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~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(20)

いっぽう矢野は、被疑者を落とすその手ほどきをとおもい、実演しているのだ。

「窃盗自体、いい逃れができないと諦めたのなら話ははやい。というのも、そのドローンが第四の犯行(発生時刻がすこし早かった)につかわれたからね。いわんとする意味、キミならわかるよね。古賀夫妻爆殺現場で」古賀夫妻とは、爆発物搭載ドローンをぶつけられて殺害された夫婦のことだ。

「鑑識が遺留物の物的証拠をなにひとつ見落とすことなく回収し、科捜研がそれらを徹底的にしらべあげたけっか、夫妻の乗っていたクルマに激突させられたドローンの残骸から、残骸といってもほとんど木端微塵だったけれど…」

 東はというと、ひとごとのような態度をとっていた。しかし、警察がじぶんにとっては想定外の証拠を、もっといえば、有罪にできるような隠し玉を握っているかもしれないと、じつは疑心暗鬼になり、ひとことも聞きもらすまいとそばだてていたのである。

「それでも、日本の科学捜査は優秀だから、粉々になった欠片であっても、プラスティックの成分や塗料の成分などを探りだし、おかげで、盗難されたドローンだと断定できたのである」

 得意げな顔になりつつある矢野。ちなみにこの表情、被疑者をおとすための、駆けひき、かもしれない。

「さらには三度の、一連の爆殺事件において、爆薬の成分が完全に一致したよ。つまり三つの事件は、どれもおなじ犯人によるもの、とね」

一筋縄ではいきそうにない相手だからこそ、矢野が得意とする手練を駆使し、演技もそうだが、以下も手管(手練手管=ひとを思いどおりに操る手法)である。

つまり、論理的に攻めこみ追いつめていくことで、じわりじわりと逃げ場をなくしてゆき、やがて被疑者を投了においこむ手口、矢野はそれをえらんだのだった。

情にうったえるという手もあるが、いまの段階での東には、有効な手段ではないとおもったのである。

「……」口元は平静をたもっていたが、目元にはたしかに変化がでていた。視線が心なしかさまよっているふうである。それでも本人は、冷静を精いっぱいよそおっていたのだった。

「頭のいいキミには、これがどういうことかわかるよな」皮肉たっぷりである。「どれほどに優秀な弁護士が、『ドローンは盗まれてしまい、被疑者の手元にはなかった』とか、『同一の裏サイトで表示された製造方法にしたがえば、誰がつくっても爆薬の成分は一致してあたり前』や『たんなる偶然だ』とかの御託をならべようとも、同一犯の犯行だと」

 はたして被疑者は、連続殺害犯として、追いつめられつつあるのだろうか。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(19)

「結構です、審判がくだるまでは推定無罪でもあり、あなたの権利でもありますから」そして、しっている弁護士はいますかと、横からくちをはさんだ。

 さっそく東は、ある法律事務所へ電話をかけた。慎重居士のせいかくから、最悪こんな場面を想定し、そのときのために刑事事件専門の弁護士をチョイスしておいたのだった。

「さすがだな。四万三千人余の警視庁をむこうにまわし、犯人像さえうかびあがらせなかったほどの知能犯だけのことはある。これはまあ僕の勝手なみたてだが、弁護士と協議をしたけっか、許容範囲の窃盗罪は物証があるからとあっさりみとめ、いっぽう、連続殺人のほうはシラをきる。で、別件逮捕は不当だと弁護士に苦情、いや異議を申し立てさせる。ついで、最悪の嫌疑については証拠不充分で不起訴となるべく、最良の手をうたせようと。どうだ、図星だろう」矢野警部として、東がこうでてくるくらいは予測していたのである。

「……」すでに、ぷいと横を向いてしまっている。完全黙秘を無言で主張しているのだ。じぶんの思惑をズバリ、見透かされたからでもあった。

「なるほど、常套手段をつかうと。そういうことなら、弁護士がくるまでのあいだ、僕がはなしをしましょう。だまって聞いていればいい。どうせなにもできないんだし」矢野がバトンを受けつぐことにしたのである。

