慣例化しだした脇差さえ、既述したように帯同しなかった。

それは、身分が足軽ていどと敵陣におもわせんとする、それほどの深謀のけっかである。

くわえて秀長にたいしては、一国の主がなした質素なみなりこそ、尋常でない決意を暗に顕示せんがための、故意であった。ただ側近奥村がなしたような、白装束にはあえてしなかった。

主までがつづければ、かえって故意(わざ)とらしさをみせつけてしまうからだ。

これみよがしを嫌ったのは、利家の美学でもあった。

で、このときも、太刀もち(幹部候補生)以外の人払いをさせていたのだった。

ところでだが、本来の家格なら、利家とでは比べものにならない。戦国の下剋上とはいえ、この時代の武将のあいだでは、家柄は、現在とは比較にならないほどに重要視されていたのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(43)

 利家は辛抱づよく、おし黙ったまま弁明に耳をかたむけていた。じぶんがもしおなじ立場、おなじ状況であればどう行動したか?愚行をしなかったとする自信はなかった。

幾多の戦をのり越えてきたが、幸いにも、じぶんの肉親に戦死したものはでなかったのである(養子にだされた弟の佐脇良之が、三方が原のたたかいで負傷し、あわれにもそののち没しただけだった)。

だからといって、仇を討ちたいと念じていた家臣の気持ちを、わからない利家ではなかった。

しばしののち、ようやくしのび泣きへと変じていった少年兵であったが、「ご家中におかけいたしまする難儀など、そのときはかんがえる余裕もなく…、」ここで、鼻をおおきくすすり上げた。

「誠にもって、もうしわけのしようもござりませぬ」早口で叫ぶようにいうと、こんどこそは泣き伏してしまったのである。

 利家は、目のまえでボロ雑巾か弊履(へいり)(やぶれた履物)のごときと化した城兵が、あわれになった。できれば救ってやりたいともおもった。が、いまはそれどころではない。

なにをおいても救わねばならない家臣が数千、しかもすくうこと自体、難事中の難事だったからだ。

「馬をひいてまいれ。で、利長。そちもついてまいれ!また、奥(まつ)にも、身分をさとられぬいで立ちで、あとからまいれと伝えよ」

利家は腹をかためたようすで、宣言するようにさけんだ。じぶんたちの命に拘泥していては、前田家をささえ、繁栄させてくれた家臣たちやその家族を救えない。

との発想、いかにも利家らしい。

 剛勇ではあったが、才気機知とはいいがたい人物。いわば、切れ者ではなかったかわりに、報恩の精神や誠実さがかれの身上であった。

 その人格を、信長は愛し、秀吉は、比類なき一刻者(頑固なまでにじぶんを曲げない人)として信じ、めでていた。

 誠実さのきわみ。それは、嫡男の利長を同行させることでも、うかがいしれよう。つまり敵に、あと継ぎの身まで任せようというのだから。まずもって、豪胆ですらある。

「さても、どちらへ」傍(かたわら)にひかえていた重臣村井長頼が、おもわず尋ねた。答えはわかっていたのだが。

「しれたことよ、筑前殿の陣にまいるだけのこと」なにごともなさげに。まるで、友軍のところにでもでかける風情である。

「なりませぬ!」長頼は身を挺してとめようとした。「殿にもしものことあらば、家臣一同、いかが相成りましょう。荷が重うござりまするが、某(それがし)がまいりまする」

「たわけめ!」一喝した、長頼がせりふ、人となりから想定していてのことだ。

この事態を引きおこした少年兵には声を荒げなかった。

にもかかわらず、長年つかえてくれ、兄弟以上に信頼し、なんども命を救われた得がたき家臣の長頼には、きびしい叱責をくれた。

「そのほうで、あい務まるとおもうか!」両肩に重たくのしかかった危急存亡の秋(とき)(肝心である、“とき”につかう秋)ゆえに、はしなくも一喝してしまった。長頼こそが、心ゆるし心底からあまえられる側近中の側近だったからだ。

で、すぐに声をやわらげた。「又兵衛が申し出、衷心よりありがたきことぞと…」感激家のかれの目頭は、おのずと熱くなっていった。

 主君の姿にまた、ひかえていた家臣たちもしのび泣きしはじめたのである。

「されど、このような事態なればこそ、主君たるもの、おのが務めをはたさねば、あいならんではないか!まさに、今この秋こそぞ!」自然とこぶしに力がはいり、「なにごとかなさざらん」そう、みずからを鼓舞したのである。

