カテゴリー: こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文) (page 10 of 11)

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(3)

「『秀吉は血塗られてる』との、先日のおぼし召し。なれど、さほどではござらなんだ」

言葉づかいがおかしくなったのは、文豪、吉川英治の文章力の影響なのか。たんにかぶれやすい質なのだろうか。

すぐ異状に気づき修正して候。「たしかに、多くのひとの命をうばったよ。けど、戦国時代の武将やからしゃあないやん。天下をとるまでには、明智光秀とも柴田勝家とも戦わな、生きのこられへんねんさかい」

ボクは戦の場面をおもいだしながら、ほかにも殺されたり切腹させられたりしたひとがたくさんいた史実を告げた。

_けど…、まさか…_だった。母なら、戦国武将の宿命くらい理解しているとおもっていたのに、それでもそのことをあげつらって“血塗られてる”と非難するのはおかしいと、そうつづけたのである。

「…」母は、手をうごかしながら黙ってきいていた。

 返答がないので、無視されたと腹だちまぎれ、追加でいった。声は幾分、おおきくなっていたかもしれない。

「天下をねらった信長は、延暦寺で大虐殺したり浅井長政の首をさらしもんにしたやんか。血塗られてるっていうんなら、信長のほうがよっぽどやで」

疑義がさらにふくれあがったのは、黙殺されたせいでもあった。

アガサ・クリスティ創作の名探偵ポアロが“灰色の脳細胞”と称した、思考や推理などをつかさどる大脳皮質を、母への疑問符が占拠してしまったのである。

これを晴らさなければ、とてもじゃないが納得できない。「天下布武をとなえて武力で制圧していった、そんな織田信長にくらべたら…、いや比較にならんほどひとの命を大事にしてたと」

だが、ここで遮られたのだった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(2)

初日、さすがに眠くなったので時計をみると、午後十時半をすぎていた。どれだけ読んだのかとその端をみると、七十九ページ目だった。一日に百ページをよむのは大変だろうと覚悟していたが、このぶんだと、それほどでもなさそうだと。

きょうは出だしがおそかったが、明日からは、ラジオ体操のあと、すぐに取りかかればいいとかんがえながら横になり、ほどなく眠りについた。

 こうして順調によみ進んだ。その間、学校のプールでクラスメイトから、「この頃つきあいがわるい」と非難されたので、正直にじじつを告げた。八月下旬には遊べるようになることもついでにくわえた。

みな、同情しながらも、予測したとおり、半分あきれ顔であった。

いたしかたないが、友だちの顰蹙ひんしゅくにも似たちいさな不興は一時のものと、あきらめるしかなかった。

その甲斐もあって、当初の計算どおりお盆まえに完読できたのである。じぶんを褒めてやりたくなるくらいうれしかった。満足感にひたりながら、二階でひとりはしゃいだのだった。達成感に酔ったのである。

しかし…、読破したことでえた知識や秀吉にたいする納得にまじり、頭をもたげだした疑問が、それらと錯綜しはじめ、ついには疑義が頭脳を占拠してしまった。

一階におりながら、_お父んが、秀吉をすきな理由はわかった。ボクもますますすきになった、けど……_につづく根源的な疑惑。

血塗られてる、か?だ、秀吉のどこが?

ボクは夕食をつくっている母の背中にむけ、まずは、よみ終えたことを高らかに宣言した。

「やればできる子やねえ…」背中ごしの、みじかすぎる褒めことばだった。「それで、どやった?」機先を制したわけではないのだろうが、いきなり感想をもとめてきたのである。

いくらなんでも、それでは約束がちがうとばかりに問いを無視し、ききたかったことを性急にぶつけることにした。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 読書に徹する(1)

