――やがては妻を殺すつもりやった医者――このことに、岡田は今も拘泥(こうでい)している。人の命を救うべき、その意味で聖職の名を冠する者が、尊い使命を放擲(ほうてき)しただけでなく「命を奪い続けるなんてとんでもない!」と怒り心頭なのだ。しかも「元妻の死の数カ月後には病院長になった」と、すでに報道された情報にもかかわらず、事情通ぶった。「単なる出来すぎた幸運でしょうか」とも付け加えた。なるほど、岡田の説によるまでもなく、妻が死んでくれたおかげで病院長の椅子に座れたのだ。逆をいえば、前の妻が存命ならば到底得ることのできなかったセレブの地位である。さらには、隠し子がやがて、実子として燦々と陽を浴びることも夢ではなくなるのだ。「婿養子として入籍できたおかげで今の地位に身を置けたのに」不知恩にも「恩人である妻まで殺そうと計画してた。否、いずれはの妻殺し」と、独りごちていた。「たしかに、拓子の死の原因を成した直人。とはいえ、己が命で贖(あがな)わなければならないほどの大罪を犯してはいない。なのに卓は、自分の隠し子に渡辺家の全財産をいずれ相続させるために、まずは直人を殺した。さらには病院理事長に就かせるため…、ああ、何という強欲」岡田はつい、皆にそう力説したのである。
そしてじつは、矢野も同意見であった。それで初めは聞き流していたのだが、ふと三つの言辞に、デカの性分が強く反応したのである。
1 おかげで今の地位に身を置けた   2 出来すぎた幸運   3 妻殺し。
「バ、いや、岡田っ!お前はやっぱり貴重で得がたい戦力や」感謝のあまり頬ずりしてやりたくなった。もっともそっちの気は微塵もないわけで、それが互いに幸いしたのだった。

直人の義父の死は、射殺という、日本では稀な殺害方法のせいで紙面や諸報道番組を賑わせていた。おかげで、渡辺(旧姓は滝本)卓が過去に当事者として関わった元妻の殺人事件のことも矢野たちの知るところとなっていたのである。

ひとは人生において、年下の身近な人間の死に、それほど多く接することはない。それなのにまだ四十代の身で、約八年前には当時の妻を、今年は義理の息子を亡くしたのだ。統計的にかなり低い確率だろう。だが、現実に起こったのである。しかも、どちらの殺人事件にも大きく関わった。うちひとつは、義理の息子殺しだ。こうなると、先年の殺害事件にも因果があったとする方が自然ではないか。ここまで論を進めた矢野は、さらなるどんな因果を胸に思い描いたのだろうか。ならばもう一つもあるいは?…となったのである。
七年八カ月前の、渡辺卓の元妻の事件について徹して調べる必要性と、裁判記録から得られそうな情報に、つい胸が躍った。

彼は早速、当該訴訟記録(訴状・答弁書・証書・判決書などの公判の記録)閲覧申立てを書面で各保管検察官に提出したのである。許可が下りるまでに少々の日時が掛かった。
ところで、閲覧にはいろいろと制限があり、被告事件終了後三年という期限もそのひとつだった。当然のことながら上記の殺人は、被告事件終了後三年を越えていた。だが彼は、司法警察員という資格でもって閲覧することができたのである。それでも、訴訟記録のコピーは不可だった。よって訴訟記録を、デジカメで撮影したのである。