それから「そちに幾度となくたすけられたるこの命、けっして無駄にはいたさん。いまこそ千金のはたらきをなし、そのほうらに報いるべし!」利家は、家臣にというより、天にでも聴かせるかのように宣言した。

そのあと魂魄はここぞとばかり、「わが一命と引きかえに、家臣領民を救いたまえ!」まさに、天にむけたる渾身の懇請として、いい放ったのである。

刹那、その高潔に「父上!」まだわかい利長は嗚咽し、

「殿っ!」と長瀬、すがるように発したが、そのあとは絶句してしまったのだった。

 もはや、だれひとり声を発するものはなかった。

さすがの主従の目に、万感の涙が、ただ光ったのである。

また、はなれてはいたが、やがて情景を耳でしった城兵たちも堪えきれず、声をあげて泣いたのであった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(42)

その府中城内。

主命によりひきだされてきたわかき城兵にたいし、雑兵が首根っこをおさえつけているのを、利家はやめさせた。動機を問いただす障害になると、わかってからだ。

動機を掌握せずしては善後策などない、くらいは当然にわきまえる、信長から薫陶をうけてきた一廉(かど)(すぐれている)の武将であった。

「なにがあったというのじゃ!隠さずもうしてみよっ!」ギリギリのところで押さえている激昴だったが、返答しだいでは爆発を押さえきれないだろうと。かれは、生まれもった自身の性格を知悉していた。

右のまぶたが絶えまなくぴくぴくと痙攣していたが、いまは精一杯の自重につとめていた。乗りこえてきた戦場や所領統治などでの経験から、えた思慮分別である。

くどいようだが、経験から学ぶことをしらない並み以下の武将であったならば、感情にまかせ、問答無用で切りすてていたであろう。

 少年兵は土下座したまま、ただおし黙っていた。がその両肩は、激しくうち震えていたのだった。しでかした重大事にようやく気づき、先刻より恐れ戦(おのの)き、あげく、たまらず号泣してしまったのである。

 いっぽう城内は、数千人も将兵たちがいるとはおもわれないほど、咳(しわぶ)きひとつなく静まりかえっていた。ただ主従の問答を、かれらは知るすべをもたなかった。やがてもれてくるであろう情報をおとなしくまつ、気の毒な立場のひとびとであった。

ぎゃくに側近のおおくはというと、わが身にふりかかる災厄を心配しつつ、主従の言動にたいし、固唾をのんで見まもるしかできなかった。事ここにいたっては、発言権などあろうはずなかったからだ。

「おまえは、いわば丸腰のものに矢を射かけたのじゃ。手むかいしないものを手にかけることがいかに人倫にもとるか、年若いとはいえ、おまえにもわかろうというもの」

さすがの利家も、敵将の来訪を〈濡れ手で粟〉と安易にとらえ、で、この最悪を招いたことすら思慮してなさそうな若年兵に、さらには苛立ちもおぼえていた。

眉間にはふかいしわが刻まれ、まなじりはつり上がり、怒りがきびしい眼光となって、わかき城兵の頭を射ぬいていた。

それでも、若いころとはちがっていた。

このときの心情こそ、重要なので詳記すると、

勇猛でしられた利家ではあったが、激情にかられて斬りころしてしまっては、秀吉陣営にたいし、いかようにも申しひらきができないとかんがえたからだ。

「も、申しわけござりませぬ。誠に、まことに…。仰せのとおりにござりまする」平伏したままようやくそれだけを発した。嗚咽しつつ、消えいりそうな声であった。

「非道とわかっての所業とな。ならばその方にも、よほどの存念があってのことであろう」口をひらいたことで、焦燥がすこし和らいだ。

「この期におよんでの申しひらきは武人の恥。父は日ごろよりわたくしめに、そのように申しきかせておりました。ましてやこれほどの大失態、どのような申しひらきができましょうや」

じつは、弁明は詮なきことと、わかき守兵に諦観をいだかせる事態が、先刻おこっていたのである。

事件発生直後、泡をくって走ってきた城兵たちは、かれをとり囲むと口々に罵り、また小突いたりしていたのだ。

かれらのいわく、「おまえのおかげで、この城は総攻撃をうける羽目になった」「もはや生きてこの城を出られるものはだれもおらんじゃろう」「わしは死にとうない!」など。これらは至極もっともな正論であり、人情の発露であった。

