矢野が退出してから四時間、結果を待つ間、星野はあることに思考を巡らせていた。男はどこで拓子の存在を知るに至ったかということにだ。まさか、アメリカではあるまい。
そしてそれ以上に、男が誰かを仮定できないものか考えてみたのである。それにはまず、拓子の転落死の調書と藤浪が作った渡辺直人事故死のそれに再度目を通す必要があると。
ではなぜ唐突にも直人の死と結びつけたのか?以前得た荒情報において、長いデカ生活で研(みが)き抜いてきた捜査勘にピンと引っ掛かる何かがあったからだ。二つの件のおぼろげな時期の一致であった。捜査勘に引っ掛かった以上、念のため、見極めずにはおれなかった。
そして、直人事故死の調書からやはり!と。必要な情報をいくつか映し撮った網膜は、視神経を通し彼の鋭敏な脳に伝達したのである。男を仮定するに必要なヒントであった。
拓子が死んだのは、昨年の十一月二日、激しく降る雨の夜だった。時間は十時四十分ごろ。その時間にアリバイのない、そしておそらくは社会的地位と経済力のある男性。むろん、これだけでは雲を掴むような話だった。だがこの条件に該当する男性に、心当たりに似た微かな残像があった。たしかに、紙のように薄い可能性であろう。しかし情報がないに等しい状況下では、実状、この線で追ってみるしか手立てがなかったともいえた。
さて、その残像の正体だが。拓子がブログに記した時期と同時期に外出を頻繁に行い、ある日を境にその外出癖が突風直後の灯火のようにパッと消失した男性のことである。加えて、時間的だけでなく空間においても、二人に繋がりがなかったとはいえない点
星野の手元にある調書が、その事実を、そっと囁いてくれたのである。
星野の鋭敏な触覚にふれた、そんな若い男。言うまでもない、渡辺直人であった。
蛇足だが、渡辺直人といえば、藤浪が約半年前に担当し“風呂場での事故死”として処理された研修医のことで、先日射殺された渡辺総合病院院長の義理の息子でもあった。
彼は家政婦の証言によると、死の八カ月前から約二カ月間、夜間の外出を繰り返していたという。それが、ある夜を境にカットアウトしたのである。
しかも、社会的地位と経済力を備えた妙年の、恋をせずにはおれない二十七歳だった。
単なる偶然ではなく、また、この仮定に無理やこじつけがないことを確認するために、藤浪にあることを調べるよう携帯で指示した。
同時に、拓子に関し精査した。まずは生活圏や生活パターン、仕事や趣味などである。
――生活圏やが、互いの住所は離れてるから、そっちは無視してもええやろ――気になるのは、昼間勤める飲食店と大阪市福島区にある渡辺総合病院が比較的近いことだ。――けど昼食を摂るとなると、そこは歩いて行くには遠すぎる。美味いもん目当てに車で来店という手もある――が、その飲食店は駅近くにあり、駐車場を備えてはいない。そこで、可能性は低いから後回しとした。――生活パターンやが、午前中にその飲食店に入り午後二時半に仕事を終える。賄(まかな)いがあれば店で食事を済ませるやろうが、そこまではわからん。とにかく、そのあとどこかで少々時間を潰し、夜間勤務の店に入る。その店は直人の生活圏からは離れているから無関係やろ。待てよ、別のところで昼食を摂るとして、そこで拓子に出会ったちゅうことはないやろか…――小考した。――いや、可能性はかなり低いな。拓子は贅沢のできる身やない。一方、直人はぼんぼん育ちや。まさか牛丼みたいな安さを売りにする飯なんか食わんやろ――発想を変えることにした。「う~ん…」思考を集中させるとき、星野は耳の穴に人差し指を突っ込み目をきつく瞑る性癖がある。外界をできる限り遮断するためだ。――拓子の方から結果的にやが近づいたとしたら。たとえば…、渡辺病院に診察を受けに行ったというのはどやろ。う~ん、これは調べてみる必要あるな――
パックされた豆腐のように、体液に覆われ保護されたピンク系色の脳細胞がめまぐるしく活動し、ピークに近づいた。直後、手をパーンと叩いた。閃いたのである。――そや、拓子は映画好きやった。仕事にしたくらいやから。となると、映画館か、あるいはレンタルビデオ店ということも…。まずは、福島区にあるレンタルビデオ店と仮定し調べてもいいんやないやろか――いや、閃いたとはいえむろん映画関係に限るわけではない。他の場所、たとえば銀行とかコンビニだとか。コンビニだと、福島区内の数十軒を当たることになるが、ビデオ店に比べ困難な点がある。会員登録率が低いからだ。会員ならいつ買い物をしたかのデータが残っているが、そういう情報入手をあまり期待できない。それに、防犯カメラは設置されているが、古い映像を残しているはずもない。――ビデオ店も同じやろうけど――一方、拓子が死亡当夜買い物をしたコンビニは、住まいの近所であった。オンリーワンの品物を置いている特別なコンビニというのでもない限り、あるいは今すぐ必要なものでもない限りは普通、誰もが家の近くで買い物をするだろう。―――スーパーはどやろ?…いや、おそらく、お坊ちゃまは行かんのと違うやろか。だとしたら、服とかの購入ならどうや。けど…このふたり、買いに行く店のタイプが全然違うやろうな――