卓の元妻は、樫木伊沙子という女性によって頸動脈を切り裂かれて死んだのだった。<滝本心療内科クリニックの患者だった樫木が診察室で医師の妻を殺害という、先述した事件である。ただ、凶器が診察室にあったカッターナイフだったこともあり、殺意は認められなかった。樫木は殺人罪ではなく、傷害致死罪で五年の刑を言い渡されたのだった>
訴訟記録を読み終えた結果、滝本卓が実は犯人だったという期待した肝心の先入主、残念ながら可能性は皆無だとわかった。殺人を教唆した事実もなかった。国選弁護人ではなかった樫木の弁護士が、一審と控訴審で、ただただ情状酌量を訴えただけで、誤認逮捕や別の犯人説をただの一度も弁論に交えなかったからだ。さらには、被告人の自白もあった。
(以下は、訴訟記録の概略とそこから矢野が導き出した推論もまじえている)
ある宗教団体の代表を務める両親によって選任された私選弁護人は、既述したとおり情状酌量を唯一の戦術としたのだった。国選弁護人の戦法だったなら、矢野にも理解できた。国選では収入につながらないから、弁護士は初めから白旗を上げて裁判に臨む。国選は弁護士の法的義務を果たすためであって、だから親身と真剣みに著しく欠けるのが通常だ。

しかしながら、私選弁護人も情状酌量を唯一の戦術としたのは、それしか手がなかったことを示している。もし少しでも被告人が犯人でない可能性があるならば、弁護人はそこを衝いていき“疑わしきは被告人の利益に“の原則のもと、無罪を勝ち取ろうとしたはずだ。テレビドラマでは真犯人を提示したりするが、現実には、弁護側は被告人を灰色と裁判官たちに認定させることができればそれで勝利なのだ。その戦術をとれないと判断しそれを依頼者側も了承したという意味において、被告人である娘が犯人だと両親も認定していたことになる。もしそうではなく、両親や被告人が無罪を訴えるのであれば、その戦術に反対しただけでなく、たとえ裁判の途中であろうとも弁護人を解任したはずだ。だが、私選弁護人は解任されることなく最後まで戦ったのである。
矢野は弁護士の経歴についても調べた。刑事事件を得意とする老練な弁護士だと評判の、まさに適任者であった。ならばよけいに、自白調書にもあったとおり犯人は被告人以外にいなかった、となる。
矢野と岡田の思惑はハズれ“単なる出来すぎた幸運だった”、に帰結してしまった。

普通ならここで諦めるのだが、矢野はしかし違った。忍耐強く、可能性がゼロにならない限りひたむきな執念を燃やし続ける質なのだ。彼の深慮に果てはないようである。
答弁書を読み始めた時点で、情状酌量を唯一の戦術とした本当の理由が特別な事由のゆえに存在し、それで単なる常套戦術を採らなかったと矢野は知ったのだ。通例なら情状酌量の主眼目として、心神耗弱を申立てて減刑を狙う。特に殺人という犯罪は通常、精神に異常をきたしているとの専門的視点もあるほどだからだ。弁護人は当然それも訴えたが、減刑を勝ち取るための戦術は他にあった。
その戦術とは?心神耗弱とは比較にならないほどの説得力がある、少なくともそう、被告側も弁護人も考えたからそれをもって最後まで戦ったのだ、勝利を信じて。

矢野は、特別な事由の主張について詳しく知る必要性を感じた。当然最後まで読み切ったのである。おかげで弁護人が一審でも高裁でも一貫して主張していたこと、俄かには信じられない衝撃的過ぎるその事実を知ったのだった。同時に、その事実が裁判で認定されれば、たしかに大きく減刑されたであろう、否、されたはずだと素人の矢野でも思った。

弁護人は、以下のとおりに主張したのである。(ちなみに検察側がなした異議申立てだが、ここでは必要がないので割愛する)
「三回目となった診察において、医師の身にもかかわらず、立場にもとる事件を惹起しました。滝本医師は患者だった被告をレイプしたのです。それまでに被告人を二度診察しましたが、当日に限り、診察時間を初めて最終にまわしたのです。意図は、見目麗しい患者に劣情を懐いたからであります。それで、邪魔となる存在の受付の看護師を早退させました。しかも初めての早退要請だったとの証言を得ています」

このあとの、弁護側証人に対する検察側の反対尋問は苛烈だった。なかでも、看護師が二週間前に依願していた日にち未指定の早退を医師が了承したという事実を、彼女自身に認めさせた点だ。それで邪魔者排除という、レイプとの関連性の根拠は覆されてしまった。
にもかかわらず、それでも弁護人は、「レイプを依願早退日に合わせた」と主張した。
だが、裁判官の心証は被告側にとって芳しいものとはならなかったようだ。