 よみだしてすぐ、昔のひとがかいた文章との印象を強くもった。今だとほとんどつかわれない表現やあまりみかけない漢字、難しいことばに戸惑ったからだ。

それでも、内容そのものはおもしろく、次第にひきこまれていったのだった。

昨年の夏休みのこと。お父とんといっしょに、というより無理やりだったが、レンタルビデオ屋で借りてきた黒澤映画からうけた印象に似ているとおもった。

はじめて存在をしったのだが、”七人の侍”“椿三十郎””天国と地獄”の三本であった。上映時間をきいたらやたらと長い。”七人の侍”はとくに。

それはともかく、あまりに勧めるので、まずは”天国と地獄”から、しかたなく並んで観ることにしたのである。

おもったとおり時代背景は古く、セリフのなかに混じる、きいたことのない言葉にもとまどった。だが観だして十数分後には、奇想天外の、クロサワワールドにはまってしまったのである。

ビデオ屋に並んでいた各パッケージは、とも白黒だったので古くさいとかんじていたのだが、”天国と地獄”では後半において、重要な役割をする煙が映しだされるのだが、なんと、ピンクになっていた。これには正直おどろいた。

パートカラーと称するもので、印象づけをねらった映像効果だとあとでしった。

数日後、べつのがあったら、借りてきてとたのんだほどだ。

 ボクは「はなしが横道にそれることが多い」と、担任の教師からよくしかられた。

けど、黒澤映画に、前年の夏ハマった良きおもいでが、“古い”というイメージの連想でよみがえったのだから、しようがない。

太閤記にはなしをもどす。

借りてきたその日から、昼の食前食後、おやつの前と後、夕食まえと飽くことなくよみ進んだ。その間は、夏休みに放映する子どもむけのテレビ番組をみなかった。

夕食時にはさすがにテレビを見、九時すこしまえ、風呂にはいった。あがると、眠くなるまで太閤記にいどんだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(11)

_心配をかけたくない_が、母の実意だった、と後日しった。

父が同意見だったことも、先日の外出先が大学病院だったことも。

 借りたのは、全集様式の講談社版“新書太閤記“全五巻の一巻と二巻だった。どちらも四百二十ページ前後だった。ということは単純計算で、五巻で約二千百ページと。

一日百ページよんでも三週間かかる計算だ。感想文をかく時間も必要だし、ほかの宿題をやり遂げたあとの、あそぶ日時も捻出せねばならない。

大変だが、あとにはひけなかった。

 ミステリーや歴史小説の作家として、どうにか生計をたてられるようになった今にしておもう。

この体験のおかげで、すっかり歴史オタクになってしまったと。二十九歳の現在も、歴史小説や解説書をよみ漁っているのだ。そしてこれからも、そう、まちがいなく。

 どうやら、母からの影響のほうが、ボクの人生を決してしまったようだ

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(10)

また、伊達や酔狂(悪ふざけ)でいえることでもない。それにしても、瞬きをせず凝視する母の眼が、正直こわかった。

ただ、ボクの将来をあんじての叱咤であるくらいはわかっていた。たしかに苦く辛(から)いが、愛情から発したことばだと、素直にかんじとれたのだった。

で、「ごめんなさい」おもわず口を突いてでた。だが、どうしてこのような謝罪をしたのか。べつに、悪いことをしたわけではなかったのだから。

また母のが、心底からの発言だともおもったわけではなかった。だから、なににたいし、なぜ謝罪したのかもわからなかった。ただそうしないと、ふだんの母に会えないようにかんじとったからだ。

ボクの口元にそそがれている母のつよい視線は、つぎの言葉をまっているようだった。

「わかった。じぶんの意見をもてるよう、これからはもっと勉強するし、太閤記もちゃんと読むから」心からそう約束した。もとの母にもどすために。

むろんのことだが、口にした以上、実行しなければならない。“有言実行”こそ、母のふだんの口癖で、虚言であれば当分のあいだ、口をきいてもらえなくなる。いやいや、それくらいで済むはずがない。

母はようやく瞬きを数回し、そうするうち、眼からの強烈な光はきえていった。ようやくいつもの表情にもどった。とはいうものの、つぎの、具体的な言葉をまっているようにもみえた。

