「警部がおっしゃっていた品々、脱衣かごにも洗濯物用の入れ物にも…」西岡も期待したが写っていなかった。さらに悪い事態、洗濯機内部の撮影をしていなかったのだ。密室における死体ということで、鑑識が、殺人ではなく自殺か事故死との先入観を懐き、その結果、洗濯機内部の撮影をなおざりにした、というのであれば問題である。
しかし今はそれを追及する情況にはなく、のち、内部監査するにしても難しいであろう。
それよりも捜査だ。撮ってないと聞いた矢野は、家政婦の記憶に望みを託したのである。
ところで矢野が強い関心を持っているのは、濡れた手袋と湿ったバスタオル、である。
この二つ、上記のとおりでかご等にはなかった。残るは、洗濯機に入れられていたことを家政婦が認知しておればそれで、まずは可、なりだ。認識した時点ですでに乾いていてもかまわなかった。さらにその認知、できればカビの生えた二品であれば、“優”だ。
さてと矢野。鑑識が撮ってなかったと告げられた現場写真だったが、念のために目を通した。残念と思いながら、それでも眼が止まった、何の変哲もないと思われる一葉の写真にだ。鑑識が関係者の写真も必要と考えたのだろうか。卓の普段着姿が写っていたのだ。
シャツの袖口やズボンのすそが僅かに濡れており、それが注意をひきつけたのだ。
ところで、それから十一分後…ただし、家政婦の機嫌が麗しいはずはなかった。が…、
六人は、身体を全て耳にしつつ、藤浪とのやりとりが終わるのをただ待つしかなかった。
そしてようやく電話は切れた。矢野が期待した家政婦からのそれは、朗報であった。
「基本的には、やはり毎日洗濯していたとのことでした。むろん当日の金曜日も朝の内に」
さもありなんと矢野は軽く肯いた。渡辺家は、炊事・洗濯・掃除のために十時間勤務の家政婦を雇ったのだろうからだ。
「しかし溺死の翌日は、鑑識から現状保存のためにと、風呂場に隣接する洗濯場にも入らせてもらえなかったそうです。『許可が出たのは溺死の翌々日のことでした』」
「ほんで?」矢野にはまどろっこしい。
「その日は日曜日でしたが出勤したわけは、『弔問客に出すお茶や配膳などいろいろと仕事があるだろうから』そう、旦那様から頼まれたのでと言っていました」自分のわずかな過誤すらも許さない藤浪の性癖が、こんな言い回しに出ている。女性が好む血液型性格判断では、典型的なA型と思われがちだが、残念ながら彼はB型であった。それはさておき、
溺死は金曜日だった。そして日曜日には、渡辺邸で通夜が営まれた。葬儀場を借りなかったのは、恵子がいつでも自室にて身体を休められるよう、夫の卓が配慮したからだった。
少しイラつきながら、「昨年同様、今年の五月もかなり暑かった。しかも、洗濯機をさわれたのは翌々日。当然、カビが生えた二品が出てきた。そうやろ」矢野は結論を急かした。
「ええ、おっしゃった二品だけが、たしかに。それで、なぜ覚えていたか、つまり記憶が正しいかを確認するために訊いたのです。『洗濯物にカビを生やさせたことなど一度もなかったので』さらに、『カビに気づいたのは、癖でつい、汚れ物を仕分けたから』と返答しました。それよりもですね、あるはずのない軍手とバスタオルが入っていたのが不思議だったそうです。軍手は草むしり用なのですが私は除草していませんし、とのことでした」
洗濯した金曜日の午前中以降に洗濯機に汚れ物を入れられるのは家政婦と直人と卓の三人だ。母親の恵子は旅路にいた。一方、男たちは朝から出勤しており、帰宅後の草むしりも考えにくい。それは五月中旬でも暑かったせいで、蚊が五月蠅(うるさ)くなり始めるころである。しかも作業効率が悪い夜の草むしりはバカでもしない。家政婦が不思議がって当然だった。
ちなみに、直人も卓も仕事中は軍手とは無縁だ。それでもたまたま使ったとして、だが家に持ち帰ることなど考えられない。なぜなら、白衣のポケットに入れたまま忘れることは百に一つあっても、私服のポケットや私用のカバンに使用後の軍手を、間違って入れるシチュエーションはあり得ないからだ。
さて家政婦だが、使用後のバスタオルに関しては、以下のように説明をしたのである。「まだ入浴中だった坊ちゃまがそれで身体を拭いたなんてあり得ないでしょう。また、旦那様が入浴できたはずもない。それに奥様は土曜日の午前中まではご不在でしたし」と。