しかしながら、弁護人はひるまなかった。殺された妻に、手の込んだ本格的なビーフシチューとカニクリームコロッケを作らせた事実も披露したのである。二つのメインディッシュはもちろんのこと、それぞれの味の決め手となるデミグラスソースやタルタルソースまでもキッチンで作っていたことを示す現場写真を証拠として提出したのだ。目的は、妻が診察室にやってくる暇(いとま)すら与えないよう、料理に専念させるためだったと。

なるほど、刑事事件に手(て)錬(だれ)た老練な弁護士だと矢野は感心した。大胆にも、住居と同じ建屋の一階部の診察室でレイプしようとすれば、妻をキッチンに釘付けにする必要があったと踏み、漁るようにしてなんとか見つけ出した現場写真であったろうとみた。

検察官はしかし、滝本医師の単なる好物にすぎないことを当の本人から証言台で引き出した。医師はさらに「一カ月に二度は作ってくれます。だから、あえて依頼したことはありません、むろんその日も含めて」そう、裁判官の眼を堂々と見据えはっきりと答えた。
おかげで憶測程度の事実となり、弁護人の労作業も徒労に終わってしまったのである。
レイプに対し客観的事実が存在すれば話は別だが、元々、難攻な砦を責めるに等しい、立証するに困難な案件だったのか。
そうではあっても、レイプが事実だったことをなんとしても証明したい。だが願いも虚しく、次第に足掻きの様相を呈し始めるのだった。弁護人に残されていたのは、ただただ諦めない執念だけであった。「被告人は高校を卒業して約二年、女性陸自隊員として勤務。しかし厳しい訓練のみならずセクハラや人間関係に苦悩しやがて精神的疾患を自覚するに至りました。提出した休職願いが受理され実家に戻ると、近所の心療内科に通い始めます。滝本クリニックに、です。そこの滝本医師は、二十歳のこの美人がバージンだったとは思いもよらないまま、事件当夜、治療のために必要と偽り鎮静剤を勧めました。被告人は、それがじつは睡眠薬とは知らずに飲んで眠ってしまったのです。だが、処女だったせいで被告人は下腹部の激痛で意識を取り戻し、レイプされていることに気づくと思わず大声をあげたのです。それを妻が聞きつけるところとなり、診察室にやってきた。被害者はクリニックの評判を守るために、『あんたが誘惑したんやろう、男漁りのこの淫乱女(ばいた)!』と被告人を口汚くなじりました。身に覚えのない被告人は、当然激しく反論しました。すぐに揉み合いとなり、結果、悲惨な事件が起きたのです。しかしながら、むろん殺意はありませんでした。ただただレイプの事実を認めさせたかった、少なくとも妻からの難詰を止めさせたかった、それだけだったのです。しかしこんなことになったのも被告人がレイプされたからであって、ここに全ての原因があったのです。……百歩譲って、仮にレイプがなかったとしましょう。ならば、被害者はどんな理由で診察室にやってきたのでしょう?さらには、何が原因で、被告人はカッターナイフを手にするにいたったのでありましょうか?」精一杯で最後の反撃だったが、折れた刀ほどの威力もなかったことがやがて明らかとなる。
検察官が強烈な反論と追及の手を少しも緩めなかったからだ。
「被告人から採血し検査をした結果、睡眠薬は検出できたのか」
「残念ながら、初動捜査に当たった刑事の発した『お前の犯行やな!』の一言に被告人の血相が変わった。それでなくとも人間不信、ことに男性不信の最中に被告人はあった。男性鑑識員が腕に触れようとするとそれを振りはらい、血液採取を拒み続けた。仕方なく別途呼びつけた非番の女性鑑識員の到着までに、時間が掛かることになってしまった。そのため半減期すら過ぎてしまい、睡眠薬の成分をそれほどには検出できなかった次第です」
「検察官の知り得たところでは、微かに検出はしたが、前回の診療時に処方された睡眠導入剤を前日に服用しており、その残りの成分とも考えられた。違いますか」