「……」目のまえで担当官が交代したにもかかわらず、東は眼をくれようともしない。

 そんなようすを、藤浪以下のこりの矢野係の面々は、マジックミラー越しに、“文字どおり“見学していたのである。

さて、口だけは達者なバカ田君、東が弁護士云々と口にした瞬間、じぶんたちには無意味なやりとりになったと感じ、潮時とみて質問した。「なんで、第三の事件、すなわち、おんな代議士が射殺された現場の訊きこみを、うえ(上層部)はどうして命じなかったのですか」

とわれた藤浪は「犯人にとってチャンスは一回かぎりで、失敗すれば警戒されるだろうし、再チャレンジは不可能となるでしょう。だから万全を期すため、あらかじめ、なんどか下見をしたはずだと。ならば、それを目撃されていることも充分にある。なのに目撃者捜しをしようとしない。たしかにそこが、ボクにも不思議でした」

「でしょう」には、藤川もうなずいた。

「そこで再考しました。ほんとうに頭のいい犯人が、目撃されるようなヘマをするだろうかと。で、ボクが犯人だったらどんな手をつかうべきか?」

 岡田たちは、ただ首をかしげた。

「そうだ!という三パターンを、おもいつきました。ほかにもあるかもしれませんが」

 みると、名探偵ホームズの謎解きを拝聴するワトスンたちが、そこにたっていた。

気を良くすると、「まずはグーグルマップを利用する」とズバリいった。

そう聞いて、藤川はひそかにじぶんを恥じた、得意分野のパソコンをつかうグーグルマップの活用に気づかなかったことにだ。

「または、ひとが寝静まった深夜、すこし離れたマンションの上層部から、赤外線双眼鏡で観察する。あるいは深夜、例のドローンをつかって、飛行音がきこえないくらいの上空から撮影した、とまあこんなもんでどうでしょうか」警部もここらへんを質問するはずと、つけくわえたのだった。

しかし藤浪といえども、矢野と星野が副総監を説き、原部長に、訊きこみをおもいとどまらせたことまでは、想像すらできなかった。もうひとつの爆殺事件の目撃者さがしに、捜査員を集中させるほうが効果的だと、謀ってナンバー2に言わしめたのだ。

でそのけっかだが、一同ただただ切歯した。漠然としたギモンを引きずったまま、いかんともしがたいとついに、担当した捜査員全員が犯人に白旗をあげてしまったのである。

“透明人間なんだろうか?“犯人とおぼしき姿をひともカメラも、ついに捉えることができなかったからだ。

ちなみに、被害者村川浩二邸は、セキュリティ会社と契約していた。

とうぜん捜査において、設置カメラの映像の検知も近隣への訊きこみも、徹底したことはいうまでもない。でもって結論をいうと、被害にあった高級車に近づいた不審者などいなかったと断定されたのである。

いっぽう、運転手兼私設秘書のほうはというと、六十代後半で独身者。古いワンルームマンションに住んでいた。かなりひとづかいが荒い雇い主だったが、年が年だけにかれは、辛抱して働くしかなかった。

訊きこみにより、格差のひどさから一瞬、腹いせの無理心中との意見も捜査員からでた。だが、爆薬の成分一致により、説は消えた。

で肝心のクルマだが、運転手宅ちかくの賃貸型シャッターガレージ内に深夜から朝にかけ、保管されていた。近隣はしずかな住宅街で、午前零時をすぎると、人影をみることはほとんどない。さらには、同駐車場半径200メートルに監視カメラもコンビニもなかった。

さらにわるいことに、シャッター駐車場であるがゆえに、なかに入ってしまえば、あとは少々物音をたてても、不審がられることもない。タイマーつき爆発物をつけるのに、問題は生じなかったであろう。

また捜査員がしたように、東も、撤して下調べしたはず。で、村川の身辺調査のけっか、被害者の毎日の行動が画一的だったことで、爆破時間設定にまようことはなかったであろうと。

くわえて、クルマにつけた盗難防止用センサーが鳴動しなかったわけだが、特殊部隊あがりの東なら、簡単に解除できたにちがいないと。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(18)

