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こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(37)

早速だが心許ないのが、まずは秀吉の年齢。覇王になったのが五十三歳と、当時では高齢で、しかも実子の男子はひとりだけ。家康のように、第二、第三というふうに男子を次から次ともうけていくには、年齢的にきびしい。くわえての、鶴松元服時にはすでに六十代中ごろとなり、健在だとの保証などまったくない、いわば闇。

じじつ後継者にかんし、暗黒の最たる大事件として、こののちではあるが、高齢秀吉と嫡子が幼児だからこその苦悩からうまれた、関白秀次問題を惹起させるのだ。

さらにはこれも家康とちがい、秀吉家臣団は一代での俄かづくりだけに、歴史がないせいか、家臣間での姻戚関係、あえていえば一種の政略結婚に乏しく、また交流を深めたりなどにも欠けるところがあった。たしかに真田信繁は、大谷刑部吉継の息女を正室にしてはいるが。

つまり扇の要、カリスマ秀吉をうしなえば、結束力はどうなるだろうとの危惧もある。

そんな家臣団だからこそと、国内での戦乱がなくなったことにより存在価値のうすれた軍務担当の武断派と、統治を維持継続するに必要性の増した石田三成ひきいる文治派のあいだで、いずれは対立がと、期待したであろう家康。

ならばと、分断をはかるくさびを、音しれず打ちこんでいくのである、期間をかけて。

しかし外見、秀吉の死のそのまえまでは、いかにも豊臣政権維持のおんためにと江戸城からはなれ、1592年築城の伏見城に常駐して政務にはげんでみせたのだった。

このさまで、天下への下心などなさげに、豊臣恩顧の武将たちにみせつけることができたのだ。

で、つぎなるは六年後、秀吉死後だからうてた一手なのだが、文禄四年(1595)八月に制定された法“御掟”にて取り決められていた無許可の婚姻禁止令をやぶり、福島正則や黒田長政、蜂須賀正勝などの各家と姻戚となり、豊臣恩顧の武将たちを取りこむことに、やがて成功していくのである。

ちなみに〈石の上にも三年〉どころか、六年も待ちつづけたことなどから我慢づよい性格と家康を。一面そうだろうが、戦力からみて秀吉には勝てないからで、それを最大の理由と既述した。

むろん、忍耐力を否定するものではない。が、そのいっぽうで、短気だったとする余話もおおく残しているのだ。

 たとえば、武田信玄にいどんだ三方ヶ原の戦い。家臣の制止を無視し、血気のまま攻めかかり、家臣に多大な犠牲者をだし自身も命からがらであった。また、戦場(いくさば)で危機にひんすると、自刃しようとしたことも数度。家臣がとめなければ、短慮がまさに命とりとなっていたであろう。

ところで本筋にもどると、このように秀吉亡きあとの豊臣政権は、水面下でも謀略にさらされ、よって客観的見地から、長期安定政権を形成していくには、ムリがあった。

むしろ、瓦解と背中あわせと、当時から武将たちをふくむ世間は、シビアにそうみていたのである。

つまりいよいよ、内乱が内在するあぶなっかしさに塗(まみ)れてきたというのが、正当な見立てであった。

さかのぼって、天下がみえてきた1584年。いまだ嫡子のいない秀吉にも、やがてはおとずれる死。以降の政権不安定がみてとれる不安や恐怖に、つきうごかされる想いもあったにちがいない。

それで朝廷を味方につけ、権威が政権安定の一助になればとて利用すべく、いっそうの手をうっていった。仰天させるほどの貢物で、である。

おかげで、権大納言、内大臣、関白、賜豊臣氏など朝(あ)臣(そん)(天皇の側近)としての、いわゆる叙勲をうけることができた。むろん、天下統一の正当性を内外にしめすためでもあった。

朝廷とて、政権の安定と豊家の繁栄はねがわしいことだった。が、いかんせん、朝廷はその存在自体がのれん程度であり、糠(ぬか)でしかなく、しょせんは、頼りにならなかったのである。

だからいっぽうで、ひとの目をひく建造物や派手なトピックスなどで世人に、豊家の権威をみせつけたのだった。

聚楽第や伏見城築城、二条城の大改築、そのあとではぎゃくに聚楽第の破壊、北野大茶会、醍醐の花見、あげくは、激怒(じぶんの思いどおりにならない李朝朝鮮にたいし。しかし客観的には、秀吉の無知と傲慢のゆえ)と征服欲からでた朝鮮出兵(最終目標は、主君信長が豪語したとされる明国=中国支配の実現)。