そこで可能性の高い方から当たることにした。いうまでもなくレンタルビデオ店だった。
ネットで地図検索した結果、互いの勤務先のほぼ中間に位置する、Tレンタルが有望だ。
早速、足を運んだ。拓子は昼の仕事帰りの午後三時すぎに、直人は午前の診察等を終える午後二時ごろから四時半までの空き時間にレンタルビデオ屋に行っていたことがわかったのである。二人とも会員登録をしており、おかげでDVDやCDを借りた時間と返却時間等が記録されていた。その日時が、転落死直近の三カ月間で七回合致していたからだ。
やはり、ここで直人が見初めたとみるのが自然だろう。
七回のうちの四番目は土曜日だった。
この日おそらく、直人は拓子のあとをつけ夜間の勤務先を突き止めた。さらに自宅までも知ることができた。あるいは後日、探偵を雇い、それらを突き止めたのではないか。
その後、めげずに何度も交際を申し込んだ、と星野はみた。おそらく名刺を渡しただろうし、医者という肩書に、女性ならやがてはなびくはずだと、…こんな想像も難くない。
だが彼の案に反し、拓子は頑なだった。自身への覚えがあっただけに、ありえないとの思いが焦りを生んだ。それでつい、ストーカーまがいの行動に出てしまったのではないか。
ではなぜ、拓子は警察に行かなかったのか。理由は二つ考えられる。妹の俊子の死に対しお役所仕事的応対を受け、警察自体に拭えぬ不信感を懐いたから。もう一つは、すでに殺人者になってしまっており、警察を訪れるに気おくれするものがあったから、だろう。
一方の直人。想いが高じて、ついには彼女の自宅近くで待ち伏せしてしまった、のではないか。しかしその短絡的な行動、悪気があったわけでも、不埒な事を考えていたわけでもなかったと思うのだが。ストーカーやセクハラが、最悪の結果しか生まないことくらいバカでもわかる話だ。だから、ただ、想いのほどを率直に伝えたかっただけであろうとも。
調書を基に、星野はこんな想像をした。
「僕のことを知って頂きたいし、貴女のことも知りたい。どうでしょう、一度でいいからお昼をご一緒願えませんか?」というような申し出も懲りずにしたに違いない。
しかし、しかしだ、そんな十一月二日の夜…、何ということか!
まさかの…予期せぬ最悪の、否、あってはならぬ事態が起こってしまったのだった。
部屋へ、ノックして藤浪が入ってきた。彼は受けた指示どおりの、質問に対する先方の答えを携えていた。例の、家政婦からのだった。
明確な返答だったという。直人が外出を突如止め、食欲を急激に減退させた日だが、自分の誕生日だったからよく覚えているとし、「間違いありません」と付け加えた。
答えに満足した星野を、さらに喜ばせる電話が入った。
「その声からすると、名刺、あったみたいやね」星野は、矢野の弾んだ声を聞いて安心するとともに、白い歯がこぼれ、鼻の横にあるホクロが弾けた。
「はい、それらしいのが…」と言いかけたが、星野の思いもよらぬ発言により唇は止った。
「渡辺直人の名刺が出てきた、僕はそう睨んでいる」欣喜をあえて殺した声、そして故意の緩やかな口調だった。だが内奥にては、歓喜の舞いに雀躍と遊んでいたのである。
「おっしゃるとおりです。が、どうしてそれを」長い付き合いの矢野といえど、本当に仰天してしまった。それでつい口をついて出たが、この謎解きはあとまわしになるだろうと。
だが、拓子が転落死した日と直人が急に外出を止めた日(正確には転落死の翌夜から止めた)が一致したことを家政婦の証言で得たと、管理官は告げた。質問に対する答えのつもりだった。あとの謎は自分で解けとでもいうように。
いつものことと矢野は了解した。「面識があったのだから、単なる偶然では片づけられなくなりますね。というより、“男”を直人にあてはめても不具合は全く生じません。むしろ当てはまり過ぎるくらいです。直人とみて間違いないでしょう」
「うむ」肯いた眉はやはり、難しげだった。「その線で捜査するとして、調書によると、拓子の部屋の玄関前や横並びの廊下に、人が佇むことによってできるほどの滴は落ちてなかったとある。拓子が帰宅する二時間ほど前から急に激しい雨が降りだしたともある。だが、いつもの帰宅時間を知っていたならば直人は当然、定則の帰宅時刻に合わせたに違いない。とすると、傘からのにしろ、頭髪やコートから滴り落ちた滴にしろPタイルを濡らしたはずや。そやのに、なんで滴の痕跡が床になかったかを説明せん限り、送検はむずかしいぞ」
「たしかにそうですね」矢野は肯くしかなかった。頭を切り替えねばとしつつ、一言二言、それから電話を切った。直後、こちらの謎の解明を優先に考え始めたのだった。
最大の可能性は、階段を上るうしろ姿に声を掛けた、である。これだと、玄関前にはむろん残らない。しかし問題もある。ずっと後をつけていたのなら、雨を踏む足音や気配を勘づかれる危険性が生じる。尾行がばれた時点で、ストーカーとして恐れられたであろう。そんなバカなマネは避けたはずだ。だいいち、星野が言ったように定則の帰宅時間ではなかったわけだから、駅からの尾行以外は困難だったはずだ。しかも、尾行は危険を伴う。だとすると、やはりその間、どこかで待っていたとなる。ではどこで?