「で、“太閤記”って、たしか、家になかったやろ。ほな、図書館で借りてくるとして、いったい、だれが書いたん?」虚心坦懐で問うた。いろんな作家がかいていたことすら、まだ知らなかった。

この質問をまっていたように、「お母さんのきもち、わかってくれたんやね」ボクの瞳の奥、心奥を覗きこむような眼で見すえた。

「うん、うん。あんたの瞳(め)をしんじる!」それからやっと、笑みがこぼれた。ようやくみせた安堵の表情であった。

「そやねぇ…。ほなら、吉川英治の“太閤記”はどう?」

「それって、いい本なん?」授業でならった文豪のなかに、吉川英治ははいっていなかった。だから、国民的歴史小説の文豪(国民文学作家と称されている)のなまえを知らなかったのだ。

「よんだらわかる、平清盛や宮本武蔵などの長編もかいた凄い作家やで。それに秀吉という人物を、血塗られてるって言(ゆ)うたわけも、よみ終ったらおしえてあげる」

よみ終わったら、おしえてもらわなくてもわかるのではないかと思った。が、それでも、母の意見をきいてみないわけにはいかない。

「うん、そうする。ほな明日のあさ、図書館で借りてくるわ」後悔が先にたつ、その覚悟をきめた、ちいさな宣言であった、じぶんには大きすぎたが。

ボクのこの決意を、まっていたのは明らかだった。

「ありがとう」と小声で、心底からの感謝のことばをもらした。母はいかにもうれしそうな、晴れやかな顔になっていたのである。

このとき、母のからだに異変がおきていることを、ボクはまだ知らなかった。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(9)

教養ぶかい母は、女性としては変人の部類にはいる。

古代の中国史に興味があるというから、たしかに変わっている。“十八史略”もだが、“孫子”もすきな書物のひとつで、解説書もそれぞれよんだ、とのことだ。

「追いこんでしまうのは、教育上でも“愚親”のすることやと、どっかの教育評論家が書いてた。けど、それも時と場合によるやろ。あんたが今後どんな人生をあゆんでいくんか……。ほんまに心配なんや。最悪、根なし草のようになるんを、みすみす放置するわけにはいかんやろ!」

ひとりっ子とはいえ、甘やかすことのなかった母だが、このときの言動には、ただならぬものがあった。なにがここまでこわばらせているのか、ボクはますます困惑し、頭をたれた。

「……」沈黙するしかできなかったのである。

母は、そんなボクにいらだったようだ。「面(おもて)をあげなさい!そしてわたしの眼をみなさい!」

伏し目のままゆっくり顔をもたげ、そして最後に双眸をもどし母の顔をみあげた。まのあたりにしたのは、蒼白になった相貌と充血した双眼からながれでる涙、であった。

母の、嬉し涙・悲しみの涙・感動の涙なら、いくどとなくみている。しかし、憐れみのゆえにながす涙をみるのははじめてだった、

しかも、このボクにたいし、だ。…ショックだった。

「よもや…、楽して面白おかしく暮らしたいなんて、そんなバカなこと、考えてるんやないやろね!もしそうなら、情けない息子なんか、金輪際みたくない!」唇がわなわな震えていた。「もしそうなら…、あんたがこの家をでるか私が出てゆくか」昂(たかぶ)った感情は、頂点にたっしたようだった。

それにしても、まさかの発言であった。もちろん、きらいな酒類は一滴ものんでいない。なのに…。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(8)

《後悔、先にたたず》ということわざ、欠陥ありとして、リコールすべきだとおもった。

ボクがまだあまり乗り気でないのは、眼やそぶりをみるまでもなく十一年のつきあいでわかる母は、おおきなため息をひとつついた。それからおもむろに、まなざしも声も姿勢も凛とただしたのである。

このことによって、ボクの倍以上はある体型が、いやがうえにもボクを威圧することになった。

「あんた、これから先、いったいどんな大人になるつもりなん。付和雷同で、じぶんの意見をもたん愚物に甘んじるつもりなんか。ひとに言われたら、おっしゃるとおりと賛同する、なんて人間、お母さんはきらいですよ。たとえば秀吉のことだけど、お父さんがすきだからボクもなんて…」