ところでこの出兵だが、秀吉らしい狙いもあったのだろうと。

国内での戦がなくなったことで、武断派たちはその役目をほぼうしなった、1590年を潮に。

かれらの失地を回復させんがための、だから海外派兵である。くわえて、領地がふえれば、子飼いの清正らや親せきの福島正則たちをよろこばすこともできる。

また、目的はいっぽうで、覇王の絶大な力量を誇示する効果をも、ねらっていたのではないかと…、これは私論。

ちなみに、その根拠ならばある。甲子園球場十三個分にあたる敷地面積十七万平方メートルに、前線基地として、五重天守の巨大な名護屋城を短期間で構築した、これが誇示のその証拠だ。世間を「あっ!」といわせるためである。一夜城、高松城水攻め、中国大返しのときのように。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(36)

すでに元服している嫡子ふたり以外にも男子を多くもつ家康とちがい、秀吉には、世継ぎ候補はひとりだけだった。しかも当時は、子どもの死亡率はたかく、じじつ、天下人になってからの嫡男鶴松は、満二歳と二カ月少々で夭折している。

と、ここで話をすこしもどすとして、まずは良好な関係だったとしよう。

さて動機だが、平時なら、稀薄はさもありなん、だ。

しかし当世は戦国時代であり、すくなくともまだ乱世の余燼がくすぶっていた世相であった。それを忘れたひとの発想で、善人による異見だと、ボクはおもう。

歴史的に、応仁の乱からだとすると、百二十年以上と長くつづいた血で血をあらう戦乱の世。それが完全に収束するには、それなりの時間がひつようということだ。

証明する例として、少々ながくはなるが、

まずは鎌倉時代。あえて戦乱の期間を短くするために、源頼朝が征夷大将軍となった1192年からみても、八年後には梶原景時の変、その翌年、建応の乱、二年後には比企能員の変、そして朝廷と覇をあらそった承久の乱と、枚挙にいとまがないのだ。

室町時代はというと、尊氏による開幕ののち、弟直義との確執による争い、また、南朝と北朝にそれぞれ天皇がおり(五十年以上つづいた南北朝時代)、王位継承の正当性をめぐり、中央、地方がともに戦乱にあけくれている。

江戸初期も、大坂の陣、島原の乱、由井正雪の乱と大乱はつづき、五十年ちかく太平とはいいがたかった。

明治においても、佐賀の乱が勃発すると、各地で反乱が相つぎ、西南戦争の終結まで戦火のなかにあったのである。

それは、ひとには権力欲や征服欲・支配欲などがあり、私欲まみれだからだ。

以上。つまり、秀吉が安寧をもたらしたとみるのは早計、なのである。

で、次。豊臣家の、世襲はスムーズにいくのか?という、日の本全体にとってもの大問題をみてみるとしよう。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(35)

かんがえられるのは、料理人か運び役に、手のものを忍びこませた?…あるいは秀長の家臣に垂涎の利を提示し籠絡した、であろう。むろん、人選には苦労するだろうが。

ところで家康が完全犯罪をしかけたと、ボクがにらんでいる時期だが、天下人が秀吉で落ちついた1590年、いわゆる小田原城陥落直後だろうと。

理由ならば簡単。ポッと出のサルをさげすみ、その軍門にくだるを意味する屈辱的上洛を、拒みつづけた後北条家(政略結婚により、徳川とは姻戚関係にあり、同盟もむすんでいた)は没落した。

すでに、毛利はもとより、長宗我部も島津も屈服していた。遅ればせの伊達は、小田原城攻めに参戦している。豊臣家にたいし、臣従を拒否する大名はいなくなったのだ。この時点で事実上、日の本は、秀吉の手におちたと、そう。

とは換言すれば、1590年当時の徳川がこの事実をくつがえし、武力でもって天下を盗る、なんてこと、諦めざるをえなくなったのである。しかし、一寸先は闇。だからすくなくとも今はと。

いやいや、そんなはずがない。豊臣の一寸先を、闇にすればいいとすぐに。

よってこれから以降は、天下をうばうには面従腹背(いかにも家康らしい。とは、幼少期は今川家の人質ですごし、三河にもどれば信長にしたがうしかなかった。さからえば、真っ先に滅ぼされていたはず)で、謀略をもちいるしかない、が家康の立場となった。

ちなみに、始祖を早雲とする四代目の後北条氏政からみれば、家に歴史を有し、強力な姻戚・同盟関係にもある家康を頼みとおもっていたにちがいない。氏政にすれば、裏切られたかっこうで、切腹させられたのだ。

いっぽうの家康はというと、後北条家潰滅のけっか、代々つづいた三河をふくむすべての領地をとりあげられ,縁もゆかりかりもない関東への移封(領地がえ)を余儀なくされたのである。

たしかに、版図としてはひろがったかもしれない。

しかし家康とかれに忠誠をちかう家臣団にすれば、極端なはなし、蝦夷地(北海道)の原野に移りすんだような気分、だったのではないか。田畑には不向きな荒涼地もすくなくなかったからだ。