矢野は以上の証言を聞き、事故死にみせるための小さな工作を溺死させる前後にしたとする推理が的中していたことに満足した。ただし、一つ不満があった。バスタオルを直人が使用した僅かな可能性に部下の誰も気づかなかったことにだ。彼が運動をしたことに合点した彼ら。不満は、――ならば直人はシャワーを浴びたかも――となぜ想像しないのか、だった。懸念を持っていた矢野が、洗濯機の中に男性用の下着が入ってなかったことを家政婦の証言で知って、直人は卓の指示に従った結果、浴びていないと安堵した次第だった。

ところで、留守電を聞いた家政婦が藤浪に掛けてくるその前後、藤川らは質問していたのである。バスタオルと手袋が洗濯機の中にあるはずとし、しかもカビが生えていたであろうと推理した矢野へ、その根拠について、であった。
「夏日となる時期に、濡れた手袋をたとえきつく搾(しぼ)っていたとしても、閉鎖的空間の洗濯機にもし入れたままやったとしたら、カビが生える可能性は高いさかいな」バスタオルも同様だとの説明は省いた。せっかちなのだ。「それに、殺害後もせなあかん偽装工作がかなり残っていたために、全裸だった卓は急いで身体を拭いたやろうし、使用後のバスタオルの処理にまでは気をまわせなんだ。洗濯機に入れる、時間的にもそれで精一杯やったはずや。自室に持っていくこともできんさかいな。妻が見つけたら変に思うやろうし。それにしてもお粗末やったんは、家政婦が毎日洗濯をすることにまで気をまわさんかったことや。平日の宵、洗濯機の中は常に空やった。それで二品が目立つことになってしまった」
こんな概説でも優秀な部下たちにはわかった、…ただ一人を除いて。偽装工作の内容について、すでに説明を受けていたこともあるが、卓が全裸だったとする理由においてもだ。
さらに和田と藤浪は、卓がどんな体勢で直人を溺死させたのかも想像できたのである。それは検視報告書から導き出したものであった。
「ところで軍手の使用目的ですが、警部の見立てを教えてください」と藤川。
「それもですが、そもそもどんな推理の結果、手袋の存在に気づかれたのですか」藍出は首を傾げながら、当然の質問をした。
「藤川、ええか」と今から披露する推理、矢野の漲る自信の声が壁にビンビン響いたのだった。「直人に填(は)めさせるためや。睡眠薬とアルコールでいくら意識がダウンしてたとしても、気温と水温の差が十度近くある水中にいきなり放り込まれしかも呼吸困難に陥れば、たいがいの場合、意識は戻るやろ。当然水の中で苦し紛れに暴れるに違いなく、卓にすればその時、直人自身の身体や後頭部を押さえつけている卓自身の腕に傷をつけられては困る。だから直人を全裸にした直後、ズボンのポケットに入れておいた軍手を填めさせた」
さらに、後頭部を押さえつけたとする推理だが、次の事柄からの結論だった。ひとつは、向き合う体勢をとると反撃されるに違いない。体育系ではなかったけれど、直人は青年だ。年齢差からも立場が逆転し、卓が溺死させられるかもしれない。よって、後頭部をつかんで水中に沈めることにした。当然の帰結である。
残る理由だが、和田がのちほど解説することとなる。
「なるほど。どちらか一方にでも傷があれば、殺人の疑惑が生じてしまいますからね」鑑識が撮った遺体写真を見せられた藤川も得心がいった。直人の背中も頸筋も無傷であったからだ。重複するが、また背部のどこにも、圧迫痕もなかったのである。

