そのボクはというと、生つばを飲みくだしポワ~ンとちいさく口をあけて、母が発するつぎの言葉をまっていた。
聞くだけだから、口を開けるひつようはなかったのだが。ヒナが、エサを欲してくちばしを開けているふうに見えたらしい(とは、後日談)。そんなボクに母は満足した。
わが家のカレーにつきものの牛乳をのみ干すと、上唇のうえに細くうすい白ひげをつくったまま、「しだいに残虐さを剥きだしにする秀吉を、描きたくなかったからや、きっと」そう発したのである。
「ざっというと、天下をとるまでとあととでは、人格が百八十度逆転する。命を愛(め)で、おおよそ、ひとをできるだけ殺さずに敵とたたかってきた木下藤吉郎(から羽柴秀吉まで)が」
さて、“おおよそ”をしたのは、見せしめにと、女子どもまでも虐殺した過去があるからだろう。具体的には、天正五年(1577年)十二月の第一次上月城の合戦における大虐殺をさしている。ほかにも羽柴性の時代に、惨殺行為をしたかもしれない。
四百年以上もまえの合戦の詳細を網羅する史料はのこっていないのだから、否定も肯定もできない。しかし、
「天下統一をなしとげ、豊臣秀吉と姓をあらためるころには、これが同一人物かとうたがわずにはおれないほどに、冷酷無慈悲で血塗られた人間になりさがってしまっていた」ことを説明したあと、
「おそらく大量殺戮行為が、大作家ですら筆をにぶらせた、いや、これが執筆の意欲を喪失させた理由とちがうやろか」
この説明に「なるほど…」と、いったんは納得した。
しかしすぐに「けどそんなことは、執筆するまえから知っていたんと違(ちゃ)うの?」と、素朴なギモンを投げかけたのである。
「もちろんそうや。けど、羽柴秀吉となのっていたころまでのこの武将は、比類なき忠誠心と一族や仲間への情にみちており、おとことしても人間としても魅力が横溢していた。そやから、人格の逆転を承知で、天下人寸前の秀吉を書いたんとちがうやろか」
たしかに、人間味ゆたかではあった羽柴筑前。しかしながら、小牧長久手の戦い(秀吉と家康両雄のジャブの応酬的戦闘)を経たあと、関白任官のあたりでおわるという終末のあっけない理由が、そうなのかどうなのかは半信半疑であった。
だからといって、文豪に真相をじかにきくこともできない。
「それが証拠に、あんたもわたしも魅了されて読みきったやないか。文豪の力もさりながら、秀吉に魅力があったからやろ」
ボクは黙って、ただうなずいたのだった。理由にかんして、全面同意したわけではなかったが、否定するに、材料がないのもじじつであった。