ところで、警察をさんざん玩もてあそんだこの若者。プロの巨大組織が愚弄された因のひとつが、変装の技量にあった。目撃者が、ついで警視庁がものの見事、幻惑されてしまったのである

矢野も和田も、目撃者の記憶だけにたよる危険性を、実体験として知悉(知り尽くす)していたが、向後のべつの捜査のことをおもうと、あらためてそれがあやういと実感しつつ、肝に銘じたのだった。

というのも、写真ではなく生を目のあたりにしたいま、岩見の地元後援会事務所で、直接に犯人の東と数日間はたらいた三人の証言と実物とが、かなりちがっていたからだ。

事ここにいたってはどうでもいいことだが、三人ともが推定年齢を、三十歳以上といっていた。また、いまは素顔だからだが、鼻の横にほくろはなく、出っ歯でもなかった。やはり、変装だったのだ。写真によりすでに素顔を知っていたとはいえ、まさに別人である。

このおとこにすれば、架空の人間になるための変装だったわけだが。まずは、目撃証言と実物がちがいすぎることで、さらには、指紋ものこしていないことで、万が一、警察が疑惑をむけてきたとしても、かんたんにはね返すだけの自信となったにちがいない。

そしてその自信が精神的余裕をうみ、取調べされる事態になったとしても、証拠不十分で拘束から解放されると。

じつは、矢野たちはこの余裕をねらうつもりなのだ。鉄壁の工作がうんだ余裕、確固たる自信、それを逆手にとり、砂上の楼閣へとかえるマジックなのだ。

つまりこう。自信や余裕が東のように過大だと、油断をうむ。そこにスキができる。それで警察をなめてかかっているうちに、しだいにのっぴきならない事態に陥ってしまったと気づき、やがて、自白せざるをえない状況へと誘導する。まさに、好事、魔多しである。

というのも、すべての事件において、犯人であることをしめす完璧なる証拠を、矢野たちがにぎっているわけではないからだ。正面からの正攻法では、限界があるとかんがえているのだ。

和田が憶測したように、変装グッズを使っていた(が、処分したのだろう、ガサ入れのけった、証拠品を押収できなかった)からだが、目撃証言の不備、防犯カメラの映像の不完全、歩容認証の不一致、存在しない残留指紋などなど。

それにしても、後援会の三人は,ものの見事にだまされてしまった。

東が陸自の特殊部隊に所属されていたあいだに、変装の訓練もうけていたにちがいないと。二人はあとで、この推測をぶつけることになる。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(17)

    取調べ

 取調べ室では、先刻のうちの、藤浪をのぞく三人と東が対峙していた。

 その一時間まえ、自宅の、ノックをされたドアを開けでてきた男をみて三人はなるほどと、アイコンタクトで賛同したのである。逮捕直前の東の、頭髪の長さについてだ。物証となったかみの毛の長さと、推定で一致したことにである。みた目約六センチは、軽トラ盗難時から逮捕までの時間経過と符合していると。

 むろん、DNAがすでに一致しているのだから、長さにこだわる意味はないのだが。

 で、翌日。

取調べにさきだち、担当官としての形式を踏襲したあと、和田が口火をきった。

「あなたならよくごぞんじのはずの要人連続殺害事件。でもって、きみはなぜ手をよごしたのかね」いきなり本論にはいった。単刀直入とはまさにこのこと。もちろん、動機なら推定できているのだが。

「えっ、なんなんだ!窃盗事件の取調べじゃないのか!」東は眼をむくと、イスから跳びはねるようにして立ちあがった。怒りで、全身が小刻みにふるえていた。

 さきほど矢野警部はたしかに、窃盗容疑の逮捕状だけを提示していたのである。

「別件だから気にくわないと、そうおっしゃるのですね」和田はなだめるような眉をして、いった。

このやりとり、聡明な読者諸氏は首をかしげられたであろう。DNAの合致により、爆殺事件の立証は可能なはずなのに、ドローンの窃盗容疑での逮捕だけとは?