捜査一課のデカならば常識中の常識、防御創や吉川線があれば殺人として捜査本部を立ち上げる。水中に押し込められた直人にすれば、押さえつけている犯人の手を意識ある限り生の根(こん)がつき果てるまでは必死で排除しようとするし、その最中(さなか)、もがき苦しみつつ自分の首筋や背中に爪を立てもするだろう。それが犯人にとって、どれほどに不都合なことか。自殺説も事故死説も、いっぺんに吹っ飛ばしてしまう破壊力があるからだ。
「まして義父の皮膚片が直人の爪に残りでもしてたら……」軍手は、その心配を失くしてくれる貴重な道具だったのだ。「証拠を残す素人と違い、その辺の用意周到さは精神科とはいえ、さすがに医者やな」
「なるほど」岡田君も感心した。「卓の腕に傷が残った場合、誰かに記憶されるでしょうしね」と続け、さらに締まりのない口は動いた。「それと軍手が濡れている、あるいはカビが生えていたことに警部がこだわられたのも、直人の手が水に浸かってたからで」との当たり前で不要な解説までした。「それにしても、どうして軍手を片づけなかったのでしょう」
皆、無視した。理由は慌ただしかったとすでに説明していたからだ。それでもバカ田君のためにあえて補足すれば、洗濯機が全自動式という古いタイプで、水槽の中の状況を知るには真上から見る必要があった。ところが急いでいるときにはそんな暇はなく、蓋の開け閉めももどかしいくらいだった。

ちなみに、藍出の疑問も解消されたのである。
「湿ったタオルがあると思われたのは?」またも、頭を本来の使用法では用いず、帽子をのせるための存在と思っているようだ。浴びる皆の冷視線の理由がわからない岡田だった。

矢野は、答えを叔父に任せた。話したいと唇がうずうずしているのを見て取ったからだ。
「卓も浴槽に入った。当然濡れたやろ。殺害時、服を着てるより全裸の方があとの処理も簡単やったろうし。といおうか、全裸云々について、警部がさっき言うたはったやろ。まあええわ。救急車が来る前に身体を拭いて今まで着ていた服を身に着け、直人の胸に心臓マッサージを施した痕を残せば、供述を疑われる心配もない、そんなとこですか」退職前に未解決事件を一つでも減らしたい和田は喜びを隠すことなく、最後に矢野の眸に問うた。

このベテラン警部補は調書の細かいところにまで目を通したうえできちんと記憶していると、頼もしい部下に改めて満足し、矢野は肯いたのだった。

ところでだ、岡田君の本地はこんなものではない。「義父は全裸のままでよかったんやないんですか?なんで着てた服を再度着けたのですか?少なくとも救急車が来たとき全裸の方が自然にみえるでしょう。だって、シャワーを浴びるつもりで風呂場に行ったと供述しているんですよ。だったら裸でいるべきです。それとも殺害直後で動揺してたんですかね」
「お前はほんま、想像力に問題ありやな」叔父はあいかわらず歯に衣を着せない。「卓の供述をまずはそのまま鵜呑みにしてみいや。風呂場の前で奴は何を目にしたことになる?」
「直人の死体ですか?」
と言った彼に射られた十二の眼光は、さらに冷たかった。
「えっ」さすがに空気を読んだ。そして頭を、ようやく本来の役割で使った。「…あ、そうか。ドアが閉まってたら死体は見えませんよね」これでも本人は、頑張っているつもりだ。
頭を本来の役割で使った岡田に対し、だが六方からは冷気が。不充分だと、まだ気づかないのかとのムチである。さらに、情けなしとの身内の溜め息が岡田の肌を辛辣に刺したのだが…。応えない甥に業を煮やした叔父が大きなヒントを与えることにした。“大先生”と付き合っていると疲れるからだ。「息子が風呂に入ってるなら遠慮するやろ。なにか、それでもシャワーを浴びようと、全裸になるか」
孤立無援のバカ田君、形勢は明らかに不利だ。そんなこんなで、「浅はかでした」シャキッと背筋を伸ばし、和田に敬礼せんばかり。「だとするとやはりドアは開いてたんですね」
全員、イスからズルっと落ちかけた。
「お前はなにか!ドアぁ開けっ放しで風呂に入るんか」叔父は呆れかえったが、立場上言わざるを得なかった。それで、つい強い口調になったのである。
「そんなこと一度もしたことありません」