ここでは裁判官の心証を忖度(そんたく)し、あえて、睡眠薬云々の陳述が弁護人の憶測にすぎないとまでは述べなかった。被告側を追い詰める手段は、他にも揃っていたからだ。
「被告人から精液が検出されていない。それでもなおレイプされたと言い張るのか。ならばその物的証拠を示してもらいたい」
「コンドームを使ったと考えている」
「使用後のコンドームは出てきたのか?鑑識の報告書には見当たらないが」
「警察が来る前も含め、トイレに流す時間なら充分にあった」
「まあいいでしょう。ところで、コンドームをカバーしていたパッケージも流したと?実験してみたが、水より比重が軽いせいで流れなかったが」
「弁護人も実験してみた。中に十円玉を入れて水中に沈めてしまえば簡単に流すことができた。しかしコンドームを使っていない可能性もある。被告人はバージンであったため、先刻も申しあげたが、激痛で覚醒したのである。完全な挿入すらできなかった滝本医師は、おかげで射精しなかったわけで、精液検出がなかったのもこれで説明がつく。ちなみに被告人は、陸自の厳しい訓練を受けたせいで処女膜が損傷しそのとき出血したか、挿入が不充分だったからか。ときに、出血しない女性もいる。そんなわけでレイプ時には出血しなかったと考えられる」出血がなかった点を追及される前に、それを予測した陳述となった。
「レイプが事実ならば、被告人の身体に滝本医師がつけた痕跡はあったんでしょうね」
「痕跡は確かにあった」レイプを認めない検察官がどう応酬するかはわかっていた。
「被害者と揉み合いになったときのではないのか」やはり、弁護人の思惑通りだった。

矢野は頭の中で、こんな丁々発止のやりとりを想像した。実際にあったかどうかはわからないが、法廷内での緊迫した攻防を推測した、これはその帰結である。
弁護人の要請で、当夜の診察に当たった医師が、次回法廷にて喚問されたのである。その医師は、事件発生直後の検視に立ち合った医者だった。「加害者の身体にあった圧痕や擦過傷ですが、判断が難しくどの状況下でできたかは断言できません」と証言したのである。

賭けであった。が、痛み分けの結果だった。弁護人としては、滝本医師によるものという《棚ぼた》的判定を少々期待していたのだが。こんな、どう転ぶかわからない賭けに出たのは、そこまで追い詰められている証左でもあった。ただし不利に働く心配はなかった。あえて、もし有利があるとすれば、裁判官の意識にレイプの文字を刻めたことであった。

ところで、弁護人にはあえて触れなかったことがある。圧痕や擦過傷の真の原因についてだ。本音をいえば、滝本医師がつけたとは考えていなかった。もとより、押し倒しや押え付けもしていないだろうからだ。被告人は騙されて睡眠薬を飲み、意識がない状態にあった。つまり何の抵抗もできなかったわけで、医師が押さえ込む必要はなかった、となる。
ところで公判前に、弁護人は被告人から事件当夜の始終を聞いていた。「パンストは脱がされ処分されてしまったようだが、下着は脱がされていなかった。穿かせたまま(挿入)しかけたようだと。激痛で意識が戻り大声をあげた。叫び声に驚きのあまり呆然とした医師は被告人の口を押さえることも忘れ、自然と身体から離れた。大声のあとだ、今さら静かにさせても意味がないと覚ったのか、足元に落ちていた何かを拾い上げトイレに駆け込んだ。中から頻りと水を流す音が聞こえた。そこへ被害者となる妻が診察室に入ってきた。主人がトイレの中にいるとすぐにわかった様子で所在を訊きもしなかった。水平にされたリクライニングチェアにおぼろげに横たわる私(被告人)を見詰めていた眉目を、一瞬ののち怒りが占領した。女の勘で情況をおおよそ察したようだ。むろん、誤解だったが。その誤解を私が解く間もなく、罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)の限りを浴びせかけてきたのである」
弁護人は考えた。足元に落ちていた何かとは、コンドームであろう。レイプが公になってはヤバいと思った瞬間に萎え、身体が離れた刹那外れ落ちたとみて間違いない。頻繁に水を流したのは、何度試してもパッケ―ジが流れなかったからだろう。コンドームを装着し下着は脱がさなかったのは、証拠を残さず、事後処理も速やかにできると考えたからだ。