この措置は、六年前に逆らったこと(小牧・長久手の戦い)への報復、というより、巨大化した徳川の勢力をそぐためなのだろう。

後北条の残党がまだまだひそんでいる現況下で、しかも江戸周辺はたびたび洪水にみまわれ、大がかりな治水ならびに灌漑工事、さらには開墾が必要であった。

そのうえで新領主として、領民との友好関係までもきずくにしくはなかった。一揆でもおこされたら、徳川家は瓦解するかもしれないからだ。

懐柔には、年貢の比率(前領主であった後北条家は、早雲がきめた民六公四を継続)をすこしゆるめる方向にもっていくが最良とした。

それにはまず、公私ともの、このあらたな領地(徳川本家と家臣それぞれが分割所有することになった知行)に、労力をかけての検地(それ以外にも、各寺社は既得権益や特権をたてに伝来の格安比率を主張してくるはずだし、それぞれとの交渉も必要)から始めるしかなかったのである。

それもバカらしいことにだが、収入減を覚悟のうえで。

ただし、徳川側に不利な比率を採用したとしても、矛盾するようだが、必ずしも悲観しなくてすむかもしれないのだ。

なにをバカな!と、徳川家ですら、そのだれもがそうおもう意味不明。しかし、じつは矛盾しないのである。

つまり、前回のは(史上有名な太閤検地、ではない)、ふるくは平安時代のデータのままを活用していた程度にずさん(各地にて散見された手ぬき)で、しかも珍しくなかった。

実体とはズレがあり、それを修正するあらたな検地のおかげで、作づけ面積がじつはひろかったとわかれば、けっか、増大した収穫量を計上できることに。ひいては、年貢量をふやせるという好結果もえられるからだ。

そうなると困るのは農民で、うまみがなくなったぶん収入減となり、不満をもつことにはなろうが。

しかし比率をさげたという事実で、大義名分はたつ。まあ、こんかいの検地が、徳川側を利することになるかどうかまでは。

それはさておき、いまのは単なる一例にすぎず、それらが完了してからの、いわば治世となるのである。

つまるところ、すべてにおいて、ゼロからのスタートということだ。

たとえばの話、海外にも進出している多角経営の会社において、ある日突然ヘッドハンティングにより就任させられた社長が、各事業をいきなり把握、その月から総てにおいて利益をあげろと株主から強要されたとしよう、だが、そのほうがまだ簡単だと云々。

それほどに移封が、いかにたいへんな事態であるか、だ。

それでも家康は、世上しるひとぞ知るタヌキ親爺である。天下に色気をもっているとは思われていない状況下。それを逆手に、健康長寿の良薬だとでもいって親切心をよそおいつつ勧め、秀長にヒ素を送りつけたともかんがえられる。可能性はひくいが。

などと、毒殺説。

読者からは、動機についての異見がそろそろ出るころだろうと。

なるほど、ふたりは仲がよかった、らしい。すくなくとも、仲がわるかったとの史実はないようだ。だから動機が希薄だ、との異見である。しかも、秀吉の天下で世はおちついたではないか、ともつけ加えて。

だが、はたして論理的であろうか?鵜呑みにしてもいいのだろうか?

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(34)

さて、その人物についての余談である。

秀吉亡きあとだが、秀長が十七世紀をむかえてなお健在であったならば(仮説でごめんなさい)、家康に天下を盗られる下手はしなかったであろうと。

大坂方として、つけいる隙をあたえなかったにちがいないからだ。具体的には、秀次切腹、外征、豊臣家臣団の分裂などを、その事態のまえにて惹起させなかっただろうと。

というのも、兄秀吉からの信頼は絶大で、そのぶん豊家崩壊につながる暴走を、食いとめたにちがいない。絶対権力者の兄にむけても、かれはそういう諫言や、制御あるいは制止のできる人物だったのだ。

智将でしかも勇将のうえ、温厚で人情味にもあふれているから、徳望の篤さは生半(なまなか)ではないのである。まさに、豊臣家の大黒柱といえよう。

となると、巷間でのウワサ…、ズバリ、「天下奪取をはばむ邪魔者は、だれびとたりとも消せ!」が、その真実味を、俄然おびてくるではないか。

つよい動機をもつ家康らによる術計深謀(考えぬいたはかりごとや策略)の行きつくさきは、はやいに越したことはない秀長排除論、であった。

で、その具体策におよんだ結果、毒殺で決したであろう。文献による病状をひも解くと、ヒ素が原因、をうたがえるからだ。

というのも史実、兄とおなじく強壮で、約三十年という長きにわたって常在戦場の気概もさかんであった。小田原城攻めより以前においては、病気で参戦できないということもなかった。

そんな戦国武将そのもののかれが、激務と加齢のせいか体調をこわした。それは生身だからあることなのだが、なぜか、やがて病床に伏すとしだいに悪化。で一年ののち、五十一歳で泉下の客となったのである。