それなのに、直人は開けっ放しにしてたって主張するつもりか、とは言わない。話が長くなるからだ。「ズバリ言うわ。ええか、卓の供述によると、直人は入浴中やった。ということは当然、風呂場の照明は点いていた。そういうことになるわな、違うか」
夜だ。直人が入るとき照明を点けなかったはずがない。風呂場が明るかったら、卓が服を脱いだはずもない。普通に考えれば黙ったままか、せいぜい一言声を掛ける程度で、返事がなくてもその場を立ち去るであろう。だが卓は、言外にこう言いたかった。返事がないし入浴中の気配も洩れてこないので、異変を感じドアを開けたと。直後、湯船に浮かんだ直人を発見することとなる。しかしこれを供述しなかったのは、そこんところは忖度(そんたく)しろよと。だがこれが、病院長の深慮なのだ。秒単位で偽装工作をした卓にすれば、語るに落ちるヘマをやらかすかもしれないし、口に出せばウソっぽく聞こえただろうからだ。
和田は続けた。「ちなみにお前ならどうする。全裸になってから直人を助けるか?」

バカ田君も、これでようやくわかったようだ。「着衣のまま、とにかく救出しようと…」
だが、和田は最後まで言わさなかった。「まして人命第一を旨とする医者や。当然、服はズブ濡れになってなおかしいやろ。それやのにこの写真見てみ」岡田もさきほど目にした現場写真だった。しかも、矢野が注視していたことも知っている。
《語るに落ちる》とはかくの如し。卓による、慌てて救出したとの供述は俄然信用を喪失した。シャツの袖口やズボンのすそが少々濡れている程度では、どうみても救出せんとばかり、形(なり)振り構わなかった風には見えないからだ。いうまでもなく明らかな矛盾である。
ではなぜそうなったのか。卓がしたであろう行動を、矢野が具体的に推察し披露したのだった。「理由ならこうやろ。栓を斜めにした状態ではずし、浴槽の冷水を少しずつ抜いてる間に、身体を拭き服を着た。再度、直人の部屋へ。眠剤入りウイスキーをキッチンで処分しボトルは所定の空ビン入れに。次にビールを二口ほど飲むと、さらに口に含んだ。警察に疑われないため酒の匂いをまき散らす必要があったからだ。ただし、家政婦が作った料理はトイレに流した。食ってる暇などない。急いで戻ると、すでに水が残り少なくなった浴槽に飛びこみ死体を引きだし、場合によっては氷枕を死体の腰に」だからあまり濡れなかったと解説したのである。工作が全て完了していれば、大胆に濡らしただろうとも。
いずれにしろ、やはり卓のミスだ。「殺人の完全隠蔽など不可能」な証左だと皆が思った。
「殺害後、ほんまは水を抜く前に服を着たまま湯船に飛びこむべきやった。だがそれをせんかったのは、服が濡れてれば四肢や身体にまとわりつくぶん、脱ぐのもさらにそれを着るのにも余分な時間が掛かってしまう。だからといって時間の浪費をきらうあまり濡れた服のままでだと、風呂場を出てアリバイ工作のために家中を移動している間は、水滴を落としながらとなる。そんな痕跡こそいかにもマズい。だから服を脱ぎ、殺害後に着た。ところで卓にすれば、氷水に浸した死体の温度が二度下がっていればアリバイは成立するが、でなければ、引きずり出した死体の腰部に氷枕を置き直腸内温度を下げなければならない。したがって、自室に行くのは救急車要請のあととなった」と、その理由を言おうとした。
「あのぉ、話の腰を折って申し訳ありません」質問しそびれたと西岡。「なぜ自分の部屋に戻らねばならなかったのですか」どうやらこいつも、想像力を養う訓練を要するようだ。
「それを今説明…。藤浪、教えてやってくれ」尊敬する上司の意を酌み、藍出が指名した。
「体温を下げた氷枕とアイスボックスを風呂場に置きっぱなしにしておくわけにはね」単刀直入な説明だった。死亡推定時刻を早めたトリックがばれるとの指摘である。
「続けるで、ええか。さっきの、冷水を少しずつ抜きながら、の理由やが、溺死させ、かつ体温を下げるに必要な水量を一方では保っておきたいが他方、冷水のままでは直人が入浴していたというウソがばれる。それで徐々に抜き去り、直後に湯をはらねばならないわけだが、当然それなりの時間を要する。その時間を必要最小限に抑えつつ、一刻も早く119番へ通報しなければならない。…さて、浴槽の抜きとはりに約十五分掛かるとして」