さらには「この大うつけものめが!」と、打擲(ちょうちゃく)(うちたたく)するものも、ひとりやふたりではなかった。

 だが、少年がもっともこたえたのは、「わしが死ねば、飢え死にするわしの幼子らがあまりに不憫じゃあ…」と取りすがられて泣かれたことだった。

前後をかんがえず、激情からことにおよんでしまい、それが招く事態に、このときはじめて気づかされたのである。

 心頭より発した瞋恚(しんい)(はげしい怒りや憤り)だったが、不惑(四十歳)となってはや五年の利家は、主君という立場から憤怒を無理やりおし殺し、「それではわからぬ。まずは面(おもて)をあげよ」平静を努めにつとめ、すこしく優しげな声でいった。

 ややあって、少年はなき腫らした顔をあげた。大胆なことをしでかしたとはおもえない、あどけなさののこる紅顔がそこにあった。

その、童顔の中心に位置する瞳をみつめながら、再度口をひらいた。

「わが軍は、いまや進退きわまった」だがさすがに、誰のせいでなどと不毛なことはいわなかった。「されどそれとて、家来どもをたすける手だてが皆無というわけではない。しかしそれには、そのほうがまずは正直に存念を、このわしに打ちあけることじゃ」

 声音だけでなくその眉からも、怒りはきえつつある。

「しらねば、わしとてかんがえうる最善の手のうちようがない」ここでいったん口をつぐんだ。つぎの言葉をあやまたないようにするためであった。

「さすれば先に、このわしから正直に申そう。ただしじゃ、おまえを助けることをかんがえておるわけではない。いかな、それは無理じゃ。ただ、無益な戦をさけ、みなを安堵させたい。ただそれだけじゃ」

身をねじられるような心境のなか、苦悶のせいで、蒼白になった表情はまだ歪んでいた。「わかるであろう」

若気のいたりとはいえ、主家全体を存亡の危機におとしこんだ結果もだが、黙秘したそれ以上の理由は、じつは感情を制御できなかったことによる忸怩(恥いること)であった。

元服したにもかかわらず、わらべ同然の行動をとったじぶんが、情けなかったからだ。

しかし、主君の腐心にふれた城兵は意を決っすると、吐露すべく、おもい口をようやくひらいたのである。

「茂山より退陣のおり、殿(しんがり)のなかに父もわたくしめもおりました。敵方に追われるなか、奮戦していた父でしたが、敵の槍により、ついに落命いたしたのでございまする。わたくしめはその場にて、刹那、父の仇をば討ちはたしはいたしました。なれど、帰城後も心晴れることなどなく…」

 亡父は、武士(もののふ)の子としてきびしく育てたのであろう、声はちいさかったが、言辞はしっかりしていた。

「そんなおり、この戦の元凶の御仁が単騎で入城いたしました。これこそは亡父の計らいと信じ、ほかのことなどは胸中になく、ただ無心にて、矢を射かけたのでございます」しかしそこはまだ少年のこと、いうなり、またもや咽びはじめたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(41)

歴史的にも、朝鮮出兵にその因があり、文治派と武断派だがさながら水と油、家康の掌のうえで闘争が勃発したのだった。

まさに歴史が、家康に味方したのである。

くどいようだが、豊臣家内の対立なくして、家康の老獪さは、威力を発揮できなかったし、武断派を味方に引きいれることもできなかったにちがいない。

くわえて、関が原前夜という条件下だったからこそ、高台院(秀吉の正妻ねね)は「家康に味方せよ」と、豊臣恩顧の諸大名(ことに、かのじょにとっても子飼いである武断派)に指示をだしたと。これは通説によるが。

動機だが、おんなだからこその性か?夫の子を二度も宿した“淀(第一子解任以降のよび名)”への嫉妬であり憎悪である。単純だが、概してこんなものなのだろう。

むろん、したり顔の家康。愚かのおかげで、敵方のはずのかのじょの懐柔にも成功したのである。

豊臣家創業の立役者が、引導をわたすにひと役をかったというのは、それにしても、なんという皮肉だろうか。

以上ながながとだったが、いずれにしろ、秀長の死において、徳川方の毒殺説はこれを否定できないのである。

さて、白日夢の本題にはなしをもどすと、

秀吉をうしなったその間隙を敵にあたえるどころか、秀長ならばかえって、”弔い合戦”とばかりに、府中城を短期日でうち破るであろう。どうかんがえても利家・利長父子にとって、戦える相手ではなかった。