ちなみにほかにも家康の命で、毒をもられた?…あくまでも可能性のある武将はすくなくない。加藤清正、黒田官兵衛、前田利家、真田昌幸(幸村=信繁の父)、浅野幸長などがそうだ。

家康からみて、敵(豊臣家)に与(くみ)するとの疑惑をつよくする(じじつ、秀頼に味方した)武将たちである。だから毒殺されたのではないかと逆説的に。

だとしてつぎは、いわゆる凶器としての有無だ。

そこで、存在をつよくうたがわせる事実がある。健康志向だった家康の趣味が、凶器を示唆しているということだ。薬草をつかい漢方薬を製造および調合するという作業を好み、日課ともしていた。よってその手(毒についても)の知識は現代での薬学博士並み、いたって豊富だったのである。

さて、推量はここからで、

体内に蓄積していく性質のヒ素をごく少量、秀長に、月日をかけて飲ませつづければそれでよい。

やがては発症し、ついには内臓疾患などにより、かれは、この世のひとではなくなくはずだ。

しかもこのやり方だと、(ボクは、犯人だと確信する)家康の、悪辣な意図がおもてには出ないままなので、病死あつかいとなる。いわゆる、完全犯罪の成立だ。

そうはさせじと備うるに、ではないが、戦国武将だからとうぜん、毒見役をおいていた。

しかしながら即効性の毒物、たとえばトリカブトの毒やフグ毒混入を感知する役目(最悪、死をもって役を果たすが、まさにそのひとの使命)であるために、秀長は、けっきょく毒殺されてしまうことと。

ちなみに、防衛を目的とする毒見役設置の効用について。

年齢や体格が秀長といっしょの人物を一人だけ据え、そのおとこに、主とおなじ量を毎回食べさせてはじめて、かれも発症するであろう、おそらく。

つまりはこの条件をみたすことによって、うまくいけば毒をもられていると知見でき、最良は、主従ともに死をまぬがれられる。しかしながら最悪は、死因を毒と判定できる効用、でしかない程度のものなのだ。

よって、微量のヒ素を連続で服用させる手だが、家康にはきわめて有利で、有益な毒殺法となろう。

つぎにすすむ。ではどうやって混入させたか?である。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(33)

城をおおいつくした静寂、ピーンと張りつめていた緊迫と息苦しさ、思考が停止したままの時空間。

だがそれも、ゆるやかに緩みはじめたのである。

もはやあとの祭りだが、それにしてもの、前田家ものぞまない、否、あってはならない“事故”、ではあった。

そしてむろんのこと、おわってわけではない。

 それどころかこれからであり、不幸な“事故”でした、ごめんなさいで、かんたんに済むはなしで、あろうはずがない。

こんな最下の災禍、秀吉に、だけでなく羽柴家と、その配下にとってもだったのだ。

ところで、最悪をまだ知りようもない羽柴軍を、今はおく。

まずみるべきは、前田軍であった。五倍ちかい圧倒的な敵兵にとりかこまれている状況にかわりはない。たしかに城は、二重の堀でまもられている。とはいえ平城であり、攻め手からすれば難攻、ではありえない。

つまり戦おうにも、戦力においてすでに、勝敗は決しているの体だ。

それでも援軍がくるまでは城を持ちこたえるぞとの、手をうとうにも、やぶれた勝家軍は各地に雲散してしまっている。もはや、救援をたのめるはずもない。

さらに、城外にてひるがえる馬印から、敵軍副将は秀吉の片腕でもある弟秀長(1591年二月病死、享年五十一歳)としれた。かれは人望もあつく、かつ、知勇兼備でもしられている、相当の人物だ。

もはや絶体絶命のなか、それでも窮地を何としてでも脱せんと、難事中の難、戦闘以外の方途をば見いだすしかないのだが…。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(32)

さて、いつ殺されてもおかしくない状況にあえて身をおき、そしてみごとに人を誑しこみ、その甲斐あって織田家中にて、藤吉郎は頭角をあらわすことができたのだ。

ついで、戦国武将として一国一城の主となり、さらには、こんにちの望外にすぎる立身出世、いやいや、天下人にいちばんちかい存在へとつながったのである。

おもい返せば二十八年余、それにしてもと、かぞえきれないほどの死地においてですら護られてきた不思議。ゆえに「われこそは天恵(天からの恵み、幸運)を一身にうけている」と、驕(おご)りではなく、そういう自信が横溢していたのである。