夏休みにはいるすこしまえから、よく叱咤されだしたのだが、これほどの厳しさは、いままでなかったこと。強硬な母をまえに、別人と対峙している感覚さえ…、であった。

母のなかで、なにかおおきな変化がおきたと、そういぶかった。しかし、それを問うことに、躊躇したのである。訊けるふんいきではなかったからだ。いや、それだけではない。

知れば、そのむこうに存在する、ただならぬ恐ろしさを直感したためであった。

「たしかに私もちいさいころは、両親に倣ったし、おなじ価値観に身をおくことで、安心もした。あんたもまだ子どもなんやから、最初はそれでもええとおもう。けど、すきな理由がいつまでもおなじでは、あんた!まるでお父んのコピーやんか。あんたはあんたやろ!違う?成長せんで、どうするん」

なかほどまでは恐ろしい眼だったが、やがて憐れみをおび、最後はうっすら潤んできた。なにかが憑いてでもいるかのようだった。

ただボクは、母のこれまでにもまして恐ろしい姿に、呆然としつつそれでもおもった、たしかに母のいうとおりだ。正論のゆえに、反論の糸口すらみつからず、退路もたたれてしまっていた。

「孫子の兵法によると、すべての逃げみちを閉ざしたらあかんらしい」

いまになってだが、“窮(きゅう)寇(こう)(窮地の敵)は、迫(お)う勿(なか)れ”をさしていた。逃げみちを閉ざされた敵は、死にもの狂いでむかってくるから、味方が手痛い目にあう。よって、逃げみちをもうけよと、説いているのだ。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(7)

ところで、母の小首をかしげる風情が父にとっては、いまでもたまにみせる可愛い仕草、だそうな。「結婚するまえからやけど、あれにはまいったで」と湯船のなか、おとこ同士ふたりだけのときに、にやけ顔で、恥ずかしげもなくそうもらした。

惚気(のろけ)ているらしいが、ボクはそのとき正直、バカらしくなってしまった。たしかにアホなオヤジだが、大人になったいまにしておもう、ひととしての可愛らしさだと。

で、今年の三月二日で満一歳になるわが長男も、やがて父親になったくらいに、ボクの粗忽さを可愛いとおもってくれるだろうか。

まあ、そんな先のことはいいとして、たしかに、若いころの母の写真をみると、小泉今日子に似てなくもない。とうじの体型も及第点で、容貌はひいき目なしでも十点満点で、八点といったところか。

「塗ったとか染めたとか。おとこがそんな細かいこと言(ゆ)うてたら、女の子にもてへんで。とにかく太閤記をよんでみ。秀吉がすきやったら、どんな人物でなにをしたか、知りたいやろ」

“太閤記“なるもの、未読とはいえ、相当な長編であることくらいはしっていた。読みきるとなると、かなりの時間を費やさねばならなくなる。だいじな夏休みを、本によって奪われるのは、たまらなくイヤだった。

ましてだ。小学生最後であり、中学に進めば、進学先もたがいにかわり、その意味では一生に一度の夏休みを、ぞんぶんに悔いなく遊びつくしたかったのである。

だが、それが確実に、はたせぬ夢となってしまう。

羅刹のひと声で、“わが人生に悔いあり”と後悔することを予見できた。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(6)

はなしがすっかり_またも脱線してしもた、すんまへん_本題は、秀吉についてであった。

_やっぱ_秀吉をすきな理由。

大阪と縁(えにし)がふかい人物であり、一説の、最下層の水呑み百姓から信長の草履とりとなり、努力と奮闘のおかげで城もち大名へと出世し、やがては天下人にまで昇りつめた英雄だからだ。

大阪人のおおくは胸をはって、ジャパニーズ・ドリームの体現者と褒めそやす。_けど秀吉ってじつは、尾張は中村郷(現、名古屋市中村区)出身なんやけど…_としったのも、あの夏だった。