検察官も、圧痕や擦過傷の真の原因については、これ以上の言及を避けた。詮索をしすぎることで、もしも滝本医師がつけたものと判明したなら、《墓穴を掘る》事態に陥らないとも限らない。弁護側の言を認め、ついてはレイプすらも認めることになるからだ。

一方、被告側の主張を裁判官が受け入れていないと、経験により認識した弁護人。それでもなんとかして劣勢を少しでも挽回すべしと、彼には最終手段に思えた、レイプが事実だったと示唆するある状況を、現場写真に求めたのである。「現場にはペンやカルテなどが散乱していた。椅子も倒れていた。暴行から逃れるために被告人が必死で逃げまどった結果、現場がこのように荒れたのでは?」被告人から聞いた事実とは相違するが、形振りを構っていられる状況にはもはやないのである。「先生はどう思われますか」先刻から証言台に立っている医師に問うた。(すかさずの異議申し立ては既述のとおり割愛)
「ならば私の方から弁護人の説に沿って反論するが、それも違う」と、検察官は“も”を強調した。「ペンやイス等散乱していた品々から被告人の指紋は全く検出していない。仮に暴行から逃れた結果とするなら、品々に指紋が付いていて当然ではないか!弁護人、鑑識の報告書に目を通すくらいの労は惜しまないで頂きたい」と揶揄半分で挑発したのだった。

しかしそんな相手の手に乗ることなく、「大阪地検にて優秀で通っている貴方こそもう少し想像力を発揮してもらいたい」とまずは軽く応酬した。「男性を相手に逃げまどっている時は、女性ならばなおさら必死である。机に置かれていた品々に腕や身体に当たったり足で椅子を倒したりするのが普通ではないか。指紋が付いてなくて何の不思議があろう」
むろん負けていない。「弁護人はこの公判の目的をお忘れとみえる。存在しないレイプ事件ではなく、現実に起きた殺人事件を審理するためである」声高の検察官は弁護人を睨んだ。「散乱していた品々はしたがって、凶行時に被害者が抵抗し、被告人と被害者が揉み合っていたときにそれぞれの身体により押されたり当たったりしてこけたり倒れたりした、その結果である。だから指紋が付かなかった。これこそが真実である」検察官はレイプそのものを否定しているわけで、その線に沿って必然の反論を展開したのだった。これも当然のことだが、被告人が弁護人に話したレイプ時の状況など知る由もなかったのである。
よって、立場の違いにもよるのだが、双方の見る方向は違っていた。もし、レイプが事実だったと知ったら、この検察官はどんな戦術を裁判で使っただろうか?
「当方がレイプを問題視するのは、被告が刃物を手にすることとなった経緯、凶行に至ったその経緯を知ってもらいたいがためです」裁判官に一礼し、彼らの眸を見つめた。
「それはおかしい。レイプを問題視するのならば、滝本医師が被害者でなければ辻褄が合わないではないか」と検察官は弁護人を凝視しつつ、「さらに申せば、パンストはどこに行ったのでしょう?仮にレイプを事実とすればの当然の疑問です」不敵な笑みを浮かべた。