_ひとの手がわが命をうばうなど、無論ついぞ無く、そしてこれからも、有りうべからざること。これ、もはや決まりごとにて_そう信じきっていたのだった。

だからいま、命運がつき果てつつあるこの状況、かれにとっては事故、いな、ありえざる“災厄”であった。いわく、なんでこんな目に…このオレが、と。

 つまるところは、過大なるうぬぼれ、以外にいいようのない誤算だったのだ、所詮は。結果から、あきらかである。

いっぽう、秀吉ならではの心象など知るよしのない前田家守備隊。目のまえのあまりの惨劇に、かれらは凍りついてしまっていた。

数人の門番だけが、瀕死の秀吉をかこんだのである。が、それでもただただ茫然と立ちつくすのみ、かれらもなにもできないでいた。

この、前田家にとって、一瞬にて勃発した一大悲劇、とりかえしのつかない大失態を、

前田家の破滅を惹起する最悪を、しかしながら、利家・利長父子はまだしらない。

やがてかれらが駆けつけたさき、門番たちのあいだ。そこに横たわる突如の、わが目をうたがうばかり、あまりにすぎる光景が。

悪夢でも、これほどの悲劇は……。さすがの猛者も、混乱した。

しつつ、急ぎ走りよると、旧友をだきかかえた利家。

すると、友の叫び声を耳にし、体をおこされた秀吉はおもむろに薄目をあけ、血色のうせたふるえる唇をすこしあけた。

くぐもったかすれ声が、かすかに漏れた。

辞世(最期のことば)を必死できく故友の顔は、なみだと鼻水で、崩れていた。

だが、それよりひどい様相こそ、前田家の向後にほかならなかった。なみだと鼻水はその大部分、自家と家臣たちを憂うるあまりのゆえ、留まりえなかったのである。

いっぽう、奥でむかえの支度をしていた“まつ”だったが一報をきくと、大門にむけいそいだのだった。

こうして前田家の主たちは、

本丸へ丁重に輸送されている秀吉、戦乱のなか、大仕事をなし遂げてきた一世一代武将の最期を、涙ながら、みとることとなったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(31)

ところで、秀吉の意図をはかりかねた城内では、緊張がはしった。大門をひらくべきか、撃ちかけるべきか、実質上の主君である利家の差配をうけるべく、城兵がはしった。

その間秀吉は城外において、小一郎(秀吉の実弟、あるいは異父弟との説の秀長)からの諫めをおもいだしていた。

ただし諫言は、いまにはじまったことではない。それでこんかいも「案ずるな」と、押しきったのである。

しかしながらもなぜか、諫めが妙に気にかかりだしたのだった。こんな胸騒ぎなど、ついぞ(はじめて)、であった。

そうこうするうち、重い大門がゆっくりとひらいたのである。で、心の揺らぎは、これを契機にきえさったのだった。

秀吉は馬上、その立ち居振るまいにて、信長の後継者よろしく、鷹揚に入城したのである。

直後、ギイといういやな音をたてて、門はとじられた。

_単騎で?まさか。いやいや、あのご仁ならばありうる_と、半信半疑のまま押っ取り刀で(取るものもとりあえず、間(かん)髪(はつ)いれずの意)、本丸から利家・利長父子が城門にむけ走りだしていた。

その、まざに同時刻であった、既述のわかき城兵が天にむけ、雄叫びをあげたのは。

直後、矢倉から地上へと一閃、矢が走ったのである。

「うっ」

射手のたましいが憑依した矢は、父に仇(あだ)なした秀吉の肝の臓をつらぬいたのである。

小柄な体躯が、馬上からドゥッとおちた。

おちながら秀吉は、慮外のできごとに、頭が混乱してしまった。人誑しの人生において、ありえない、信じられない事態なのだ。

たしかにこれは、秀吉にとって不慮の“事故”であった。半生が脳裏によみがえった。

あのときは無我夢中だったと。以前は敵国美濃の将であった、竹中半兵衛重治(こののち、得がたき軍師となる)を味方に引き入れるため、友好関係のない、いわば敵方の領地へひそみつつ乗りこんでいったときも単身で。また、蜂須賀小六正勝(のち、秀吉にとっての武功の将となる)とその一族郎党を、取りこんだときもそうであった。

ボクの白日夢は、さらにつづく。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(30)

幼き日よりの、武芸の稽古のおかげで仇を討てたわけだが、これで悲憤が癒えたわけではなかった。とはいえ城内にて、公然となげき悲しむことはできなかった。

戦場に身をおく以上は運命共同体であり、戦の展開いかんで喜や怒が錯綜し、哀や楽が渦巻く集団のなかの、ひとりでしかないのだ。

数倍の敵勢にとり囲まれた死ととなり合わせの状況では、誰もがじぶんのことで手いっぱいだった。

まして敵将は城攻めの名人、羽柴筑前守秀吉である。兵糧攻めにあえば、万にひとつも勝ち目はない。だから、個人の感傷など埋没させざるをえなかったのだ。

それに、領主の領地内の各所からつどう地侍たちは、もともとたがいに交流などほとんどしない。まして前田軍は、越前府中と能登の混成隊である。それゆえ、となりで討ち死にした兵士の氏素性をしらなくても、なんの不思議もなかった。