だがこれは、矢野一流の手であった。東にみせた逮捕状は、わざと窃盗容疑だけにしたのである。にもかかわらず、殺人の取調べだと知らせ、故意に怒らせたのである。

さても、和田がみせたすまなさそうな態度くらいで、怒りが治まるはずなかった。

「もちろんそうだ!」とどなった直後、「もういい。いますぐ、弁護士をよんでもらおうか。おまえたちのやり口は、いまので充分にわかった。つづきは弁護士がきてから、で決まり。それまでは黙秘だ!」と、宣言でもするかのように。そして、でんとイスにすわったのである。

このおとこ、まだ二十五歳の若造なのだ。にもかかわらず、この態度であった。

いっぽう、対峙する矢野。

知識や知恵においては、この若造との甲乙、つけがたいであろう。

しかし目のまえの男のばあい、復讐成就のためならば犯罪も是、としてきた。

矢野はというと、犯罪を悪とする法の守護者である。法に背をむけることはできないのだ。護るものがないやつとは、力学的格差ができてしまう。制約があるぶん、どうしても弱くなるのだ。

ただし以下は、取調べが可視化されたから、ではない。そこはベテランの判断、すこし手綱をゆるめることにしたのである。

つまり、おもったとおりの東の態度にたいし、じぶんたちの土俵にのせられたと。

で窃盗罪について、クルマから採取できた毛髪という物証があると、しずかにそれをテーブルに置いたのだ。物証が捏造ではないとのいきさつを説明したあと、逮捕容疑についてだから、気をしずめろと。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(16)

 で二日後、Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)も活用でき、この軽トラの駐車ばしょを特定できたのだった。

 あとは、変装した東をみつけだす作業のみがのこったが、翌日の朝一番で完了したのである。

変装をし、歩容認証もごまかしてはいたが、凶器となったドローンを、風呂敷でくるんでいたとはいえ、廃屋となったビルのすぐそばまでの五メートルを、盗難車から運んでいる東を、カメラがとらえていたのである。

 さすがの知能犯も、証拠と推定できるドローンの存在をかくすまではできなかったというわけだ。

矢野があたまを悩ませるだけ悩ませて探しもとめた、これが、東がおかしたたったひとつの“ほころび”といえた。

 矢野には、ほかの係ではありえない、部下に警部補が三人。そのかれらをしたがえて、東の住所へとむかったのである。在室の確認は、まどの灯りにより、岡田がしていた。

とうぜんのこと、藍出は内ポケットに、逮捕状と家宅捜索令状をしのばせつつ、であった。

 むろん、ベテラン鑑識員も同行していたのである。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(15)

 いよいよの、DNAの照合である。東のデータは、防衛省からとりよせればいい。

これらを知っての問い合わせで、あすの午後一番でけっかがでますよと、科捜研から藤浪がそうきいたのだった。

でもって合致すればやつに、逮捕状という名のラブレターと、両手首に光るくさりつきのブレスレットをプレゼントできるのだ。

 そして二十四時間後、待ちに待ったけっかがでたのである、合致したとの。

おもえば、長さ四センチほどの、たった一本のかみの毛が、極悪犯罪者…東を、ついに追いつめたのだ。

やつの完全犯罪を崩壊させる、まさにこれが、待望ひさしい“アリの一穴”にあたるのではないか!

とはいっても立件できるのは、クルマの盗難だけ、でしかない。

ドローンをつかった爆殺事件となると、盗難車でドローンをはこび、爆発物をつけてそこから飛ばしたとの証拠が、すくなくとも必要だ

 他の二件の爆殺事件は、爆薬の成分がかんぜんに一致していることで、立件は可能となろうし、有罪もかちとれるはずだと。

 そのためには、どこから遠隔操作をしたかを特定しなければならない。だけでなく、その現場ちかくにおける防犯カメラの映像を入手することである。

いわゆる共謀罪(テロ等準備罪)、それの施行(2017年7月11日)で、住宅街における監視カメラ等が、順をおって秘密裏に設置されてきた、それらの映像からピックアップしなければならない。

 いうのはかんたんだが、生半可なまはんかな量ではない。

ちなみに、まずは住宅街中心にカメラの非公開設置を当局がすすめたのは、住宅地のほうがテロ集団は隠れ蓑にしやすいだろう、と踏んだからだった。

 遠隔操作したばしょの特定なら、二・三日で完了するであろう。なぜなら、あらたな手がかりのボロ軽トラをみつけだせばいいだけだからだ。前回とちがって、はるかに容易になった。