「あんた、小学生最後の夏休みの読書感想文、もうきめたんか?」母は、ボクの顔を覗きこみながら問うた。その眼はボクのこころを射抜き、顔はというときびしいまでにひき締まっていた。

ヘタな答えならばゆるさないという断固とした表情で、まさに羅刹にみえた。このときすでに、母はからだに重大な問題をかかえていたのだが、ボクはまだ教えてもらっていなかった。

「遺言のつもり」だったと、後日きいた。

「終業式はきのうやったし、まだきめてへん」羅刹のごとき存在から、目をそらしながら告げた。みじかい、龍之介の“蜘蛛の糸“なんかを候補にあげようものなら、意図をみすかされて、一大長編小説、しかも大きらいな“徳川家康”を指定されるかもしれない。

そればっかりは御免こうむりたかった。

「あんた、わたしに以前きいたことあったやろ、秀吉が血に染まってるのはなんでかって」

「ちゃう!“血塗られてる”、や」ボクのほうが正確におぼえていた。おぞましく衝撃的な表現であった。しかも大すきな秀吉にたいしてだったからだ。

「そやったかな?…」わずかに小首をかしげた。直後、かすかに微笑んだようにもみえた。だが、どこか寂しげでもあった。

この複雑な表情が錯覚ではなかったことが、後日わかることとなる。

こいつが秀吉?=太閤記を読んで(小学生最後の夏休み読書感想文)/ 太閤記を読むきっかけなど(5)

お人好しでたよりなさげな粗忽者の四十路(四十歳を不惑というらしいと、母が「あんたもそろそろ不惑なんやから、もっとしっかりしてえや!」と、いつもお灸をすえているのを、当時なんどもきいて推測した)すこしまえの父を、反面教師にしろということらしい。

十一歳のボクにたいして、母は茶飯事、むずかしい言葉をつかった。すべての家事をこなしながらパートにもでるので、生活のなかで時間を有効に活用し、ボクに勉強させているのだった。

だから、くつろげるはずの家にあって、むずかしい言葉がいつも氾濫していた。機嫌のよいときは意味をおしえてくれるが、そうでもないときは「辞書をひいておぼえなさい」と、それはにべもない。

ほかの同級生よりはやく、漢字表記の五月蝿いとか、ほかに不惑・反面教師などの言葉をしったのは、母の日ごろの訓育によってだ。

ところで、またもやらかした父親ゆずりの粗忽。「一喜一憂ってなに?」とうっかり。母が小言をいっているときは機嫌がわるい、だから訊いてはいけなかったのに。

すでに、叱りつけ段階に足を一歩、踏みいれていたからだ。「わからなかったら、じぶんで調べなさい。そのために辞書があるんでしょう」と。標準語にかわっていたから、まちがいなかった。

しかも恐怖に背筋が凍る、叱責のボルテージがさらに上がったことを、眉と目の色がしめしていたのに。だが、“とき、すでに遅し”だった。

いままでのボクの不行状をさんざんあげつらい、最後に「いつもいつも、ひとをあてにしないの、いーい、わかった!」との、きびしい叱声がとんできたのだ。

夏休みの二日前だった。母の異変がこのときすでにはじまっていたことを、ボクはまだ知らなかった。

平日だった前日、父と母が外出先からかえってきたおり、深刻な顔をしていたことと関係していたとは、迂闊にもこのときは気づかなかったのである。

尖った声と三角形の目。それがとくに強烈だった、真夏の一カ月と余。母親とは、羅刹(鬼)なのか菩薩なのか?わからなくなっていた時期である。

それはともかく、タイガース(往時は大阪タイガースという球団名だった)が存在し、秀吉が商都としての基盤と方向性をきずいた大阪が_好っきやねん_生まれそだった、この、性急な性分のひとたちが氾濫し、本音のぶつかり合う喧騒なまちが_好っきやねん_たとえ緑がすくなく、またゴミゴミした旧都であっても_ええねん、それでも_

« Older posts Newer posts »