時代の流れのなかで、守護大名やそのあとに登場する戦国大名を領主として、その下に組みこまれただけであって、元来は、先祖伝来の小規模の土地をおさめてきた小領主なのである。

地元にて、もしじぶんたちの領地がとなり合っていれば、境界線をめぐって敵同士、あらそった経験をもつ間柄ですらある。それらの事由で、仲がいいということはなかった。

そんな地侍だが、ちなみに、豊臣秀吉による刀狩(兵農分離政策)以降は士分を取りあげられ、これも時代の流れで、江戸期には庄屋や名主などになっていくのである。

以上の理由から、たとえとなりの若造が悲痛なかおをしていても、気にかけるものはいない。いや正確には、忖度(他人の心裡をおしはかる)するだけの余裕をもてる状況下になかったのである、敵にかこまれている現下なのだから。

それにしても、父親の凄惨な死を間近でみた少年である、かれの心の奥底では、悲嘆がいえるどころか、増幅しつつ鬱積もし、渦巻いてもいたのである。

それが仇への憎悪へと変異し、さらに変化(へんげ)をとげての狂暴が、はけ口をもとめていたのだった、めらめらと燃えあがる復讐心の、そのはけ口を。

そこへのこのこ、父親の仇の主、この戦の元凶がやってきたのである…。

「又左殿(前田又左衛門利家…のちの豊臣政権の五大老、加賀百万石の始祖)、まつ殿(利家のつま)。筑前じゃ、わかるか。もとより、おたがいいがみ合う仲ではなかろう」

織田家家臣として、微禄のころよりとなり同士にて質素な居をかまえ、以来、助けあい励ましあいつつ心をゆるしあった友ではないか、筑前守秀吉はそう言っているのだ。

「太刀をおびてはいるが見てのとおり、単騎でまいった。よって、撃つな!撃つでないぞ。朋友の又左殿に、ちと、大事なはなしがあり推参したのじゃ。門をあけられよ。我ひとり入城ののちはすぐに、また固く門をとじればよいのじゃ」

賤ケ岳の合戦のこのとき利家は、秀吉の敵将柴田勝家の与力との立場にあった。二十三万石の能登領主として、越後以北を平定するために勝家をたすけよと、生前の信長にめいじられたからだった。本能寺の変の前年にあたる。

それはそうと、信長死後の織田家を二分したこの合戦以前すでに利家は、秀吉に内応していた、つまり勝家をうらぎり、「秀吉殿にしたがいまする」との密約をむすんでいた、との説をとなえる学者もいる。

しかしながら確証となる文献は、いまだ発見されていない。

にもかかわらずの、拠りどころとしては、秀吉軍と勝家軍の戦がたけなわだったおり、前田軍は陣をはっていた茂山から独断でひき払い、いわば柴田家与力としての立場を放棄し、敵前逃亡したとするむきである。

よって、退陣のさいの小競りあいは別として、本格的な一戦をまじえてはいないと。

たしかに陣をはらい、府中城にこもったというのは、史実ではある。

しかし敵前逃亡説のいっぽうで、秀吉軍と交戦、二千人はいた前田軍の相当数が討ち死にし、嫡男の利長とも一時(いっとき)ははぐれたとの文献が存在する。

ならば、乱戦になったということだろう。

おもうに、軍配があがるとしたら、この後者のほうではないか。

だとしても、内通の真偽についてはおいておく。

さて、二万の本陣をちかくに控えさせているとはいえ、敵城へ豪胆にも秀吉は、単騎でおしかけたのである。敵をとりこむさいの策として、たしかにこのやり口こそ、若きころからのかれの常套手段ではあった。

人誑(ひとたら)し藤吉郎(秀吉)の、だれにもマネのできない奥義だったのである。

大胆にして不敵な敵懐柔法はしかし、命のほかにうしなうものがなかった小者藤吉郎がもちいた、おのれの強烈にすぎる出世欲を満足させるための最終手段であった。

なるほど、数度経験した命賭けの手錬ではあるが、いまは、天下人にいちばんちかい存在なのだ。そんな危険なマネをと…、

それでも、秀吉にすればこのたびも、慣れた手法をもちいたにすぎない。

いや、こんかいの相手は家族ぐるみのつきあいで、しかも旧くからの友でもあり、昔のように隣家をたずねる気軽さで身をまかせた、という程度なのかもしれない。

ところで、平穏な現代日本とはちがい、戦国時代の武将は、いつ死んでもおかしくない状況に身をおいていたのである。文字どおりの常在戦場、現代からみればそれはまさに、異状な時代であった。