以前は車種が特定されていなかったがゆえに、爆殺事件発生時間からしか手がかりはなかった。爆発地点を中心に、直径十キロ強(ドローンの遠隔操作可能な距離)からみつけださねばならなかったのだ。よって、困難をきわめていた。

いわば、数学における座標軸のいっぽうたる、タテ軸(時間)はえがけていた。だが、交差するヨコ軸がえがけないから、答えのだしようがなかったのだ。

だがようやく、ヨコ軸(車種)もみつけだせた。おかげで答えを導きだせる、となったのである。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(14)

物的確証の入手。しかしそのためにはまず、東が盗んだくるまを見つけださねばならない。
すでに、和田警部補にはたのんでおいた。だが、捜索範囲が漠然としすぎている。くわえて、おもった以上に難航したのは、矢野が推察したとおり、軽トラの盗難届がだされていなかったためだ。
通常、盗難犯にすれば、たかく売れる高級車をねらうから、当たり前のはなし、軽トラが盗難されることはまれなのだ。
そこが捜査側の狙いめである。被害じたいがほぼないのだから。もし出されていれば、和田にすればすぐに気づいたはずである。
でもって、盗難届をだしていない被害者の身になってみた。以前は、こう憶測した。裕福な農家で、しかも廃車寸前だから、めんどうな手続きをわずらわしいとかんがえたのだろうと。
その農家じたいに重大な異変がおき、被害届どころではなくなった、というようなちがう可能性もあることは承知している。だが、そうだと、もはや雲をつかむような状況となり、捜索範囲のせばめようがない。
そこで、以前の仮説をおしすすめることにした。「可能性はゼロではない」からだ。捜査難航のばあい、矢野が捜査方針をかえるため、発想の転換をしたときにも、つい発してしまう言葉である。
しぜん、両方のゆびの腹をかるくくっつけたその格好のまま、唇におしあてた。まるで、祈っているかのように。これが、矢野が思考を集中させるときの、いつもの姿なのだ。
やがて、突飛にもおもえる理由があたまに浮かんだのである。このさらなる仮説こそ正着(囲碁での適切な手、転じて、正しい読み)だ、との幸運に賭けるしかなかった。

夜のあけるのが、これほどに待ち遠しいとは。
矢野は和田に、朝のあいさつもそこそこに、じぶんのおもいつきを話し、その線で、裕福な農家をさがさせることにした。
すぐに小会議がひらかれ、かれらはそれぞれのエリアを分担すると、矢野をふくむ七人はちらばっていった。で、離散、集合をくりかえした三日目、矢野の憶測が正着だったことが証明されたのである。
盗難されたくるまのもち主は、鉄道の駅にほどちかい、裕福な農家だった。土地売却で億単位の所得があったのだ。
盗難届をださなかったのは、手続きがめんどうも理由のひとつではあったが、それ以上に、ぬすまれてから三週間ほどがたったある朝、返却されていたことにもよった。
さて、不届けの理由だが、突飛ともおもえる矢野の正着、つまり、くるまが返却されていたから。は、並大抵で発想できるしろものではない。卓越した推理力のたまものである。
ついで、凶悪犯罪者の東が返却したその理由にも、矢野にはそこそこ自信があった。
幸運に賭けたけっか、探しだせた盗難車。そのもとに依頼をうけ、やってきた鑑識員がふたり。警部の推測(まだ、推理といえるほどの論理性はない)、つまり幸運がつづけば、犯人と特定できるほどの物証を発見できるかもときいたこのふたりは、おっとり刀で(さっそく)仕事にとりかかったのである。
矢野たちは固唾をのむようにして、ただ待つしかなかった。
さても、起訴できるだけの物証だが、はたして見つけられるであろうか。