法廷は被告人と弁護人を除き、検察官の発言の意図がわからず、疑義に支配された。
「事件当夜はまだ三月で肌寒い時期でした。なのに被告人はパンストを履いていなかった。ちなみに、火を使う料理に励んでいた被害者ですら身に付けていました」証拠申請を受理された遺体写真を指で示した。「ところで、レイプするのにパンストは邪魔だったはずです。当然、滝本医師が脱がしたと。ならば現場にそれが存在してなければならない」弁護人に比べ、優位なぶん冷静さが際立った。「はてさて、一体どこにいったのでしょう、かっ」
「…」さすがの老練も窮してしまった。公判前に思慮を重ねたのだがこの謎をついに解けなかったからだ。無理に「履いてなかったからです」といった声は、微かに上ずっていた。

窮した滝本がトイレの中で、まさかそれを履いたとまでは思いつかなかったのである。
「裁判長、弁護側はいたずらに公判を引き延ばさんとの意図…」
「いえ。裁判長、どうかお聞きください。元より、被告には誰に対しても殺意があったわけではありません!ただ残念でならないのは、いわれのない面罵に対し、感情が昂じ凶行に及んでしまったことです。弁護人としてその事実を認証頂きたいのであります、裁判長。殺意がなかったぶん、犯行直後、放心してしまった。殺意があったならば滝本医師にもナイフを向けていたはずです」殺意がなかったことを、情況を利用し強調した。さすがにベテランだけのことはある。「むろん、公判引き延ばしの意図など毛頭ありません。その必要性を感じていませんから。ただただ、真実を追求せんとのみ欲しているだけであります」
「そこまでレイプを事実だと言い張るのであれば、目撃者、用意しているんでしょうな」
「早退の手法に対する見解の違いはこの際どうあれ、滝本医師がとにかくも看護師を当夜早退させた。被害者である妻もキッチンに留まらせる工夫をした。しかも現場は診察室という閉鎖された空間である。よって状況に鑑み、残念ながら誰一人もいるわけがない。逆をいえば、存在しないように滝本医師が仕組んだからだ。その事実は、先刻具申した次第です。こちらの検察官は時折このような無体を言われる癖(へき)をお持ちとみえる」そう裁判官に向けて発した。手錬の弁護人は、一矢報いる程度ではあるが、少し溜飲を下げた。
しかし優位にある「検察官としましては、現場の状況から客観的にこう見ています。つまり被害者は、被告人の大声を聞いたからではなく、診察終了予定時間を二十分ほど過ぎていたので『どうかしたの』との軽い気持ちで診察室へやって来た。この二十分程度の遅延があったとする確かな推定は、およその犯行時刻から逆算することでできる。なぜなら、当夜早退した看護師が被害者死亡推定時刻を教えられ、その時刻は、いつもの診察終了時間より四十分程度遅延していたと証言したからだ」と、弁護人の一矢を無視したのだった。
「弁護人の方こそ、じつは遅延を問題視している。検察官は、むしろその点を些事のようにさらりと通り抜けるおつもりのようだが、二十分遅延したのは、レイプのための準備と当該行為があったからではないのか」弁護人は、反論のきっかけを掴んだつもりになった。
だが、「ここは確か、殺人事件の法廷のはず。弁護人のせいで、さきほどから別の事件を審理しているように感じられてならない」検察官も手錬で、またもこう切り返した。

傍聴席で、不謹慎な小さい笑いが起きた。
「しかしながら、真理を見つけ出すための法廷との観点から、まずは事実に基づき述べさせて頂く。看護師に確かめたことだが、二十分程度ならよくあるとのこと。心の病に苦しみ悩む患者さんに対し、診察時間を過ぎたから本日は終わり、というわけにはいかないと。だとすると、なぜ被害者は診察室にやってきたのか。あるいは、料理がほぼ出来上がり冷めないうちにと考え、知らせに来たのかもしれない。これは可能性の高い仮説だが、元々悋気深い妻はそこで、患者である被告人に優しげに接する医師を見て嫉妬した。若く美しかったぶんよけい過激に。それで、思わずの激しい売り言葉を発したとして何の不思議もない。それに対し心の病を抱える被告人は買い言葉で応酬した。それで次第に互いの感情が昂じ、やがてもみ合いとなった。その間、滝本医師はむろんのこと止めに入った。だがもはや収集できないほどに大きくなり、そうこうするうち被告人はついに酷い手段に出たのである」立て板に水の論調をここで改め、法廷全体を説諭しようとの意志でもって、急にゆったりした口調になった。「常識的に考えると、自分の診察室で患者を、まさかのレイプをするよりもこちらの方が、比較にならないほど可能性は高いのではないでしょうか」