よって現代人が、秀吉のこのときの心境を推しはかるのは至難、ということだ。

ただまちがいない実、それは、このように幾度となくおとずれた死地にあっても、命を落とさなかったという事実である。

主君の信長以上に、強烈にすぎる運が味方をしていたということだ。

一例として、世にいう”金ヶ崎の退き口(朝倉家を攻めていた信長軍は、妹婿である浅井長政の逆襲にあい、信長は危機に瀕し、命からがらの撤退をした)“における、秀吉の殿(しんがり)(浅井・朝倉連合軍が勢いづいて襲いかかってくる攻撃にたいし、防戦しつつ活路をひらいた。おけげで、信長は命びろいをする)としての奮闘ぶりもそうだ。死を覚悟の、無謀な戦において、自軍の犠牲者が思いのほかすくなかったのも、奇跡としかいいようがない。

ところでこんかいは、水魚の交わりのゆえに、油断もあったのだろう、しかも二重(ふたえ)に。

さて、そのさらなる油断。

とは、いばりくさった目のうえのたん瘤、若きころから大きらいだった勝家にうち勝ち、またその以前には、「上様(信長)と嫡男信忠様の敵討ち」をしたとの最高の武勲もあり、次男信雄以下をしりぞけ、織田家の総帥に事実上なったからだ。

織田家中において、実子とはいえ単独では、もはや本気で歯向かうものなどいない、つまり怖いものなし、になったのである。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(29)

 小六時にいだいた疑念、これを解こうと、じつは以後も十八年ものあいだ、文献に接しつづけてきたのだった。ナゾ解きは日課であり、暇つぶしではない茶飯事であった。

ちなみに、あきらめが悪すぎるのも、ボクの欠点である。でないと、タイガースファンなんて、やってられない。

それにしても長かった。ほんとうに長かった、

が、辛抱と研鑽へのごほうびなのか、ついに来た!のである。

猛暑だった夏のつかれからか、日ごろの激務のけっかの疲弊によったか、はたまた、積年のおもいが化身にでもなって、頭のなかで構築された蜃気楼だったのか?

以下のことは、2003年九月十五日敬老の日の、突然の、いわば白昼夢である……。

 「開門、かいもーん」

越前府中城の大門の矢倉にむかって、馬上、大声をはりあげてよばわる一軍の将らしき武士。

しかしここは、硝煙にかすむ戦場(いくさば)。にもかかわらず甲冑をおびてはいない。いぶかる敵兵をまえに、いかなるわけか、平装である。

とはいうものの、絹製の衣装といい腰にさしたる意匠をこらした太刀といい、そうとうに立派な品々だった。さらに、手には金箔の采配をにぎっていた。

城内にたて籠もる男どもはもちろん兵装で、城をとりまく二万以上の敵方の将兵も戦闘態勢をとり、たがいに牽制しあっていた。まさに、一触即発といえた。

じじつ、半刻(一時間)まえにもはげしい銃撃戦をしあい、ようやく治まっての睨みあいだったのだ。

衆目の一致する緊迫したなか、あっけにとられるいで立ち。まるで物見遊山のような装束で場ちがいにのんきな風情を、この武士だけが漂わせていた。小康状態とはいえ、どうみても、まだそんな状況ではないのに、だ。

 それが証拠に守兵たちは、高楼にあって敵の動向に絶えまない警戒の視線をおくっていた。

まさに殺気だちの最中(さなか)を、“開門”とさけび、「撃つな!射かけるな!」と大声で要請しつつ、単身、馬上にておもむろに歩をすすめるこの武将だけが、撃ちあいなどなかったような、おだやかな笑顔をたたえているのだ。

すべてにおいてこの場に相応しくない、安寧を醸(かも)しだしていた。

さらに、ひとかどの武将であろうはずなのに、馬の口をとる従者すらともなっていないのだ。太刀をおびているとはいえ、敵味方双方の眼に、丸腰で無防備の、それはまるで道化に映っているのだった。

じつをいうと、銃撃戦において、この武将は指揮をとっていなかった。半刻まえに到着すると、「鎮まれ」とまずは命じ、それから平服にあらためさせたのである。

そのうえで、馬廻役を単騎たずさえて自陣をでたが、それも先ほど帰したのだった。だれびとも帯びざるが最良と、門前にては単騎でのぞんだのである。肝が据わっているとしか、いいようがない。

ところでかりに平安の世でならば、客人として平装こそ、あたりまえである。

「なにやつ!」府中城の大手大門わきの矢倉にたつ城兵のうち、年わかき守兵が誰何(すいか)した。初陣という理由だけでなく、気がたっていた。じぶんを戦場につれだした父親が、目のまえで討ち死にしていたからだ。

昨日の茂山から退陣中の戦においては、地侍(ちいさな村落ていどの土地を所有する小豪族で士分)という身分だった父親もじぶんも、殿(しんがり)集団(退却する自軍をまもるため、最後尾で敵軍とたたかう役柄)にいたのである。