「遺留指紋、それと、まだおちているかもしれない犯人の遺留品で、指紋かDNAを採取できるものがあれば、みつけてほしい」
そうはいわれたもののしかし、都合よくいくかどうか。いくら、警視庁一敏腕な警部の指示でもと、鑑識課員は心底ではいぶかっていた。
がともかくも、ひとりは車体にのこされた指紋…こちらは推定どおり徒労におわるが。で、もうひとりは遺留品をと、ふたりが手分けしての二十数分。さて、
「あっ、これでしょうか!」もうひとりが、甲高いこえで矢野をよんだ。
もうひとりの手元を凝視していた矢野は、待ってましたと、よびごえにすっ飛んでいった。そこで、目に映ったものは一本の、か細く頼りなさげなかみの毛であった。
ほんとうに欲しかったのは、盗難以降の日付けが印字されているコンビニのレシートだった。やつの指紋を期待できるからだ。
とはいうものの、かみの毛の色が黒かったので、希望的推測が具現化した、歓喜の瞬間ではあった。どうじに一抹の不安が脳内をよぎった。はたして犯人の遺留物か?ということだ。不安、それにつきる。
ただ、みつけた場所に期待がもてた。運転席の表面ではなく、背もたれとのスキマで、座部やや裏側にちかい部分に、髪はくっついていた。だからだ。
座席のしたの床におちていたわけではなく、イスにくっついていたのは、静電気の影響をうけたせいではないか。盗難の時期が冬ならばこそ、静電気が矢野たちに味方してくれた可能性はたかい。
ぎゃくに、東にとって不利だったのは、頭すっほりのニット帽をかぶってはいなかったことだ。
まあ、やつにすれば人相の隠しやすい野球帽を、証言によれば使用していたらしく、それで、えりあし付近の頭髪がおちたのだろうと。座席と背もたれのかみの毛ならば、粘着テープにくっつけて、慎重な東ならばもちさったにちがいない。
だが、入念に探さなければ見つけられない部だったこと。さらには、警察の無能ぶりをあざ笑っていたぶん、やつに油断があったのかもしれない。
攻守かわり、矢野たちの幸運。発見部もだが、なににもまして、農家の所有者がほぼ白髪で五分刈りの老人だったことだ。
遺留品とは、色も長さもちがっていたのである。東の現状をみしっているわけではないが、目撃者たちの証言では、やつは五分刈りではない。陸自時代は超短髪だったとして、それよりも三センチ以上は長くなっていた。退職してから、髪をのばしたようだ。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(13)

矢野は、ある居酒屋ののれんをくぐった。

その向こうにあったのは、底抜けにひとの好いふたつの笑顔だった。

「こんばんは」というなり彼は二階の住居部分にあがり、仏壇のまえに鎮座した。そこにはわかくして病没した、前妻貴美子の位牌がまつられていた。

香を焚き手をあわせると、無沙汰していることをわび、追善の辞をかたりかけた。

いかほどの時間、そうしていただろうか。

かれの背にやさしい声をかけたのは、元義理の母であった。かのじょの目には、感謝のなみだが光っていた。その眸が、ほんとうの愛息といまでもおもっている矢野を包みこみいった、したで用意ができたと。

ふたりは、これもだいじな息子の帰宅をよろこぶ、店主がまつ階下におりた。

無沙汰をわびようとする矢野に「そんな他人行儀な」と、元義理の父がいった。「それより、帰ってきてくれてありがとう。貴美子もよろこんでいるよ」あとはなにもいわず、眼で席をすすめた。そこは、矢野来店時の定席であった。終電の時間がちかづいたせいか、客はまばらになっていた。

目のまえ、かれの大好物の各種生野菜をそえたポテサラと刺身の盛りあわせがならべられていた。よく冷えた生ビールと日本酒も常温で二合おいてある。このあとはニンニクを効させたトリカラとだし巻き、しめは雑炊となっている。

料理によって酒類をかえることも、血のつながらない親たちには折りこみずみなのだ。

矢野は義父をいつも「おやじさん」と、親しみをこめてよぶ。「もう三年になりますね」前妻のことをである

大阪出身の元義父は、「そうやな。はやいもんや」ため息まじりになった。

「せっかく帰ってきてくれたのに、もう、湿っぽいはなしはそのへんにして」愛娘のことを思いつづけてくれているのを内心ではありがたくも嬉しくもあるのだが、“おふくろさん”とよばれる元義母は、“一(かず)ちゃん”の隣にすわると、ちょこに酒をそそいだ。