ここで藍出は思った。浴槽の大きさと給湯の毎分給水量等から計算した結果だろうと。
「救急車到着が、都市部なら通報から平均で六分、くらいの知識は持ってたはずや。その六分を差し引くと、九分。じつはこの九分が長すぎるんや。警察は不審に思うに違いない、死体発見から通報までの間、義父は一体何をしていたのかと。心肺蘇生法を施していたとの言い訳は、その痕跡から一見信憑性はあるようやが、だとしても時間がかかりすぎてるとして疑惑の目を向けてくるかもしれない。犯人ならばこそそんな不安に慄(おのの)いたとしても不思議やない。ならばと、時間短縮のため走ってキッチンへ行き、鍋二つを交互に使いつつ給湯機の湯を浴槽にまで運んだと思う。で、三分程度の時間短縮はできたやろ。おかげで疑惑をもたれなかった。証拠はないけどな」ここで長広舌を止め、冷たくなった番茶でのどを潤した。それにしてもこの推理にも、他の係は敬意を払うのではないだろうか。
ちなみに、服があまり濡れない方を選択したのは、おそらく悩んだ末の安全策としてではないか。服の濡れ方の不自然な方が、まだ低リスクと卓は判断したわけだ。ある意味そうであったし、このときの彼にとっては正着だった。救急隊員はそんなことに関心を持たないだろうし、少し遅れてくるはずの警察が気づいたとしても、風邪をひかないようドライヤーで乾かしたといえば取りつくろえなくはないからだ。
ではあっても卓の選択は、やはり判断ミスだとした矢野。否、殺害自体が無謀だったと。
「あのぉ、いいでしょうか」西岡が小さな声を矢野に向けた。「卓はなぜ、直人の下着を用意しなかったのでしょうか?」入浴後、下着を着替えるのは常識でしょうというわけだ。
「つまり、着ていた下着を服と一緒に脱衣カゴに入れてたのも卓のミスやと言うんやな」
「そうやないかと」さきほどのことがあるせいで自信なさげだ。
「あるいはミスかもしれん。いくら入念な計画を構築したつもりでも、小さな綻びに気づくんはむずかしからな。死ぬ人間に替えの下着は必要ないと、つい失念したんかも。けどこうも考えられる。直人は眠剤とアルコールで異状やった。それで浴槽で溺死した、そういう設定やから下着を用意せん方が自然やろ。ふらふらになった状態の人間、想像してみ」
「なるほど」西岡は素直に肯き、同時に矢野の刑事力に感心をあらたにした。
質問が出尽くしたとみた和田は、「ついでや」まだ完全なる理解をしていないバカな甥のために、卓が直人の背中に馬乗りになりつつ後頭部を両手で押さえつけたとの推理を披露しそのうえで、解説をも加えることにした。「直人には外見上圧痕がなかったやろ。しかし溺死させようとしたら、どうしても相当な力で押さえつけるしかない。すると指や掌などの圧痕ができてしまう。犯人がそれを避けようとすれば…」
「あっそうか。髪で覆われた後頭部を押さえつければ、解剖でもしない限り見つけるのが困難ですよね。そして馬乗りになったのは、腰全体に圧力を加えたなら圧痕らしい圧痕もできない。なるほどウマいこと考えた」犯人がとった行動に感心してはいけないし、褒める立場でもないにもかかわらず…、しかも、気づかないまま下手なダジャレまで添えた。
だがバカ田君、まだ気づいていないことがあった。手で押さえつけただけでは死力を尽くして危機を脱しようとする直人に、年齢差のせいで力負けするかもしれない。馬乗りのもう一つの利点は、体重を掛けて水中に没させればその恐れもなくて済む、であった

いずれにせよ義理の息子殺し、医師の知識を悪用した許されざる凶悪犯罪であった

それはそうとして、部下たちは矢野の、完全無欠の推理に、イリュージョンに圧倒された観衆のように魅了されたのである。事実、矢野の推理に間違いはなかった。
ただし、残念ながらもはや自供や検証を得られない悲しい現実がそこにはあった。
義父の卓も直人も、言わずと知れた、鬼籍に入(い)ってしまったからだ。
矢野にとっての捲土重来(けんどちょうらい)、事故という見当違いを晴らし殺人事件として犯人を特定し、見事に(今度こそは上層部も認めざるを得ない)真相解明ができたのだ。同じ比重で、矢野係入りたてほやほやの部下藤浪も、肩の荷も降ろすことができたのである。
勇んで星野管理官の許へ、まるで隼のような速さで矢野は疾駆した。
必要書類作成は、適任者として矢野が指名し藤浪を充て、その後、送検したのだった。