ちかくで太刀を振るっていた父親の首に、ズブリと槍をつき刺した敵兵。それを、初陣祝いにと父親より譲りうけていた槍でつき殺したのだが、その感触が、いまだ両手にのこっていた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(28)

1985年八月二十五日の昼すぎ、人の姿がまばらになった学習室にて、おもわず漏らした「くっそぅ!」の一言は、じぶんでも魂消(たまげ)るほどにおおきく、

 図書館をあとにしての家路、漕ぐペダルが、やけにおもかった。

 はからずも舐めてしまった苦汁という敗北感に食欲はうせ、風呂にはいる気にもならなかった。

しかしながら、母の手前そうもいかず、夕食はそこそこに、風呂も格好だけですませたのである。萎えた、みじめな肩で、二階にあがりかけたボクは、

洗いものを終えたばかりの、ふりかえった心配げなその眉に、

「暑かったし、きょうは疲れたから」とだけつたえ、自室に引っこむなりベッドに、力なく倒れこんでしまったのだった。

嗚呼とため息をついては、あれこれ不成功の因を悶々かんがえ、鬱々頭をかかえこんでは、唇をかんだ。

まるで暗中、手さぐりで四方八方をうかがうに、つまり答えを求むるに、なんの感触もえられずの体(てい)。換言すれば、夢のなかにあらわれた蜃気楼を、つかもうとする様だった。

だからこそ、ただただ虚しさだけが…、

いつの間にかの涙が、耳を濡らしていた。

学校でならうことには答えがあるだけに、こんなのは初めてだったのだ。

あとで聞いたはなしによると、ボクのふさぎようを、両親はいたく心配したらしく、母にせかされた父は、よってドアをノックし、「大丈夫か」とたずねた、とのこと。

 が、ボクはなぜか、このくだりを記憶していない。

「うん、ちょっと疲れただけやし、寝たらなおるよ、きっと」に、

階下におりての「もう寝てたわ」とウソを、とくにいまだデリケートな妻を安心させ、守り、いたわりたくてそう言った、らしい。

いっぽうボクはというと、母の身におきていた驚くべき事実を、夏休みのおわる二日前にしらされ、そのデリケートな内容に涙がながれたこと、いまも忘れることはできない。

さて、でもって酔っていた父、息子にたいし肚で、“そろそろ思春期やし、初恋やら、それにおとこの生理もいろいろあるしな。母さんにはわからんやろうけど”と、二人だけのときに、後日ぽろっと。

邪推だったが、父のおおらかな性格が、涙目のボクにとってはケガの功名をもたらしたのかも。

おかげで、そっとはしてもらえた。

だが、それがよかったのかとなると、今でははたして?である。

ま、それはいいとして、このときはぽつり。とにかく独りで暗夜を明かりもなくすすむ心境、出口のみえない不安、というより、いったい、出口そのものが存在するのかとの怯えややり場のない憤懣、それらをどうすることもできなかったのだ。

_このあと、なにをどうすればええんや_

 これ、生来の性格によったのであろう。

おもえば大げさなのだが、進退きわまるとはこういうことか?とこのときは。

少なくともなにかにとり憑かれ、金縛りのようなものにでもあっているのだろうか?と、そう。

二進も三進も(にっちもさっちも)いかないなんてこと、人生初だったから、この先どうすればいいのか、正直、見当もつかなかったのである。

ともかくも、おしえられた、秀吉をふくむ十六人を徹してしらべた。その作業において、やりのこしたことはないと、いまもそう自負している。

にもかかわらず、捜していた根本的因を見つけだせなかった。眠れないほどにくやしく心底無念だったのだ。

じじつどう足掻(あが)こうと、堂々めぐりでしかなかったし、それがかなしく、また辛くもあったのだった。

ただただ解決したい、たったそれだけやのに…。なんで、願いがかなわないのかと。

当初いだいた、夏休みを存分にはあそべなくなるとの予見の後悔など、比すべくもない悔恨に、紅のなみだが耳にはいった。

しかし、だからといって、苦悩をかかえたままでずっと、というわけにもいかないことくらいは…。

ついには、秀吉転変の理由を特定できないままに、けっきょく、投了したのである。いや、放りだし、無理やりにでも忘れることにしたのだった…。

あとは、なるようになれ!

翌日からは、苦艱にまみれたまま、それでも読書感想文もかいていった。宿題という責務にとりくむことで、懊悩は、おかげで日にち薬、まぎれていったようだ。

十二歳のガキの苦渋と苦汁なんて、生活に根ざしていないだけに、このていどのものかと。

こうして不完全燃焼のまま、小学生最後の夏はおわり果てたのだった。

そうではあったが一方で、これもなにかの縁(えにし)か、こびりついたコゲのようにしつこく心の片隅、否応なく引きずりつづけていたのである、それこそ、ああ十八星霜……。

   十八年後の、突然の…変転、いや、解決とスッキリ

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