そんな両親に矢野は、真弓との結婚をゆるしてもらえるようお願いにきたのが、一年半ほどまえのことだった。

そのおり笑顔で、かわいい息子のしあわせを願わない親はいないよと、こころよく即答してくれたのだ。

そのこともふくめ、かれは感謝している。すでにいない両親がまだ健在だったなら、こんなふうにじぶんに接してくれていただろうと。

酒肴がすすんだところで、「ところで、変わったことはありませんでしたか」だいじな両親が、犯罪などのややこしい事柄にまきこまれていないか、の確認だった。

以前、わかいカップルによる計画的無銭飲食に遭ったことがある。犯罪だからたちが悪いのは当たりまえだが、やり口がえぐかった。詐欺的要素もくわわり、滋味(このばあいは豊かな人間味)を逆手にとりじつに巧妙だったのだ。

で、都下だけで数十件あった犯罪の、注意喚起をしておこうとかんがえた。

飲食店の出入りぐち付近の客の荷物を、外部から突然おそうようにして奪い、そのまま逃走するという原始的な窃盗事件だ。そんな被害に遭った客は、なにがおきたか唐突すぎて理解できず、ただ口がポカンとひらいたまま、しばし呆然としてしまうらしい。

「ああ、それなら去年のすえ、うちでもあったで」おやじはこともなげにいった。

「けど、未遂でおわったわよ」おふくろさんもつづけた。

ふたりの話をききながら、ずいぶんと疎遠になっていたことに気づき反省した。いわれてみれば、昨年の十二月半ばに場壁殺害がおこり、以来、忙殺されてしまったのだから、無理もないといえばそれまでなのだが。

「で、よほどに慌てたんか、にげる犯人が遺留品っていうの?コンビニのレシートをおとしていったわ」

「よほどに慌てていたとみえて」このふたりのやりとり、まるでかけあい漫才のように間のとり方も絶妙であった。仲がいい証拠である。

「では、被害はなかったんですね」安心し、鯛の刺身に舌つづみをうった。しかし、やがて矢野に異変がおきることに。ふたりのやりとりの起承転結の“転”となるおやじさんのある一言が契機となった。そして“結”は、矢野の希望的推測のかたちをとるのである。

それはそれとして、おいしそうに好物をほおばる、まるで息子の横顔をふたり、好ましくおもっている。

いっぽう、「いつ食べてもおいしいです」とすなおにいう矢野は、未遂犯がレシートをおとした経緯をつぎのように推測していた。

おそらくは模倣犯で、しかも気のちいさなやつだろう。さらに、寒さで手がかじかんでいたとしたら、荷物をとり損ねたとして、それもとうぜんだったろう。

「いや、まてよ」ここで、こんかいも閃いた。犯行直前までポケットに手を突っこんでいたとしたら?で、左手でドアをあけ、店に飛びこむとどうじに、カバンを奪取しようと右手を勢いよく出した。そのはずみで、ポケット内のレシートが飛びだし、店の床にフラと落ちた、のではないか。

そもそも、置きびきに技量はいらない。手と足さえはやければ。でもこんかいのは未遂であった。たぶん、素人だったから。おふくろさんではないが、慌てていたようすが目にうかぶ。とうぜん、事件は一瞬だった。店にいた時間はごくわずかということだ。よって、落とすひまもなかった。上記以外では、レシートが遺留品になった経緯だが、説明がつかないだろうと。

ところでだ、夫がもとの妻の実家にたちよっても、愛妻の真弓にはなんの不満もなかった。もはや故人というだけでなく、いまはじぶんが心から愛されていることにじゅうぶん満足しているからだ。

そのへんのところをおふくろさんは問うたことがある。「きてくれるのは嬉しいばかりだけれど、おくさんは怒ってないのかい」こまやかな心配りである。

こんどは親父さんが酒をそそぎながら、「未遂事件とはいえ、そのレシート、証拠品として」捨てずにのこしているのは、警察官を息子にもったとおもっているからか。「警察にわたしたほうがええんかな」としかし、口ではいったものの、警察にとどけると手続きが面倒だから、そのじつイヤだった。無銭飲食の被害届をだしたときに一時間ちかく事情聴取され、懲りているのである。