たしかに、レイプがあったとする弁護人の論よりも検察官の主張にこそ説得力があった。

結局、一・ニ審ともにレイプ事件はなかったと判断し、地裁・高裁の各裁判官は主文にて刑を申し渡した。被告側が上告し審理は最高裁へと移ったが、この件を最高裁判所調査官はスクリーニングしたのち棄却相当との断を下した。こうして刑は確定したのである。

ところで矢野は、被告人の名前に聞き覚えがあった。
確認するために先々週の新聞を出してきて目を通した。日付に見当がついていたのですぐに見つけることができた。やはりそうであった。両親によって殺害された事件の被害者だったのである。悪魔祓いの名のもとに水攻めされて窒息死した二十八歳の女性であった。

警部は、一人娘障害致死事件の調書を見せて頂きたいと星野管理官に依頼した。
机の前で思案している矢野に、届けに来たのは藍出であった。
黙って飛ばし飛ばし読み進む矢野の眼がある個所で止まった。真剣な眼は日付などを確認しながら、紙面のその部分だけ緩やかに動いた。やがて眉が開いた。
「藍出、樫木の陸自時代の経歴を調べてくれ。できればそのときの上官と話をしたいから」
「はい、直属を含む何人かの上官の連絡先も併せて調べます」矢野の一番弟子を称するだけあって、先読みするのもなかなかのものだ。

しかしなにかと機密事項の多い、いや機密にしたがる組織(警察もだが、防衛省はそのはるか上をいく)だけに、藍出たちは手分けしたが必要な情報を集めるのにかなり苦労した。何とか見つけだした直属の上官はすでに退官していた。周りの眼を気にしなくて済むぶん、おかげで、矢野が掛けた電話を通じ必要な情報を得ることができた。矢野の満足の眉は、光彩を放ちだした眸の上でゆったりと落ち着いて座っていたのだった。

そう。樫木伊沙子の陸自での特技は、矢野が憶測したとおり射撃だったのである。
しかも、伏せ(腹ばい)撃ちを一番得意としたと上司。しかし、警察がどうしてそんなことを尋ねるのかと訝(いぶか)った。
当然の疑問と、矢野は伊沙子の死亡事実を教え、「尊い命がなぜ儚いものとならなければならなかったのか、その真相究明のための情報を求めている」と苦しい胸の内を吐露した。苦衷の理由だが病院長射殺事件のことを正直に口にもできず、騙すようで辛かったからだ。かといって、警察官として真実を追い求めるという使命を放棄することなどできなかった。
元部下の死を悼みつつ矢野の苦衷を察したのか、寸考ののち求めに応じた。「伏せ撃ちで腕をあげた理由ですが、『非力な私でも小銃を安定制御しやすいから』と樫木は嬉しそうに言っていた」事実、基準射距離300メートルの場合、八割は中心の五点的を撃ち抜く腕前だったと、このときだけはまるで自分のことのように自慢げに言い添えたのである。

動機も射撃の技量もあったと判明した。あとは銃の入手と日時的に犯行が可能だったかだけだ。六人は三班に分かれ奔走した。矢野は配慮し、岡田を温厚な藍出に任せた。
三日間の皆の奮闘あり、矢野の両親への事情聴取などでわかったこと。
仮出所していた伊沙子は当然、保護監察下にあったにもかかわらず一カ月間行方をくらましていた。渡辺卓が射殺された日はこの一カ月内のため、アリバイはない。
探偵が突き止められなかった足どりを和田たちが徹してあたり、ついに発見したのである、持ち金の少ない伊沙子が安手のビジネスホテルに宿泊していた事実をだ。ではどうやって渡辺邸のことを、否、滝本卓が入り婿となった渡辺卓を探しだすことができたのか。