 ただ幸い、想定外の事故を敵方はまだしらないでいる。敵方の耳にもとどろく鉄砲をもちいていなかったことが、不幸中の幸いであった。

 利家は狼狽しながらも、一国の主、歴戦の勇士であった。善後策をさぐりだそうとの思慮をうしなわなかったのである。

 すぐさま、秀吉の唯一の弟であり補佐官の羽柴小一郎秀長のもとに、重臣奥村永福を遣わすことにした。

利家よりあたえられた命がけの特命をむねに、永福は特別の装束に着替えたのである。もとより、”大変”ではすまない役をおおせつかったのだ。かけ値なしに、前田家の存亡がかかっているのである。

いっぽう秀長は、本陣にて兄者の帰陣をまっていた。前田利家調略の首尾について、その知らせを黙然とまっていたのだ。

 そんな秀長のまえに遣いとして、丁重な挨拶をすませた永福はまず、秀長に侍(はべ)る近習に、腰の大小をあずけたいと申しでた。

主は帰陣せず、かわりに敵方の重臣が来訪したことで、さすがの秀長は、ことの重大さをあるていどは察知していたのだった。で、側近の藤堂高虎に、ある要請を手短に耳打ちしたのである。

そのうえで、まずは推移をみるため、遣いのおもうがままにさせ、ついで、申すがままを黙ってきくことにした。最悪の事態もありうると事前に推しはかっていたからこそ、聡明なかれはここ一番、さきを急ぐことは愚策と心得たのだ。

単身にての敵方懐柔を、弟としてじつは毎回制止してきたのだが、兄はいちどとして諫言を聞きいれなかった。

それゆえ当然、“死”という最悪も、けっして不測の事態とはかんがえていなかった。いやそれいぜんに、戦国の世である。戦における兄の死を、したくはないが想定せざるをえないと…、兄秀吉につかえたその刹那から、覚悟をきめた秀長であった。

春たけなわの草土に両手をつくと、「恐れいりまするが、まずは、お人払いを願わしゅう存じます」身に、なにも帯びていないことは周知のはずと。

「あいわかった」奥村となのった前田家重臣の所作を観察していた秀長は、いかにも鷹揚に、しかしすぐさま、はべっていた者どもに眼で合図をした。

それをうけ、一礼した高虎や青木一矩などの重臣や近習たち全員が、部屋から退出していった。

この一連を、平伏のまま耳で確認したのち、「かたじけのう存じます」そう礼をのべ、おもむろに立ちあがると、「ご無礼つかまつる」いうなり奥村永福は、平装を脱ぎすてたのだった。

出てきたのは、白装束であった。覚悟の、死に装束である。そして再度の平伏をしたのだった。三間ほどの距離をとっていた。

秀長は「そのいでたち……」と、内心仰天するおもいだった。が、平静をよそおいつつ「して、内密のはなしとは、わが主、秀吉のことであろう」そう、かろうじて発した。しかしつぎの「かくさず申してみよ」との言葉は、緊張のあまりかすれてしまった。

さらなる「よもや…」は、不吉を予感させる禁句だと、それが現実になるのをおそれ、胸の奥でとどめたのである。それでも、

無念にもこのとき、主の死をつよく否定したくとも、できない秀長であった。夢を追いもとめる兄とちがい、現実主義者だったからだ。

ただ一縷の望みも、もたなかったわけではない。それで、頭のなかにいすわる不吉な予感を、ふり払うべくつとめたのも事実であった。

秀吉という存在はたんに、兄とか羽柴家の守護者や統率者などの規模ではない。もはや、統一により戦乱から日の本をすくう救世主と、すくなくともかれはそう信じていたからだ。

武人となって二十余年、民と国を安んじることが百姓出の秀長にとっては、いまや、最大の誓願であった。

「まことにもって、申しわけもござりませぬ。お詫びのしるしとしては足りませぬが、主、利家は腹をきる覚悟でございます」と頭(こうべ)をさげたまま、まずはふかく陳謝し、どんなに不都合な事実をもつつみかくさずと決め、ことの顛末をはなしはじめた。

へたな隠しだてや些細なウソは、かえって心証をわるくすると知悉していたからだ。しかし、城兵による秀吉殺害の動機にまでは、言及できなかった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(40)

ならばと、当たりまえのつぎの疑惑。

秀長毒殺などはまどろっこしい。それよりなぜ、直接、秀吉を毒殺しなかったのか?そのほうが、よほどに手っとり早いではないかと。                                                                                                                                       

なるほど、一旦は、ごもっともでござると云々。

では逆質問、それで天下を盗れるのか?