「わかりました」未遂事件の日にちと時間、人相や服装などを簡潔にききながらメモし、親父さんにかわって岡田に手続させることにした。必要事項の書記に一段落ついたところでしかし、「……まてよっ!」と再度さけんだのだった。

唐突にすぎる大声にちょっとおどろいたふたりは、すでにデカの顔になっている矢野を、たんなる窃盗未遂事件なのにと、怪訝な表情でみた。

だがそんなふたりに頓着することなく、――そういえばドローンを盗んでいた、いや、そのあとで操縦訓練を数回はしていた――ことを思いだしたのだ。――もしもその折、指紋がついたなにかを気づくことのないまま、盗難車の床に落としていたとしたら――ご都合主義的おもいつきではあるが、賭けてみる価値はあると、デカの勘が言わしめた。

こんどは黙りこんだ、眉間にしわの矢野のジャマをしないよう、ふたりはそっと席をたった。

そんな気配をかんじるでもなく希望的推測をつづけ――そしてそれが、まだ残っていたとしたら、こんどこそ物的確証を手にできる!――と、さらに我になく我田引水したのである。

ひとがきけば、もはや夢想でしかないとおもうだろう。

しかし矢野には、可能性がゼロとはおもえなかった。

「親父さん、こんかいもタイムリーヒットかもしれません」と謎のことばと樋口一葉を残し、かれは急ぎ帳場にもどっていった。“こんかいもタイムリーヒット”といったのは、いままでにもなんどか、事件解決のヒントとなるいぶし銀のことばを、じぶんに注いでくれたからだ。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(12)

さて、矢野のことに戻すとしよう。

で、それた脇道を修正し、試行錯誤的思考を、いまだつづけていたのである。

やつといえども、どこかでミスをしていたのでは、と再度。だがどこをどう足掻いても、“ここをつつけばあるいは?”すらも、ひねりだせないでいた。

そうなるとおもう。やつはそもそも、ミスなどしなかったのではないかと、また。

こうして思索はやがて、堂々めぐりの陥穽(かんせい)(落とし穴)におちいってしまった。矢野がかかえる欠点なのだが、先がみえてこないと、いつしか弱気の虫が頭をもたげてくるのである。

……というのも、概略、既述したことだが、

血だまりのなかで息絶えた無残な両親の姿を、気絶するまでの二・三秒間見てしまった小学校五年生の矢野一彦少年。

そんなおそろしい光景が、心裡において尾をひかないはずなかった。

悪影響として…難問や、とくに捜査の難関にぶつかるたび、悲観がふくらみ、自身をへこますのだった、ここが限界かと。

そんなふうに、弱気の底なし沼に精神がうちひしがれると、矢も楯もたまらず、心のふるさとにかえりたくなるのだ、ケガをした小鳥が親鳥をもとめるように。

矢野は星野管理官に概略をつたえ、許可をとった。

そのあたりの事情にもあかるい星野は、笑顔で帳場からおくりだした。

不思議と帰巣後には、矢野が事件を解決してみせることを、経験でしっていたからだ。

~秘密の薬~  第一部 悪法への復讐 / 第四章  犯人逮捕(11)

さて、矢野の脇道ついでに、筆者もここで東の心裡をわずかではあるが、垣間みるとしよう。

俯瞰を、時・空間においてするなら、入隊時は復讐のみであったが、しだいに常軌からの逸脱をすることとなり、信じがたいほどの飛躍とその実行計画…を、いまや、かんがえている、ようだ。

この想念がじつは、第二部とかかわっていくことに……、

だが、いまはここまでとする。

いやいや、もうすこしだけ。その第二部だが、…復讐自体、常人からは、異状心理におもえるであろうと。だから、そんな愚の因となる犯罪こそをこの世からなくしてゆこう。そう、かんがえを飛躍させた官僚や医学者たちの顛末をえがくこととなる。

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