矢野が藍出に指示し、電話帳に載っている探偵社を網羅させたのだ。電話帳をあたらせた理由だが、彼女の免許証は期限が切れており健康保険証はそれを作ることで親に通知が行くかもしれないと恐れ、(これも矢野流の心理捜査法で、犯人の気持ちになってその行動までも憶測するのである)身分証を提示できない以上、スマフォを持っていない伊沙子が滝本卓の所在捜索依頼にあたり、どこが最適かを知るに手っ取り早いのは電話帳だったからだ。おかげで、滝本卓の捜索依頼を受けた探偵社を簡単に見つけだせたのだった。

と、ここまでは順調だったが、射撃現場に伊沙子がいたと証明するのは困難となった。目撃者を期待できる環境になく、彼女の犯行だとの証明も、所詮はないものねだりだと。閑静な住宅街ゆえに監視カメラはなく、防犯カメラも歩行者を捉えているものはなかった。射撃現場での指紋も検出できなかった。射撃のとき以外は手袋をしていたからであろう。
肝心の点の立証が抜け落ちてしまっては画竜点睛を欠いたも同然だ。皆、頭を抱えた。
そんな折り念のため現場に走った藤浪が、見事に手柄を立てたのだった。決定的な物的証拠を見つけ出したのである。屋上雨水の排水口から雨水管は一旦横引きとなり外壁へ沿う立管へと続く。その横引き管に髪の毛が引っ掛かっていたのだ。鑑識も通常そこまでは調べないというような箇所であった。執念でそれを採取しDNA鑑定にまわしたのである。
結果、伊沙子のDNAと一致したのだった。残るは、
ライフル銃一式の入手ルートだ。ウェブサイトのウラ事情などコンピューター関連一式に精通した藤川中心に粘り強くネット検索し続けた結果、銃器取引の闇サイトを捜しあてたのである。それで、伊沙子が借りていた部屋に宅配依頼したライフル銃一式を売った闇業者に辿りついた。これで彼女がライフルと弾丸を購入した事実も証明できた。しかしだ、銃使用後の行方を追うすべがなく、ライフルマークが一致するかの確認もできなかった。状況証拠ではあるが、それでも弾丸の製造メーカーと種類は一致したのである。

よって、渡辺病院長射殺事件も、犯人死亡のまま書類送検されたのだった。

多少の紆余曲折や脱線もしたが、考えてみれば不思議な絡みの事件群であった。

矢野が墓参りをしていた秋の朝、和田と藍出の二人の警部補が繰り広げた何でもない世間話がある意味で端緒となり一カ月弱、迷宮入り寸前の事件のせいもあり、暗中模索しつつもどうにか六つの難事件が解決、もしくは真相解明できたのだ。それにしても不思議の数々であった。
結果論だが、こうして矢野係の賜物、大阪府警察本部は面目をほどこせたのである。
同じ線上で、藤浪を初め彼らも肩の荷を下ろすことができたのだった。

ちなみに不思議な絡みとしたが、いわゆる連続殺人事件ではない。ゆえに、そう呼称できるはずもない。だが絡みと表現したように、ある意味濃密な関係性をはらんでいたのだった。それどころか、殺人を犯した方が今度は殺される側にまわる、その繰り返し(菅野拓子だけは未必の故意の殺人にも当たらない事故だが)で事件は展開していったのである。

この一連を終結させたのが“娘殺し”だったわけだが、そんな最悪の悲劇でも起きないと、この忌わしさを断ち切れなかったのかもしれない。
だとしたら…、人間の業のゆえか。それにしても、あまりに悲惨な幕切れであった。

一年後、樫木伊沙子の両親に対し心神耗弱が認められ、傷害致死罪が確定し刑に服するのだが、運命に翻弄された気の毒な夫婦とする見方も、世間には少なくなかった。