奪うには、暗殺のあと、豊臣家をたおさねばならない。すくなくとも、勝ち馬に乗るような付和雷同的勢力ではあっても、ないよりましと味方につける必要が、徳川にはある、現下では形勢不利、多勢に無勢だからだ。

そこでおもいつく具体策だが、それは全面戦争ではなく、局地戦でまずはうち勝つことだ、小牧・長久手の役のときのように。

ではあるが、徳川勢だけで、豊臣家にうち勝てるだけの戦力となっているのか。三河武士はたしかに恐れしらずで屈強ではある。が戦力的にみて、これも、1590年当時だと否だ。

1584年の小牧・長久手の役のときとちがい、織田信雄(かつ)(信長に次男)はもとより、与した紀伊の面々や長宗我部も、すでに豊臣の軍門にくだっている。よって、両軍の勢力格差はおおきくひらいていたのだ。

ひとつ。徳川そのものが戦につぐ戦で、兵糧をあまり増やせてはいなかった。しかも秀吉の目論見により、移封させられたばかりで、徳川の兵糧は底をついていた。

徳川全体、つまり家康は、おおくの側室と子はむろんのこと、それにかしずく奥女中、さらには近習たち、この数百人単位をもごっそりと。で、家臣団は各自の一族郎党ももちろん、一族や郎党につかえる家来と家族たちをもふくめ、一大引っ越しをさせられたのだ。

そのうえで、家康は江戸城大増築をせねばならず、家臣たちも各自住居の整備などで、おびただしい出費となり当然、すかんぴんになってしまった。

のちの参勤交代ていどでも、各大名は、たいへんな出費を強いられ借金がかさみ、藩財政を疲弊させた。それと比較するまでもなく、現中部地方から関東への徳川勢一大移転費用は、えぐすぎたはずと想像できるのだ。

ふたつ。ならば、他者を利用することで、目的を達成できるのでは?だ。

いうはかんたんだが、他者はただでは動いてくれない。道理だ。ではいかに、鼻っ面に美味なエサをぶらさげられるか?なのだが、それも1590年初頭では、不可能のひとことである。無い袖(たとえば報酬)は、振れないからだ。

それはそれとして、秀吉亡きあとに豊臣家は分裂し、天下は乱れる?やも…。

いや、待てよ。肝心なこの点を、検証するひつようがある。

毒殺が成功しても、しかしながら、秀長がのこる。かれには、カリスマ性こそすくないが、実力と徳望で、豊臣家をいっそうまとめ上げるはずだ。秀吉のかげで兄を支えつつ、ともに天下統一に邁進してきた力量を、秀吉家臣団はつぶさに見知っているのである。

よって、豊家は分裂しないだろう。なぜなら、分裂するに、利も理もないからだ。

みっつ。兄弟ともに服毒させられたため、秀長不在(既述)の豊家にたとえなっていたとしても、豊臣政権にとってはいまこそ、危急存亡の秋(とき)と。まさに組織の防衛本能として、大同団結すべきとの求心力が強大化しないはずがない。

組織というものは、外圧にはめっぽう強いのだ。敵は、各自にとって同一の標的だからである。よって、分裂の愚をおかす道理がない。

となると、家康がとれる手立て。一にも二にも、健康管理である。

なぜか?それは秀吉が、六歳年上だからだ。順番どおりとはいかないだろうが、ならば逆に、やり方によっては、じぶんの死期を遅らせることも可能と。

そのための漢方薬づくりであり、体力維持にもつながる鷹狩りなのだ。どちらも、趣味として有名である。

ついで満を持すための、兵糧備蓄、家臣の、戦士としての育成、火縄銃などの武器の量産などなど。そのうえで、秋をまつのである。

そうこうしているうちの秀長の死と、運がむいてきた大事件が。とは太閤秀吉の命による関白秀次自刃、と、朝鮮半島への海外派兵のなかでの戦果争いによる諍(いさか)い。清正と小西行長とのあいだにうまれた確執はその典型である。

さいごに秀吉の、想定どおりの死。ついでの、目のうえの瘤だった、前田利家の死。

これを好機と、豊臣恩顧の諸大名を分断、でもって軋轢の顕在化、さらに狡猾に、武断派と文治派との対立を激化させ、利用しつつ、清正を代表とする武断派をとりこんでいったのだ。