矢野はひとまず、仮説として思考を膨らませたのである。…どうしても話をしたいなら、待ったのは、玄関前から数メートル横にずれた廊下、だろう。でないと接触の機会を逸してしまう。部屋に入ったが最後、ドアを開けてくれる見込みはなかっただろう、が理由だ。横にずれたのは、上がってくる拓子から気づかれない死角となるからだ。そして待ちに待った靴音。よって愚かにも、勇んで拓子の前に現れてしまったのである。
突然のことに驚いた彼女は、慌ててしまい足を踏み外した。哀れ転落してしまったのだ。
直人は蒼白になり慌てて駆け寄った。だが、すでに心臓は止まっていた。ここにいては自分が疑われると考え逃げようとして途中で気づき、待ち伏せしていたことを示す、多すぎて不自然な廊下の水滴をハンカチで拭い消し、それから逃げたのでは?
しかしこれだと、拭き去ったという痕跡に鑑識が気づいたはずだ。痕はなかったとみるべきである。さらには、この説が説得力を有しない以下の理由。自分のせいで好きな人が死んだ、にもかかわらず待っていた痕跡を消したなんて、そんなに冷静になれるだろうか。
さすがに無理であろう。ただし、自己愛の強い人間なら、たとえ好意を寄せている相手がはずみで死んでしまっても、これからの自分の身を案じて逃げることはあるかもしれない。まして医者で、やがて病院長を継ぐ身ならばスキャンダルは厳禁なのだ。
なるほど、この憶測の方がより現実的といえる。問題は、水滴を拭うまでになれたかどうかだ。それよりは、初めから水滴は床に落ちなかった、とみた方が自然だ。たとえば新聞紙でも敷いたというのは?しかしそんなことを、通常するだろうか。むしろ、水滴がなかったための無理やりの理由付けでしかない。だいいち、床にそれらしいものは残っていなかった。直人が回収したからとするのも拭き掃除と大同小異で、説得力を欠いている。
ならば、横付けした車の中で待機していたというのはどうだろうか。ただし、車を常套手段にしていたとは思えない。毎回なら拓子は気づき、そして警戒したであろう。つまり、横付けは雨降りのその夜だけだったとすると、一応の説明はつく。で、確かめることに。
再度の問い「貴女の誕生日の前日、直人氏は車を使っていませんでしたか」に、へそを曲げつつ小考のあと、「珍しかったので覚えています」ベンツで出掛けたと断じた。出勤に車を普段使わないのは、飲酒できなくなるからだとこぼしていたことも付け加えた。
後刻、報告を受けた矢野は、少しく満足したのだった。墓参りからの帰途、若い女性の転落死にもし犯人がいたなら逮捕してあげてほしいと頼まれていたが、その期待に少しは応えられたからだ。
ただし府警本部としては、被疑者死亡による書類送検を見送った。証拠不十分というのが表向きの理由だ。加うるに、新たな目撃者も現れず、被疑者死亡により自供も取れない以上、書類送検しても地検は受け付けないだろうと上層部は星野たちに説明したのだった。
しかし本音は、転落死を事故として処理してしまっており、それを変更することでまたマスコミなどからやり玉に挙げられる、それを恐れてのことだった。
星野以下、不本意な決定に当然猛抗議した。頑張って、闇に隠れていた事実を究明したのだ、誰も知ること能わずの真相を明らかにしたのである。が結局、建て前とはいえ証拠不十分で押されれば、情況証拠ばかりである以上、最後は黙らざるを得なかったのだった。
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