天下を盗むには窃盗的法で。とは窃(ひそ)かにつまり人知れずが、この時点では必要不可欠だったのである。

家康こそ、豊家にとって共通の敵と、とくに血の気のおおい武断派に気づかせないために。どころか、家康こそが、幼君秀頼公の味方であるかのような言動を弄して、だ。

でもって、いよいよ時期到来だと、ほくそえんだ家康。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(39)

さて、で十六世紀末の秀吉。ちなみにもし、大陸との全面戦争ともなれば長期戦を覚悟しなければならない。それは、海をへだてての兵站(兵・食料・武器などの供給路)に窮することをいみすると、信長家臣として兵站構築と維持のたいへんさを体で知りつくし、またこのころは、文治にたけた三成を擁している秀吉がかんがえないはずもない。

だからわかるのだ、中国の歴史、とくに中華思想と朝貢外交(周辺国君主が中国皇帝に貢物をさしだし、その返礼をうけつつ、周辺国は中国の傘下にくみこまれ、安全を担保される)に無知で、それは忙殺のあまり(信長にこき使われ、そのあとは天下取りの意)、これらを学ぶ余裕も必要性も、これまでの人生にはなかったからである。

よって外征は失敗する、当然の帰結として。敵をしらずして、勝てるはずがない。

それにしても、文禄。慶長の役の真の目的だが、歴史学者にとってもナゾのままなのである。

いずれにしろこれらの史実と、それによりみちびかれた推論(家康による、天下転覆のための秘術としての秀長毒殺や豊家恩顧家臣団の分断秘技)から、いわば括(くく)っての、天下統一により即天下泰平となったというような異論は、これにて一掃できたとおもえるのだが。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(38)

ところでまさか、明国を勢力下におくなど、本気だったとボクにはおもえない。高齢の自身や幼年の秀頼に鑑み、夢想にすぎるくらいはわかっていたはずだと。地球儀をみて自国のちいささと、中国の広大さをしらなかった、なんてありえない。段ちがいの国力の差も、自明である。

だから、巨大で大音響の打ち上げ花火さながらに、その派手さで衆目をあつめ、とくに支配下武将たちに絶対服従を強いること、そこに眼目をおいていたのだろうと。

あるいは本気で、小国の李氏朝鮮くらいならば支配できるとおもっていたのだろうか?そこまではないとしても、上記の配下たちをよろこばすに、半島の一部でも割譲させよとたくらんだのか。

だとしたら、当時の国際情勢に無知でありすぎた、としか言いようがない。

李氏朝鮮は、小国であるがために明の属国となった、ことくらいはさすがにしっていた。

だが明が中華思想のゆえに、従いつづけている李氏を守るためならば兵を出す、とまでは無知のせいで、秀吉といえども思慮できなかったのだ、おそらく。

ちなみに中華思想とは、約2500年前の孔子がその提唱者とされている。いわく、中国は、神聖であり最高の文明・文化を有し、その頂点にたつ中国皇帝は世界の支配者であり、だから劣等な周辺国から全幅の敬意をうけるべき存在だ、とする思想。そのけっか、君臨の対価として、保護者であらねばならないと。

しかしながら十六世紀末当時、中華思想の標榜じたい、せまい世界観に支配されていたにすぎなかっただけである。

実際には、スペインとポルトガルが力まかせで世界を席巻しており、よってすでに、傲慢と身の程しらずの思想となっていたのだ。

ところで、“明がせまい世界観に支配云々”の既述にたいし、異論をとなえるむきの存在も承知している。

それは1405年が最初だった。明の永楽帝が、“鄭和”という人物に命じ、最後は二十八年後の次々代皇帝の指揮のもと、で合計、七度の大航海(遠く、アフリカ東海岸にまで船団をむかわせた)を実現させている。

つまり、明は驚異すべきことに、西欧の大航海時代に先駆けていたと、反論のいわくだ。

なるほど、たしかに。最長だと、上海の西、蘇州から現ケニアまでの約一万キロにおよぶ大航海であった。だから、“せまい世界観”は当たらない、ようにもおもえる。

しかしながら、ばくだいな経費が負担となり、また鄭和の高齢もあり、大航海をとりやめると同時に、明は鎖国政策にもどしている。

それから百五十年ものあいだ、国を閉ざしつづけたことで、世界観はせばまっていったのだ。百五十年はいかにもながい。こうして新陳代謝さながら、国民は数世代にわたり入れかわったのである。

よって、大航海のことすら忘れさってしまった民衆の世界観が、その間に変化するには充分で。どうじに内憂外患の百五十年は、国力を衰退させるにも充分であった。国家も、〈貧すれば鈍す〉、なのである。

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